保安課のオリエンテーション
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車のドアを開けると冷たい風が流れ込んでくる。エージェント・斑鳩は寒さに身震いしてジャンパーのジッパーを上げた。秋も終わりに差し掛かっており、紅葉ですっかり赤くなった葉は地面に落ちて庭を赤く染めていた。前を歩いていたエージェント・生駒は目の前の茅葺屋根の古い民家を指さした。

「この民家の構造の名前は分かるか?」
「南部曲がり家でしょう」

曲がり家は家屋が長方形ではなくL字型の形状で、人の住む母屋と家畜が住む厩舎を一体化させた家を指す。特に岩手県の南部地方で多く見られる形式を南部曲がり家と呼ぶ。

ここは岩手県二戸市。この一帯は財団の妖研究の本拠地でもある。斑鳩はあやかしと呼ばれる妖怪や妖精、怪奇現象などを取り扱う部門で、主に保安活動を行う課に配属された新任のエージェントだ。ここ数十年の研究で分かってきた事だが、妖は人々に実在を認識される事で存在を保つ存在だ。一癖も二癖もある連中で、上手く対処するためには妖に関する知識が物を言う。

斑鳩は上司の生駒から実習形式のオリエンテーションを受けるため、生駒の車に乗ってここまでやって来ていた。上司と1対1のオリエンテーションとなった理由は、保安課が設立20年程度と部門の中では新しく小規模な課だからだ。斑鳩も南部曲がり家の実物を見るのは初めてだが、南部曲がり家の事位は調べていた。

「勉強はしてるようだな」
「ありがとうございます。それで、今日はどんな事をする予定でしょうか?」
「ああ、座学より実際に妖を見て貰った方が分かりやすいと思ってな。お前記憶補強剤飲んだろ」
「確かに飲みましたけど……飲んだの昨日ですよ」

記憶補強剤は普段一瞬で忘れてしまうような情報まで脳に焼き付ける事が出来る。そのため、認識出来ない存在をある程度認知する事が出来るようになるが、脳にかなりの負荷がかかる。妖の調査を行う上では手放せない薬品だが、副作用も大きい。特に飲み始めた直後は体が慣れておらず頭痛、吐き気、幻覚、記憶の捏造、眩暈等の副作用が出る。斑鳩も例外ではなく、今日は1日寝て過ごしたい位の体調だ。車の中で休ませてもらっていたが、今の体調で妖を見ても正しく認識する自信が無い。

「ま、細かい事はいいじゃないか」

細かくは無いと思うが。

「どんな妖ですか?」
「そいつは見てのお楽しみだな。勉強だと思ってついて来い」

生駒はポケットから鍵を取り出し、曲がり家のドアに取り付けられている南京錠の鍵を開けた。

「南京錠ですか?」
「どうした?南京錠が珍しいか?」
「妖が出る家の管理がこれでいいんですか?」
「あー、まあ、ここは大丈夫だから」

何が大丈夫なのか分からない。

「ここの扉は建て付けが悪くてな、開けるのにコツがいるんだよ」
「何度か来てるんですか」
「まあな」

思い返すと、曲がり家の中で座敷童と出会った記憶がはっきりと思い浮かんだ。斑鳩は先ほどまで無かったはずの記憶に困惑した。記憶補強剤による副作用の一つ、記憶の捏造を引き起こした可能性が高い。

「座敷童を見たって顔だな」
「見えはしたんですが、これは幻覚じゃないかと思います。もう一度曲がり家で確認してきます」
「確認はしなくていいぞ」
「何でですか?」
「お前、俺の話に違和感を持たなかったか?自分で考えてみろよ。今日は実習形式のオリエンテーションって言ったろ」

確かに不自然な点は多かった。何が起きていたか先入観を捨てて疑問点を頭の中で繋いでいく。

「アーカイブサーバーから拾ってきたって事は財団の報告書は改訂されたって事ですよね」
「そうだな」
「単なる収容手順の変更ではありませんね」
「どうしてそう思った?」
「財団の管理が甘いからです。オブジェクトの研究価値や収容難度は低そうですがそれだけでは説明が付きません。どこかで異常性が無力化してしまったのではないですか?」

生駒は黙って頷いた。ここまでの自身の推論が当たっている事を確認し、さらに話を組み立てていく。

「無力化後も当分の間は管理体制は甘くならない筈です。あの様子だと無力化してからかなり長いですね。それこそ無力化後の保管期限を超える位に。少なくとも30年以上は前の話ですね」
「そうだな」

オブジェクトの消滅は保安課が出来る前の話だ。妖絡みかどうか検討すらしなかったかもしれないし、仮に妖絡みだとしても力を失ってから30年以上ともなると消滅は免れないはずだ。

「今日は保安課が無ければどうなるかを見せたかったって事ですか」
「そこまで分かればOKだ。この辺は実際に見てもらうのが一番だと思ってな」
「忘れられそうに無いです」

斑鳩の脳裏には座敷童と出会った記憶が残されている。もう消滅済みだと思うと少し悲しくなった。

「そうじゃなきゃ困るさ。座敷童の幻覚を見た事ある奴はもうお前だけなんだぞ」
「責任重大ですね」
「だな。せっかくだし現行版の報告書も読むか?」

生駒から渡された資料はシンプルな物だった。蒐集院の資料も削除されている。アーカイブサーバーから確認出来るとは言え、調べる気にならなければ気付く事すらないだろう。

「蒐集院の資料、消さなくても良かったのでは」
「今となっちゃあ無駄な情報だからな。ただな、妖ってのは一般社会では無駄とか遊びとか言われる部分で生きてるんだ。妖にとってその無駄は必要な物だが、現代の合理化していく一般社会はそれを許しちゃくれない。住処を失った奴はどうすると思う?」
「生きるために別の場所に出て行くか、そのまま朽ちていくかですかね」
「ああ。俺達保安課はそいつらが消滅しないように確保して保護しなきゃいけない。手遅れにならないよう常に気を配る事が大事って訳だ」
「了解です」
「これでオリエンテーションは終わりだ。何か聞いておきたい事はあるか?」

少し考え、気になっていた事を聞いてみた。

「保管期限過ぎた曲がり家って無駄な物扱いになりそうですけど、残っていたのは偶然ですか?」
「さあな。何を無駄とするかは人それぞれだ」

生駒はどことなく嬉しそうな顔をしている。

「いやその顔絶対知ってますよね。教えてくださいよ」
「お前体調悪いだろ、拠点に終わるまで寝てていいぞ」

答える気は無さそうだ。恩師とは一側面からは語り切れない何かがあったのだろう。諦めて目を閉じると座敷童の寂しそうな笑顔が脳裏に浮かぶ。座敷童は妖だったのか、それともただのポルダーガイスト現象なのか、それを取り巻く人達がどんな想いでいたのかはもう誰にも分からない。一度離した手を掴みなおす事など出来はしない。残された物は異常性が消滅した曲がり家だけだ。そこに感傷的な気持ちを持つのも傍から見れば無駄な事なのだろう。

ただ、そうして切り捨てられ続けた結果がこれだとしたら、せめて最後に残った物くらいは無駄ではなかったと言える人がいてもいいはずだ。今の自分に何が出来るようになれば、そう言えるようになるだろうか。そんな事を思いながら、お土産に貰った楓を手の平に載せてみた。座敷童に握られた時の感覚が蘇ってくるような、そんな気がした。

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