「穢れを運ぶ悪魔──」
ひょろりと背の高い男──ヴァナーが、のびっぱなしの前髪をいじりながら呟いた。それは誰に向けたものでもなく、彼自身が記憶に留めておくためのものだった。
「みんな、なんか知ってる? 少し前に行った村で聞いたんだよね。異類に関わることかなーって思うんだけど、村の人から聞いた話だけじゃ、カラクリもわからないっていうし」
ヴァナーの独り言を半ば無視して、エニシはその場にいる残りの2人──エスィとミルの方を見た。集まった四人は、同盟に入った時期が近いこともあって、顔見知りの関係だ。今回は、ヴァナーが情報共有のために彼らを集めていた。蜂蜜色の髪の青年──エスィは、少し考えた後、思い出したように鞄の中を漁りだす。
「うーん、それと似た話、聞いたことあるんだ。ね、ダヴィ」
『(。´・ω・)?』
「……今は真面目な話だよ」
『おいおい怒るなって。──ま、この前の村でも似たような話があったな。ちゃんと記録してるぜ』
ダヴィは妙になまった口調──彼曰く"忠実に再現した口調"らしいが──で、彼らが聞いた村人の話を再生する。内容は概ねエニシが語った情報と同じで、穢れを運ぶ悪しき存在が時々現れて、村人を恐怖させている──と、そんな内容だった。
「えーっと、じゃあ、同じ異類が複数の集村に存在するってこと?」
「珍しいパターンかもね、これは。 ……あ、あったあった」
エスィは鞄から取り出した記録用紙とその周辺の地図を広げる。エニシは納得したように頷いた。
「なるほどー。私がこの話を聞いた村と、エスィが行った村、結構近いところにあるんだね」
「うん。それで、この地域にはもう一個村があるんだけど──」
「……ダンデ」
エスィとエニシに割って入るように、ヴァナーがにゅっと地図に顔を近づける。地図に長い髪がかかって、エニシは不満げに「見えないんだけど」と呟く。
「あの、ヴァナーさん。ダンデっていうのは?」
「次、私たちが訪れる村の名前だ。ちょうど今エスィが言った、もう一つの村というのがそれだな。2人が聞いた"穢れを運ぶ悪魔"についての調査をしに行く」
「私たちってことは、えっと、誰かと一緒に行くんですか?」
「はい! 私が同伴します! いやー楽しみですね! その"悪魔"というのはよく知りませんが!」
笑顔で胸を張ったのはミルだ。フード付きの上着の上からでも、そのやたらに心強い体つきがうかがえる。髭の生えたその顔からは、年長者らしい自信と安心感が漂っているように思えた。ただし、彼には一つ問題がある。エスィはこっそりとヴァナーに耳打ちした。
「あの、ちょっと言いにくいんですが、ミルさん"悪魔"とか"おばけ"の類って……」
「ああ…… まあそこはうまくあの人の相棒──マックスが誤魔化してるみたいだよ。それにしても、私と一緒とはいえこんなところに行かせるとは、リーダーはショック療法でも狙ってるのかもしれないな……」
ミルはその恵まれた体格に反し、非常に繊細な心の持ち主──簡潔にいえばかなりの小心者だった。暴力沙汰全般だけでなく、幽霊や恐ろしげなモンスターの類は彼の天敵だ。
ヴァナーは、エスィとエニシの記録に一通り目を通して、前髪を邪魔そうに揺らして伸びをした。
「とりあえず、そうだな、あー、私はエスィかエニシが行った村で、情報収集をすることにする」
「それなら私のところがここから近いよ。仲良くなった女の子がいるから、私の名前を出せば村に入れてはくれると思うな」
「エニシさんは相変わらずお友達を作るのがお上手ですね。人の好さがあふれ出しているんでしょう」
感心したように頷くミルに、ヴァナーは呆れたように深いため息をつく。
「えー、それでミルさんは、先行してダンデに行っていてください。宿の確保と、事前情報の収集を頼みます」
「お任せください! ヴァナーくんが到着する前に、私がすべてを明らかにしてしまうかもしれませんが!」
そう言うなり、ミルはバッグを取りに駆けだした。昼食を咥えたまま。マックスの『ああ、こぼしてるよ!』という声が遠ざかっていく。
『相変わらず暑苦しいな……』
ダヴィがぼそっと漏らしたそれを聞いて、エスィはふふっと笑った。
◇◇◇
『ミルに任せてよかったのか?』
「大丈夫大丈夫。あの人ならうまく宿あたりまで確保してくれるはずだ。そう、なんかこう、独特な雰囲気だから」
『あんましフォローになってない気がするが』
ミルと別れてから数時間、相棒のアイとたわいもない会話をしているうちに、あの──名前は思い出せないが、あの修理屋が訪れたという村にたどり着いた。葉野菜──ほうれん草や白菜の類だろう──が畑一面に栽培されている、のどかな村だった。修理屋が言っていた女性の特徴を入り口の村人に伝えると、しばらくしてまさにその特徴にぴったりの、一人の女性がやってきた。
「すいません、先日この村に来た──えーっと、タニシという女の知り合いなのですが」
