日奉一族連続殺人事件/毒蛇、毒草、毒ノ花

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日奉一族連続殺人事件


 2009年の6月頃、有力超常氏族・日奉一族の人間が連続して殺害された事件。
 被害者の遺体の状況や襲撃された邸宅跡に残ったアスペクト痕から一連の事件では呪術が用いられたとされ、1998年以降増加している超常犯罪に位置づけられる。総被害者数は16名に登り、主犯とされる日奉蔡の逮捕当時警視庁公安部特事課の記録にあったものの中では個人の起こした超常殺傷事件として最多。
 また、日奉邸が崩壊するなど同一族の被った損害は甚大であり、この事件を受けて日奉家は実質的な壊滅状態に陥ったとされ、超常社会への影響も懸念される。
 2009年6月12日早朝、東京都日野市郊外の車道に急遽浮上した日奉邸跡から現れた日奉蔡を現場に駆けつけた警察が逮捕したことにより終結した。日奉蔡はその後財団と政府の共同管理による刑務所、「異常性保持者社会復帰センター」に収監されている。

──信濃中央新聞データベースより


    • _

     肺がきりきりと締め上げられて息苦しく、体は熱くてたまらないし、下ろしてふた月も経たない革靴が足を痛めつける。だがそれ以上に、冷や汗が止まらない。
     高校に入学して以降そろそろ50を数える程度には通えども未だ慣れない帰路を、通学鞄の重みが肩にのしかかるのを気にも留めず、日奉いさなぎさいは無我夢中で走る。

    「何なんだよ一体……!」

     背後に迫る、強迫感めいた気配。ゆらゆらと、しかし確かに距離を詰めてくるのを背中で感じる
     尋常ならざる圧迫感──殺気とでも呼ぶべきその気配の主から逃げるように、日の沈み始めた街を駆けていた。
     何故こんな事になっているのかわからない。乗り換え込みで2時間近くの電車からようやく解放され、ホームと直結した改札を抜けて黄昏時の寂れた駅前へ降り立ったと思った途端これだ。背後から付け狙うその気配を察知してすぐ、蔡は駆け出した。古くから日ノ本の国に在り、悪鬼羅刹と対峙してきた日奉の家の末席に連なる者としての直感が、『あれはマズい』と告げたのだ。
     だから、ひたすらに、逃げていた。気管が悲鳴するようにむせるのも気にせず、駆ける。
     しかしそれでも迫る鬼気は影のようにピタリと、離されることなく蔡を追尾する。というよりも、むしろ──

    (ヤバ──追いつかれる)

     もつれる足を必死に動かしてなお、哀しいかな、女体にしては恵まれた体格とはいえ鍛えているわけでもない蔡の走力はそれを振り切るに足りなかった。強迫感さえ生んでいた気配は、もはや窒息感さえ催しそうな程近く、大きく感じられる。

    「────!」

     その正体を確かめようと振り向くと同時、黄昏の暗中ぼんやりと捉えたその像もこちらへ向かって駆けた。

    「ッ……!」

     痛む足を押して半ば転がるようにステップを踏み、襲いかかる影を躱す。急な方向転換には、わかっていても反応できないだろう。だから、焼けそうな喉から息を絞り出して、無理矢理に駆け出した。ブロック塀の乱立する郊外住宅街の利点を、今ここではじめて認識する──路地を曲がって通り魔を置き去りにする。ブロック塀が、彼我を遮っていた。

    (学生服、だったよね……?)

     体力に限界も近く全速力とはいかないが、手当たり次第に角を曲がって襲撃者を撒こうと走る。
     てっきり──気配が異様であるにしても──変質者の類かと思ったが、その暴漢は男子用の学生服を確かに身に纏っていた、ように見えた。背格好も、成人男性のそれほど大きくはない、というか、160cmを少し超すくらいの蔡の身長とそう変わらないと思う。

    (じゃあなんで……なんでこんなすぐ追いついてくんだよ!)

     空はもはや夕暮れの残り香さえ残しておらず、暗いのに加え住宅街特有の入り組んだ路地も相まって視界は劣悪だが、しかし、襲撃者の気配は変わらず的確にも蔡をつけていた。
     走りながら振り返り、背後を確認する──暗さを増していく視界の中で、もはやその影は茫洋とした輪郭さえ捉えるのが難しい。存在を明確に掴めない分かえって、その気配の圧が危機感を煽る。

    (もしかして野郎、こっちの霊力を探ってるのか……?)

     こちらから見えないなら向こうからも見えないはずだ。そして、こちらがあちらの気配を感じているのなら……?
     古くよりそういうものを扱ってきた日奉の血が流れる身体である以上、蔡の肉体には霊力と呼ばれる第六生命エネルギー──それも、日奉の血族に特徴的なパターンのもの──が充満している。どうやってかは知らないが、それを嗅ぎ当てて追ってきているのではないか──日奉蔡の脳裏に、閃きが去来する。

    「だったら……!」

     プリーツスカートのポケットからハンカチとティッシュを引っ張り出す。
     だったら、やりようはある
     走りながら、ポケットティッシュの中身を適当に掴み取り、捨て置くように袋を手放し、空いた手でそれをハンカチにくるむ。ヘアゴムを乱雑に解き、それでハンカチを留めれば──はい完成。

    「っ……アメアメ降レ降レフレフレ

     酸素の供給で精一杯の口をなんとか動かして喘ぎ喘ぎ唱えるやいなや、膨れ上がった蔡の霊力と共に、その手に持った"てるてる坊主"がバスンと爆ぜ──しばし間を置いて、空から大粒の水が降りだした。
     クラスⅢ天候改変能力。SCP財団、あるいは単に"財団Foundation"という名の組織がそう定義する超能力。日奉の血が蔡に与えた力であり、具体的には特定の儀式を行うことで即座に雨天を齎しむる、雨乞いの力。

    (頼むからこれで撒かれてくれ……!)

     息も絶え絶えながら、ここで逃げおおせなければ命は無いと走る。
     本来であれば顔を書き入れたり高い所へ登ったりといくつか細かい段階を踏むのだが、そんな余裕はない──故に雨乞いの効果も本来程でなく、数分で止むような夕立ちを起こすぐらいのものだろうが、それで十分。天候を書き換えるために使われた霊力は、今も雨に染み出して降り注いでいる。匂いが雨の中に消えるように、彼女の霊力もまた、降りしきる霊力の中に紛れて消える──狙いはそこにあった。

    「っ、何だったんだよ、ホントに……」

     彼女の咄嗟の能力行使は功を奏した。その証拠に、がむしゃらに走り続ける蔡の後をつける気配との距離は開いていた。異常なほどの圧迫感はもう無い。そのまま雨脚が弱くなりだすまで走り続け──そして、"撒いた"と確信して、足を止めた。破裂しそうな心臓をなだめつつ汗だか雨だかわからない生暖かな液体を拭い、日奉蔡はそう呟く。
     雨が上がり、元の空が戻る。日は本格的に沈んだようで、真っ黒な闇が天蓋を覆っていた。日奉蔡は、濡れそぼった制服ごと身体を引きずるように夜闇に消えていった。

      • _

      「蔡。昨日の夕立は、お前の仕業だな?」
      「……はい」

       翌日。
       日奉蔡へ与えられた古びた家屋に、日奉本家当代当主・日奉きんが現れ、いの一番にそう問うた。
       早朝だからか──時刻で言えば5時を回った頃である──あるいは、本家当主という絶対的な存在を前にしているからか、蔡のレスポンスは鈍い。

      「何度聞かせればわかる?」
      「ごめんなさい……」

       早朝、シンとした空気の中に、威圧的な声が響く。
       日奉当主の存在感が、祭は苦手だ。全身の筋が硬直し、微細な運動にさえ違和感を催す──叱責とあらば、尚の事だった。

      「お前のあれは気付くものが見ればすぐそれと気付く。目立つ真似は止せと言って聞かせたはずだが」
      「すみません……」

       日奉一族の長が、厳めしい顔貌と声で以て蔡を咎める。
       現在の家主は一応、蔡である。が、堂々たる檎と、訥々と話す蔡では立場が逆転したかのようにさえ映った。ボロ屋の長は、許しを請うように頭を垂れる。

      「しかし、随分焦っていたようだなぁ? ただでさえ目立つというのに、不整然であればなお立つ波は大きくなろうに。ええ?」
      「……」

       詰られながら、考える。
       昨夜のことを、どう切り出したものか──萎縮しきった空気では、釈明さえままならない。

      「はあ……まあ、よい。言い訳があるなら聞く。何か訳があるなら言え」
      「あの、それが……通り魔に襲われて……」

       漸く許しを得て、絞り出すように、言葉を発した。
       昨日の襲撃者のことを──襲われたのは自分で、だから被害者の立場であるにも関わらず、罪を明かすかのように説明する。

      「通り魔? ほう……」
      「……」
      「よもやとは思ったが、でかした。撒き餌程度にでもなればいいと思っていたが……まさか釣れるとは思わなんだ」
      「え、と?」

       何やら得心したのか、否応なしに場に圧をもたらす雰囲気が一転、猫が鼠を取ってきたかのような笑顔さえ浮かべ、心配するでもなくむしろ褒めるようなことを、檎は言う。

      「今日の帰りは梟を迎えにやる。合流して帰ってこい」
      「……え?」

       一方的にそう告げ、「いいな?」と念を押してから日奉本家の当主は家主に部屋の支配権を返した。
       引き戸が閉じる音を聞き、本来の家主は呼吸を思い出したかのように息を漏らす。

      「はぁー……」

       嵐が去ったあとのような心地がした。
       どれほどの時間が経っただろうと時計を見る──朝食を摂る時間は残っていたが、食欲のほうが追いつかなかった。

      「だる……」

       "ガッコ行きたくねぇ……"と思うのは毎朝のことだが、しかし、億劫がってもいられないようだ。
       いつも以上に緩慢な動作で、支度を始めた。


       そして、学校帰り。日奉祭は一人、おそらくチェーン経営だろう喫茶店の席に戻り、パンとおかわりのコーヒーの乗ったトレーをテーブルに置いた。何度カウンターと席を往復したかわからないが、この調子で待たされると夕食を摂りそこねる──無心で待つのも特に苦ではないが、しかしこれから何を言いつけられるか知れたものではないのだから、食事はしておかないとどうなるかわからない。
       故に、ただ無心で、咀嚼する。
       そうやって皿を睨み続けてしばらく、蔡の視界、テーブルの向こうに人影が映った。待つこと2時間強──いい加減噛むのも面倒になってきた頃、迎え人が現れた。

      「優雅に食事だなんて随分と良いご身分ね?」
      「……ごめんなさい」

       日奉ふくろう。日奉一族宗家の一員にして、遠見の術を扱う巫女。『迎えにやる』とは言われたが、本来分家の、それも末端である蔡の迎えに寄越されるような人間ではない。
       その証拠と言うべきか否か、集合地点に指定されたのは学校と蔡の家の中間地点だったし、そも蔡の通学定期券が通じない路線の駅だった。"迎え"などではないのだろう、し、蔡を気遣ってなどでもないのだろうことは初めから理解していたが、交通費は馬鹿にならない──もっとも、そんなことに文句を言える立場ではないのも初めから理解しているが。

      「謝らないでくれる? 私が悪い事してるみたいじゃない」
      「…………」

       向かいに座った梟の視線は鋭く、詰る声を、ただ、聞き入れる。
       蔑むような目と言葉が、蔡を俯かせる。"ような"、というより事実そうであることも含めて、蔡は縮こまることしかできなかった。

      「黙らないでよ。何とか言ったら? 随分とろいのね。これだから卑しい娘は」
      「……すみません」

       声帯まで縮みきったのか、振り絞った声は蚊の鳴くような掠れたものだった。
       日奉でありながら無能の母と、何ら特別な力さえ継いでいない血筋の父の間に生まれた蔡を指して、一族の者は「卑しい」と言う。正直、反論はできない。子供の蔡を置いて蒸発するような母親だ。娘から見ても卑しい生き物だと思うし、その血が流れる自分も、誹りを受けるのは無理もない。自覚している。
       ──本当、心底嫌になる。

      「だから、謝る暇があったら早く食べなさいよ。待たせないでくれる? 事は一刻を争うの、貴方分かってる?」
      「はい……」

       俯いたまま、返事を絞り出す──垂れ下がった前髪の隙間から伺う対手の顔が呆れたとでも言いたげに歪むのを察知し、慌てて次の言葉を繋いだ。

      「あの、私の食事はいいので、その……始めてください」
      「そう。良いから黙って頭を出しなさい。早く」
      「は、はい」

       恭しく皿を退けおずおずと申し出る蔡に、初めからそうしろと言わんばかりに梟が指示する。"本当にとろい……「雑」の癖に使えない"とでも思っているだろうとは、梟のような力を持たずとも理解できた。
       現代では超感覚知覚ESPと呼ばれる力を継ぐ日奉──日奉梟が、下げられた蔡の頭に手を添える。本家の巫女がわざわざ派遣されたのは当然蔡の迎えなどではない。他でもないその力で、一族を害した犯人を探し当てるためだ。

      「──貴方、本っ当に使えないわね」
      「……え」

       心底の侮蔑の籠もった声で吐き捨てた。
       本領を発揮できるのは日が沈んでからという制約こそあれ、遠見の巫女は伊達ではない。サイコメトリーはとうに完了している。梟の千里眼は既に、蔡の記憶から突き止めた賊の姿を追っている──!

      「行くわよ。ここで取り押さえる。立ちなさい」
      「え、ちょ」
      「グズグズするなって──言ってるでしょ!」

       急かしながら勢いよく店の入口近くを指差し、瞬間、指す先の空間が渦巻くように貫かれた
       日奉に伝わる巫術──霊力の槍が空間を裂いて飛んだにもかかわらず、それは何を攻撃することもなく空を切った。その代わり、学生服の男が席から転げ落ちるように走り出す姿を確かに蔡の目は捉えている。

      「チィッ──!」
      「あれは」
      「だから、早くしろ!」
      「いっ……はい!」

       舌を打って、突然のことに固まったままの蔡の腕を強引に引っ張り、梟は走り出す。

      (つけられてた……? 一体どこから?)

       逃げ出した標的を、梟の目はしかし逃さない。店を飛び出し、すっかり暗くなった路地を走るそれ見失うことなく追う梟に置いていかれないように、祭は必死で走る。
       あれだけ近くにいたのを気付かなかったとは──確かに役に立たないと言われても文句は言えないのだろう。
       気付いて然るべきでは、あった。一瞬背中を見せた制服も、それとわかったからか認識の中で膨らんでいく重圧けはいも、昨日見たものと同じだ──しかし、立場は逆転している。蔡を狙っていたのだろうが、ことこの局面に差し掛かっては、追われるのは通り魔のほうだ。

      「チ……百頭モズ!」

       賊は大通りを抜け、裏路地へ。応じるは梟──苛立たしげにどこからか札を取り出し、叫ぶ。日奉の巫術は神を飼い殺すそれだ──式神術。真の日奉にのみ許された術式に従い、その名の通り夥しい数の鳥が暗闇に飛んだ。
       先刻霊力の槍──術の名前を"鳥槍"──として放たれた1羽を引いて99羽、1日1回の召喚につき100羽の圧倒的物量が、号令に応じて幾手かに分かれ人影を追う。

      「蔡!」
      「──っ!」

       "走れ"、ということなのだろう──怒号とともに曲折した梟に追従して、蔡も走る。

      (なんでこんな必死に走ってんだろうな──)

       先が見えている故に迷うことなく動く梟の走路を必死で追いながら、つい、愚痴めいた考えが浮かぶ。遠見の巫女といえど無条件に他心通テレパスができるわけでもないのがせめてもの慰めだ──内心愚痴るくらいなら、叱られもしまい。
       本家の人間が蔡のような立場の者のためにここまでするわけはない。檎の口ぶりからしても、おそらく蔡以外の一族が、既に襲われているのだろう。だから一族が守りたいのは蔡の身の安全ではなく、家門の体裁のはずだ。

      (別にそこまでして、何がどうにかなるわけでもないのに)

       角を曲がる──"なんで私が走ってんだろうな"と、思う。
       蔡が走ろうが、きっと、一族は彼女に報いることはないだろう。手柄は、梟のものだから。蔡には一瞥もくれないまま、これまで通り"卑しい"生き物として扱われるのだろう。あるいは命さえ卑しいそれとして使い潰されるのがオチか?
       極論でもなく事実として、一族にとって蔡など生きていようが死のうがどうでもいい存在なのだ──蔡自身でさえ、そう認識している。

      「っと……」
      「──見ぃつけた」

       もう一度角を曲がって飲み屋街を抜け、梟が急停止した。突然のことでおっつかずにつんのめった蔡の視界の先に、それはいた──ここに来て、ついに対面。
       低空を蠢く群れに追い立てられた学生服が、道の向こう側に、見える。

      「──っ!」
      「──、──」

       正面切って相まみえるのは、これが初めてだ──無意識に、息を呑む。
       逆賊、追い詰めたり。向こうも動揺しているのか、空気圧にも似た気配が揺らめいて、燃え上がるのを、蔡は確かに感じ取った。
       向かってくるか、と身構えるも、日奉本家が敵を前にして反撃を許すはずもない。

      日奉一族うちに喧嘩売った落とし前はつけてもらうわよ……百頭モズ!」

       蔡を襲ったのはあくまで余罪──逆賊の罪過は日奉一族の構成員かぞくに、手を出したこと。その咎を以て、梟は式神をけしかける。
       梟に合流した「百頭」が、主の言葉に呼応するように羽音を立てて、相対する敵めがけて、飛ぶ。形としては。背後から迫る群れと合わせての挟み撃ち──蔡はその様子を、固唾を飲んで、ただ、見ていた。

      「鳥槍──魚狗カワセミ!」
      「──!」

       号令とともに、鳥たちがそのまなこで捉えた獲物へと、自らの体を霊力の槍に変換しながら突っ込んでいく。
       闇の中に黒い影が飛び交い、そして学生服が2転3転と翻る──鳥槍術は"点"の攻撃だ。容易い所業でないのは置いておくとしても、確かに少し身を捻れば躱すことはできる。

      (けど──このままなら)

       だが、それも長くは保たないだろう。人間の身体には限界があり、いずれは隙が生まれる。前後から連続して打ち出される攻撃はあくまでもジャブ──本命は梟の側に控えた式神を手ずから打ち出す"鳥槍"、速度とコントロールに秀でる"早贄ハヤニエ"で、隙を貫くつもりだろう。
       それで、終いだ。

      (──それでいいのか?)

