We are continued…
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ぷちん、という音がして右足が前に行かなくなった。片方の支えを失った身体は、今の今まで前に驀進していた勢いのまま倒れ込み、ゴールテープだけを捉えていた視界は前転して空を仰ぐ。

観客席、主に自分の部のメンバーが座る辺りから上がった悲鳴と響めきは、すぐにゴールテープを一番に切った選手を讃える歓声と拍手で掻き消された。優勝した彼は、倒れ伏して起き上がれない俺を見向きもしない。正しい判断だ。優勝したのが俺だって、きっとそうしていただろう。

激しい痛みを訴える右足を庇いつつ、起き上がりながら再び空を見上げる。彼の勝ち取った栄光に相応しい、圧倒的な快晴。


インターハイ男子100m決勝。


俺の青春とアスリート人生は、今日を以って終わりを告げた。



小学校低学年の頃、運動会のリレーでアンカーを務めて見事1着になった時から、俺は走ることが楽しくてしょうがなかった。陸上部の強い中学に入学して、そこでも大活躍の3年間を過ごした俺は、そのまま高校も推薦合格。入部した陸上部でも、すぐに大会レギュラーメンバーの座を勝ち取った。大学に入ったらプロになるんだと、その時は本気で信じていた。

医者からの再三の警告を受けた上で、出場を決めたのは自分自身だった。半年前の練習中に痛めた靭帯で、決勝まで走り抜ける可能性は五分五分。もし無理な走りでランナー膝が悪化してしまえば、その後まともに走ることは出来なくなるだろうと念押しをされて、それでもここで最後まで走ることが出来たなら、たとえ一生歩くことが出来なくなったとしても本望だと。俺の人生は満ち足りたものになると、そう信じていた。



すぐに病院へ向かわせようとする顧問を振り切って、俺は少し離れた客席から表彰台を見ている。気を遣ってくれたのか、他の部員たちは近寄って来なかった。表彰台のてっぺんに登り、金メダルを首にかけてもらっている優勝者の姿が、遠くからでも見えてしまう。彼の笑顔は、本当なら俺が浮かべている筈だった満面の笑みは、眩しすぎて直視出来なかった。彼の笑い声がこちらまで届いてきて、思わず耳を塞ぐ。項垂れて目を落とすと、決勝の舞台まで保ってくれた、そして最後の最後に限界を迎えてしまった右足が映る。膝の上で固く握った拳から、血が滲んだ。


「……くそっ、くそっ。何で、出場なんか……」


本望?どうしてそう思ったんだ?ここから自分を待っているであろう、金と時間が消し飛ぶだけの辛いリハビリ生活を想像して歯軋りする。優勝すら出来なかった実力の癖に、何で替えの効かない自分の人生を担保に入れてしまえたんだろう。俺には走ること以外何も能がない。その走りだって今日この場で奪い去られてしまった。後に残ったのは、ケガ以外何も遺せずにただ周囲から憐れみを受けて生きていく、空っぽな自分だけじゃないか。悔しくて悔しくて、自分への怒りと不甲斐無さで涙すら出て来ない。身体を抱え込むようにして蹲る俺の耳に、絶え間無く笑い声が響いて来る。



あっはっはっはっは。わあっはっはっはっは。



ふと、いつの間にか笑い声が客席からも、自分の座るすぐ近くで起こっていることに気付いた。……何だ?何がそんなにおかしい?ハッとして顔を上げる。一瞬、目の前に広がっていた光景が理解出来ずに、ぽかんとした。

自分以外の、競技場にいる全ての人間が笑い声を上げ、諸手を挙げて歌っている。彼らの顔はみな、明らかに人間の顔ではなくなっていた。目や鼻や口、人なら当たり前に持っている筈のパーツがなく、代わりに子どもがマジックペンで落書きしたみたいな、ニコちゃんマークが描かれている。のっぺらぼうの皮膚をぶるぶると震わせて、自分の聞いたことのない言語で、一つの調和がとれた歌声を奏でていた。



