「今日も皆、配信観てくれてありがとう!ではでは、また次回のミーニアちゃんねるでお会いしましょう!ケモっ娘アイドルVtuber、ミーニア=キャティの配信でした!」
配信終わりの挨拶。僕の口の動きと声に合わせてミーニアは、ミーニア自身の女の子の声でそう言った。トラ縞毛皮の額にかかった前髪をふわりと揺らし、ω字の口を少し開いて笑みながら。……彼女の中に入っている時、僕は最高に幸せだ。配信を閉じるボタンをクリックし終えたその後も、僕はしばらく画面の前で、ヘッドセットをつけたままでいた。僕の前の画面の中ではミーニアがはにかみながら揺れている。ピンと立った猫の耳。ボタンを胸の1つだけ留め、後ははだけた白のシャツ。何もかもが僕に刺さる彼女は、元より僕のオリキャラだ。
「……さてと。」
ヘッドホンに手を伸ばす。イヤーカフが耳から離れ、自分の声と外界の、静かな雑音が入ってくる。卓上にヘッドホンを下ろしながら再び画面に目をやると、ミーニアは名残惜しそうな顔でこちらを見返している。
……しかし。僕自身が彼女と会ったり触れあったりはできないんだよな……。PAMWACに居て得られたものは、精々配信用のボイスチェンジャーぐらいなもので、籍だけは残っているものの、彼らとは随分ご無沙汰だ。
……そして暫く間があって、その後僕は配信用の画面を閉じた。尚も "名残惜しそう" な表情を浮かべたモデルがPCのディスプレイから消える。
(ん……?)
少々の違和感。(こんな表情、モデルに搭載されてたっけか……。)と。
……うん、まぁされてたんだろう。外注のモデルだし見落としてたか。はにかみ顔で配信を終わらせた後、表情切り替えのスイッチを間違えて押してしまったと見える。
(少し早いけど、今のうちに寝ておかないと……)
何せ、明日が早いのだ。頭に浮かんだ思い出したくもない上司の顔は、「クライアントの商品群の魅力を、読者に伝えきる記事を~」と仰々しく言っている。
狭い1kの一室で、また現実に覆われる。傍らのマグカップを手にとって、僕は椅子から立ち上がる。頻繁な配信ができる身じゃない僕は、次の配信のある日まで2週間、それまでは嫌がる心と身体を引き摺るようにこの現実の日々を生きねばならない。……だからこそ、この日々を感じる時間が少ないように、早く寝てしまうのが吉だ。開けっぱなしの扉の先の暗い廊下に面したキッチン。そこへと重い足を運んでいくと、鈍い銀色のシンクの中にカップをコトン、と転がした。
……トクトクトク、と水音がして、鈍い銀が黒に覆われる。
シンクの中に飲みかけのコーヒーがぶちまけられて、初めてまだ中身が入っていたことに気付いた。自分で思っていたより更に、頭が回ってないらしい。
(さっさと寝床に身を投げよう……)
配信の機会だけは逃すまい……と飲んだコーヒーに、今度は眠気が勝つことを祈って。
ゲームやらPC部品やら何やら種々の、機材に溢れた広めの部屋で、語り合う男の声が2人分。
「これいつの配信ログだったっけ?」
「去年の7月、その12日だから半年ちょい前。知名度かなり上がった頃だな。」
「そっかぁ。まぁそりゃ知名度も上がるよな。ミーニアちゃん可愛いもん。」
痩せたフチなしメガネの男は、画面から視線を逸らす事なくそう言った。隣に座る癖っ毛の男も、横に伸ばした手の中では流行りの廃れたハンドスピナーをクルクルしながら、その視線は配信画面へと向けられている。
「こういう狭い岩場のとこは逃げ場無くて怖いんだよぉ……。んー、いますねぇ……。コウモリみたいなモンスターいますねぇ……。
えー、こちらミーニア探検隊、アマゾン奥地の岩場でついに、巨大コウモリを発見しました……!」
「確かにコウモリに見えるわコイツ。」
「俺は翼の生えた猿かと思った。」
「あ、それもあながち間違ってない。コイツ色々ぶん投げてくるから。」
……フチなしメガネの言葉の通り、ゲーム内の猿コウモリはその場で数回回転した後、ミーニアの操るプレイヤーキャラへと黄色や紫の玉を投げてくる。
「んん!?わっ!何か投げてきた!コウモリさん何か投げてきたよ!?