       刹那、蔡の胸が高鳴る。「それで、いいのか」と動悸が問う。
       思い出すのは、日が沈みゆく街を駆けた昨日のこと。死んでもいいくせに、あの時どうして走った
       ──心臓は、答えを知っている。

      「……惨めなままは、嫌だもんなぁ!」
      「なッ──!?」

       鼓動に突き動かされるように、梟に組みついた。
       空を割り降ってきた蜘蛛の糸。高鳴る胸が、これはそれだと言っている。全てがひっくり返るかもしれない事件チャンスを、このまま逃してなるものか──!
       そのまま、手足を抑える。早贄を使うには、手指による制御が必要だ──"手ずから"という表現はものの喩えではない──これで、封じた。

      「アンタ何を……離しなさい、蔡!」

       蔡の予想外の行動に虚を突かれたのも束の間、日奉梟と彼女に従う式神は蔡を振りほどこうと暴れる。
       離すまいと力む蔡の手には、てるてる坊主が握られていた

      アメアメ降レ降レフレフレ
      「──!」

       蔡とてただ待ちぼうけしていたわけではない。カフェにあった材料で拵えたてるてる坊主が、詠唱とともに爆ぜる。そして、空から雨水が滴り落ち、低空を蠢く群れが静止した。
       天候を書き換えるその一刹那、制空権は日奉蔡の手中にある──空を飛ぶものたる鳥は、その活動領域を支配する力の前に、一瞬だけ、屈服した。

      「おい、今だぞ──れ!」
      「蔡、アンタ……!」
      「ッ──!」

       その一瞬こそが死線。影が走る──弾幕が止んだ瞬間、学生服の殺人者は、組み付かれて立ち尽くす梟をめがけ、獲物を喰らう蛇のごとく飛びかかった。

      毒し殺せウン・ハッタ

       毒牙、接触。殺人者の拳が、梟の胴体を打つ。
       インパクトと同時、学生服が唱えて──重苦しいほどの気配が更に膨れあがり、鋭利な針のように収束する。束の間、梟の中で"死"が弾けた。
       その感触と、それに次いで腕の中で暴れる人間がピタリと身じろぎさえしなくなったのに慄き、蔡は抱きとめていた梟の体を放す──それは自立することなく、アスファルトの上に音を立ててたおれた。
       雨が、降っていた。

      「あんた、名前は」

       数歩離れて、学生服の男が声を発する。背格好に見合い、ローティーンの男子然とした声だった。

      「──蔡。日奉蔡」
      「日奉……なるほど、そういうことか。──俺は薬師寺やくしじまむし

       誰何に、息を呑んでから──蛇に睨まれるような寒気を抑え込んで、答える。
       律儀にも、殺人鬼も名乗った。友好、否、停戦の証とでも言うべきか、毒々しいまでの気配は、収まっていく。
       いや、待て、今こいつ、薬師寺と言ったか──? あの薬師寺

      「うちの制服だろ、それ。可愛そうにな」
      「え……いや、何が」

       蔡の動揺をよそに、殺人鬼──薬師寺虺は同情するような言葉を投げかけた。
       動揺は深まる。その出自や立場ならまだしも、制服姿に関して憐れみを買う覚えはない。むしろ、一族が珍しく蔡に温情をかけて進学先まで用意してくれたのだ。可愛そうなどという謂われに、心当たりはなかった。

      「なんだ……気付いてないのか」
      「だから、何が──」
      「日奉蔡。あんた、薬師寺に売られたんだよ」

       花籠学園の校章を指差して、薬師寺虺は突きつけるようにそう言った。



      【日奉宗家"木流" 日奉梟────心臓麻痺により死亡】
      (民間人が路地裏で発見)

        • _

         時は5月中旬。花籠学園特別研究棟に設けられた個室で、花籠学園中等部1年生・薬師寺虺は席に着いていた。
         窓の外に日は高く、リノリウムの床と室内に散在する計器のガラスの反射はそれらがまだ新しいものであることを告げている。

        「というわけで、今回から君の特別授業を担当させてもらう神枷かみかせ詞音しおんだ。よろしく──この学園に神枷は2人いるから、『詞音先生』でお願いね」
        「どうも……詞音先生」

         神枷を名乗った非常勤教師を、薬師寺虺は怪訝な目で睨んだ。神枷一族──蔡の実家の「日奉」や虺の実家の「薬師寺」と同じ、旧く蒐集員により封ぜられた4つの家系の1つであり、超常なる力に頼らず弁舌だけで身を立て他の血族と渡り合った四家の中でも最も奇異なる一族。力無き者を引き入れ鍛え上げてきたという歴史を持つ彼らを教職に抜擢したのはなるほど確かに理に適った人員登用だと思うがしかし、現代となってはとうに散逸した一族を2人も引っ張ってくるとは一体、この学園の長はどんな人脈を使ったのだろう?

        「そう睨まないでよ。やっぱり薬師寺から見たら神枷僕らは珍しいかな?」
        「……本当に生き残ってたんすね、神枷って」
        「はは、まあ僕は傍系なんだけど……けどだからこそ、君相手にアサインされたわけだ──いいかい、薬師寺虺くん。君はこれから、『力』の使い方を学習することになる」

         ヴェール崩壊をきっかけとし、"異常"とともに歩むことになった社会に必要な教育を提供するという名目のもとで設立されたこの花籠学園は、その題目に違わずかつての学校教育に比すれば異常極まりないカリキュラムを備えている。それがこの特異性人間能力開発研究ウルトラヒューマニスティック・ドグマ──超常なる力の使い方を学ぶための授業だ。

        「君の身体に眠っていた力が目覚めようとしていることは君自身も理解しているね?」
        「……まあ」

         その生まれから力を備えて生まれてくるかと思われていた虺はしかし、普通人と変わらない成長を遂げ、只人として過ごしていた──ついこの前までは。きっかけとなったのは、獣人化ウィルス・TX-85957への感染。2009年初頭に起きたアウトブレイク事件の影響は、薬師寺虺にも降りかかっていた。蛇の瞳孔を植え付けられた彼の身は、着実に力を目覚めさせようとしている。

        「本来僕たちに任されていたのは君の力を引き出すことなんだけど、その工程は全カットだ。職員室はてんやわんやだけど……なんにせよ君という生徒の研究価値が高いのは確かだからね。今回僕には君の才能を使い物にする方法の探求が課せられている。一緒に頑張っていこう」
        「……ども」

         スレた少年らしく刺々しい目を顰め、返事に困って発した二文字に、神枷は満足げな顔で頷き返し、「さて」との一言を合図に、腕を広げて話し始める。

        「いいかい虺くん。力には効率のいい使い方というものがある。何も霊力だけじゃなくて、声帯、脚、腕、腹筋に指の先まであらゆる人が使う力にはいつだってフォーマットというものがあってね。武術や舞踏ではそのまま『型』と呼ぶんだけど、それは神秘の行使にも同じことなんだ」

         腰の落とし方から構え方、重心操作から呼吸法に至るまで、先人に築かれ洗練、最適化された所作の体系。武術や舞踏のそれと同じように、超常なる力の行使にもフォーマットというものが存在する。
         神枷詞音──この教師の生家は言語におけるそれの研究を生業とし、故にその分野に関しては、一家言、あった。

        「武術の初歩──文字通り初歩に歩法というものがあるんだけどね。君がこれから覚えるのはその歩き方だ……『歩く』という動作は実はかなり高度に洗練されていてね。ロボットなんかで再現しようとすると難しいんだこれが。体重移動とそれを支えながら前へ進むための力の加減がとてもじゃないが再現できないんだと」
        「……体育着要るんなら、先に言ってくださいよ」
        「いやいや、ただの比喩だよ、安心して。まあつまり……掴まり立ちし始めた君の力を、次は制御可能な形でかつより洗練された歩き方に落とし込む」

         つまり何が言いたいのだろう、と憮然とした顔で講義を聞く虺に、「では本題だ」と、教師は告げる。

        「僕は辿っていくと翁鳥の血を引いているんだけど──神なるものを生活に組み込むことに心血を注いでいた一族の技術は、うちにも継がれていてね。君にはそのうちの1つ、真言の詠唱を教えておこうと思う」

         真言──文字列マントラそのものが力を持つ、サンスクリットによる呪文。サンスクリット自体が根源的にアーキタイプに近しい音の集まりであり、故にそれぞれのアーキタイプを軸として大まかな指向を決定する形式の原始呪術に利用されてきた、基礎的な奇跡行使のフォーマットの1つ。それを、これから教えると宣言した。

        「君にはこれがいいだろうと思って用意したんだよ。軍荼利明王、知ってるかな? 薬師如来とも通ずる所のある神体でね……まあそれはいい」

         曼荼羅の一部を成し、破壊──これは善悪を問わない──のアーキタイプに近いとされる神格の名を挙げて、虺の方を見る。いまいちピンときていない様子の生徒の顔を伺い、細かい機能や文化との関連はまた今度話そうと判断して、話を続ける。

        「元の機能をフルに使いこなそうとしなくていい。アーキタイプ……密教で言うアートマンだね、そういうのを掴むのは高僧でもないと不可能だ。自分なりの解釈を見つけるのは追々でいい──真言に限らないけど、呪文は唱えることそのものに意味がある。まずは、そこからだ。オンとオフの感覚を掴んでほしい。今回の授業はそこがメインだよ」

         手を合わせ、「つまりまあ自己暗示のための呪文だね」と総括する教師に、生徒は"早く本題に入れよ"と言いたげな視線を向ける。それを受けてか、神枷詞音は口を開いた。

        「オンオフは大事だよ。手に掬った水を一滴一滴垂らし続けることは誰にでもできる、が、手を組んで水鉄砲として撃つことだってできるはずなんだ」

         「こう、ね」と手を握りあわせるジェスチャーをしながら、教師は続けた。

        「それができる人間とできない人間の違いが、神秘術の適性の有無にそのまま直結する。そして君はあの薬師寺の人間だ。できないはずはない。だから、必要なのは方法論だ。長くなったね。ここからがマジの本題だ。具体的な方法を教えよう──『オン・キリキリ・バザラ・ウン・ハッタ』と、唱えるんだ。概ねの機能は破壊と薬効をもたらすものだと理解しておけばいい」

         そう語ってからふにゃりと笑い、「もっとも、これだけが方法じゃない。君に合ったフォーマットを探したり作ったりするのがこの学校の使命だから、失敗は気にしなくていい」と告げ、柏手を打ち「まあ、やってごらん」と締めて長い台詞を打ち切った。「わかりました」との返事の後、一瞬の静寂が教室を支配し、少年は口を開いた。

        オン・キリキリ……」

         口を開き声帯に空気を通しながら、イメージを膨らませていく。呼気が肺を通って体中に溶け出し、体内を巡るものが熱を発し始めるのと同期して手首の血管は脈動し、眼球さえも熱を持つ──そして、燻るそれが煙を上げる想像が脳裏を走る。
         ここまでは、よく見る夢。

        「そう。そんな感じ。そのまま先へ進むんだ」

         計器を眺めながら放たれる教師の言葉を"なんだそれ"と思いながらも、言葉を続け、霊力を励起していく。暗く暖かい闇の底へ潜っていき、燻る火種に手をかざすイメージ。

        バザラ……ウン、ハッタ

         唱えきり、何か暗い炎のようなもののイメージが脳裏で揺らめいた瞬間、視界が切り替わった──比喩ではない。実際に、彼の目に宿った蛇としての知覚機能が呼び起こされたのだ。
         命やその痕跡が、見て取るように理解できる。視界は、流動する命の匂いを写していた。

        「……すごいね。一発でそこまで行くとは思わなかった……おめでとう。やはり君には薬師寺の血が流れているようだね」

         驚きを隠せないとでも言うように目を丸くする。超言語学者たる神枷の経験に照らし合わせても、ここまで優秀な検体はそういない──驚きに次いで喜色が顔に浮かぶのを、神枷詞音は記録を取ることで誤魔化した。

        「俺の目……このやり方なら、コントロールできます、か──ッ!?」

         突如教室の窓から覗く空に走ったノイズが啓かれた目を焼き、虺は目を押さえる。目を瞬かせ恐る恐る抑えた手を外して、何があったかと窓の外をもう一度覗くと──その目は、不自然な雨が降るのを見た。

         ──彼が初めて人を殺したのは、この1週間とちょっと後の話。


        「日奉さんの家では楽器の芸事とかはやらないのかな?」
        「舞とかやる家の人はやりますけど……私は特には」
        「そっかあ」

         「アメアメ降レ降レフレフレ」の号令で降り出した雨が、2人分のビニール傘を叩いていた。何やら機材で記録を取り、しげしげと雨を眺めて後口を開いたのは、花籠学園特別非常勤講師、神枷律機。日奉蔡の『特別授業』を担当することになったのは、眼鏡を掛けた物腰柔らかな神枷だった。

        「私の専門は音楽だから、そういう話をする機会があれば良いなと思ったんだけど」
        「神枷の音楽家サマが日奉の雑草に何を教えるっていうんです」
        「ふふ。私は一応、調律師って名目でここに呼ばれているんだけどね……楽器だけが私の調律対象というわけでもないんだ」

         屋内では力を使えない蔡に合わせたセッティング──特別研究棟横に作られたビオトープの池にできる波紋を見ながら、"調律師"はニヤリと笑う。

        「音律奇跡論という分野があるんだけどね? 先生はそっちもちょっと嗜んでいるんだ──まぁ、ほんの少しだけどね」
        「……だから?」
        「きみのような人の能力の『形』を整えるのも、『調律師』の仕事なんだ。音っていうのは波形なんだけど、どんな音──『形』を出力したくて、そのためにはどうすればいいか……みたいなことを研究したりしているんだね」

         雨音が、会話の間をつなぐ。
         聞き慣れた地面を水が打つ音に、意識を浸す。悪い心地はしなかった。

        「雨は好き?」
        「好きっていうか……落ち着きますね」

         "落ち着く"というよりは"マシな気分"というほうが適切な気はしたが、言い直すほどのことでも、相手でもない。
         生まれ育ちに恵まれない蔡でも、視界いっぱいの空に雨雲をぶちまけるのは、いくらか気を紛らわしてくれる、数少ない慰めだった。蔡自身生まれに憾みこそあれ、生まれ持った力は嫌いではない──雨は、嫌いではなかった。

        「そっか」

         教師は目を瞑って、「んー」と少し楽しげに漏らす。まるで雨に歌うような姿を、"なに楽しそうにしてんだ"と冷ややかに生徒は見つめた。

        「そのわりには少しズレがある……というより、雑だね。きみの演奏は」
        「は?」

         品評するかの如く発せられた言葉の、しかし婉曲な物言いに、疑問の声を上げた。

        「音がね、雑っていうか、洗練されてない感じがするね。力任せで適当に引っ掻いたギターみたいなって言えば伝わる?」
        「クラシックで喩えられるよりは、まあ」
        「きみのその能力自体は、まあそういうものなんだろうけど……ギターからピアノとかハープみたいな音は出せないから、音色がそうであることに問題はない──そういう楽器なんだろう。問題は多分演奏者の方なんだよね」

         ザアと校庭を鳴らす雨の音にしかしかき消えることなく、神枷律機の声は浸透する。

        「『射程範囲の細かい調整はできない』って言ってたのとかも、多分そのへんに由来するんじゃないかな」
        「……無能ですみません」
        「いやいや、そうじゃない──『日奉』なだけあって、素材としては優秀だと思うよ」

         卑屈になってみせる蔡に、すかさず気を遣った。実際、この花籠学園──超常なる学校においても日奉の血族は得難い。一般に社会へなかなか出回らないだけあって、稀少性と有用性で言えば卑しい生まれ育ちを補って余りある。

