白銀と蒼碧
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2006年6月2日、サハリンはユジノサハリンスクの朝。夏の気配など未だ遠く、少しひんやりとしている宿の一室に目覚ましのけたたましい金属音が響く。
銀髪の調査官はブツクサ何かを呟いて、ベッドのぬくもりと眠気に打ち勝ち身を起こす。続いて小学生時代からの習慣となってしまった伸びで敗走する眠気を掃討した。

「……さっさと済ませてさっさと帰ってあの上司にクソほど恨み言書いた報告書3ダース枚送り付けてやる……」

このような愚痴を朝一番にこぼすくらいには不機嫌な調査官だが、そこに至るにはすこし、時を遡る必要がある。


時はつい17時間前、ロシア連邦はモスクワ、6年ほど前に増設された内務省地下にある異常調査局にて交わされた10分にも満たない「サハリンに行ってもらいたいんだけど」から始まる会話が解説代わりになるだろう。

「サハリン、ですか」

金髪の女傑の言葉に調査官の眉はひそむ。極東、シベリアと比較的近い土地、彼女にとっては大して思い入れのない土地だ。だが、遠い。間違いなく、遠い。モスクワは欧州にギリギリカウントされる。だが、サハリン……それは極東。欧州のおの字もない。なんなら大陸から離れた島である。まあ東端にはチュクチがあるとはいえ、サハリンも十分アジアの端っこだ。ちょっと海を南に渡れば日本の稚内である。去年やっと欧州第2号のパリ-ロンドン間次元路が開通したばかりであるから、勿論モスクワ-ユジノサハリンスク間次元路も非開通。つまり、行きも帰りもしんどいのである。
調査官は、「本当にいかなきゃダメ?」と視線で訴えるも、相対する女傑は、にっかりと笑顔。「お前に行く以外の選択肢はないぞ」と表情で脅している。
コイツ、本当に元戦車乗りかよ。やり口が黒いぞと調査官は降伏のため息。

「それで?実働調査課に頼むからには、異常存在があるんですよね?」
「んー、実際そうなんだが、天然物ではないな」
「天然物ではない異常存在って養殖でもしたんですかね……」

異常性を利用した道具がそれにあたるやも、と若干の心当たりがありつつ、調査官の内心は少し波が立った。

「それはともかく、お前はSPC、なる団体を知っているだろうか?」
「SPC?SCPではなく?」

SCP財団、あの日まで世界オカルト連合と共にヴェールの向こう側であった組織。英語で言えば、「確保Secure収容Contain保護Protect」だったか。波は漣からすこし強くなる。

「ん。SPC。サメ殴りセンターShark Punching Center
「は?」

調査官は察した。これは本省でも年に1回当たるか当たらないかレベルの胡乱なやつだ。内心の荒れ具合は十数段階すっ飛ばしての大嵐である。

「サメ?殴り?」
「うん。サメ殴りセンター」
「なんでサメ?」
「いや私知らんし」
「えぇ……」
「だが、アイツらSCP財団から要注意団体認定されてんだよ。目的はまるで胡乱だが、結果として生み出す技術と異常とそこにかける情熱は相当やばい。最近もいろんな組織と提携してサメを殴る……殴打資産を作ろうとしてるとか」

サメ殴りセンターの人々は、サメを殴る以外にその情熱を傾けてくれたらどれだけ世界に貢献できたのだろう……
段々と調査官の目は遠くを見つめだす。いや、サメて。殴るて。鮫肌で怪我はしないのだろうか。サメを殴ったところでダメージを与えられるのだろうか。そもそもサメじゃなきゃダメなのだろうか。なんかもう色々ツッコミどころがありまくりな団体である。

「……で、私はそんな胡乱団体を〆るためにサハリンへ?」
「流石に犯罪組織の取り締まりじみたことを単身でさせようとは思っていない。だが今回はこれはSPCを討伐する機動部隊との共同作戦になる。SCP財団日本支部機動部隊さ-21という部隊でね、現地の調査課とさ-21が、今回のお前の仲間ってことだ。まあ、お前は英語くらいは話せただろう?」
「……まあ、多少は」
「そりゃあいい。じゃあお前が行くということで話は進めとく。早速詳しいお話だ」

そう笑って女傑は二枚の紙を調査官に渡した。
まとめると、「2002年、北海道で管理していたサメを殴るための熊たち(SPCから言わせればSD-B、シャークデストロイベアーらしい。以下デストロイベアーと呼称)が反乱を起こし、その際にデストロイベアーはオカルト連合によって概ね処分された。が、そのうち一体が生き残り、逃走。今年に入ってそのデストロイベアーをSCP財団日本支部は察知、収容しようと動くも、SPCの妨害に遭う。そこで機動部隊さ-21が動員された。しかし、SPCとデストロイベアーがロシアのサハリン州コルサコフへ不法上陸。その報告及び応援要請を本邦は受理、SPCは不法入国の現行犯につき拘束、デストロイベアーは生死問わずの確保を求める」と、概ねこのような内容であった。