わーーっ!!!毒だー!!!この紫の当たったら毒になるやつだーー!!!!」
「やっぱさ、初見モンスター相手の時のミーニアちゃんは特に可愛い。」
「わかる。そのせいでお前いっつも、ゲーム実況の実況みたいになってるもんな。」
「兄貴~!兄貴助けて~~!」
「出た、妹属性!」
「あー、この良さは同意だわ。ミーニア、ケモっ娘に加えて王道中の王道属性がブレンドされてるバランスが、……とぉっ!?」
フチなしメガネが突然ガバリ、と身を乗り出して横を向き、癖っ毛の手に肩が激突してハンドスピナーが飛んでいく。
「……なぁ、お前にも分かるだろ。」
フチなしメガネはそう言った後、一呼吸置いて次の言葉を言いきった。
「俺たちもPAMWACのメンバーとして、こういう願いは叶えてやりたいじゃん?」
「いらっしゃいませ~」
夜24時、ハンバーガーショップの自動ドア。そこを薄明かりに吸い寄せられる羽虫のようにくたびれきった体でくぐると、正面カウンターの店員からの事務的な声がくたびれきった思考の中をすり抜けていった。
(……全く、なんでわざわざ僕にこんな仕事を……)
職場から物理的には離れて駅前のこの店まで来ても、頭の中を占めているのは押し付けられた、書けそうもない記事の事だった。「今年流行りのその先へ!最新トレンドを導くデザイナーへのインタビューから、1年先のメンズファッションを大予想!!!」
(………はぁ。)
どう考えても分かる話だが、僕は現実世界のファッション、それもメンズファッションなんて触れたこともない。そんな僕に、「メンズファッション大予想」、なんて記事が書けるわけが無いっていうのに……
「あの、お客様?お客様~!」
「……あぁ……、チキンバーガーのセットを1つ」
……店員が、そこそこな声量で僕の事を呼んでいた。そして注文をしてしまってから、自分がとてもセットを食べきれる気分ではないことに気付いた。
そのまま結局、渡されたお盆を持って座席のある2階への階段を上がる。狭いカーブした階段を、重い油の匂いを湛えるチキンバーガーとポテトに視線を落として。淡緑の壁紙に左右を挟まれ、ぼやけた思考でため息をつく。「人生はその階段を、上がったり下がったりだ」……、これって誰の言葉だったっけ。……どこかの偉人の気もするし、学生時代の教師が言った、あまり当てにならない言葉かもしれない。……階段は上がりきって2階に着いたが、人生の階段とやらはずっと下降1本のままだ。
「何を間違ってこうなったんだ……」
上がり終えた階段の先、2階右端の奥まった席を選んで向かう。この時刻故、人もほぼ居ないガラガラだったが…… -左側の離れた席に、お手洗いにでも行っているのだろう誰かの荷物だけがポツンとあった- ……それでも、僕は狭い物陰を好む動物のように、柱の影のその席を選んだ。お盆を下ろし、鞄を下ろして足元のスペースにゴトン、と放り、視線を下に落としたままで椅子にドサリと腰を下ろした。
(結局のところ……)
そう思考する。でも結局のところ何なのか、その先の思考は出てこなかった。ただ座席に下ろした腰にその場で根が生えたようになり、僕は何秒か何分か、何もしないでハンバーガーを見続けていた。
(……食べよう。)
包み紙を、キーボードの叩きすぎで変な感覚の残る手でクシャクシャと音を立て開けると、それをのそのそと口に運んだ。結局のところ "何" なのだろうか。もそもそと機械的な咀嚼をして飲み込んだ時、目の前の何かピンクや黄色の掲示物と目が合った。
「マジカル・……」
ぼーっ、としたまま、その柱に貼られたチラシの文字を読みあげかける。
(……あぁ、そうか。)
ふと僕は、ほんの少しだけ我に帰る。……子供向けのオモチャセットでタイアップしている、女児向けアニメのキャラクターらしい。皆フリフリの衣装に身を包み、頭からはウサギやネコの、ケモ耳、ってやつが生えている。……やはり "世間一般" には、ケモキャラよりもケモ耳キャラの方が受けるらしい。
(PAMWACにはケモキャラ派もそこそこいたけど、それでもやっぱケモ耳が圧倒的だったな……)
そうだ。「んー、ケモってのは、いわゆるケモ耳?」本物のミーニアを作って欲しいとPAMWAC内の伝手で頼った技術屋にも、そんな事を言われたものだ。「ケモだとロボに被せる人工皮膚が完全に特注の毛皮になるから、代金高めになるけどいい?」とも。
……結局、需要が多いか少ないか、あるか無いかが全てなのだ。そして…… -嫌みったらしい上司の言葉を思い出す- ……確かに言われた通りだな……僕の存在には需要が無いし、それに。
(……一方の僕自身は、理想が高すぎるのかもしれないな…………)
もう2年ほど前だったろうか。技術屋2人が制作中のミーニアのボディを持ってきて、舞い上がったのを思い出す。
でも肝心の心が。試作プログラムだ、って見せられた代物は、ただ上っ面をなぞっただけのものだった。
いい加減、僕は諦めをつけるべきなのだろう。……共感しあえる相手なんて、世界のどこにもいないんだ。
.