        「ただ、そうだなあ……日奉さん、なんていうかこう、投げやりになってない?」

         しかしそれだけのアドバンテージを有する日奉といえど──アドバンテージを有するからこそ、悪癖は治さねばならない、と神枷は指摘する。

        「何でもそうだけど、無軌道なままでうまくいくことは少ないよ」
        「投げやりも何も……」

         正当な日奉と違って蔡は、一族相伝の力の扱い方を習っていない。"それができる"という由で一族に迎え入れられただけの卑しい子供が、"できることをやってみる"以上のことをやったことは当然、ない。器だけの身に、一体何を求めるというのだろう。

        「人間はね、日奉さん。本来自由な生き物なんだよ。どんな演奏でもできるはずなんだ。その権利を投げ捨てるのは、楽器への背徳だ──と思うんだよね」
        「……うちじゃ楽器なんてただの道具に過ぎませんけどね」
        「それは良くないな。どうりで日奉から仕事を受けた記録が残ってないわけだ」

         まあうちの人らならそうだろうな、と思う。力無き者に厳しいのだ、日奉一族は。

        「けどまあ……だからこそかな。もしかしなくてもだけど、日奉さん、日奉流のやり方習ってないんでしょ? ゼロベースで調律ができるのは逆に都合がいいかもね、きみの場合は」
        「そんなことはないんじゃないですかね……」

         日奉の血はかなりの特異体質だ──能力にしろそれを扱うための術式にしろ、時間と世代をかけてそれ用にチューンナップしたものを相伝しているのだし、それを知らないというのはこと洗練を目的とした場合やはりディスアドバンテージな気もするが。

        「いやいや、神枷を舐めないでもらいたいな。調律術の歴史は古いし、実は先生これでも結構腕が立つ方なんだよ」

         ふふ、と笑いながら、調律師は蔡を見た。
         超常なる力を持たないながらに歴史の裏で生き残り続けてきた神枷の血は、この調律師にも流れている。敵対する能力者たちに取り入るために編み出された調律術は確かにここに息づき、花籠の中で草花を育みながら、最適化を続けていた。

        「それに、きみの場合は基底音から探すほうが、やっぱりやりやすいと思うんだよね」
        「……はあ」
        「だからまあ、宿題ってことになるのかな」

         傘を持っていない方の腕につけた腕時計を見ながら、教師は言った。

        「いきなり答えを見つけろとは言わない。やりたいことを見つけろって言われてもそんなすぐには無理だよね?」
        「進路指導みたいなことを言いますね」

         "またそういうのか"とでも言いたそうな、説教慣れした子供のような顔をした日奉を、神枷は微笑ましげに見つめて続けた。

        「当面はいまのきみに合った形を見つけていくことにするけど、それにしたって調律の軸が必要だ。少し考えてみてくれると助かるな。きみのやりたいことは何なのかについて」

         雨が上がる。傘を畳みながら、「今回はここまで。次回の実技は半月後だね──次回までに、宿題をやっておいてくれると嬉しいな」と神枷律機は笑った。

          • _

          「やっほ」
          「……よう」

           6月8日、月曜日。
           『匿って♡』というメッセージを下駄箱から受け取った虺は、放課後──特別授業を盛り込んだだけあって花籠学園のカリキュラムに余裕はなく、連日放課は4時を過ぎてからだ──花籠学園最寄り駅で差出人、日奉蔡と再会した。

          「普通にガッコ来てて大丈夫なのか、あんた」
          「うん。その辺は多分大丈夫」

           制服姿の蔡を見て、目を丸くする。てっきり、身を隠してあちこち逃げ回っているものかと思ったが、どうもそうではないらしい。

          「まあ……だろうな」
          「うん。まあ、そっちもある程度は分かるでしょ」

           薬師寺虺が人を殺しておきながら、こうして日常生活を送っているのと、蔡の言っていることはきっと、同じ根拠に依ってのことなのだろう。
           こと旧く、呪われた家が絡む事態において、国家権力の動きは至極鈍い。
           かつてより民草の営みの裏に潜み、その中での秩序をさえ形成するようになった勢力相手に下手に干渉できないのもあるが──一番大きいのは、その家自体が外部勢力の介入を拒むことだろう。内部の威厳や対外的体裁上、外部に隙を見せたり借りを作ったりするのは避けなければならない。それに加えて、何より、他所に知られたくない、探られたくない痛い腹──そういう思惑は、どこの家にもやはり、ある。

          「それより警戒するべきなのは日奉いちぞくの追手でさ」
          「だから俺『匿おうか』って言ったじゃん」

           あの日あの後、別れる前に交わした会話。
           
           ──「あんたこの後行く場所あるのか? なんなら、匿おうか」
           ──「いや、今日会ったばっか男の家に転がり込むのはちょっと」
           ──「……あっそ。何かあれば花籠学園中等部まで来なよ。共犯として、力になってやる」

           ──「りょーかい。じゃまた学校で」と告げた蔡の言葉を最後に別れた2人だが、あまりにも早い予告の成就に、殺人鬼とはいえ虺も困惑を隠せないでいた。中学生と高校生という年の差由来のものもあるのだろうが、蔡のペースであることは否めない。

          「いや、一箇所に落ち着くのも怖いなって思ってたんだけど……花の女子高生がマック難民は無理があったわ」
          「……他にもっとあったんじゃねえの?」

           虺に「こっち」と誘導されるまま、日の沈み始めた街を行く。少し臭うかもしれないなと、共犯者の存在を意識した途端恥ずかしくなってくる。

          「頼る友達とかいねぇんだよ、察しろ。あと現実問題、財布が厳しい」
          「食事くらい出すよ……料理の質は保証しかねるけど」
          「重畳。横になって寝られて食事まで出るならそれで十分」
          「そうかよ──ん、そこのマンションのB棟な」
          「お前……中坊のくせに……」

           林立する集合住宅を指差した薬師寺虺を前に、日奉蔡の開いた口が閉じるタイミングを見失っていた。


           日没後、梟を殺した駅前から電車で1時間ほどの場所に位置する薬師寺虺の住居のマンションにて。
           蔡は、共犯者の部屋で、夕食にありついていた──味は、蔡の馬鹿舌では特に文句も賛美も出ないレベルだった。
           あれから一族の目を避けて家にも帰らずホームレス同然の週末を過ごしていた蔡にとっては、体感かなり久しい休息である。

          「で、『売られた』ってどういうこと?」
          「どうもこうも、そのままだけど」

           一通り皿を空けた後真っ先に出たのは、やはりあの日の続きの話だった。
           花籠学園。学校法人としては2005年に設立、2006年度から新入生受け入れを開始し、蔡、虺ともに中高のそれぞれ4期生に属する。
           ──「日奉蔡。あんた、薬師寺に売られたんだよ」。
           その花籠学園の校章を指して発せられた言葉の真意を、問う。

          「……花籠学園の経営協力に、薬師寺うちがついてんだよ」
          「うん。いや、それは知ってる。Yakushiが絡んでるのは、流石に知ってる。一応、日奉の人間だから」

           "は?"と言いたげな蔡に、虺は説明を加えた。
           Yakushiグループ──薬師寺一族の営む"薬師寺製薬"社を中核として成る企業連合体。花籠学園が立地する地域はかのグループのいわばお膝元であり、多少なりとも事情に通じた者であれば、超常の学園という奇特な組織を成立させるにあたって大なり小なり、何らかの関与があったことは推測がつく。

          「なら知ってるだろうけど、Yakushiはほら、あれだ、バイオ系だから」
          「それで?」
          「映画とかでよくあるあやしー実験とかもやってんだよ。元が薬師寺占卜の家だし、余計に」
          「それはまあ、理解できる」

           薬師寺も、日奉と同じく古から続く呪術の家系だ──神殺しの日奉、政の神枷、契り交わしの翁鳥に並び立ち、医薬を担っていたのが薬師寺である。
           蔡から見て、日奉一族にも因習と呼ぶべきものは多々あるが、薬師寺一族もおそらくそうなのだろう。十全に、当事者として理解できた。

          「──『青薔薇計画』」
          「は? あおばらけいかく?」

           出し抜けに耳に入った言葉を、反駁する。
           聞いたこともない──何のことだ、と蔡の目は虺を睨んだ。

          「花籠学園理事会とYakushiが内緒でやってる研究。なんでも才能の研究とそれが目指す先の計画、らしい。この言葉に聞き覚えは?」
          「……無い。青薔薇の方なら、まあ……名前的に、遺伝とかそういうのの研究ってこと?」
          「多分そうだろ。あんたや俺が、被検体になってるくらいだから」
          「──は?」

           日奉や薬師寺のような曰くある血を引く人間は、当然の帰結としてそれ相応の特質性を備えているが──それはそのまま、研究対象としての有用性をも意味する。

          「『売られた』って、そういうこと?」
          「言ったじゃん、そのままだって。細かすぎる身体検査とか、特別授業の計器とか、少なすぎる同級生とか、心当たりはあるだろ?」
          「……」

           入学後に行われた見たこともないような機械での身体検査。特別授業中に教師がいじっていた計器──そして何より、在籍人数。日奉蔡が名前以外のヒント無しで中等部校舎昇降口から薬師寺虺の下駄箱を見つけられたのも、そもそも母数が少なかったからだ──花籠学園の在籍生徒数は、学年あたり30人にも満たない。
           言われれば、そうとしか思えなくなってくる。

          「花籠学園に通ってる学生、中高合わせて147人──全員あんたみてーに集められた特別待遇生だ」
          「特別待遇生……」
          「つまり実験体ってこと。青薔薇計画の各下位プロジェクトに振り分けられてあれこれ試されてんのさ……あんたや俺は『異花計画』ってやつらしいな」
          「そんな……」

           "お気の毒に"とでも言うようにシニカルな笑みを浮かべた"薬師寺"を前に、日奉は固唾を飲む。
           考えれば、日奉の本家が蔡のような立場の低い者に構って進路まで用意するのがそもそもおかしいのだ。「この学校に通え」と言われた時とて、どうせ何かあるだろうとは思っていたが──まさか、実験体として売られるまでとは。正直、己にそんな利用価値があったのだと、今になって初めて気付いた。

          「ん? いや待て待て、私や他の奴は分かる。なんでお前も含まれてんだよ。薬師寺の人間なんだろ」
          「ああ、それか」

           違和感に、気付く。薬師寺一派による実験ならば、なぜ身内が被検体にされている?
           あるいは彼も、蔡のように──

          「薬師寺は、医薬の家系でさ。家に伝わってるのも、ほとんど錬金とか漢方とか、そういうので……霊力の質も、それを扱う術式も、その手のやつなんだけど」
          「うん」
          「何世紀かに一回、生まれるらしいんだよ。俺みたいな忌み子が」
          「忌み子──」

           薬師寺虺の出生は、文字通り血に塗れている。日奉蔡のような卑しい生まれと似て非なる、正真正銘、忌み嫌われた魂──生まれながらにしての殺人者。それが、彼だった。

          「『光が強ければ影も濃くなる』って言うけどさ。それなんだと。癒やし治す宿業について回る影が、俺ってわけ」

           毒し殺すだけの命──秤の左側に乗せられたものが癒やし治す血脈ならば、右側にはそういうものが乗るべきだろう。大数の法則。都合のいい奇跡は都合の悪い呪いで均されるべきで、平均値は常に一定でなければならない。
           薬師寺虺という命が担っているのは、秤の片側に捧げられた人柱だった。医薬を司る"薬師寺"に続く名が毒蛇のそれであるということが象徴するのは、そういう事実。

          「私とは……また事情が違うわけだ」
          「多分、そうだよ。薬師寺うちも俺のこと持て余してるってこと……あんたほど冷遇されてるわけでもないだろうけどさ」

           虺自身、自らの中に息づいている力を持て余しながら生きてきたのだ。他の親族たちの心中は察するに余りある。殺されていないだけマシなのだろう。流石医薬を司るだけあって、薬師寺家が一度生まれた命を無下にするような決断まではしなかったのが救いだ。

          「ま、持て余してるってもちゃっかり実験体にしてくれやがったあたり強かだとは──」

           ピンポーン。
           話を遮るように、チャイムが、鳴った。
           人が出歩くにはいくらなんでも時間が遅い──時計は午後8時を回っている。

          「客……?」
          「……いま出まーす」

           慎重に立ち上がって、1Kの部屋の扉の向こうに通るように、声を上げる。

          「あ、日奉と申しますけども──おたくでうちの蔡がお世話になってたりしませんかねぇ?」
          「──ッ!」

           緊張が、走る。空気は一転、戦場が、そこにあった。

          (追手が、もう──!)

           蔡が帰らなくなってから既に3日経っている──確かに不審に思われても不自然ではないが、それにしても見つけるまでが早い。蔡の雨は霊力を含んだ特殊なものだ、証拠となる霊力の残り香だって流し去っているはずなのに──。
           一瞬、やはり駄目だったかと、弱気にもなった。

          「チッ──下がってろ」
          「りょ、了解」

           小声でやり取りを交わしながらドアへ近づいていく虺の言に従い、わななく脚で後退する。

          起動オン蛇ノ目蛇ノ牙キリキリ・バザラ」「毒し殺せウン・ハッタ──!」
          「っ!」

           ドアノブを握りながら唱え、開扉と同時、掌底を扉の前に立っていた男へ叩き込んだ。
           薬師寺虺の体に充満する力──霊力といっても、その性質は怨霊や呪霊のそれに近く、言うなれば"呪い"そのもの──その本質を最大限励起して打ち込む拳。その一撃は読んで字の通り必死──!

          「物騒なことするねぇ、お兄さん」
          「……!」

           収束した後爆ぜるはずの"死"はしかし、不発──へらへらと笑う"日奉"には、必殺の打撃は効いていない。
           
          「ッ──日奉! ベランダ!」
          「えっ、ちょ」

           扉を叩き締めながら、怒鳴る。
           ここは引く──しかない。

          「いったいなあ……扉閉めるときゃ丁寧にって習ってねえのか?」
          「大丈夫2階だ! いいから飛べ!」
          「……了解!」

           棒状のもの──反りが見受けられるあたり、日本刀の鞘か──を閉まる扉に差し込み、こじ開けようとする男を尻目に、部屋の奥まで駆ける。

          「おい、あの男何モンだ!」
          「日奉きょう──隠形使いの分家の次男!」

           ベランダに転がり出て、そのまま飛ぶ。乱暴に開け放された窓から虺も続き、空中で語りかけた。
           日奉一族は本家となる"木流"から分かれた分家筋それぞれに専門とする職掌が存在し、各家系ごとの役目に見合った特徴を有する──追手として現れた日奉芍は、隠形の形質を継ぐ分家の次男。蔡からすれば数歳上の世代に当たる、次世代の日奉。

          「でも、芍がいるってことは──ッ!」

           着地。夜闇の中、ドシンと脚に響く音を聞くと同時、上から白い布を纏った人型──日奉芍が降ってきた。

          「らぁッ──!」
          「っ……!」

           やはり逃してくれる気はないようだ──殺しに来ている。
           日本刀を突き立てるように芍が降ってくるのを、2者ともに、着地の衝撃を殺した勢いで転がるように躱した──間合いが、離れる。

          「──お前、何だ?」
          「……虺。薬師寺の忌み子っつったら分かるか?」

           立ち上がり、刀を構え直しながら、芍は問う。
           応じるように、虺も拳を構え、蔡を庇うように立った。

          「待て、薬師寺──!」
          「そうか、じゃあ悪いけど死ね!」
          「チッ──!」

           言葉が切れると同時、芍が斬り込み、遅れて虺が半歩左へ躱す。

          「フッ!」
          蛇ノ牙バザラ……!」

           返す刀が迫る──辛うじて詠唱を間に合わせ、刃のように虺の力が収束し、そのままナイフ大の刃物を形成する。八岐大蛇の裡から天叢雲剣が得られたことからもわかるように、毒し殺すものの象徴たる毒蛇の本質を引き出すともなれば、その形は刃になる──現れた刃物を構え、それを弾いた。

          (駄目だ……あいつは霊力を読める──それは確かに脅威だけど、芍相手だと分が悪い……!)

           薬師寺虺は、蛇の瞳孔を発現したことにより生命エネルギーの流れを知覚できる第六感を獲得している。蛇が視覚に頼らず獲物の居場所を把握できるように、彼の目は人間の命の力を彼に知らしめていた。そのことを、蔡は身を持って知っている。
           だが──

          (こいつ……読めない!)

