集村:47 - 捜記"人が死なない村"
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青年が一人、大きな樹の下で黒い器をじっと眺めていた。木漏れ日は彼の蜂蜜色の髪をきらめかせ、また器には丸い光を投げかけている。器の黒はどこまでも深いが、光の斑点は黒に侵食されずに、まるで筆で描かれたかのように確かな輪郭を持っていた。

彼にはその器が一つの夜の塊に見えた。その闇は、立ちはだかって揺らがない強かさと、全てを内に溶かし込んでしまう寛大さを持っている。そうして、胡乱でない。夜の光──不意の雷や月光のような──が闇を切り開くとき、その境界は──光と闇が一枚の壁で隔てられているかのように──はっきりしていて滲むことがない。光と闇を明確な個として内に含んで、一つの夜という、強かで柔らかな塊が存在している。

「さっきから熱心に眺めてるけどよ、ソレ、なんか面白いのか?」

青年──エスィの右腕の端末が、液晶に大きく口をあけた顔文字を浮かべながら、退屈そうな声をあげた。

「面白いというか、綺麗だから。技法も特徴的だし」
「確かに、あー、テカテカだな。黒曜石か?」

エスィは首を横に振ってから、器を持った手を軽く上下させて見せた。

「とても軽いんだ。黒曜石ならもうちょっと重くなるよ。これは"ムジュズィ"と呼ばれていてね、布で作られているんだ」
「布だって? 布を器になんてしたら、スープなんて入れた日にゃ全部こぼれちまうだろ」
「正確には、布で作った素地の上に、色を付けた樹液を塗ってるんだ。樹液のおかげで水も通さないし、なにより軽くて丈夫になる。綺麗なだけじゃなくて使い勝手もいいんだ」

ふーん、と端末──ダヴィは気の抜けたような返事をした。エスィは深く暗い青の外套の中から肩掛けの鞄を取り出して、丁寧に器を中に入れた。

「なんか、あんまり納得いってないみたいだね」
「いやー、なんつうかな……」

出立の様子を察したのか、休んでいた馬がのそりと立ち上がる。エスィは黙ってダヴィが言葉をまとめ終えるのを待っていた。

「結局は布切れだろ? 表を綺麗な樹液でカチカチにしたって。中身が鉄とかなら、まだ信頼できるんだけどな」
「なるほど……そういう感想になるんだね。僕はそうは思わないけど── まあでも、それなら次の村はあんまりダヴィが気に入るものはないかも」
「どういうことだ?」
「これ、今向かってる村の名産なんだよ」
「もしかして、これが欲しいがために、俺を長旅に連れまわしてんのか?」
「まさか。ちゃんと異類関係だよ。話聞いてなかったのかい」

ダヴィはバツが悪そうに黙ってしまった。エスィはため息をついてから、小さく笑って、その薄い灰色の瞳を目的地の方角へ向けた。

「"人が死なない村"、だってさ」

◇◇◇


「ははは、なるほど。その噂を聞いていらっしゃいましたか」

快活に笑った村長は、まだ少し貫禄が出始めたほどの年齢で、長という立場にしては少し若く感じられた。村ではこのあたりの交易語がつかわれていて、やや訛りはあるものの、エスィが問題なく意思疎通を行える程度であった。

「申し訳ないのですが、その話はいわゆる"昔話"なのです。それに尾ひれがついて、人が死なないというような話が流れているようですが──」

そんな魔法のような話はないですよ、と村長はかぶりを振った。その表情にはやや悲しそうな色が浮かんでいた。

「その、昔話というのはどういうものなんですか?」

エスィが尋ねると、村長は本棚から一冊の分厚い羊皮紙の本を取り出してきた。それは村の規則や伝承がまとめられたものだと、彼はそう説明してから、本のある一頁を開いてみせた。そこには枯れ果てた畑とやせ細った人々、そしてそれらを苛烈に照らす太陽が描かれていた。

「これは…… 飢饉ですかね?」
「その通りです。雨が降らず土地はひび割れ、このあたりでは大量の犠牲者が出たといいます。しかし、我々の村だけが犠牲者をほぼゼロに抑えられたそうなのです。そこから、"人の死なない村"と呼ばれるようになったと──村の言い伝えにはそうあります」
「ちなみに、どうしてこの村だけが犠牲者を出さずに済んだのでしょうか。何か特別なものが──」

村長は軽やかに笑って否定した。やはりそんな魔法のようなものはないのです、と。

「単純に、人が少なかっただけですよ。だから、少ない食料でもなんとかやり過ごせたのです」
「それでも、もともと人数分しか食料がなければ足りなくなってしまいませんか?」
「村の食料は共有していますし、きちんと管理をしていましたから、備蓄もあったようです。魔法があったとすれば、それは村人たちの協力ですよ」

彼はやや気取った物言いに恥ずかしくなったのか、こめかみのあたりを人差し指でなぞっていた。しかし反面、その表情はどこか自慢げで、彼はその伝承を誇りに思っているようだった。

村長の家を出ると、村の中心の広場で子供たちが外で駆けまわっているのが見えた。数人の大人がそれを見守りながら談笑している。

「翻訳の必要がないと楽でいいな。煩い子供の叫び声を存分に聞いていられるぞ」
「退屈させてごめんよ。なにかダヴィも楽しめることがあればいいんだけど」
「ま、お気になさらず。とはいっても、今のところ、異類が関わっている雰囲気もねえしなあ」
「それはどうだろう。やっぱりちょっと、協力ができたからっていって死人を出さずに飢饉を乗り越えるのは厳しいと思うんだよね……」
「まー、まだ調べるってなら任せるが──ってうおおお!?」

突然エスィの背後から手が伸びてきて、その右腕を掴んで引っ張った。エスィが振り向くのと同時に、やや幼さが残る声が聴こえた。

「おい部外者、これ、喋るのか?」

エスィの後ろに立っていたのは少年だった。10代前半くらいだろうか。しかしその割には、冷静で落ち着いた口調だった。伸ばされた腕は筋肉質で、その目はキッとエスィの顔を捉えていた。

「君は──」
「これと喋ってたよな。これはなんなんだ?」

ダヴィのことを説明しても良かったが、それ以前にエスィはすっかり気圧されてしまっていた。エスィが答えないでいると、少年は掴んでいた腕をぐいと引き寄せて、ダヴィをじっと見つめる。ダヴィは液晶に何も表示せずに、ただの腕に巻き付いたガラクタのふりをしている。

「黙ってみても無駄だぞ。俺はかなり耳がいい。それに黙れるってことは、やっぱりこれ、知能があるってことだよな」

エスィが言葉を詰まらせていると、エスィの横をさっと人影が通り過ぎた、続けざまに突然、鈍い音が響く。少年が「グぇ」と唸り声を上げて手を離し、その場にうずくまった。

「こんの悪ガキが! お客さんになんてことしてるんだい!」

見ると、女性が強く拳を握りしめて立っていた。顔に深く刻まれた皴で老年であることがわかったが、しかし背筋はまっすぐにのび、その怒りに満ちた表情からは活力が横溢していた。

「うっせえババア! 急に出てきて殴るんじゃねえ!」
「急に出てきて迷惑かけてるガキに言われたかないよ! ほら謝りな!」
「知るか! 誰がこんな弱っちい奴に謝るかよ!」

「弱っちい奴」という言葉に反応して、ダヴィがクスッと笑ったが、少年と老婆はお互いに睨み合ってそれに気づくどころではなかった。少年は先ほどの落ち着いた様子から一変して、激しく老婆と言い合っている。老婆がまた拳を握って上に振り上げると、少年の方は身構えながら少しずつ後ずさっていった。

「クソ、いつか絶対仕返ししてやるからな!」

それを捨て台詞に、少年は村長の家の向こうに走っていってしまった。女性は吊り上がった目を少しずつ元に戻して、そして深く大きな溜息をついてから、エスィの方に向き直る。

「悪かったね。ケガはないかい?」
「あ、はい、ええと、大丈夫です。助かりました」
「いやいや、悪いのこっちのほうだよ。いきなりでびっくりしただろう?」
「確かに驚きましたが── それよりあなたは?」
「あたしかい? あたしの名はリズィアだ。あんたは?」

エスィは自身の名と、自分が芸術品を売る行商であること、そしてこの村の"人が死なない"という噂について調べていることを伝えた。老婆は頷きながら、宿が決まったかどうかを尋ねた。エスィがハッと思い出したような顔をすると、彼女は「ハハハッ」と豪快に口を開けて笑って、それならあたしの家に泊まらないかと提案した。

「あたしはこの村では一番の年寄りだからね。この村のことについて知りたいなら色々教えてやることもできるよ」
「いいんですか?」
「ああ。どうせこの村にいる以上誰かの家に泊まることになるんだ。それなら年寄の話し相手になっておくれ」

先ほどの凄まじい剣幕にエスィはややひるんでいたものの、彼女がくしゃりと微笑むのを見て、その緊張はほぐれていった。"人が死なない"という噂が本当ではなかったのは残念だったが、この村の特産である器には興味があったから、宿が決まるのはありがたいことだった。彼はありがとうございますと言って、ぺこりと頭を下げた。

彼女の後ろについて家に向かう途中ずっと、エスィは先ほどの笑いの仕返しに、ベルトをもってぶんぶんとダヴィを回していた。

◇◇◇


「ああみえて、体は強いし頭も良い。子供たちからも信頼されてるんだよ、あの子は。ただねえ……」

エスィと向かい合うようにして座るリズィアは、頬杖をついて小さく息を吐いた。あの子というのは、先ほどの少年──名前はカパというらしい──のことだった。

「どうにも、大人に懐いてくれなくてね……」

彼女はぼんやりと、格子窓の下の、黒い円筒状の容器に生けられた花を眺めている。その容器は、あの黒い器と同じように、樹液を使って塗装された"ムジュズィ"だった。

「それは……親とも仲が良くないんですか?」
「親? ああ、あの子にあんたが思うような親はいないよ」

リズィアは何ともないようにサラリと言った。どう返せばいいか悩むエスィに、彼女はぷっと噴き出して、そんなに深刻に捉えなくていいさ、と笑った。

「別に死んだってわけじゃないんだ。いや、死んでるかもしれないけどね。とにかく、産みの親がいないってのはこの村じゃ結構当たり前のことなんだよ」

いまいち話が理解できていないエスィに、リズィアは付け加える。

「いわゆる捨て子なんだよ。この村の連中は大体そうさ。最近じゃ村で生まれた子も増えてきたけど、あたしらくらいの世代はみんな捨て子さ」

彼女が言うには、いつのまにか村の子供が増えていることが、ときたまあるという。近くの村や行きずりの商人が、この村に子供を捨てていく、と彼女は考えているようだった。

「孤児だけで、村が続いていくものなんですか?」
「あたしも不思議には思うけど、事実続いているからねえ…… あたしの世代なんかほとんどいないけども、その分あたしらの下の世代はたくさんいるから、どうやってバランスをとってきたんじゃないかい。まあさっきも言ったけど、最近は村で生まれる子も多いから、不安はないよ」

