青空の下の荒野
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暗い曇り空、立ち並ぶ廃墟、苔むした石畳。

紫がかる夕焼け空、地平線の向こうにぽつりと見える山、足元を覆う長い草。

満天の星空、視界を埋め尽くす大海原、揺れる木造船のデッキ。

何の繋がりも無い複数の景色。いつを見せているのかも定かではない、極めて幻覚に近しい真実の光景。次々と移り変わる景色の中に確かにそれはあるはずだった。

見当たらない。見当たらないので歩き出す。景色は規則的に変わり続ける。位置は世界に対して保たれ続ける。切り替わり続ける33の景色の中で、33の自分を動かし続ける。33の現実を等分割して時系列順に並べ替えたような、困難で、しかしもう慣れた動き方。

廃墟の街に男がいた。草原の中の道に女がいた。木造船の船長室に男がいた。その他の世界にも人間がいた。彼らはコインを持っていた。

彼らはタイミングを図ったかのように次々とコイントスをした。表、表、裏。表を出した男は意気揚々と今にも崩れそうな廃墟に入っていく。表を出した女は満面の笑みを浮かべて駆け出した。裏を出した船長は、苦虫を噛み潰したような顔で立ち上がった。

まだ何も分からない。33等分された時間の中でフェリックスはしばらく観察を続けた。端的に言えば男はビルの崩落を生き残り、女は恋人にプロポーズされ、船長の船は砲撃を受けて沈んだ。他の30でも概ね同様の結果となった。つまり、表を出した者が良い結果を得た。しかしそれに対して裏を出した者は必ずしも悪い結果を得た訳ではない。それは一体何を指すのか───

『大丈夫か』

世界の外からの声にフェリックスは自らが引き寄せられていくのを感じた。33の景色が色を失い遠ざかる。風景は歪み、最後には黒に飲まれた。目を開くと羊飼いの男が心配そうにフェリックスの様子を伺っている。先程の声はこの男だ。

「審判の邪魔になるのが分からんのか。これだから羊は」

壁に寄りかかっていた鉄槌の男が侮蔑の色を隠そうともせずに言った。近づいて声をかけるのを止めなかったのだから同じことだとフェリックスは思ったが、流石にそれは言わなかった。

「いや、終わっている。問題ない」

代わりにフェリックスはそう言った。部屋の中には3人の男たちが待機していた。1人は律法学者。1人は羊飼い。残る1人は鉄槌計画。境界線イニシアチブを構成する3つのグループからそれぞれ1人ずつ派遣された、遺物審判の立会人だ。フェリックスは律法学者から手渡された紙に今見たものを書き留めていく。正式な記録はフェリックスの記憶を読み取って別の者が取る手筈だが、記憶の読み出し技術は未だ未熟で精度が低い。読み出された情報が飛び飛びになったり時系列が前後したりする事が多いのだ。そのため大まかな流れは今書いている記録を参考にすることになっている。33分割された世界を頭の中で繋ぎ合わせて、フェリックスは33枚の用紙に見てきた全てを記録した。

羊飼いの男が律法学者からその用紙の一枚を受け取り、最初の数行を読んで唸った。

「こんな景色が見えているのか?不思議なもんだな」

鉄槌の男も別の紙を取り、最後の数行を読んで興味無さげに突き返した。

「それよりあれは何だ。どういう力を持つ」

鉄槌の男は部屋の中央に置かれた祭壇と、その上に置かれたコインを指さした。表面が擦り切れたそのコインは先日回収されたばかりの聖遺物だ。けれどその能力は判然としない。コインに関する逸話が多すぎるため、関連する聖人から絞る事は不可能だ。かと言って実際に試すのも危険かもしれない。境界線イニシアチブが聖遺物を回収する時にはこうした事態が度々起こる。聖遺物の力の源は時に現代の信仰であり、時に過去の信仰であり、時に未来の信仰であるとは律法学者の弁だった。

それを解決する方法こそ今行われた『遺物審判』だ。聖遺物を祭壇に収め、然るべき紋様を描き、然るべき位置で聖体を呑む。その他様々な儀式を行い、擬似的なトランス状態を引き起こす。そして離脱した霊魂を聖遺物と接触させる事により、聖遺物自身の経験を直接覗き見るのだ。理論を開発した律法学者によるとそれは東洋の『付喪神』という概念に着想を得たものだそうだ。フェリックスは儀式に関わる者として概要だけは知っていた。かつて東洋のどこかで信じられた、長く使われた道具に生じる霊魂。それはイニシアチブでは今のところ、キリスト教における聖霊の現出のひとつとして扱われている。その定義の正確性については遺物審判に関わる律法学者の間でしばしば議論されているが、フェリックスはそこまで興味が無かった。彼にとって重要なのは遺物審判が信仰に篤い者にしかできない役割であるということと、危険であることだけだった。