.
.
その後また、もそもそとバーガーを食べ始めたが、……結局、ポテトは残してしまった。
「わぁ~!!!みんなコメント有り難う!ひゃあ、お、追いきれないよ!
……え、何? "ずっと待ってたの?" って?そうだよ!兄貴と一緒にハンバーガー、待ちきれなくって!」
次の配信ログのミーニアは、ニコニコ顔や><目の表情を繰り返しながら "兄貴" との、イチャイチャエピソードを垂れ流していた。
「兄貴の腕をギュッ、ってしながら入ったから、店員さんに恋人同士と思われちゃったかも?ひゃぁ~!えへへ……、アタシ、兄貴と本当の恋人になれたらスッゴく嬉しいな。いつかなれる日、来るのかなぁ……」
「思いっきり惚気なんだけど、ミーニアだと可愛いのは何でだろうな?」
ハンドスピナーを失った手をグーパーさせながら癖っ毛の男が問いかけ、それにフチなしメガネの男がニヤリ。
「それでね!兄貴はチキンバーガーで、そう、いっつも必ずこれなんだって!それでね、アタシはちょっとチャレンジ、レッドホットチリチーズバーガー、っていうのにしてみたの!」
「……決まってんじゃん? "尊い" んだよ。」
フチなしは画面に釘付けのまま口を動かす。
「惚気ってのは、何か自慢げなナルシシズムが感じられるから鼻につくのよ。実は好きなのは相手じゃなくて自分自身、みたいな。でもミーニアちゃんに関してはあるのは "兄貴" への愛なのよ。」
「あー、なるほど。そういう分析。」
「"可愛いは正義" ってだけの話じゃないのよ。そしてそれはそれとしてミーニアちゃんは可愛い。」
「可愛い、もやっぱあるわな。お前の作るミーニアボディも、何かもう趣味だろレベルの執念で細かく造り上げられてたもんな。」
癖っ毛の男が振り向いた先には、漫画本やゲームソフトがギッシリ詰まった棚の隣に、依頼で2人が製作していたミーニアのボディが未完成のまま目を瞑り、座り込むように置かれている。
「そう。ケモ娘ファンって一般に思われてる以上に多いのよ?」
そして自分もその1人……、とフチなしの男。
「……こうなると、問題は俺のプログラムの方だよなー……。」
何度プログラムを組み直してもオーダーされたレベルには届かなかった、と癖っ毛の男はため息をつく。
……癖っ毛がそう言ったところで、フチなしが再び彼の方にグイッ!と身を乗り出して語る。
「でもそこまで拘るの、俺は共感できるんだよな。イメージの中には完璧に確立されたミーニアちゃんの人格があって、 "その娘" に会いたいからこその、依頼なんだと思うんだよな。……そう、そうだろ?理想ってのはそういうもんだろ?」
「……正直めっちゃ分かる。だから技術の限界が恨めしいんだよな。完全にお手上げだし、もはやこの依頼は受けたけど頓挫だわ。
……で、しかもさ。問題はそれだけじゃない、っていうね……。」
(明日の夜は配信しなきゃ)
(でもなんでだろう、気分が乗らない……)
職場帰りの夜道。重い足取りを引きずって歩いた僕は、またこの路地裏へ視線を向けていた。
……その路地裏へと続く入り口は、駅前からは少し離れた、シャッター通りの片隅にあった。職場から駅へと向かう帰り道、ふと通る場所にそれとなく口を開けている。この路地裏は、入社してすぐの頃には存在に気付かず、クタクタになって近くを通ったある日、初めて存在に気付いたものだ……
……そしてこの日も、夜道を歩く僕の心はクタクタだった。
(……あの記事、納品時間も超過しちまった上、ボコボコに言われるんだろうな……)