捨て子を頼りに人口を維持する奇妙なシステムにエスィは首を傾げたが、リズィア自身不思議に思っているというのなら、これ以上得られる情報はなさそうだった。代わりに彼が発した「子供が増えても気付かないものなのですか」という問いに、彼女は「気付いても気付かないふりをするのさ」と答える。

「この村の子供はね、村人みんなの共有財産なんだよ。子供たちの親はここの大人たち全員で、子供ってのは誰かのものではない。だから増えたって、あぶれちまうことはないのさ。あたしたちは何も言わずただ受け入れてやるだけでいいんだ」
「それでも、例えば……自分が産んだ子には甘くなったりしちゃうんじゃないですか?」
「そういうこともあるさ。仲の良し悪しだってある。でもそのときは他の大人が、同じくらい他の子を甘やかしてやればいいんだよ。子供が喧嘩したら、それぞれの側にしっかり大人がついて、話を聞いてやる。場合によっちゃそのまま、大人同士の喧嘩になっちまうこともある」

そういうときは大体、子供の方がすぐ仲直りしちまうんだけどね、と彼女は笑う。彼女と喧嘩になることだけはみんな避けたいだろうな、とエスィはぼんやりと考えていた。怒ったときの彼女の迫力はかなりのものだったし、何よりあの拳骨はかなり痛そうだった。

「でもどうして、この村に捨ててくんですかね。他にも村はあるのに──」
「大方"人が死なない"って噂に釣られてるんじゃないかい」
「捨てなきゃいけないような状況でも、やっぱり自分の子供には生きててほしい。……親の愛情ですかね」

そんな綺麗なもんじゃないさ、と彼女は首を横に振る。

「連中だって、"人が死なない"なんて話、信じちゃいないんだよ。でも都合良くそんな伝承に可能性を見出して、それに賭けてみる。それは子供の為なんかじゃなくて、子供を自分で殺したって記憶が残るのが怖いだけさ」

彼女はゆったりと語ったが、その訛りの裏には少しばかりの軽蔑と諦めが込められているようだった。捨てる人々を無責任と糾弾したい一方で、事実この村に捨てられたおかげで子供たちは生きている。そしてなにより彼女自身がそういった捨て子の一人であった。今の彼女の穏やかな暮らしをみれば、自分を捨てた者たちを責めるに責めきれないのだろう。

エスィは黙って花を見た。彼とリズィアの間を空気の流れにのって花の香りが通り過ぎていく。しばらくして、そういえば、と思い出したようにリズィアが口を開いた。

「その右腕のやつは、一体なんなんだい? カパはそれが気になってたみたいだけど」

その声に反応して、ダヴィが液晶に寝起きの顔文字を浮かべた。エスィに振り回されたこともあって、リズィアの家に入ってからずっと黙っていたが、その間退屈を極めていたようだった。決して勝手に話し出すというわけではなかったが、エスィはダヴィの「暇をつぶさせろ」という威圧をひしひしと感じていた。

「この腕の彼はダヴィといって、精神の宿った機械なんです。色んなことを知っているし、話すこともできる。僕の友人です」

エスィは手首からダヴィを外してテーブルの上に置いた。リズィアは顔を近づけて、まじまじとそれを見ている。

「ほお…… これが喋るっていうのかい?」
「いやー、嘘かもわからんよ。部外者の話をそう簡単に信じちゃいけないぜ」

突然声を出したダヴィに、意外にも彼女は平然としていて、すこし目を見開いただけだった。次いで出た言葉はエスィが全く予想もしていないものだった。

「生意気だねえ、年寄を敬うってことを知らんのかい」

エスィは呆気に取られて口を半分開いたまま固まってしまった。今までダヴィを見せて驚かなかった人々はいたにはいたが、それでも関心や怯えの表情を見せるものだった。しかしこの女性は、関心や怯えよりも先に、文句をつけてみせたのだ。

エスィは目だけそっと動かしてダヴィの様子をみる。ダヴィは液晶に何も表示せずに黙りこくっていた。そもそもダヴィを始めとする相棒たちはオリジナルの影響で人間嫌いなところがある。機嫌を損って喧嘩でもされた日には、宿がなくなってしまう恐れがあった。

静かな部屋。外から葉が揺れる音が流れ込んでくる。それに、ジジジジ、というノイズが混じった。それは間違いなくダヴィから発せられていた。最初それは葉の音でかき消されるほどだったが、だんだんと大きくなっていって──

「──ッ、ダハハハハハ!」

大きな笑い声に変わった。ダヴィは心底愉快そうに液晶にいくつもの顔文字を連続で表示させている。個々の顔文字の意味はよく分からなかったが、人が笑い転げているのと同じようなものだろうとエスィは思って、胸をなでおろした。

「おいエスィ、年寄を敬えだってよ。俺のことも敬ってみるか?」
「勘弁してよ。敬ってほしいなら老人らしく落ち着いてくれると助かるんだけど」

リズィアは話が理解できずに怪訝そうに2人を見ている。ダヴィはそれに気づいたようで、笑いを押し殺しながら説明を始める。

「俺はずーっと前から存在してるんだよ。それこそ数百年はな。それに、もう千年は生きてるような奴についても知ってる。そんな奴に比べたら、お前さんなんかお嬢ちゃんもいいとこだろうよ」

今度はリズィアが黙り込む番だった。彼女はじっとダヴィを見つめて──そして豪快に笑いだした。

「ハハハハハッ! この婆さんをお嬢ちゃん呼ばわりかい! それにしてもまさかあたしより年を食ってるとは、こりゃ失礼したね」

彼女は静かに息を吸い込んで笑いを抑え、そして咳ばらいをしてのどの調子を整えてから、やや高い穏やかな声で言った。

「ようこそいらっしゃいました。ご機嫌うるわしゅう、ダヴィ殿」

ダヴィは必死に笑いを堪えようとしているようだったが、ノイズがずっと漏れていた。

「やめとけやめとけ、年の功ならお前さんの方が勝ってるんだから──まあ、皴の数の話だけどな」

一人の女性と一つの端末とが大きな笑い声を響かせる中、エスィは呆然とそれを眺めていた。2人はすっかり意気投合してしまったようで、そのあともエスィを置いてけぼりにしたまま、話は日が傾くまで熱を失わなかった。

◇◇◇


日が昇り、暗かった室内に朝の透明な光が注ぎ込まれる。エスィはのそりと起き上がって目を擦ると、ダヴィを手に取る。その表情はどこか不満げだった。彼は相棒をぺしぺしと叩く。

「なんだよ、なんかあったか?」

ダヴィは眠るわけではないが、夜は節電モードになっているので、寝起きも同然だった。彼は自分の体調を確かめるように、数度液晶を点灯させる。エスィはダヴィを顔の前まで持ち上げて言った。

「あんな約束して、どういうつもりなんだい」

約束というのは、昨日リズィアとダヴィが交わしたもののことだった。やることがなく暇だから、1日ダヴィを貸してくれないか。彼女のその頼みを、ダヴィは二つ返事で了承していた。

「なんか問題でもあるのか? 別にここは言葉も通じるんだし。困ることはないだろうよ。それに、お前が嫌だったら断りゃあよかったろうに」
「嫌ってわけじゃあないけどさ……」

エスィは小さく頬を膨らませる。昨日、リズィアは彼から絵具を数色買い取っていた。趣味で絵を描くことがあるらしい。そういうことがあって、エスィも彼女の申し出を断るに断れなくなっていた。

「まあ俺がいないと不安なのはわかるけど、1人でも大丈夫だろうよ。ガキじゃあるまいに」
「そういうことじゃないさ…… ただダヴィに何かあると──エニシが嫌な顔をするからね」
「あの機械狂なら修理箇所が増えて喜ぶだろうさ。しかしまあそんなことにゃならんよ。なんせ婆さんとお話しするだけなんだから」
「あぁ…… うん。そうだね」

エスィは手早く身なりを整える。今日は村の様子を見て回ってから、工房を訪れる予定だった。器の製作過程を学びたいと思ったのだ。それは探訪者としての仕事というよりむしろ、個人的な目的だった。

「よく眠れたかい?」

部屋から出ると、リズィアはすでに起きて彼らを待っていた。エスィが頷いて礼をいうと、彼女は笑って満足そうに首を縦に振った。顔中に刻まれた皴がより深くなった、どこか無理やりにでも安心させられてしまいそうな、暖かくどっしりとした笑顔だった。「よかったよ。この村にいる間はここに泊まってていいからね」と彼女は付け加える。

「今日一日、ダヴィをよろしくお願いします」

彼がそういうと、リズィアはやや驚いたように口を開いた。

「おや、いいのかい? てっきり断られるもんかと思ったけどね」
「彼は、何の問題もないと言っていましたから」
「そうじゃないよ。ちゃんとあんたの許可をもらわないと。あんたの相棒なんだからさ」

エスィはぴっと背筋を伸ばした。自分の中の漠然とした不安を見透かされているような気がした。彼女の表情は柔らかかったが、それでもその目はしっかりと彼の目を捉えていた。ダヴィも何も言わず、彼が言葉を継ぐのを待っている。ややあって、彼はゆっくりと頷いた。

「大丈夫です。ダヴィも、僕も」

彼はそう言ってダヴィをリズィアに手渡す。「また後でなー」と呑気にいうダヴィに手を振って、エスィは家を出た。

村では昨日と同じように数人の子供たちが遊んでいた。昨日とは違う数人の大人たちがそれを眺めている。エスィは「子供たちは村人みんなの共有財産」という言葉を思い出していた。実際に、子供は特定の大人と生活を共にするわけではないという。ある程度成長して、誰かが付きっきりにならなくてもよくなると、子供たちは子供用の宿舎で寝泊まりするようになるらしい。大人たちは──特に規則があるわけでもないが自然と──持ち回りでそんな子供たちの見守りと世話を買って出ているとのことだった。今子供たちを見ている彼らが、きっとその立ち回りなのだろう。

彼らにあいさつをしながら村を巡る。交易がある程度盛んな地域だけあって、村人の警戒心はそこまで高くないようだった。特に子供たちの好奇心は旺盛で、エスィが木陰で休んでいるところにやってきて、彼が持ってきた芸術品を面白そうに眺めていたりした。特に陶器の類は、彼らの人気を集めていた。

「お兄さん、これ凄いね。お皿に絵が描いてある!」

一人の少女が目を輝かせて言った。お兄さんと呼ばれてやや気を良くしたのか、エスィはやや鼻を高くして解説を始める。

「これは釉薬というものを使っていて、ガラス状の膜を作っているんだよ。そのときに色がつくんだけど──」

彼の話が続くと、最初は面白そうに聞いていた少女の顔が、徐々にむずがゆそうに曇っていく。やがてしびれを切らしたかのか、彼女はエスィの言葉を遮った。

「ねえ、それってムジュズィにも使えるの?」
「えっ」

彼は言葉を詰まらせた。釉薬は焼成の過程で利用される。布を主材料にするムジュズィには焼成の過程はないだろうから、きっと釉薬それ自体は使えないだろう。

「うーん、これはちょっと、ムジュズィには使えないかな」
「えー、つまんないの」

少女は一気に興味をなくしたように、持っていた皿をエスィに返した。退屈な話を続けてしまったことが気恥ずかしかった一方で、しかし少女の興味の矛先がわかったことは収穫だった。彼女は明確に、"ムジュズィに応用すること"を目的に話を聞いていたのだ。

