暗闇の中を一人の少年が歩いている。目的地に向かうにつれ徐々に冷たさを増していく暗がりの中で、星明かりと右手首の端末から放たれる懐中電灯のような光が少年の緑の黒髪と足元を照らしていた。分厚い焦げ茶の外套は夜に馴染み、少年の瞳の菜の花色は冷気を吸って輝いている。
「今の気温ってどれくらいなのかな」
「聞いてどうする?お前が足を止める確率が上がるだけだろ」
「そりゃあそうだけど……もうすぐ見えてくるはずなんだけどなぁ」
「歩いてりゃそのうち着くって、今までもそうだったろ」
道案内をする気のない端末は、そう言ったきり黙り込んだ。少年は白い息を吐いて、何もない道を歩いていく。微睡む月と端末の光が、彼の歩く道を静かに、はっきりと照らしている。
かつてこの星は排気ガスに塗れていたらしい。人類が暗闇を絢爛に照らしだす傍らで、雲は分厚くなり空気は汚染され、都市部では星がろくに見られなかったという。
しかしそれは昔の話だ。人類がまだ、光の中にいた頃の話。
今はどこに行っても美しい星が見えるということを、少年は同盟に居た星を好む探訪者たちから聞いたことがある。少年の黄緑の瞳には、月とそれより小さな微かな光が映る。今踏みしめている大地も、その頃に比べると美しくなったのだろうか。
思案にふける少年を引き戻すように、ふと暗闇の一部が明るくなった。遠くに小さく光が見えている。星にはない、人工的な温度を持つ光だった。
「あそこまでの距離は?あれって、多分……」
「ああ、前に来た時と同じなら15分くらいだな」
「良かったー、思ったより近いんだ」
少年はほうと息を吐く。しばらくご無沙汰だった文明の光は、ぐっと冷え込んだ空気と反比例してやけに暖かそうに思えた。少年の足取りは目に見えて軽くなる。コンクリートを蹴った黒くごついブーツがその光を目指して駆け寄り、そして、ふと足を止める。
「……15分くらいって言ったの誰だっけ、ポールスター?」
ライトの照らす道がぷつりと途切れている。歩いてきたコンクリートの波止場は、彼の足元のすぐ前からなくなっていた。
「渡し守がいる計算だったんだよ。前来た時はそうだった」
空に誇り高く輝いている北極星と同じ名前の端末は、悪びれずしれっとそう言い放った。あちらは迷える旅人を支える導きの星であるというのに、こちらの北極星は随分と怠惰で無神経だ。
渡し守どころか周りの暗がりには船も見当たらず、少年は当てつけるように息を吐く。
「前って、それ何年前だか……寒さで回路が参っちゃったんじゃないのか?」
「何だと?お前最近親父に似てきたな!」
「そっちこそいい加減古ぼけて……渡し守?ポールスター、ライトもっと明るくして」
寒さでしびれた頭の中に、ふと何かがかすめる。それを確かめるべく少年が途切れた地面の先に右腕を強くかざすと、端末の抗議の声と共に何かが画面の光を反射した。
「素直に言え目が回る!お前ってやつは本当に親父に似て人使いが荒い……」
「ポールスター、今の気温は!」
「は?とっくに氷点下だよ、もっと下がるかもな……おい、まさか」
二人の中でひとつの結論が組み上がる。おそらくそれは正しいだろう、と目の前の景色が告げている。
「これ、全部が海?」
二人の眼前に広がるのは、凍りついた波だった。流氷ではなく、海自体が波止場の下で静まり返って固まっている。船が乗り上げるほどの些細な刺激では割れることはなさそうだ。
「昔はこんなんじゃなかった、ってことだよね」
先程見えた文明の光に向かわなければならない。二人が目指している目的地は、この海の半ばにあるのだから。
でも、どうやって?
「あのー、そこの君?」
行き止まりの予感に震えた二人の背後から、明かりとともに遠慮がちな声が聞こえた。
◇◇◇
「じゃあ、君のお父さんが訪れたのは随分前のことだったんだろうね」
声をかけたのは、カンテラを持った親しみやすそうな青年であった。茶色いくせっ毛と青い瞳に、『見慣れない子だな、こんなところで何してるんだろう』という二人へのかすかな疑問を滲ませている。
突然の第三者に警戒する二人を前に、青年はタラップを下って氷の上に立って見せた。
「渡し守がいたのは結構前になるはずだし……それに、夏になって氷が溶けないと船なんて出せないよ」
どうやらこの季節だけ、海は不便な道に姿を変えるらしい。怪しむポールスターをよそに少年はゆっくりとタラップを下りて、
「ほら、最近特に冷え込むからさ。花のせいじゃないと思うんだけど……」
凍った海をどうにか歩きながら、探訪者は推定村人とこうして話している。カンテラに照らされる足元に、固まった泡の白が透けて見えた。
「シリウスと言います。短い間ですが、村にお世話になります」
そして彼はポールスター、とシリウスは心の中で呟く。父譲りの端末は翻訳機能を駆使して調子を合わせながら、静かに会話に耳をそばだてている。
「僕はアキレア。にしても、君けっこう慣れてるんだね。ここを通る人、大抵一度は転んじゃうのに」
ノーカラーのコートをはためかせて、青年……おそらくこれから向かう村の住人であろうアキレアは、シリウスを尊敬の眼差しで見た。
「いいブーツと、それを直してくれた職人のおかげです。僕はまだまだ未熟というか、そもそも凍った海を歩いたことなんてなかったですし」
父から譲り受けたのは端末だけではない。頼もしいブーツ、ごつい外套、古びた革のカバン。今シリウスが身にまとっているものは、ほとんど父のお下がりだ。
父はどう思うのだろう、とシリウスは思う。自分が亡くなった後、一人息子が自分を追って勝手に道具を借りて旅をしているなんて。怒らないで見守っていてくれますようにと思いながら、シリウスはつるつると滑る足元を踏みしめていく。
「それで、君はどうしてここに?何もないところだけど」
「父が来たことがあるらしいと、前に訪れた場所で聞いたので」
シリウスにとって父は道標だ。暗闇を照らすその光は、今も消えることなくシリウスの頭上で瞬き続けている。それを追い続けるのが、今のシリウスの生き方だ。
右腕のポールスターが微かに身動ぎし、そろそろ着くぞ、と声をかけた。
◇◇◇
海の上に浮かんだようなその村は、刺すような寒さを吹き飛ばすほど賑やかだった。
立ち並ぶ家は簡素ながらも明るい文明の光に溢れ、酒や野菜、料理などの出店が集まった場所からはにぎやかな声がする。
