集村:58 - 晨記"翼ある旅人"
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暗く静かな崖の裏で、一人の男が死を迎えようとしていた。重い雲に遮られ、月の光は届かない。血錆の匂いを重々しく孕んだ闇だけが、彼を包んでいる。自分で手当てをしてはいるが、朝を迎えられそうもない事は明らかであった。男は一声呻き、天へと腕を伸ばす。何かに縋るかのように。天にまします彼らが神に、届かぬ祈りを捧げるように。

「おい、無理に動くな。傷が開くぞ」

諫めるような声が、倒れ伏した男の手元から発された。空に向かって伸ばされた腕、その手首に巻きつけられた腕時計型の端末が喋っているのだ。端末に収まっているのは『テッド』という人工知能、彼の相棒である。しかしそれに答える声はない。途切れ途切れの喘鳴があるだけだ。

「──おい、ファビアン!」

大きく視界が揺れ、テッドは声を上げる。天に伸ばされていた腕が血だまりに落ちたのだ。跳ねた血液がカメラに付着して、視界の半分を赤黒く塗潰す。短い呻き声、そして溜息のように吐き出される最期の息。あれほど高かった体温も、手首の脈拍も消えていく。残ったのは痛いほどの静寂。聞こえる音と言えば、はるか遠くでフクロウが鳴き交わしている声くらいだ。

その沈黙の意味を容易く理解してしまえる程度には、その端末は多くの記憶と記録を抱え込んでいた。

「……おやすみ、ファビアン」

その声と、複数回の明滅を最後の手向けとして、端末もまた主人と同じ暗闇へと沈んでいった。

◇◇◇

定命の死などには当然何の関係もなく、夜は更けるし朝は来る。差し込む朝日に照らされる骸に関心を示したのは、同じく死にゆく運命を背負った鴉たちであった。

鳥たちはぎゃあぎゃあと鳴き交わしながら屍肉の位置を示し、競い合ってそれを貪る。端末は沈黙を保ち、その様を観測していた。いっそ自身の電源を切ろうかとも思ったが、そうする訳にもいかない事情がある。

主人の肉が食い散らかされるのをどれほど眺めただろうか。不意に、鳥たちが一斉に飛び立った。

「──」

烏の鳴き声と羽音に紛れて、静かな男の声が聞こえた。転がった端末の狭い視野には何も映っていないが、人間が訪れて鳥たちを追い払ったらしい。静けさを取り戻した空間に、再び声が響く。

「──」

古いエジプトの死者に向ける言葉だ、とデータベースがはじき出した。そうか、この人物は死者を悼み、友を鳥の餌という末路から救ってくれたのか。テッドはそのように理解した。そう考えたからこそ、続いて人間の手が亡骸をひっくり返して腹の傷に突っ込まれようとするのが見えた時にはフリーズしそうになった。

「何をしている⁉」

どうにかエジプト語の語彙を引っ張りだして問いかける。手はすぐさま引っ込んだ。声の出所に気づいたのだろう、人間の足がこちらに近づき、死者の腕にはまった端末に手が伸ばされる。

テッドの端末を正面から覗き込んだ来訪者には、人間の頭がなかった。人の頭があるべき場所に、嘴の長い黒い鳥の頭が生えていて、ぎょろりとした眼が自分を見ている。

「◎※$□#&△?……」

ノイズ音が漏れる。今度こそ、処理落ちするかと思った。

遠き昔の記憶と記録を抱える人工知能。

さらに遠き昔から生き続ける知恵と書物の神。

定命の理を外れた彼らが出会ったのは、死すべき運命を持つ人の子の骸の目の前でのことだった。

◇◇◇

「……そうか。では、あれは防腐として臓物を抜こうとしただけである、と」
「ええ。野晒しにするよりは故郷の弔い方をしたほうがいいかと。同行者がいると判っていれば、いきなりああいう真似はしなかったのですが。驚かせて申し訳ない」
「いや、仕方ない。彼を悼んでくれたこと、再起動してくれたこと。感謝せねばなるまい」

数分後。鳥頭の人物は丁重に非礼を詫びた。悪意や遺体を破壊する趣味があるわけではなかったらしい。願わくばそのまま埋めてやってほしいと言えば、快くテッドの代わりに穴を掘ってくれた。穴を掘りながら彼は「何があったのか聞いても構いませんか」と問いかけた。テッドは少し考え、ゆっくりと語り始める。

彼は異常と人の共存の在り方を探る"同盟"に属し、調査のためにほうぼうを旅している"探訪者"であったこと。自身はかつて戦禍の前に人類が残した過去の記録の参照、言語の翻訳などを手伝いながら彼と共に旅をしていたこと。そして旅の途中に野犬の群れに襲われ、手傷を負いながらもどうにか逃げたこと。しかし傷口から病を発し、その先で力尽きたこと。

「……そして今に至る、という訳だ」

テッドはそうして話を締めくくった。その間、人物は一度「翻訳か」と呟いた以外は何も口を挟まなかった。少しばかりの沈黙ののち、柔らかな声で「災難でしたね」と彼は言った。テッドは「ああ」とだけ答え、そして人物はまた穴を掘り続けた。どうにか人一人を埋められそうな浅い穴が掘り上がったのは昼下がりのことであった。