「君はムジュズィを作ったことがあるのかい?」
「うん。私だけじゃなくて子供はみんな練習するんだよ」
「へー、そうなんだ。どんなのを作るんだい?」

エスィがそう尋ねると、「ちょっと待っててね!」と、一斉に子供たちが駆け出した。ちょうどそれは、子供たちの宿舎があるあたりだった。しばらくすると子供たちが続々と戻ってくる。その手には各々ムジュズィが握られていて、エスィはそれからしばらく子供たちの作品解説を聞く羽目になった。

どうやら工房には親方と呼ばれる人物がいて、彼が子供たちにムジュズィの製作を指導しているようだった。子供たちの作品は歪で、色も均一な黒ではなかったが、それでもどこか素直で明るい感じがした。子供たちが言うには、布をうまく成形する作業に特に難所があるらしい。子供たちの話を聞きながら、表現としてはこんなゆがんだ形もありかもしれない、とエスィはぼんやり考えていた。間違いなくそれは、単に下手だから歪んでいるというものではなく、彼らなりの理想へ近づく過程としての歪みであった。

エスィが子供たちの作品をひとしきり褒め終えると、彼らは満足したように普段の遊びに戻っていった。太陽は天高く昇っていて、おおよそ昼頃のようだった。

◇◇◇


村は大きな山とそれに続く森に隣接している。山から流れる川がこの村の豊かさを支えているようだった。村の外周を巡っていると、その森から飛び地のように存在する小さな林があり、その中へ続く一本の細い道があった。エスィがその道を進んでいくと、小さな話し声が聞こえた。エスィはやや道を外れた木々の隙間を縫って、こっそりとその声のもとに近づいていく。

「大丈夫、大丈夫だ。きっと忘れられるから」

その声は昨日のあの少年──カパの声だった。それともう一つ、林の中に反響する鳥たちの声に、やや高いすすり泣く声が混じっていた。木々の隙間から覗くと、カパと小柄な少年がいた。少年はうずくまり、カパはその隣にしゃがんで、彼の背中を優しく撫でている。彼らの前には、大人の腰ほどの高さの木の板が地面につきたてられていた。それは濡れて、朽ちかけている。

「今は辛いだろうけど、そのうち平気になれる」

「いつか、また今までと同じようにみんなと遊べるようになる」

そんな言葉をかけながら、カパは少年が泣き止むまで、ずっと彼を撫でるその手を止めなかった。
エスィにとってその姿は意外そのものだった。昨日のカパから受けた印象は、やや粗暴な少年、といった風だったが、今目の前にいるのはそれとは全くの別人で、そこに転んだ子をあやす親の姿を空目しそうになるほどだった。

少年は落ち着くと、ゆっくりと立ち上がって、カパに礼を伝えてからその場を駆け足で去っていった。それを見送ったあと、カパは大きなため息をついて、茂みに隠れるエスィの方を睨みつけた。

「おい、いるのはわかってんだぞ。出て来いよ」

──黙ってみても無駄だぞ。俺は耳がいいんだ。

エスィは昨日の彼の言葉を思い出す。その目に宿った警戒の色を見るに、カパの言葉ははったりではないようだった。エスィは両手を上げながら、ゆっくりと茂みから出る。その姿をみたカパは、あきれたように、またため息をついた。

「昨日の弱っちい部外者か──」
「エスィって名前があるんだけど…… こんな状況でいうことじゃないね」

エスィは深く頭を下げる。「本当に申し訳ない──盗み聞きなんて真似を。信用を損なってしまった」

カパはやや驚いたようだったが、すぐに口を固く結びなおす。

「素直なこったな。もともと信頼なんてしてないさ。そもそも、ここがどんな場所かわかってんのか」

エスィはカパの後ろにある木の板を見た。その根元には環状に小石が並べられていて、それが何らかの"標"であることがわかった。小石に囲まれた中には雑草が少し生えているが、周りと比較すると土の露出部が多い。最近掘り返されたか、新たに土が被せられたのだろう。

「多分お墓、だよね。それも多分、あの子に親しい人物の」
「父親だよ」

間髪入れずに彼は言った。その目には微かに怒りが宿っていたが、しかしそれはエスィに向けられてはいなかった。

「死んじまったんだよ。あいつ──クルを捨てて。狩りに行って、そのまま熊にやられたんだ」

"捨てる"という言葉がエスィの心に引っかかった。それは死者を悼むには、あまりに不適当な言葉に思えた。その疑問を読み取ったかのように、カパは話を続ける。

「他の仲間を守ったってよ。それでおとりになって── 結局次の日、ボロボロになって死んでたよ」
「それは──亡くなったのは確かに残念だけど、勇気ある行動なんじゃ……」
「いいや。クルのことを想ってれば、すぐに逃げただろうよ。でも、そうしなかったんだ。他の仲間を優先したんだ。残されたあいつは、それから何日も飯も食えなかった。捨てられたも同然なんだから」

カパの語る論理も、理解できないものではなかった。親を突然に亡くした子供がそう感じても、決して不思議ではない。しかし、どこか違和感があった。そう感じるのは当事者のはず── エスィが思考に沈んで黙っていると、カパは耐えかねたように口を開いて、「わかったらさっさと出てけよ」と彼に詰め寄った。エスィは首を振ってそれを拒否する。

「何? ……やっぱり、信用ならねえな、部外者は。墓荒らしでもするのか? 盗み聞きするくらいなんだから」

エスィは顔を上げて、じっとカパの目を見つめる。エスィはその瞳の奥が、小さく揺らいでいるのを見た。

「結果として盗み聞いてしまった──それは謝るよ。本当に申し訳ないことをした。君にも、あの男の子にも。でも、僕がここでじっとしていたのは、決して君たちの話に耳をそばだてるためじゃない」
「いまさら言い訳なんて──」

エスィはすっと墓標を指さした。

「それ、君がやったんだよね」
「──なんのことだよ」

カパは平静を装ったが、その肩が一瞬びくっと揺れたのをエスィは見逃さなかった。

「周りの木や地面を見ても、雨が降った様子はないんだ。でもそこだけが濡れている。そして、土を見たって埋葬からそこまで日は経っていないはずなのに、木の腐敗が進みすぎている。君はここにきて、こまめに水をかけてたんじゃないか? そのための道具はこのあたりに隠してあるはずだ。それを回収しないといけないから、あの子を先に帰したんだよね?」

カパは黙ってエスィを睨みつけている。その沈黙が、何よりの肯定だった。

「責める気はないんだ。むしろ君でよかった。他の人間ならこの村を害する目的だったかもしれないけど、やったのが君なら、その意図がわかるんだよ」

エスィは宥めるように、ゆっくりと優しい声で続ける。

「この村には樹液を使った素晴らしい防腐技術がある。なのに墓標にはそういう加工がされてない。もともと"朽ちるに任せる"という意図なんだろうね。君はそれをちょっと早めただけだし──」
「うるさい。わかったような口を聞くな!」

それは追い詰められた少年の反抗のようであったが、しかしそれにしては十分な気迫を含んでいた。エスィはその気迫に負けて、言葉を継ぐことができなかった。カパは墓標の裏の茂みから大きめの桶を取ってきて、エスィの前に投げ落とした。桶が地面とぶつかる軽やかな音が、重苦しい空気の中で押しつぶされた。

「その通りだよ。部外者、お前の言うことは正しい。だけど、俺の考えてることなんてわかるか。わかってたまるか。お前は部外者だ」

彼はエスィに詰め寄って、その目をじっと睨みつける。エスィが一歩後ずさると、彼は足元の桶を拾って、何も言わず林を抜けていった。エスィはその後ろ姿が見えなくなってから、墓標に黙祷を捧げて、静かにその場を去った。

◇◇◇


「ああ! あなたが子供たちの言っていた旅の方ですか!」

工房を訪れると、体格の良い男性が嬉しそうにエスィを迎え入れた。年は村長と同じくらいで、やや甘い香りが木の香りと混じって彼から漂ってくる。おそらく樹液の匂いだろう。彼が"親方"と子供たちに呼ばれる人物らしかった。

「はい、エスィといいます。子供たちが僕の話を?」
「ええ! そりゃもう楽しそうでしたよ。是非私にも、その"お皿"を見せてくれませんか?」

彼はエスィが子供たちに見せた陶器を見たがっているようだった。工房の綺麗な机を借りて、エスィは芸術品を並べる。親方は手で顎をさすりながら、その一つ一つを真剣な眼差しで観察していった。

「なるほど…… こういうものですか。絵付きの陶器ですね」
「はい。ムジュズィに応用できるかはわかりませんが……」
「いえいえ、子供たちが何をしたいかがわかれば良いんです」

親方はやや気恥ずかしそうに笑って、手を頭の後ろに回す。

「情けないもんですが、子供たちに興味を持ってもらうのが、何より難しいんですよ」

なるほど、とエスィは納得した。伝統工芸とはいえ、子供たちからすると、同じものをずっと作り続けるのは退屈なことだろう。彼らが絵付きの器に興味を示したのも、いつもと少しでも違うものを作りたかった──そんな理由だったのかもしれない。

「助かりました── ところで、絵具関係も扱っていると聞きましたが、鉱石の類はありますかね?」

えーと、とエスィは肩がけのカバンを覗き込んで、赤鉛、瑠璃、孔雀石── あまり量は多くないが、いくつかの色料を取り出した。

「ああ、いいですね。青はこちらにもあるので、赤系のコレと、他にはコレと……」

彼はいくつかを選んで、エスィから買い取った。子供たちが絵付けを楽しめるように、精錬した樹液に混ぜ込んで色付きのものを作るそうだ。

その後、親方に案内されて一通り工房を見て回った。ムジュズィにもランクがあるらしく、樹液を重ね塗りして、より艶を出したものは高級品として扱われるということだった。曰く、磨きにも乾燥にも酷く時間がかかるらしい。一方で子供たちが作るのは、比較的乾燥が早く、磨きやすいものだという。

「これは?」

エスィの目を引いたのは、工房の端で雑多に積み上げられたムジュズィの山だった。それぞれは傷ついていたり、形が崩れたりしている。

「それは、子供たちの失敗作ですね」
「失敗作、ですか」
「ええ。気に入ったのは持って帰りますが、練習のたびに全て持って帰っていたら、キリがありませんから」

──それにしては、これ……

エスィは山の中から一つを手に取る。それは形が整っていて艶もあり、一見決して失敗作のようには見えなかった。

「おや、それに目をつけますか」

親方は眉をぴくりと動かして、エスィに「どう思いますか?」と尋ねる。

「綺麗です。色にもムラがないし、磨きもしっかりできていると思います。でも……」

エスィは目の前でそれをゆっくりと回した。きっと重ね塗りをすれば、より高い完成度まで到達できるポテンシャルがあるだろう。しかし、それらは全て客観的な情報と、それに基づいた推測だ。そこに含まれない、言語化できない細部が、どうしても内側に語りかけてこない。直感が揺さぶられない。