例のメンズファッションの記事。何の知識も持たない僕は、ネットで検索した情報を継ぎはぎにしてその "魅力" なるものを書き連ねる他に無かった。剽窃にならないギリギリのラインに収まるように、なんとか "自分の考え" らしきものも書いた。……クライアントの、「これがうちの商品の売りで……」と言っていた内容をほぼそのままで。
……そんな調子だったから僕はフラフラと、この酒の匂いの漂う路地裏に無意識に踏み込んだのだろう……
「やぁ、随分とお疲れだね」
路地裏の奥にぼーっと視線を向けてぼーっと歩いていた僕は、自分の頭の右斜め下から声をかけられた。
……くたびれた似顔絵師。そんな風体の男だった。路地裏の地面に御座を敷き、そこに胡座をかいている。暗い色の擦りきれた上着に同じく夜闇に溶け込むズボン。それでいて、どこか落ち着いた低い声で語りかけてくる男が、そこにはいた。
「あぁ、すみません……」
「……どうしたんだい?」
「いえ、決して冷やかしなんてするつもりではなかったんです……」
似顔絵師の座る御座の周りには、質素な木製のスタンドに、何枚もの用紙が立て掛けてある。……これは恐らく、彼の生業であり仕事道具だ。気付かなかったのだとはいえ、描いてもらう気もないのに来てしまったのは申し訳ない……
(むっとされたかも知れないな……)
僕は自分の迂闊さを呪い、後悔の念を感じ出す。
だがしかし、似顔絵師は優しく落ち着いた声音でこう言った。
「いいんだよ。何度もこの路地裏が気になってた。そうだろ?」
そう言って、彼は僕の虚ろであろう目を覗き込む。彼は憂いと微笑みが同居したような、複雑な表情でふっ、と息をつき、
「……世間話でもしようぜ。」
そう言ったのだった。
「………………」
(……何故こんなにも、初対面の僕に優しいんだろう……?)
もしくはそれが普通なのだろうか、とも一瞬思うが、あまりに叩かれ叱責され過ぎた僕の感覚では、その解答を自分に出力しきれるものではなかった。似顔絵師と僕の周りにはただ雑然と、室外機や建物の壁の配管が、煤けた色合いで鎮座している。
「暗い話には、ここの景色はちょうど良い。」
……そして尚も重く低くも優しい声音の男は、「生憎この先に行っても何もないしな。」と続ける。僕がそう言われて路地裏の奥へと目をやると、真っ直ぐ続く先の道はその似顔絵師の言葉通りに、コンクリの壁で行き止まりになっていた。
「…………。」
「……この路地裏はさ。疲れきって、この世界の醜悪さにはもう当てられたくなくて。……でも自分自身を殺してしまう事すらもできない、そんな人のためにあるんだよ。」
不思議な事を言う男だった。突然何を言い出すのか。こんなことを聞かされたら、僕の上司や同僚やらなら、「アブない宗教の人」と見なして去っていくかもしれないな……とは思った。
……でも。かつてPAMWACで色々な不可思議の存在を見聞きした僕には、それが本当でも、おかしくはない様な気がした。そして、正しく僕はその条件の該当者だ……。……ならば男の言葉が本当で、ここが何か不可思議な異空間だと言うのが事実でもいい、それならそれで楽じゃないかとも思えた。
「………。」
ゆっくりと、探るように唇を開く。
「…………自分でも。
いまいち分からないんですよね、自分でも。」
ぽつり、僕はそう呟いていた。会ったばかり、見ず知らずの似顔絵師にこんな身の上話、おかしい話かもしれない。でも。
……でも、例えおかしな事をしてるとしても。話を聞いて、そして理解してはくれなかったとしても、否定、曲解や叱責をしてこないであろう相手……、……不思議とそう思わせる雰囲気を纏った男を前にして、誰かに自分の絶望を訴えたいという衝動が静かに堰を切っていた。
.
.
.