「分類としては未来予知だろう。運命操作って事も考えられるかもな。コイントスで表が出るとその後良い結果が起きるようだ。しかし裏が出た時には悪い結果が起きたり起きなかったりする。結果だけ見るとリスクの方が高い様子ではあったが」

フェリックスは慎重に言葉を選んだ。鉄槌計画のエージェントは聖遺物の持つ力がはっきりしたと見るや正式な手続きを踏まずにそれを持ち去ってしまう事が度々あった。

「精度はどうだ」

「それを語るには実例が少ない。仮に高いとしてもそもそもこいつが何をもって良い結果を示すのか分からないのは問題だ」

「聖遺物が人の害になるものを良い結果と言うはずがないだろうが」

「主流の宗派であればそうかもしれないが、少数派の宗派の聖遺物には時折そういうものが混じる。ヘムナックの冠が最たる例だ。あれは着用者を表層から血液に変換する凶悪な機能を持っている。それでも血華教の信仰からすれば聖遺物だし、現に聖遺物だった」

「……不信心者が生意気に」

鉄槌の男はそう吐き捨ててコインを取った。澄んだ音が響き、弾かれたコインは回転しながら宙を舞う。手の甲の上に捕まえられた聖遺物は、裏の面を上にしていた。鉄槌の男は鼻を鳴らし、コインを持って審判室を立ち去った。

「まあなんだ。気にするな」

そう言って肩をすくめて見せた後、羊飼いの男も立ち去った。

部屋の中には律法学者たちが残された。

「不信心者、ね」

「彼の言う通り、気にするような事じゃない」

律法学者がフェリックスに応えて口を開いた。

「そんなんじゃないさ」

フェリックスは立ち上がり、自室への道を歩き出した。心の中に吹き荒ぶ風を感じながら。

「フェリックス、準備を」

緊急との報を受けて審判室に入ると、聞くより前に待ち構えていた律法学者が焦りの滲んだ声で言った。部屋の奥には眉間に皺を寄せた鉄槌計画の男と、珍しく引き締まった表情をした羊飼いの男が立っていた。

「了解した」

目の前の鏡に己の姿が映っている。木製の枠に収まり、スタンドと一体になった化粧鏡。これが今回の異物審判の対象だ。祭壇の目の前に進み、用意された椅子に腰掛ける。3人の立会人の1人、律法学者の男が正面の祭壇を囲む4つの小祭壇に聖遺物を並べた。1つは精神を深く沈め一種の催眠状態に落とす聖遺物。1つは魂と肉体の結合を緩める聖遺物。1つは指定した複数の物体間に一時的な”縁”を結ぶ聖遺物。そして1つはそれら全ての効果を一定範囲内に抑制する聖遺物。本来の準備とは異なるそれらが使われるのは然るべき手順を強引にスキップするために他ならない。嫌な予感が頭をよぎる。

「略式でやるのか。何があった」

そう問いかけると、鉄槌計画の男が苦々しげに口を開いた。

「そいつは敵対組織を潰した際に接収した物だ。異端者共に使用され、隊員が複数名植物状態になっている。診療によると霊魂が抜けているとのことだ。おそらくその鏡の中に取り込まれているのだろう。できれば……」

男はそこで口籠った。

「何だ?」

「会う度に罵倒してきた相手に助けてほしいとは言いづらいんだろ」

羊飼いがそう言うと、鉄槌計画の男は俯いた。その姿が肯定を表していた。

「やれるだけの事はやる。始めるとしよう。聖体を」

「待て」

思わぬ声にフェリックスが振り返ると、何かが風を切りながら飛んできた。それを掴み取った手の中には1枚のコインが握られていた。鉄槌の男が持ち去った聖遺物だった。

「持って行け。軽く調べてみたが、おそらくそいつの力は運命操作だ。ひとたび裏の面を出せば圧倒的有利な戦闘が膠着状況まで持ち込まれるほどの効果がある。裏を返せば、表さえ出せれば確実に良い結果を引き起こすはずだ」