「でも、あまり美しくは……ないですね」

親方は小さくため息をついた。エスィが謝ると、彼は手を振って「むしろありがたいですよ」という。

「やっぱりそう思われますか。うん……」

どうしてこれに美しさを感じることができないのか、エスィはわからなかった。親方が黙り込んで何かを考えている横で、彼はじっとその器を注視する。ふと、1人の人物の顔が浮かび上がった気がした。

「カパ……?」

えっ、と親方が驚いた声を出す。

「名前、どこかに書いてありましたか?」
「え、ああ、いや。なんとなく、彼を思い出して」
「なるほど、不思議なこともあるもんですね。それは、確かにカパの作品です。まあ、彼はゴミだと言っていましたけども」

彼は困ったように笑いながら頭を掻いた。どうやら彼も、カパには手を焼いているらしかった。

「彼は、誰にでもあんな感じなんですか?」

親方は頷く。「芯のある子なんですが、そのせいか言うことを聞くのも、リズィアさんくらいのもので……」

昨日の光景を思い出す。拳骨を受けて蹲るカパ。あれを「言うことを聞く」と呼ぶなら、確かに結果的にはそうなのだろうが、どちらかというと「言うことを聞かされている」と言った方が正しい気がした。

「リズィアさんとカパは、仲がいいんですか?」
「仲がいいというか、リズィアさん面倒見がいいですから。子供たちからの人気もすごいですからね。大人の私たちでさえ、あの人にはお世話になっていますし」

その語り口からは、彼女への信頼が感じられた。そこからは、ときたま見かける狂信にあるような、気味の悪さは感じなかった。彼女の行動が確かに積み上げてきたものが、今信頼という形で表れている。それになにより、彼女への安心感は、彼女と一日一緒に過ごしたエスィが実際に体感するところだった。

「僕もリズィアさんといると、どこか気が抜けてしまいます。なんというか、強かさみたいなものがあって」
「ええ。あんなにどんと構えられたら、困ったときに思わず相談しに行っちゃいますよ。私らは親がいませんから、彼女が親みたいなもんなんです。ああいう風に年を取ることもできるって思うと、希望も湧いてきますし」
「彼女の他に、そういう立場の方は?」
「私らの上の世代はただでさえ少ないですからねえ。彼女の他には、他の村に行ってしまった方が数人と、あとは亡くなってしまいました」

やはり、やけに老人が少ないのが、妙にエスィの気を引いた。子供が最近増えたということにも、納得する理由は得られていない。

エスィはクルの父親の死について尋ねようとして、グッと堪えた。この村での"死"の立ち位置を掴みかねていたからだ。あの"朽ちるに任せる墓標"が村の外の林に隔離されていたことも考えると、死に関する話題はかなり忌避されるのかと思っていた。しかし目の前の親方は存外簡単に、"亡くなった"という単語を用いたのだった。エスィはそれとなく、老人たちの死について尋ねる。

「前日まではピンピンしてたんですけど、次の日起きてみたらぽっくりと。寿命を全うしたという感じでしょうかね。この村の老人の最後は、ほとんどこんな感じですよ」

そう語る親方だったが、特にタブーに触れた様子はない。エスィはもう一歩踏み込むことにした。

「最近、一人若い方が亡くなったと聞きましたが」

親方の顔があからさまに曇った。ここだ、と彼は直感する。違いは分からないが、どうやら親方の中で、老人の死と、そしてあの"墓標"のもとに埋まる男性の死との間には明確な壁があるようだった。

「本当に珍しいんですよ、あんなに若くして死んでしまう人は。私も生きてきて、初めてだったかもしれません」

若い人が死なない── ある程度文明が発展した地域ならまだあり得ることだが、この規模の村では、珍しいことだった。若かろうが、適切な手段がなければ、病魔やケガが、年齢に関係なく命を奪っていくからだ。──それとも、思ったよりこの村の医療技術は進んでいるのだろうか。──いや、しかし、それよりも優先したい質問がある。エスィはその疑問を一度飲み込んで、いますべき質問に集中することにした。

「実は、それで悲しんでいる少年の話を──集まった子供たちから聞きまして。何かできるかと思ったんですが」

カパとクルの話は隠しておくことにした。彼らの振る舞いをみれば、あそこにいることをあまり知られたくないのは明らかだった。エスィの言葉を聞いて、親方は表情を戻し、「大丈夫ですよ。彼もやっと立ち直ってきたころですから」と答える。

「最近は人も増えてきて、今の子は、この村に実親がいるっていうのがほとんどになりました。村が安定してるって面ではいいですけど、どうしてもそういう特別な結びつきが失われたときに、酷く悲しい思いをする子がでてしまいますね」

親方はそう言葉を継いで、それから積み上げられた窓の外を見つめながら、つぶやくように言った。

「それなら悲しい思いをしないのが一番ですよ。私はわかりませんが、身を裂くほどの悲しみだと聞きますから。──それこそときには後を追ってしまうほどの」

いつのまにか雨の音が響いていた。湿気が工房に流れ込んでくる。窓から空を覗くと、暑い雲が空を覆っていた。雨音は徐々に大きくなっている。これから、酷く降りそうだった。

◇◇◇


「ほー、結構上手いんだな」

ダヴィはテーブルに立てられた状態で、リズィアの引っ張り出してきたいくつもの絵を見ていた。それぞれは白い布に書かれていて、木の板に固定されている。花、鳥、山の風景── 主題は様々だったが、限られた色を使って、それぞれを鮮やかに描き出していた。

「まあ、ずっと描いてるから、最初よりは上達したかもしれないねぇ」

そんなことを呟きながらリズィアが並べる絵の中に、一つ不自然なものが紛れているのを、ダヴィは見つけた。その絵は一面オレンジで塗りつぶされている。

「それ、なんだ?」
「ああ、これねぇ…… 夢で見たのさ」
「夢?」
「ああ。酷くぼんやりした夢だけど、たまに見るんだよ。鍵のかかった大きな扉、視界を埋め尽くすような橙……そんな風景の夢をね」

──でも、絵にしたってよくわからなかったよ。そうリズィアは笑いながら、木製の枠に布を貼り、絵の準備を整える。

「今回は何を書くんだ?」
「それを決めるためにあんたを借りたんだよ」

彼女が言うには、このあたりにあるものは殆ど描いてしまったらしい。同じものを描くのもいいが、せっかくの機会だから、何か新しいものを描きたいそうだった。

「そんなもん、そこら辺を走ってるガキどもを描いてやりゃあいいんじゃねえか?」
「ああ……この村じゃあ人の姿は描かないんだよ」
「ほー、なんか理由でもあるのか?」
「そうだねえ、昔からの掟なのさ。破ると村に不幸が起こるってね」
「なるほどな…… ま、そんなこともあるか」

ダヴィは意味が分からない規則だと思いつつも、それを口には出さなかった。理由が忘れ去られたとしても、伝えられるルールにはそれなりの意味があることが多く、それは自分の偏見から馬鹿にできるものでは決してない。そんなことは、大昔に人間に入力された知識を参照しなくても、経験上十分理解していた。

「だから、あんたの話を聞かせてもらおうと思ってね。色々旅をしてるんだろう? そこで見たものを教えておくれよ」
「あー、そういうことかい。ま、付きやってやるよ。婆さんの想像力でついてこれるかは保証しねえけどな」

ダヴィはできるだけ異類については避けて──もっぱら彼らが道中で出くわした光景について話した。リズィアはそれを、目を瞑って静かに聞いていた。そうして彼が話し終えると、黙って筆をとってキャンパスに向き合った。彼女の手によって、キャンバスに青空と新緑の草原が描かれる。細い筆で光が描かれ、草原が風に揺れた。時間がゆったりと進み、筆は戸惑うことなく流れていく。そこに小さな黄色の斑点が一つ一つ、確固たる一個の存在として、印璽をおすように置かれていく。そうしてそれが草原に満ちた頃、リズィアがダヴィの方を振り返った。

「さあ、こんなもんでどうだい?」
「……ああ、こんな感じだったよ」

キャンパスに広がるのは、黄色い花々が咲き乱れる花畑だ。それは、かつてダヴィがエスィと小高い丘から眺めた光景だった。

「この花、なんていうんだい?」
「さあな。そういえば、よく見ていなかった」

リズィアは少し微笑んで、キャンパスをダヴィの目の前に移動させる。

「好きなんだろう? この景色が」
「……綺麗だとは思うけどな」
「ここの話を聞いてるとき、自然と光景が思い浮かんできたんだよ」

── 一面の黄色、吹き抜ける風、揺れてきらめく花々。

リズィアはダヴィが語った言葉を繰り返して、小さく噴き出した。

「でもあんた、花は見てなかったっていうじゃないか」
「遠かったからな」
「でもその一本一本が揺れるのは、やけにはっきり見えていたんだね」

ダヴィは黙っている。リズィアはそっと立ち上がって、キャンバスを窓の横に移動させた。

「あんたが見ていた花は、もっと近くにあったのかもしれないねぇ」

それからしばらく、リズィアは窓の外を走る子供たちを眺めていた。ダヴィが声をかけようとしたとき、彼女は突然、ぽつりとこぼすように尋ねた。

「ねえ、長い時間を生きてるって、どういう感覚だい」

ダヴィは彼女が言葉を紡ぐのを何も言わずに待っている。

「同じ時間を生きているやつってのは、ほとんどいないわけだろう」

彼女の視線は動いていない。子供を追っているのではなく、窓というフレームの向こうを子供たちが過ぎ去っていく──その景色を、ただそれとして眺めているようだった。

「そこにあんたの居る場所はあるのかい?」

ダヴィは、同じように窓の枠を横切っていく子供たちをぼんやりとみながら言った。

「お前さんはどうなんだい」
「あたしは──」

そのとき、バタッと扉が開く音がした。「誰か来たみたいだね」といってリズィアが立ち上がる。そこには小柄な少年が立っていた。

少年は走ってきたようで、息を切らしていた。それでも口をパクパクさせながら、何かを必死で伝えようとしている。

「クルじゃないかい。どうしたんだい、落ち着いて。ほら、よしよし……」

リズィアは少年の背中をさする。彼はそのリズムに合わせるように呼吸を整えて、そしてリズィアの耳元でささやいた。それを聞いたリズィアの表情が一気に険しくなる。彼女は少年の頭を撫でて家から帰した後、ばっと立ち上がり、亜麻の上着をとった。どうしたんだと問うダヴィに、彼女は初めて見せるほどの真剣な表情で言った。