「……要は組織犯罪摘発と異常収容ですよね。そういうの、組織犯罪総局がやらないんですか」
「組織犯罪総局が先に『異常存在が絡んでるなら異常調査局でやれ。実働調査課があるだろ。現行犯ならお前たちで逮捕できるだろ』って拒否したんだよ。あのクソジジイと私では立場が成層圏と地獄ぐらい差があるからさ、すまん!わかってくれ!」
「……もう行くことは決まってるからいいんですけど、その分私の仕事はどこに消えるんです?」
「あ、いいんだ……じゃない、お前の仕事は全部私に任しとけ!昔死ぬほどやってたし、この労働量に比べたら全然余裕だからな。安心しておけ」

そういえばこの人は仕事だけはできる人間だったな……などと呆れに近い感想を抱き、調査官は部屋を出た。向かう先は己のデスク。こうなれば今日の仕事の分をキッチリ片付けてその勢いでサハリンまで飛んでやるという勢いであった。
そして本当にその日までに仕事を済ませてサハリンに渡り、先ほどまで泥のように眠り込んでおり、今に至ったのである。
早速ベッドから抜け出した調査官は朝の身支度を済ませ、宿を出て、事前に知らされた場所、すなわちユジノサハリンスク駅へと向かった。


調査官が着いた時には、5人の支局の人間がたむろしていた。まだ集合時間の10分前というのに、殊勝なことだと感心する。
調査官の姿が見えたとき、支局の人間たちは簡単に挨拶をした。調査官も「私が本省から派遣された者だ、作戦を立案、実行させる立場であるから、君たちは私の作戦通りに動いてほしい。今回はさ-21との合同任務だ。主体はあちらとなるから、それを考慮した上で私の指示に従って欲しい」という旨の挨拶を行った。その直後である。

『お、おったおった、タケナギ、この人ちゃう?』

一瞬、調査官はぎょっとした。小学六年生くらいだろうか、白衣の下にスポーティな水着を着て、他には何もない、聞き慣れない言語を話してこちらに近づいてくる子供がいた。聞き慣れない言語は、おそらく日本語だろう。それよりも、まだこの肌寒い時期にそんな格好をする人はまず見かけない。だが、それよりも……その言語や格好によりも、その子供が蒼いざらざらした質感の肌とギザギザの歯を持っていて、頭頂部と側頭部には鰭のようなパーツがある───いわゆる鮫の獣人が目の前に現れたことについて、ぎょっとしてしまった。異常調査局とはいえ、調査官はそういった事件にはほとんど関わらなかったのだ。故に調査官はテレビや新聞の中でしかその存在を知らず、今こうして目の前にいるという状況は初めてのことであった。調査官は自分が思ったよりも動揺していることに自覚的であったが、その対処法を知らずに困惑していた。しかし、すぐに似たような口調の、だが全く違う質の声が聞こえてきて、困惑を恥じつつ平静を取り戻す。

『ああもう、待ちや!そん白衣ウチのなんやけど!身分証明できるやつとかお前のパスポートとか色々あるんや!ええ加減にせんと鼻パーンすんで!』
『うぐ……でもこれ温いんやもん!ここは寒くてかなわん!』
『ほんならジブンの上着着ればええだけやろ!ロシアは寒いん知らんアホはおらんで!』

鮫の獣人と後から走って来た黒髪の日本人女性が訛った日本語で話し始めた。おそらく鮫の獣人を叱っているのだろうと調査官は推測する。
そしてその後から来たのはスーツ姿の機動部隊さ-21だった。
小隊どころか分隊規模にもならない少数精鋭、SPCを征伐するために選りすぐられた精鋭は、平生の動作に無駄な動きがない。なるほど、いい兵士だ。などと調査官が見定めているうちに、黒髪の女性は鮫の獣人から白衣を取り返し、秋物のシャツとズボンを押しつけ終えたようで、先程の厳しい表情から一転、やんわりとした笑顔で「ズドラーストヴィチェ」と話しかけてきた。

「はじめまして。ロシア語、話せるのですね。英語で意思疎通を取ろうかと思ってましたが……」
「そないな必要ありませんよ。昔取った杵柄ってもんです。あんまり上手とは言えませんけど、訳者兼咬冴隊員の保護者として、機動部隊さ-21に同伴しとります」