鉄槌の男はそう言ってフェリックスをじっと見つめた。フェリックスは頷き、親指でコインを強く弾いた。コインは澄んだ金属音と共に回転し、全員が見守る中を落下していく。フェリックスはパシリと音を立ててコインを手の甲に捕まえた。上になった右手をどけると、そこには裏面を上にしたコインがあった。

部屋は沈黙に包まれた。フェリックスは手を叩き、周囲を見渡すと改めて言った。

「……始めよう」

不安はあるが希望も見えた。ならば必ず掴み取る。そう決意してフェリックスは差し出された聖体を取り、一息に飲み込んだ。

いつの間にか心にこびりついていた景色があった。どこまでも青い空の下、永遠に荒野が広がっている。立っている場所からは視界の範囲内しか見えないのに、それが永遠に続く事をフェリックスはなぜだか知っていた。荒野には風が吹いている。暖かさの無い、乾いた風が強く、強く。

その光景が何かは知らない。ただ、フェリックスがそれを思い出すのはとりわけ祈る時が多かった。境界線イニシアチブの神学者は澄んだ深い青空は強い祝福を表すと言う。けれど無限の荒野については誰もが揃って顔を顰めた。命が芽吹くことの無い大地は神への拒絶を暗示すると。

イニシアチブは概ね寛容な組織だが、時に排他的にもなる。信仰の名の下に繋がっているので、信仰心を持たない者が所属する事はまずあり得ない。だが、もしそれがいたならば。どこからか漏れた噂話、フェリックスの持つ原風景の有様は、彼が非難の視線を浴びるのに十分すぎる理由だった。神に愛され、しかし神を拒む不敬な輩。フェリックスに与えられた評価は概ねそんなものだった。

だが、神を信じていないのかと言われればそれは違うとフェリックスは思う。そして、そう思っているだけなのかもしれないとも。

だから危険な役割を引き受けてきた。信仰が試される役割を引き受けてきた。自分の信仰心を知らしめるために。自分の信仰心を確かめるために。経験した仕事は多岐に渡る。他組織との折衝、聖遺物の回収、危険地帯での護衛任務、交渉、殺しに至るまで。

その経験を武器にフェリックスは審判士という役職に収まった。審判室で未鑑定の聖遺物と向き合い、剥き出しの魂をもってその力を確かめる役割。強い信仰を持たずして果たす事はできず、霊魂が傷付く危険すら冒す危険な職務。それはまさにフェリックスの望み通りのものだった。

そしてフェリックスは求めていた場所に辿り着いた。今や彼を不信心者と誹り、その信仰心に唾を吐く者は狂信者の中でも頭の固い者くらいだ。フェリックスは自らの行動によって望んだものを手に入れた。求めよ、さらば与えられん。新約聖書の一節から生まれたその言葉の通りに。目的は果たした。そのはずだ。けれどフェリックスは今でも審判士を続けている。自分の信仰は本物なのかとただひたすらに問い続けている。そうしなくてはならないという強い衝動に突き動かされて。

けれど、問い続けた先に本当に答えはあるのだろうか。自分は本当に神を信じているのか、その結論が出る時は、果たして。

吹き付けた風の音で思考が視界の中に引き戻され、フェリックスは足を止めた。彼はその時初めて自分が歩いていた事に気がついた。前を見やり、そして後ろを振り返る。そこにはどこまでも深い青空と無限に続く荒野が広がっていた。それは自らの原風景。聖遺物と霊魂が接触し、意識が魂に刻まれた非実在のイメージへと潜ったのだ。遺物審判は始まっている。

フェリックスはポケットからコインを取り出し、宙へ弾いた。澄んだ金属音と共にコインが青空に弧を描く。結果は裏。けれど運命が引き寄せられなくても何もしない訳にはいかない。

フェリックスは目を閉じた。聖遺物と霊魂の触れ合い、その始まりの瞬間を掴み聖遺物の正体に迫るために。いつから歩いていた。ここはどこだ。思い出せ。

頭の中を探り出したその時、割り込むように強いイメージが広がった。

フェリックスは孤児だ。物心ついた時には既に教会の孤児院にいた。ある壊滅した村の生き残りだと、孤児院のシスターからはそう聞いていた。院長の神父様もそう言っていた。ただ、そう言う大人たちの声にどこか翳りがある事にフェリックスは薄々気付いていた。