「カパが、どこかにいっちまったって……」

◇◇◇


葉の隙間から見えるのは、薄暗い灰色の空。湿った空気に虫たちは声も発さず、鳥たちの羽ばたきもない。黙り込んだ森の中で、枝を踏みしめる音と荒い呼吸があまりに小さく響いていた。

「おい、無理すんなよ。年寄りにはキツイぜ」

リズィアの右腕に巻き付けられたダヴィが言った。少年によると、カパは森の中に走っていったという。リズィアは他の大人の手も借りず、単身森へ乗り込んでいた。

「ハァ、うるさいね…… 文句があるなら、付いてこなきゃ……」
「お前さんに何かあったら、うちの芸術家がうるさいんでね」

もう彼これ一時間は森の中を探し回っていた。それなのに、木の実の採集ルート、狩りの休息所──村人が訪れそうなところのどこにも、カパの姿はなかった。

薄くかかっていた程度の雲はどんどん厚くなっていて、そろそろ一雨来そうだった。しかしそれ以上にダヴィの気を引いたのは、リズィアの体調だ。やたらに元気な老人だと思っていたが、しかし歩き出して数分ですでに明らかにバテの兆候が見えていた。現に足取りは重くなってきていて、顔も少しずつ青白くなっている。

「雨が降るぞ。一旦戻って、他のやつらに──」
「ダメだよ」

リズィアは肩を上下させながらも、きっぱりと言い切った。いかに体が疲れようとも、その目だけは力強く進む先を見据えていた。

「あの子はね、あたしに頼んだんだ──あたしにしか言えない理由があるんだよ」

家に駆けこんできた少年は、カパが消えた理由は喧嘩だといった。ただ、喧嘩の原因については終ぞ何も言わなかった。そして、言えない理由があるのだろうと、リズィアもそれを問い詰めなかった。

「だけどよ、所詮村の近くの森だぜ。きっとカパなら、一人でも帰ってこれるんじゃないか」
「そうかもしれないね」

リズィアはそう言いながらも、足を止めない。木々の隙間を残らず、一切の妥協なしに確認していく。

「確かに、自分で帰ってくるかもしれない。でも、それじゃあダメなんだよ。見つけてあげなきゃダメなんだ、あの悪ガキはね」

雨が降り出した。水滴が葉を打つ音が森に広がっていく。鳥が遠くで一斉に羽ばたいた。森が、徐々に暗くなっていく。リズィアはよろめきながらも足を止めない。ダヴィの休憩の提案も、全て断っていた。その目はまだ光を失っていなかったが、明らかに焦点はあっていなかった。ただ体を前に突き出して、その重力に引きずられるように足を踏み出し、前に進んでいる。一体何がリズィアをここまで掻き立てるのか、ダヴィは正直よくわからなかった。

一閃、黒雲を引き裂くように光が走った。雷だ。リズィアは反射反応のように光の方を振り向く。続いて響いた轟音。リズィアが何かを言ったが、それはかき消されてダヴィの集音マイクには届かなかった。

彼女は振り返って、残った力を出し切るように駆け出した。その先には高台がある。届かない距離ではない。

彼女は咳き込みながら坂を上っていく。そろそろ頂上かと思われる頃、突然、木々がなくなって、視界が開けた。暗くてよく見えなかったが、そこは森を一望できるほどの高さで、大きな岩が一つ転がっていた。

「カパ!」

リズィアが叫んだ。暗闇の中で何かが動いたのが見えた。彼女はそこに駆け寄っていく。

カパが、信じられないと言った表情でそこに立ち尽くしていた。手は土で汚れている。リズィアは彼の前で立ち止まった。

「ババア、なんでこんなところに……」
「そりゃこっちの台詞だよ!」
「……うるせえ、そんなん俺の勝手だろうが!」

──その言い草はないだろうが。その言葉をダヴィはぐっと飲み込んだ。ここは自分の出る幕ではなかった。

リズィアは拳を握りしめて、バッと振り上げる。カパは半ば反射的に目を瞑って頭を抱えた。拳骨が来ると思ったのだろう。

──しかし、いつもの痛みはいつまでたっても感じなかった。彼がうっすら目を開くと同時に、ドサッと、何かが倒れる音がした。

「──っおい、ババア!」

泥にまみれた足。びしょびしょに濡れた体。乱れ切った髪。そこにあったのは、ぬかるんだ地面に倒れ込んでいる、一人の老婆であった。

◇◇◇


雨音と混じって鋸を引く音が響いていた。しばらくして、ぱかっと何か硬いものが割れる音と、それが転がる軽い音が響く。エスィはそれを手に取って、まじまじと観察した。

「うん、なるほど。そういうことか……」

エスィが持っていたのは、半分になったムジュズィ──工房で彼の気を引いた、カパの失敗作だった。
彼は工房から、子供たちの試作品をいくつか譲り受けていた。その中にはカパがつくったものが数個あったが、やはりそのどれもが他の子供の試作品と違って、均整のとれた形をしていた。エスィはその中から一つを選んで、真っ二つに切ってみたのだ。人の作品を切るのはさすがに気が引けたが、ただそれ以上に、エスィはこの作品の違和感の根源が知りたかった。

驚いたことに、その断面は歪んでいた。外から見ればバランスの取れた形だが、内側の素地の形成が上手くいっていないのだ。その代わり、素地の歪みを樹液の厚さを調整することで、最終的に均一に整えている。それこそ、切らなければわからないほど正確に──

エスィは割れた器をそっと屋内のテーブルにおいて、鋸の水滴を拭きとる。工房から借りたものだったが、今から返しに行っても濡れて錆の原因になってしまうだろう。まだ、雨は降り止んでいなかった。リズィアとダヴィは出かけたのか、家はもぬけの殻だった。

静かな家の中で、窓の横に立てかけられたキャンバスを眺める。家を出る前にはなかったもので、絵の具も乾ききっていない。おそらくリズィアが書いたものだろう。草原に咲いた一面の黄色い花──いつか見た光景に似ている気がした。ダヴィがリズィアに教えたのかもしれない。エスィは心をかき回される気持ちがした。揺れて飛ばされてしまいそうな、黄色い花が怖かった。そう感じる理由がわからなくて、目を逸らした。

腕を枕にして、テーブルに体重を預ける。子供たちの声はしない。規則正しい雨の音の中で、エスィの意識は徐々に遠のいていく。

──その微睡を破ったのは、不意に響いた扉を開け放つ音だった。

エスィは玄関へ走る。そこにはリズィアを背負ったカパの姿があった。リズィアの肌からは暖かい色が消えていて、その目は閉じていた。カパの脚は震えている。リズィアを無理な体勢で運んだ疲れが溜まっている── いや、その怯えたような表情を見るに、それだけではないようだ。

「おいエスィ! 手伝ってくれ!」

彼女の右腕からダヴィが叫んだ。エスィは入り口で硬直しているカパから半ば無理やりリズィアを受け取って、暖炉の前へと運ぶ。彼女の体は恐ろしく軽かった。

「ボーっと突っ立ってんじゃねえぞ、ゴミクズが!」

呆然と立ち尽くすカパに、ダヴィが叫んだ。その声には久しぶりに聞く強い怒気が含まれていて、エスィはびくりと身を震わせる。カパはその声からやや遅れて、我を取り戻したように走り出した。誰かを呼んでくるようだった。

エスィは小さく謝った後にリズィアの服を脱がして、乾いた布で全身についた泥と水滴を拭きとる。鼓動は続いていたが、息は弱く、体温もかなり低くなっていた。暖炉に着火剤を多めに放り込んで火をつける。薪に火が移るまで、エスィは彼女に身を寄せてなんとか当分の体温を確保した。その間に、ダヴィはことの顛末を語った。

薪がパチパチと音をたて始めた頃、リズィアの体が小さく揺れて、次いで小さく咳き込む音が聞こえた。

「リズィアさん!」

エスィの声に反応して、リズィアは緩やかな動きで彼の方をみて、そして途切れてしまいそうな声で囁いた。

「……カパは?」
「大丈夫です。無事ですよ」

彼女は安心したように目を閉じた後、一層大きく咳き込んだ。ゴボっと、何かが口から漏れる音がする。咳に合わせて、血が彼女の口からこぼれた。

「ああ、情けないところを……見せちまったね……」

カパが村長と村の医者を連れて戻ってきたのは、それから間もなくのことだった。

◇◇◇


「昨日は心配をかけたね」

リズィアはベッドで横になりながら、黄色い花畑の絵を眺めていた。一晩で容体は大分安定したようだったが、その口調は幾分ゆったりとしていて、体調はとても万全とは言い難いようだった。昨日の吐血から考えて、もともと何かの病気を患っていたのだろう。エスィは彼女の体を抱えたときの軽さを思い出していた。絵を描くという趣味も、体力が落ちていく中で、できることを選んだ結果かもしれない。

「バレちまったね。まあ、いつかはこうなると思っていたんだけど」

見られたのがあんたたちで良かったよ、と彼女は笑う。他の村人に見られたら、彼らを不安にさせたかもしれないから、と。

「村長は知っていたんですね。カパは……」
「あの子には悪いことをしたよ。何も悪くないのに、変な罪悪感を持たせちまった」

ダヴィは何か言いたげに軽く振動したが、結局声には出さなかった。

今日は村長がリズィアを訪れる予定だった。曰く、伝えなければいけないことがあると。リズィアの許しもあって、エスィもそれに立ち会うことになっていた。

しばらくすると、あの羊皮紙の本を抱えて村長がやってきた。彼はリズィアの横に座って、「このことは、他言無用でお願いします」といって、本を開いた。

「エスィさんにはお伝えしていませんでしたが──そして当然リズィアさんも知らないことだとは思いますが、この本には通常開くことが禁止されているページがあるのです」

開かれたページは本の末尾の方で、章の表紙のようだった。誤って開かれてしまわないように、背表紙と合わせるように紐がぐるぐると巻き付けられている。村長は慎重にそれを解いていく。

「表紙にはここを開く際の規則が書いてあります」

ここから先は死に瀕する村人が現れたときのみ開くこと。読む際は、必ずその村人と共に読むこと。読み終えたならばまた同じように紐で結びなおすこと── そんなことが表紙には記されているようだった。章題には、「救命の儀式」とある。

「ここに書かれていることについては、私も詳しくは知りません。なにせ、ここから先は、一度も読まれたことがないのです。ただ私は先代から、これは精霊に頼んで人の命を救うための方法だと──そう聞いています」

村長がページをめくって内容を読み上げていく。そこには図と共に、聖地と呼ばれる洞窟への行き方、儀式のための持ち物と手順などが記されていた。今際の際の村人は、その洞窟の中にある「命の扉」の中に供物を持って入って、そこで精霊から「長く生きる許し」を得て、不調を回復するのだという。「命の扉」にかけられた鍵を開ける方法が記されたページが開かれたとき、リズィアが小さく声を漏らした。