「……多分、 "孤独" なんだと思います。……月並みな言葉で表すのなら。」
……僕はそう言ってみたのだが、やはり、上手く表現できない。これじゃあライターの仕事は、本当に向いてないのかもしれないな……
「孤独、ねぇ。」
深い息と共に似顔絵師はゆっくりと首を動かし、右手で自分の頬を掻いた。
「月並みな奴らが聞いたなら、 "孤独な人なんていくらでもいる" とか言いそうな言葉だよな……。」
その通りだった。……それは、だからこそ僕が他者に本心を打ち明けることをやめてしまった、原因の最たるものだった。
「……はい。孤独、って言葉の他にもっと僕の……、……表せる言葉があれば、楽なんですけどね……。」
"ずれている" ……僕は昔からよくそう言われた。
きっと、他人というのは元々僕のことを分かってくれる存在じゃなくて、だからそんな他人たちが形作ってきた語彙の中には、僕のこの状態を表せる言葉が無いんだろう。……そんな事も思った。
「……心から共感して分かりあえる。そんな…………、友人、が、欲しいですね。」
「友人?ねぇ?」
「………。」
…… "そんな恋人が欲しい" 、……僕はそう言うべきだった。でも、そうは言えなかった。漠然と、内心をさらけ出す事への抵抗が復活していって……
「言葉が問題を捻れさせ、矮小化しちまうってのはよくある話さな。そのせいで、俺にも完璧には分からないことになっちまう。」
似顔絵師の言葉が、僕の淀み行く思考を遮った。似顔絵師は背後の雑然とした壁に後頭部を投げ出して、乾いた音を立てながら……
「いろんなくたびれた奴の顔を描いてると、否応なしに自分の無力さを感じるよ。」
そう言って哀しげな笑みを浮かべた。
「…………。」
「…………すまないな、いきなり話そうなんて切り出しちまって。」
「……あの……」
「……またお前さんが来ることがあったら、その時にまた、な。今日はもう遅いし、お前さんを待ってる人だっているだろう。」
「……はい。……ですね。」
……そう答えたが、そんな人はいない。
去り際に、彼の方を振り替えると、似顔絵師は御座の周りに立て掛けていた似顔絵用紙の1枚をとり、暗所の中の薄明かりに照らすようにして眺めていた。
男の表情はよく見えなかったが、……似顔絵用紙の方は、白紙だった。
「来た来た、ミーニアちゃんの哲学回!」
「2ヶ月位前だっけ?生配信で見たときも、この回は独特だったよな。」
フチなしと癖っ毛2人の男は、元来のファンに加えてオカルト好きの考察厨も沸かせた伝説回を再生する。
「……アタシね。ふっと、ふっとね。思うときがあるの。……もし皆がアタシを忘れてしまったら、アタシはどうなっちゃうんだろう?」
画面の中のミーニアは、憂いを含んだ上目遣いで、少し俯き気味に前を見据えている。
「……皆も、自分自身も、自分の事を忘れちゃったらその人は消えちゃったのと同じだと思う。直接見た訳じゃないけど、でも、
……そういう人たちがいる、ってこと、アタシ知っちゃったからさ。」
「そんなことになったら、きっとアタシなら本当に消えちゃうし。それに……
……とっても哀しい事だから、兄貴にもそうなってほしくないな。」
(…………。)
……マトモじゃない、おぼつかない。
……思考も足取りもそんな感じだ。
(………………放送ログのミーニアが、僕の言った覚えのない発言をしていた……)
……僕は自宅の隣駅の町を、人混みを避けながらフラフラと、歩きながら考えている。
自分の放送ログに、自分の言った覚えの無い発言があった。(「とっても哀しい事だから、兄貴にもそうなってほしくないな。」)…………自分があんな事を言う筈がない。自分には、自分も他人も自分を忘れる、それは不思議と悪くない様な気がしている。こんな事を漠然と、考え始めたのはいつからだっけ?