「共に埋めるべきもの、埋めるべきでないものは?」
「特には。彼の荷物で必要なものがあれば持っていってもらって構わないし、そうでなければそのまま置いておいてくれたらいい」
「では、あなたは?」

静かな問いに、ノイズが走る。寿命を持たない長い活動のなかで、人と同じ永い眠りにつきたいと考えた回数は五桁を下らない。

でも、それはファビアンの望みではないだろう。彼が最期に何を願ったか、何を祈ったかを知るすべはない。でも、共に眠ることを望んだのなら、彼は腕を伸ばしはしなかっただろう。

「共に土の下で眠る訳にはいかないのだろうな。彼は最期に私を陽光の届くところに置いたから。……ここから連れ出してもらえるなら幸いだ。彼もそのほうがいいだろう」

その台詞に何を思ったか、目の前の異類は嘴を開き、何も言うことなく閉ざした。テッドは言葉を続ける。異類に向かって同行を申し出るというのは奇妙な気分だが、ここにいるよりは他の探訪者と会う機会もあるだろう。そうなったら、彼が最後に得た情報くらいは渡せる。その後どうなるかまではわからないが、このまま眠るよりはいくばくか有意義に思えた。

「……それに、あなたには彼を野鳥の餌から取り戻してくれた恩もある。あなたがよければ、旅の手伝いをさせてほしい。これでもある程度知識は有しているし、翻訳の性能はそれなりだと自認している……のだが」

用意していた言葉はしりすぼみに終わった。目の前の異類が肩を震わせてカチカチと嘴を鳴らし始めたからだ。笑っているのではないか、と気づくには少しばかり時間を要した。ひとしきり肩を震わせてから、(おそらく)彼は嘴を開く。

「いや、失礼しました。……この私に通訳を申し出てくれる存在が現れようとは思っていなかったものですから」

テッドは絶句した。彼が言った内容に驚いたのではない。その言葉がこの地方で話されている言語そのものだったからだ。発音も完璧であった。漏れたノイズ音に苦笑しながら、彼は続ける。

「挨拶が遅くなりましたね。私はトート、知恵と書記の神。翻訳については、かなりの得意分野なんですよ」

トート神。その名を検索してみれば、簡単にそれらしい情報が出てきた。そうか、翻訳という単語に反応したのはそれを必要としていたからではなく、自らの担当分野であったからか。

「Ttt社……トリスメギストス・トランスレーション&トランスポーテーション」

見つかった名前を読み上げる。テッドにとってはそれだけのことだったが、溜息と共に帰ってきた声は、どこまでももの哀しく、深い感慨と郷愁に満ち溢れていた。

「ああ……その名を覚えていた存在が、まだこの地に残っていたのですね」

Ttt社。人間の経済活動の様式を取り入れながら、神々との商売を行う神々の結社。遠い昔、前時代の文明と共に壊滅した異類の集団。その生き残りの掌の上に、自分はいる。

「そういう訳なのでね、今は無職で暇を持て余しているんですよ。もしも本拠地なり何なり、"同盟"の方々のところまで戻りたいならお連れしますが」
「……そうしていただけるのなら非常にありがたいが」
「それはよかった。エデタキュ……じゃなかった、別にそこまで急ぎではないんですよね?」
「急ぎではないが……エデタキュ?」

ΗΔΗエーデーΗΔΗエーデーΤΑΧΥタキュΤΑΧΥタキュ。古代のギリシャ語で「なるべく早く」という意味の決まり文句である、とどこか懐かしそうに彼は説明した。

「失礼、あれはギリシャ語でした。急ぎでないなら出発は夜でも構いませんか?」
「夜? 鳥は夜目がきかないとどこかで聞いたが」

トートはまた例の嘴を鳴らす笑い方をして、「月なき昼の暗闇のほうがよほど先が見えなくて怖ろしいですよ」と答えた。そういえば、夜間の地上を守護する神でもあったか。

そういえば、彼がやって来て骸に群がる鳥を追い払ったのは、月が沈みきったまだ暗い早朝のことだった。この異類はわざわざ最も暗い闇に足を踏み入れたのだ。一体何のためにだろう。そもそも、何故彼はあんなところにいたのだろう。

疑問に思ったが、トートは既に埋葬を終えると座りこみ、自らの衣服に嘴を突っ込んで目を閉じてしまっていた。出発までの仮眠ということか。

テッドは黙って夜を待つことにした。どうせお互い寿命のない身だ、急ぐこともあるまい。

◇◇◇

欠けたところのない月が、雨上がりの地表を優しく輝かせていた。穏やかな風が、どこか遠くで鳴き交わす虫や梟の声を運んでくる。昨日あれほど分厚く垂れこめていた雲は嘘のように消え去っていた。テッドはそっとクロトキの頭部をヒトの手首から見上げる。どこを見ているか判りづらい平たい瞳は、どうやら前ではなく頭上を旋回する鳥の影を追っているらしかった。少しだけ、杖に籠る手に力が籠っていた。