日本特有のはっきりした発音と、東部方言が含まれているロシア語で、白衣の女性───嶽柳は話す。

「ほんま、すんまへんなあ。本来なら北海道でウチらが殲滅すべきやったのに……」
「いえ、仕事ですから、気にすることはありません。それよりも本題に入りましょう。あなた方はSPCなる団体を追っていたとのことですが、今の位置、もしくは目的地はわかりますか?」
「ああ、熊に辛うじてつけた発信機でわかっとります。ちょっち、言うても5分くらい、100m程度ラグがあるんですが、、ちょっと地図広げますね。現在位置は……だいたいフスモリエ近辺でじっとしとります、でも目的地はあいにくさっぱりですわ」
「SPC諸共山に逃げられるとマズいですね。SPC構成員を確保する前に死なれると後が面倒です」
「せやけど、アイツらには鮫を殴るって存在意義があるから、山には逃げへんと思いますよ。鮫科存在を積極的に見つけ、殴るのがSPCですからね」

調査官は感嘆の息を漏らした。SPCの情報がすっと出ることもそうだが、SPCのその鮫殴りに対する情熱にも感心せざるを得なかった。胡乱だとは思っていたが、胡乱団体の持つ胡乱団体なりの真っ直ぐすぎる情熱に、調査官は引いた。

「危機的状況下でも、鮫を殴ることしかしないのですか?」
「いや、抵抗はしますよ。せやけどやっぱターゲットは咬冴に集中するみたいですけどね」

それ、危機的状況下でもできるだけ鮫は殴ろうとするってことでは?
まあそれはいいとして、鮫を殴ることにそこまで情熱を傾けているならば、打つ手はある。
早速仕事を解決する糸口が見えてきた調査官の気分は上向いた。ただし、問題もある。それは目的地が依然としてわからないこと。

「……サハリンは広いですよ。北海道より。海岸線を探すだけでもかなり難しいでしょう」
「発信機も超常技術使うて限界距離は伸ばしとるんですが、100kmが限界です。早う追いつかんことにはロストしますね」

目下それが一番問題である。結局、今この時間を悩むのにあてて潰すよりも今からでも追いかけたほうが良いと調査官は断じ、仮組み状態だった作戦を一気に本組みまで持っていく。

「今から追いつきましょう。反応ロストは最悪の事態です。車両は支局からニーヴァ5台引っ張って来たので、そちらに4台こちらに1台で。先頭を私の指揮車が引っ張ります。サハリンの道は総じて狭いですが、もし2台以上並走できる道に出たら即座にさ-21の隊長車が前に出てください。いかに熊といえど全速力でせいぜいが60km/h、今から出れば間に合います。主要武装は?」
「1人あたりM4カービンとガバメントM1911を1梃に手榴弾3発スタングレネード3発ガス手榴弾2発」
「十分です。SPCと銃撃戦になった時のために最低でも6人は弾を温存しておいて下さい。我々はAK74でSPC連中を牽制します。デストロイベアーが現れた場合は我々が鎮圧します」
「了解!」

作戦はこれから調査官の口から支局の5人へ、嶽柳の口からさ-21の隊員たちへ伝達される。

「これから支局の諸君にはAKを携行しつつ私が乗るニーヴァ以外の運転手になってもらう。私と同席する者は銃撃手だ。私の指示を聞き、直接行動が取れるのは君たちしかいない。よろしく頼む。何か質問は?」
『これから作戦開始や。ウチは通訳やから指揮車や。ついでに咬冴隊員もやな。2、3、4番車に乗り込む6人は合図あるまで撃つな。道が開けたら複縦陣に変更、2番車4番車が左にずれてな。質問あるか?』

一通り質疑応答が終わり、詳細な作戦の骨子が組み上がる。

「では、作戦開始!」
『これより作戦を開始する!』

未だ夏の足音は遠い初夏の極東ロシアの街中で、日露合同異常任務は、ここに始まった。


走る、

走る。

5両のニーヴァは走る。谷に形作られたユジノサハリンスクとそこに連なる町や村を北に抜け、海岸線にすぐ近い道路を走る。発信機からの信号との距離はぐいぐい縮んで、フィルソヴォに到着した時点では直線距離で15㎞まで接近していた。
……と、なれば。このまま逃すわけにはいかない。大まかな位置とそこに至るルートを割り出して、またひたすらにエンジンをふかして走る。そうして走り出して45分ほど経った時だった。影が、陽光にきらりと反射する影が見えてきた。