あはははははは。あはははははははははははははははは。



……何だこれ?呆然として手を離した耳へ、歌声が直に流れ込む。瞬間、俺の胸は煽れんばかりの幸福感で満たされた。理由は分からないままに、生きていることへの喜びと、この先待ち受ける輝かしい未来への希望でかつて経験したことのない高揚感を味わう。興奮が止まらない。口角が吊り上がる。やっばい何だこれ、楽しい。面白い。僕らの人生は希望に溢れているんだ。ワクワクする。みんなと一緒に歌えばきっともっと楽しいよ。居ても立っても居られず椅子から立ち上がって    

ズキン、とした右足の痛みが、俺を現実に引き戻した。目の前に広がっているのは、異様な光景。それをはっきりと認識して、俺の感情は今度こそ「おぞましい」という正常な判断を下す。数名の化け物が、座りっぱなしの俺に気付いて歩み寄って来た。まずい、ここから逃げないと。俺は無理矢理立ち上がって、右足を引き摺るようにして走り出す。一歩を踏み出す度に、この世の地獄みたいな痛みが脳に伝わる。だがその激痛は同時に、脳味噌に襲い掛かる幸福感を懸命に抑えつけてくれていた。いやにゆったりとした化け物達の歩みを掻い潜り、俺は笑い声がこだまする競技場から、なんとか抜け出した。



あははは、あっはははは。わはははははは。





『誰かいませんか?』


もう何度目かも分からない、同じ内容の問い掛けをTwitterのタイムラインに投げ込む。どれだけ待っても、リプライが飛んで来ることはない。それどころかトレンドもトピックも、他のSNSを除いても、表示されるのは全て2時間前のものしかない。直近まで生き残っていた幾つかのアカウントも、「なにあれ?」「わらってる」「たのしい」といった簡素なツイートを最後に、消息はぷっつりと途切れていた。日本中、いや世界中で、あらゆる情報の更新が完全にストップしてしまっていることの異常さを改めて認識し、背筋に悪寒が走った。



あれから見た事のある道を必死に走り、競技場からかなり離れていた筈の学校まで辿り着いたのは日も傾いてきた16時。一息つく間も無く校舎から例の歌声が響いていることに気付いて、咄嗟に使われていない倉庫をこじ開けて閉じ籠った。今はノイズキャンセリング付きのイヤホンで矢鱈陽気なロックをガンガン流しながらスマホを眺めている。……気分が晴れる兆しは全く無いけれど。

そっと、倉庫にある唯一の窓から外を覗き見る。少し前に見えた景色と同じ  いや、化け物達がより増加したという点で、以前にも増して最悪な景色がそこには広がっていた。30分ほど前に、1人の女子が逃げ出そうとしたのか多目的トイレから飛び出して来て、そのまま奴らと同じニコちゃんマークを顔に貼り付け、歌う連中に加わっていくのを見た。今ではどれがその娘だったのか見分けすらつかない。奴らの笑顔と歌声は人に感染って増殖していく……まるでゾンビみたいに。外に出られない状況は、時を経るごとに悪化していく一方だった。


「世界の終わり、なのかな」


誰に言うでもなくボソっと口にしてみた言葉は、いざ形にしてみるとはっきりと現実味を帯び始めた。世界が、終わる。突拍子もないようで、でも考えてみたら政治や環境、様々な問題は至る所で起こっていた訳だし、今日が偶々限界を迎える日だったとしても、何もおかしくない気がして来た。まさか、こんな不可解な終わり方だとは想像もしていなかったけれど。

どうしよう、もし今日が世界の終わりなら、せめて何かやり残したことを思う存分やっておくべきなんじゃないか。何か……、……何かって何だろう。家族や大切な人と会話するとかなら、今しがた連絡先に登録している番号には粗方かけてしまったばかりだった。いずれも不通。行っておきたい場所を考えようとして、まず自分が倉庫に閉じこもっていることを思い出す。遊びや食事も、ここから出られない限りは出来ないことだらけだし、そもそも最後にやっておきたいかと聞かれればそうでもない。強がりではなく欲望と呼べる欲望が、どれだけ探しても俺の中には見当たらなかった。強いて言うなら一つだけ。本当はいの一番に思い浮かんで、すぐに自分で否定した感情。

走りたい。あと一度だけでいいから、もしも今日世界が終わるならあと一度だけ、全身全霊を以って走ってみたい。あの真正面から風にぶつかっていく感覚を、最後に味わってみたい。……ついさっきまで、インターハイに人生をかけたことを後悔していた筈なのに、自分に残されたのは結局この「走りたい」という気持ちだけだった。いや、考えてみれば当然のことなのだ。生まれてこの方走ることしかしてこなかった人間が、それ以外に楽しみを見出すことなんて出来っこない。