           通常人間は実際の行動に一瞬だけ先駆け、己の体が駆動するイメージを描く。ある程度以上の霊力を持つ人間ならばその意思の像をなぞるように生命エネルギーが流れ出し、虺の目にかかればそこから行動を予測できるのだが、この男、日奉芍にはそれが無い

          「お前、その目──権現病か」
          「……どうだかな」

           権現病──正式には神使垂迹症しんしすいじゃくしょう。新世界秩序体制に移行した世界の中で新たに発見され始めた異常疾病の1つ。長年呪術に関わってきた血族によく現れることから真性呪縛症候群の亜種とされることも多く、大体は先天性の動物特徴障害として見られ、それに紐付いた──多くはその特徴の通ずる神格に連結した──心身機能異常を引き起こす。
           "見破ったり"と言わんばかりな芍の推論はしかし当たらずとも遠からず──彼のそれは、後天的かつ偶発的にそれと同じ状態になっているだけだ。獣変調ウィルスの病魔は、癒やし治す力の反転存在たる彼にとって、新たな力を与えるものでしかなかった。毒し殺す力に満ちた体が獣の形に歪められるならば、その形は蛇以外にありえない──部分は全体に影響を及ぼし、全体は部分を決定せしめる──その結果、元より莫大だった呪いの力の増量と、第六要素知覚を彼は得た。

          「残念だったな──おれの体はとかく魔眼と相性が悪い」
          「……!」

           勝ち誇ったように斬りかかってくる。反応は、まだ間に合った。握った刃で刀の一閃を遮り、反動が腕を伝う。

          「そういうお前は、絶縁体質だろ──!」

           負けず、ナイフを振りかざす。虺の推測が正しければ、呪殺の力が効かずとも、物理的な凶器は通じるはずだ。
           ──霊力絶縁体質。
           部屋にいながらにしたって、虺は決して警戒を怠ってはいなかった。フル稼働ではないにせよ、蛇の目だって機能していたのだ──"日奉"ほどの存在ともなればその目が捉えたはずだ。しかし、目の前の男はそれをすり抜けて今ここにいる。呪力をフルに励起して叩き込んだ一撃も、体内に行き渡らず不発に終わった──導き出される答えはそれしかない。
           至極稀に誕生するという、霊力を外界に一切漏らさない、気配の無い体の持ち主。薬師寺の家に伝わる知識では、その体はそのまま絶縁体のような特性を示す。

          「そうだと言ったら──ッ?」
          「チッ!」

           返すは芍──試すように笑いながら、閃いたナイフはあえなく弾かれる。
           "反撃が来る"と察知して、一歩──

          「──ッ!?」

           退いた瞬間、それは飛来した。
           梟がやったのと同じ、いや、あれより速く強い遠隔からの"鳥槍"──着弾の寸前、辛うじて薬師寺虺の目が捉えたその軌跡に、掠めるかのごとくナイフを潜り込ませ、弾いた。

          「やっぱりくすりもいるか……!」

           日奉蔡の頭脳を駆け抜けた、心当たり。隠形の家の次男は双子だ──芍薬兄弟は、2人で一揃え。芍が追ってきているなら、その片割れの薬もいることも織り込んでおくべきだった。
           同じ隠形、姿晦ましの力の持ち主といえど、双子のそれはそれぞれ対照的だ──『光が強ければ、影も濃くなる』。霊力絶縁体質故に気配を遮断できる芍、そしてその反対に霊力伝播体質を持ち遠隔での術式操作に優れる薬。その狙撃を組み込んで初めて、この兄弟の戦術として完成する。

          (どこから──!)

           視界の端に表れた"射線"を避けながら、狙撃手の姿を、蛇の目で探した。最も、なかなか見つからないそれに、意識を割いている余裕はない──剣戟が、迫る。

          「1人だと思ったか?」
          「……くッ!」

           芍の剣戟に合わせてナイフで受ける──それだけで危ないところに、これだ。耳元で空気を劈く音がした。
           射線が視えた瞬間に躱さなければそれだけで粉微塵になるだろうことは、着弾後の地面が霊力的に歪むに留まらず、物理的にさえ焦げ跡を残していることから十分に見て取れる。
           芍の剣に、遠距離からの狙撃。降りかかる2つの攻撃を捌く虺は、攻勢に転じる余裕を、失っていた。

          (マズい──)
          「──日奉!」

           追い込まれていく様に固唾を飲んだ蔡を、虺の声が呼ぶ。
           目を遣れば、投げて寄越されたナイフ──なるほど

          毒し殺せウン・ハッタって唱えりゃそれで作動する!」
          「了解! そっちは任せた!」
          「──応」

           短く、背中越しにやり取りを重ねる。
           このままではマズい──ならば、状況を打破するまで。日奉祭は、駆け出した。

          「逃がすか──」
          「おっと。残念ながら、お前を殺すのは俺だよ」

           背を向けて走っていく蔡を追わせまいと、芍の前に立ちふさがる。


          アメアメ降レ降レフレフレ

           4棟連なるマンションの中庭を駆けながら、制服に仕込んであるてるてる坊主を握りしめて、唱える。
           日奉薬。霊力伝播体質者にして、遠隔での霊力操作に長ける『狙撃手』。その最も警戒すべき能力は索敵能力──式神を介した場合の術式有効射程は、街の1つ程度軽々と凌駕する。蔡の居所を突き止めたのも、薬の仕業だろう。鳥の目は侮れない。何より、微細な霊力を読み取り操れる薬の体質はそのまま、探知機ソナーとして機能する。自らの体に霊力を閉じ込める体質の逆、空気中の霊力さえ体内のそれと同じように扱える体。日奉薬にとって、それと分かる霊力の在り処を突き止めるのは、心拍を聞くごとく簡単なこと。
           ──故の、この天候操作。

          (蛇の目さえ欺いたんだ。これで私を狙撃するのは、難しいはず)

           そして、それだけではない。
           立ち止まって、降り出した雨の音に神経をにじませていく。
           薬の体質がそうやって運用できるなら──蔡の雨もまた、ソナーとして運用できるはず。降りしきる雨は、蔡の霊力に由来するもの。ならば、彼女の霊力を活用してのエコーロケーションにも、使えるはず──

          「見ぃつけた♡」

           そして、その推測は実現した。D棟屋上。B棟のちょうど対角、最上点。確かにそこに、嗅ぎ取った。
           一目散に、駆ける。後は、時間との勝負──!

          「──ッ!」

           D棟入り口を抜け、階段を駆け上がる蔡の後方、"鳥槍"が飛来した。

          魚狗カワセミか……!」

           後方から、羽音が聞き取れる。霊力は誤魔化せられど、物理的に姿をくらませたわけではない──百頭モズの目は欺かれることなく蔡を捉え、食いつかんと追跡していた。

          「クソがよ……!」

           口の端を引き攣らせながら、走る。現在地は7階──この勢いを維持できなければ、槍に貫かれて死ぬ。
           上がり始めた息を押し出すように、駆けた。

          「見つけたぞネクラ野郎!」

           9階へ到達──立入禁止の扉を蹴破って、屋上に躍り出た。

          「随分汚い言葉を使うんだね……躾ってものを受けてないのかい」
          「生憎と『雑』でね、知ってんだろ」
          「まあね……」

           夜闇の中、街を見下ろすように、日奉薬は立っていた。
           夜の帳に溶け込むような黒い服を着て、頭上に控える鳥を傘に立つ男の元に、つかつかと歩み寄る。

          「ぶっこ──」
          「あー、待った蔡ちゃん」
          「あん?」

           百頭が主のもとに集うように、暗闇に筋をなす。
           蹴破った扉から自らの後ろに控えるように集まる式神の群れを背後に、両手を上げるようにして静止をかけた薬を相手に、凄んだ。

          「別に僕らは、蔡ちゃんまで殺す必要はないと思ってる」
          「は?」

           "じゃあなんで追ってきてんだ"と聞こうとした蔡を遮るように手をかざし、薬は続ける。

          「あの男を切って、こっちにつかないか?」
          「どういうこった」
          「あれの首を本家に持ってけば、僕らはそれなりの褒賞を得られるはずだ──これはチャンスなんだよ、蔡ちゃん」
          「…………」

           訝しさを隠さず、睨む。
           こいつ、取引しようとしてるのか──?

          「きみのことは庇ってあげるよ──罪は全てあの男のものだ。まだ他の一族には何も知らせていない。どうせなら、共同検挙って形にしてあげてもいい。虚偽申告はし放題だ」

           一族の追手は追手でも、彼らにもまた、腹案があったらしい──手柄を独占して、一族内での立場の向上を目指す。目の前の日奉分家、隠形使いの家系の次男に生まれた双子の片割れはそう言った。
           親族内での立場に不満があるのは、何も蔡に限った話ではないということ。

          「取引か?」
          「いいや。脅しさ──きみが僕に勝てるとでも?」

           ぞわり、と総毛立つ。
           雨はまだ降り続いている。にもかかわらず、この空間の主は薬であるとでもいうように、空気が震撼した。彼我の力量差は歴然──正当な日奉の血統相手に、蔡のような立場の者が敵うはずはない。それを、思い出させられた。

          「兄さんと違って僕は穏健なんだよ……できれば荒事は避けたいんだ。口先で解決できることは口先で解決するべきだよね」
          「随分お利口なこと言うじゃねえか、薬のアニキよぉ」
          『雑』お前とは違うんだよ、僕らは」

           はあ、と呆れたような素振りさえとって見せる。余裕のつもりだろう。しかし実際、蔡の立場からすれば薬の前にはおとなしく膝を折る以外の選択肢がないのも、事実。
           奥歯が、ギリと鳴った。

          「僕ら兄弟が取り立てられた暁には、きみの立場も、向上させてあげてもいい」
          「……具体的には」
          「そうだな……妾としてでも、迎え入れてあげようか。正室にするのは流石に無理だろうけど……今の立場に甘んじるよりはずっといいだろ?」

           旧い家系全般に言えることだが──この日奉においても、いとこ婚に始まり、一族内の近親婚は珍しいことではない。最近では法律的な問題もあって鳴りを潜め始めているとはいえ、そう考えれば、悪い提案では、無い。蔡も一応とはいえ力を継いでいる身で、母体としては有用だ。重用まではされずとも軽視もされはしないだろう。 
           蔡の今の立場を鑑みれば、その提案は──

          「──確かに、悪くない」
          「だろう? だから──」
          けど
          「?」

           蔡にとって、これ以上無い条件だろう。他の親族に対し情報アドバンテージもあるし、立場は向上する。それでなおまだゴネるのかと、眉を顰めた薬の目が、次の瞬間、驚きに見開かれた──

          「お断りだ──ッ!」
          「お前ッ……!」

           蔡が駆け──右腕を伸ばす。握られていたのはナイフ。薬の胴体に突き立てられたそれは、毒牙。
           確かに蔡単体では正当な日奉の流れの上にいる薬相手にはどうあっても勝てはしないだろう。蔡単体なら
           死は万人に平等だ。共犯者から託されたナイフは、いかに優れた血であろうが問答無用で死を運ぶ──!

          「生憎俺は年下のが好みでね」

           "偉い奴は嫌い"。それが、蔡の結論。
           一瞬だけ、突き刺す感触が過ぎ去った後、肉を裂く感触の代わりに、溶け込むような錯覚が指先を伝った。虺の呪いの力──呪力から生成されたナイフは、生命に触れた瞬間、命を侵す毒として体に溶け落ちる。
           あとは、殺意を込めて唱えるだけ。

          「この『雑』が──ッ!」
          毒しウン殺せハッタ

           悪態を最後に、"死"が爆ぜる。この感触は、2度目。
           雨がザアと屋上を叩き、式神の鳥たちも、雨水のようにボトボトとその身をコンクリートに叩きつけた。
           流れる雨水に溶け出すように、式神の鳥が消える。

          「友達からお願いしますってやつだ……あの世に逝ったときの話だけどな」

           "殺した"と確信して、死体を蹴倒す。
           額から滴る雨水を拭って払い、前髪をかき上げる──さらけ出された瞳は、間違いなく人を殺す温度をしていた。


          「チッ……!」
          「どうした? 殺すんじゃなかったか?」

           雨が降り出して直後。
           芍と虺が斬り結ぶ音が雨音の中に静か、かき消された。

          (絶縁体質だけじゃない……何だ、あの刀)

           ただの打刀にしては、帯びている霊力の圧が違いすぎる──虺の生成したナイフが、斬り結ぶたびにべもなく弾かれていく。
           正味、切り結んでいる最中少しでも"力"を緩めれば、ナイフは簡単に消えて飛ぶのではないかとも、思う。

          「お、気付いちゃった?」
          「……何に」
          「とぼけるなよ、この刀──妖刀ってやつでさ」

           芍は余裕気な笑みを浮かべ、得意げに説明する──日奉一族に伝わる、神剣ならぬ神殺剣。時の荒波を超えて不朽たる妖刀たちの中で、銅の名を銘された逸品。指定超常遺産『稲穂銅いなほのあかがね』としてリストされるその刀は今、芍の手の中にあった。

          「バレちゃったからにはしょうがないなぁ──!」
          「──ッ!?」

           神殺剣の真価はここに。瞬間、稲穂銅の刀身から霊力が吹き出した。
           虺の知覚を通さずともわかるほどの──目の良い者ならば、揺らめき立つそれを知覚できるはずだ──霊力圧を纏ったまま斬りかかった剣閃が、受けようとした虺のナイフを呑み消した。

          「グッ……!」

           噴出する霊力の風圧をモロに喰らい、腕が麻痺するように痛む。

          「ッらァ!」
          「くっ……そ!」

           追撃とばかりに斬りかかる芍の剣筋を、飛び下がり、何とか回避する。

          (そんな隠し札まであるとか聞いてないぞ……!)

           そのまま後退して、距離を取る。
           蔡を行かせたのは逆効果だったのではないか──日奉秘蔵の道具アイテムなら、蔡が何か攻略法を知っているかもしれなかった。悔いても仕方ないがしかし、これを相手に1対1は、同じ近接型であるが故に不利が過ぎる。

          「距離取っても無駄なんだよねぇ──!」

           虺の第六感が捉える。真っ直ぐ、虺を睨むように向く刀の切っ先から直線、稲妻のように伸びる霊力の帯──!

          「──っ!」

           そして刹那、前駆放電を追いかけて稲妻が走るように、切っ先から霊力の光線が放たれる。
           上体を反らすのが遅ければ死んでいた──霊力的に歪み鳴る空間はそう告げていた。

          「避けるねぇ」

           日奉神殺剣はそれぞれ妖刀としての特徴を有する──稲穂銅は、いわば霊力の完全導体。柄から流れる霊力をそのまま一切減衰させることなく空間へ放出する。芍の手の内にあっては、一切霊力を漏らさない彼の体の、唯一の射出口となる。その組み合わせは、刀と担い手双方の特性を最大限引き出していた──その驚異は小型の荷電粒子砲と呼んでも、大げさでは決してない。

          「……随分おしゃべりだな」
          「力を誇示するのは気持ちがいいからな」

           汗を拭いながら、笑う芍を睨んだ。勝つ前から勝者の余裕とは調子こいてくれるじゃねえか──とは思うが、しかし、現状決め手がないのもまた事実。
           どうする──どうすれば、殺されずに殺すことができる。

          (勝ち筋が見えない──ここまでか?)

           歯噛みする。汗が流れ落ちるのを、拭う余裕もない。

          「来ないなら、こっちから殺し行っちゃおっかな!」
          「ッ──!」

           放出された霊力が閃き、それを追うように剣閃も迫る。紫電と呼ぶべきは、この剣術だろう。妖刀とそれを扱うための技術、それらを合わせて相伝とする日奉神殺剣。その威力を、薬師寺虺はいま身を以て体感している。

          (霊力の放出──あれをなんとかしないと)

           身を捻り、躱しながら考える。
           一度の踏み込みで、二撃の剣──あの圧を受けきれなければ、結局手数不足で押し負ける。これでは、蔡を狙撃手の方に回した意味がない。霊力の槍が降ってくるのと、霊力の雷ではどちらがマシな天気か──

          (──待てよ

           薬の放った霊力の槍は、ギリギリのところではあるが、虺の呪力で作ったナイフで弾けた──なら、稲妻だって

          「……オン・キリキリ・バザラ
          「おらァッ──!」

           号とともに踏み込んだ芍の刀の先から、稲妻が迸る。
           ──そこだ

          撥ね殺せウン・ハッタ

           合わせて、右腕を構え、呪力を放出する──二重に、弾ける感触を味わった。
           奇しくも同時、屋上の方で自らの呪力が弾ける感覚とともに、刃物の形に収束させていた力を、圧力に変えて弾き出す──!