丈夫な浮草で出来た地面の上に立ち、ようやくシリウスは息を吐く。不慣れな氷の上にはない、安定した地面の感触が彼の心を落ち着かせた。
お兄ちゃんこんばんは、と幼い子どもたちがシリウスの足元を駆けていくのに、こんばんは、とだけ返す。遠くで酒を飲み交わす大人たちの歌がおぼろげに聞こえてくる。
「道案内ありがとうございます、アキレア」
「いいって、それでこれからどうするの?君のお父さんのこと聞いてみようか」
そばを通りがかる厚着の人々の中にはアキレアの顔見知りも混ざっているらしく、時折二人に声をかけてくる。シリウスを見る目線はどの人も穏やかで、余所者に対する排他的な感情は含まれていないようだった。
「この村にいる異類って何なんだろうね。凍った海の上にある以外は、普通の村じゃない?」
ポールスターにそう囁いてから、シリウスはアキレアに向き直る。
「もう夜も遅いですし、明日にします。僕が泊まれそうなところとか、この村にありますか?」
シリウスの問いに、アキレアは少し考え込む。それから良い事を思いついた、というように目を輝かせた。
「そうだシリウス、家に来ない?」
「それはアキレアに悪いですよ、案内までしてもらったのに」
「大丈夫だよ。家には母さんしかいないし、ここって商人とか来てもすぐ帰っちゃう何にもない村だから。お客さんは誰かの家に泊まってもらうことにしてるんだ」
そう話したアキレアのくせっ毛を、横から伸びてきた大きな手がわしわしと撫でる。
「おっ、アキレア!母さんは元気か?友達作って帰ってきたみたいだな」
「驚かせないでよ、マルクルさん……」
大きな手の持ち主である大柄な男性が、快活そうに笑っていた。
つぶらな瞳と刈り込んだ薄茶の短髪に、体躯に合ったモッズコート。年齢は35〜40ってところか、とポールスターが大雑把な推定を呟いた。
「こんばんは。少しの間お世話になります」
「おう坊主、アキレアのことよろしくな!」
会釈するシリウスの頭もついでに撫でて、マルクルと呼ばれた男性は去っていった。突然のことに固まるシリウスに代わってポールスターが呟く。
「普通逆じゃないか?」
「あはは……それより、お腹空いてない?」
アキレアは苦笑しながら屋台を指さす。撫でられた黒髪を照れくさそうに触っていたシリウスの腹の虫が、元気に大きな声で鳴いた。
「おじさん、スープ三人前……シリウス、ちょっと待ってて」
「ありがとう……それにしても」
かぐわしい匂いを漂わせる屋台の一つに並んで、シリウスは尋ねる。大人も子供も寒さに耐えながら声を弾ませて買い物をし、皿に入ったスープや土のついた野菜を受け取り、
「ここで食べるわけじゃないんですね」
そして各々の家に帰っていく。誰かが帰ると別の誰かが顔を出すので、屋台の群れは存外賑わっている。
「外で食べてたらスープごと凍っちゃうよ、海みたいに」
アキレアの明るい声に、確かに、とシリウスの口元が綻ぶ。わざわざ食べるための場所も見当たらないため、おそらく家に持ち帰ることを前提とした文化なのだろう。
「はいお待ちどう」
「そういえば、アキレアはどうしてあそこに?」
じんと熱い皿を慎重に持ちながらシリウスは尋ねる。渡された一人分多いスープの意味も、アキレアの母のことも、そして花のことも聞きたかったが。
「母さんの薬を買いに行ってたんだ」
少なくとも最後以外は、すぐに教えて貰えそうだった。
◇◇◇
熱々のスープをこぼさないように気をつけながら、立ち並ぶ出店を抜けて、二人は家の並ぶ方へ向かう。小さな村の奥に向かうにつれ活気は薄れ、だんだんと周りは静かになっていく。
「あれは、何ですか」
出店と家を分ける道路の奥に、白く塗られた建物があった。大きさは周りの家と同じだが、造りはひときわ手が込んでいる。窓枠の黒が冷気を吸って、静かに輝いていた。
「教会だよ」
「伝統的な造りの小さい教会……にしては、何というか色々とごついな」
「やっぱりここが寒いからですか?」
シリウスはそう聞いてみる。教会の窓やドアは固く、白い壁は分厚い。
温かさを逃がさないための建築というよりも、頑なに何かを守るような、あるいは拒むような堅牢さだった。
「それもあるけど……教会の中に、花があるからかな」
そういえばさっきも花って、とシリウスが聞き返そうとしたとき、重々しいドアがきしみながら開いた。
夜に悲しみの気配をなだれ込ませて、教会の中から幾人かの人々がこちらにやってくる。
ばらついた年齢のその人たちは全員葬儀に参列する時のきちんとした格好をしており、シャツのボタンや波打つ髪にあしらわれた白い花だけが、その人たちの纏った重い空気から浮いて見えた。
「アキレアくん」
最後に出てきた女性に、アキレアが駆け寄る。黒いワンピースの上に、やはり分厚いチェスターコートを羽織っていた。どうやらアキレアの知り合いであるらしく、顔を曇らせて彼と話している。
「そうですか……」
「良かったら、貰っていって。きっとあの人も喜ぶわ。冬だから、きっと海が溶けるまで見守っていてくれるはず」
彼女は雪のような花束を抱えていた。髪に飾っているのと同じ花が、凛とした顔をして胸元で咲き誇っている。そこからアキレアが一輪抜き取って、頭を下げてからシリウスの方へ戻ってきた。
「あの、その花は?」
冷気を吸ったように生き生きと輝いて見える花を、シリウスが不思議そうに見つめる。アキレアは表情を少し歪めて、
「ここの風習みたいな感じ、変だよね」
温度の分からない声でそれだけ言った。
「変だとは思いませんが……」
この花が異類だとして、異類を使った弔いを行う集村は他にもあることをシリウスは知っている。
シリウスが訪れたいくつかの場所にもそんな風習はあったので、共存の一部だろうと思っていた。文化の違いに面食らうことはあれど、そこまで強くおかしいとは思わない。
「そうかな?ほらスープ冷めちゃうから、せっかく熱いの買ってきたのに」
言外に急かすアキレアに従い、シリウスは村の奥へと向かった。並んだ家よりも少し小さな家の戸から、微かな明かりが漏れている。
「ついたよシリウス。ようこそ我が家へ」
扉を開けて、アキレアは微笑んだ。白い花をその手に、萎れてしまいそうなほど強く握ったまま。
◇◇◇
「お邪魔します……」
「ただいま、母さん」
明るい部屋の中にはベッドが一つと長椅子が一つ、 テーブルと椅子が二脚。ベッドの掛け布団がもぞ、と動くと、アキレアがすぐに駆け寄った。
