隔壁は既に去り、1998年、夏は盛る。
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1998年8月14日。ロシアの暑さが最高潮に達する頃、ロシア人にとってはいささか、いや、最悪にすわりの悪い時期だった。
ロシアの基幹産業は天然資源だ。石油、ガス、金属、木材……それらが輸出の8割を支えており、この時期はどれも安値で売れず、ろくな収入もないままだった。そんな中でアジア金融危機を警戒したオリガルヒ1とその操り人形の為政者は判断を誤り、不景気どころではない危機を引き起こしていたのである。もちろん、ルーブルの価値は下落一方通行。去年0を三つ切り捨てたのはなんだったのか、結局持ち歩く紙切れの量を若干減らすだけで、嵩むことに変わりはなかった。
もとより1996年以前からオリガルヒへの反感は高まっており、横暴や悪事がポロポロ露見することで市民からの好感度は最低値を更新し続けていた。が、ここへ金融関係の失政とそれによる不景気、そんな中でのショパンショックに起因する異常調査局の立ち上げオリガルヒの完全独断という名の(はたから見れば)オリガルヒによる税金の浪費と横暴、そして通貨危機寸前の現状という状況では、ロシア人のすわりは嫌でも悪くなるのだった。
たしかに、ヴェールは切って落とされた。異常は大衆の目に晒され、世の中はこれから激変する。しかし、(人類社会からすれば)ポッと出の異常存在、ポっと出の秘密組織が、過去の積み重ねである今日に勝てるはずがなく、結局ヴェールを失う一連の騒動で致命傷を負った国はあっても、得をした国など存在しなかった。

「もし、あの事件が一年早ければ」

そう雲霞の如き無意味な幻想を零す人は、上に登れば登るほどその数を増していった。


「このままじゃ、通貨は取引停止ですね」
「異常に投資してる場合じゃないっつーのに、まだ必死になって紙屑を増やそうとしてやがる。お上は何やってんだか」
「きっとちり紙か家をなくしたときに使う薪のために増やすんですよ」
「はは、違いない」

あのスピーチから1か月が経った。一般社会の人々はにわかにそわついていた時期もあったが、異常は日々を革新する刺激的なものでもなければ、日々を絶望に陥れる恐怖の大王のようなものでもなかった。大半の人々にとって、迫りくる明日の方が大切だし、異常は明日にひっついてこなかった。結局、どれだけ人が死んでも、どれだけ衝撃的な真相が判ったとしても、過去の積み重ねである今が世界を取り巻く限り、明日は必ずやってくる。いつも通りの明日が。予定のある明日が。帰納的な明日が。
なるほど、帰納的に明日が来るのならば、たしかにヴェールは取り除かれても、財団たちが作り出した隔壁は未だ健在なのは道理である。

「……もう1ヶ月ですか」
「そうだな、もう目まぐるしすぎて夢じゃねえかって思うよ」

しかし、ここに反例が2人いた。今、ラーダ社謹製のニーヴァを走らせている金髪の貫禄女、タチアナと銀髪の童顔女、ソフィアという反例が。先月までタチアナは中堅の戦車乗りで、ソフィアは内務省組織犯罪捜査局の新米だった。だが、先月下旬に「異常調査局」なるものに異動となり、いきなり経験も教育も研修もクソもない(良く言えば伝統も慣習もなく自由な)、全く新しい職場で順応を迫られはや1ヶ月。ここ3日間でやっと落ち着いてきた頃合いだ。
思えば、ここまで大変だった時期は片手で数えられるほどだったと2人は確信している。

「夢ならこの不景気もお上も諸々無かったことになればいいんですがね」
「そりゃいいな、夢なら私も目覚めりゃ良けりゃ戦車の中、悪くても雑草刈りだ、まどろっこしい書類とはすこし縁遠くなるな!」

クラシックな車体は今日も快調。乗り心地はお世辞にも良いとは言えないが、走れさえすれば彼女たちにとってはそれで良かった。
深い青空の下、ニーヴァはモスクワを離れて西へ向かう。この年の8月は最も暑い8月だったが、小窓から入る風はそれを全く感じさせない。乾いた風は2人を乱暴に通り抜け、快晴の車外へ抜けていく。正常の流れの中に、異常へ向かう流れを知る者は、誰ひとりとしていなかった。


これから二人が向かう先はモスクワから50kmほど西にある元財団管理下の土地だ。

「簡単にブリーフィングだ。この先には次元ポータルがある」
「次元、ポータルですか」
「ん。そういえば、この手のヤツはソーニャは初めてだったか。機密階級は2だから、まあソーニャが知らないのも無理はない。次元ポータルっていうのは、異常物体や異常存在、異常領域が次元と次元を切り貼りしたり繋いだりしている場所だ。私が知っているのはこれくらいしかないし、ほぼ財団の受け売りだが、まあワープポイントとでも思って欲しい」