          「──ッ!?」

           弾けた毒々しさの塊──虺の力によって、霊力の閃光が、かき消される。
           薬師寺一族の業が漏れ出て凝結した命、病魔に呪われた忌み子の"力"の量が、日奉の特異体質者ごときに劣るはずはない。
           圧に呑まれ、芍が体勢を崩す。隙が、そこにあった。

          「ッ──」
          「……考えてたんだ」

           トン、と中丹田──鳩尾に掌底を当てる。
           考えていた。完全な霊力絶縁体質など存在するのかと。完全に生命エネルギーを遮断する体質ならば、外部から補給することさえ不可能だ。こうして生命エネルギー霊力を放射する技を使う以上、どこかから吸収しないことにはいつか死んでしまう──だから本来、虺の毒牙は通るはず。

          毒し殺せウン・ハッタ

           ではなぜ一度目は通らなかったのか──答えは、虺自身がよく知っている。『光が強ければ、影も濃くなる』。
           絶縁と伝播、黒衣と白衣、低地と屋上、B棟とD棟、双極に位置する双子の存在がそれぞれの体質を強化していたのだろう。だから、蔡が虺のナイフを起動させて、片割れの薬を殺した今──詠唱とともに収束し、経絡を通り体中を犯した"死"の爆発は、霊力絶縁体質者の命さえ消し飛ばすに足るはず。

           ──ドサリ。
           その証拠に、日奉芍の体は屍となって、中庭の地面の上に崩折れた。
           カラン、と、金属製のものが転がる音が雨音の中、かすかに鳴る。

          「っ……死ぬかと思った」

           緊張が解け、その場に膝をついた。奇妙なことに、疲れ切った体には、充足感にも似た何かが満ちている。
           はぁー──と長い息をついたところで、雨が冷たいことにようやく気がついた。
           雨は、毒々しい"匂い"を流し去っていく。



          【日奉分家"草流" 日奉芍────心臓麻痺により死亡】
          【日奉分家"草流" 日奉薬────心臓麻痺により死亡】
          (民間人がゴミ捨て場にて発見)

            • _

             蔡が虺の家に転がり込んでから3日経つ放課後。
             追手を警戒して、登下校をともにするようになった2人は、決めてあった待ち合わせ場所のファミレスで落ち合った。

            「ずっと思ってるんだけどさ。人殺しといてだいぶ呑気だよな、あんた」

             おやつだと言わんばかりに山盛りのポテトを齧る蔡を見て、虺はかねてよりの疑念を口にした。
             よくもまあこの状況でそんなに旨そうに飯を食えるものだ──まあ、毎度会計を虺が持っているのも、もしかしたらあるかもしれないが。
             何にせよ、いい性格をしている。

            「そう?」

             意外そうに、問い返す。
             殺人罪──現代日本における最重刑事罪を犯しておきながら、その声音も表情も、牧歌的なものだった。

            「仮にも家族だろ、あれ……自分の手で殺しても、何もないのかよ」
            「まあ……別に家族とも思ってないしね」

             人を人とも思っていない連中──蔡から見た日奉の親族は総じてそんな印象だ。敵愾心こそあれ、親愛の情は抱きようがない。家畜を見るような視線に晒されながら生きてきた蔡には、未だ、殺人の実感はない。

            「ていうか、お前はどうなんだよ。てめえの手で殺してるのはお前こそそうだろ」

             蔡が手を血に染めることになったのも、全ては虺が一族に殺意を向けたのがきっかけだ。

            「俺はそういうふうに生まれてるから。そういう生き物だから、生きているには殺すしかない。それがもし社会悪だと言うなら、今度は捕まえようとしてくる敵を殺す。それだけだ」
            「ふーん」

             理論としてはシンプルだし、筋も通っている。中学生らしいと言うか、中学生にしては達観していると言うべきか。何にせよその価値観は、彼の出生と無関係ではないのだろう。
             "殺人鬼のくせに、常識と話の通じる奴だ"──というのが、蔡から虺への印象。

            「……不満そうだな」
            「いや、理屈は納得したけど、じゃあなんでわざわざ日奉一族なんてめんどっちい連中を殺したのさ」
            「──それは」

             言い淀み、目を伏せて口を小さく動かした後、閉ざした。

            「ま、いいけどね。おかげで助かってるし」

             深くは聞かんとばかりに、伝票を虺の方に押し出す。虺のほうが蔡より経済的余裕があるとわかってから後輩相手でもこのたかりようだ。サイゼリヤだし、実際とくに負担になっているわけでもないから、まあ良いのだが。
             力になれているなら、何より。

            「いやあ悪いねえ、虺クン」
            「はいはい……」

             会計を済ませる虺の背中を見て、"いい共犯者を持った"とニマつく。
             連れ立って、店を出る。学園近傍のファミレスから虺のマンションまでは、徒歩で10分と少し。
             その道を少し遠回りして、スーパーに寄り道。一人前増えた食糧消費を補うための、買い出しだ。

             ──「え。定価で買っちゃっていいのかよ肉なんて」
             ──「別に定価で買ってもいいだろうよ肉くらい。どんな極貧生活送ってたんだ」
             ──「そっかぁ……最近の中坊は肉を定価で買うのか……」
             ──「中学生じゃなくても買うわ」

             ──「ねえ少年」
             ──「あんだよ」
             ──「おねーさんが手料理作ったげよっか」
             ──「居候なんだからそれくらいやってくれると助かるけどな」

             そんな会話を挟みながらの買い物を終え、本格的に帰路へ。
             歩くたびに揺れるビニール袋の音と、まばらな会話が家路を彩る──なんだか不思議な気持ちだと、思った。どちらともなく、妙な気分だと、そう、思った。

            「……妙だ」
            「ん?」

             やけに深刻そうな顔で呟いた虺を、"なんか買い忘れたか?"とでもからかってやろうとした蔡の思案が、次の言葉が危機感と焦りに満ちた声音で停止される。

            囲まれてる
            「ッ──!」

             息を呑む。
             虺の第六要素知覚機能は周辺環境の霊力を三次元モデルで認識できるが、射程はおおよそ視覚のそれと同等──その範囲内に、ぽつぽつと、日奉の血の"匂い"がある。
             気付いた瞬間、個体ごとの区別は明瞭になる。一人二人三人……ざっと七人を超えて、数えるのをやめた。いくらなんでも多い。

            「おい日奉」
            「その『日奉』って呼び方やめてほしいんだよね……下の名前で呼んでよ」
            「日奉の総人数、何人だ」
            「……一度に十何人もまとまって動いたことはないと思う」

             目配せして、完全に囲い込まれてしまわないように、慎重に移動しながら、小声で話す。
             本家含め、日奉の各家系の一家ごとの人数がちょうどその辺を上限としている。故に、日奉一族を組織としてみた場合の最大単位はおおよそ10人と見れば間違いはない、はずだ。

            「じゃあ、これはどういうことだよ」

             虺の脳内に描かれた3Dグラフィック──そこに映し出された日奉ひょうてきの霊力の個数は、10やそこらで収まる数ではなかった。

            「──日奉たけってやつがいる」

             予想より多い気配に、次第に追い込まれていく。進路を限定され、辿り着いたのは公園。
             日奉茸。分家筋でありながら本家に仕える──厳密には"本家にも仕える"だが──日奉で、一族の手足と耳目としての任を負っている。

            「そうか──で、そいつはどうすりゃ殺せる?」

             夕暮れ時、公園。整備された休憩時オフタイムの公営の地面に鞄を投げ捨て、中身を引き抜く
             花籠学園はフラスコだ──授業の成績は、実は大して問題にはならない。それを知っている薬師寺虺のエナメルバッグには、教科書の類は詰められていない。その代わりパンパンに張った鞄の中に潜むのは、日本刀──銘を、"稲穂銅"。

             ──「これ、パクってもいいと思う?」
             ──「大丈夫、だと思う」
             ──「信用していいのか」
             ──「うん。『銅』は、完全導体だから……周りの霊力に染まりやすいんだよ。だから、多分それの匂いをたどって追跡されるみたいなことは、無いはず」

             事後処理中に持て余したそれを、2人は回収している。

            「本体を殺さないことには──」
            「本体?」

             逃さないとでも言うように2人を取り囲む人影を睨みながら、やり取りを重ねる。

            「ああ……分身か、これ」
            「うん」

             虺の視界、十把一絡げに十人十色の個性を放つ人型から、地面、地下を通ってどこかへ通じる霊力の糸が群れるように絡まっていた。式神術あるいは傀儡術か、分身術──そういった術式に特有な霊力の挙動。蔡の口ぶりからして分身だろうと当たりをつける。
             日奉茸の能力は分身能力だ──その力を生かして、一族の手となり足となり、目と耳とをあちこちへ巡らせることが仕事。梟のようなESPや薬のような霊力探知は持たずとも、次にバレるのなら茸にだろうなと思っていた。既に蔡の能力を使ってしまった以上、所在を突き止めるのに必ずしも霊的な能力は必要ない。

            「蔡──ほれ」
            「応よ」
            「一発目は俺が行く、ちょっと下がってろ」

             とにかくここを切り抜けないことには詰みだ──目を見合わせ、生成したナイフを渡す。
             人の群れに挑むように一歩前に出た虺に、三体の分身が飛びかかった。

            オン呪力を放出キリキリ・バザラ

             続けて側面──右、左と飛びかかってくる人型を認識しながら、小さく唱えていくのにつれて、刀身が禍々しい圧を発していった。

            弾き殺せウン・ハッタ
            「ぐ──」
            「づっ──!」

             ──振るう。それはまるで圧力の斬撃のようで、180度、半円状水平に薙ぎ払われた刀身の延長線上に位置する生命が弾き飛ばされるように斬られた
             人体の構造上必ず漏れる音が聞こえ、それらは地に伏す。

            「次!」
            「わかってる」

             分身が倒れるのを確認したのも束の間、虺たちを囲う人影が隙を許すまいと、続々襲いかかる。
             背後から来るそれを哨戒する声に応じるように、振り向きざまに薙いだ。

            「チッ……!」

             また、右方と左方から時間差で飛び出てくる。
             刀を振るい応戦しようとするも、左側に間に合わない──刀から離した片手で、掌底を打つ。
             口の中で小さく唱えながらの打撃がヒットし"死"の爆ぜる感覚が伝わった手のひらを、見つめた。

            「これ、キリなくね?」
            「……正解」

             ドサリと倒れた標的を蹴飛ばしながら、問う。いつまで経っても正面、出口へ抜けられそうにない。
             ──事実、茸の分身生成に限度はない。それを知っている蔡は、冷や汗をかきながらそう答えた。

            (これは私、詰んだか──?)

             やはり本家に連なるものと正面切って戦うものではない。梟の時は不意打ちだったから何とかなったのであって、あの機を逃していたらやはり負けていただろう。芍薬兄弟とはわけが違う。本家だけで他の分家筋を支配している連中だ──そもそもの規模感が違うのだ。
             どうする、いまからでも三つ指ついて白旗あげるか?

            (駄目だな……それをやるなら今じゃなくて薬相手にやるんだった)
            「──蔡。雨降らせろ」
            「は?」

             "これは死ぬなぁ"と悟るまでに1秒かからなかった──が、"降参しよう"の声を出す前に、虺の張り詰めた声がそれを遮った。

            「任せろって」
            「……そんなギリギリみてぇな顔してるやつに任せられっかよ」
            「いや、これはマジ──この精度で分身を操れるなら、本体もすぐ近くにいるはずだろ。違うか?」

             虺の第六感が捉えた分身の体から足元、地下へと繋がる"糸"は絡まって見えづらいが、しかし逆に考えるならそれは絡まるほど近くのものと繋がっている。
             ──確かに、茸はそこまで高精度な霊力知覚能力を持っていない、はずだ。それぞれ異なる容姿の分身を生成できるほどの高度な分身能力と引き換えに、そっち方向の力は与えられていない。細かなタイミングや動作の調整が必要な戦闘行為をこの数と範囲で展開できるなら、本人が直接見て操っていると考えるべきでは、ある。
             だから、突破口自体は、ある、はずだ。

            「信じろ」
            「……しゃあない──賭けたぞ」「アメアメ降レ降レフレフレ

             襲い来る敵を捌きながら、虺が説く。
             固唾を飲む。真っ直ぐな蛇の目、その眼光を信じて、吠えた。
             パン、とポケットの中でてるてる坊主の爆ぜる音がし、夕焼け空は鈍色に変わる。

            「よし」
            「……お前、何を」

             ポツポツと地面に染みを作り出した雨は、瞬きした間にザアと音を立てて地面を水に浸すほどに降り注いだ。
             キン。
             パシャ、という足音は止まない。敵は、絶えず飛びかかる──それを無視するかのごとく、刀を大地へ突き立てた。
             
            「蔡、飛べ」
            「は?」
            「いいから!」

             鬼気迫る虺の言葉に従って、言われたとおり、跳ねた。
             ──この刀を握った日からこっち、考えていたことがある。

            (蔡の雨には、霊力が通っている。だったら)

             本来大地や人造物そして自然現象──命なきものには霊力は通っておらず、故にまた霊力を媒介することもない。だから翁鳥一門やらの技師や極めきった名刀工の手にかかった業物は、妖刀だの神剣だのと呼ばれ重宝されるのだが、原則そのルールは超常工学の常識だ。
             しかし花籠学園でも習うその法則は、当然超能力のような例外事例を無視した時の話──

            伝導率100パーセント、流電オン・キリキリ・バザラ・ウン・ハッタ──!」

             だったら、この雨が霊力を媒介できるとするなら、こういうこともできるんじゃないかと、考えていた。
             雨に濡れた地面、水浸しの地表へ向けて、稲穂銅を通し、虺の呪力──呪いの凝結した毒を流し込む。
             
            「──っ」

             瞬間、死神の鎌が地表を攫った。
             糸が切れたように、分身体たちは一斉に倒れ伏す。

            (繰り糸の霊力を殺したのか──)

             霊力即ち生命エネルギーなのだから、確かに毒し殺す力をぶつければ切り落とすこともできるのだろう。
             "理屈の上では納得できる。それでもなんてことやってのけやがる"と思ったが、しかしこれで助かったのも事実。
             一気に、視界は開けた。

            「そこか──!」

             開けた視界、立っている人影。虺の目は、それこそが本命の本体と告げている。霊力の量は、分身体の比にならない。流石の存在感だがしかし、虚を突かれ立ち尽くす隙を見せた時点で、毒蛇の牙にかかる以外の運命は絶えた──!

            「──待て虺!」
            「なに?」

             蔡が声を荒げ制止し──応じて、慌てて止まる。

            「久しぶりだね、蔡ちゃん」
            あくた……」

             険しい顔で、相対した本体を睨む。
             見知ったような口を聞くそれは、実際蔡とは馴染みある女だった。
             日奉芥。蔡と同じく「雑」と呼ばれる、日奉一族の中でも最底辺に分類される存在。その縁で、何度も顔を合わせた親族だ。
             それが、なんでここに。

            「どうして?」
            「……何が」

             白状すると、蔡はこの少女が最も苦手だ。一族に蔡が苦手としない人間などいなかったが、それでも一番会いたくない人間は誰かと聞かれたらこの「雑」の名を上げただろう。

            「どうして貴方はいつもいつも、私をいじめるのよ」
            「いじめてなんか、ないだろ」

             蔡を、心底恨めしそうに睨む。涙目の奥に、"死んでくれ"と言わんばかりの色が垣間見える。
             芥に虐待を働いた覚えはない──むしろ、他の一族から一緒に虐待される仲だったはずだ。
             これだ。これが苦手なのだ。同じ立場の者からすらも向けられるこの目!

            「いいえ、いいえ! 貴方がいなければ私はどんなにか──!」
            「知らない……知らないよ」

             喚き散らすように芥は叫ぶ。やめてくれ、眉が痙攣し、喉が絞まる感覚を、振りほどこうにもできなかった。
             冷たい雨が、肌を打つ。

            「そりゃ知らないでしょうね! あんたは! 知らないくせに自分が世界で一番不幸みたいな顔しないでよ! 自分が何を踏みつけているかさえ知らないで!」
            「……っ」

             返す言葉もない。そもそも、自分以外のことを顧みる余裕など、彼女たちには無かったのだから。
             「雑」は雑用の雑であり、雑人の雑であり──雑草の雑。

            「貴方さえいなければ、貴方さえいなければ! 大体なんであんた生きてんのよ!」
            「……ごめんなさい」

             自分が悪くなくても謝るのは、蔡の癖だった──一族の者を前にしている時の。
             圧されている。同じ「雑」を前に、蔡の心は屈していた。
             顔を伏せる。縮こまるように、許しを乞うように。

            「『雑』のくせに能力があって! 『雑』のくせに利用価値があって! あんたがいるから私はもっと惨めな目に遭わなきゃいけなかった!」
            「ごめんなさい」

             日奉芥は正真正銘、無能の日奉だ。ギリギリ血を引いているというだけで、霊力は質も量も人並み、体質も普通人と変わるところなく、式神にさえ見下され、巫術式は受け付けなかった。もちろん超能力を備えているわけでも、ない。蔡と同年代にして、蔡にさえ劣るでき損ない──それが彼女の立ち位置。

            「わかるか、あんたさえいなければ私はもっとマシだったんだ、あんたさえいなければ殴られたり唾を吐かれたり慰みものになったりせずに済んだんだ!」
            「……ごめんなさい。死んで、償います」

             同じ「雑」でありながら、蔡よりなお劣る者への扱いは、熾烈極める差別だった。
             蔡だってかなりの扱いを受けてきたものだが、きっとそれよりも酷な仕打ちが、彼女に集中していたのだろう。母体としてすら無用な「雑」に降りかかる逆境は、何も精神的なものだけではない。

            「死ね、いますぐ死ね、生まれる前から死んでくれ。あんたなんか生まれてくるべきじゃなかった! いつもそうだ、あんたの存在がいつも余計なんだ、あんたが余計に生まれてくるから、あんたが余計なことするから!」

             泣き喚くように責める。蔡に詰め寄り、制服の襟を掴んで、毒づく。
             死ねと、涙を垂れ流しながら、叫ぶ──

            「黙って従ってればよかったじゃない! 私より恵まれてんだからまさか耐えられないなんてことあるわけないでしょうねえ!? 私は我慢したもの! なんでおとなしく一族に従わなかったのよ!」
            「──そんなに嫌なら、逃げればよかっただろうが」
            「……お前に何がわかる」