「スープと薬、飲める?うん、うん。……そうだ、シリウス。母さんに紹介してもいいかな」
アキレアが手招きをしたので、遠慮がちに頷いてシリウスもベッドの傍に近寄る。静観していたポールスターの液晶が、目を伏せるように瞬いた。
ベッドの中に眠っていたのは老婆だった。幾重にもしわの刻まれた顔に埋もれた瞼、縮こまった細い手足。半分開いた口にアキレアが手際よくスープを含ませ、額を拭い、コートのポケットから取り出した薬を飲ませる。一筋垂れた薬を器用に拭って、それからアキレアは振り向いた。
「母さんだよ」
「初めまして、シリウスと言います。一晩お世話になります……その、貴方の息子さんの……」
言い淀むシリウスを、アキレアの青い瞳が不思議そうに見つめている。
必要以上に我々は村人と関わらない方がいい。同盟で探訪者になりたいと言い出した幼き日のシリウスに、リーダーや先達が教えてくれたことの一つだ。シリウスはそれに概ね賛成しているが、いくつかの集村や同盟の人々から聞く限り、父はそうではなかったらしい。
たまにどちらが正解なのか、シリウスは分からなくなる。例えば、こういう時とか。
「……いえ」
この場では決められず言葉を濁したシリウスに、アキレアは笑顔で振り返る。
「そろそろ夕飯にしようか、シリウス」
その言葉とほとんど同時に、シリウスの腹がぐぅ、と鳴った。ポールスターの笑い声が響く。
「ポールスター!あ、ごめんなさい」
「いいんだよ、僕もお腹空いてたし……母さん?」
アキレアの母の口がもごもごと動く。アキレアが歩み寄って耳をすませると、その手に握りしめたままの花が頭を垂れた。
「お母さんは、なんと」
アキレアがベッドから離れるのに合わせて、花が揺れる。過去からの冷たい風が、花弁の白を揺らすように。
「綺麗な花ね、だってさ」
アキレアの表情が曇る。教会で花の話をした時のように、どこか苦しげな瞳だった。
◇◇◇
「ご馳走様でした。えっと……」
アキレアが出してくれたパンと買ってきたスープの簡素な夕飯だったが、シリウスにとっては身に染み渡るほど美味しかった。シリウスは考えながら古びたカバンに手を伸ばす。この中に入っているもので、一宿一飯の恩は返せるだろうか。
「お金とかはいいよ、あと、シリウス」
それを遮るようにアキレアが言う。はにかむように、少し躊躇って。
「そんなにかしこまらなくていいよ、ほら、年も近いだろうし」
「……そうだね、アキレア」
それにつられるように、シリウスもくすぐったいような心地で彼の名前を呼んだ。
「そういえば、シリウスのお父さんってどんな人だったの?ここって小さい村だから、旅人は珍しいんだ。もしかしたら覚えてる人がいるかも」
「だといいんだけど……あの人、けっこう適当だから」
白い花の入ったコップを窓の傍に置いて、アキレアが振り返る。花は黙って、二人の話を聞いている。
「適当なんだ」
「うん。父の日記から行き先を決めてるんだけど、ページ飛んでたりするんだよね。何か月も書いてなかったりするし、字も汚いし」
端末があるってのにな、とポールスターが拗ねたように呟く。
父はどうもアナログな気質だったようで、同盟やポールスターを信頼しながらも、個人的な日記には最期まで自分の言葉で記すことをやめなかったらしい。その日記はというと字はやたらと大きい上にはみ出しているし、情熱に任せて書きなぐったらしく時系列も事実関係も適当そのもの。おそらくシリウスでなければ解読は不可能だろう。
「えっ?」
「ううん、こっちの話。日記だからしょうがないんだろうけどさ」
ポールスターの独り言を誤魔化して、シリウスは苦笑する。アキレアは少し考えるようなそぶりを見せた。それから遠慮がちに、けれど逸る心を抑えられないように尋ねる。
「よかったら、聞いてもいいかな?シリウスのお父さんのこと」
アキレアの瞳は星のように輝いていて、シリウスは少しこそばゆくなる。
父の話をする時はいつも、心臓をふわふわした羽根がくすぐるような心地になる。決して嫌なものではない、けれどどこか照れくさいような気持ちに。
「勿論だよ、父さんはね……」
◇◇◇
シリウスが語る冒険譚一つ一つに、アキレアはころころと表情を変える。シリウスの父が凶暴な異類と大立ち回りを繰り広げ、その知恵と勇気をもって村人を救った話には大層感激し、二人一緒に声をひそめながら父の台詞の真似をした。異類と村の青年との悲恋の物語には語るシリウス以上に瞳を潤ませ、奇怪な怪談には毛布を被って自分の影にすら怯えた。
なお、物語の生き証人たるポールスターが呆れた顔をしていたことから、異類についてのぼかしを抜きにしてもシリウスの多少の脚色は否定できない。
おどろおどろしい異類はただの村人の勘違いであった……そんな笑い話を聞いて楽しそうに笑うアキレアと一緒に、シリウスも声をあげて笑った。勿論、二人とも村の人やアキレアの母に迷惑をかけない程度の音量で。
おかしな話は、何度話しても楽しいものだ。傍に一緒に楽しんでくれて、自分以上に笑っている人がいるのならなおさら。
こうして誰かに伝えることで、シリウスの中の父の思い出が輪郭を持って動き出す。
誰かに語られる時、父はそこで確かに生きている。息づいた物語を見つめながら、俺にしてはちょっとかっこよすぎるぞ、と苦笑してくれている。星座のように父の放った光を結んで物語にして、一人の夜に見上げれば、シリウスの黄緑の瞳の中に父はいる。父が調査から帰ってこられなくなってから、シリウスはそうやって父を好きでい続けていた。
「そういえば、アキレアのお父さんは?」
「シリウスと一緒かな、小さい頃にどっか行っちゃって。でもきっと、シリウスのお父さんみたいにかっこよくないと思う。こっちはもう帰ってこないし。だから家にいるのは僕と母さんだけ」
何だか似た者同士だね、とアキレアが笑う。その笑顔に差す影を見たシリウスは黙って頷いた。花は白いまま、窓際でほんの少しだけ揺れた。
「シリウスは、お父さんに会いたい?」
「たぶん、会いたくてももう会えないと思う。きっとアキレアと一緒だ」
満天の星の中、北極星の真下で父は笑って死んだらしい。まだ小さかったシリウスに同盟の人、それからポールスターが教えてくれたことはたったそれだけ。
「ごめん、そんなこと聞いて」
だからシリウスは知りたい。父が何を見てどんな旅路を辿ったか、最後にどこでどうして笑ったのかを。