ある時フェリックスは就寝時間の後で目を覚まし、トイレに向かおうと試みた。しかし寝ぼけて道を間違えて、全く逆の院長室へたどり着いた。明かりが漏れるその部屋のドアから小さく声が漏れていた。

「クリストファー、やはりあれは殺すべきだ。子供と言えど邪教徒の血が流れている。絶やさねばなるまい」

「血は単なる1つの要素でしかない。それよりも重要なのは我々があの子をどう導き、どう育てるかだ。信仰を知らぬ哀れな子に罪は無いのだから」

「だがあれは聡い。このまま育てれば真実を知り、いずれ周りの子らにも害を為す」

「フェリックスはそのような子には育てん。余計な口は出すんじゃないぞ。そういう約束で私は鉄槌を抜けたんだからな」

「ならば決して悟らせるな。村を滅ぼしたのが我々だと知ればもうまともには……」

そこまで聞いてフェリックスは院長室の前を去った。村を滅ぼした。その言葉が胸の内で反響していた。感情は湧いて来なかった。当然だった。自分がかつていた村の事も、自分の本当の親の事も、記憶のどこにも無いのだから。そんなものに比べれば同じ孤児院の仲間の方が、育ててくれた神父様とシスターたちの方がよほど大事なものに違いなかった。

ただ、少しだけ堪えた。慕っていた優しい神父様が、もしかしたらシスターたちも大量殺人者なのかもしれないという事実は子供には些か重すぎた。フェリックスが孤児院を出る時まで、再びクリストファー神父への朝の挨拶をいつも通りにできるようになる日は来なかった。

あの優しさはきっと嘘ではなかったのだろう。フェリックスは今、そう思った。誰も嘘は吐かなかった。吐けなかった。おそらくは純粋な子供に嘘を吐くのが躊躇われたから黙っているしかなかったのだ。その子に対して負い目があっては尚更だ。その気遣いが、あるいはその臆病さが、幼いフェリックスの心に小さな穴を穿った。不信という名の暗い穴を。

誰もいない夜の教会で、幼いフェリックスは神へと問うた。

「神よ。あなたは人殺しの声を聞くのでしょうか。罪無き人を殺した外道の声は、あなたに届いているのでしょうか」

見つめた十字架は何の答えもくれなかった。

壁に手を突き、荒い息を整えた。我に返ると目の前で真っ赤な炎が燃えていた。いつの間にかフェリックスは知らない家に立っていた。悲鳴が響き、炎が叫ぶ今にも滅ぼうとしている村の、一軒の家のその中に。木材に石材、土、トタン板。様々な素材を組み合わせて作られた粗末な建造物はあちこちから黒煙を吹き、次々と炎の中に崩れ落ちていた。崩れた壁の向こう側にその光景がよく見えた。

迂闊だった。体を動かさなければいいとすっかり思い込んでいた。何者かがフェリックスの精神に干渉し、過去の記憶を見せたのだ。霊魂が剥き出しである以上、これにはまともな対抗策が存在しない。

バタバタと足音が聞こえてフェリックスは後ろを振り返った。村の中を素早く走る者たちが見えた。銃を持ち、武装して少人数のグループを作った統率された兵士だった。その武装を、装備を、編隊を、フェリックスはよく知っていた。鉄槌計画。境界線イニシアチブ随一の過激派にして戦闘部隊。彼らのぼやけた顔の中に見知った顔が一つあった。クリストファー神父だった。最後に会った時よりも幾分若く見えたが、確かに彼の顔だった。

彼らはフェリックスのいる家の方に駆けてきて、勢いそのままに中へと踏み入った。ひゅっと息を呑む音が聞こえた。気づけばフェリックスの横に3人家族が力無くへたりこんでいた。

父親らしき男は落ちてきた瓦礫にぶつけたのだろうか。頭から血を流し、焼け残った壁に体をもたれていた。母親らしき女は煤塗れの体で小さな赤子を抱きしめて、その口を強く塞いでいた。皆恐怖と苦しみに震えながらも必死に息を潜めていた。