共に歩いてわかったことが二つ。一つめ、この神は鳥類を見かけると少しばかり緊張する。二つめ、この地帯の夜は案外鳥が飛び交っている。

「そういえば、あなたは飛行はしないのか? 頭は鳥のようだが」
「クロトキの化身なのでね、大昔はエジプトの空を翔けたこともありましたが。今はもう、感覚を忘れてしまいました。信仰を失って久しい今は、地上にはりついて歩くのが精一杯ですよ」
「そうか。……では、何故目的地もないのに歩き続けている? あの時鳥の群れの中に踏み込んできた?」

頭上の鳥が急下降するのを見届けてから、トートは質問の意図が判らない、というように首を傾げた。

「あなたの目的がわからないんだ。何かを探していたのか? それとも、旅人であることに理由が?」
「ふむ。あなた達がここでどのような"異類"を探していたのか。それと交換しましょう」

何でもない雑談の延長、そんな調子で投げかけられた台詞。どこまでも穏やかな声に、表情を読ませない瞳。そして、指先には向ける先のない力。この神は、おそらく表情と声色を取り繕うことには慣れているのだろう。そもそも鳥の表情を読めるものは稀だ。ただ、繕う相手が自分の手首に巻き付いているということがどういう事かまでは真に理解していないのだろう。皮膚の下の鼓動を読むことにテッドたちは慣れている。

どこまで語るべきか、少しばかり考える。ファビアンたちがこの一帯を探索していたのは、有力な行商人たちの拠点を調べに来たからだ。その集村を拠点とする有力な商人の一族はその技術は他の商人たちとは一線を画した的確な長距離移動の術を確立し、確かな輸送網を築き上げている。「星を読むのに優れている」と彼らは語っているが、何らかの異類を利用している可能性が高いと"同盟"は踏んでいる。

そして彼らは調査に赴き、テッドはこうして商人の片割れを持つ神の手のうちにある。もしもこの異類がその集村に関係しているとしたら、どこまで明かしていいものだろうか。テッドは短く告げた。

「行商人の集う村がここにある。それが当座の目的地だった。……ところで」

少し速い鼓動。抜けない指先の力。表情など、読むまでもない。

「かつてのTtt社の社長……ヘルメース神は、旅と商売の神でもあったな?」

伝令神にして商売の神。それが集村の背後にあるものだとしたら、この神の立ち位置はどこに在るのか。

「そうでしたね。担当する物事の多い神ですから。泥棒と詐欺、嘘と策略まで担当しているくらいですよ」

トートは苦笑交じりに応えた。鼓動の速さはさして変わらない。核心には至っていないか、特に探られても痛くない腹か。少し質問を変える。まだ雑談の範疇だ。

「つくづく治安の悪い神だな。……なあ、どうしてその神と起業したんだ?」
「最初は冗談だと思って本気にしていなかったんですよ。私が頷くまで帰りそうもなかったことだし」
「そんな理由で? 策略の神と?」
「まあ、親友でもあったので。あれは悪意をもって私を傷つけたりはしませんでしたよ、最後まで」

わずかばかりの寂寞。遠くにやられた視線。その先でまた鳥が急上昇してゆくが、それを気に留める様子もない。気づけばテッドは問いかけていた。それは警戒とは別の理由だった。

「何があったのか聞いても構わないか」
「戦禍」

一言。そして、少ししてからトートは語り始めた。

地上が戦禍に包まれ、人が滅びゆく中で、神々はほぼその力を失っていた。信仰はおろか、人そのものが消えつつあったのだ。神々の力は消え、もはや彼らは死なないだけの人間とでも言うべき状態になった。神々が散り散りになりゆくなかで、同一視されてもいた二柱はずっと身を寄せ合って隠れ潜んでいたのだという。

そして、彼らのいたところにも戦乱と災禍が訪れ、全てが異常な混沌の中に飲まれた。実際のところ何があったのかは、今となってもわからない。ただ、その時は唐突に訪れた。青空がひび割れて降り注ぎ、吹きすさぶ爆風の中で、トートは急に横から突き飛ばされたのだ。振り返れば、自分がいたところにはヘルメースがいて、そして全長30キュビト(およそ15メートル)はあろうかという猛禽にその背を掴まれているところだった。そして、何が起きたかを把握するより先に彼らは何も浮かばない虚ろな空を駆け上っていった。

そこから先の事はあまり覚えていない。ただ、あの時の翼の音と、自分に向かって伸ばされていた腕だけが記憶に焼き付いている。

残ったのは、痛めた片足。そして彼は飛べなくなった。

「それは……災難だったな」
「ええ。そういう訳で、あれは今も行方知れずです。神である以上、生きてはいるでしょうが。もし我らが結託して何か企んでいることを心配なされているなら、それは杞憂というものです」
「そうか……それで、探しているのか?」
「あいつをですか? どうでしょう。行商人の集いがあるならば、そこに何らかの信仰が生まれているかもしれないなとは思いましたが」

トートは少し首を傾げた。

「でも、行ってはいないと」
「もう終わった話です。それに、違う神かもしれませんし、会った所で何を言ったものかわかりませんし。行く理由が私にはない。だからこうしてその近くを目的もなく彷徨っている」