ワープポイント、そんなものが現実にあったなんて。

「……神格といいワープポイントといい、何でもありですね」
「何でもありだから異常なのさ」

ソフィアの戦慄は、「異常」から来るものではなかった。
ワープポイント、瞬間移動。それが一般のものになったらどうなる?それは夢のような代物だろう。どんな名所にも思い立てばひとっ飛び、無茶な出張先もワープという行き方一つで日帰りすら可能かもしれない。距離という制約が失われた世界は、何と便利だろうか。だが人類がそんな恩恵を授かる前に戦争が変わるかもしれない。ワープポイントが財団なるものが隠し通せるようなものならば、弾道核ミサイルを使わずに、核兵器を都市に落とせるだろう。そうなれば防空システムの大半は無用の長物と化す。ワープポイントを抑えた国が覇権を得て、下手すれば都市や国家の在り方も変わるかもしれない。イフにイフを重ねた野暮な空想だが、これが異常存在というものならば、バランスブレイカーも甚だしい。
ブルジョワ連中がどうしてせっかく溜め込んだ金を使ってまで確保したがるのか、少しわかった気がした。

「とはいえ、今回の次元ポータルはワープポイント系じゃない。一定範囲の物体の位相を逆転させる、雑にいえば『次元が逆』となっている次元ポータルだな」
「?それってどういう……」
「速度とか、重力とか、そういう向きを持った量が逆転するんだよ。向きが存在するものは全て逆になっている次元と繋いでいるポータルだ」

ソフィアは理解を深めるため、逆になった次元でボールを投げるという思考実験を展開してみた。ボールを投げたときは悲しいほど遅く、天へと終端速度で落ちていき、横方向への速さはやがて音速を超え、光の速さへと近づくだろう。逆に、天へと落ちる速度は無限に遅くなり、一体ボールはどこへ行くのだろう?
その先を想像するには今ソフィアが併せ持つ物理の知識では足りず、熟議の余地は過分にあるが、同時にそれ以上は無意味であると悟り、エラーコード:「わからない」を吐き出す思考をリセットした。結果、ソフィアの思考実験は、「そんな次元ポータルが繋ぐ先は、不条理以外の何物でもないだろう」という結論で締めくくられた。
兎にも角にも、ポータルの話はもういい。問題は、仕事とポータルにどのような関係があるかということ、これに尽きる。

「それで、その次元ポータルをどうするんですか?」
「調査。財団が調査途中に祖国はその土地を買い取ったから、調査の引き継ぎをするのさ」
「……二人でできるんですか?」
「今回が最初の調査だから、財団から渡された暫定報告書読んで、重機で色々実験で今日はおしまい。軍のそばでやるから、いざというときはそっちに任せりゃいい」

だから問題ないよと、コストロヴォの標識を目で追いつつ答えた。


モスクワから出発して2時間半、ロシアの大地なら沼だろうと川だろうとどこでも走破できる自慢のニーヴァだが、流石に無秩序に樹木が乱立する森の中に乗り込めるほど小さくはないため、途中で暫しの別れ。そこから歩いて15分の森の中にそれがあった。

「……ここが、次元ポータルの現場ですか」

周囲は軍によって立ち入り規制が行われており、ソフィアたちにも現場入りをする際に身分証明を求められた。

「ロシア内務省異常調査局実働調査課課長のタチアナです」
「補佐のソフィアです」
「少々お待ち下さい………はい、確認しました。タチアナ課長とソフィア補佐ですね、どうぞこちらへ」

精悍な陸軍人が二人をポータルの周囲を囲むブルーシートへ案内する。

「ここです」

ブルーシートの向こうにあったものは、ソフィアが思っていたより、派手ではなかった。正当な重力と逆の重力が拮抗する次元の境目に黄変した木の葉が堆積し、青々しい緑と黄色と茶色の混じった歪な形のかまくらを作り出していた。一眼見ただけでは、ただ落ち葉が変に積もっているだけにみえる。とにかく地味で、目立たなかった。むしろ、ソフィアたちが現場に入ってすぐ右に見える大型のショベルカーが目立った。

「んじゃ、『仕事』はキッチリやりますか……まさか戦車乗りが奇怪なファンタジーを相手にする仕事に就くとは、人生わかったもんじゃないね。ソーニャ、ここへきて泣き言は言うなよ?」
「……相手が人から異常存在に変わっただけです。今更怖いなんて口が裂けても言えません」

堅いスーツから固い作業着へと着替え、ゴム長靴で落ち葉を踏み締める。目の前に居るのは人でもなく兵器でもなく、科学とは相容れぬ存在。

「8月14日14時32分、実動課はこれよりSCP-仮番008-RU、コード『逆点』の解析に入る」

涼夏の盛り、次元路の原点となる一歩は落ち葉に彩られ、今───

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