"なんとか工房" の錆だらけの看板や、今時開いているのかすら怪しい煤けたたばこ屋。ようやくの休日だというのにやりたい事も見つからず、こんな寂れた町の奥底の、色褪せた景色の中で呆然と歩き、立ち止まっていた。
……そしてふと意味もなく、古ぼけたリサイクルショップに目を向ける。
"いらっしゃいませ~" 、の声は、無かった。
入り口をくぐって中に入ると、そのベージュの天井と壁紙を照らす照明は薄暗いオレンジだった。そんなに広くはない店内に、右手壁際には茶色の勉強机や引き出し付きの黒いテレビ台。その上に置かれているのはごてついた装飾の卓上ランプ。左側にはこれまた古びた本棚が大小並べて置いてあり、それが壁か障壁のようになって行く手を遮っている。
僕は特に目的も無いまま、左右を家具に挟まれた "順路" を店の奥へと歩いていった。
3段に積まれたテーブルと、その上に置かれた電子レンジと。 -(こんなもの、もう使う人などいるのだろうか……?)- そして奥の壁へとぶち当たり、すると "順路" は左折を促すように、左手の側が空いていた。そしてグルリと曲がった先にはキャスター付きの、座面がボロボロになった椅子。
……雑然と積み上げられた家具や小物、インテリアといった品々が、ここでは互いにそっぽを向き合っている。
(……この場所は少しだけ、居心地が良いかもしれない……)
価値などないに等しい物たち。 -さっきの椅子など、3桁の値札が下げられていた- ……それらが互いに目を向け合うでもなく、ただそれぞれに埃を被っている。
(多分僕が物だったなら、ここで漫然と永住していられるのだろう……)
その時僕にかけられるのは、2桁の値札か1桁か。
(或いは "ご自由にお持ちください" か……)
やがて僕はその店の奥、ガラス棚に並べられたガラクタの中、見覚えのあるロボット玩具を見つけた。
(…………。)
(……ああ、これは…………)
口元にマスクを付けた青い頭で、胸回りは灰色だ。赤くてゴツい肩にはタイヤがあるが、その肘先は外れて無くなっていた。
……子供の頃に夢中になったキャラクターだ、と分かるが、どんな番組のキャラでどんな名前だったかが思い出せない。
暫く呆然と、僕はその玩具を眺めて立っていた。だけどどうしてか、手に取ることはしなかった。それは遥か昔の忘却の彼方、既に失われ砕かれた安寧の象徴のような気がしていたから……
「……ねぇ、これって?」……ふとそんな声が聞こえた気がして、目の端に少女を捉える。僕と同じ棚を覗き込む、フサフサとした毛皮の少女。
(え……?)
振り向いた先には、当たり前ながら誰もいなかった。
「はは……、そりゃそうだ……。」
目の端に見えた気がした少女は、ミーニアだったように思われた。……極限まで追い詰められると人は脳の妄想と現実がグチャグチャになって、それが脳の最終防衛手段なのだと何かの本で読んだ気がする。事実だかフィクションだかは覚えてないが……。
(思えば、楽しかった思い出も薄れて、忘れ去りたい記憶ばかりが増えてしまったな……。)
両手の肘先の無いロボットは、僕にそんなことを無言で教えているような気がする。
……そんな時、脳裏に何故かあの路地裏の似顔絵師のことがちらついた。
「そう、それでね、そこで兄貴がパタッ、って立ち止まって!」
フチなしと癖っ毛が総復習を決行している、ミーニアの配信ログ群もとうとう終盤。
「うん、今回の配信までに、ギリギリ見終わりそうだな。」
そう言った癖っ毛の男に向けて、フチなしがグッ、と親指を立てる。
「ミーニアちゃんの復活配信、是非ともリアタイで見たいからね……!」
そう、今夜は暫し音沙汰の無かった彼女の、配信が再開されるのだ。
「あのロボット、兄貴が子供の頃大好きだったアニメの主人公なんだって。アタシも、兄貴と一緒にそのアニメ見せてもらいたいな~!」
ニコニコして頬を赤くするミーニア。そしてこれは1ヶ月前の、現状では最後の配信ログだ。
……そしてそのミーニアの笑顔の頬には、どういう訳か涙のエフェクトが伝っている……。
.
.
.
