何が起こったのか?
御先管理員が自分のオフィスに、ガタガタと身を震わせながら独りで座っている。大きく見開かれた、血走った目。耳の先まで逆立った毛並み。極限まで緊張状態の続く体。渇いた喉。浅い呼吸。このところ、全く眠れていない。眠れた気がしない。本当は、日常はこんなはずじゃなかった。
問題があった。
彼女の注意はオフィスの出入口に集中している。御先の目は、耳は、全てはその扉が開こうとする瞬間のために使われている。扉の発する声を、命を削るほどに聞き分ける。部屋は静かだ。数時間もいれば気が狂うほど静かだった。もう数日もここにいた。もう数日も扉を見つめていた。彼女は狂っていた。彼女は狂ってはいなかった。
それでもここから、自分のオフィスからは離れようとは思わなかった。思い付きさえしなかった。選択肢なんてない。心地良いから留まるだとか、苦しいから退くだとか、最早そういうものじゃない。御先は自分が感情的にも、理性的にもなっていないことを知っていた。冷静だった。賢明だった。何もかもが明瞭に見えていた。だから、ただ待つだけ。待って、待って、待つ。誰かが扉を開けるのを。その時──
扉がノックされる音に、どきりとする。視線が微かな殺気を帯びる。来た。来るべきものが。
再びノック。続いて男の声が聞こえる。
「御先管理人? 虎屋です。まだいらっしゃいますかねぇ?」
御先は息を殺し、デスクの下に身を潜めた。さながら最下層の廃ビルで、巡回する殺人鬼をやり過ごすように。異常なほどに緊張しているのがわかる。優しめな印象さえ感じられるノックの音は、無意味にオフィスの外で響いていた。
「御先管理人、」
虎屋博士は内側の様子なんてつゆ知らず、呼び掛けを続ける。
「まだいらっしゃいますよね?」
苛立ちからか、扉を叩くペースが早くなる。
「直近の回収予定のオブジェクトについて少々お尋ねしたいことが──」
途端に「虎屋博士、」と呼ぶ若い職員の声がする。続けてノックが止んだ。御先はそのまま、もうしばらく辛抱して待ち、待って、待って、忍耐強く、待って、音の一切を立てぬようにデスクから這い出た。耳を澄ませる。二人の男の会話が聞こえる。「虎屋博士、ちょっと直近のプロトコル改定がありまして、これを見ていただきたく──」
今、虎屋博士は誰かの呼び掛けに応じている。それはつまり、虎屋博士は扉に対して背を向けているはず。彼女の存在に対して、注目が外れている。つまり──
左手は引き出しから適当なボールペンを掴み取った。
今しかない。
小柄な体が、煮沸した怒りで反応するように思えた。体はオフィスを突き破り、男を地面に押し倒す。偶然にも御先の左手に握られていたそれは頭上に掲げられ、その後頭部を目掛けて振り下ろされる。声をあげるな。声をあげるな。虎屋は仮面の下で悲鳴を上げ、突然のショックにより気絶した。一撃で満足することなく、追撃で許すこともなく、頭蓋骨を突き破り、先端に脳髄の感触があるまで何度も。後頭部から背中にかけ、背中から両足にかけ、残すところなく突き立てる。白衣の下の腫れ上がった腫瘍を、更に刺して押し潰す。それでも続けて、続けて、やがて男は惨たらしい蜂の巣のよいに見える。
何時間の間、こうしていただろう? 気付けば、男は既に絶命していた。御先は使い物にならなくなったボールペンを傍らへと放った。それはカラカラと音を立てて、通路に鳴り響いた。辺りを見渡す。若い職員はいない。
はあ。はあ。
肩で息をしつつ、その隣に寝転ぶ。
はあ。はあ──
私だけが正常か
数週間前のことだった。
サイト全体で大規模な収容違反が起きたのだ。きっかけは些細なものだ。職員数人のミスが重なり、連鎖的にEuclid級オブジェクトのセキュリティシステムにヒビが入った。いつものことだと言うとおかしな話だが、大部分はいつものことだ。問題はいつものようにセキュリティチームがフィードバックして、収容チームがサイトの端から端を順繰りに清掃する形で片付けられると思われた。
しかし、上手くはいかなかった。これまで通り上手くいくと過信したのか、楽観過ぎたのか、今となってはわからない。インシデントの連続により、サイトと職員は崩壊した。手に余ったサイトに対して、本部はそのボタンを押し問題を跡形もなく消し去る形で判断を下した。そうして終わったのだが、私たちは上手くいかなかったのだが………結果として上手くいっていた、奇妙なことに。サイトはいつもみたく平和で、収容セキュリティは安定していて、職員たちは笑顔を交え時々冗談を言い合っていた。最後に撮影班がサイトの視察へ訪れた時には、誰も彼もが笑顔を振り撒いていて。
何が起こったのか?
