灯台下暗し
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少女が一人。

「今日は久しぶりに遊んだなぁー! お小遣いギリギリ足りてよかったぁ」

楽しそうに、少し上気した頬を弛緩させてはふらふらと帰路を辿る。
彼女の動きに合わせて、皺の入ったブレザーが大きく揺れた。

終電から下車して十数分、眠る街の間を少女は縫い歩く。

——今日は珍しく車通りが悪い。
まぁ、車通りの良い住宅街というのも笑える話なのだが、と少女は嘆息する。……それでも、道を照らすライトが一つも見当たらないのは珍しい。この街に仄暗い雰囲気が生まれた事を、少女は知った。

闇に紛れる冷気が服越しに肌へ刺さる感覚を覚えて、少女は、ふ、と白い息を吐く。

霜月の澄んだ空気が染み渡る。最近は常となったマスクを外せば、浮ついた歩調も元に戻っていく。

深呼吸。

ぶんぶんと頭を振って身体に籠もる粗熱を飛ばせば、長い髪が熱気を表現するかのように靡いた。

こつ、こつ。

——ふと、揺れた髪から覗く耳が、どこかで"音"を捉えた。革靴がアスファルトに当たる、おおよそ聞き慣れた音。
いつもなら人の気配に安堵を感じる少女だが、その時は違った。


——見られている。

少女は、確かに、その小さな自身の心臓が握られている感覚を得た。見られている。湿気を持ったじっとりとした目線で。そんな感じだ。

こつ、こつ。
音が鳴る。鼓膜の裏をザラザラとした手袋で撫でられているような、そんな奇妙な音。音はぬるりとやって来る。

少女は息を呑んだ。まるでもう、その足音が側にいるような気がしたからだ。不気味だった。遠くに居るはずなのに、何故かずっと、もっと近くに居るような気配は、少女の火照った顔を白くさせた。
途端に帰り道の先が何倍にも遠く感じられて、少女は気が逸る。

『只の足音。何も怖くなんかないよね?』
少女はそう努めて言い聞かせ、歩いた。楽しい事から離れて冷静になった時は感じるのだ。よくあるものだ、と。

足音が響く。少女は聞こえないふりをして歩く。

——例えば、と少女は冷静に考える。
細い路地、人とすれ違う時。それだけだというのに、すれ違いざまに刺されてしまわないか、暴言を吐かれないか。あるいは、舌打ちをされただけでも泣いてしまいそう。そんな気分を感じることがある。

結局、今まで感じてきたあれらは全て予感で、杞憂に過ぎなかった。だから今回もその類なんだ。きっと。
少女はそうして、願望にも似た結論を出そうとした。

——しかし現実は許してくれない。足音が異様に響く、不気味な静かさを少女の耳は聽いている。耳にへばり付く。
ずっと、さっきからずっと語りかけるように音が鳴っている。

付いて来る、付いて来る。こつ、こつ、自分の歩幅に合わせて、でもそれより少しだけ早く付いて来る。

少女は怖くて、その白い顔を引き攣らせた。音さえ無くなればと耳を掻きむしるのを我慢し、さっ、と電柱の明かりに身を寄せる。煌めいた人工の光が、少女の身を守った。

——今なら見れる、後ろを。

少女は意を決して、おそるおそる、焦るように振り返った。



そこは、くらやみが続く道だった。
少女が歩いてきた道は、不気味なほど静まり返っていた。



少女は冷えた手を握りしめながら考える。
……隠れたのか? ……それとも、これは幻聴?
「居ない」事実と「聞こえる」事実が、少女の中で乖離する。考えれば考えるほど分からなくなる。——だけど。

一刻も早く逃げなければならない。家に帰らないといけない。それだけは少女にも分かった。


息を吸う音が、やけにうるさく聞こえた。



少女は飛ぶように走り出した。途端に足音も駆けて来る。どうとも言えないおぞましさが少女の心を掻き回し、ひぅ、と息が漏れる。
止まれば死ぬ。そんな予感を少女は抱いていた。その予感が杞憂であればそれでいい、だがもしも、それが本当だったのならば。その恐怖が少女を前へ押し出している。