             たまらず声を上げた虺の方を、ギギギと睨んだ。

            「逃げたとしてどうする!? 能力もない学もない、何もない! カネも、ツテも、必要なものが、何も! それでどうやって生きていくって!? ねえ!」
            「……、……」
            「だったら、おとなしく飼われていればいいのよ! せめてそうすれば食うに困ることはない! どんなに酷いことされたって、死ぬよりはマシだもの! 我慢すれば、今より悪くもならないはずなのに!」

             剣幕に気圧されて、黙った。外部の人間が何かを言える話では、ないのかもしれない。しかし、蔡もまた、口をつぐんだままだ。

            「それをあんたは、おとなしくしておけば、あんたも私も殺されることまではないのに! 余計なことするからこんなことになるんだよ! あんたのせいで、本当に、あんたなんて生まれてきたのが間違いだ──!」
            「……」

             襟が千切れるのではないかという勢いで詰め寄る。
             それは真実、その通り。きっかけこそ虺の通り魔だが、彼に乗っかることを選び反逆の引き金を引いたのは蔡だ。言い逃れの余地は、一切、ない。その罪は間違いなく、蔡のもの。
             ──いや待て、『私も』と言ったか、今
             「ああそうだあんたのせいだ、あんたのせいで」──怨恨の声が、低く響く。

            「あんたのせいで、私が死ななきゃなんないんじゃない──!」
            「なっ──!」
            「──ッ!」

             ──襟を掴んだ手が、そのまま、蔡の首に手をかけ、持ち上げた。その目は血の涙を流している。
             虺の瞳孔は認識している、芥の霊力がメキリと捻じ曲がり、別の形に書き換わった瞬間を。

            「──だとさ。はは、雑草共の馴れ合いは醜いなぁ!」
            「……このっ……キノコ野郎……!」

             日奉茸。その本質は寄生生命──日奉の血族の誰かをホストとし、その生命を糧に菌糸を伸ばす、とうの昔に肉体を失い術式だけの存在となってなお存続する屍喰らいスカベンジャー。分身から分身へ、日奉から日奉へと乗り継ぎ、その子供が生まれればそれを次の乗り物として延命し続ける家督の幽霊こそ、芥の身に巣食った存在の姿。

            「ッ──!」
            「なに──?」

             蔡を捕縛するのに芥を使ったのはベストな策だった。だが、読みが甘い。
             ここに、その天敵が存在する。命を続け続けるだけの営みに対するカウンターパート──殺し絶やす呪い、薬師寺虺。彼の拳は、命だけの命の核に的確に触れている。

            「──っちまえ」

             死なないと油断したか、クソジジイ。
             絞め上げられ、呼吸さえままならず掠れる声で、殺せと笑った。

            毒し殺せウン・ハッタ
            「なん、だと──ガッ!?」

             収束直後、打ち込まれた"死"は爆発的に体を侵し、芥の体に巣食った術式ごと命を殺す。
             蛇は、よそ者が喰らう屍すら残さない。命まるごと、呑み絞めた。

            「カハッ……」

             ドサリ、と蔡ごと芥の体が解放され、喘ぐように蔡はえづいた。

            「……大丈夫か、蔡」
            「ぴッ……ケホ、ぴーす」

             案ずる声に、荒い息で、2本の指を立てて答える。
             なら、いいのだが──余計なことは言うまい。

            「それより、変なんだよ、感触が」
            「……オ、エッ、ケホ……何?」
            「分身倒した時の感触、初めて人を殺した時の感触だった」

             手のひらを見つめながら、呼吸を蔡に報告する。
             不慣れだっただけだと思っていたが、どうやら違う。今まで殺してきた日奉の時と異なって、糸を切るような感触しかしなかった。

            「ッハ……はあ……ふう、多分、お前が1人目に殺した──と思ってたやつが茸の分身だったんだろうね」
            「──やっぱり、そうなるか」
            「私を襲った時は何人殺してた?」
            「あんたで、2人目のつもりだった」
            「あー……」

             蔡の中で、合点がいく。そりゃ、家長様にも褒められるわけだ。
             茸の分身は普段、社会に溶け込んで生活している。それを通り魔的に襲ったのだろう──どこかに引っ込んでいた本体が、その旨を本家に伝えたはずだ。そしてそれに続いて、蔡が襲われたと言うことらしい。後のことは、虺も知ってのとおりだ。

            「待てよ……てことは」

             深刻な顔で、呟く。
             ということは、もうきっと後はない

            「虺、今夜は連戦だ──ちゃっちゃと片して、準備しよう」
            「……どういう?」

             芥の軽い死体を担ぎながら、蔡は言う。その目は、"もう戻れない"と暗い光を放っていた。

            「茸の野郎が、本家に情報を共有してないわけがねえんだよ──いつのタイミングか知らないけど、私が生きてるってことも、犯人が誰なのかってことも、私ら2人の所在も、全部バレたと思ったほうがいい」
            「……」

             茸に、そうしないメリットは存在しない。むしろ一族に対して情報を提供することが仕事なのだから、それをすること自体がメリットなはず。それをできるタイミングも、十二分あった。殺される直前でさえ間に合っただろう──茸の分身生成能力は遠大だ。数を絞れば、本家への距離なんてものも目ではなかったはず。

            「だから、ぶっ殺す」
            「──なるほど」

             芥の死体を、ベンチの上に安置する。「こっちから向こうに乗り込んで、本家まるごとぶっ殺す」──繰り返すように、そう呟いた。向こうが仕留めに来る前に、こちらから打って出る。そう決めた。決めたからには、引かない。
             2人の殺人鬼の目が、ギラリと踊った。

            「最終決戦だ──日奉一族を、ぶっ殺す」
            「応」

             ベンチの上、雨に濡れた芥の死骸が、点灯し始めた街頭に照らされて光っている。



            【日奉分家"雑" 日奉芥────衰弱死】
            (民間人が公園のベンチで発見)

              • _

              「日奉蔡も、薬師寺虺もおじゃんとは、大きな痛手ですね」
              「おや、詞音先生……まぁ、お互い災難ですね」
              「ははは、ご冗談を。コーヒー、飲みます?」
              「いただきましょう──冗談ではありませんよ。しかし実際、大した損失ではないのでは?」

              「いやいや……あんな好条件のサンプル、そうそう得られませんよ」
              「おやおやご冗談がお上手で。貴方も別に純粋な動機で学者をやってるわけではないでしょうに」
              「おっとこれは。はは、敵いませんね」

              「しかし……あれですね。ここは腹を割って話しましょう。貴方は何がしたくてここへ?」
              「ふう──わかりましたとも。……ヴェールは捲られました。神は死んだ。これから先の未来に我々の手を引く者は不在、そして不要となる。弱者が、弱者自身の手で回す世界になる──べきだ、と僕は考えます」
              「それ故に、神殺しも殺すと? それが要石を退かし、地獄の釜を開くかもしれない……そういう行いだとしても?」
              「はい。人は強くなるべきだ。それが生存競争を強いる形であろうとも。でなければ、蠱毒の壺ごと潰れておしまいです」
              「万人の万人に対する戦いを招こうとも、と。なるほど、その点については私は賛同できませんね」
              「あれ? そうでしたか。神枷同士でも気が合わないことがあるもんですね」

              「そうですね。まあこれは職業柄とも言えるので、個人的な話かもしれませんが……。私は調律師として、調和を望みます。世界は、整然と律されるべきです」
              「随分と教師らしいことを言いますねえ、律機さん。しかし解せないな。ならどうして、日奉蔡に手を貸した?」
              「それこそ教師だからですよ、詞音先生。生徒奏者が望む将来演奏を実現させるために尽力するのが先生調律師の務めであり、存在意義であり、喜びでしょう」
              「結果その子が破滅しようとも?」
              「当人がそれを望むのであれば、私に止める権利つもりはありませんね」
              「それでも、あの子、親戚筋だか何かじゃないんですか? 僕は翁鳥の方の出だから日奉の事情なんか知らないけど……。それでも、いいんです?」
              「もちろん。なんであれ日奉の壊滅は、全員の利害の一致点ですからね。神枷は助け合いの精神を重んじますが、教育も慈善事業ではないので。利潤は追求していきますよ」
              「利害の一致でWIN-WINというわけですか。聖職者様々、助け合い精神万歳ですね」

                • _

                 日奉本家の屋敷は、蔡たちの暮らす現実世界には存在しない。──語弊があるので言い換えると、日奉一族の本丸、全ての日奉が集う場所たる日奉邸は、異次元空間に立地している。
                 無論初めからそうだったわけでなく、歴史的経緯としてそのようになったというだけの話なのだが、とまれ、そう気軽に乗り込めない場所なわけだ。伊達や酔狂で異次元に家を建てているのではおそらくないのだろう。そういう効果も、多分にしてあるわけだ。
                 では行き来はどうするのかと言うと、実は日奉の手にかかっている建築物ならば、その玄関扉から自在にアクセスができる。逆に言えば、そこからしか入れない。古の時代にかけられた結界術の効果で、そうなっている。蔡や芥たちがボロ屋とはいえ一丁前に住まいを提供されているのも、ひとえに日奉邸から現世側への玄関口を確保するためという要素が、かなりの割合で、あった。

                「こんなんでも帰ってきたって思うもんだな、我が家」
                「……マジのボロ屋だったんだな」

                 茸の殺害から3時間後。あと数時間もすれば日付も変わるような夜更けに訪れたのは、蔡の自宅。
                 ──「乗り込むったってどうやってだ?」と尋ねた虺の手を引いて、舞い戻ってきた。
                 梟を殺した日──6月5日の朝登校して以来、1週間ぶりの帰宅だった。愛着があるわけでもなかったが、こう長期間離れてみると、"帰ってきた"という気持ちにもなるものだ。

                「……ただいま」

                 キィ、と軋みながら引き戸が開き、三和土が見える──いきなり乗り込むわけではない。
                 ゆっくり上がり込み、鳴る床を踏みしめる。

                「見ないでね」
                「じゃあ見えないところで着替えろよ」

                 会話は少ない。静かに、各々が決戦に備える。
                 蔡は制服を脱ぎ、動きやすい服へ衣装替え。虺はナイフを生成し、備蓄するついでに、軽食を摂っていた。

                「行こうか少年。準備はいい?」
                「人を殺すのに、準備なんて必要ないよ」

                 服に仕込むものを整理して髪を結い、ガサガサと箪笥やら散らかったあちこちを漁っていた蔡が、そう言った。
                 目を見合わせて、確かめ合うようにうっすらと笑いあう。
                 玄関口に立つ。革靴からスニーカーへと換装し、2人分の運動靴が並び立った。──行こう。決戦の時は今。日奉一族を、ぶっ殺す。
                 扉が、開かれた。


                 年代物の日本家屋。決して荘厳ではないが、その中に渦巻いているものの存在感故か、幽玄とさえ言えそうな奇妙な威圧感を放つ木造建築が、真っ暗闇の中、2人を出迎えた。

                「……」
                「遅かったね、お客さん方

                 出迎えは、それだけではない。屋敷を囲う塀と門。そしてその門を塞ぐように立つ門番──日奉ひさぎが、待っていた。
                 やはり、こちらの情報は握られている──

                「2人まとめて出てきてくれるとは、潔くて助かるよ。雁首揃えて鴨が葱背負ってきたってわけだ……チョウのやつを呼び戻す手間が省けた。お気遣い痛み入るよ……それとも情状酌量でも乞うつもりかな?」 
                「──おい」
                「うん?」
                「勘違いすんな、うちらはあんたら殺しに来たんだよ」

                 気怠げに話す楸を遮り、宣告する──さあ、これで退路はなくなった。蔡の横で、虺が刀を抜く。

                「ま、それが賢いよな。『雑』にしては頭がいい」

                 ニタリと笑って言いながら、楸も応じるように佩いていた刀を空気に晒す。その刀身は、清らかなまでに輝ける白銀──その見た目そのまま、銘は『百合銀ゆりのしろがね』という。

                こいつがそれを持ってるか……)

                 歯噛みする。確かに最適の組み合わせだ、予想して然るべきだったが、一方そうであってほしくないという気持ちも少しあったのは否めない。
                 まあ、そんなことはこの期に及んではどうでもいいわけだが

                「ところでわかってると思うけど、お前らがヤケ起こして突っ込んできた場合私が捕縛することになっている」
                「……だろうな」
                「蔡。お前は殺すなと言われているんだ」
                「ッ──!」
                「だから、死なないようにがんばれよッ──!」

                 言葉をぶった切るように、虺が飛びかかった。話し合いをしに来たのではない、求めているのは殺し合い、ただそれだけ。涙も情けもない、ただ血塗られただけの戦場を求めて、腕を振るう。
                 手に握られているのは稲穂銅──悠々と受けて立った楸の"銀"と、ここに、二振りの神殺剣が交わった。

                「お前は殺してもいい、ってさ!」
                「チッ──!」
                 
                 ギィン、と軽快ながらに仄暗い響きの剣戟音が響く。反撃、白銀が閃いて、稲穂銅が震撼した。
                 飛び下がり、反動でまた飛びかかる。

                オン──」
                「……無駄」

                 沈み込んだ姿勢からの躍進、跳ね上がる勢いに任せて刀の重量をも利用した斬り上げ。稲穂銅が、呪力とともに弧状の軌跡を描く──前に、それは封殺された。下段から打ち上げた百合銀の剣筋が、虺の剣を跳ね上げるように逸らした。

                「づ──!」

                 体勢を崩した虺の、がら空きになった胴に、蹴りが入る。地面に肩から落ち、転がるようにして起き上がる。

                「きみ、剣術下手だろ」
                「あ?」

                 ふう、と一息ついてから、あざ笑う。
                 殺人鬼・薬師寺虺の弱点──それは、本人の持つ力が決定的なまでに殺人に向いているが故の、殺人技術の未熟さ。
                 不意をついてでも一瞬霊力の核に拳から呪力を流し込むだけで成立する殺人は、しかし逆に言えば人を殺すための技術を習得する機会を奪っていた。蛇の目による行動予測と圧倒的呪力量のアドバンテージのみでここまで渡り合ってきた虺は、戦闘慣れこそすれ戦闘が上達していたわけでは決してない。
                 剣道三倍段と俗に言うが、洗練されきった戦闘技術の体系は、殺意だけで超えられる壁ではなかった。

                「筋はいいと思うけど、駄目だね──闇雲に振り回すだけじゃ、刀が泣く」
                「うるせえぞ──斬リ斬リ蛇ノ牙キリキリ・バザラ

                 近距離戦では分が悪いと判断して、刀身に呪力を通していく。
                 刀が泣くだ──? なら、やってやろうじゃねえかよ。イメージするのは、本来の持ち主、芍がやっていた剣術。
                 呪力が、膨らんでいく。虺の目が教える通り、巫術を使ってこないだけあって、目の前の日奉は霊力に乏しい──虺の全霊を受けきれるわけもない。

                「……ほーん。なら、私も見せてあげよう。神にも届く本物を」

                 少し楽しそうに、楸が百合銀を大きく上段に構えた。隙だらけの構えだ──迎え斬るつもりだろうが、無駄。稲穂銅から放たれるのは、一度の踏み込みで二撃の時間差攻撃。しかも虺の特質と合わさり、そのどちらも触れるだけで致死級の剣閃──!

                「っ! 待て虺、それはマズい──」
                穿ち殺せウン・ハッタ──ッ!」

                 蔡でも視認できるほどに空間が歪み、呪力の光線が微動だにしない剣士を食い破ろうと迫る。
                 高すぎる生命エネルギー負荷は空間を不安定にし、本来物理的な干渉力を持たないエネルギーですら、時として物理的な傷跡を残す。──巻き込まれれば、死ぬ。蔡は確信する。
                 最もそれは単体で必殺級といえどしかしただのジャブ。本命のストレートは光線を放出した切っ先を相対する剣士に向け──

                「あの世で見習え」

                 上段から百合銀が振り下ろされ、瞬間、世界を歪めるほどの毒牙は消され払われた
                 日奉神殺剣にして"銀"の銘を冠する刀の特性は、文字通り"神殺し"。その刀金は、あらゆる霊的力を封殺する。相伝遺産の中でも最も使い手を選ぶこの神殺剣は、しかしその取り扱いの難度に比例して絶大な脅威となる──!

                「っ──!」

                 予想外の防御に、一瞬の驚嘆が虺を過る。しかし、問題はない──対手は刀を振り降ろした。二撃目を叩き込むことは容易──!

                「──だから『無駄』って言ったのに」
                「くッ……!」

                 タッ──とその場から一歩、最小の動作で踏み込み、そのまま、掌底を突き出した。
                 直線的に突き出される掌底の軌道は、どうあっても虺を直撃する──回避は間に合わない。この攻撃がこういう形の反撃に弱いのは、皮肉にも虺自身が芍を相手に証明したこと。

                (あのモーションから動けるのか……!)

                 日奉の剣術は本来、人間ごときに振るわれる剣ではない──故に対人に使うには隙の大きい構えも平然と使われていたりするのだが──人間を超えた戦闘能力を持つ存在を相手にして幾世紀も受け継がれ続けた剣術は、ただの虚仮威しでは当然ない。神なるものを相手にして隙を晒すようでは、神殺しの一族は務まらない──カバーするための型も、当然存在する。
                 虺の内心の焦りはしかし、既に遅い。行動に先んじて"意図"を読める虺の目といえど、自らが先手に回っている状態では視えたところでどうしようもない──!