穏やかな語調。緩まない足取り。指先の力は抜けきっている。この神はどうやら、すっかり希望を持つ事を諦めてしまったらしい。

「そうか、わかった。それで、交換条件だったな。こちらは行商人たちが何かの異類を用いて輸送網の確保を行っていると考え、それを探ろうとしていた。星読みに優れていると言っているが、それだけであれほどの事が出来るとは思えないからだ」
「……」
「行く理由がないと言ったな。我々には、それがある。もしも、行かない理由もないのであればだが。少し、見に行ってはみないか」

トートは足を止めることなく、無言で歩き続ける。拠点まで運んでもらっている身である以上、これ以上は何も言えないだろう。テッドがそう納得してから一時間は経った頃に、トートは歩きながら「行商人の村、行きましょうか」と唐突に言った。

「……ずっと遠ざかっている所なんだが。逆方向なんだ」
「おやまあ。それじゃあガイドの方お願いします。急ぎではないのでしょう」
「……まあ、ノット・エデタキュではある」
「了解しました」

月は沈み、夜明けが近づいていた。明けの水星は、まだ見えない。

◇◇◇

行商人たちの拠点へと彼らが足を踏み込んだのは昼下がりのことである。夜に訪れては不審がられるだろうから時間をずらしたのだ。

「ようこそ。旅人の方ですか? それともご商売に?」
「旅の者です。栄えている市場がここにあるとお聞きして。水と食料、それと宿を求めてここに足を向けました」
「そうでしたか、ここも有名になってきたみたいで嬉しい限りです。よい旅の支えをここで得られますように。……ああ、それと。夜には出歩かないでくださいね。色々と厄介なことがありますので」

旅人の来訪にも慣れているらしい。門の傍に控えていた守衛は手慣れた様子で市場と宿の位置を説明してみせた。鳥の頭部について何か気にした様子はない。内心疑っていたが、どうやらトートの言う「人間に違和感を抱かせないヴェール」というのは完璧に作動しているらしい。この分なら、自分が街で喋っても気づかれはしなさそうだ。

集村へと踏み込み、一歩見回す。最初に目についたのは、門前に高らかに掲げられた一つの旗だった。巨大な鉤爪で引き裂かれたような、三つの緑色の縦線が黒地に描かれている。ここを拠点とする商人たちだけが使う事を許されているらしい紋章であり、テッドたちも何度か目にしたことがある。

それを一目見て、トートは「モンエナ」と呟いた。少し考え、知らない固有名詞であることに気づく。集落内では万一聞き耳を立てられても大丈夫なようにラテン語で話すことにしていたから、訳を間違えたのかと思った。

「なんだそれ」
「モンスターエナジー。そういう飲料が昔あったんですよ。人間の商店に何度か出入りしていたもので」
「モンスターエナジー……イングリッシュだよな、それは」

よくわからなかったが、試しに異類のデータベース上で”MONSTER ENERGY”で検索をかけてみる。1件のヒットがあった。

飲んだ者を一時的に変身させ、飛翔と正確な星読みを可能とする飲料。夜間に現れ、それを売る羽根つきの靴を履いた人物。飲料を飲んだ者は姿を変えたあと、一定の高度で旋回するのだという。それらの情報は、全て現状と一致しているように見えた。夜間出歩いてはいけないという守衛。そして、この地帯でやけに見かけた夜空を旋回する鳥。思い返せば、あの鳥たちは大体同じ高さを飛んでいた。夜間に周辺の地形と方角を正確に把握する術を持っているのなら、他の商人に先んじて輸送網を築き上げる事だって十分に可能だろう。

「大体わかった気がする。少し歩き回ってもらえないか? 十字路があるかどうか知りたい」
「歩くまでもなくありますよ。地図を見せてもらいましたが、この集落は計画的に拡張されている。外の方はほぼ碁盤状です」
「そうか」

軽く見渡すだけでも、道を照らす篝火の準備が整えられているのが見てとれた。一定の距離を置いて、あちらこちらで。売人が出現するのは孤立した街灯の灯る十字路である。これはもう、確定といっていいのではないか。

「見当はつきましたか? ここに誰がいるのか」
「おそらくは特定できたと思う」
「了解しました。ひとまず市場で何か買ってから宿に戻ろうと思うので、宿についたら教えてください。どうも少しばかり警戒されているらしい」

中央の市場へと向ける足を止めないままに、彼は硬い声で告げた。改めて、周囲を探ってみる。この視野の中では、少なくともこの腕の端末に注意を向ける人物は見当たらない。

「ヴェールは効いてるんじゃなかったのか」
「おそらく、余所者に対しては誰であれ警戒するんじゃないでしょうかね」

なるほど、と答えて思考を整理する。考える時間があるのはありがたい。何なら、向こうもそれを見込んでそう言ったのかもしれないなとテッドは思った。

この商人たちがいかに異類を利用して生きているかは把握した。"同盟"の構成員としては、もう仕事は終わったも同然だ。"同盟"は異類と人との在り方を探るだけで、さして深くは干渉しない。

問題はトートのほうだ。見つかったデータベースにその名前は記されなかったが、十中八九飲料の売人は彼の関係者だろう。そして、「"誰がいる"のか」と発言している時点で、──そして、それ以後とんでもない速足で進み続けている時点で──彼もそのことは察している。隠匿された友を、彼はどうするだろう。彼が何か行動すれば、異類と人の関係は決定的に変わってしまうかもしれない。ファビアンはそれをどう思うだろう。