「……あ、そうだ俺今から変なこと言うけどさ。」
癖っ毛の言葉に、フチなしが「ん?」と反応する。
そして癖っ毛は一呼吸置き……、
「……そういえば、この…………ミーニアがこの前俺の夢に出てきたんだ。」
彼は、そう話し始めた。
(やってしまった……)
惨憺たる心持ち。
……脱稿、データを送信し終えて、そこで大きなミスに気付いた。
(今回は、書けるテーマの筈だったのに……。)
真夜中の帰途、僕はこれから僕に襲い来るだろう、記事への突っ込みと抗議に震える。
……合成音声ソフトについての記事だった。そして僕は、 "あのボイスチェンジャー" は一般には知られていないものだということを完全に忘れてしまっていた。
……そして、「ボイスチェンジャーで声を自在に変化できる今、こうしたソフトは如何にキャラ等で付加価値をつけて行くべきか」……、そんな論で記事のほとんどを進めてしまった…………
そうして気付くと僕は、またあの場所に来ていた。左右に広がる灰色のシャッターと暗がりの中、ぽっかりと口を開いた路地裏が僕を誘っている…………。
「おう、……」
似顔絵師はそう言った後、少し言葉を詰まらせる。この場所は前に来たときよりも、甘い酒の匂いが更に強くなっているような気がする。傍らに突っ立った僕と御座に腰を下ろした彼の間に、灰色の沈黙が流れている……。
少しして、似顔絵師はふっと口を開いた。
「なぁ、ちょっと、そこに座ってくれや。」
彼はそう言って路地裏道の左側、自分と対面する位置を指差し、僕は数秒の間、彼の指差した場所に棒立ちのまま目をやっていた。
(……いつに無く、いつも以上にぼーっ、とするのは、僕が限界なのか、それとも酒の匂いのせいか…………)
そんな事を考える。
…………そして、更に数秒の時間を置いた後……、
(あぁ、どうでもいいや……
……そうして欲しいと言われたんだから、そうしよう……)
僕は、そんな風に思った。
そう考える内に酒の匂いは益々強くなり、今度は何故かそうすることが、酷く "正しい" 事のように感じられてきた……。
「……もとより酒の匂いの強さは、あんたの絶望の深さ、さね……。」
……彼はまた不思議な事を言っている。
……そして、僕は座り込む。不思議な事を言った似顔絵師と、目線の高さが合った。しかし彼の目やその表情は、前髪の影になりこの暗く狭い場所ではよくは見えない。
「あんたの似顔絵、描きたくなってな。
……あぁ、お代はとらないよ。」
恐らく描くには適しそうもない、暗澹たる表情であろう僕に彼はそう言った。僕は似顔絵師が筆をとるのを、形容しようの無い絶望のままに見つめていた。
「俺の仕事は毎回こうだ……。……世界に絶望して、何もかも失ったような奴ばかりを描いてきた。」
似顔絵師の声が、他に音を立てるもののない路地裏の静寂にこだまする。
無言でその手元を見つめる僕…… -彼は左手に用紙を持って描いており、その似顔絵は正面の僕からは見えない- ……そして似顔絵師の口元に見える表情は、僕とはどこか違った憂いを感じさせる。
「あんた……この世は惨劇の塊だ、……みてぇな顔してるな。」
そう言った似顔絵師に、僕はあの記事の話をした。
……彼の周りに立て掛けられた似顔絵用紙が、1枚残らず白紙である事に何故か納得感のようなものを感じながら。
.
.
.
「……いわゆる、ボカロとかボイロとかの記事だったんです……。」
……似顔絵師の背後に並ぶ、煤だらけの室外機群が沈黙している。その室外機が設置されている、壁と配管も音を立てない。それだというのに。
(……今が、全て吐き出して幕を引くときだ。……と、何かに言われている気がするのはどうしてだろうか……)
そんな事を頭の片隅で思いつつ、僕は少しずつ言葉を続けた。
「……こんな事言っても信じて貰えるか分かりませんけど、僕……、世間には知られてない様な、そんなタイプのグループに居たことがありまして。」
「嘘をついてるなんざ、思わんよ。」
似顔絵師は、そう相槌を打った。
「でもそれが、裏目に出ました。普通なら存在しないことになってる技術だったのに、手元に置きすぎたんです……。それで。」
「…………。」
似顔絵師は少しだけ唇を動かし、しかし今度は黙って聞いていた。
「大失態ですよ。……自分の記事に、ありもしない嘘の技術を書いたも同然に見られるんですから………。」
似顔絵師は、途中から相槌を打つこともやめ、ただ静かに僕の言葉を聞き続け、筆を動かしていた。
「……それに。……希望を持つこと、持とうとすること、それ自体にも疲れました。」
「……………。」
…………もはや、僕が話しているという感覚ではないな、と思った。