全ては公平に消し去られたと思われたが、彼女は信じなかった。彼女は偶然にも、他サイトへ出向いていて消滅の影響を受けなかったのだ。御先はサイトの残骸をやっとのことで遠くから見つけ、一人走り出した。倒壊してまだ火種の燻るサイトから、残った人々が生きていること、またある人物が生きていることを願って。
「虎屋博士!」
御先は叫んだ。彼女の非力な力は、やっとのことで最後の資料棚を押し倒した。そのオフィスの内側は、何もかも燃え尽きていて、炭と酸の臭いが支配していた。悪臭や雑音を常人の何十倍にも鮮烈に受け止め、つんざく不快を抑え付け、辺りを見渡す。見渡した。
何もない。ここには何もなかった。
形あるものは一つ残らず、形を奪われていた。破片も砕け、色は焼け落ち、小さなものは失くなって、情報は混ざり合っている。空間だけが剥き出しになっていた。御先は目を落とし、目を閉じて、一歩後ずさった。
煤けた壁に手を触れる。壁のように見えた場所は、燃えた本棚が無限とも見えるほど積まれていた。積まれて、積まれて、その下にあるものを押し潰しつつある。
彼の死体は燃えた本棚の骨の下敷きにある。
「虎屋博士………」
御先が本棚の角へ手をかけようとした時──
「やあやあ」
死体から声がした。
「探しましたよ、御先管理人」
男の体が痙攣し、静かにのけ反って御先の眼前に立ち上がった。肋骨の数本が折れるような音が鳴り、四肢の位置は人間に近しいところに移動した。クラック、クラック、クラック。それは徐々に虎屋博士の面影に近づき………最後に頭が反転して、御先が座り込んだ方を見つめた。そしてようやく呼吸を始めた。
虎屋の仮面は僅か数センチ先にある。彼は全く新しい仮面を手にしている。
新しい顔がその下でゴボゴボと不愉快な音を奏でた。死体はふらつきながら、腐り落ちた脚で御先に近寄った。
「心配しましたよ。まさかお一人でここまで来られるとは」
仮面の下の暗闇が、黒い涙を垂れ流す空間が、彼女を覗いていた。
「もしかして、私を探しにここへ?」
仮面の下で、風を切るような呼吸音が聞こえる。その表情に、声色に、感情はない。
「誰、ですか」
男は一歩近づいた。御先は小刻みに首を振り、途切れ途切れに応じた。
「あなたじゃない」
男はもう一歩近づいた。手は床をさすりながら後ずさる。突き出たパイプや画鋲が手のひらに食い込むのを感じる。
「あなたじゃない!」
その時、「あ、からあげ博士!」と呼ぶ声が入り口から反響した。
御先は背後から、“職員だった者たち”が近くの本棚を融解させ、オフィスの入り口から滑り出てくるのを見上げた。職員だった者たちは、数十人が溶かされ、縫い合わされ、身に付けていたもの、それも財団支給の白衣、数冊のファイル、ネックレス、拳銃、資料の切れ端などと一緒に無理やり練られた固形物のように見える。それらは人間のような瓦礫の姿をしていて、人間のように振る舞っていた。数十人の男女が入り混ざった声を、張り巡らされた唇から聞いた。
立ち上がることすらできない。
間もなくして、グロテスクな塊がオフィスを満たした。他の職員だった者たちも、数人は廊下の方から滲み出し、また数人は天井の亀裂から滴り落下してきた。それらは虎屋博士と挨拶を交わして、冗談を叩き合って、それから午後のプロジェクトのスケジュール変更について話し合った。酷い、肌の焼けた臭いが鼻腔を刺激する。
なぜだか、そいつらがいつもより幸せそうに見えて──
「あいつは誰?!」
突然の大声に、全ての目が御先へ集まった。沈黙の中、御先は叫ぶように捲し立てた。震える人差し指が、不気味な仮面を指している。
「いったい誰なの?!」
虎屋の首は、一度奇怪な動きを挟んで、彼女の方を向いた。職員だった者たちの脈動は止まり、ぴくりとも動かなかった。
虎屋の手足は吊られた人形のように、奇妙にぶらつかせて、その場に立って、元あった場所に戻った。そして無関心な表情で御先を見た。
「だから?」
彼女は口角の隙間から声を絞り出した。
「だか………ら?」
職員だった者たちが、取り囲むようにしてにじり寄る。それらの表面に顔のパーツが這いずり、無表情の目が点となり、口は線になって彼女に言った。
「「だからどうした」」
あいつは危険だ。あいつは危険だ。