「ごめんなさい、あの影誰か見てくれますか?」

そう言って影を指さした直後、咬冴が元気に声と手あげて身を乗り出した(直後に嶽柳から「はしたないし危ないやろ!」と鼻をつままれていたが)。

『とにかく、ウチが見る!』

嶽柳は申し訳なさそうに「ええですか」と訊く。まるで本物の保護者のように訊いてきたので、そわ立つ心の波は笑いに揺れ、まもなく静けさを取り戻した。

「見てくれるなら、誰でも良いです」

調査官の隣の男が足元から双眼鏡を取り出し、咬冴に手渡す。ずっしりとした双眼鏡の重みは、咬冴の心を浮き足立たせた。

『おっほー!遠くのものが大きく見えるで!!』
『遊ぶために貸したんと違うやろ!さっさと影を見んかい!なんか特徴はないか?』

嶽柳の諫言で咬冴はフロントガラスと双眼鏡越しに車を見つめた。2秒、咬冴は車を見つめ、ついで「ヒッ」っと息を呑む声を出した。

『その感じ……「当たり」やな!咬冴!』
『SPCや、間違いあらへん。「当たり」よ!あんシンボルは、絶対忘れへん……!』

絶えず強い調子でもっと情報をと呼びかけ続ける嶽柳に、怒りに耽り憤りに沈みかけては、その都度正気に引きずり上げられ状況の仔細を報告する咬冴。調査官にはその言語が分からずとも、どんなことを言っているのかは薄々わかる。なるほどこれが感情の力なのかと他愛もない感想を抱き、すぐに捨てた。

『熊は!熊はおるか!?』
『……っ熊!?えぇっと……熊はおらへん!』

その報告をまとめて嶽柳が通訳し、調査官は推測との答え合わせを終えた。途端に心の中に雑多に散らばったものが悉く取り払われ、本格的に仕事の心持ちになる。
答え合わせの結果は「予想より悪く、しかし最悪ではない」だった。SPC連中を見つけられた。これは良いが、最大の脅威である熊公を見つけられてないのは大きな恐怖だ。

「……チッ!嶽柳さん同時通訳お願いします。こちら指揮車、SPCが所有しているらしき車を約3km前方に発見。隊長車は合図をしたら複縦陣で指揮車と合同で滅多撃ちにせよ。3番車4番車5番車は熊の奇襲に備えて全方位警戒。繰り返す、隊長車及び4番車は合図があり次第複縦陣に移行、隊長車は指揮車の右に並びSPC所属の車両に走れなくなるまでぶち込め。3、4、5番車は熊公の襲撃に備え全方位警戒をせよ。特に海と茂みには気を巡らせろ。ここで何としてでも仕留めなければならない。以上」

エンジンはフルスロットル。そこまで速力がないニーヴァの巡航速度では到底追いつけない。限界まで速力を上げて前方3kmにいる車に追いつかんとする。比較的新しいモデルだから乗り心地は目も当てられないほど、というわけではない。だが、日本車に慣れている咬冴たちにとってはまさしく悪夢だった。咬冴は悲鳴をあげ、嶽柳は何か思い出したような郷愁の表情でニーヴァの揺れに揺られていた。

『さっきから薄々思っとったけど!この揺れ方は壊れとるんやないん!?大丈夫か!?』
『日本車はやっぱ高品質やったんやなあ……』
「運用理念が違うだけだ揺れくらい我慢しろ!」

さすがに日本語がわからなくてもその態度と声色で何を言っているのかはわかるぞとつい粗野な言葉が飛ぶ。
日本とは違い、ロシアの道は全部が全部舗装されているわけではない。当然悪路も存在する。極寒のロシアでそれを乗り切れなければ車として成立しないのだ。乗り心地ひとつ無視するだけでロシアの大地なら全て走破できる性能を手に入れることのなんと安いことだろう。駆動系は滅多に壊れることもなく(よしんば壊れたとして、簡単な構造のエンジンは誰でも直すことができる)、凍りついたエンジンルームをウォッカで着火しても平気な車は伊達ではないのだ。

閑話休題、彼らへの距離はぐいぐい縮む。先程まで3kmはあった距離が、30分あれば1kmに、1時間あれば肉薄できるだろうペースだ。フィルソヴォの次の村であるフスモリエにさしかかる時になってやっと気づいたのか、SPCの車両は速度を上げて逃げようとした。ここからがカーチェイスの始まりである。フスモリエは山を背にした村であり、海岸沿いの道路は作られていない。直線的な道路は一旦終わり、山に沿った曲がった道での追いかけっこになった。その最中である。

『左の茂みから何かデカイの来るで!』
「っ!調査官!左注意!デカイのが来る!」
「左?」

突然口を開く咬冴とその内容に、調査官は訝しんで左をちらと見れば、何もない。ただ茂みと林しかなかった。
なんだ、何もないじゃないか、調査官がそう思った一瞬直後だった。

淡い赤でほんのり光る熊(しかも、立っているとニーヴァの2.5倍ほどもある)が、茂みから強襲を仕掛けてきた!