だから、余計に苦しい。こうして倉庫で座り込んでいる今も、右足は酷く痛み続けている。走りたいと思う気持ちをはっきりと意識するほどに、痛みもまたその存在を強く主張してくる。どれだけ強く願っても、俺は二度とまともには走れないという事実が、身体に重くのしかかってくるのみだった。


「もう、忘れろよ……!」


苛立たしげに呟き、右足から目を遠ざける。こんな時に何だ、走りたいって。その欲求に身を任せたせいで、今日人生がめちゃくちゃになったばかりじゃないか、くだらない。インターハイ優勝?プロのランナー?いつまで叶わない夢に縋り付いてるつもりだったんだ。


「どうせ……どうせダメだったんだ。これで良かったんだよ、諦められて……!」


何度も、何度も。自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。何か「走り」以外に意識を分散させようと、再びスマホに目を向けてTwitterを開いた。


「……え?」


身体が固まった。さっきまでうんともすんとも言わなかった通知欄に、「新規メッセージ」の表示が出ている。


『もしかして、ご無事ですか?』


『突然の連絡、失礼します。良ければ今の状況についてお話伺えませんか?』


それも、2件。





『……つまり、須永さんは病院のトイレで、津島さんは外を確認してからそのまますぐご自宅に戻って籠城してるんですね』


『はい、その通りです』


『ニートやってたのが幸いしました』


俺の確認に、2人からすぐに返信が来た。会話が出来ている。当たり前のことなのに、まるで数百年ぶりに交わしているような懐かしさを覚えた。

Twitterを経由して連絡をくれた2人は、本名須永啓子さんと津島俊治さん。今はオンタイムでやり取りをしやすいということで、グループLINEを作って会話をしている。それぞれの居場所は相当離れていたものの、自分以外にも生き残っている人間がいたことに改めて安堵の念が込み上げてくる。


『一体何なのかしらね、あの化け物たちは』


『笑顔が人から人に伝染していってる……趣味の悪いバイオのオマージュ、みたいですよね。』


『何はともあれ、Twitterっていう限定的なコミュニティでもこうして佐々木さん須永さんとお2人に出会えたってことは、世界中探せばまだ生き残りは見つかりそうですよね』


『私もそう思います。このままトイレの中で孤独死を迎えるのを覚悟していたので、発信をしてくれていた佐々木くんには、感謝してもしきれないわ』


2人から自分の名前が出て、俺も慌ててメッセージを打ち込む。


『いや俺なんて……それにしても、どうして俺たちはあの化け物にならずに済んでるんでしょうか』


『確かに……看護師さんも患者さんもみんな、あの気持ち悪い笑顔に取り憑かれていったのに、私たちだけ無事なのは不思議だわ』


『……それに関して、少し気になってたことがあるんですが』


俺と須永さんの疑問に対して、津島さんが意味ありげな言葉を返して来た。


『自分の周りが化け物で溢れ返った時、お2人は一瞬だけ物凄く幸せな気持ちになりませんでしたか?』


目を見開いた。そうだ、化け物の歌を聞いた時の、あの意味が分からない幸福感。


『あります、ほんの少しの間だけでしたが』


『私も……息子の笑顔を見た時、何だか笑い出したい気分に。でもすぐに収まったというか、落ち着いたというか』


『僕もそうでした。彼らの笑顔と歌声に触れた瞬間、説明のつかない満たされた気持ちになって、今すぐにでも歌って踊り出したくなって。……でもその後、「今はそんな楽しい気持ちになれない、なりたくない」って思い出したんです。それでその場から逃げ出す判断をとれました。多分お2人も、そうじゃなかったです?』