「アキレアにもお父さんのこと聞いたからお互い様、ってことで」
そう言うとアキレアは微笑んだので、シリウスも笑った。どちらも屈託のない、心からの笑みだった。
「シリウスのお父さんは、人が死んだらどこに行くとか……何になるとか、言ったりしてた?」
心に残る大きな傷は不思議なもので、年月と共にかさぶたをめくって誰かに話せるようになる。今の二人が、不思議と明るく死について話しているのがそうであるように。
「うーん……いつでも見守ってるって言ってた、かな」
『シリウス』
声が蘇る。そこにいるかのように。過去の父の声はいつでも優しくシリウスの耳をくすぐる。
『どこにいても、父さんはお前の味方だ。いつでもシリウスのことを考えて、ポールスターと見守ってる』
そっか、とアキレアはしっかりと頷いた。素敵な考え方だね、とも。
「じゃあ……その、シリウスはさっき言ってたけど」
言葉を濁すアキレアに、シリウスは首を傾げる。アキレアは考え込んだ後はっとして、
「ごめん、こんなこと聞くべきじゃない」
そう言って俯く。引き結んだ口が、シリウスにはどこか不安げにも見えた。
「聞かせて、アキレア。アキレアが良かったらでいいから」
たっぷり10分は逡巡した後、アキレアの薄い唇は遠慮がちに言葉を吐き出した。ポールスターの画面が睨むように色を変える。
扱う言語も生まれ育った場所も違う二人がこうやって話せているのは、ポールスターが持つ翻訳機能のおかげだ。アキレアの口の動きや声音を、イントネーションまでも読み取って、目の前の青年がどんな思いで何を話しているのか、正確にシリウスに教えてくれる。
「……シリウス、やめとけ。何にもならない」
「いいよ、ポールスター。アキレアの言葉を聞かせて」
お節介な通訳は、本当にたまにだが言葉を濁すことがある。こうやって制止することも。それでも、シリウスは聞きたかった。アキレアの本音を、そのままの言葉を。
不思議な程に、大丈夫だという確信がシリウスにはあった。ポールスターは後悔しても知らないぞ、と吐き捨てた後、無機質な音と共に意味を伝えた。
「シリウスの大事な人が、自分の知らないところで一人で……例えば誰にも知られず花と一緒に死んでたらどうする、だってよ」
ほらやっぱり大丈夫だった、とシリウスは笑みを浮かべる。心から申し訳なさそうな顔をした目の前の青年に、自分の言葉を伝えるために。
「父さんなら、それも面白いって言ってくれるよ。凍った花と星に囲まれて死ぬってのもいいな、ってさ」
◇◇◇
夜空に吐いた息は一瞬白く染まり、それから透明になって雲のように消えていく。
今日はやたらと星が滲んで、外套を羽織ってきて正解だった、とシリウスはもう一度息をつく。晴れた夜空の星はいつでも、どこで見ても綺麗だ。
村の賑わいもいつの間にか静かになって、今暗闇と眠りに沈んだ村で起きているのは空き地にいる二人くらいのものだろう。
「お前が何考えてるか当ててやろうか」
家にあった長椅子でアキレアはぐっすりと眠っている。アキレアもシリウスも自分が床で眠ると聞かず、痺れを切らしたポールスターが提案したコイントスの結果によるものだ。
「……アキレアの母さんは、ずっとあのままなのかな」
星が瞬く。星は、いつでも美しい。どこで見ようと変わらず綺麗なままで、幾星霜の光をこちらに投げかけている。
「見たところここに医療施設なんかはなかった。この村の技術だと、まず助からないな」
どこかの屋根の下で誰かの母親が病で床に伏せていても。
「同盟の技術は?」
アキレアが苦しんでいても。彼の瞳に浮かんだ冷たく色のない諦念を、朧げに燻る灰のような熱を、シリウスは思い返していた。
「無理だ。お前が取りに行ってる間におそらくあいつの母ちゃんは死ぬし、俺たちは万能の救世主なんかじゃない。訪れた集村の奴らを一々救うのは同盟の義務じゃないし、んなことしてたらとっくに共倒れしてるぜ」
先程の質問の意味を、シリウスはもうなんとなく理解していた。
それでも考えて考えたくて、こうしてこっそりと家から少し離れた空き地まで出てきてしまった。
「やめとけ。同情は互いを傷つけるし、お前の父さんはそれを理解してた」
分かっている。これはお節介で、同情かもしれなくて、つまりはシリウスのわがままであることさえ。
「分かってるけど、分かってるけどさ……」
シリウスはとうに知っていて、だからこんなにも苦しいのだ。もっと苦しい人は他に、すぐ側にいるというのに。
「なぁ……父さんは、こういう時どうしてた?」
数分ほど考え込んで、それからおもむろにシリウスは尋ねる。瞳に父に似た、北極星のような光が宿る。
「お前、本当に親父に似てきたな」
「いいから教えて」
村を訪ねただけなのに、悩んで抱えて考え込んで。そんなシリウスの姿がポールスターには懐かしかった。追憶がメモリをよぎって、その後電子の欠片となって消えていく。
「そうだな……」
ポールスターは光を放ち演算を始める。
本気を出せばどんなに遠い目的地までの確かな道のりもどんな未知の言語の翻訳もできるその端末は、たった一つの答えを出すのにうんと長い時間をかけた。
「きっと、最後までそばにいてやってたよ」
それを聞いたシリウスは立ち上がって、せめて二人の手を握りたいとアキレアの家に戻ろうとして、
「……おい、何か騒がしいぞ」
そこに、小さな人だかりが出来ていることに気づいた。
◇◇◇
夜中にふと目が覚めたアキレアが、何となく母の方を見た。すると彼の母はしわしわの口を動かして、大好きよ、と確かに伝えて、そうして息を引き取ったらしい。
ベッドの前に突っ伏して母の手を握る友の傍にかけつけて、心からシリウスは詫びた。間に合わなかった、そばにいられなかったと詫びたかった。けれどその言葉は何にもならないことをシリウスは知っていたから、外の冷たい空気を吸った外套のままただ背中をさすっていた。
「アキレア……おお、坊主」
「マルクル、さん」
人だかりが割れる。アキレアの家に入ってきたのは、先程会った村人の一人であるマルクルだった。小さな瞳を悲しみの色に染め、沈痛な面持ちで生と死に分かたれた親子を見た後、
「……アキレア、教会に行こう」
母の遺体から息子を優しく引き剥がすように、そう声をかけた。
「行きたくない」
アキレアは頑なだった。何かから目を逸らすように。
「母さんもそれを望んでるはずだ」
