迷子
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 お知らせです。██ ██さん、勤務先の皆さんがお待ちでした。

男が座り込んで頭を抱えていたのは、どうもただ忠実にデータをとるために次のアナウンスを待っていたから、というわけではなかったらしい。

男は多少躊躇いながら口を開く。

……これでもう誰も俺を見ていないのか。でも、お前はずっと俺を見ているんだろ?

 本日はご来店頂き誠にありがとうございます。

自身を確かに認識しながらも、それを気に留めることなくただ放送されるアナウンスの声に彼は一抹の寂しさを覚え、ただ愛想無く返事をすることしかできなかった。暫くの休止の中、今更になって彼はまた、自分の存在が薄れ忘れられ、皆が自身を感じなくなっていくのが怖くてたまらない、と思った。全てを投げ出して、今すぐここから逃げ出してしまおうかとも思った。行動に移すことだって造作もないはずだった。

だが、彼の中の勇者はそれを許さなかった。重く震える唇を無理矢理にこじ開け、

なぁ、部屋の中に誰か居るか? 子供がアナウンスをするなんて普通じゃないぞ、それにハードウェアは……

ノイズ。ノイズ。意味をなさない波形に、返事をしてくれ、なんて懸命に呼びかけるも返事は寄越さない。

 お知らせです。██ ██さん、友達の皆さんがお待ちでした。

……いよいよ俺は生きてる意味が無くなってきたな、えぇ? なぁ、誰か居るのか?

勇者は、鋼鉄の扉たった一枚を挟んで隠れているヒロインを救い出すことに躍起になっている。自分自身などというものは、あってないようなものだ。懸命に懸命に、得体の知れないものに話しかけ続ける。しっかり話してくれ、と。

 ずっと、一人。

初めて、人の声を聞いた。さらに勇気が湧いてくる。なに、女の子一人救うだけだ。このまま死ねるのなら本望、簡単なことじゃないか、さあ、立て、俺。

「俺ももうすぐそうなるさ」、なんてことを彼は悲劇のヒロインに語りかけてみる。返ってきた「なんで?」なんて何も分かっていないような口ぶりが、少し愛おしく思えた。

なんでってそりゃ……このアナウンスのせいだ。

 お知らせです。██ ██さん、知り合いの皆さんがお待ちでした。

当たり前のことを言うと、すぐにまた当たり前のように、無機質が返ってきた。それをまた「ほらな」なんて当たり前のように返してあげるのが彼にとっては少し心地がよかった。しかし、

 なんで逃げないの? 私と同じになっちゃうのに……

「なんで逃げない」? 彼はそんな当たり前を、とうに忘れてしまっていた。そしてこの疑問は脳内を瞬く間に支配し、彼の勇気をまともに奪い去る。腰抜けは、大きな迷いに再び小さく座り込んでしまった。そして、

……お前と同じ? お前は誰なんだ? 早くここを開けてくれ、直接話したい。

口から言葉が零れた。これは、か弱い女の子を忘れてしまわないための頼もしい一言などではない。ただ、弱い自分を、せめて彼女一人には忘れられたくないと細い一縷に縋る、心許ない独り言であった。

 私はこのデパートの、最後の迷子だった。

………………。

 皆が私を忘れたの……お母さんもお父さんも、皆。そして私は出られなくなったの。

……俺だって、そうなろうとしていた、いや、今だってそうだ、そのはずなんだよ。ああ、お前を救うためだ。と自分に言い聞かせるが、声に出すことは敵わなかった。

 だから早く逃げて。ここは辛いの、ずっと出られない。

ああクソ。ここは辛いよ。本当に辛い。辛いけれど……やっぱり、逃げることはできない。ここで逃げたら、

——俺は本当に一人になっちまう。

勇者としての大義なぞはとうに消耗しきっていた。

 逃げて、逃げて。ここが開いたらもう手遅れになっちゃう。

手遅れ。彼は十分すぎるほどに手遅れだった。いっそ、責務も記憶も何もかもを投げ捨てて、ここで、この場所で楽になってしまおうか。たった6分前までの彼には考えもしなかったこと。忘れられたくない。この臆病者はまさにそれを実行しようとしている。小さな、小さな迷いをかなぐり捨て、

もう十分手遅れだ。それに……
放送室に一人でいるのは、ちょっと心許なすぎるだろう。そして子供にアナウンスを任せるなら、普通は大人が見守っていなくちゃならない。そう思わないか?