でも、共生の在り方を決めていい者があるとしたら、それは同盟ではなく、当の異類たち神々だろう。

考えてみれば、テッドたちだって遠い昔に人と共に在ることを自分で決めた異類なのだ。彼らの決断を止める立場ではない。

そんなことを思考しているうちに、喧騒がマイクに飛び込んできた。中央の市場へと辿り着いたのだ。行商人の集落であるだけあって、その景色は壮観であった。鮮度のさして落ちていない野菜や果物、多種多様な保存食、珍しいものでは美しい民芸品から書籍まで。地方一帯の縮図がここにある。書物の神としてはやはり興味が惹かれるのか、色々と話し込んだり尋ねたりしていた。爪痕の紋章を得意げに店先に提げた商人は、ある集村の特産品なのだと語っていた。

「思ったよりも、商業は栄えているのですね。あの時とは見違えるようだ」

市場を歩き、食糧品を調達しながら、トートは零していた。

「食料なら僕のほうが安いよ。今なら新鮮な果物もお付けしよう」

背後から声がかかったのは、彼が市場の蜂蜜菓子を眺めている時だった。振り返れば外套のフードを目深にかぶった若い男が佇んでいる。その後ろには手引きの小さな屋台がひっそりと鎮座していた。行きかう人々は、誰もそれに目を留めていない。どう見ても不審人物である男に、トートは迷わず着いて行った。そして商品と値段を聞き、無言で財布を取り出す。買い物が終わるまで、彼らは一言も口を利かなかった。

「はい、ありがとうございました。これはサービスの林檎」
「どういう風の吹き回しで?」

林檎を片手にトートは問いかける。不審人物は大仰に腕を広げ、低い声で説き始める。

「かつて、明日世界が滅ぶとも林檎を植えると語った男がいた。世界が滅び去った後、実った林檎を捥いで食べ、種を植えた子供がいた。人はね、全てが終わった後にも再びやり直すことが出来るんだ。これはその証左」
「……何のつもりですか」
「ああ、語りすぎたな、悪い癖だ。頑張れってことだよ、幸運の神様は呼べば来るから。それじゃ」

不審人物は嵐のように捲し立て、屋台を引いて雑踏の中へと消えていった。トートはしばらく立ち尽くしてその姿を見ていたが、やがて周囲から不審な視線を受けている事に気づくと早々に踵を返して宿のある方角へと向かった。

◇◇◇

「それで、この集落の異類って何だったんですか? やはりアレですか」
「その可能性は極めて高い」

宿につき、個室に案内されるなりトートは開口一番にそれを尋ねた。テッドは結局自らの知っている全てを話した。人を飛行機に変身させる飲料と、羽根のついた靴で空を飛ぶ自称「飛行の先輩」の事を。トートは黙ってそれを聞いていた。全てを聞き終えて、トートはゆっくりと吐き出すように「そうだろうと思いましたよ」と呟いた。そう直感していたからこそ、自分はこの地方までやってきたのだと。それでも、踏み出すことは出来なかった、と。

「まあ……会うのは難しいだろうな」
「そうですか」
「市場にその飲料らしきものは一切見当たらなかった。つまり集落を利用する商人は意図的に独占しているということだ。推定ヘルメース神が出現するのはあの大量にある街灯のどれか一つの下で、旅人は夜間に外に出てはいけないことになっている。出現ポイントに会いに行くのは難しいと思うんだが」

トートは穏やかに笑った。

「そんなことですか。なに、別に会いに行けずともいいのです。健在であるということはわかりましたし、彼が商売しているところに立ち会わせたとて別に私が何かすることもない」

どこまでも静かで柔らかく、それでいて揺るがない芯の通った声だった。心はもう硬く決まっているのだろう。何があろうと変わらない、静謐な神殿を思わせる佇まいがあった。

「そうか」
「ええ。それに私は魔術の神でもありますし、幸運の神は呼べば来る」
「うん?」

何やら雲行きが怪しくなってきた。困惑するテッドをよそに、魔術も司っていたらしい古代の神は据わった目で寝台をどかしはじめた。

「さて。かの神が顕れる条件は”日本国内”、”夜間”、”駅の近く”、”十字路”、”孤立した街灯”で間違いありませんね?」
「ああ、その筈だが。何をしようとしている?」
「神を召喚する魔術をお目にかけます」
「は?」

それからのトートの行動には一切の迷いがなかった。黙々と床のスペースを開け、荷物から取り出した白墨で床に何らかの文様をびっしりと書き込んでゆく。ギリシアの文字と図形で構築されたそれは、なるほど、十字路を模しているようにも見えた。書き上げた文様を四方八方から見直して何やら満足した後、彼はテッドに「光れます?」と問いかけた。ひとまず画面を白く光らせる。

「このように画面を光らせることなら出来るが……」
「それなら大丈夫ですね。どうもありがとう、夜まではいいですよ」

足元を照らす程度の光だが、それで十分だったらしい。テッドは画面の光を消して尋ねる。

「しかし、画面を光らせてどうするんだ。まさか街路灯の代わりじゃあないだろうな」
「ご名答。魔術師の才覚がおありでは」
「あってたまるか。大体、街路灯の代わりが自分で、来るのか。神が」
「来ますよ。かつて同一視されていた、魔術の神がここにいるのだから」