「ここ、見覚えがあるね……そう、夢で見た扉じゃないか……」

村長はその言葉を聞いて、ぱあっと表情を明るくする。

「やはり、リズィアさんは精霊に導かれているんですよ。いや、よかった。本当に……」

彼は笑顔のまま涙をぽろぽろとこぼしている。リズィアが「情けないねえ、村長なんだよ」と彼を笑う。親方の言葉が思い出される。

──私らは親がいませんから、彼女が親みたいなもんなんです。

村長とリズィアの様子は、まさに泣く子と慰める親のそれだった。村長はリズィアの体調を知りつつ、ずっと不安だったのだろう。彼女が助かる希望が見つかって心底嬉しそうに、「よかった、よかった」と繰り返していた。一人前の大人だったとしても、頼れる相手は必要だ。彼にとって、それがリズィアだったのだろう。

「突然の話で、信じられるかどうかもわかりません。正直、私も半信半疑です。ですから、今どうするか決めなくても大丈夫です。医者の話ではここから急激に悪くなるということもなさそうだということですから、ゆっくり待っていますね」

村長はそういって、また最後の章を紐で結んでから本を閉じる。そうしてしばらくリズィアと楽しそうに話した後、来たときより数段明るい表情で帰っていった。

「あんたはどう思う?」

村長が帰った後、リズィアはエスィに尋ねた。彼女の顔は幾分血色がよくなっていて、声色も元気を取り戻してきているようだった。

「あり得ない話では、ないと思います」

エスィは迷っていた。彼は今まで色々な異類を見てきた。それこそ、想像もつかない力を持っているものも、その中にはあった。それなら、病気を治してくれる存在がいたとしてもなんらおかしなことではない。ただ、村長の話に感じた違和感が、胸の奥につっかえていた。特に、精霊という取ってつけたような存在。確かにこの村にもアニミズム的な考え方はあるだろう。だけども、そうだとしてもその存在は曖昧で、村の伝承に馴染んでいないような気がした。第一、隠しておく理由もわからない。そのような困惑を見透かしたのだろう。リズィアは「歯切れが悪いねえ」と言って笑った。

「まあ、あたしも心の底から信じられてるわけじゃないけどね。それでも、チャンスがあるなら掴まないと」

リズィアは窓の外を眺めた。外ではいつもと同じように、子供たちの笑い声が響いている。「少し一人で考えさせてくれないかい」というリズィアを残して、エスィは家を出た。

◇◇◇


「ダヴィはどう思う?」
「ま、ない話じゃあないと思うけどな。実際なんでも治せる薬みたいな異類もあったはずだ」
「あの本の図に心当たりはない?」
「ないね。せめてその妖精だか精霊だかの写真があれば、なんとかなったかもわからんが」

やっぱり手がかりはないか、とエスィは小さく息をついた。彼は昨日カパがしたという"喧嘩"について、クルに話を聞こうと、村の外れの林──あの墓標がある林に向かっているところだった。村でクルを探したが、どこにも彼は見当たらなかった。

林に入ると、人の気配がした。驚かさないように、わざと足音を立てて林に入っていく。案の定、墓標の前に小柄な少年──クルがいた。

クルは足音を聞いて警戒していたようだったが、エスィの姿を見て、伏し目がちではあるものの少し緊張を緩めたようだった。

「えっと、エスィさん、ですよね。みんなが言ってました。優しいお兄さんが来てるって……」
「はじめまして。君はクル君だね。ごめんね、こんなところで」
「ううん、ちょうど、用事が終わったところ……です」

彼の手には泥がついていて、近くには引き抜かれた朽ちかけの墓標が置かれていた。代わりに、新しい木で作られた墓標がたてられている。

「それは?」
「お父さんのお墓、なくなっちゃいそうだったから……」

意外だった。墓標を崩れるままにするのは、死者の記憶に必要以上に囚われないようにするためだと、エスィは考えていた。カパが水をかけて腐らせようとしていたのも、そういう理由からだろう。しかし、目の前の少年は進んでその墓標を直したのだ。

「お墓があると、ずっとお父さんのことを意識しちゃって、悲しいままになっちゃうんじゃないかな?」
「みんな、そう言います。僕も、そう思うんです。今も泣いちゃいそうで……でも、嫌なんです。お父さんがいなくなっちゃうのは──ごめんなさい、悪いこと、ですよね」
「いいや ──良いと思うよ。悪いことじゃない」

エスィがクルの頭を撫でようと手を伸ばしたとき、後ろで茂みが揺れる音がした。振り返ると、走って林から出ていく後姿が見えた。それは間違いなく、カパのものだった。最初クルは驚いていたが、すぐに心配そうに表情を曇らせた。

「昨日、カパはどんな感じだった?」
「ごめんなさい。よくわからない、です……カパくんは、帰ってきたあと、何も言わずに寝ちゃった、ので……」

クルは昨日の出来事の顛末を知らないようだった。村長が上手く誤魔化したのだろう。

「昨日の喧嘩って、何があったのかな?」

エスィがそう尋ねると、クルはびくっと肩を揺らして、しばらく考えた後、小さく首を振った。

「やっぱり、ぼくは言えません」
「それはカパが悪いことをしたから?」
「ち、違います!」

クルはエスィの目をまっすぐにみて、力強く断言した。それからすぐに我に返って、また目を伏してしまったが、彼の懸命な表情は、エスィの記憶にしっかりと刻み込まれた。

「カパくんは、悪くないんです。カパくんは強くて、かっこよくて……でも、つらそうで。だけど、だけど……どうしていいかわからなくて……」

クルの声が震える。エスィはしゃがんで彼に視線を合わせ、頭をぽんぽんと優しく叩いた。

「……大丈夫だよ、安心して。僕が話してみるからさ」

クルはこくりと小さく頷いた。空を見上げると、昨日とは打って変わって雲一つない青空だった。日が沈むにはまだ少し時間がある。エスィはクルを村に送り届けてから、速足で高台へと歩き出した。

◇◇◇


「もう少しで頂上だぜ」

高台へ登る森を抜けると、平らな開けた空間に出た。大きな岩があって、その先は崖になっている。崖の下にはエスィが先ほどまで歩いていた森が広がっていた。風が吹くと音をたてながら葉が揺れて、木々の上を光の波が駆けていく。

「で、何しに来たんだ? ここには」
「昨日リズィアさんの服を洗ったとき、泥だらけだったんだよね」
「そうだろうな。地面にぶっ倒れたら、泥まみれになる」
「うん。でもそれだけじゃなくて、手形がいくつかついてたんだ。背中とか、背負うときはあまり触らないところにね。多分、大きさ的にカパの手だと思うんだけど」

なるほどな、とダヴィが呟く。エスィの言いたいことを察したようだった。

「そうだな。確かにカパの手は泥で汚れてたよ。ここに来たときすでにな。お前が言ってる手形ってのは、多分婆さんを揺すったときについたやつだろうな」
「うん。だから、彼はきっとここで何かしてたんだろうね。それを探しに来たんだ」
「でもよ、カパの手が汚れてたかーなんて、あらかじめ俺に聞きゃあよかったじゃねえか」
「そうだね。でも、どちらにせよ、ここには来る予定だったから」

エスィは地面を注視しながら付近を歩き回る。するとすぐに、草むらの中の一か所が目に留まった。そこだけ雑草が取り払われて、地面が露になっている。エスィが鞄の中にあった手袋をはめて、土を掘り返すと、黒い箱が出てきた。ムジュズィと同じように樹液で塗られて防水加工されているようだが、その素地は布ではなく木のようだった。
エスィが箱を地面から抜き取って土を払い、蓋を開けると、そこには丸められた布が入っていた。裏から、それに絵が描かれていることがわかる。丸められているため一部しか見えないが、2人の顔が並んで描かれていることはわかった。どうやら橙を背景に2人の人物が描かれているらしい。

「おい部外者、ここでなにしてんだ」

絵を開こうとしたとき、突然後ろから声が響いた。エスィは冷静に、ゆっくりと振り返る。そこにはカパが立っていた。背には大きな荷物を背負っている。エスィは絵をしまって、箱をカパに見えるように持ち上げた。

「これが喧嘩の原因だね」

箱を見たカパの顔が一気に険しくなる。重い荷物を持っていなければ、今にも飛び掛かってきそうな剣幕だ。エスィは内心怖気づきそうになっていたが、できるだけ冷静を装って話を続ける。

「ダヴィから聞いたけど、人の絵を描いたり持ったりしてはいけないんだってね。でも、この絵が見つかってしまった。──子供たちが絵については黙ってるってことは、君は多分これを捨ててくるって言ったんじゃないかな。見つけた子も、それで口をつぐむことにしたんだ。でもそれは嘘で、君はこれをここに隠した。この絵が大切だったんだね」

クルはカパが絵を捨てていないことを知っていたのだろう。だからこそ、喧嘩の原因を言えなかったのだ。大人に絵を探されてしまえば、きっと簡単に見つかって、処分されてしまう。リズィアに頼んだのも、彼女なら事情を詮索しない──もしくは万一見つけても、見なかったことにしてくれるという信頼があったからだろう。

「……ご名答だな。描いてあんのは、あのババアと小さい頃の俺だよ。誰が描いたか、いつ描かれたのかなんてのは忘れちまった。──でも大切なんかじゃねえ。捨てなかったのは、どうすればいいかわからなかっただけだ。村を不幸にする絵なんて、下手に扱ったらどうなるかわかったもんじゃねえだろ」

そう言い終えると、カパは硬かった表情を突然緩めて笑い出した。それからひとしきり笑ったあと、大きく息を吐いて、エスィを睨みつける。

「で、お前はそれを見つけて、村のやつらへ言いつけるために来たってわけか。でも残念だったな。俺はもうあそこには帰らねえよ」

エスィは目を瞑って首を横に振った。

「いいや、これを見つけることは目的ではなかったんだ。本当は待ってたんだよ。君ならここに来ると思って。村を出ていく前にね。どうして村を出ていくんだい?」
「当然、責任を取るんだよ。あのババアも、村からしたら大切な村人だし。俺はそれを傷つけちまったんだ。その絵のこともある。だから、責任を取ってこの村を出ていくんだ」
「責任を取る……それなら、君は強い人間だね」

エスィは小さく息を吸い込んで、カパをじっと見つめる。彼には、目の前に立つ少年の瞳が、細かく揺れているように見えていた。

「……含みのある言い方だな。何が言いたい?」
「僕に君の心はわからない。でも、なんとなく、違うんじゃないかと思って」
「何が違うって?」
「確かに子供たちはみんな君を信頼してるね。君は強いって、クル君も言ってたよ」
「質問に──」
「じゃあ君は、どうしてクル君を見て何も言わずに林から出ていってしまったんだい?」