「そんなわけないだろ」
マルクルを見つめるアキレアの青い虹彩の温度が下がっていく。窓の外の暗闇よりも冷えて、それは何もかもを拒む冷たさだった。
「アキレア」
「ほっといてよ、もう嫌なんだ……ずっと言ってるじゃないか、僕か母さんが死んだ時は、花になる以外の方法で弔ってほしいって」
「しかし、君の母さんは……」
「行きたくないって言ってるんだよ!花になんか、わざわざならなくたっていいじゃないか……!」
わっと叫んだアキレアと、シリウスの目が合った。泣き腫らした瞳がシリウスを見つめる。
シリウスは目を逸らせなかった。似た種類の悲しみには、シリウスも確かに覚えがあったから。
数分二人は見つめ合う。遥か昔に父を亡くした息子と、今まさに母を亡くした息子。
「アキレア、あまりわがままを言うもんじゃない」
沈黙を破ったのは、思いの丈をばらまいたアキレアの腕を、そっと掴んだマルクルであった。
「花と一緒じゃないと、君の母さんも安らかに眠れないだろう」
子どもを優しく諭すような口調で、瞳を見つめて語り掛ける。アキレアの茶色いくせっ毛が怒りで逆立つ。
「それに、君の母さんはそもそも花になりたいと言っていたんだぞ」
一瞬虚を衝かれたような表情になったアキレアは、それを誰にも悟らせないような、感情のままの声を上げた。
「そんなはずない!花と一緒に誰かに配られて枯れてさ、それで母さんはどこに行くっていうんだよ!」
胸の内にあるものを形にしたようなあまりにも強い力で、アキレアはマルクルの大きな腕を、その声を振りほどいた。そのまま突き飛ばすように、人を避けて戸口を出ていく。
「アキレア!」
たまらず叫んだシリウスの声に、アキレアは一度だけ振り向いた。
青い瞳が苦しみの火柱をあげて、シリウスの葛藤ごと跳ねのけて。シリウスがその炎に怯んだ隙に、アキレアは素早く走り去ってしまった。
◇◇◇
「村に来たばかりなのに……本当にすまない、巻き込んでしまった」
アキレアを探しに行こうとしたシリウスを、マルクルが引き留めて謝る。寄せられた眉根のしわは海よりも深い。律儀な人だ、とシリウスは思う。
アキレアの家の周りのまばらな人だかりが散っていくのをちらりと見て、マルクルは声をひそめてシリウスに教えてくれた。
「あいつの父親は伝染病で亡くなってな……妻と息子を巻き込むことなく、教会に協力してもらってひっそりと花になることを選んだんだ」
「そうでしたか……その、花になる、ってどういうことなんですか?」
マルクルは目を丸くする。それから、囁くようにシリウスに教えてくれた。
「教会はもう見たか?」
「はい。あの大きな建物ですよね」
「ああ。あそこには、花があるんだ」
「花?」
「白い花が沢山咲いていてな……葬儀の後、そこに埋葬するのが習わしなんだ」
シリウスは思い出した。教会から出てきた人からアキレアが受け取っていた、雪のような花のことを。
「そうやって埋葬された人は花に生まれ変わって、また会いに来てくれるって皆信じてるんだ」
遺体が花に変わる現象、というよりは信仰なのだろう。花になるという呼び方も、なってほしいしそう信じていたい、という気持ちがそうさせるのかもしれない。
「……アキレアも、父さんが亡くなるまではそうだったんだがなぁ」
手を握ることさえ許されなかったアキレアに渡されたのは、白い花が一株だけ。それも悲しみにくれるうち、すぐに枯れてしまったらしい。
結局、彼の元には父の生きた証が何も残らなかったのだ。
「それからだ、アキレアが花になることを拒むようになったのは」
僕か母さんが死んだらそのまま埋葬するか海に投げてほしい。絶対に、花に埋もれさせないで。
初めは悲しみ故の唐突な言動だと思われていたが、今では村の皆がアキレアの頑固さを知っている。
「マルクルさんは、花について……どう思っているんですか」
花になることの善悪を、シリウスは掴みかねている。最も、単純な二元論でくくれる話でもないのかもしれない。
「生まれる前からずっとあったことだからな、疑ったことすらなかった。それに比べて、アキレアはしっかり自分で考えてるんだぜ?俺よりもよっぽど偉い」
マルクルの瞳は、申し訳なさを滲ませながらも穏やかだった。シリウスはさらに尋ねる。
この優しい大人が、花になる、ということに対して何を思っているのか。
「その……怖くはないんですか?」
「怖くはない。自分でも不思議だがな」
ほとんど即答だった。春の日差しのように、どこか晴れやかな揺るぎない声色だった。
「この感覚は、花と一緒に育った俺たちだけのものかもしれないし、上手く言えないんだが……俺は、花と一緒に眠るから皆平等に安らかなんだと信じてる」
それは怖いからではないことが、真っ直ぐにシリウスを見つめる表情から読み取れた。今までも、これからも、彼はその道標を信じて人としての生を最期まで歩んでゆくのだろう。
「それに土に埋めたり海に投げちゃ、二度と会えなくなっちまう。でも遺してきちまった人の傍に花があれば、死んでも見守ってるって分かってくれるだろ?」
◇◇◇
「……ここにいたんだ、アキレア」
シリウスが先程までいた空き地に、一人の青年が立っていた。
その影から漏れる悲しみが夜空を藍の色に染めている。青年はコートも着ずに出てきてしまったから、父の外套を着たままのシリウスと二人きりで向かい合うと随分と寒々しかった。
「シリウス……」
青年……アキレアの声は、頬は涙に濡れていた。泣き腫らした顔のまま、声をかけてきたシリウスを見つめている。
「どうして、シリウスはそんなに落ち着いてるんだよ」
アキレアの瞳は暗く、シリウスにはそれが何よりも堪えた。夜がこんなに深く冷たくなる前は楽しく話せていたのに、突然何もかもが変わってしまった。
「お父さんのこと話す時も全然悲しくなさそうだ。何で、そんなに……」
アキレアは一度言い淀んで、それからシリウスを睨む。爆発の予兆を感じ取って、シリウスは受け止めなければ、と思った。
今の自分には、きっとそれしかできないから。
「家族に二度と会えないっていうのに、どうしてそこまで楽しそうに話せるんだよ!」
熱を伴って言葉が弾ける。ありったけの感情が、濁流のようにシリウスの全身にぶつけられる。
地面に踏ん張らないと耐えられないほどの激情が、遠慮なく襲いかかってくる。
それほどの悲しみを、アキレアが一人で抱え込まなくていいのなら。彼がどうしようもない感情をぶつけたいと思っている間は、シリウスは喜んで盾になる。