強気でありながらも、どこか自分に言い聞かせるような響きだった。返す言葉が思いつかず、やけに広くなった部屋には沈黙が訪れる。それを打ち切る様に、トートは「夜を待ちましょう。それまではすることがない」と告げた。そして、寝具に視線を向け、自分で片付けたことを思い出すと床で丸まり、自分の嘴を抱えるようにして目を閉ざしてしまった。

◇◇◇

日が沈む直前、トートは水を浴びてくるといって部屋を出て行った。十分も経たないうちに、白装束を纏って戻って来る。部屋の窓を閉め切れば、灯りのない部屋はたちまち暗闇に閉ざされた。

「点けるか?」
「お願いします」

小さな灯りが、神の手の中に生まれる。トートはそれを自身の杖に巻き付けて固定し、右手に捧げ持った。直立不動で杖を掲げて、一つ息を吸う。開かれた嘴から、低い、よく響く厳かな声が流れ始めた。古いギリシア語の歌だ。

「──アルゴス殺しのヘルメース、狡知に長けたかの神よ」

「牛を追い立て、夢を導き、夜陰を窺い、戸口を狙う者」

「あらゆる人間と神々に通ずる者、我が盟友、我が半身」

「トリスメギストスの名に於いて──我は今、汝に希う」

「我が元に降りて来たれ──急げΗΔΗ急げΗΔΗ速くΤΑΧΥ速くΤΑΧΥ!」

エーデー・エーデー・タキュ・タキュと、最後の文言を力強く繰り返す。繰り返しが四回に達した時、閉ざされたはずの部屋に一陣の風が吹いた。風は見る間に勢いを増し、部屋の中で吹き荒れる。杖に巻きつけられた端末が、風に煽られて外れ落ちた。トートはそれを左手で掴み取る。掌に覆われ、光が遮られる。

暗闇と沈黙。

「──この時代、この地にその文言を唱える者が残っていようとはね」

不意に、若い男の声が部屋に響いた。昼間に聞いたのと同じ声の筈だが、その声から軽薄さは消え失せている。一言一言話すたびに、部屋の空気がびりびりと震えている。

「我が名はヘルメース、魂の導き手。闇夜を翔け、人々に翼を授ける者」

声は続く。トートは握りこんでいた掌を開いた。光が漏れ、部屋を照らす。部屋の中心には、一人の青年が片膝を抱えるように座っていた。夜を纏うかのような黒い外套、翼の付いた編み上げサンダル。左手に抱えているのは蛇の巻き付いた金色の伝令杖ケリュケイオン。紛う事なきヘルメース神が、たいした光もないのにきらきらとよく輝く瞳でこちらを見上げている。

「その僕を喚びつけられるとはね。一体君は何者だ? 何故僕の事を知っている?」

ギリシアゆかりの者でもないように見えるし、何より今日初めて出会ったはずなんだけど。首を小さく傾げてヘルメースは問いかける。自分を載せた掌の指先がわずかに震えたことに、テッドは気づいた。トートは目を落とし、淡々と無表情に答える。

「私はトート、エジプトにおける知恵と書物の神」
「……ああ、分裂したほうの僕の知り合いか何か?」

祖が同じオールドAIであろうとも、自分たちが異なる個を獲得したように。神もまた分裂し、異なる個を持つのだろうか。テッドは黙って彼らを見守る。

「ええ。ヘレニズム期には御身と習合していた事のある者で、21世紀頃には共同経営者でもありました」
「ふーん」

ヘルメースはさして興味もなさそうに頷き、「まあ、粗方察しはついてたけど」と言った。トートは怪訝そうに視線を上げる。

「見覚えもないのにヘルメース神の加護篤き存在が歩いていたらそりゃ声もかけたくなるってもんだよ。相当大事に思われてたみたいだな。君が僕を分裂させた切欠の神ってことでいいんだよね」
「は?」
「おや気づいていなかったか、悪いことしたな。まあ、君が何者で、別の僕とどういう関係なのかはあらかた知ってる。もう一人の僕の事を君が"我が半身"って呼んでたのも聞いてたし。ごめんね、せっかくだから君の口から聞いてみたくなったんだ。……うん、これは殴られてもしょうがない奴かな」

青年の神は片目を瞑って笑って見せた。これで許されると思っていそうなあたり、一発くらい殴ってもいいんじゃないだろうか。そう思った直後、視界が揺れる。腕時計型の端末をメリケンサック代わりにして殴りかかったのだ、とテッドは遅れて気付いた。通訳、記録参照、話し相手、果ては照明まで様々な役割を果たしてきたが、神の武器になったのはこれが初めてだ。

拳は届かず、あと少しのところで止まった。トートの手首を掴んだヘルメースは悠然と微笑している。

「あっ思ったより怒ってる? ごめんって。でもそれ君の手が傷ついちゃうから──痛ってェ」

トート神は手首を引き、反動を利用しながら頭突きを叩きこんでいた。床に転がる神を見て溜飲が下がったのか、溜息をついて一歩下がる。右手で胸を抑えている事にテッドは気づいた。自分の嘴が刺さったらしい。知恵の神とは一体何だったのか。床に転がった青年神は何度か咳き込んでから「落ち着いた?」と問いかけた。