彼女は、突然呼び出されたせいですでに怪訝な表情を、さらに曇らせた。そんなに怪しい格好をしていただろうか。いや、名前を間違えたのかもしれない。タニシではなくて、なんだったか── 記憶を掘り出そうと黙っていると、彼女は右腕のアイをみて何かに気付いたようで、一気に表情を明るくした。
「ああ、それ! エニシのお友達ですか! すいません、私ったら変な聞き間違いをしちゃって」
ああそう、そんな名前だった。後でちゃんと覚えておこう。そんなことを、毎回思っている気がする。
「そうそう、エニシさんの仲間の、ヴァナーといいます。今日はちょっと聞きたいことが──」
「あの、エニシ、元気ですか? できればまた会いたいんですけど、忙しいだろうから…… いつ暇になるとか知ってますか?」
突然の質問攻めに、やや気圧されそうになる。耳元で『恋する乙女ってやつだな』とアイの呆れ声が聞こえた。エニシの人たらしぶりは健在のようだ。こうなってしまうと、こちらの話はまともに聞いてもらえないだろう。
私は、彼女が満足するように、適当にあることないことを答えていく。おかげで、最終的にはかなりの信頼を得ることができたようだった。悪魔については村長の方が詳しいからと、私はその家へ案内された。
「ちょうど良いタイミングでした。ついこの間、またあいつが出たのです」
村長を名乗る男性は、ゆったりと語った。その表情にはわずかに恐怖の色が滲んでいるようだった。
「例の"悪魔"とやらですか」
「はい」
「エニシからも話は聞きましたが、一応私の方でも、と思いまして。悪魔について聞かせてもらっても?」
「ええ、もちろんです」
彼が語るところによると、その悪魔はいわゆるポルターガイストに似た現象を引き起こすらしい。深夜に壁や扉が打ち鳴らされ、家主の名を呼ぶ声が響く。伝承によると、悪魔が家に入ってくると、魂を抜き取られてしまうという。そこで、この村の人々はそれが起こると、扉や窓をしめきって、昼頃になるまでは外にでないとのことだった。おかげで、まだ実害を受けた者はいないらしい。
続いて私がダンデについて尋ねると、彼は明らかに表情を曇らせる。
「ダンデに行かれるのですか?」
「……はい、なにか問題が?」
「いえ。ただ、ここで聞いた悪魔の話は、ダンデの長には内密にしていただきたいと」
ダンデとこの村の関係は、あまり友好なものではないようだった。しかもその原因が、悪魔にあるという。
「簡単にいえば、あの村は、その悪魔を神として信仰しているのです。もしかすると、ダンデが我々に悪魔を送りつけているのかもしれません」
「ダンデが?なぜ?」
「私も詳しいことは…… 悪魔の記録自体はかなり古くからあります。ですから、悪魔を送りつけているというのは妄想かもしれませんが、しかし気味が悪いことには変わりません」
──やってしまった。どうしよう、あの人を先に行かせたのは間違いだったかもしれない。
頭にミルさんの顔が思い浮かぶ。あの人なら、満面の笑顔で、ダンデの神のことを"悪魔"と呼びかねない。マックスがうまく止めてくれればいいのだが、下手をすると村人を怒らせてしまうこともあり得る。
村長との話を短めに切り上げて村を出る。日は沈みかけていたが、ミルさんへの心配が勝っていた。やや運動不足の脚を気持ち早めに動かしながら、私はダンデへの道を急いだ。
◇◇◇
鼻歌を歌いながら、砂の敷き詰められた道を歩く。ダンデには特に問題なく入ることができた。村長──確か名はサラスさんといった──に挨拶をして、今は村の案内をしてくれるという人物の元に向かっている。
『どうしたのミル、すごく機嫌いいじゃん』
「いいことをしたあとは、やっぱり嬉しい気持になれるじゃないか」
ダンデに到着する直前のことを思い出す。心地よい日光を浴びながらゆっくり歩いていると、突然、か弱く今にも消えてしまいそうな高い音が、耳に入ってきた。耳をすますと、それは近くの木の根元から聞こえているようだった。見ると、背の高い雑草の隙間で孵ったばかりの鳥の雛が懸命に鳴いている。卵の殻が付近に散らばっていて、木の上からも同じような雛の鳴き声が響いていた。巣から落ちた卵が奇跡的に雑草のクッション受け止められて、それが孵ったのだろう。
──可哀想に、風で落とされてしまったのだろう。
生きることをあきらめずに必死に声を上げる姿に心を動かされ、危うく泣いてしまうところであった。ぐっと涙をこらえ、雛を片手に木をよじ登り、巣に雛を戻す。巣には、もう一匹の雛が居て、彼もまた鳴き声を上げていた。きっと、落ちてしまった兄弟を必死に励ましていたのだろう。また涙が出そうになる。
──兄弟と仲良くやるんだぞ。
心の中でそう祈って、木を降りる。感動の再会を邪魔するわけにはいかない──
……と、そういうことがあって、今の気分は非常に好調だった。出発した後は村長が怖かったらどうしようか、村が不寛容だったらどうしようかと不安だらけだったが、それも杞憂だったらしい。むしろ、サラスさんは旅人の自分を友人のように扱ってくれたほどだった。マックスも、悪い印象は受けなかったようだ。