津島さんの指摘は、少なくとも俺には当てはまってる。あの時周囲に合わせて立ち上がろうとして、右足に走った痛みが俺を現実に引き戻してくれた。


『だから、きっとこういうことだと思うんです。あの連中は笑顔と歌声で人間を楽しい気分にさせて仲間を増やしていく。でも僕みたく、絶望のどん底にいたみたいな、「楽しい気持ちになれない人間には、そのどちらも効果を示さないんですよ。まあ、話を聞くに僕ら3人ともすぐに化け物たちから逃げ出せているんで、長時間笑顔を見続けたり歌を聞き続けたりしたらわからないですけど。……お2人がどんな生活を送っていたかは存じ上げないんで、もしかしたら失礼に当たると思って黙ってたんですが、僕らが化け物にならずに済んでるのはつまり、僕らがもう這い上がれないぐらい憂鬱な気分でいたから、じゃないですかね』


少し不安げな文末と共に、島津さんは問い掛けて来た。俺は、少し震えた指先で文字を打ち込む。


『高校の陸上部で、エースをしていたんです。今日はインターハイの決勝で……』


止せばいい、別に打ち明けたって恥をかくだけなのに。そう思いながらも、俺は人生が破滅を迎えた今日の出来事を詳らかに文字にして送信してしまった。人に誇って語れるようなことじゃないけれど、知り合いらしい知り合いがいなくなってしまった今、せめてこの2人に、俺の身の上を聞いて欲しかったんだと思う。

俺の長ったらしい告白が終わるのを遮ることなく待ってくれた後に、今度は須永さんが話し始めた。


『私ね、今日で丁度20歳になった息子がいるんです。6才の誕生日を迎えた日に交通事故に遭って、それからずっと寝たきりになって。毎日病院に通ってたんですけど、目を開くことはなくって。気付けば事故からもう14年も経ってました。別れた主人が見舞いにも来なくなってからは入院費を払うのにもいっぱいいっぱいになって、最近は疲れてきまして。「今日目が覚めなかったら首をくくろう」、そう思って病院に向かったら、病室で息子はベッドの上に立ち上がって、笑顔を浮かべていました。6歳の時のままの懐かしい声色で、お歌を歌ってて。下半身付随や精神疾患のある患者さん達も、みんな……』


文字を目で追いながら、その内容に俺は驚く。寝たきりになっていた人が快復した。同時に競技場で化け物の歌を聞いた時、足の痛みが少し薄らいでいたのを思い出す。……じゃあ俺の右足も?


『僕は、小説の賞の選考結果が届くのを待っていました。小説家になりたいと高校生の時に思ってから、どれだけ書いてもウケることはなくって。……昨日顔を見せに来た母親に叱られちゃって。それで今度参加した賞、作品を出すのはもう何度目か分からない賞だったんですけど、これで駄目だったらバイト先の店長に正社員として雇って貰おうと覚悟を決めてたんですが、いつまで経っても結果の通知が来なくて。何かおかしいと外を見に行ったら、って感じです。……すいません、僕だけ明らかにしょうもない事情ですよね』


嘘を吐いてるんじゃないか、と津島さんの話を読みながらなんとなく思った。根拠はないけれど、俺や須永さんの状況を鑑みても、津島さんもきっと死にたくなるほど辛い経験をしていたのは確かだから。きっと、雰囲気が重くなり過ぎないように気を遣ってくれている。卑怯だなんてちっとも思わなかった。


『津島さんの言う通りね。私たちみんな、幸せが認められなかったみたい』


『幸せ、ですか。僕らの周りで化け物になっていった人達は、幸せだったんでしょうか。……多分そうなんでしょうね。束の間でしたけどあんな気分、今まで味わったことなかった。外の景色も一見異常ですけど、それも人間のままの視点で見るからであって、みんな同じ化け物になるならきっとこれが正常なんでしょう』


『病気も治って、元気になって。……文句のつけようもない、これ以上ないくらい完璧なハッピーエンドなんでしょうね』


『ちょっと都合良過ぎますけどね。ラノベのプロットだとしても、きっと編集に原稿を破り捨てられます。』


『……取り残されちゃったんですかね、私たち。「お前達は幸せになる資格なんかない」って、神様が言ってるのかも』


『そうかも、しれませんね。これが世界の筋書きなら、残された僕らにとやかく言う筋合いなんて、まるでないんでしょう。……どの道遅かれ早かれ、今日には何もかも終わりにするつもりだったんだから』


『そうね……。寧ろ、良かったんじゃないかしら。かずくんのことも、あの人のことも、全部これで、きっぱり諦められて』


須永さんと津島さんが、諦観気味に言葉を紡いで行く。それはまるで、自分達にどうにもならないことを目の前にして、最後に気持ちを整理していっているようで。化け物達の笑顔と歌声を、奴らの「幸せ」を、受け入れようとしているように見えた。



……いいのか、これで本当に?