部屋がいくつも無い小さな家だ。一家が見つかるのにさほど時間はかからなかった。足音がこの部屋に向かって近づいて来る。大きな音を立ててドアが蹴破られ、1人の男が現れた。男は無表情に父親を撃ち殺し、次に母親に向けて引き金を引いた。女は倒れ、母の腕から落ちた赤子が泣き出した。鳴き声に反応して男は反射的に銃を向けたが、赤子の姿を認めると緊張した顔で銃を下ろし、慎重に近寄って拾い上げた。そのうちに別の隊員がやって来た。彼らはしばし言い争い、最終的に赤子を抱いて家を出た。

フェリックスはその光景をじっと見ていた。2人を撃ち殺した男はクリストファー神父だった。両親の顔はぼやけていた。連れ去られた赤子が自分なのだとフェリックスは既に悟っていた。

フェリックスはコイントスをする。やはり胸の奥から何かが湧き上がってくる事は無かった。顔も知らない身内の事も覚えてもいない村の事も、どちらもどうでもいい事だった。ただ、焼け落ちる家の中で回るコインを眺めながらふと思った。もしも鉄槌がこの村に振り下ろされなかったなら、自分は両親の顔を見る事ができたのだろうかと。どうして神はそれを許さなかったのだろうかと。

コインが落ちる。結果は裏だ。それを確認した一瞬で焼けた家は完全に崩れ、無防備なフェリックスを飲み込んだ。

「どうしてそう決意するに至ったか、聞かせてもらおう」

鉄槌計画の指揮官、アンリ・ド・モンフォールは手元のコーヒーカップを弄びながらそう言った。しかしその落ち着きの無い所作とは裏腹にその目はフェリックスをまっすぐに見据えていた。鉄槌計画のエージェントとなるための最終面接での事だった。

「神を汚す愚か者に誅罰を与え、我々の正しい信仰を知らしめるために」

フェリックスはそう答えた。少なくともそのために彼はここまでやってきたのだ。だが、ド・モンフォールはその返答に眉を顰めた。

「なるほど。君は勘違いをしているらしい」

「勘違い?」

「そう、勘違いだ。そうでないなら無意識に真実から目を背けている」

「どういう事です」

ド・モンフォールはコーヒーを啜った。そのわずかな時間がフェリックスにはもどかしく感じられた。

「神を汚す愚か者に誅罰を与え、我々の正しい信仰を知らしめるために。君はそう言ったが、本心か?」

「勿論です」

フェリックスは即座に答えた。それが本心でない事などあるだろうか。ド・モンフォールは鷹揚に頷き、ゆっくりと口を開いた。

「我々の信仰は正しいものに最も近くはあるが、完全に正しいものではない。日々新たな福音書が発見され、教義の解釈が更新される。それは新たなる道を尊ぶ者たちにとってもそうだが、旧来の教義を尊ぶ者たちにとっても同じ事が言える。イニシアチブにいれば嫌でも分からされる基本的な原則だ。正しいものなどどこにも無い。その上で、だが」

ド・モンフォールはそこで言葉を区切り、フェリックスをじっと見つめた。

「なぜ正しさに固執する?」

フェリックスは息を呑んだ。沈黙の中、ド・モンフォールがソーサーを叩く音だけが響き続ける。

「仰る、意味が」

辛うじて絞り出せた言葉はそれだけだった。

フェリックスが目を開けると、そこは教会だった。フェリックスが幼少期を過ごした、孤児院を併設している小さな教会。けれどその壁は赤黒く濡れ、床には臓物が撒き散らされ、辺り一帯にまだ新しい血の臭いが漂っていた。ステンドグラスは割れ落ち、長椅子はことごとく損壊し、十字架は根本から折れて床に逆さまに突き刺さっていた。

パイプオルガンが讃美歌を奏でる中、フェリックスの足はひとりでに動き、肉片を踏みしめながらその中を少しずつ歩いていく。気づけばフェリックスの手には無骨な小銃が握られていた。行く先は正面のパイプオルガン。未だ讃美歌を奏でる演奏者だ。

近づくにつれてその姿が収束していく。ぼやけた影は一歩進むごとに収束し、次第に人型を作っていく。女になり、男になり、得体の知れぬ影へと戻る。あるべき姿を確かめるように刻々と姿を変えていく。

分かっている。これは全て攻撃だ。心の傷を抉る事によって意思力と信仰心を、霊魂の持つ力を弱めようとしているのだ。そしておそらく攻撃者は、次はあの演奏者を殺させる事によってそのどちらかを傷つけるつもりだ。