村の地図を見ると、廃屋や何もない土地が点々とある。現在村人が居住しているエリアの外側にも、いくつか廃屋や畑があるようだった。今はそうでもないが、かつては大きな村だったのだろう。サラスさんが印を打っていた場所は、民家が少ない静かなエリアだった。
『あ、ミル!あれじゃない?』
マックスが端末の画面上に矢印を表示した先には、大きな荷車を横に備えた民家があった。早速ドアをノックして、伝えられた案内人の名を呼んでみる。
「すみません、ウシスさんのお宅でしょうか?」
中から「はい!」と声が聞こえて、ばたばた足音が聞こえる。ややあってドアが開かれ、中から青年が顔を覗かせた。その顔にはまだ若干の幼さが残っている。
「い、いらっしゃ──あっ」
彼は家から一歩足を踏み出した途端、段差につまずいて、盛大に転んでしまった。あまりに突然のことに、とっさに手を出すこともできなかった。はっとして手を伸ばすと、彼は私の手をとって立ち上がる。
「ああ、ごめんなさい……僕がウシスです。何か御用でしょうか?」
私は自分の名と、この地域に伝わる伝承を調べるためにこのダンデの村を訪れたこと、不思議なものを探していること、そして案内を頼みたいことを伝えた。
「案内、ですか」
「はい。あなたなら職業上、この村に詳しいとサラスさんが……」
「ああ、はは、そういうことですか」
彼の笑いは、少し力が抜けているようだった。それは緊張が解けたからなのか、そうでないのかはよくわからなかった。彼は「僕なんかで良ければ」と、案内の依頼を快諾してくれた。
私は彼に連れられて、市場、飲食店、広場など、この村での生活に必要な場所をいくつか歩いて回った。正直言って、どこも他の街にあるものとそこまで変わらないという印象を受けた。規模を除けば、だが。どの施設も、一つ一つが大きい。やはり、かつてはもっと多くの村人が居たのだろう。
行く先々で、村人は笑顔で語り掛けてきた。特にウシスくんは可愛がられているようで、人々は彼を呼び止めては、労ったり、食べ物を渡したりしていた。彼も、それを笑顔で受け取っていた。
「どうですか?この村は」
振り返って輝く夕日を眺めながら、彼が問うた。
「とってもいい村だと思います。どこに行ってもみんないつも笑っていて、気さくで、こっちまで自然に笑顔になっちゃうような、そんな村です」
この村の人たちが幸福そうだというのは、村長の家を訪れる途中にも感じていたことであるが、ウシスくんに案内されてから、その印象は余計に強まった。
「ウシスくんは、皆さんに愛されているんですね」
「そう、思われますか?」
「はい。皆さん、私にもそうですが、あなたに対してはとても優しいですから」
「……はい。とってもありがたくて……本当に幸せ者です、僕は」
向き直った彼の顔は逆光でよく見えない。私がその表情を見定めようと目を細める前に、彼は歩き出した。
「えっと、次が最後です。日が沈み切る前に、行きましょう」
「どこにいくんですか?」
「ちょっと遠いですが、きっとミルさんには気に入っていただけると思います」
大体見終わったと思っていたのだが、どうやら最後に行く場所があるらしい。正直歩きっぱなしで疲れが溜まっていたが、ウシスくんの口ぶりからすると、もう少し頑張る価値はありそうだった。
しばらく歩き、村の外れ辺りまできたところで、彼が前方の小屋を指さした。
「あそこです」
小屋の中は酷い匂いだった。少し奥まったところに直径1mほどの穴がいくつかあって、その中には人糞や雑草と思われる汚物が大量に廃棄されている。穴に近づくほどに増す臭いに顔をしかめる。
「な、なんでこんなところに……」
『こりゃあひどいね。嗅覚がなくてよかったよ』
あまりの酷さゆえか、マックスまで口を出してきた。
「ウシスくん、ここは一体……」
「えっと、ここは、浄化のための場所です」
「浄化……?」
「は、はい。あそこを見てください」
見ると、穴に囲まれるように台が設置されていて、なにやら四角い物体が乗せられていた。
「あの、あちらが、浄化の神の御神体です。近くにある汚物は、浄化の光で穢れを落とされ、そして肥料になっていきます。動物や人の死体も、一度ここで浄化されてから埋葬されます」
「……光ですか? なにも見えないのですが」
「はい。えっと、御神体の近くに行かなければ、見えません。臭いは気になるかもしれませんが、ぜひ近づいてみてください」
「えっ」
正直なところ行きたくない。しかし、あの浄化の神の御神体がこの村の異類である可能性を考えると、ここはいくべきなのだろう。私は勇気を振り絞って、鼻を摘みながら、前へ進んだ。
「これは!?」