「不本意ながら。本題に戻っていいですか?」
「どうぞ」
「御身が私の知るヘルメースでない事、承知致しました。その上で、私はあなたに商談を申し込みたい。かつてのTtt社の副社長として」
「なるほど、それじゃあ一からやり直そうって気になった訳だ。ところでさっきの頭突きも副社長としてのものだったりする?」
「いえ、あれは私個人としてプライベートです。お望みとあらばあと数発入れても構いませんが」
「いや、いいよ。副社長としてビジネスの話をしようじゃないか」

氷点下の声に、ヘルメースは慌てて首を横に振って言った。トートは少し息を吸って、滔々と話し始めた。

「今、あなたはほぼ一つの商業グループと取引を行い、人を鳥に変化させる飲料を提供している。しかし、世界が滅ぶ前からそのような在り方だった訳ではない。ここまでの認識は正しいですか?」
「そうだね。一つの組織に買い占められていた時期もあったが、そうなる前は通りすがりの人間たちを相手にしていた。そして何より、あの頃は飛行機があった。今は味気のない鳥ばかりだ」
「そう。今となっては、空を往くのは鳥と神だけ。それは勿体ないとは思いませんか。販売経路を増やし、また人々が他に空を飛び交うものを想像するようになれば、やれる事は一気に広がります」
「まあ、本気で人が空を目指すようになったなら、それは発明の神としても商業の神としても有難くはあるな。書物の神がいればそのあたりは堅実に働きかけられる、と。面白くはある」

ヘルメースはじっと考え込み、そして少し笑みを浮かべた。つくづく表情をくるくると変化させる神だ。変わらないのは瞳の輝きくらいのものだろう。テッドは黙ってそれを見ながら考える。ファビアンが最期に伸ばしたあの空を、人が飛ぶ時がまだ来るのだろうかと。

「ふむ、中々の挑戦的課題だな。だがここで蹴るには惜しい。今決めるのは難しそうだが……まあ、どうせ君、僕が承諾するまでは何度だって来そうだな?」
「誰かに似たんじゃないですかね」
「へえ、そうなんだ? ……まあ、今の段階で僕から言えることは二つ。この商談の続きはまた今度ってこと、告知ならもっと派手な手段が今ここにあるってことだ」

ヘルメースは二本の指を立てて振った。そうして、外套の下から一つの缶を取り出してトートの手に握らせる。缶に記されているのは緑の紋章、そのすぐ下に” MOONSTAR ENERGY”の文字列。間違いない、例の飲料だ。

「どういう事ですか」
「実を言うとさ、君に呼ばれた時、商談の真っ最中だったんだよね。全部放り出して飛んできちゃったんだ。そんで、僕の夜の居場所は向こうに割れてる。ごめんね? そういう契約なんだよ。それで、さっきまではどうにか誤魔化してられたんだけど、流石に一晩保たせるだけの力は僕にも残っていなかったみたいだ」
「……」
「じきにここは包囲されるし、人々が突入してくるかもしれない。君は神だからバラバラにされたって死にはしないだろうけど、そっちの小さなお友達はそうも行かないだろう? 逃げなきゃいけないよ、エデタキュで」

ヘルメースはじっとテッドに視線を向けた。機械の身でなければ身を縮めていただろう。トートは速やかにテッドを手首に巻きなおし、缶の蓋を開けた。空気の抜ける音が響く。

「……解りました。それではまた伺いましょう」
「僕が顕れる条件はもう知ってるんだろ。別の駅を見つけて条件を整えておいてくれ。次の満月にはそこに行くからさ」

トートは頷くと、缶の中身を一息に飲みほした。そうして窓を開け放ち、足をかける。ヘルメースは笑って手を振った。

「それじゃあ、良い旅路を。僕ではない僕の、半身たる神よ」
「そちらこそ、良き月夜を。我が盟友の、もう一つの現身よ」

そして、トートはひらりと窓から飛び出した。

◇◇◇

出て見れば、多くの人々が窓を取り囲んで待ち構えていた。彼はその中央に飛び込み、着地と共に姿を変えた。その姿に、包囲網から怪訝な声が上がった。鳥ではない、木と布で構成されたその姿は誰も知らないものだったからだ。

人々が忘れ果てた、“失われた技術”ロストテクノロジー

でも、異類たち神と機械は覚えている。

人間たちが見守る中で、ライトフライヤー号の姿をとった神は二つのプロペラを回し始めた。そしてまっすぐに空へと駆け上る。異様に強い星の光が機体に降り注ぎ、機体に描かれたヒエログリフと林檎の絵を照らし出す。機体は一定の高さまで上昇し、旋回へと動きを切り替えた。原型機が、かつての人類が夢見た、そして決して出来はしなかったであろう力強い上昇だ。データベースの記述を思いだせば、この旋回が終われば元の場所に舞い降りる事になっている筈だ。彼らの頭上を飛び越して逃げおおせることは出来ない。共に機体と一体化しているテッドが下に意識を向ければ、包囲網は崩れることなくその場に残っている。彼らは飲料の性質をよく知っているのだ。授かった翼では、ここを発てない。