沈黙が2人の間に横たわった。彼は何も答えない。代わりに、エスィが口を開いた。

「クル君が、君の出来ないことをしていたから、じゃないかな」

カパは何も言わず、エスィを睨みつけている。

「今は実親がいる子が多いんだってね。その中で、君は捨て子だ。自分の中で、自分が捨てられたって意識がずっとあったんじゃないかな」
「それがどうしたんだよ」
「どうして君は大人をそんなに拒絶するんだろう、と思って。それは君が大人を必要としていないからじゃない。むしろ、何かを防ぐためなんじゃないかな」
「わけがわからねえ。全部勝手な妄想だ──」
「でも、それは完遂出来なかった。リズィアさんを拒絶しきれなかったから。その絵を大事に持っていたのが、その証拠だよね。それで、拒絶しきれなかったからこそ、君は今の状況で、村を出ていくしかなくなった。そうしないとリズィアさんが君を──」
「うるせえっ!」

彼が発した一際大きな叫びが、崖下の森に吸い込まれていった。鳥たちが一斉に羽ばたく音が聞こえる。風がざわざわと森を揺らす。カパは俯いたまま肩で息をしている。

「君が村を去ろうとしてるのは、責任を取るためなんかじゃないよ。きっと」

反応はない。エスィは鞄から二つのムジュズィを取り出した。一つは形の整ったもの。もう一つは形がゆがんだものだった。

「これ、君がつくったものだよね。もう一つの方は、他の子がつくったものだ。先に謝っておくね。ごめん」

カパが顔を上げるのと同時に、エスィは形の歪んだ器を思いきり地面にたたきつけた。軽い音をたてて器がはね、カパの方に転がっていく。カパはエスィの突然の凶行にしばし唖然としていたが、恐る恐る足元に転がったそれを拾い上げる。器は割れてはいなかった。

「すごいよね。樹液が均一に塗られているから、力が分散されて意外と壊れにくいんだ。そんなに変な形になっちゃってるのにね。でも、厚さに差があると──」

続けてエスィは、形の整った器を地面にたたきつける。地面に器が打ち付けられる音の他に、ピキッと何かが割れる音がした。エスィがそれを拾い上げると、器は二つに割れてしまっていた。

「硬いところと柔らかいところの差で、うまく力を受け止めきれずに割れちゃうんだよ」

エスィはもう一度「ごめんね」、と謝ってから、器の断面を指でなぞる。

「隠すために塗装しても、強い器にはならないんだ。それなら僕は、形は歪だけど、そっちのほうが美しいと思うな」

カパはエスィのことをじっと見つめる。エスィも沈黙して彼を見つめ返した。カパは小さく舌打ちをしたあと、エスィから目を逸らして、小さく息を吐く。

「……わけ、わかんねえよ」

彼はそれだけ呟いて、無言で高台を降りていった。

エスィが後ろを振り返ると、山に日が沈みかけていて、美しい夕日が森を照らしていた。一面が絵の具で染め上げられたように、橙に輝いている。

「相変わらず回りくどい奴だな」

ダヴィが笑いながら言う。「追わなくていいのか?」

「大丈夫だよ。あとは彼が決めるから」

エスィは箱を持ち上げて、蓋を開ける。

「それにしても、なんてったって婆さんとカパが一緒に描かれた絵なんてのがあるんだ?」
「それがちょっとひっかかってて……カパ君もよく覚えてないみたいだし」

彼は首を傾げながら丸められた絵を広げた。

──その瞬間、彼はそのままの体勢で凍り付いた。

「おい、どうなってんだ……?」
「……そうだ、小さい頃のカパってことは、同じ高さに頭があるわけがないんだ」

そこに描かれていたのは、この高台で夕日を背に並ぶ、リズィアと幼い頃のカパ、そして見知らぬ一人の男性だった。

◇◇◇


絵を持ち帰ったエスィは、リズィアにそれを見せた。彼女は自分が描かれたそれを怪訝そうに見ていたが、終ぞ彼女とカパ以外のもう一人の男性には気付かないままだった。彼女自身、これを描かれた記憶はないという。

「"人の死なない村"って、そういうことだったんだね」

エスィは人の居ない広場に座り込んで、消えかけの細い月を眺めながら言った。

「違和感はあったんだよ。少ない老人の数とか、若い人が全然死なないとか、捨て子とか──」
「あー、多分俺と考えていることは一緒みたいだな」
「うん。これって多分、死にゆく人の記憶を消しちゃってるんだよね」

ダヴィは何も言わずノイズを流す。死にゆく人の記憶を消す──そう考えると、様々なことに合点がいった。どうやって過去の村人は飢饉を乗り越えたのか。なぜ、救命の儀式が今まで行われてこなかったのか。どうして、孤児が多いのか── それはつまり、死んだ人に関する記憶を、村人全員が失ってしまっているからだろう。

「多分、死んでからじゃあ遅いんだろうな」
「そうだね、だから生きているうちに"儀式"をしなきゃいけないんだ」

村長も、何が起こるのかは知らないんだろうね。と、エスィは付け足した。村長の嬉し涙が嘘だとは思えなかった。「気分悪ぃな」とダヴィも呟く。

「それで、あの絵は"忘れられた人"が描かれてるんだ。村人は、忘れられた人を見ることもできない。きっとあの絵はかなり写実的だから、同じように彼は見えなくなってしまっているんだ」
「じゃあ、婆さんと"忘れられた男"、それとあのクソガキの関係は……村の禁を破ってまで絵を描いてもらったってことはよ……」

エスィは答えなかった。ダヴィも続けなかった。全ては悪い想像で、証拠なんてなかった。しかしその結論は、無視できないほど重く心にのしかかってきた。だからこそ、黙るしかなかった。しばらくして、エスィは問う。

「ダヴィ、あの儀式とこの性質から、なにかわからない?」
「……心当たりが一つある。これだな」

ダヴィは液晶に一つの建物を表示した。旧時代の技術でつくられたと思われる、大きな建造物。ガラス扉がついている。

「中に入った人間についての記憶を、消しちまう。そんな異類だ。"扉の中に入る"、"忘れられる"、"忘れられたものは、見ることさえできなくなる"──全部合致してる。この場合最悪なのは、精霊なんていないってことだな」

ダヴィは吐き捨てるように言った。

「さあ、どうするよ。エスィ。このこと、婆さんに伝えるか?」
「……どうしようか」

探訪者の仕事は、異類と人々がどう共存するかを知ることだ。積極的にその関係を変えることは、あまり好ましいことではなかった。今回の場合は、村人全員がその異類に対して無知であることで、忘れられる人物以外、誰も傷つかないシステムが出来上がっている。そのシステムについて伝えることは、異類と人々の関係を壊しかねない行為だった。

「もし伝えるんだったらよ、そんときは俺に言わせてくれ」

ダヴィがぽつりと言った。エスィは意外そうにダヴィの方を見る。普通、彼は雰囲気の重くなるようなことは面倒がって手を出さない。頼まれても一度は断られそうなものを、まして自分から言い出すなんて、エスィは全く想像していなかった。エスィの視線を感じてか、ダヴィは付け加える。

「あー、一応、絵を描いてもらった恩もあるしな。あの花畑の」
「やっぱりあれは、ダヴィが描いてもらったんだね」

エスィはリズィアの家の方を見た。伝えたとして、どうなるのだろうか。例えリズィアが秘密を守ったとしても、彼女の余命が短いということに変わりはない。それどころか、自分が誰かを忘れているという不安に襲われることになるかもしれない。加えて、村長の救命の儀式に関する知識も消えないままになる。それはこの村のシステムに、思わぬところでエラーを起こすかもしれない。エスィはもう一度ダヴィをみた。彼は何も言わず、黙っていた。それはきっと彼も、伝えるべきではないことを分かっているからだろう。

「……そうか、絵を描いてもらったんだもんね。そういえば、僕もずっと泊めてもらっているんだった」

エスィはそういって、ダヴィに笑いかけた。

「それじゃあ……」
「うん。お願いするよ」

この決定がどんな影響を持つかわからない。きっと、これは下すべきではなかった決断だろう。それでもエスィは、これが美しい決断だと感じていた。彼は夜の森の香りをいっぱいに含んだ空気で肺を満たして、リズィアの家へと戻った。

◇◇◇


「どうしたんだい。大事な話って」
「そっちこそ、なんか考えごとしてたみたいだが」
「ああ、いやどうでもいいことなんだけどね。あんたたちの持ってきた絵を見て、人の絵も悪くないと思ってね。絵の中じゃないと達成できないような望みだって、あるだろうし」

さすがに村に不幸があるってなら描かないけどね、とリズィアは笑う。ダヴィは異類の真実について話すか逡巡したが、単刀直入に切り出した。

「あの儀式あるだろ。あれ、病気を治してくれるものじゃあねえんだ」

ダヴィは淡々と、異類の性質の説明と、彼の考えの根拠を説明した。エスィはそれを一言も話さずに聞いていた。

「──とまあ、そういう感じなわけだ」

ダヴィの説明が終わっても、ベッドに体を起こして座っているリズィアは、目を瞑って沈黙したままだった。静寂に耐えきれず、ダヴィが声を発する。

「信じられないのも分かるけどな──」
「いや、あたしは信じるよ」

リズィアは目を開いて、寝室に運び込まれていたムジュズィの花瓶に目をやった。

「そもそもあたしの病気が治るってのがうますぎる話だろうさ。そんなのが本当なら、この村は老人だらけだろうに」

彼女は笑った。その声はかすれていて、それが無理に作られたものであることはすぐにわかった。

「そんで、どうする? やっぱり、やめるか?」
「忘れられるってのは確かに恐ろしいけどね。あんたの言う通りなら、村がこのまま続いていくには、あたしが忘れられなきゃいけないんだよ。あんたらが思ってる以上にね」

村人の多くが孤児──その共通点が、この村の大人たちのつながりの一つになっているのだと、リズィアは説明した。皆血縁者のいない、ともすればすぐ孤独になってしまう状況こそが、それぞれを結び付け、協力させ、そしてお互いへの寛容さを生んでいるのだと。もし死にゆく人々が忘れられないような事態が増えれば、この村には血縁関係が蔓延して、彼女が言うような体制は崩壊してしまうだろう。

「それに、あたしが死んだら──みんな悲しむじゃないか」

リズィアはうっすら微笑んでいるようだった。彼女の視線の先にある花は、一昨日から変わらず、凛として咲いている。

「……強いんだな」

彼女は静かに首を振る。

「あたしは嘘をついてきただけだよ」

リズィアは花瓶を持って、自分の前まで移動させようとする。その手は酷く震えていて、途中でそれを取り落としてしまった。入っていた水がベッドにぶちまけられる。彼女はそれも気にせず、床に落ちてしまった花と花瓶を緩慢な動作で拾い上げて、自分の胸の前で抱えた。彼女はじっと目を瞑って、何かを堪えている風だった。

「強いフリをしてきたんだ。本当はね、こんなに情けないのにさ」
「そんなこと──」
「情けないのに、みんなを騙して……誰にも言えずに、もう逃げられなくなっちまった。結局あたしは──」