瞬間、目の前が真っ白になった。いや、違う。汚物が光り輝いているのだ。まともに前を見ることも敵わない。仕方がないので目をつむる。あまりに神聖な光景に、思わず一歩後ろに下がった。
「これは、すごいですね……」
「そうですよね。各家庭で出た食べ残しや糞尿は一旦ここに集められるんです。集めるのは、僕──回収人です」
「回収人、ですか。ウシスくんが」
「そうです。村の地理に詳しいのは、そういう理由です。仕事のたびに駆けずり回りますから……家の荷車も仕事道具です」
なるほど、と合点がいった。案内人を任されるほどこの村に詳しいわけも、あの大きな荷車のわけも。彼は「僕なんかが、こんな神聖な仕事を任せてもらえるなんて光栄です」と付け足す。彼が村人から労われている理由がなんとなくわかった気がした。糞尿を集めるなんて仕事、快くできるはずはないのに、そんなことをおくびにも出さずにいるのだ。
──なんて偉い子なんだろうか。
彼を見ていると目頭が熱くなってくる。きっと色々辛いこともあるだろうに──
『ミル!ミル!』
マックスが私を呼ぶ声がする。必死そうだがどうしたのだろう。
『ミル!君の股間が光ってる!』
「え?」
おそるおそる下を向き、目を開ける。途端に、強烈な光が目を焼いた。私の股間が浄化されている。
「汚物……」
今日はいつもより入念に体を洗おうと思った。
◇◇◇
深夜、ドンドンと、何かが叩かれる音で飛び起きた。それは玄関の方から響いている。私は案内をしてもらった流れで、ウシスくんの家に泊めてもらっていた。
「マックス、マックス!」
小声で呼びかけると、相棒は面倒そうにスリープ状態を解除した。「どうしたの、トイレ?」
「いや違うんだ。何か音が……」
「……本当だ。悪魔に関係あるのかな」
そういえば、悪魔のことをまだ聞いていなかったな、と思い出す。マックスが言うには、悪魔というのは昔の伝承に登場する翼の生えた存在らしい。鳥や、蝶のようなものだろうか。しかし、今の時間は深夜。どうしても、色々な恐ろしいものを想像してしまう。悪魔とは全く関係ない、どこかで聞いた怪談に登場する、廊下から伸びる手、浮かぶ生首──
私は布団を被ってやり過ごすことにした。音は徐々に強くなっていく。早く止んでくれ、これは悪い夢なんだ。ああ、何か声が聴こえる。これはきっと呪いの声だ。幽霊たちが私を呪い殺そうとしているのかもしれない──
「──ミル!」
「んひい!」
布団から飛び出して、部屋の隅で構えを取る。なぜ私の名前を知っているんだ。私を襲おうとしているのか。許して、許してほしい……
「来ないでください、来ないでください……」
目を瞑って必死に唱える。耳元で何かが囁いているが、聞いてはいけない。聞いてはいけない。助けて、助けて……
「ミル!」
「ひえぇ!」
「いや僕、マックスだから!」
「え?」
耳元で囁いていたのはマックスだった。呆れたようなため息が聞こえる。
「ビビリすぎだよ、探訪者でしょ」
「異類は探すけど、お化けは無理だぁ」
「お化けじゃないよ、ほらよく聞いて」
ミル!と、玄関の方からまた声が聞こえた。恐怖に耐えて耳を澄ますと、確かにその声には聞き覚えがあった。
「ああ……なんだ、ヴァナーくんか……」
ミルはその場にへたり込んだ。マックスが「早く開けてあげなよ」と急かしたが、しばらくの間立てないままだった。
◇◇◇
扉を開けたのは、想像していたガタイの良い男──ミルさんではなく、幼げな青年だった。暗闇でよくわからなかったが、その表情はどこか残念そうだった。その瞬間、状況を理解して、扉を強く叩いたことを後悔した。村の見張りの話を聞いてミルが泊まっているという家屋に来たはいいが、てっきり空き家を借りているのだとばかり考えて、まさか住人がいる家だとは思わなかった。
深夜に起こしてしまったにも拘らず、ミルの仲間を名乗ると、青年は快く家に入れてくれた。それだけでなく彼──ウシスは、夕飯の残りのサツマイモ入りシチューを温めて振舞ってくれた。ミルさんは、部屋の隅でへたり込んでいた。どうやら、うまく村人を刺激せずに済んだらしい。
「──不浄なものを照らす物体、それがこの集村の異類でした。……はぁ」
寝具の用意をするといってウシスが一度席を外したのを見計らって、ミルさんはこの村で見たもの、聞いたこと、異類について、今日一日の成果をぽつりぽつりと話してくれた。彼もシチューをもらっていたが、外から来たヴァナーの冷え切った体を温めてくれたそのシチューですら、彼の心を癒せなかったようだ。
『まあまあ、ミル、たいていの人間はそこが光るから。むしろ光らない人なんていないと思うよ』
『そりゃそうだ。俺は全身が光ったやつを知ってるよ。それに比べりゃましだ』
「もう少しこう、話を選べないか? アイ」
「はぁ……」
皆で励ますが、彼はシチューを飲み込んでは深いため息を繰り返している。やがて、ウシスが布団をもって戻ってきたが、ミルさんは落ち込んだままだった。
「はぁぁ……」
ウシスは心配そうに彼の顔を覗き込む。