「悲しくないみたいじゃないか。皆そうだ、辛いくせに隠して花なんか飾って、死んでも傍にいられるなんて!」
ずっと沈黙を貫いているポールスターは、あまりいい顔をしないかもしれない。それでも、そうしていたかった。
自己満足でも、同情かもしれなくても。伝えたいことがあって、できることもあるなら。
そしてこれは今できることだ、とシリウスは思った。それはシリウスのひとつの答えだった。
「皆本当は悲しくないんだ。シリウスだって、本当は……!」
アキレアの瞳が僅かに揺れるのを見て、シリウスはもう盾になるのをやめた。代わりに、ひとつ言葉を返す。
「悲しいよ」
アキレアの目を見つめて、シリウスはそうはっきりと口にした。
ポールスターの翻訳を信じる。どうか目の前の悲しみに沈む人に、言葉の浮き輪が届きますように。
「悲しいよ、ずっとずっと会いたい。悲しくなきゃ、父さんを追ってここまで旅なんかするはずないじゃないか」
涙を流すだけでは耐えられない悲しみがあることを、シリウスは父の死で初めて知った。
そしてそれほど深い深い痛みを人は多かれ少なかれ皆持っていることも、シリウスはここに至るまでの旅路で知っている。
「じゃあ、どうして、なんで」
「アキレアは、父さんの話を聞いてくれたね。だからかな、そうすると悲しさが安らぐんだ」
それほどの傷を癒したり、隠したり、治ったふりをして何とか生きていくための手立ても、人はいつか知っていく。
「上手く言えないけど、誰かに父さんの話をしたり、ふとした時に父さんのことを思い出したりするのは、父さんの歩いた道を辿っていくのと同じなんだ。そうしていると、道の先に父さんがいると思えるんだよ」
シリウスはもう、そのための道標を見つけている。
「それが……花になる、ってことなのかな」
「そうかもしれないし、もっと単純なことなのかも」
誰かに大好きな家族の話ができるって、そのきっかけがあるって、きっと嬉しいから。
ポールスターの液晶が吹き出すように揺れて、アキレアに飾らない言葉を伝えた。アキレアはそれを聞いて、ぐしゃぐしゃの泣き笑いを見せた。
頑なな雪が解けるような涙が、目尻から一粒落ちた。
「アキレアのお母さんのこと、教えてくれないかな」
アキレアも、シリウスも。言葉にするだけで思い返せる。後ろ姿の悲しみも、声の優しさも、頭を撫でた手に込められた温かな思いも。
「……勿論だよ、シリウス」
夜が深まる。生まれたばかりの、大きな悲しみに寄り添うように。
◇◇◇
「人参のケーキを作るのが上手だったんだ。人参が入ってたなんて全然気づかなくて、何度もおかわりしちゃった。僕はこれで人参嫌いを治したんだ」
夜の空き地に星は光る。懸命に母のことを話す青年と、聞き手の少年を見守るように瞬いている。
「料理はすっごく上手なのにとんでもなく不器用で、よく近所の人に不思議がられてたなぁ。でも不器用っていうよりはそそっかしいと思うんだ、だってすぐ忘れ物してたから!」
青年の表情はどんどん明るくなっていく。自身の涙声を、心に追いつこうとする痛みを振り切るように、身振り手振りを大きくつけて話していく。
「父さんと出会ったのは教会の前だって聞いたことがある。やたら寒い夏だったって」
早回しの幻灯機のような思い出の中で、アキレアの母はどんどん若くなっていく。
大きな声で夫と息子の名前を呼んで、自分の足で立ち上がって慌てて忘れ物を取りに行って、恋も未来も知らぬ少女になって教会に駆け出していく。
「それから……それから、母さんは……」
そこまで話して、アキレアの言葉は止まった。
うつむいて、考えて、それから驚愕の表情のまま固まった唇をこじ開けて、
「……マルクルさんの言った通りじゃないか。母さんは、元々嫌がってなんかなかった」
アキレアの瞳に光が滲む。
悲しみの夜をささやかに照らす、小さな生まれたての星のように。
「僕が勝手に嫌になってただけだ。母さんにまで、あんな風にいなくなってほしくなかっただけなんだ!」
瞳に灯る、星の光が強くなる。何光年前の光が今この空に届くように、記憶がアキレアの全身を揺さぶっている。
「本当は分かってたよ、分かってて、嫌だったんだ……母さんは元々、花になりたいって言ってたって知ってたんだ!」
マルクルの言葉が、綺麗な花ねと言ったアキレアの母のことが、それを聞いたアキレアの瞳の青が、シリウスの中で蘇る。
「だって綺麗だねって、花を見るといつも嬉しそうで……まだ、まだ歩けてた頃はずっと花の話を聞いてたのに!」
アキレアの父がどんな思いを遺して花になったのか、アキレアの母がその花にどんな思いを抱いていたのか、今はもう誰にも分からない。
「そうだよ、父さんと同じところに行けるなら、あの花も悪くないかもって……誰かの葬儀の帰り道に、そう言ってたのに!」
生者は死者の言葉を聞くことはできない。それは現世と死後の世界に分かたれた人間にとって、あまりに大きく厳格な線引き。
「母さんはよく教会に行ってた……花もよく貰って帰ってきてさ、色んな人から花の話を聞いてたんだ」
それでも、その線を越えていった人のことを考えることはできる。
「初めは花を見るだけでも苦しそうだったのに、何でかなって思ってたけど……母さんは、きっとそうやって向き合って受け入れてたんだ」
どうしてそんな行動をしたのか、その時何を考えていたのか。生者は時折解釈を間違えるし、死者はそれを正す術を持たないけれど。
「なのに僕は……勝手に嫌になってた、君にも、皆にも、母さんにだってひどい態度で……ずっと、ずっと自分勝手に嘘ついてた……!」
思いを馳せることは弔いの一つの形だと、シリウスは信じている。信じていたから、どうにかここまでやってきた。
怒って、泣きながら笑って、そして落ち込んで。悲しみの波に揺さぶられるように幾度も表情を変えるアキレアに、シリウスは心からの言葉を伝える。
「大丈夫、僕は気にしてない。気づけて良かった」
もう思い出の中でしか会えない人との唯一の繋がり、記憶が風化する前に。何もかもが、優しい忘却の暗闇に溶けてしまう前に。
伝えられて、間に合って、気づくことができた。過去からの光はきちんと今に届くことができた。
それは慰めにも似た、柔らかな希望の欠片だった。
◇◇◇
「シリウス、ここに……良かった、アキレアもいたのか」