欺瞞と独善に満ちた優しさが、閑古鳥さえも残らなかった、孤独な店にこだまする。

 ………………。

 お知らせです。██ ██さん、皆さんがお待ちでした。

音が聞こえた。

寂寥は、彼が失われるほどに、扉に近づいていくほどに小さくなっていった。鍵は開かれた。俺は、俺は……

もはや恐怖や淋しさなどが付け入る余地は全くなかった。扉は既に開かれている。ただ手を引いて、「よう、お嬢ちゃん。」なんて気さくな挨拶をして、二人で孤独に生きていければ良いだけだ。それなのに。どうしてか不安、躊躇、葛藤が渦巻く。自分に嘘はついていない。俺は、俺のやりたいようにやってきた。俺には、その資格があるはずだろう。扉は既に開かれている。なのに。自分本位の優しさに、無力感に。彼は眼前なる冷え切った鋼鉄の、その中にある深い暗闇を前に、小さな、大きな孤独を前に、足を竦ませた。俺には、もしかしたらまた別のやり方があったかもしれない。そして彼女は今よりずっと良い別の結末を迎えていたのかもしれない。そう思って、嘘に塗れたハッピーエンドに甘んぜず、二度と見ることのないトゥルーエンドの幻想に絆されて、ただ立ち竦んでいた。

1分。ただ手を引いて、「よう、お嬢ちゃん。」なんて気さくな挨拶をして、二人で孤独に生きていければ良いだけだ。窓からは、淡い日の光が差している。ほのかに照らされ、誰もいない世界を一人見渡す。誰も俺に手を差し伸べやしない。

2分。ただ手を引いて、「よう、お嬢ちゃん。」なんて気さくな挨拶をして、二人で孤独に生きていければ良いだけだ。扉からは、幽々たる闇の中で、一人が一人でなくなることを夢見て、真っ暗な光が差している。手を差し伸べられるのを待っている。できるとしたら俺だけだ。

漸くして、迷いを捨てた冒険者は、暗闇を目指して立ち上がった。歩みを進めていく。


3分。暗闇の中で、二人は、手を取りながら、二つの声を聞き取った。

よう、お嬢ちゃん。お知らせです。██ ██さん、私がお待ちでした。

目の前にいる彼女の声が、直接耳に届いた。間に合わなかった。握りしめた手が、恐怖と後悔で震えている。

文字通り、彼を待つものは無くなった。ああ、彼女はまた、一人で、この孤独な放送室で、永遠に過ごしていくのだろう。俺のせいで、俺がうまくやれなかったせいで、俺がどうしようもなかったせいで、再び孤独に閉ざされる。それとも俺より優秀な、勇敢な同僚たちがあの子を救い出してくれるとでもいうのか? いいや、俺だって、あの子と同じだろう。そもそも俺がこんなところにいることだって、俺が誰にも必要とされていなかったからだろうが。俺、俺だって救われたって良いじゃないか、俺は、俺は……。と、彼が今更になってあれこれと考えこんでいるのを尻目に、彼女は不可侵の聖域で、何故流しているのかも分からない涙を拭いながら、力強く握られた知らない人の左手を、ゆっくりと優しく振り解く。そして再びツマミを回して、

 お知らせです。貴方がお待ちでした。

暗闇の中、全てを忘れて枯れた瞳には、救いを願ったように力無く伸ばされた誰かの左手だけが映されていた。

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