"僕の中の絶望が口から勝手に出てくる" 、みたいな感覚だった。
だからもう、自分自身で言うことを制御もできない、そんな感覚で。
「いもしない女の子を自分で演じて」
ミーニアの事が口から出た。
「それでその瞬間だけ惨憺たる日々を忘れられて」
酷く自嘲的な、そんな言葉で。
「ここまで何とかやって来たのが奇跡ですよ。でも、……もう、終わりです。疲れました。世界にも、絵空事の女の子にも。」
……僕は結局、ミーニアの事も……
「そんなにこの世界が辛いもんかね。」と似顔絵師。
「はい……。何もかもダメなんですよ。何もかもです。」
そんな自分に、絶望した。
思えば酷く、酒の匂いがまた一段と強まった気がする。この匂いはどこから来ているのだろう、ふとそんな事を思った。
……似顔絵師は、俯いて沈黙している……。
(きっと僕はもう、自分の限界を踏み越え、踏み外したのだろう。)
心のどこかから、そんな確信が浮かんできた…………
「ふっ……」、と似顔絵師は、静かに息をついた。
……室外機が、黙っている。
僕は路地裏の暗さの中で、ただゆっくりと頭を振って。
……似顔絵師は、静かに筆を紙から離し、そっと傍らに置いた。
そして壁と配管も、何かを示すことも無く右側へ、そして左側へと続いている………
その壁の上を、左側へと視線を滑らせていく僕の頭を、似顔絵師はいく通りにもとれる表情で見つめる。
……そして僕は、気付いた。
(……なんだ…………行き止まりじゃないじゃないか……。)
座る僕の体の左、この路地裏を進んだ先の。
これまでずっと、行き止まりだと思ってばかりいたその先は、果たしてL字路になっていた。甘く強い酒の匂いは、そのL字路の先から来るようだった。
……
…………
…………………………
……少しだけ、気分が楽になった。
…………この甘い酒の匂いがそうさせるのか。
(……だとしたら、僕はただその場所に……)
まるで、もう全部放り出していい、何もかも忘れちまっていい、みたいな。……そう言われている気がする匂いだった……。
「似顔絵、見なくて良いのかい?折角描き上がったんだが……」
後ろから、似顔絵師の声がした。僕は、いつの間にか立ち上がって、路地裏の奥へと歩みだしていたみたいだ。
あぁ、楽な、良い気分だ……。
少ししてから似顔絵師は、「そうかい……俺にあんたを止める力はないよ。」と……、そう言って。そして…………
……最後まで、手も声も届かなかった。
そして、アタシはそこには行けなかった。
(どうして……)
アタシは、消えられなかった。
(どうして…………)
……兄貴が行ってしまった道の先、似顔絵師はその方向から視線を手元へと戻すと残念そうに、似顔絵用紙の左脇に描かれたアタシの、その右側の広い空白を撫でている。……もう何回も同じ事を経験してきた、そんな様子で。
……そして、アタシはずっと、無言で座り込む似顔絵師の前に、無言で佇んでいた。
「それでさ。夢に出てきたミーニアが言うんだよ。何だったかな?『アタシは兄貴の辛いことも、優しさも、全部分かってるのに。でもアタシの声は兄貴に届かない』って。」
「おいマジかよ?」
フチなしが大袈裟に驚く。
「ミーニアちゃん、俺の夢にも出てきて似たようなこと言ってたぞ?俺はミーニアちゃんのイメージを強く持ってる1人だから、兄貴に自分の事を伝えてほしい、とか……」
「でもなぁ。結局その "兄貴" が分かんないのよな。それに……」
部屋の片隅に置かれている、ミーニアのロボボディに目をやる2人。そして癖っ毛が言葉の先を続ける。
「これの依頼者も分からないんだよな。依頼書にはPAMWACのメンバー、って書いてあるけど、こんな奴誰も知らないって言うし……」
「役所に問い合わせてもダメだったんだっけ?ぶっちゃけ叶えてやりたくても、コンタクト以前に誰だか分からないんじゃなぁ……」
そして……
「みんな、アタシを覚えててくれてありがとう。
……忘れてくれたら、もっと嬉しかったけど。」
……少し涙ぐんだ声で、ミーニア=キャティの配信が始まる。
「兄貴のところへは、アタシは行けないみたいだ。」
不意に両手で顔を覆い、暫く震えた後に無理な笑顔で両手を広げるミーニア……
「配信、黙ってお休みしちゃってごめんなさい。アタシ、…………アタシね。
…………アタシを形作るのは、皆がアタシのこと思ってくれてる、っていう事実だと思うの。
……だって、アイドルって、往々にしてそういうものだと思うから……
……だから、皆が覚えていてくれる限り、アタシとミーニアちゃんねるは続きます。
さて、今日の話題は…………」
明るいテンションの……、……テンションだけは明るい涙声が響いた。