「ご、ごめんなさい。お口に合いませんでしたよね……」
頭を下げるウシスに、ミルさんもハッとしたようだった。
「そんなことはないですよ! とっても美味しいですから!」
本当ですか、というウシスの頭を、ミルさんは謝りながらもワシャワシャと撫でる。完全に落胆からは回復したようだった。
明日朝が早いので、とウシスが寝室に戻ったあと、ミルさんから少し離れたところに布団を敷いて、横になる。その瞬間、旅の疲れがどっとあふれ出した。
「ウシスくん、とっても立派ですよね。本当にいい子なんですよ」
ミルさんの言葉へ、働かない脳でなんとか相槌を打つ。朦朧とする意識の中、先ほどのミルさんがウシスを撫でる光景が思い出された。何か、何かが不自然な気がした。
──まあ、いいか。
ミルさんが無事である以上もう心配事はないだろう。不安を隅に追いやって、沈みゆく意識に身を任せた。遠くに、カッコウの鳴き声が響いていた。
◇◇◇
「あまり面白いものではありませんが……」
そう申し訳なさそうに言うウシスくんの後に続いて、村を巡る。昨晩、彼の仕事を見学させてもらえるようにお願いしていたのだ。家を出る直前、ヴァナーくんからは"悪魔"については触れないように、とだけ伝えられていた。どうやら不都合があるらしいが、彼はまだ眠そうだったので、詳しくは帰ってから尋ねようと考えていた。
ウシスくんは家の裏手に置かれた汚物を、てきぱきと回収していく。この仕事を続けてきた彼の腕には美しい筋肉がついていたが、しかしその動きは、どこか弱々しいようにも見えた。
回収の終点は、あの小屋だった。彼は運搬してきた汚物を、手慣れたスコップで穴に放り込んでいく。
「この仕事を始めて、どれくらい経つんですか?」
空になった荷車を洗うために川へ向かう途中、私は尋ねた。あたりにはサツマイモが植えられている。この村の主食らしかった。彼は少し考えるようなそぶりを見せてから答える。
「すみません、あんまりちゃんとは、覚えられてないです。この村に来た時から、この仕事を任せていただいているので」
「この村に来た時から、ですか?」
「は、はい。あの、僕はこの村で生まれたわけではないので……」
話を聞くと、彼は捨て子だという。物心がついたころに、この村に捨てられたらしい。親がいないまま、ずっとこの仕事をして生活をしてきたのだ。
「うう……」
彼の気苦労を考えると、涙をこらえきれなくなってしまった。抑えようとするも、喉の隙間を通るように、声が漏れてしまう。
「あの、ごめんなさい。僕、何か酷いことを……」
「いや、違うんですよ、ただ……」
腕で涙を拭って、ガバッとウシスくんを抱きしめる。彼は驚いたように小さく声を出したが、抵抗はしなかった。
「辛かったですよね。本当に偉いですよ。私で良ければ、親なり兄なりと思ってくれて構わないですから、困ったことがあれば、何でも言ってください……」
涙は依然止まらない。私は彼を一生懸命撫でて、撫でて、撫で続けた。それが少しでも、彼の孤独を癒す手伝いになればと──
◇◇◇
ミルさんを見送ったあと、私は村長のもとへ向かった。悪魔について、彼なら何か知っているだろう。
「アイ、今回の異類、見当は付いた?」
『いや、全然。ポルターガイストだけじゃ情報が足りなすぎる。それに、新しい、俺が知らない異類かもしれない』
「家を訪れる悪い存在って括りなら、何かわからないかな」
『旧時代の伝承でいいなら、子供をさらうブギーマン、死にゆくものを迎えにくる死神……そんなのがあるな。"あの世への迎え"って性質のものが多い』
「なるほど……」
情報の整理をしながら進んでいると、寝る直前に感じた違和感がふと思い浮かんだ。
「あのウシスって子、どう思う?」
『よく知らないが、良い子ってやつなんじゃないか?』
「いや、多分そこに間違いはないけども。なんだか、ちょっと怖くて」
『ミルの怖がりがうつったのかね』
そんなことはないけど──と言おうとしたところで、ちょうど市場の近くを通りかかった。ちょうどいい、小腹を満たすものを探しつつ、ウシスについて尋ねてみよう──
「ウシスくんかい? すごい頑張り屋さんだよ。親がいないのにねえ」
「なにかご褒美でもあげたいくらいだ」
「捨て子なのに村のために頑張って、偉いよ本当」
村人たちは口々に彼を褒めた。彼の働きぶりは村でも一目置かれているらしい。しかし、違和感は消え去らない。むしろそれは膨らんできている。なにかが歪だ。
結局市場に置いてある食材はイモ類など、熱を加えないととても食べられないものばかりで、小腹を満たすことはできなかった。しかし、空腹はもはやあまり気にならなかった。違和感の正体を考えながら歩いていると、あっという間に目的地へ到着する。気を取り直して、村長のサラスさんに挨拶と軽い話を交わし、本題に移る。
「この村の神について話をお聞きしたいのですが」
「神、というと浄化の神のことでしょうか?」