そのうちにフェリックスは演奏者の下にたどり着いた。今や人影は人影としか表現できないものになっていた。黒い人型。それは誰かのようであり、しかし誰でもないようでもあった。フェリックスの腕がひとりでに銃を構えて演奏者の頭に押し当てると、演奏者はゆっくりと立ち上がった。

フェリックスは覚悟した。おそらく演奏者は心にダメージを与えるためにフェリックスが最も大切な者の顔をしているはずだ。クリストファー神父か。孤児院のシスターたちか。イニシアチブの仲間の誰かか。友人か。あるいは聖人の似姿ということもあり得る。だが、誰であろうとそれは結局偽物なのだ。フェリックスはそれらを想定し、何が来ても耐えられるように身構えた。

演奏者が振り返り、その姿が急速に像を結ぶ。それと同時に銃声が響いた。突如体の自由が戻り、フェリックスは銃を取り落とした。

頭に穴を開けてパイプオルガンに倒れ込んだ演奏者は、フェリックス自身の顔をしていた。

フェリックスは落ちるコインを捕まえた。コインを押さえた手をどけると、そこには裏面を上にしたコインがあった。そしてもう一度コインを投げる。やはり裏。何度もコイントスを繰り返し、ただひたすらに裏を出す。フェリックスの心に焦りが滲み出る。一体どうすれば表を出せる。表を出すにはどうしたらいい。どうすれば───

「いくらやっても結果は同じさ。俺には分かる」

フェリックスと同じ顔をした男がそう言った。気づけばそこは先の荒野で、どこまでも広がる青空の下に2人の男だけが立っていた。

フェリックスは無視してコインを投げた。裏。

「お前には無理だ。鍵は信仰にあるんだよ。神を信じないお前にはそいつは決して応えない」

裏。フェリックスは歯軋りをした。違う、はずだ。フェリックスは神を信じていない訳ではない。少なくとも自分ではそう思っている。

「お前は神を信じていない。だから信じるふりをしようとする。自分の異質さを悟られまいと必死になって」

裏。フェリックスはコイントスをする手を止めて自分と同じ顔をした男を睨みつけた。

「納得したって顔じゃないな。もう一度教えてやるからよく思い出せ。自分を騙して育てた殺人者どもの存在が不快なんだろう?罪も無い奴を異教徒ってだけで殺し尽くす狂信者どもも、それを野放しにする無責任な神も信じられないんだ。神が正しくないから正しい存在であろうとしているんじゃないのか?お前が信じるのは、信じられるのはお前だけだ。お前は根っからの不信心者なのさ」

「違う、俺は」

男はフェリックスの声を遮るように大きく手を広げて叫んだ。

「このお前の原風景こそが何よりの証拠じゃないか!。荒れ果てた大地は神への拒絶。どうせ神様なんて八方美人のクズなんだ。少しは自分に正直になったら───!?」

その時、地面が大きく揺れた。男はよろめき、地面に膝と手を着いた。フェリックスもやや遅れてそのようにした。激しく地面が揺れる中、青空に1本の巨大な亀裂が走っていく。その亀裂が地平線の向こうに辿り着いたところでようやく揺れが収まった。

「なんだ一体……この空間が崩れている、のか?」

「……時間だよ」

思わずといった様子で言った男にフェリックスは静かに告げた。

「外の奴らに1時間で戻らなければ聖遺物を破壊するように頼んだだけだ。俺が戻れなければ他に打つ手は無いからな」

フェリックスの顔をした男は目を見開いた。そのような事をすれば、聖遺物の中に取り込まれた人間も、今まさに聖遺物を拠り所として交信している自分たちですらも死を迎える事は避けられない。焦りの混ざった驚愕の視線をフェリックスは真っ直ぐに見返した。男が話しかけてきた時には既に覚悟は決まっていたのだ。

フェリックスが投げ続けたコインは全て裏を上にして落ちてきた。表が良い結果を引き起こし、裏は結果を悪化させる。あれだけ裏面を出した以上、もはやフェリックスが助かる術は無いだろう。フェリックスは空を見上げた。見上げた先で青空が剥がれ落ち、地面に落ちて硬質な音と共に砕け散った。