あの時味わった、幸福感を思い返す。靭帯がぷちんと切れて、これまでの人生を棒に振ったことの悔しさや怒り、やり場の無い虚しさ。それら全部が、上から幸せで塗りつぶされる感覚。


さっきまでの自分の言葉が反芻される。



   もう、忘れろよ……!



俺は、俺の、人生は。



   どうせ……どうせダメだったんだ。これで良かったんだよ、諦められて……!



俺の、幸せは。



「『……だめだ!』」



声にすると共に、俺は反射的に文字を打ち込んでいた。


『俺は嫌です、こんな終わり方!俺の人生、馬鹿で後先考えないで後悔して、今は辛い想いしかしてないけど、それでも俺が選んだ生き方なんだから。こんな、理由も説明もないまま無理矢理ハッピーエンドを押し付けられたって、絶対に認められません!これは、俺の幸せじゃない!』


感情のままに指を走らせて、息を吐いた後で我に帰った。なんだこの恥ずかしい文章。中二病にも程があるだろ。すぐに送信取り消しをしようとして、送られてきたメッセージに指が止まる。


『……私も、私だって。こんな終わり方いや!』


須永さんの叫びが、画面を越えて伝わって来た気がした。


『かずくんの声も顔も、あんな化け物のものじゃない。20歳になったかずくんに、私はまだ会えてないんです。あの子があの子のままでいられないなら、そんな幸せ、私は絶対にいりません!』


『……ふざけんなよ。なんとか、自分の気持ちに踏ん切り付けようとしてたってのに。あんたらにそんなこと言われたら、俺だって諦められなくなるじゃねえか、畜生!』


須永さんに続いて絶叫した津島さんが、本当の身の上をメッセージに書き殴る。家の実権を握る叔父に暴姦された幼少期。本を燃やされ紙を破り捨てられ、それでも書くことを止められなかった小説。高校の国語教師に、初めて自分の作品を褒められたこと。激昂した叔父を反動的に締め殺し、過剰防衛として実刑判決が出された20代。出所した時には唯一の味方であった祖母が他界し、遺されたのは叔父の莫大な借金と汚れた経歴だけ。それでも創作意欲だけは止まらなくて……。


『自分で振り返ってみても、楽しかったことなんかこれっぽっちもねえ、ほんとクソみてえな人生だよ!今日だって賞の選考が駄目だったら飛び降りて死んでやろうって思ってた。だからってアイツらに好き勝手楽しい思い出にされてたまるか!最後にみんな仲良くお手手繋いでハッピーエンドですってか?くだらねえ、そんなガキみてえなシナリオ、こっちから願い下げだクソッタレ!』


これまでの物言いが嘘みたいに俗な内容の文章が止んだ後、少しして『ごめんなさい』というメッセージが追記された。思わず吹き出してしまう。


『なんだ……お2人とも同じ気持ちだったんですね』


『ええ、ありがとう佐々木くん。……やっぱり私も最後まで、人間として生きていたい』


『……僕もです。どうせ終わるなら何とかして、あの化け物どもの笑顔に一泡吹かせてやりたい。考えましょう、この最悪な終わりを覆す方法を』


最悪な終わりを、覆す。津島さんの言葉を頭の中で繰り返す。外にいる大量の笑顔の化け物を、どうにかして消し去る。そんなこと俺たちに出来るんだろうか。何かここにあるもので武器を作って、玉砕覚悟で化け物と戦ってみる?あの明らかに人間離れした連中に、殴る蹴るが通用するのか?そもそもとして奴らの歌声に、自分がどこまで耐えられるのかもわかっていない。違う、そんな物理的な方法じゃなくて、もっと根本的な……。



   文句のつけようもない、これ以上ないくらい完璧なハッピーエンドなんでしょうね



ふと蘇った、先程の須永さんの言葉にハッとする。


文句のつけようもない、これ以上ないくらい完璧なハッピーエンド。


今起こってることがそうなのだとしたら、それを覆す方法は。


頭の中で学校の図面を展開する。確か放送室は、3階の南棟。今俺のいる倉庫は北棟なので、皮肉にも最も遠い位置にある。スマホを床に置いて、両手で髪をがしがしと掻きむしった。

はっきり言って、馬鹿げてる。こんなのただの幼稚な思い付きで、そこに何のエビデンスもない。やってみたって成功する保証なんか、万に一つもないだろう。

それでも。

辺りを見渡す。水も食料もない、埃だらけの薄暗い倉庫。どうせここでくたばるのなら、試してみたっていいんじゃないか?