死体をオフィスの中へ引き摺る。仮面がコンクリートに擦られ、不愉快な音を立てる。この男はいつだってそうだった。憎い。憎たらしい。非現実的な感覚に覚醒し、ひたすらに憎しみだけを募らせ、自分でも驚くほどの力が出ていた。黒い酸の血がうねるようにしてオフィスへと続いていたが、今は気にするべきことじゃない。
あいつは人間じゃない。あいつらは人間じゃない。
虎屋の死体は、入り口からは死角になるキャビネットに無理やりねじ込んでやる。ああ駄目だ。全く入り切らない。腕を折り、足を刻む。彼女は段々と自分が何をしでかしているのか、わからなくなる。私がこいつを殺したの? それともただこいつをここに詰め込んでるだけ? 顔や手足がだらんと垂れ下がり、仮面の目の穴が彼女を見つめた。その目は御先を非難してはいない。
殺さなくちゃ。殺さなくちゃいけない。
“作業”を終え、ようやく立ち上がった御先の両目には、サイトの中庭が映った。開いた出窓から一望できる、彼女のオフィスでお気に入りのスペースだった。
爆風によって全ては灰へと変わっていた。食堂は天井が溶けて倒壊し、下敷きになった何百人の死体と一緒になって見分けがつかなくなっていた。噴水には朝日に煌めく水しぶきはなく、代わりに黒い人型のススが放射状に広がっていた。開けた渡り回廊のステンドグラスは粉々になり、破片が反対側にへばりついた職員たちを全て的確に貫いていた。
彼らは皆、中庭の周りを散歩したり、次のプロジェクトについて打ち合わせをしたり、叱咤激励し合ったり、昼食を分け合ったり、休憩時間に二人でデートしたり、いつもより幸せな日々を送っている。何も恐れることなく、誰も彼もが、笑顔で。笑顔で。笑顔で。笑顔で。笑顔で。
私だけか。私だけなのか。
彼女のオフィスに残されたもの。死体を引き摺った跡。返り血に染まった白衣。極限まで強張って、脈動さえ感じられる両手。鏡に映った、獰猛な目。まるで狼だ。辺りは既に夕方で、定時を告げるアナウンスが虚しくサイトの残骸に木霊していた。
何もかも終わった。御先は着替えもしないまま、比較的柔らかい床の上に倒れ、泥のように眠った。せめてそうすることを許したかった。
何が起こったのか?
後日、御先はまた自室で震える体を無理やり押さえ付けていた。昨日のようなことがあったのだ。無理もない。戦きも、興奮も、まだ鎮まっていない。寝ても覚めても鼓動の高鳴りを打ち続ける。過呼吸になり、寿命を削って、熱が頭を焼いていて、体は硬直したまま嘔吐を促す。
奥のキャビネット。あそこには死体がある。あれは、あれだけは。見つかったら終わりだ。御先の全身の毛は逆立って、意識はオフィスの扉に集中している。彼女は耳を研ぎ澄ませた。虫の羽音、シンクから滴る液体の音、窓の外で淀んでいるぬるまな風の流れ、ドアノブに手を伸ばした時に生じる僅かな空気の震え、足音、扉の声、笑い声、笑い声、全部に対して。
今入ってきた奴は、殺す。
10分がたった。20分がたった。
何も起きない。
1時間が過ぎた。2時間が過ぎた。
今日はオフィスの外からは何も聞こえない。職員たちの話し声も、いつものドタバタと忙しなく転がる足音も、決まってこの時間にやってくるであろう虎屋博士のノックも。
4時間が過ぎた。半日が終わった。
今日は本当に何も起こらないんじゃないか。
夕方になり、アナウンスが鳴り響き始める。
御先の肩の力が、穴が空けられたように抜ける。やっと。やっとのことで。この日を待っていた。久しぶりに。やっと眠れる。だって今日は何もない、何てことのない普通の日だから
扉がガチャリと開いた。
「ああ、御先管理人、探しま──」
彼女の反応は早かった。男の姿が見えるより先に足は走り出し、両手は男押し倒す。そして偶然握られていたスケールが、それをズダズダに引き裂き始めた。声をあげるな。声をあげるな。決して鋭くはないスケールが更に傷と痛みを抉り始め、男は仮面の下で悲鳴をあげる。悲鳴はやがてゴボゴボと煮えるような音になる。内臓が溢れる。彼女のスケールを握る手から血が吹き出す。続けて。続けて。続けろ。86度目を突き立てたところで、スケールは折れ、使い物にならなくなる。
いつもと同じだ。いつもと同じ日だった。何ら変わりない、平和な一日。普通の一日。御先はスケールの破片を放り投げ、死体の隣へと仰向けに寝転んだ。
はあ、はあ。
あは。あはは。
私だけが正常か