「……なるほど、表が出ない場合に備えていたか。だが無駄だ。俺がその気になれば近くにいる奴を取り込む事など造作も無い。そうなれば攻撃も止むだろうよ」

フェリックスの顔をした男はそう言うとフェリックスに背を向けた。その姿がゆっくりと透けていく。当然消えて無くなる訳ではない。遺物審判による聖遺物とフェリックスの霊魂の接触を断ち切ろうとしているのだ。完全にその姿が消えてしまえば男が言った通りの事が起こり全ては徒労に終わるだろう。しかし男が姿を消すより先にフェリックスは男の襟首を引っ掴み、全力で拳を振り抜いた。

顔面に殴打を受けた男の姿が急激に元に戻っていく。男は困惑した様子でフェリックスの手を振り払った。フェリックスは追撃をせず、代わりに男を見つめて口を開いた。

「今の言葉で確信した。お前は聖遺物の意思だ。それも儀式によって定義された紛い物とは違う、霊魂を備えた本物だ。確か付喪神って言うんだったか。まさか実物がこのアメリカに存在していたとは」

男は殴られた頬を拭いながらフェリックスを睨みつけた。

「何をした……!」

「今、儀式によって俺たちの霊魂は半ばめり込むように接触している。お前が離れようとしても完全に離脱しきるまではその接触が続くからな。既に接触していて、知覚してすらいるならば腕を伸ばして意識を掴むのはそれほど難しい事じゃない」

こんな風に、とフェリックスが呟いた次の瞬間、振り払われたフェリックスの手は再び男の襟元を掴んでいた。男はその手を振り払ったが、1秒も経たないうちに再び同じ場所を掴まれた。男は舌打ちをしてしばし俯いた。だが顔を上げた時には意地の悪い笑みを浮かべていた。

「だからどうした。お前はあのコインで表を出せない。お前にとって都合の良い結果はやって来ない!俺を時間切れまで捕まえたところで、俺もお前も有象無象も、俺の本体が壊れた瞬間全員お陀仏になるだけだぞ!」

嘲るように笑う男にフェリックスは氷のような無表情で返した。何かを察したか、男の笑いが弱まっていく。それをじっと眺めながら、フェリックスは男に告げた。

「それを承知の上での選択だ。俺が離さなければお前はどこにも行けない。そしてさっきの様子から見るにこの場所にいる限りお前は外に力を行使できない。であるならば」

フェリックスは自分の顔をした男を睨み、拳を固く握りしめた。

「お前が死ぬまで俺はこの手を離さない」

「くそ……!」

フェリックスの顔をした男は苦々しげに顔を歪め、拳を構えたフェリックスに掴みかかった。

景色が歪み、今にも両軍がぶつかりそうな戦場へと切り替わる。聖遺物としての力だとフェリックスは分析した。この景色は単なる背景ではないはずだ。それを裏付けるように無数の矢がフェリックスを掠め、槍が肉を貫通し、騎馬が次々とフェリックスを踏みつけた。魂を傷つけられる痛みに体のあちこちが悲鳴を上げる。しかしフェリックスは手の力を緩めず、男を再び殴りつけた。殴りつけた男の顔から何かが吹き出す。血ではない、透明に輝く何かが。それに触れた途端、フェリックスの中に過去の記憶が溢れ出した。フェリックスは気がついた。聖遺物は鏡だった。その霊魂がフェリックスの姿で現れたのは、おそらく本体から引き継いだ性質。その性質の及ぶ範囲が姿だけに留まらないとしたら。この飛沫は男が写し取ったフェリックスの記憶そのものなのだ。

フラッシュバックする記憶の中でフェリックスは自らを見つめ返した。

景色が薄暗い水中へと切り替わる。息ができず、口から大きな気泡が溢れ浮かんでいった。酸素が足りず意識が一瞬飛びかける。フェリックスは今の自分が霊魂のみの存在である事を思い出し、意識を繋ぎ止めて男を蹴りつけた。記憶の一端が零れ落ちる。

正しさに固執し、神に対する疑念を持ち、根底に他者への不信を抱えた男。だが、それだけの認識では足りなかった。フェリックスは自らの記憶を探り、記憶の底に身を沈めた。

景色が群集で埋め尽くされた広場へと切り替わる。フェリックスは踏まれ、押され、挟まれて、延々と唾を吐きかけられ殴られ続けた。しかし決して手を離さず、腕を離させようとする群衆に逆らって男の下へと辿り着き、抵抗する男の顔に繰り返し頭突きを食らわせた。溢れ出した記憶の残滓をフェリックスは受け止める。