「っ!!熊公!」

熊は指揮車をシャケを狩る手つきで殴ろうとするも、指揮車の反応は一瞬早く、その一撃を躱す。

「あれが熊公か!なるほど確かにグリズリーよりもデカイ……!」
「デストロイベアーは必ず咬冴を狙っとりました、習性、本能レベルで<鮫を殴る>が最優先事項やと思われます」
「胡乱が真面目に厄介な生物兵器を作るとか冗談でも笑えませんよ……!5番の機動部隊!撃て!」

最後尾のニーヴァの窓が開き、M4カービンの銃声が響く。すぐ横で並走している熊の肩に全弾が命中するも効果はないようで、速度を全く落とさない。それどころか熊は意にも介さない。
「効果なし」の報せは嶽柳を通して入ることになるが、それはサイドミラーを見ればわかることだった。

『あかん、やっぱ全然効いてへん……!』

北海道では至近距離で撃たなかったため、いけるかもと思った咬冴だったが、全く効かない素振りを見てやっぱりかと苦しい顔をする。
そんな絶望感が溢れる状況で、調査官はデストロイベアーの外見について思ったことがあった。

「私の見た資料とは全然印象が違いますね……数字上ではせいぜいがグリズリーより少し大きいくらいでしたが、少しというにはデカすぎませんか?それに発光してますが、アレはなんなんですか?」
「アレは鮫科存在を捕捉したらなってまう形態ですね。全ての制限を取っ払うことで筋肉量に骨密度にその他諸々が増量して全長が1.5倍になるらしいんですわ。赤く発光するんは多分奇跡論的影響か何かやと見とります」
「つまりは鮫を認識するとハイになるってことですね。厄介な……」

しかし、この膠着状態を打開するヒントはある。鮫殴りを絶対的な命題にした熊公は、私たちのみを追ってくるのだ。それを利用する策を、脳内で組み上げる。
そんな中、谷を抜け、1カーブ曲がれば分岐点が見えてきた。

「嶽柳さん通訳!これより我々と3番車は[ハンター]、それ以外は[チェイサー]と呼称!支局員、機動部隊間の意思疎通は英語を用いるように!我々は熊狩をするためこれより別行動だ!隊長車以下さ-21は隊長車の指揮に従え!」
「みんな英語話せたんかい!確かにウチが勝手に通訳買って出たんやけど……まあええわ、『各員通達───』

2つ目のカーブを曲がりきってサイドミラーを見れば、ニーヴァ達の最後尾と並走していたはずのデストロイベアーはいつのまにか3番車あたりまで距離を詰めていた。

『どんどん追いつかれとるやん!ジリ貧やで!』
「もっと飛ばせへんのですか!?追いつかれまっせ!」

そんなことはわかってる!とさらにアクセルを踏み込むが、残念ながら先程から最速である。3つ目のカーブにさしかかったところで、調査官は線路をチラリと見やり、「揺れますが、口は閉じて我慢してください!」とだけ言った3秒後、勢いよくハンドルを切った!

『ちょっまだ分岐点やな───!』

その先には道路などなく、あるのはただの野だ。が、それも10m程度。次は線路だった。一瞬で突っ切って未舗装の道路に入る。それと同時に装甲列車(ショパンショックと類似の災害が来ても対応ができるようにとロシアが設置した70両の最新型の一つである)が奥の方へ駆け抜けた!ミラーには足を引きずり赤い光を失いつつあるデストロイベアーが見える。
数秒の沈黙。デストロイベアーをまずは振り切った安堵と一瞬でも車が線路を突っ切るのが遅かったら、というえも言われぬ恐怖が混ざったこの空気感は重い。そんな空気の中で一番に口を開いたのは嶽柳だった。

「アンタ、何しとん……死ぬとこやったで……」
「……鉄道にあの熊公を轢かせました。だが死なない……あの調子じゃ骨くらいは砕けてほしいものです……」
「エライ根性しとるわ……ロシアはみんなそうなんか?」
『あ、あと一歩遅かったら……死……』