                (虺にそれはマズい──!)
                「私の見立て通りならさぁ、きみ、これ効くだろ」

                 蔡の心中の叫びと同期して、掌底が触れる。
                 百合銀が使い手を選ぶのは型の難度もあるがそれ以上に、使用者の体質を選ぶからだ。その点日奉楸は完璧──そういう血筋に生まれているのだ。故に、その一撃は日奉の歴史そのものの重みを虺にぶつける。

                棄却する
                「──ッ!?」

                 体の中のものを、消し飛ばされる感覚。
                 日奉本家の遺伝子が楸の肉体に刻み込んだのは、奇跡を否定する力。霊的な力を封殺する百合銀の性質と同ベクトルにして、血の通った術式がその力を解き放ち、虺の体を穿った。
                 普通の人間であればちょっと痛いくらいで済むだろうが、薬師寺の業の煮こごりである呪われた命、奇跡と同軸にしてその対を極めた薬師寺虺には、致命的なまでによく効いた。

                「ア──、ガ──」

                 声にもならないような呻きを上げて、虺の意識が吹き飛んだ。楸の奇跡殺しはその効力を十全に発揮し、虺の体内の呪力をあらかた打ち消した。生命エネルギーを奪われた生き物がどうなるかは、虺を見ての通り──制御系が停止したかのように、地に伏す。

                「虺!」
                「ふう……」

                 倒れた虺を蹴飛ばして、ひと仕事終えたというように楸は息をついた。

                「なるほど私が門番に指定されるわけだな……」

                 手のひらの感触を確かめるように、呟く。
                 なるほどこういうこともあるのか。勉強になった──そんな顔をしていた。

                「チッ──」
                「どうする? お前もやる?」

                 元の気怠げな顔で、少し離れて立つ蔡を見る。
                 頼みの綱の共犯者は倒れた。しかし──

                「殺す──!」

                 戻る道はない。とっくに覚悟は決まっている。
                 ──「日奉一族をぶっ殺す」。
                 その意志だけが、蔡を駆動させる。踏み込み一閃、体を躍動させるのと同時にナイフを突き出す──一族を害し殺した毒牙は薬師寺虺だけではない。共犯者から預かったナイフを振るう殺人鬼が、ここにも1人。

                「そっか。がんばれ」
                「うっ……!」

                 しかし、日奉の剣士に正面切ってそんな攻撃が通じるわけがない。
                 百合銀が、蔡の胴を打つ。殺さないと言ったのは本当らしい──峰打ち。しかし刃はついていないと言えど、金属の棒で殴られているのとそう変わらない。一瞬呼吸が止まった──まともに喰らい、膝から力が抜ける。

                「づッ──!」

                 追撃を、躱す──蔡の視界、辛うじて視認できた左上から振り下ろされる百合銀を躱すべく、後ろに跳んだ。

                「──ッ、痛えじゃねぇかクソ……! 女の子の腹ァ殴るとか正気かてめえ」

                 よろめくように後退して間合いを取り、片膝をつくようにしてかがむ。刀とナイフではリーチ差がでかすぎる──瞬発、跳躍による"速"の一撃だけがこちらに許された優位。
                 ナイフを構え直して、敵を睨む。
                 虺でさえ歯の立たなかった相手にどう攻めるか──殺し合いの速度で脳が回る。

                (いや違う……固着しちゃ駄目だ)

                 ──刹那、脳細胞が発火した。
                 だらりと、構えた腕が降ろされる。楸の体にこのナイフが通じるかどうかも賭けだ──ナイフで刺しに行く戦法では勝ち目が無いのは自明。
                 ──「人間はね、日奉さん。本来自由な生き物なんだよ」。誰かがそう、言っていた。
                 視野を広げろ、想像の耳を澄ませろ。考えろ──「やりたいことはなんなのか」。

                (──答えはこう!)

                 そのまま自らの腕に、毒蛇のナイフを突き刺した。
                 想起するのは、爆ぜる死の花火──!

                降レ降レオン・キリキリ」「何が何でもバザラ」「ぶっ殺すウン・ハッタ
                「ッ──!」

                 それは呪いの毒を励起する詠唱。切りつけた傷口から毒が回り、そして熱を帯びるイメージ。蔡の目が鋭く敵を睨む。想像するのは毒し殺す呪い。体内に回るのではなく自らの意思で以て身中に回し、己の力に上乗せして外界に流し返す。想像するのは圧縮された水。侵し来る力を、体外へ打ち出されようとする自らの全身全霊で以て押し留める。──詠唱とともに蔡の霊力が膨らんでいく。
                 無論警戒は当然で、相対した剣士は目を見開き、間合いをとって術ごと切り裂かんと百合銀を高く掲げる。日奉神殺剣の基本の構えであり、一撃にして対峙する御霊を撃退するための溜めの姿勢。その本懐は後の先カウンターであり、だから目の前の「雑」がどんな最後っ屁をかこうと斬り伏せるだろう。もっともこの場合は、その構えこそが命取り──!

                「いくら神に届く剣ってもよぉ、物理的に雲までは届かねぇよなぁ!」

                 バスン、と弾けたのは彼女のてるてる坊主か、あるいは殺意か。──古くより、大雨を受けて氾濫しすべてを呑み込んでいく大洪水を人は恐れ、神の怒りとさえ崇めてきた。人々は蛇行し荒れ狂う濁流に龍の似姿を見、それは世界各地の神話に多く嵐を呼ぶ神の現し身と語られる。
                 そして数々の神話が示す通り、嵐の化身と畏れられた龍蛇の神は──

                死ねズドン

                 ──雷を伴って現れる

                「──!?」

                 閃光が目を焼き、次いで腹の底に響くような衝撃が地を揺らした。──轟音と共に爆ぜたのは、雷撃。
                 雷は当然高いところに落ちる。百合銀を掲げた日奉楸に直撃した稲妻は瞬間にして爆ぜ、屋敷を囲う塀、そして彼女の守っていた門を焼きながら爆風を生んだ。

                「っ……!」

                 爆風は膝をついたままの蔡さえ煽り転がし、3者が地に伏す焦土を顕現させた。
                 戦場に残るのは、広がっていく炎と焦げた地面。屋敷の内と外を隔てる結界の役を負う塀は辛うじてその機能を保ち、戦場に束の間の静寂を齎した。
                 パチパチと火花の弾ける音が響き、数秒が経過して──蔡がやおらに起きあがる。

                「──アハ♡」

                 ゆっくりと、だが堂々と立ち上がり、自らの手で齎した一撃により痙攣し煙を燻すかたきを見て、笑う。
                 卑しくも確たりと植わる雑草の流儀──日奉蔡は立っている。その体現者として、勝者の笑みを湛えて立っている。

                「俺の勝ちだよザマ見ろバーカ!! ウヒヒヒヒ、ゲヒ、ヒャヒャヒャ、ギャハハハハハハハハハハハ──ハ?」

                 勝鬨のように下卑な笑い声を上げる蔡が、バッテリーが切れたようにぐらりと傾き地に倒れる。彼女らが霊力と呼ぶ、生命エネルギーの過剰消費を受けて人体の保護機構が作動した──すなわち、休眠を求めての失神。
                 しかしそれはノックダウンでこそあれ、決して敗北を意味しない。自然界の鉄則、誰もがよく知る殺し合いのルール。
                 『最後まで生きていた方の勝ちだ』。


                【日奉宗家"木流" 日奉楸────感電死】
                (日奉邸跡にて確認)
                【指定超常遺産 日本刀『百合銀』────被雷により損壊】

                  • _

                  くら。『くろがね』を持て」
                  「はい──」
                  「よし」

                   屋敷の外、庭の向こうにある門の方で音がした。日奉一族宗家の長、日奉檎は立ち上がる。
                   茸が報せた日奉一族襲撃犯を引っ捕らえるべく召喚した日奉蔵に命じ、彼女の能力で"鉄"の銘の神殺剣、『夜合鉄やごうのくろがね』を呼び寄せさせ、それを召す。
                   縁側に出て、庭を見る──門が、焼けていた。

                  れんじしだれそう。出るぞ。ここで終いにする」
                  「御意に」
                  「承知しました」
                  「始末はお任せを」
                  「他の者は下がっていろ」

                   襖の閉じる音を背に、庭に立つ。
                   門が破られたからには、もう後はない。日奉一族に連なる者ならば知っている──その存在自体が、最後通牒。当主自らの手で、全てに片を付ける。絶大にして絶無の支配者が、動いた。
                   焼ける門を睨む──その視線の先で、燃え盛る火を背に蛇の目が爛々と揺れていた。


                   パチリ、と目を覚ました。
                   火の粉の飛ぶ音が聞こえる──それに、焦げくさい匂い。ハッと気づき、次いで意識に飛び込んできたのは、焦土と化した戦場いくさば

                  (蔡が、やったのか)

                   腕を突いて起き上がる。視線を巡らし、周囲を見た。
                   黒焦げになった人型の炭と、おそらく百合銀だったであろう金属の棒、そして晴れやかな顔で地に伏す蔡──ということはあれは楸だろう。
                   第六感が知らせる痕跡を辿って、何が起きたかを推測する──成り立つのは、雷でも降らせたか、という推理。とんだことをしてくれたもんだと思う。だが、それでこそ。方法は、知りえないが。しかしまあ、やろうと思えばその程度はできるのだろう、あの女なら。薬師寺虺の目は、あの雨雲に潜んでいたものを知っている。

                  (ならこれは静電気……か?)

                   体全体が電気を帯びているような感覚。代わりに、一撃貰った後の体の弾け飛ぶような激痛は消えている。雷撃なら、きっと電気由来のそれなのだろうと当たりを付けた。
                   落雷時の雷は、直撃電流の他に周囲に大小様々の電気の流れをもたらす──薬師寺虺の体は、空気中に散乱したそれらを吸収していた。蔡の全身全霊を賭した一撃は当然、彼女の霊力をもふんだんに含む。虺が復活したのも、それを吸収したからだ。本人がそれを自覚しているかどうかは、置いておくとして──

                  (まあ、いいか)

                   それより、蔡がここで倒れているということは、まだやるべきことが残っているはず
                   立ち上がって、歩き出した。

                  「──ぶっ殺す」

                   呟きながら、稲穂銅を担ぎ火を放つ門を潜る。
                   その視界の先に、かの絶対支配者が立っている。

                  「名を名乗れい」
                  「薬師寺虺。あるいは日奉蔡の代理人」

                   対面。庭の中央に、4人──いずれも尋常ならぬ霊力の圧を発する者たち。その中でも一歩前に出て刀を杖のように立つ老人、日奉宗家当主、日奉檎が誰何する。
                   薬師寺の忌み子、虺をしても圧倒的と感じる圧力を前にしても、虺の心境は不思議なほどに凪いでいた。

                  「そうか。では」「歩くを、禁ず
                  「──っ」

                   日奉檎が当主として君臨している理由の1つがこれだ。空間支配能力。彼の前ではその言に逆らえるものはいない。絶対的なまでに、彼の声が届く範囲全ては支配圏にある。
                   虺の脚は、ピクリとも動かず、完全に静止した。

                  「申し開き、命乞い、遺言、恨み言の類があれば聞くぞ。言ってみろ」
                  「──なあ、あんたらって偉いのか?」

                   ゆっくりと、夜合鉄の怪しく光る刀身が鞘から顔を出した。鞘を持ち替えながら、檎が問う。
                   それを据わった目で見つめながら、薬師寺虺は口を開く。

                  「人を殺す鬼よりは、よほど」
                  「そうか──じゃあ、あの女を飼い殺して許されるほど、あんたらは偉いのか?」

                   凪いだ心はしかし──その全てが、殺意の水でできていた。
                   静かにかつ鋭く、言葉をぶつけていく。脳裏によぎるのは、泣きそうな顔で俯いていた蔡の姿。

                   ──「力には効率のいい使い方というものがある」。

                   続けて去来する、恩師の言葉。
                   十数年後には”奇跡術"として世に膾炙することになる、世界を動かすための力を動かす理論フォーマット。それは超常なるものが闇の中に埋もれていた時代から、例えば虺のようにそういったものを知覚できた先人たちが見つけ出し洗練してきた歴史の産物であり、体系だって存在する学識だ。
                   が、しかし。一般則を見つけ出すという人類学問の宿業故にこそ、取りこぼされる例外が存在する。あえて挙げるならばそれは日奉のような血であり──そして今ここに立つ少年。

                  「当然。我ら日奉──万世を支える黄金桃の血統ぞ」
                  「そっか──!」
                  「ッ──!」
                  「こいつ!」
                  「──動くを、禁ず

                   稲穂銅に霊力を流し込み、振るった──それも、禁じられたが。

                   日奉の血脈は彼らの力や体や血の質に最適化されたフォーマット、例えば相伝である日奉神殺剣やいくつかの巫術を編み出した。では薬師寺虺は──。彼の用いているフォーマットは外付けの、彼の力を制御するためのものであり、いわば矯正具の役割を果たしていた。

                  「──だからお前らは死ぬんだよ」
                  「何?」

                   しかし、矯正具とは本来望ましい発達を誘導するために備えられるものであり、だからやはりその役目を全うしていたのだ。フォーマットという概念を教わり、数多の力の使い方をその蛇の眼で検分し、たった数刻前の戦闘で人は自由だと理解した彼は、やり方次第でどうとでもなることを知っている。
                   畢竟。薬師寺虺、今ここに至りて──生まれ持った殺戮の形が花開く。

                  アメアメ降レ降レフレフレ
                  「──!」

                   虺が唱えると同時、顰められた檎の顔が厳しく歪み、次ぐように、妖刀『夜合鉄』が振るわれた。
                   檎の能力を受け、その制約を破ったものは存在しない。虺と言えど、身じろぎ1つできない。振るわれた刀は確実に虺の命を剣筋に捉えている。非常に困った事態だ──がしかし。蛇が獲物を喰らうのに、腕や足は必要ない。口が動けば、それで十分──!

                  カアサンガ
                  「ッ……!?」

                   檎の一刀も手遅れ──夜空のどこからか、さながら雷のごとき速度で、空気摩擦だろうか、火炎を伴って刃が飛来した。
                   それは振るわれた妖刀、正真正銘神を殺すための剣だった"銀"に並び対極を為す人を殺すための神殺剣、夜合鉄に直撃し、檎の手から叩き落とす。

                  地獄ジゴク御前オマエッテルゾ
                  「────づッ!」

                   ゴシュ──連続して、衣服ごと人間の骨肉を斬り裂く音が響く。立っていた4人の足元からそれぞれ、金属の光沢が覗く。草履、足袋、そしてその中身を貫通して現れた刃物を、血が濡らす。
                   屋敷の庭にその赤い液が滲むと同時、それを触媒とするかのように、透明な水が湧き出し──

                  「カハッ────」
                  「なッ──!?」
                  「貴様何を……!」
                  「っ……!?」

                   ──地面を浸したその液体に触れた途端、バタバタと日奉が倒れ伏していく。
                   地獄草子という、仏教における冥界の様子を写した古文書が存在するが──その中に雨炎火石処うえんかせきのしょとして語られる地獄がある。曰く、空から焼けた石が降って落ちた罪人を打ち、それから逃げた罪人たちは死の河に沈む。燃え盛り炎がとぐろ巻く門塀と相まって、この様子はまさにそれ

                  「何があった──ッ!?」

                   虺の目が屋敷の中で人が動くのを捉えたその刹那、空から燃える鉄の雷が落ちた。
                   ──毒蛇の口の中は地獄。屋敷全域に広がった雨炎火石を以て、蛇は敵を殺し呑む。

                  「おい、何だこれ!」
                  「落ち着きな──ガッ!?」

                   屋根を貫き落ちた刃は着弾とともに爆ぜて館を焼き、落ちた痕から死を媒介する液体が滲出する。

                  「待て、それに触れてはならん!」
                  「しかしッ!?」
                  「きゃあ──!?」

                   呪い殺す力が凝縮された液体は、屋敷の床を浸しきっている──触れれば死ぬ澱みに慄きいきり立つ住人たちが慌てふためくその一挙手一投足ごとに、刃の雷が落ちて爆ぜ貫く。
                   ──阿鼻叫喚の騒ぎが、一分ほど続いた。

                  止メヤメ

                   全てが終わった後は、静かだった。建材の木が焦げる音さえ聞こえそうな沈黙が、場を支配する。
                   日奉邸内部から命あるものが皆消え失せたことをその目で確認し、毒蛇はその口を閉じた。湧き出していた水は綺麗さっぱり引き失せ、刃は忽然と消えた。
                   どこかで焼け落ちた柱が倒れる音を聞き捨てて、至極つまらなそうに、薬師寺虺は庭に倒れる死体を見た。


                  「起きたか?」
                  「ん? んー」

                   虺の膝の上で、蔡がむずがる。
                   空は白みだしている──燃え続ける館の火も、もはや残火が焼け跡を灯すくらいだ。

                  「……虺?」
                  「おはよう」

                   パチパチと目を瞬かせて、瞼を開いた。歳に似合った童顔の優しい笑みが、視界に入る。
                   ゆっくり、上体を起こして、キョロキョロと首を動かしてから、尋ねた。