必死に走る少女。だが、少女は決して足が速いというわけではなかった。足音は着実に近付いて来る。後ろに居る。近くに居る。息遣いが聞こえる。

わけが分からないまま、息を切らせて走った。転びかけても手をついて、掌に血を滲ませながら走った。だが足音は遠ざからない。足音はこつこつこつこつと、更に近くで鳴る。

——どうして、どうしてこんな目に。

音はすぐそこまで近付いて来ている。少女は「助けて」と頭の中で繰り返しながら走る。十字路を抜け、坂道を上り、一目散に駆ける。頭の中で、本能が、早まる足音に合わせて警鐘を鳴らす。

恐怖と息切れで、上手く呼吸も出来ぬまま。

遂に自分の住むマンションを視野に入れた少女は、なりふり構わず階段を駆け登った。少女は、死にたくないだけの一心だった。それほどまでに音が近付いていた。

重い足を必死で動かした。逃げなければならない。足音も次いで階段を登ってくる。凍った背筋がひりついて、更に進めと心臓を、命を衝き動かす。


——遠い。たったの三階分、階段を登れば良いだけなのに。息が上擦る。涙さえ出てきた。あと少しさえ走れれば。
転がるように階段を駆けた。足音はすぐ近くに来ている。後ろに居る。


少女は走って、走って、そして気づけば眼前に扉が見えた。鍵はもう掌に持っている、開けて、中に入るだけなのだ。間に合いさえすれば、それだけで——

少女は扉に手を掛けて、早まる手で鍵を開け、身体を捩じ込むように、玄関へ身を滑り込ませた。
扉も鍵もすぐに閉める。ばたん、がちゃ、と音がした。






「はぁっ……はぁっ…………     ——あ、はは」

扉にもたれかかって、どこからともなく漏れた笑みを、荒い息と共に吐き出す。
何とか。何とか。どうにかなった。これが杞憂だったとか、そんな事はもうどうでも良い。ただ生きている。


——それから、数分間、いや、十数分間は冷たい空気に身体を預けた。恐怖が空気に溶けていくのを少女は感じた。

部屋が優しい静かさで満ちていた事に、少女は安堵した。
暗い玄関に籠る吐息が、少女に生きていることを実感させた。

ほとぼりが冷めてきた頃に、少女は息を整えながらゆっくり立ち上がって、玄関の電気を付ける。
ぱっ、と灯った光は、少女になんともいえない達成感を与えた。


——明日、朝にでもなれば恐怖は完全に消え去っているだろう。今日はもう寝て、忘れてしまえばいい。

そう考えた少女の肺を、冷えた空気がゆっくりと満たした。


少女はスカートに付いた砂を払う。軽快な音と共に砂埃が舞った。
次いで靴を脱ごうと下を見ると、靴の影から伸びた不気味な「目」と目を合わせた。いや、"合わせてしまった"。
——ずっと、そこに居たのか。

ぎょろりと覗く人外の目は、少女が「気付いた」事に喜んでいるように見えた。少女の声は出ない。
こつ、こつ、と足音が少女の脳内で響いた。少女は動かない。
少女の顔は歪んでいた。それが意図するのは安心を破壊された恐怖か、はたまた「必死に逃げたのが無駄だった」という絶望か。

こつこつこつこつこつこつ、足音が早くなる。
少女は掠れた声で「もう、やめて」と言お———

















Anomalousアイテム一覧


説明: 装着者の足音が数秒ほど遅れて聞こえるローファー。
回収日: 20██/██/██
回収場所: 東京都某所のマンション3階、3-01扉前
現状: 低危険度物品収容ロッカーにて安置。
追記: 3-01居住者の失踪に関連する不可解な点を調査した結果、発見されました。現在までに居住者は発見されておらず、財団による捜索が続けられています。

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