受け身を取ったのか、脚だけ轢かれたのか、まあそれはいい。ここで初めて熊にダメージを与え、機動力を奪ったのだ。それは今日初めての戦果であった。

「今のうちにまともに戦える場所にいきましょう。あの熊公、どんな手を使ったのか知らないですが少なくとも130km/h以上で走れましたから、足が使えなくなってもどんな速度を出すかは分かりませんし、奇跡論まで使う化け物なら尚更です」
「戦える場所って、どこへ?」
「この道の先にイリンスコエという村があります。そしてその南にちょっとした平野がありますから、そこで迎え撃ちます。今が15時ですから、予想到着時刻は16時半。風下に陣取りましょう。この作戦では、咬冴隊員が要になります」

嶽柳は一応通訳を済ませた後、咬冴はキョトンとした顔で『ウチ?』と首を傾げた。


サハリン州はイリンスコエ、村から離れて平野へとニーヴァを乗り上げる。
道中で説明した作戦通りに、皆が準備を始めた。
咬冴から採った血を車体に付ける。量は少ないが、獣なら察知できる量である。


「作戦第一段階は、咬冴隊員の体液をこの車にふっかけます」
「体液」
「体液がダメなら、咬冴隊員のものならば何でもいいです。においが大事ですから」
「におい」

保護者として何かがそわつく嶽柳の気持ちも知らずに調査官は続けた。

「そうですね……汗はすぐには無理ですから、血か衣類にしましょう。それであの熊公を誘き出します」


その後、指揮車と3番車のエンジンルームから無骨な大型の携行ライフルを取り出した。

「どこに隠しとるんやろって思ったら、そこかあ……エンジンも簡素やし、予備タイヤまで入っとるんですね。そらライフルも入りますわ……」


「作戦第二段階では、3番車のメンバーがライフルで撃破を試みます」
「ライフル?」
「ハンニバルモデルライフル。14mm口径の弾を撃ちだすライフルです。弾は擬似的なホローポイント弾に改造してありますから、多分仕留めるには十分です」
「……北海道でもブローニングM2重機関銃持ち出せばよかったんやろか……」


最後に、ニーヴァを50m四方から三点で包囲する。調査官と嶽柳・咬冴グループと、支局員とさ-21隊員の二人組がハンニバルモデルライフルを携えて草原に身を潜ませ、残るさ-21の二人組がスタングレネードの準備を済ませる。

「今回は、咬冴隊員、貴女が撃ってください」
「ちょっ、こんなデカいライフルを!?」

反動がすごい言うてなかったですか?と嶽柳が不安を具申する。調査官はこれにこう答える。

「私が支えます。きっと熊公はニーヴァに寄らないとなれば咬冴隊員の方へ向かいます。確実に当てるためにも、咬冴隊員が必要なんです。ライフルの撃ち方がわかるなら、撃てます。大丈夫、私が照準誘導をします」

その提案は嶽柳を通して咬冴に伝わる。
調査官の「やってくれますかね……」と不安や期待が混じった視線と、嶽柳の「そんな危ない目に遭わせられん!」という心配の視線が咬冴に突き刺さる。
無言の圧力を伴う視線を一身に受けた咬冴隊員の答えは、しかしそんな圧力をものともせず、こう返って来たのだった。

『一応、機動部隊でライフルの扱いは習っとるし、熊の相手は一度やったことあるし、外しても戦えると思う。せやから、ええよ。やってみる』


「このニーヴァを半分囲む形で風下に三点配置します」
「ライフル持てへんグループはどうすんねん?」
「そのグループにはいざという時のため、擲弾兵としてスタンバイしてもらいます。第二段階が失敗した時、私たちに向かわなかった場合です。この時にはスタングレネードを投げ、動きを一瞬でも止めてもらいます」


夏至にも至っていない、初夏というにもまだ違和感のある季節だが、この時期、この土地の日照時間は異様に、具体的には15時間以上と、長いのだ。現在17時、あと4時間以上日は出ている。せめてそれまでにデストロイベアーが来てくれるのを待つだけだ。

もし、夜に来たら……?その心配はいらない。デストロイベアーが列車に轢かれたあの時以降も運良く発信機は壊れずに付いていたようで、その信号のペースからすれば、日没までには間違いなく着くとは嶽柳の言だ。

撫でるような風が海へ抜け、潮騒が微かに聞こえる。草原は揺れずただ凪いでいて、戦場となる覚悟をしているようだった。もしくは、剣闘士が獅子と相見える場面を、固唾を呑んで見守る観客気取りか。どちらにせよ、ただひたすらに待つことは変わらない。彼女らにとって本当に永遠のような時間が始まった。
その永遠を利用して、調査官は咬冴隊員へ声をかける。