フェリックスは自分が神を信じていないらしい事に気づいた。しかしそれは真実の一端でしかない。フェリックスはさらに深く記憶に潜った。

景色は歪み、切り替わる。フェリックスはそれを耐え続け、自分の顔をした男にひたすらに攻撃を加え続けた。そしてその度に零れ落ちる記憶を受け止める。顔も知らぬ両親が縋り付いてきても、殴る相手が赤子の姿になっても、世界が崩れ去り全身の感覚が無くなったように感じても、ただ殴り、蹴り、首を絞め続けた。

そして最後に、フェリックスは答えらしきものに辿り着いた。

フェリックスは気づけば再び晴天の荒野に立っていた。まだ敵の襟首を掴んでいたが、見れば男はひび割れて、痙攣もせずぐったりとしていた。

「……どうしてそこまで、耐えることが、できるんだ」

男が呟いた。その姿はまだフェリックスと同じものだったが、あちこちが歪んで見られたものではなくなっていた。一方のフェリックスもボロボロだった。姿形こそいつも通りに保っているものの、それは人間と付喪神という元々の能力差によるものに過ぎない。あと一度でも先程までのような攻撃が加えられれば自我を失ってもおかしくないほどに霊魂は傷つき、消耗していた。フェリックスが答えられずに黙っていると、男は再び喋り出した。

「狂信者だってダメだった。自我だけでも、信仰を加えても、苦痛の中で自分を、保ち続けられなかった。なのに、なぜ。神を、信じてもいない、縋るものも持たない、不信心者の、お前が」

フェリックスは息を整え、気怠さに逆らって口を開いた。

「俺は信じる。心の底から神を信じられなくても、それでも信じようとし続けるなら……その信仰はいつか必ず本物になると」

「……その日が、来るかも分からないのに、か」

「いつか来るさ。俺がそうだと信じる限り、それは真実であり続ける」

フェリックスは残る力を振り絞って拳を握りしめ、全力で男の顔を殴りつけた。金属が凹むような音が響き、ひび割れた世界が崩れ始めた。

くずおれた男の隣でフェリックスは膝をついた。結局最善の結果を掴み取ることはできなかった。だが、それなりに満足はしていた。ずっと探し続けていた答えを見つけることができたのだから、それ以上を願うのは高望みであるように思われた。崩れ落ち、闇に帰ろうとする空間の中で運命を受け入れ目を閉じる。後は終わりを待つのみだ。

けれどその時、何かがポケットの中で熱を放った。フェリックスは息も絶え絶えにどうにかそれを取り出した。コインだった。あの聖遺物が熱を持っていた。投げてみろとでも言うように。

フェリックスは導かれるままにコインを弾いた。澄んだ音を立ててコインは回り、黒に呑まれかけた青空に弧を描いて落ちてくる。

コイントスの結果は、表だった。

8月の青空に鳥の囀りが響き渡った。

窓の開いた病室でフェリックスはベッドの上に寝ていた。その隣で律法学者の男が書類を持って座っていた。フェリックスが書き終えたそれを鞄にしまうと、男は短くフェリックスに告げた。

「全員目覚めたそうだ」

「それは良かった」

フェリックスも短くそうとだけ答えた。律法学者の男はさして喜ぶ様子も見せないフェリックスに苦笑し、病室を去った。最後にしばらく治療に専念するようにと言い含めて。

あの日から1週間が経っていた。昏睡した人間は全員目覚め、聖遺物も破損したものの完全には壊れずに済んだらしい。今は修復が行われているが、その後は強制的に霊魂を取り込む危険な性質から保管庫にしまい込まれることだろう。先ほど律法学者に渡した報告でひとまず今回の事は整理がつき、しばらくは損傷した霊魂を修復するため治療と休養の日々が続く。

コインはと言えば、あれから何度投げても表の面を出してはくれない。特別サービスのようなものだったのだろうとフェリックスは解釈している。長い旅路の果てに信仰の入り口にようやく立った自分への、ただ一度きりの贈り物。実際どうなのかは分からないし、どうでも良かった。フェリックスにとって重要な事は別にある。

誰もいなくなった病室の中、フェリックスは意識を内に巡らせた。青い空、無限に続く荒れ果てた大地。吹き荒ぶ風。そこには以前と変わらぬ原風景が広がっている。ただ一つ、大地から突き出た双葉を除いて。

フェリックスは力強く根付いた若葉の姿に微かに微笑み、静かに目を閉じ眠りに就いた。

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