                  「これは?」
                  「全部終わったよ」
                  「……そっか」

                   焦げくささに顔をしかめてから、もう一度「そっか」と言って儚げに笑う。
                   虺の隣に腰を下ろし、空を仰ぐようにして口を開いた。

                  「終わったかぁ」
                  「まあ、この場で生きてるのは、俺たちだけだな」
                  「マジでお前がやったの?」
                  「そういうことに……なるな」

                   いまいち実感はわかないが、しかし、確かな感触はあった。地獄の水門を確かに開いた感触が、どこにともなく、あった。

                  「でも別に、まだ分家は残ってるんだろ。何もこれで終わりってわけじゃないんじゃ」
                  薬師寺お前んとこがどうかは知らないけど、本家全員殺したら日奉うちはもう終わりだよ」

                   日奉一族、その本家はしばしば──分家と対比して──"幹"と称される。分家は所詮枝葉に過ぎない。蔡や芥は、その中でもさらに木っ端、剪定され捨てられる地位にいたわけだが、それをしても全く困らないほど、本家が、あまりにも絶対的な存在なのだ。夜合鉄──処刑用に使われる刀と、それに対応する神殺剣の術が本家の人間にしか使えない辺りにも、それは象徴されている。

                  「──じゃあ」
                  「うん……ここで終わりだよ。正真正銘」
                  「そっか……そっか」

                   噛みしめるように、頷く。長いようで短かい共犯だったが、その比重は虺の中であまりに重い。

                  「ていうかね、ここで終わりにしとかないとどうしようもない」
                  「は? どういうこった」

                   パチ、と弾ける残火に目を遣り、頬を掻きながら、祭はもどかしそうに口を開く。

                  「うーんとね……この屋敷、異次元空間にあるんだけどね?」
                  「うん」
                  「それが今、このザマだからさ──多分遠くないうちに現実空間に浮上する」

                   この空間に屋敷を繋ぎ止めていた楔も、結界も、ましてや出入りするためのゲートも、蔡の落とした雷や虺の作り出した地獄によってズタボロに殺されている。逃げるにしても、そうすんなりは行きそうにない。

                  「だからまあ、流石に逃げるのは無理かなって感じなんだよね……ここまでデカい土地がぽんと出てきたらいい加減警察サツさんらも黙ってないでしょ」
                  「それは……まあ、そうかもな」

                   新世界秩序体制への移行に伴って、今まで財団や国連下部組織GOCが担っていた超常世界における秩序維持も、各種国家──あるいは民間──組織に少しずつ割り振られる比率が上がってきている。いくら旧呪術家系が絡んでいると言っても、焼け落ちた日本家屋の跡地がどこからか急に出現するともなれば流石に動かざるを得ないだろう。

                  「虺。お前──実家戻ったとして匿ってもらえそうか?」
                  「え……どうだろ。難しい気はする」

                   出し抜けに問われ、反射的に所感を告げた。
                   言い終わってから、どうだろうな、と考え直し、言い直す。

                  「気はするっていうか……まあ、無理だろうな」

                   元々持て余されている忌み子だ──薬師寺家としても日奉を殺し回った人間なぞ匿うにはリスクが高すぎるし、虺自体にそこまでするメリットはないどころか、これをいい機会として殺処分されても何ら不自然ではない。良くて他所に身柄を売られるあたりだろうな、と思う。

                  「そっか。じゃあ、虺」
                  「な、何だよ」

                   隣りに座った虺に詰め寄って、顔を突き合わせる。距離の近さに、驚いた。

                  「──お前、逃げろ」
                  「は?」

                   目を丸くする。大きく見開かれた蛇の瞳孔に、蔡の顔がよく映った。
                   逃げろ、とは──

                  「中部は駄目だ。絶対行くなよ。隠形使いンとこの家があの辺だし、薬師寺家も近い」
                  「いや、何言って──」
                  「関西がいい。特に京都だな。あの辺なら蒐集院の勢力圏だろ? うまく取り入れば匿ってもらえるさ。『薬師寺の忌み子』に『日奉殺しの犯人』とか、その辺の手札切れば多分いける。この屋敷がどこに浮上するかわかんないけど、だいたい多摩川流域だよな……? うん、そのはず。だからまぁ、始発乗って新幹線で行け。電車賃が不安なら小遣いくらいくれてやる」
                  「──待てって!」
                   
                   自宅の箪笥から中身を補充した財布を投げてよこした蔡を、怒鳴って止める。

                  「待てよ。一緒に逃げるべきだろ、あんたも! 共犯者だろ!?」
                  「……いや、逃げない。私は、この場に残って自首する」
                  「は──?」

                   返された言葉に、愕然、そして、疑念の表情を浮かべる。
                   どうしてだ。虺に逃げろと言うなら、蔡もまた逃げるべきではないのか──

                  「私は──芥を殺したからさ」
                  「そんなの、俺だってそうだろ! ていうか、実行犯は俺だ」

                   フ──と、寂しげに笑う蔡に、虺が反駁する。いくらなんでも、その理屈は、通らないだろう。この事件の始まりは、そもそも虺にあるのだ。
                   "自首するならむしろ、俺のほうだ"──と続けようとした虺を、蔡がかぶりを振って遮った。

                  「いやいや、違くてさ……まあ広く言っちゃうと、他の奴らもそうなんだけど」
                  「……何だよ」
                  「すっきりしない──と思うんだよ。このまま逃げおおせても。一区切りっていうのかな……そういうのが多分無くなると思う」

                   芥のことを気に病みこそすれ、それ以外の被害者たちについては、微塵も悔恨の意識はない──ただ、"殺してやった"という事実だけは、きちんと受け止めたかった。
                   そういうようなことを言いたかったのだが──伝わったか?と、考える。しかし、まあ言ってもわからなそうだしいいか、と割り切って、付け加えるのをやめ、別の本音を告げる。

                  「なんていうか、まあなんかこれ以上はちょっと私のモチベーションも怪しいんだよね……一緒に行っても足引っ張りそうっていうか」
                  「ッ……でも!」
                  「っつうか、何でそんなに私に執着すんだよ、お前。もしかして惚れたか?」
                  「そういうんじゃ──」

                   からかうように笑ってみせる。
                   お、図星かな?──とニヤけて虺の出方を伺うが、熟慮するような態度から出てきた言葉は、予想とは違うものだった。

                  「あんたは……家族だから」
                  「は?」

                   今度は蔡が驚く番だった。家族? 蔡に、家族と呼べる存在など、いない──それこそがこの事件の動機だったはずだが。

                  「いや、違くて──ああクソ!」

                   そんなことを言いたかったわけではない。この事実は、別に言うつもりはなかったのに。「共犯者だから」とか、あるいは──「あんたが俺の道標だった」とか。そういうことを言おうとしたのだ。
                   あの日、空をかき鳴らしたノイズを教室で見た日。あのノイズを──燻った思いのようなものを、闇雲にぶちまけたような、そんなノイズを見た時、思ったのだ。"この雨の主を殺せば、なにか分かるかもしれない"、そう、目覚めかけの毒蛇は、爆発寸前だった呪いの塊は、思ったのだ。あの雨が、目に焼き付いたまま、彼の心を離さないでいた。
                   あの日の後、雨に滲んでいたのと似た気配の人間を探し回り、見つけて、殺した。それが1人目──だと思っていた茸の分身。
                   空振ったと思って、更に必死こいて、登校から下校まで、朝から夜までできる限り嗅ぎ回って、蔡を見つけ、そして殺しそこねた。
                   今度こそとつけ狙っていたら、共犯関係が始まった。
                   殺しを続けて、ここまで来た。
                   ──その全て、蔡から始まり、蔡を追いかけた旅だった。

                  「別に急かさないよ。ゆっくり話せ……いや、まあ時間に余裕があるわけでもないんだけど」
                  「はあ──あんたの母親。日奉葱……違うか?」

                   なだめられて、息を吸って、吐き、尋ねた。その質問は、核心を射抜く──

                  「違わない……何でそれを?」
                  「俺の母親も、そうだからだ──姉さん」
                  「……まぁじ?」
                  「マジ」
                  「いや、そうか……そうかぁ」

                   日奉葱。無能の日奉として生まれ、「雑」に括られた女。その女の生涯は、出奔と寄食の繰り返しだ。日奉での待遇に耐えかねて逃げ出した19歳を最初として、その後"白ノ瀬"や"神枷"、あるいはそれらより格下の、旧呪術世界に縁ある家を転々として生きていた。そのうちのいくつかの家で子供ができて、その辺のゴタゴタで追い出されたらしいことを考えるに体を切り売りしていたのだろうと思うが──能力ある子、蔡を生んで一度日奉に呼び戻されたのでも懲りなかったらしい。虺が蔡を"姉"と呼ぶということは、そうなるのだろう。

                  「いつわかったの、その、私が姉だって」
                  「……名前聞いたとき」
                  「だいぶ最初の方じゃねえか……そっか……マジか……」

                   降参と言わんばかりに、空を見上げる。
                   でもしかし、そうなら説明のつくこともある。蔡が自分の体に毒を注入して、無事、それを利用できたのも、遺伝子的に近かったから。そこにまで思い至り、いよいよ納得するしかなさそうだと腹を括った。
                   彼女が知らないまでも、虺が本格的に覚醒し人を殺すようになったのも、同じ母親の血を継ぐ蔡の雨に触れたからだし、気絶した後に霊力を吸収して復帰できたのも虺と蔡の遺伝子が近かったからだ。もっと言えば2人が花籠学園の青薔薇計画に招かれているのも、その辺の事情込みでのことだ。──この姉弟は、本人たちの預かり知らぬところで、血統の恩恵を受けている。

                  「あのアバズレ、どうしてる?」
                  「どうしてるも何も、死んだよ。俺が生まれた時に」
                  「そっか……」

                   生きていたなら"一緒に殺しに行くか?"とでも言おうと思ったが、死んでいるなら世話がない。そうか。そうなら──

                  「──虺。お前はやっぱり逃げろ」
                  「は? いやだから、何で! あんたも一緒に来るんじゃねえのかよ!」

                   納得がいかない。今のは、一緒に逃げようって流れだったろ──と訴えようとする。

                  「それこそ、家族だからな。弟には、元気でいてほしい。上の子は下の子を守るもんだよ」
                  「そんなの……そんなのはないだろ! あんためちゃくちゃ駄目な姉貴だったじゃねえか」
                  「く、ははははははははははははは! うひっ、ひ、ひひひひひひ! ひー……ま、そうだな……そうだそうだ。駄目な姉貴だよ私は」

                   「何を今更」と突っ込む虺の言葉に腹を抱えて、ひとしきり大笑いしてから、涙を拭って、あっけらかんと開き直った。
                   戦闘にしてもほぼ虺に任せきりだったし、虺相手にたかり倒したり、家事の類をほとんど放棄していたりと、杜撰な面ばかり見せた共犯関係だった。

                  「──でもだからこそだよ、虺。最後にお姉ちゃんらしいことさせてくれ。私は自首して罪をおっかぶる。お前は逃げて健やかに暮らす。それで判決きまりだ、オーケー?」
                  「……っ」
                  「寂しくなったりキツくなったりしたら、共犯者おねえちゃんのこと思い出してもいいからさ。ね?」

                   歯をギリと鳴らし黙った虺に、冗談めかして言う。

                  「ま、私も拷問とかされてキツくなったらお前のことゲロるから。そんときゃムショでまた会おう」
                  「最悪だよあんた……」
                  「そりゃま、卑しい人間と言われ続けたからな」
                  「本当に最悪だよ、畜生……」

                   虺の頬を流れたのは、雨ではない。
                   白みだした空は気持ちいいくらいに最悪な、雲ひとつない快晴だった。



                  【日奉宗家"木流"当主 日奉檎────焼死?】
                  【日奉宗家"木流"嫡男 日奉権────焼死?】
                  【日奉宗家"木流" 日奉櫺────焼死?】
                  【日奉宗家"木流" 日奉格────焼死?】
                  【日奉宗家"木流" 日奉森────焼死?】
                  【日奉宗家"木流" 日奉林────焼死?】
                  【日奉宗家"木流" 日奉䒳────焼死?】
                  【日奉宗家"木流" 日奉椚────焼死?】
                  【日奉分家"草流" 日奉蔵────焼死?】
                  【日奉分家"草流" 日奉葬────焼死?】
                  【日奉分家"草流" 日奉葉────焼死?】
                  (日奉邸跡にて確認。死因判別不能)
                  【登録私有異空間 日奉邸────火災により倒壊、跡地が現実空間に浮上】
                  【指定超常遺産 日本刀『夜合鉄』────日奉邸跡より回収】

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                     今回、「日奉一族連続殺人事件」の犯人である日奉蔡という少女が、JAGPATO監督下の刑事裁判によって財団サイト-81A3に収監されることが決定したと、突如信濃中央新聞社から報じられました。
                     このような報道規制と都合のいい情報開示は財団の得意とする常套手段ですが、今回ばかりは日本国の超常主権に関わる問題ではないでしょうか。明治の世から日本は領事裁判権に関して煮え湯を飲まされてきた歴史があります。そのような歴史を繰り返していいのかという声も少なくありません。

                    [中略]

                     日本超常組織平和友好条約機構JAGPATO、つまりは日本国内における戦後超常社会秩序体制の門番的存在ですが、この機構はほぼ財団とオカルト連合という2枚看板によって運営されており、日本国政府は発言権をほぼ持ちません。
                     そのJAGPATO、言ってしまえば財団の監督下での裁判ですが、旧呪術世界、つまり蒐集院を中心とした戦前超常社会の残存コミュニティの秩序を揺るがしかねないとの事由により秘匿裁判として行われています。

                    [中略]

                     16人もの方が殺害されるという実に痛ましい事件です。このような残虐な行いは決して許されるべきではありません。しかし主犯とされた日奉蔡は当時まだ15歳の少女であり、どうにもこの判決には無理があると思われてなりません。財団による作為的な介入の影を感じるなというほうが無理筋というものでしょう。今一度、この国における超常主権のあり方について考えてみるべきかもしれません。

                    恋昏崎新聞 コラム「よくわかる解説 広末デスクの斜め斬り」より


                     「日奉一族連続殺人事件」だなんて物々しい事件が急に、しかもいきなり解決済みだなんて報道されたものですから皆さんびっくりしたことかと思います。なんと16人もの日奉一族を、日奉蔡という高校生の少女がたった1人で殺したとまで言うのですから、驚きもひとしおです。
                     しかし皆さんご存知の通り、98年以前の世界と違って呪術や魔法は当たり前に存在するものとなった現代では、非力な少女とはいえど凶悪な殺人鬼に変貌するのも決して不可解な事ではありません。特にこの少女は日奉姓の持ち主。それくらいのことはやってのけて当然でさえあります。

                     今回の事件の被害者でもあるこの「日奉」の一族ですが、旧呪術世界に縁のない方にはこの名は馴染みのないものかもしれません。「日」を「奉」ずると書いて「いさなぎ」と読みます。
                     彼らは旧呪術世界、戦前の国内超常社会において蒐集院に仕えていた一族であり、現代でも当時からの力を受け継いでいます。"木流"と呼ばれる本家といくつかの分家が特筆すべき勢力で、主にこの分家筋の人々が現代社会で表に裏にと活躍しています。呪術世界と関わりがない読者の方でも、歴史の古い家、特に旧財閥や「千本鳥居」に連なるお家の方、あるいは宮内庁や警察組織に縁のある方はもしかしたら一度くらいはその名を実際目にしたことがおありやもしれませんね。

                    [中略]

                     氏族共同体としての日奉一族の大きな特徴は「幹」とも喩えられるその本家中心の構造でしょう。内婚文化と相まって、分家の人間であっても優秀な人材であれば本家に迎え入れられるというシステムが出来上がっており、これにより本家に重要な人材や術式が集中する構造が存在していました。 [中略] この構造が今回の事件で本家が壊滅したことによって崩れ、いま日奉一族はじめ現代日本超常社会は均衡を失い、ちょっとした変革の流れの中にあります。
                     良い話としては本家により抑えられていた分家の人材がより広く社会に放出されることによって、超常技術の発展や異常災害・異常疾病への社会的対応力増強に繋がるだろうと言われています。悪い話としては、蒐集院関係勢力の集中する京都や長野の近郊での治安悪化、勢力図の刷新による経済活動や物流の変化などが懸念されています。

                     どちらにせよ、この機に利を得る方不利益を被る方様々おられると思いますが、困ったらお近くの超常コンサルにご相談することをオススメします。手前味噌にはなりますが、筆者である私ミゾウの属する無尽月導衆も数年前から一般相談窓口を開設しておりますので、そちらのほうもぜひご検討ください。それでは、ニンニン。

                    週刊情報誌『ノーヴェイル』 コラム「忍者ミゾウの超常社会虎の巻」より



                    【日奉分家"雑" 日奉蔡────投獄】
                    【日奉一族連続殺人事件────終結】

                    【《Viper, Mandrake, Poisonous Flower/Isanagi Deadly Clan》 is the END】
                    【To Be Continued on SCP-2043-JP & so forth】

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