「……咬冴隊員」
『へ?なんや?』
「あなたは、どうして子供だというのに、財団へと就いたのです?」

嶽柳がロシア語の通じない咬冴へ通訳する。

『……たしかに、ウチは子供や。歳も12やし、そりゃ機動部隊に入る年齢やないねんな。財団に入れたんは、ウチがサミオマリエ人やから、人間やない異常存在やからっていうのと、ウチが強いからっていうのが理由や。でもそれは財団の理由。ウチが入った理由は、SPCを壊滅させるためや』
「SPC……やはりサミオマリエ共和国の……?」

サハリンへ飛ぶ合間にSPCについて調べたときに、「サミオマリエ共和国」という名前の国が(いつだったかは忘れたが)彼らの手によって滅ぼされた記事が目についたのを思い出す。

『せや。ウチはサミオマリエ虐殺の生き残り。家族も、友達も、みんなみんな奪われた。せやから、これはウチの復讐の話なんや』

復讐。人の強烈な原動力だ。なるほど子供でも機動部隊で戦えるわけだと調査官は得心する。

「では、仮にSPCを壊滅させた場合は、どうするのですか?」

ふと、調査官はそれが気になって口に出してしまった。復讐に身を焦がす異常存在や犯罪組織の人間はいくらか見てきた。だが、その誰もがその先を考えていなかった。復讐を果たした後の人生は、決まって空虚だった。
子供がわかるわけないのに。子供がそんなことを知るわけがないのに。大人でも手に余る問題を知ったとして、子供は尚更うるさいと一蹴するだろうに、「復讐を遂げた後は何をするのか」と、つい口に出してしまった。

『うん、考えてへんかったよ。でも、アンタを見てウチは思った。ああ、やっぱり自分の国持ってる人はええなあ、なんて思うたんよ。おとんおかんも、一緒に大人になってじじばばになるはずやった友達もおる場所で働けるのって、えらい羨ましいんや。勿論財団が嫌なわけやないし、嶽柳も好きやで?ウチの今の居場所はここやと思っとる。でも、持っとらんのを欲しくなってしもうたんや』
『えっ?ウチのこと好きなんや!褒めてもなんも出えへんよ〜』
『うっさい!……まあ、そんで、ついさっき決まったんや。復讐の後、何をするか』

聞いて驚けというようなしたり顔をして、彼女は夢を語る。曰く、

『国興しや。サミオマリエを、またウチがあそこで暮らしとったサミオマリエを、元に戻すんや。勿論、殺された人は戻って来えへん。あの頃が完全に戻るわけやない。でもな?そうやってサミオマリエを元に戻して、アンタみたいにジブンの国で働いてみたいし、あの景色をもう一度見たいって思ったんや』

と。嶽柳越しの言葉であるが、その意思は目が最も語っていた。復讐の果て、希望はそこから始まるのだと。
その目はきらきらと輝いていた。希望に満ちた目だった。いつぶりに見るだろう、調査官は入省して、ついぞ咬冴と同じ目をした人とは話したことがなかった。
復讐と、希望。まだ12歳の子供が、こんなにも強烈で対照的な原動力を持っている。世界中探してもこんな人はそうはいないだろう。こんなにも輝く人は、歴史上を探してもそうはいないだろう。
調査官は、この時初めてサハリンに飛んで良かったと思った。それはそれとして上司には恨み言しかないが。

「……その言葉で安心しました。あなたはきっと、きっとその望みを叶えます。ですから、その望みが叶うまで絶対に止まらないでくださいね」


デストロイベアーは、日暮れ近い9時直前に現れた。

「さて、おいでなさりました……咬冴隊員、Are You Ready?」
『……オーケー』

がさがさと、風の弱い凪いだ草原のなかで、一際大きな揺れが聞こえる。巨体が考えぬ群衆をかきわける音だ。

しかし、その音はぴたりと止まる。直後、デストロイベアーがいるであろう場所から赤い光が漏れ出した。

「……っ!熊公、鮫科存在を認識!血液か、咬冴隊員か!どっちだ!?」

ハンニバルモデルライフルを構えて、咬冴は立ち、調査官は中腰でそれを支える。大の男が扱っても反動で身体がのけぞり、ライフルは取り落とさざるをえない代物だ。突っ込まれたら確実に一撃で当てるしかない。
狙うは筋肉のない鼻。来るなら来い、確実に当てて、鼻から直線上にある首の神経を落とす!