『……津島さん』


俺は覚悟を決めて、メッセージを送信する。


『ちょっと、書いて欲しいものがあるんです』





スマホに送られてきた文章を拾ったコピー用紙に書き写しながら、軽く全身をほぐしていく。右足の激痛が、今はどこか喜ばしい。

……大丈夫。あらましは頭に入れた。あとは放送室に辿り着いて、メモを見ながらトチらずに一言一句朗読すればいい。マイクの使い方は、部活の広報で何度か使ったので覚えているはず。


『……本当に行くんですか?』


不安そうに須永さんが尋ねてくる。もうすぐスマホのバッテリーが切れる。恐らくこれが、2人との最後の遣り取りだ。


『はい。津島さんが考えてくれた筋書き、無駄にしたくないんで。上手くいってもいかなくても、アイツらに堂々と発表して見せます』


『……そんなこと、冗談でも言うな』


津島さんがすぐに返す。


『俺の書いた文章なんかどうでもいい。あの化け物どもにタダで聞かせてやれる程度の拙文だからな。でも、お前は違うだろ?必ず生きて帰って来い。俺たちの住所、覚えてるよな?絶対に会いに来いよ。泥水啜っても生き延びて、待ってるからな』


『……はい、必ず』


その返信を打ち込んだのを最後に、画面はプツンと真っ暗になった。


「…………行くか」


倉庫のドアを、音を立てないように開ける。両手を地につき、左足を後側に伸ばして、右足を無理矢理曲げて臍の下で立てた。心臓がひしゃげるような激痛が全身に訴えかけられる。


「On your marks…………Set.」


口の中でそっと呟き、腰を上げて静止。

ピストルの音が、脳内で炸裂した。





格好つけたスタートから、右足を必死に引き摺って走りとも呼べない走り方で校舎に駆け込み、2階への階段を一段一段よたよたと登る。

夥しい量のニコちゃんマーク達はすぐさま俺に気付いて、不気味な程に統一された笑い声と歌声を上げながら一斉に駆け寄って来た。



わはははははははは。はははははははははは。



四方から浴びせられた奴らの声に、俺は全身が打ち震えるほどの喜びで笑い出しそうになるのを必死に堪えた。凄まじい感激だ。こんな快楽、オナニーでも到底得られないだろう。その幸福感が湧き上がる度に、右足の痛みをしっかりと確めることで、俺は意識を取り戻した。2階に上がって、北棟から南棟への連絡通路までの廊下を、わざと遠回りして向かう。角を2、3度曲がり、一度1階へと降りて直進した後、一気に3階へと登り切った。

よし、やっぱり連中の足取りはノロい。ものの数秒で、後ろに迫っていた大量の化け物達は振り切ることが出来た。校舎にいる奴らの数も思っていたより少ない、これなら……!


みしっ。めりめりっ。


連絡通路へと差し掛かろうとしたその時、横の壁から石がひび割れる、嫌な音がした。


「嘘だろ」


そう呟いたのとほぼ同時に、大きな破砕音と共に化け物達が雪崩れ込んで来た。瓦礫を避けようとして、思わず転倒してしまう。



あはははははは、ははははは。わあっははははははははは。



俺を見失ったのだとばかり思っていた化け物達は、俺がいる場所を真っ直ぐに目掛けて、化け物同士を足場にして校舎をよじのぼり、鉄筋コンクリートの壁を突き破って追いかけて来ていたんだ。こいつらテレパシーでも持ってるのか?


「くそが!」


体勢を立て直して、両手と左足の3本で地面を這うようにして進む。右足を引き摺るより、こっちの方が速い!


あなたは何故、私たちのしあわせを望まないのですか?