浄化の神──それはミルさんが言っていた異類のことだろう。マックスやアイによると、あれの本質は"検閲"であって、今回目的の悪魔ではないようだった。
「浄化の神、以外の神です」
「浄化の神以外、ですか……」
サラスさんは顎に手をやってしばらく悩んだあと、閃いたように、「ああ」と口を開いた。
「多分、正確には神ではありませんが、導きの使いのことですね。虫の呪いの根源のもとを訪れ、その名を呼ぶことで、我々を浄化へと導いてくださる存在です」
導きの使い、虫の呪い…… わからない単語が一気に現れて、理解が追いつかない。
「ああ申し訳ない。これだけではわかりませんね。我々の村の言い伝えをお話ししましょう」
彼はやや早口に語り出す。ダンデの村は、周囲の村からの攻撃に絶えずさらされてきたという。最初の大きな攻撃は、畑への呪いだった。これによって畑は痩せ衰え、村の規模は大きく縮小したという。
それをこの村は、浄化の神の力でなんとか乗り切った。人々の排泄物を浄化し肥料とすることで、畑を蘇らせたのだという。
しかしそれで攻撃は終わらなかった。次は虫の呪いが村を襲ったという。体の内側に虫が湧き、人を殺すのだ。それを終わらせたのが、導きの使いだという。
「導きの使いは、浄化の神に使えて、我々に虫の呪いの根源を知らせます。我々はそれを破壊し、排除することで、虫の呪いを克服してきました」
しかし、虫の呪いの根源は現れ続けるのです、と彼は続ける。
「今も稀に、虫の呪いの犠牲になる者がいます。最近も、1人亡くなりました。決して許せることではありません」
彼は力強く言い切った。村人を守るのだという意志が、そこにあるようだった。
「その根源というのは、どんなものなのですか?」
私の問いに、サラスさんは答えた。
「それは村人のフリをしています」
──しかし、導きの使いがいる限り、我々は騙されませんよ。
そう続けた彼の表情は、自信に溢れる笑顔だった。
◇◇◇
夕暮れ、家に戻ると、すでにヴァナーくんが情報収集を終えて戻ってきていた。彼はこの村の伝承について説明する。
「なるほど……とすると、私たちが悪魔と呼んでいた存在は、実は神の使いだった、ということですね」
「まあ、この村ではそう考えられているということですね。伝承もどこまで正しいかわかりませんが……エニシが訪れた村の村長は、むしろ自分たちのことを被害者だと思っているようでしたし」
「あれ、待ってください。ではなぜ、悪魔の話題を出してはいけないのですか?」
今の話と、この村で悪魔の話を出してはいけないということがうまくつながってこなかった。村にとって良い者なら、別に話題に出してもいいのではないだろうか?
「そうか…… マックスくん、ミルさんに悪魔の説明、どうやってしたんですか?」
『あー、うん。ごめん、責任取るよ』
マックスは謝ってから語りだした。私は言葉を失った。悪魔というのは、鳥や蝶ではなく、恐ろしいモンスターだというではないか。私は今、そんなものがいる村にいるのか……日はもうほぼ沈んでしまっている。夜、闇の中でその悪魔という存在が、私を狙って蠢いているのかもしれない。今にも足が震えだしそうな気持だった。
『あの、でも帰るとか言い出さないでね……』
正直、明日には帰ろうと言いたいところだった。しかし、ふとウシスくんの顔が浮かんだ。そうだ、まだもう少し、彼と一緒にいてあげなければ。彼を抱きしめたときの、あの頼りない細身の体。できるだけ、すこしでも長い間、彼の寂しさを埋めてあげたかった。
「いや、大丈夫だ。任せられた以上、全うしてみせるよ」
今度はマックスの方が言葉を失っているようだった。私の言葉が、よほど予想外だったらしい。それはそれで失礼ではないだろうか。
それからまたいくつかの報告があったが、私の方では異類関連の進展がなかったので、少々申し訳ない気持ちになる。情報交換を終えた後は、ウシスくんがつくってくれた美味しい夕食を頬張った後、明日の調査に備えて早く床に就くことにした。目を閉じるとすぐに、睡魔が襲ってきた──
◇◇◇
──異変が起きたのは眠りに落ちてから数時間後だった。最初はコン、コン、とどこかを叩いてる音がした。すぐさま、その音は大きくなった。何度も何度も、素早く叩く音に変わった。
「またヴァナーくんですか……」
「いえ、私はここにいますが」
「え」
隣をみると、ヴァナーくんがすでに立ち上がって周囲を見回していた。どこか遠くで、と思っていた音の発生源は近い。玄関の方向だ。
また布団の中に退避しようとしたところを、ヴァナーくんに半ば無理やり立たされて、玄関へと震える足を向かわせる。扉がたわむほど強く、ドンドンと叩かれていた。それは、昨日のヴァナーくんのノックの比ではない。
「ど、どうしましょう」
「……開けないほうがいいでしょうね。仮に他の村の伝承が正しいとしたら、待っているのは死です」
──死?