思わず身震いするような悍ましい雄叫びをあげて、デストロイベアーは咬冴目掛けて進軍を開始した。

彼女らが熊を仕留めるのに言葉はいらない。
ただ、黙って、タイミングを見計らう。速さはだいたい時速30kmと言ったところか、赤い光がぐんぐんこちらへ向かっていることに心臓が激しく鼓動して逃げようと提案する。
だが逃げない。ここに来たのはなんのためか。あの熊公を仕留めるためだ。

咬冴の震えが調査官に伝わる。「まだですよ、まだです。まだ……」と言って聞かせて落ち着かせ、赤い光を注視する。
大地を踏み締め、銃床を肩に当て、耳栓を確認し、トリガーに指をかける。調査官は咬冴の背後へ。デストロイベアーは咬冴を狙い一直線。
赤い光が草原をかき分けて、その全容が見えた8m先、2秒、咬冴はその鼻先に照準を合わせ、調査官の「アゴーニ撃てッ!」という合図でトリガーを引いた。

──それは、銃声というよりは轟音だった。


二日後

「いやあ、大変だったねえ」
「想定よりもヤバイのが出てきて本当に焦りましたよ。財団の分類ならばEuclidクラスでも上位のオブジェクトですね」
「まさかSD-Bがそんなにヤバめな異常熊とは思ってなかったんだよ?せいぜいがちょっと変な熊ってレベルかなーって、私が知り得た情報じゃそう思ったわけだし」

モスクワ、異常調査局にて、女傑……タチアナ調査統括役は「そこはごめんって、ほんとに」と、そこそこに真面目な謝罪(本人比)をする。

「まあ、こうして無事に生きて帰って来れたわけだし、鮫の女の子とも仲良くなれたんでしょ?今回の特別手当弾んでおくから、それでどうにか許してくれないかなぁソーニャさん?今回わざわざサハリンに行ってヤバめな熊を日本の方々と協調して討伐した上にSPCとかいうふざけた不法入国者も一人残らず摘発できましたーって評価も上がるよ?ついでに組織犯罪総局のクソジジイの鼻も明かせて異常調査局全体の利益になる、な?いいだろ?」
「それは、私の働きに対する正当な評価ですか?」
「そりゃもちろん。汚いことは、局長とかお上が黙っちゃないからなあ。特に大統領が」

後ろ暗いことに勝手に手を突っ込ませるといったことはしない人だとわかってはいるが、そこで一応の安心。しかし、正当な公のご褒美だけでは調査官は満足しない。ちゃんと公私両方で労ってもらわねば、釣り合いが取れない。

「……じゃあ今度お酒を奢ってください。それで今回は許します」
「……げえ」
「もっとも、次あんな無茶な指令下したら一生お酒貢いでもらいますから」
「わかったわかった!こっちにも正当な理由があるとはいえ無茶が過ぎた!あんな指令は多分やらない」
「多分……まあいいでしょう。でも絶対今回は私の欲しいお酒奢ってもらいますからね」


一通りの報告が終わり、「今日はまだ早いけど、お疲れだろ、上がっていいよ。ご苦労さん」という女傑の言葉に甘んじて、二日だか三日だか、しばらく空けていた我が家に早足で戻る。帰路の途中、ふと思い出したやりとりがあった。別れ際、鮫の少女と交わした言葉だった。


「そういえば、なぜ私を見て羨ましいなんて思ったんですか?自分で言うのもなんですが、おそらく私は仕事中不機嫌な顔しか見せてなかったと思うのです」
『んー、なんでやろなあ。たしかに仏頂面でずっと不機嫌そうやったけど……』

少女は難しい顔をする。12歳の子供が、直感を言葉に変換して、やっとひり出された言葉は、このようなものだった。

『なんて言えばええんやろ、多分、声は力に溢れとったからや、と思う。本当に不機嫌やったら、きっと何もかんも面倒で、無気力になると思うんや。でも、アンタは声に気力があった。本気でこの仕事を嫌いとは思ってへんのやと思う。異常を相手する時、アンタは一番みなぎっとった。多分、せやからやと思う。わからへんけど』


「嫌いじゃない、かな……」

たしかに、上司は無茶振りするし、異常は理不尽だし、前例はアリのクソほどもないし、むしろ私たちが前例を作る側だし、簡単に死ねるし、普通なら退職を速攻で考えるくらいには酷い職場だ。でも、生きている実感は常にあるし、お金は若いのに人並み以上に貰えるし、異常をねじ伏せるのはいつでも痛快だ。
きっと、私の仕事としてちょうどいいのだろう。

「ふへっ……」

だが、ここへきて少女に夢を与えることができたというのは、私の柄ではないにもかかわらず、この上なく舞い上がるような気持ちにさせた。

「夢……希望……私が与えることになるなんて」

今日は珍しく良い心地で眠りに入ることができそうだ。
そう心を浮き立たせ、心につられて早足がスキップに変わり、モスクワの中を行く。

2006年、初夏。夏の気配はまだ遠く、空は蒼を深めていく。

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