「おい、どうするんだ。このままだと逆戻りだぞ」

旋回の途中で、変身が解かれた。人の姿に戻ったトートは重力に従い、腕を広げて虚空の中を落ちてゆく。そこから上昇して滑空に移るが、姿勢は安定していない。身体はふらついて勢いを失い、遂には落下し始める。下から叩きつけるような風が轟々と吹きすさぶ中で、奇妙によく通る声が響いた。

「足、怪我してたのか。まったく、君も大概無茶するよな」

何かがトートの足元できらりと光ったのが見えた。その光は、翼とサンダルの形をしているようにも見えた。

次の瞬間、鳥の翼が翻り、大気を力強く打った。二度三度と羽撃いて、落下から上昇へと転ずる。星空に浮かぶ白い翼、闇夜に溶け込む黒い風切羽。

アフリカクロトキの化身たる神が、空に戻ったのだ。

「そうか。本来は飛べたのか」
「ええ。一度風を切って飛ぶ感覚さえ思いだしてしまえば。本来翼とは授かる物ではなく、隣を飛ぶためのものだった。まったく、余計な事を」

首に巻き付く形となったテッドに対し、トートは複雑そうな声で答えた。今度は旋回ではなく、まっすぐ集村から離れていく。多くの篝火を備えた集村が、瞬く間に遠ざかってゆく。そうすれば、眼下に広がるのはどこまでも暗い大地だ。

テッドのデータベースには、夜景を見下ろした光景が断片的に記録されている。おそらくコピー元、文明が滅びる前の景色だろう。その夜景は、見渡すばかりの光に溢れていた。その光景を、この神々は覚えているのだろうか。人々が空を行き交っていた時代、空が祈りを捧げる場所ではなかった時を。

「なあ。派手な告知と彼は言ったな」
「言っていましたね。いきなり人を広告塔にするとはいい趣味をしている」
「人々は、あの機体を見て何を思ったかな」
「まずは驚きと怖れでしょうね。異形ですから」

こともなげにトートは答える。集村はもう見えなくなっている。目に映る光といえば、月と星々の光だけだ。風を掴んでゆったりと上昇しながら「でも、記憶には残るでしょうね。自分でも作ろうと思う向こう見ずも、いずれは出てくるでしょう」と付け加えた。

「そうか」
「何人も死ぬでしょうし、自分だけで空を飛べるようになるのは遠い先の事でしょうが。まあ、我々もある程度は動くので」
「気の長い話だな」
「神ですからね。ところで、あなたがたの拠点ってどちらに向かえばいいんですか?」
「南東。月の方向だ」

トートは頷くと方向を切り替えた。月がまばゆく正面から自分たちを照らしている。

「着いたら、そちらの話も色々と伺いたいですね。先の時代のことを覚えている不死のあなた方が、どのように人の子らと共に時を過ごしているのか」
「リーダーが説明してくれるだろうよ。その分、貴方がたがどう人と関わっているのかも聞かれる事になるだろうが」
「構いませんよ。これでも人々を見守っていた時間ならかなり長いですし、様々な人々がいたのを私は覚えています。怖れる者、敬う者。遠ざかる者、共に在る者。先に逝く者、後から生まれ出づる者」
「ああ、そうだな。そうとも」

人と異類の在り方は多種多様だ。そして、それを決めるのは異類だけでもないし、人だけでもない。それは”探訪者”と自分達を見たってわかる事だ。自分の相棒は、異類と人との在り方を模索する中で、可能な限り異類の視点を持とうとする男だった。的を外すことも多かったが、それでもそれを諦めなかった。今の自分を見たらファビアンは、そして他の探訪者たちはどう思うだろう。

「ああ、あとエニシとも話してみてやってくれ。うちの機械系技術者で、空飛ぶ異類に乗ったりしてる」
「それは有望ですね」

嘴を鳴らす音が答えた。

テッドは眼下を見下ろす。大地は暗闇に覆われて、何も区別がつかない。あの崖はどこにあるのだろう、とテッドは考えた。あの夜、彼は最期の力で空に腕を伸ばした。ファビアンの伸ばした腕の先に、今の自分が居る。かつて共にいた人間たちがそれを望んだから、テッドは今も人の傍に在り続けている。彼の祈りは、何処に届いたのだろう。

もうすぐ、山を越える。 “同盟”の拠点はその先だ。夜明けは遠く、空の旅路はまだ長い。今はただ、眼前の星月夜を眺めるばかりである。


集村 - 58

友好度 - 中(警戒心が高い。機密に触れようとさえしなければ商売相手としては友好的)

異類概要 - 夜間に飲んだ者を飛行可能な形態へと変身させる飲料とその売人。空を移動することは出来ないが、変身中は天候と関わりなく星の位置を正確に把握することが可能になる。変身は端末を巻き込んで行われる。集村の行商人たちには安定した移動手段の確立に用いられていた。

コメント - 「いずれ流通形態が変化するかもしれません。その時はお知らせしますので、どうぞよろしく」と書いておいてくれと頼まれた。ここは広告置き場じゃないんだが、世話にはなったから一応書いておく。

探索担当 - ファビアン(のちにトート神が代行)

報告担当 - テッド

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