ふと二人の間に降ってきたカンテラの明かりと気遣うような声。
名前を呼ばれてシリウスとアキレアが振り返ると、声の主はマルクルだった。村の人々が葬儀を始めたいと話しているのを聞き、二人を探しに来たという。つぶらな瞳が安心したように緩んでいる。
「マルクルさん……その、色々とごめんなさい!」
そう言って頭を下げたアキレアを見て、マルクルはさらに深く頭をふかぶかと下げて詫びた。
「よしてくれ、こちらがあまりにも無責任だった。あんなことを大人が言うべきではなかったな」
「やめてよ、僕もすごくひどいこと言ってたし……」
アキレアは思いがけない謝罪に狼狽えてこちらを不安げに見る。シリウスは一度しっかりと頷いた。
言葉を交わして思いを伝えるのに、きっと遅いことなんてないのだから。
「それに、ずっと目を逸らしてたんだ」
その言葉は小さくアキレアの声帯を震わせる。伝えたいことを届けるために、小さく、けれどとても大きく。
「僕が勝手に怒って、ずっと見ないふりをしてたんだ。母さん、花になるのを……待ってたんだよ。だってずっと花を見るのが好きで、父さんのところに行けるねって……マルクルさんの言う通りだったんだ……」
小刻みに揺れるアキレアの手を、シリウスは握る。冷たくて、でも温かな細い手だった。
アキレアは目を丸くして、けれど拒みはしなかった。
「もし、もしもだけど……今更、許してくれるなら」
アキレアの右手が微かに震える。命を刻む鼓動のように。
「今からでも、シリウスと一緒に。教会まで、行ってもいいかな」
ずび、と鼻を啜って、アキレアは息継ぎのようにそんな言葉を吐き出した。
◇◇◇
夜明け前を踏みしめて、教会に人々が歩いていく。
教会までの道のりは短く真っ直ぐで、思い出に沈んでいたらあっという間についてしまいそうだった。
思い思いの服を着た人々の間からまばらな話し声が聞こえる。着の身着のまま急な弔いに参列する人もいれば、礼服に着替えてきていた人もいる。どの人も一様に、表情には重い空気を湛えている。
教会の壁は白く堅牢で、窓枠の黒い木だけが夜と同化している。シリウスはふと、昨夜ポールスターが言っていたことを思い出した。
あの時はまだ、アキレアの母は家にいた。ただ一人の息子の帰りを、ベッドの中で待っていた。
まだ、確かにそこで息をしていた。
今は村人たちが運ぶ棺の中で、永遠の眠りについている。黒いノーカラーのコートを羽織ったアキレアの手を握って、シリウスとポールスターは教会に入った。
「……これ、って」
教会の中は壁も床も白く、外よりも、凍った海よりも冷たく感じられた。
温度や空気が外とは明らかに違う。夜よりも冷えた、雪よりも清らかな冷気がシリウスの外套を撫でる。
色とりどりの色を塗り重ねれば最後には黒になるように、多すぎて持て余すような感情を長年かけて呑んだ果ての混じりけのない冷たさだった。
白い花が、床を覆うように一面に咲いている。歩き出すと靴の裏に土の感触がして、そこが床ではなく地面であったことをシリウスは一拍遅れて理解した。
地面に山高帽をかぶせただけのような教会の上、聖母の描かれたステンドグラスが、慈愛の笑みを通して色とりどりの静かな光を星のように花に投げかけていた。
「こうやって」
右隣から、アキレアの微かな声がした。教会の中には椅子がないので、喪失の痛みにぐらつきながらどうにか立っているといったような様子で。涙に涸れた声だった。
「こうやって、弔うんだ」
悲しみを振り絞るような、まだ淡い涙の匂いのする声だった。足元の花がその思いを汲み取るように一度揺れた。
「シリウスは、人が死んだらどこに行くと思う」
「……星に、なると思う。星になって、星座になって、見守りながら生きている人に語られるんだと思ってる」
誰の言葉でもなく、シリウスは外套の裾を握りしめてそう呟いた。何故ならば父の名前ポールスターは夜の空に輝く導きの星で、いつだって優しく照らす光で。
「僕は、そうでありたい」
父が死んだと聞かされた日は、満天の星が途方もなく綺麗だったから。
「そっ、か。それもいいな。星かぁ……母さんはここで、花と一緒になるんだって、今やっと分かった気がする」
シリウスはそうやってずっと父の不在を、寂しさを埋めてきた。この村では、それが花だったのだろう。
「父さんが死んでから……ずっと、この花のことを好きになれなかったんだ」
死んだ人は白い花と共に温度をなくし、やがて教会に広がる花の一部になる。そうして生まれた花は海をも凍らせて、この村に冬をもたらすのだそうだ。
海の上の村に突然花が現れたのか、花が群生していた場所に村ができたのかまでは定かではないが。いつ頃からか、死者を花と共に埋葬すると花に生まれ変われるらしい、という弔い方ができたという。
それが厳寒の村にとってどれほどの意味を持ったのか、シリウスには分からない。それが真実なのか嘘なのかも。
大切なことはきっと、それが祈りであるということ。この村の人達にとって、花になるということは様々な色をした希望で、いつか誰もが向かう場所への道標であるということ。
アキレアの瞳は潤んで震えて、それでも真っ直ぐに、これから弔われる母を見つめていた。
「だって、花が増えたってことは誰かが死んじゃったってことだし。だから冬も嫌いだった」
いつか来る死を、花と共に凍る日を、独りぼっちの未来を克明に予感させる季節。父のように、ひっそりと枯れゆく悪夢を呼ぶ冷たい風。アキレアにとっての冬とは、そういったものだったのかもしれない。
「でも、これから冬が来るたびに、母さんのことを忘れないでいられるって考えたらさ」
少なくとも、今までは。
「この花が咲く意味も、やっと、やっと自分なりに分かった気がしたんだ」
だから、シリウスと話せて良かった。アキレアはそれだけ言って、鼻をすすった。
儀式は終わりを迎えようとしている。冷たい花の傍に白い棺を置いて、村人たちの幾人かが短く祈りを唱える。それを合図に、その場にいた誰もが静謐な空気に黙祷を捧げる。
アキレアも、ポールスターも、シリウスも。教会にいた生者たちは、皆冷たい空気の中で心をひとつにして祈った。祈りは空気をかすかに揺らして、冥福の念を死者に伝えた。
たとえもう届かなくても、それは意味のあるもの。生と死を分ける線の向こうに行ってしまった人に対する、心からの弔いだった。
「……2203-JP。この花の、かつての名前だ」