彼女は深く息をついて、首を小さく、ゆっくりと振る。

「褒めてもらいたかっただけなのにねぇ……」

薄く開かれた彼女の目に、以前のような力は宿っていなかった。代わりに、青白い悲しみが、その瞳の裏で揺らいでいた。

「悪かったね、こんな年寄りの愚痴──」
「その花瓶、俺は綺麗だと思うぜ」

──ま、ここ来る前にゃあ、そんな風に思わんかったがね。そう、ダヴィは付け足す。

「エスィが言ってたけど、内側の布が大事なんだろ、それ。それがしっかり綺麗にできてないと、塗ったって美しくはならないんだと」

リズィアは抱えていた花瓶を少し自分から話して、その表面を手でなぞる。

「だからいいじゃねえか、それで。外から美しく見えるってなら、それでよ」

彼女は花瓶をじっと見つめる。吸い込まれるような黒の中で、映り込んだ暖かいランプの光が確かな形をもってそこにあった。それは夜を行く旅人の向かう先を照らす光のようで──

「確かにそうかもしれないねえ……」

遠くで鳴いている虫の声が、部屋の中に響いていた。それに紛れるように、リズィアは、ふふっと小さく笑った。その目にも、小さくランプの光が映っていた。

◇◇◇


エスィは数日後、リズィアの家の前に立っていた。1人で考えたいということで、ダヴィが彼女に異類について語ってから、エスィたちはしばらく村長の家に宿泊していた。

「待たせたね。さあ行こうか」

家からいろいろと荷物を持って現れたリズィアは、やや痩せてはいたが、それでもいつもの調子を取り戻したようだった。

エスィはリズィアの荷物を持って、村長の家へ向かう。そこで彼女は、村長から儀式の手はずを聞くことになっていた。

「あれ、お二人だけですか」

出迎えた村長が、やや不思議そうな表情をする。

「他に誰か連れてきた方がよかったですか?」
「ああいえ、気にしないでください」

村長とリズィアが家に入っていく。儀式の手順の確認だ。エスィはその間、家の前に座って2人を待っていた。

「結局、全部知った上で儀式をすることを選んだんだね」
「そうみたいだな」
「僕もダヴィも、リズィアさんのこと忘れちゃうのかな」
「俺は完全機械だからわからんが、お前は忘れちまうだろうな」
「うん、そうだよね……」

広場ではいつもと同じように子供たちが遊んでいる。この光景は、リズィアが忘れられても、何も変わらないのだろう。

「あー、一個頼みがあるんだけど、いいか?」
「どうしたんだい?」
「大したことはないんだ──」

エスィはノートを出して、ダヴィの依頼を書き留めた。ちょうど扉が開く音がして、2人が出てきた。

「さあ行こうかね。エスィも悪いね、手伝ってもらうことになって」

彼は頷いて、儀式の道具を受け取った。

森に入ると、村長が背負子にリズィアを乗せた。リズィアは嫌がったが、洞窟まで少し距離がある。無理をさせるわけにはいかなかったのだろう。

しばらく歩くと、洞窟が見えてきた。村長は松明で先を照らしながら、暗闇へ潜っていく。壁には人の手で掘られたような痕跡があり、いくつか崩落を防ぐための柱のようなものも設置されていた。この洞窟は本によると、もともと採掘目的で作られたものらしい。

下り坂を転ばないように慎重降りていくと、やや広い空間に出た。そこには、扉があった。ガラスは黒く塗られ、取手には厳重に錠が取り付けられている。

ダヴィは、異類が洞窟にあるのは、先の戦争のせいだろうと言っていた。旧時代が滅びる原因となった戦争は、人も地形もでたらめにしてしまった。もともとこの異類には再生能力のようなものがあったらしいが、それが地面に埋れた状態で再生したために、洞窟の中に埋め込まれてしまったのだろうと。

村長は扉の鍵を開けて、何かを唱えている。精霊に捧げる呪文らしい。それも終わり、洞窟内が静寂に包まれたころ、村長は扉を開けた。

「……時間だね」
「はい。リズィアさん。供物を持って精霊のところに──」

そこまで言ったところで、村長は眉間にシワを寄せて洞窟の入り口の方に目をやった。耳を澄ますと、足音がこちらに迫ってくるのがわかった。声が聞こえる。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

カパの声だった。何度も転びそうになりながら、下り坂を駆けてくる。その手には何かが抱えられていた。

村長は申し訳なさそうに頭を掻いていた。村人には儀式のことは秘密にしていたが、カパに問い詰められて、仕方なく儀式のことを教えたのだという。

カパはリズィアの前までやってきて、息を整えてから、その抱えたものを突き出した。

「これ、持ってってくれよ」

それはムジュズィだった。不格好な形で、ところどころ歪んでいる。しかし目を引くのはその形よりも、その色だった。下半分は普通通り黒く塗られていたが、上半分は、赤鉛の燃えるような橙に染まっていた。

「あの高台…… 俺好きなんだ。これは、そこの夕焼けの色で……」

必死に説明しようとして舌が回らないカパに、リズィアはぷっと噴き出した。

「ヘッタクソな形だねぇ。それなのに、色なんかつけて…… 生意気じゃないか」

リズィアはパッと手を振り上げた。反射的にカパは目を閉じる。しかし、その手は勢いよく振り下ろされることはなく、代わりに優しく彼の頭を撫でた。

「でも、あたしは好きだよ。ありがとう。大切にするよ」

リズィアはそれを受け取って、両手で大切に包んだ。カパは口を固く結んで黙っていたが、リズィアが扉の方へ一歩向かうと、意を決したように、一段大きな声で言った。

「……絶対、絶対元気になって帰って来いよ! それで、あの高台に行って、それで、一緒に夕焼けをみるんだ!」

リズィアは目を口をギュッと閉じて、息を大きく吐いた。その手は少し、震えているように見えた。それからすぐにカパに向き直って、いつものようにくしゃりと笑って見せた。

「……ああ、もちろんさ! 言われなくても、今の数倍元気になってやるからね!」

松明の光が、リズィアとカパの目の中で燃えていた。彼女はエスィとダヴィにも軽く微笑んで、扉の向こうに進んでいく。彼女が内側から扉を閉めると、村長はそれに鍵をかけた。

「さあ、行きましょう」

あの本には、儀式が終わり次第すぐに立ち去るようにと書かれていた。村長とカパは、足早に出口へ向かっていく。

「エスィさん?」
「ああ、はい。ごめんなさい、すぐ行きます」

エスィは遅れて、小走りで2人へ追いつく。洞窟の外に出ると、強い日差しで一瞬、目が眩んだ。

◇◇◇


「これで、よかったのか?」

暗い洞窟のなかで、液晶をぼんやりと光らせながら、ダヴィは扉に向かって声をかけた。

「……まだいたのかい」

扉の向こうから、リズィアの声が返ってくる。「他の奴らは帰ったよ」とダヴィは答えた。

「よかったんだと思うよ。これからどうなるか、正直想像もできないけどね」

しばらく間があって、リズィアは尋ねる。

「今、天井から人の声みたいのが聞こえたんだ。これは何だい?」
「それは、お前さんの知り合いの名前を呼んでるんだ。呼ばれた奴から、お前さんの記憶が消えちまう」
「……そうかい。いっそ、さっさと済ませてくれればいいのにね」

「ああ」とダヴィは小さく返事をする。また、洞窟の中を沈黙が支配した。しばらくして、またリズィアが声を出す。

「あたしは最後まで、強かったかい?」

その日の天気を聞くように、何でもないことについて話すように、その声は落ち着いていた。

「……そうだな。最後まで、強いババアだったよ」
「それならよかったよ。──今、カパがあたしのことを忘れたみたいだから」

それから、リズィアは声が聴こえるたびに報告し、ダヴィはそれに返事をした。それ以外のことは、話さなかった。静かな洞窟の中で、その声だけが響き、吸い込まれていった。

数十回それが繰り返されたあと、リズィアは言った。

「今の名前は聞き取れなかったよ。ただ──酷く嫌な感じがした」

ダヴィは答えなかった。

「ダヴィ?」

返答はない。静寂だった。

リズィアは扉の向こうで、大きく息を吐いた。

「これで終わりかい」

相変わらず返事はなかった。リズィアの声は震えていた。紡がれる言葉が、バラバラに崩れてしまいそうなほど。

「もっと絵を描きたかったよ。子供たちともっと話したかった。──まだ生きたかった」

声が細く、掠れていく。

「ああ、忘れられたくないよ」

嗚咽が混じる。

「あの高台に、もう一度行きたい──」

静かな洞窟に、古びた笛がその音色をこぼしたような、漏れだす声が響いていた。

しばらく経って、また洞窟が静寂を取り戻す。

「……ありがとうね」

彼女は小さく呟いた。扉から遠ざかる足音が反響する。ダヴィは、そっと液晶の光を消した。

◇◇◇


「ああ、ここにいた」

翌日の朝、洞窟の中でエスィはダヴィを拾い上げた。何が起こったかは自分のメモで把握していたが、見覚えのない洞窟の光景が、それが現実であることを酷く強調していた。

「待ってたぜ。ありがとな」
「いいんだ。さあ、行こうか」

エスィはダヴィを自分の腕に巻き付けて、洞窟を出る。今は彼の体験に対して、どんな言葉もかけられないような気がした。

「──そういえば」

エスィは外套の裏から巻かれた布を取り出して、ダヴィに見せる。

「この男の子の絵なんだけど、多分これがカパなのはいいとして、この腕についてるの、ダヴィだよね?」

その絵には確かにカパが描かれていて、腕には腕時計型のデバイス──ダヴィがつけられていた。

「……そうだな。カパと俺が描かれてる。多分だけどな。想像で描いたんだろうから、詳しくはわからんが」
「そうだよね。これ、部屋に置いてあったんだ。それで、ダヴィに聞いたら何かわかるかと思って」
「じゃあもう一つ教えてやるよ」

ダヴィはぷぷっと小さく笑ってから言った。

「この絵に描いてあるのは、俺とカパだけじゃないぜ」

エスィは彼の言わんとすることを察したのか、小さく頷いてから、青い空を見上げた。

「そういうことなんだね」
「まあ、そういうことだな」

鳥の軽やかな鳴き声が響いている。風が吹いて、木の枝同士がぶつかり、葉が揺れた。どこにでもあるような、普通の森の光景だ。

「なあ、ちょっくら話に付き合ってくれよ。うるさい婆さんと、どうしようもねえクソガキの、ちっとばかし面白い話にさ」

ダヴィは語りだす。彼が見て、そして誰もが忘れてしまった話を。

遠くから風に乗って、微かに子供たちが遊ぶ声が聴こえた。世界は何も変わっていない。──少なくとも、ほとんどの人間にとっては。それでも確かに変わったことに、エスィは耳を傾けた。


集村 - 47

友好度 - 高

異類概要 - 中に入った人物の記憶を、関係者の中から消し去ってしまう建造物。忘れてしまった人物は、見ることさえできなくなる。

コメント - 変わったことといえば、俺があの黒い器を、ほんのちょっと好きになったことくらいだろうな。

探索担当 - エスィ

報告担当 - ダヴィ

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