細かかった足の震えがどんどん大きくなる。ゆっくり後ろに下がろうとするのを、ヴァナーくんにガッと押さえられる。
「とはいえ、見逃すわけにはいきません。このまま進展を見守りましょう」
そのとき、後ろから、カタッと音がした。悲鳴を何とか堪えて振り向くと、そこにはウシスくんが立っていた。暗闇でその表情はよくわからないが、何かをつぶやいているようだった。
そうこうしているうちに、音はさらに大きくなっていく。叫び声と、泣き声も混ざり始める。ただその中で、唯一聞き取れる単語があった。
「ウシス」
この家の家主の名を、それは叫んでいた。ヴァナーくんの話を思い出す。その叫ばれた名が、虫の呪いの根源であると。それは、導きであると。そして呼ばれたものは破壊──殺されると。後ろを振り返ると、ウシスくんがへたり込んでいる。彼に一体どんな言葉をかけてあげればいいのだろうか。まず、この脅威に対応するために、今何をすれば──
ドアを叩いていた音は、次第に壁からも聞こえていた。私は、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。ランプが手から滑り落ちて、火が消えた。騒音はしばらくの間、止むことはなかった。
しばらくして音が鳴りやんだ時、アイとマックスは揃って同じことを口にした。
『ふざけるな、何が悪魔だ』
『こんなの、導きの使いも何でもないよ……こいつは』
『ただの訪問者だ』
◇◇◇
私が我に返って扉を開けると、異臭が家に流れ込んできた。それこそが、この異類が神の使いでも悪魔でもないことの証明だった。それはただ扉を叩き、家を鳴らし、最後には異臭を残していく──そこに導きの意味合いなどはない。
ヴァナーくんはアイとなにかを話ながら、考え込んでいるようだった。私は座り込んだウシスくんに駆け寄る。彼はうわごとのように何かを呟いていたが、肩を揺すると正気に戻ったようだった。
「あ、あ、ご、ごめんなさい。あの……はい。ご存知、なんですね。虫の呪いの話」
暗闇で彼の表情は伺えない。しかし、その声は何かの感情を押し殺したように、平坦なものに聞こえた。私は、間髪入れずに言った。
「逃げましょう」
彼は呆気に取られたように、何も言わない。今ならまだ誰も「導きの使い」が来たことに気付いていないだろう。ただ、玄関の臭いだけは消すことができない。おそらく、朝が来れば誰かがそれに気づいてしまうだろう。私は彼の手を握って、外へ連れ出そうと──
「やめてください!」
その手は強く振りほどかれた。そう、強く。彼が出すには、意外なほど大きな力。強い拒絶だった。理解できずに立ち止まっている私の後ろから、ヴァナーくんがため息を吐くのが聞こえる。
「あまり異類との共存関係への干渉は──」
「こんな理不尽なこと、見過ごすことはできないでしょう!」
どんな歪なものであれ、村と異類にはそれが共存する"形"がある。それを崩すことが、一体何を引き起こすかもしれないのかは、理解しているつもりだ。それでも、こんなことを黙ってみていることはできなかった。
「……わかりました。それが、ミルさんが信じる行動なら。あなたにとって正しい行動なら。お手伝いしましょう」
続けて、私とウシスくんのどちらにも聞こえるように、彼は語りだす。
「まず、あれは導きの使いでもなんでもない、ということです。信じてもらえないと思いますから、この村の伝承について、私なりの考えを説明しましょう──」
彼が言うには、村の伝承にある"虫の呪い"は呪いでも何でもないという。人糞を使った肥料は寄生虫の蔓延をもたらす。おそらくそれが虫の呪いの正体だろうと。
「でも、それならばなぜ虫の呪いは収まったのですか? まさか浄化の神の影響が?」
「いや、あれに本当は浄化の力なんてないんです。自分たちの汚物に頼るしかなくなった村人が、それでも自分達の汚物をそのまま利用しているとは思いたくなくて、こんな神話がいつしか流行り出したんでしょうね」
呪いが収まった理由は土壌の変化です。と彼は言った。
「おそらくこの村は、他の地域の村のようにもともと葉野菜を作っていた──そしてその葉野菜を生食することで、寄生虫の卵を摂取してしまっていたのでしょう」
しかし、人糞を使うと、栄養はあるものの、土壌が作物にあまり適さないものになるらしい。そこで栽培できるのはサツマイモをはじめとするイモ類──加熱が必要な作物だ。食事の際に加熱が常になされるようになり、寄生虫の卵は死滅するようになった──これが呪いの消滅の正体だという。第一の呪いも、おおかた連作で土地がやせただけだろう、と彼は付け加えた。
「では、なぜ呪い消滅の原因が導き手だと──」
「その方がわかりやすいからですよ。寄生虫や加熱の知識は、私もアイに教えてもらった旧時代の知識です。そんなものを想定するより、神の使いの方がよほど納得できます。始まりとしては、まあ、たまたまアレの訪問を受けた人が死んだ。その時期と、"呪い"の減少の時期が重なったんでしょう」
彼が語り終えたのを確認して、私はウシスくんの肩を掴む。
「……説明は聞いていましたよね。全部、作り話なんです。だから……」
「どうして……」
「え?」
彼の体の震えが手を通して伝わってくる。ヴァナーくんがランプを取りに行ったようだが、それが怖かった。その震えは、泣いているのを我慢している風ではなかったから。それはむしろ──