教会から出る少し前。黙ってステンドグラスの聖母の笑顔を見上げているシリウスに、ポールスターがそう教えた。白い花がかつてどう呼ばれていて、何を呼び込むと思われていたのかも。
「その名前で呼ばれてた頃は、この花がやたら沢山現れることで結果的に地球が凍るって思われてたらしい。今はそうでもないみたいだけどな」
「そういう風に……異類が、周りの環境で変わることもある?」
「何とも言えないな。例えばこの花は発展した文明向けのリセットボタンで、今は発展どころの話じゃないからこんな風になってるとか……とにかく何かしらの理由はありそうなもんだけど」
この花が世界を凍らせてリセットする前に、世界は戦渦に呑み込まれた。その時に、花の大多数は焼かれてしまったのかもしれないし、もっと他の方法でほとんどがその姿を消したのかもしれない。
それでも生き残った花のひとつが、光年にも思えるほど遠い遠い彼方の先でこうして誰かを弔っている。
美しく白い花はいずれ世界に増え続けて、いつか世界すら凍らせてしまうかもしれない。今度こそ人々は暗闇の中から抜け出せずに、この星は美しいまま氷漬けになるかもしれない。
「ぴんと来ないって顔だな」
ポールスターの声が小さく、静かに響いた。シリウスは彼方に思いを馳せるようなとてつもない終末論と目の前の清らかな光景とのギャップを上手く飲み込めないまま、ひとつ頷いた。
かつてこの花を明るみに出そうとしなかった人類が恐れた、何もかもが凍った世界。氷と雪が幾重にも重なったような花弁は、そんな終末の呼び水でもあるらしい。
「うん……すごく、綺麗だったから」
それでも余りあるほどに、本当に美しい白い花だった。ステンドグラスから差し込む夜明けの清い光も、喪失の哀しみすらも反射して、花は教会を包むゆるやかな悲しみを纏い、笑うようにきらめいていた。
涙の夜から抜け出した先で見た、白くけぶる淡い朝日のような輝きだった。
◇◇◇
だから、きっと。
「もう、大丈夫。シリウスのおかげだよ」
朝はもう、すぐそこだ。薄明の空の下、夜の残滓がほんの少し残ったままの空き地で、二人は話している。
「……なら、良かった」
星とは違う、まだ温度のない透明な光が二人の影を薄く伸ばす。
「ここに結局来てなかったんだろ?シリウスのお父さん。マルクルさんたちにも僕から言っておくよ。村の人達にも、謝らなくちゃいけないし」
「謝らなくても、許してくれると思うよ」
「マルクルさんみたいに?うん、そうだったらいいな」
別れを終えたアキレアの顔は晴れやかだった。澄んだ空気の中で、冬の、初雪の日の朝を思い起こさせた。
「あの花がこの村にある限り、母さんは生きてる。冬が終わっても、夏になって凍った海が溶けても。あの花は、いつも真っ白で綺麗なままだから」
あの花って誕生日プレゼントみたいに唐突に生えてきたりもするし、とアキレアはコートをはためかせて笑った。泣き腫らした瞼の奥に、それでも希望の光が灯っていた。
「シリウスさえ、良ければだけど……貰って、くれないかな」
そう言って、アキレアは一輪の花を差し出した。シリウスにはすぐに、それが何であったか分かった。
「いい、のかな。旅の途中で傷つけてしまうかもしれないし、それに、これは……」
「考えたんだよ、シリウス。こうやって渡せるから、みんなきっと花になるんだって、そう信じてると思うんだ」
そう話すアキレアの瞳の光は、シリウスに北斗七星を思い起こさせた。星を星座にするように、そうしてできた物語を語るように。生きた証は花にして、温度を保ったまま繋いでゆける。
「母さん、嬉しそうだった。友達ができたんだね、って言ってた。だから……シリウスは話すのが上手だから、僕の代わりにここでの話を出会った人たちに教えてほしいんだ」
風変わりだけど美しい風習の残る、海の上の村のことを。
「その時に花を、母さんを見せて欲しいんだよ」
夜明けに静かに花に埋もれた、とある愛情深き母のことを。そして、
「……本当に、ありがとう……またね、僕の友達!」
そう笑う、悲しみの受け入れ方を見つけられた青年のことを。
必要以上に我々は村人と関わらない方がいいと同盟の人は言うし、シリウスはそれに概ね同意している。しかし父はそうではなかったことを、シリウスは旅をしながら知っていった。だから、たまにどちらが良いのかシリウスには分からなくなるけれど。
「またね、友達アキレア!」
シリウスは父のように彼にまたねと笑い返した。今はそうしたかった。寒空に友に手を振って、どこまでも進んでみたくなった。
何度も何度も手を振って、片手に持った花と共に村を振り返りながら、心地よく冷えた新しい空気の中を歩きたかった。
◇◇◇
そうして凍った海の上を歩きながら、ふとシリウスは思い出した。寒い寒いとぐずる小さかったシリウスを肩車して、星にうんと近づけてくれた父のことを。
『な、寒いと星が綺麗に見えるだろ?』
「……本当だね、父さん」
風に震えながら独りごちたシリウスの声を、父に譲り受けた物たちが受け止める。揺れる革のカバン、海を踏みしめる黒いブーツ、少し大きな焦げ茶の外套、そして父親と同じ名前の端末。
寒いと泣きたくなる。海も凍るし、もっと地面が歩きにくくなるし。厳しい寒さは簡単に人の命を奪ってしまえるけれど、それでもシリウスは冬が好きだ。
こんな夜明け前はこの星が、自分の足で立つ大地が、泣きたくなるほど綺麗に思えるから。
「雪だ」
旅人を導く星の名前を背負った端末がそう呟く。
晴れた空から、白い花弁のように静かに雪が降り始める。守るようにシリウスは花を、魂のひとかけを手に持ち直して、それからまた歩き出す。
見上げた薄明の天蓋には雪と道標。遥か空の北極星が、二人にはひどく輝いて見えた。
◇◇◇
集村 - 87
友好度 - 高
異類概要 - 不定期に出現する白い花が今も残る村。村人は花を受け入れており、葬儀の際に花と共に埋葬することにより人が新たに花に生まれ変わるという伝承も存在している。また誰かとその花を分かち合うことを含めて、伝統的な弔いの慣習としている。
コメント - この集村は海上に存在するため、冬に訪れる際は海が凍っている可能性がある。また宿がないため、向かう際は注意されたし。少し変わった葬儀の風習が残る村ではあるが、死者を弔う心は我々となんら変わらない。
探索担当 - シリウス
報告担当 - ポールスター