笑い声と歌声に混じって、何か言っているのが聞こえる。人間の俺には聞き取れない、意味の分からない言語が耳に届くごとに、右足に走る痛みが遠去かっていき、人生への希望で涙が溢れそうになった。自然と口が笑みの形へと引っ張られていることに気付いて、舌を噛んで頭を打ち付け、メモを握り締めた拳で右足を殴打する。


あなたは何故、私たちのしあわせを望まないのですか?


あなたは何故、私たちのしあわせを望まないのですか?


あなたは何故、私たちのしあわせを望まないのですか?


「黙れよ!」


叫びながら連絡通路を渡りきり、突き当たりの角を曲がったところで、廊下の最奥に放送室のパネルが見えた。後はただ真っ直ぐ行けば……!


あなたは何故、私たちのしあわせを望まないのですか?


左足を、がっちりと掴まれた。力が強くて、振り解けない。

後ろを見遣る。一律のニコちゃんマークを貼り付けたその化け物は、見覚えのあるゼッケンを纏っていた。


あなたは何故、私たちのしあわせを望まないのですか?


首から下げられた、金色のメダル。それはあの競技場で、優勝した彼が受け取った……


「……ふざけんなあっ!」


右足で、彼の手を思いっきり踏み付けた。力が緩まった隙に左足を振り抜き、もつれそうになる両足を必死に整えて、全力で突っ走る。痛みは気にならない。明確に知覚している上で、無視している。


「ああああああああああっ!」


追い縋る化け物達がまるで追い付けないスピードで、放送室へと突進した。

扉を開いてマイクを掴み取り、校舎中の、そして後ろから駆け込んで来る化け物達に響き渡るような大声で、メモの大見出しを俺は叫んだ。




「『≪特報待望の続編遂に製作決定!』」






思い返してみても、何の脈絡も論拠もない、突拍子なアイデアだったと思う。



   文句のつけようもない、これ以上ないくらい完璧なハッピーエンドなんでしょうね



あの時妙に頭に残った、須永さんの言葉。

もし今起こってることが大団円の一幕なのだとしたら、それを覆すにはどうすれば良いか。

文句のつけようもない、これ以上ないくらい完璧なハッピーエンドをぶち壊す、唯一の方法。


単純なことだ。「これ以上の物語を付け足して、「完璧なハッピーエンドの調和を崩してしまえばいい


話を聞いた津島さんは、ものの数分で一本のプロットを書き上げた。完全無欠の物語の一端を解いて、余分な要素をゴテゴテと付け足し、強引に起承転結を組み直した最悪の「続編」。

懸命に倒した敵が平然と復活する。前作で獲得した強大な守護は通用せず、築き上げた絆など無かったかのように歪み合う仲間たち。絶体絶命のピンチを前に、かつて自らの命を犠牲に味方を救った恩人が、何とも都合の良い生還を果たす。そうした恣意的な場の流れに任せて、存在感と主体性が何とも希薄な主人公。

以前の企画、脚本、構成を担当していた人物の手から離れ、読みの浅い人物によって新しく書き上げられた、誰がどう見ても絶対に不必要なストーリーが世に出る。

その「最悪のお知らせ」が発表された時、かつて完全無欠なストーリーに積み上げられた信頼と実績は、果たしてどうなってしまうのか。

話題作の映画を年に1、2本しか観ないような俺であっても、その結末は容易に想像出来た。



校舎を出て、運動場に立って辺りを見渡す。

一面が、倒れ伏した人々でいっぱいになっていた。彼らの顔は、丸められた紙屑のように「グシャグシャ」になっているのが見える。

一度化け物になってしまった人達は、どうやらもう取り返しがつかないらしい。


「須永さんの、息子さんは……」


考えかけて、首を振った。今気にすべきことは、そこじゃない。

耳を澄ませば、校舎外からは依然として笑い声と歌声が聞こえて来た。須永さんと津島さんの居る場所まで行くまでに、あと何度同じことを繰り返せばいいのか。二度同じ手が通用するかもわからない。問題は山積みだ。


それでも。


「かかってこいよ、ハッピーエンド」


諦めることの幸せも、世界の終わりも、今の俺には必要ない。

誰かに勝手に終わらせられてたまるか。俺の物語は、まだ始まったばかりなんだから。



相変わらずな右足の痛みに顔をしかめて、俺はゆっくりと走り出した。

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