「どうして僕を見下すんですか!」
急いで戻ってきたヴァナーくんが持ってきたランプが、彼の表情を照らす。目が吊り上がっていて、幾年も積み重ねてきた歪みを表すように、左右不均等で──
「やっと、やっと僕は、こんな無能な僕は、皆さんと対等になれるんですよ。それなのに全部嘘なんて、信じません。邪魔を、しないでください」
「なにを……」
「誰もが僕を見下しているんです。僕が無能で捨て子だから」
「でも、みんな君に優しく……」
「ええ! その通りです。みんなが当たり前にやっている村への貢献でさえ褒められます。なぜでしょうか? そう、私が捨てられた馬鹿で役に立たない人間だからです。村の一員ではない、だから、当たり前のことをやるだけですごいんですよ!」
──そんなの優しさじゃないですよ。見たい僕を見て、哀れさを押し付けて、それを救っている自分に満足しているだけだ。
洪水のように吐きだされる言葉に何か言おうと口を開くが、私が声を出すことは敵わない。
「否定するんですか! そうですね。あなたも私を見下していますから! 何が親だ、何が兄だ……」
激しい口調から一転、急に彼の表情は冷めていって、あの頼りない彼が現れる。
「あ……いえ、当然ですよね。酷いことを、ご、ごめんなさい。そうですよね。そう、僕はあなたより、哀れで劣った存在なんですから……」
彼の声色は目まぐるしく変わる。それは怒りであり、嘆きであり、悲しみであり、自嘲であり、諦観であり── また、声が怒気を孕んだ。
「ああ、どうせ何かして"あげたい"と思っていますよね。その言葉、自分より劣った存在にしか使いませんよ」
何も、言えなかった。何を言って"あげれば"落ち着いてもらえるかと、そう考えていたから。
「でも、僕は呪いの根源だったんです。ああ、劣っただけの存在じゃなかった。ちゃんと力のある存在だった……」
彼は静かに、噛みしめるように笑い出した。何かから解放されるように、心底愉快そうに。
「この前呪いで死人が出たのも、ああ、僕の力だったんですね。はは、これで僕が死んだら、皆さん怖がってくれるでしょうね。怖がるっていうのは、自分より強力なものに抱く感情ですよ」
彼は動けない私を置いて、そして何も言わないヴァナーくんの横を通り過ぎて、家を出ていった。その行先は自明だった。村長のところに行って、いち早くでも自分の"存在の大きさ"を知らしめようというのだろう。
ああ、私は何を見ていたんだろうか。
君が村人に見せた笑顔は? 私に作ってくれたシチューの暖かさは?
私が見たいものだけをみていたとしたら。
私の言葉すべてが、君を傷つけていたとしたら。
君は、君は私の腕のなかで、何を思っていたんだい?
私は、君に一体なにを──
◇◇◇
空き家ではっと目を覚ます。昨晩の事件の後、村長がすぐに家を訪ねてきて、私を空き家に案内した。曰く、「呪いの根源の処理はお任せください」と。倒れてしまったミルさんもここに確かに運んできたはずだが、隣に寝ているはずの彼は消えていた。
私は走った。行先は浄化の小屋。
「まさかあの子が呪いの根源だったなんて」
「そもそも捨て子なんか信頼すべきじゃなかったんだ」
「ああ恐ろしい……」
村人の喧騒の隙間を抜けて、全力で駆けていく。小屋に飛び込んで、肥溜めの穴がある奥を見た。
台に横たえられて動かなくなったウシス。"浄化の神の御神体"。そして、ミルさん。
足音に気付いたのか、彼はゆっくりとこちら振り返る。もはや涙すら流れていなかった。一晩でげっそりと削げてしまった頬。青白い肌。
「ああ、ヴァナーくん。どうしてでしょうね。見えないんです」
彼はウシスの遺体の方を見遣る。きっと彼には、それが光に塗りつぶされて見えているだろう。一歩彼の方へ進む。早く連れ戻さないと──
「彼は、彼は何も悪くないのに。汚いのは私なのに。ああ……」
早足になる。まだ、彼は間に合う。
「私は、私は、見たいものだけみているから、自分だけ見ているから──こんなにしないと、見えなくならないんです」
彼は腕を突き出す。何度も引っ掻いたように抉れた傷痕から、赤黒い血が滴っていた。"御神体"の範囲に入ったせいで、それがまぶしく輝く。目を細めながら、私は彼を小屋から引っ張り出して、すぐに村を出た。
帰り道、彼は気丈に振舞っていたが、その目には、ここにくる前にあった光は宿っていなかった。
煩く甲高い音が響いた。見上げると、口の赤い鳥の雛が巣の外にまで顔を突き出して喚いている。カッコウの雛だ。別種の鳥の巣に産み付けられ、本来の雛をすべて殺してしまう。彼の心に産みつけられたこの暗がりは、いつか彼が本来信じていたことを、すべて壊してしまうのだろうか。
木の下で一匹、小さな雛が首をはねられて死んでいた。
集村 - 57
友好度 - 中
異類概要 - 不浄なものを照らす旧時代の記録用品。この村では汚物やゴミを浄化する神の御神体として扱われていた。もう一つ、夜間に訪れる訪問者。ドアを叩き、家主の名を叫び続ける。特徴の一致から周辺の村にも出現しているらしい。出現箇所はこの地域に限られているようだ。他の村では悪魔と考えられている一方、ダンデでは導きの使いとして神聖視されていた。
コメント - 御神体も、使いも、結局人々が見たいように見た結果だった──あの青年も。
探索担当 - ミル・トラジャ、ヴァナー
報告担当 - ヴァナー