キミが帰ってくる、その日まで。
rating: +30+x
blank.png

2020年██月██日 - AM12:02
サイト-8148 - エージェント・斑座の職員寮

 ――あ、は-い! 今朝ご連絡頂いていた、えーと、福路さんですね。
 ああ、少し待っていてください。そのままじゃ扉の位置高いですよね。すぐに玄関を開けますので!



 ――はい、どうも。初めまして……ようこそいらっしゃいましたね、福路さん。
 外は雨すごかったでしょう。……ええ、はい。どうぞ上がってください。あまり寮に人は上げないもので……散らかっていたらすみません。
 ええっと……あっ、すみませんね。気が利かないもので。今何か温かいものを淹れますので、どうぞお掛けください。

 ――こちらをどうぞ。ミルクティーくらいしかお出しできませんが。
 あっ、苦かったらすみません! とはいえ、お砂糖はなるべく多めに入れたので、多分大丈夫だと思いますが。

 え? いえ! 全然いいんですよ。お気遣い感謝します。
 まあ今日は非番ですしそんなに忙しい訳でもなかったので……それに、色々私も落ち込んでいまして。ちょうど誰かともお話したいと思っていたところでしたしね。



 ――ええ、そうですね。その話は伺っています。再収容、されたんですってね、彼、いえ……橋ヶ谷さん。私もその話を聞いたのはつい3日前になります。
 そのお話を初めて耳にしたときはショックでした。橋ヶ谷さんと最後に直接お話ししたのはもう1ヶ月位前になりますが……はい、長期任務の際にお手伝いをしていただいていたのが一段落した頃ですね。
 それまでは頻繁に話す仲でした。非番の時も、よく寮に招き入れてましたし、たまにゲームをやって楽しんだりもしていましたから。

    • _


     

     

     


    2019年8月19日 - AM10:35
    サイト-8148 - 未発見アノマリー調査室, 部長デスク横

    「えっ、私がですか?!」
    「ああ。SCP-[編集済]-JPの追跡には彼の力が必要だからね。彼としばらく行動を共にしてもらいたい」
    「ほ、ほほほ本当に良いんですか?!」

     部長のいるデスクの前で、手を突いて乗り出したまま、私は目を丸くして驚いていた。
     私はその時、かなり興奮気味だったことは自覚している。
     しかしある意味、これは私にとって当然の反応でもあったかもしれない。

    「むしろ、彼……橋ヶ谷とわかり合えそうなのは君くらいだと思うしね。1年間こっちにいるだけだが、良きパートナーとして、そして先輩職員として今後の追跡任務に挑んで欲しい」
    「え、ええ。それは構いませんし、というかむしろ光栄です。本当に。ありがとうございます」

     部長との会話をしばらく済ませた私は、一息深呼吸をして、スッと彼の顔を見やる。
     橋ヶ谷勇人――――彼のような異常性を持った者が財団にいること自体は話には聞いていた。サイト-81██から臨時の転属でやってきた、犬の姿をした職員。いわゆる獣人だった。部長から"彼"と呼ばれたその獣人の青年は、私のすぐ隣に立っていた。
     財団職員に異常性持ちの者がいること自体は何ら珍しいことではない――さらに言えば私もその一人だ――ではあるが、私にとってはそれ以上に、彼……橋ヶ谷さんと共に任務に挑めるという事実が嬉しかったのかも知れない。
     彼は少し俯いたまま、深々と被ったフードをさらに深く被り直している。緊張しているのだろうか、何か言いたげだが、口をつぐんだままでいるようだ。

    「えっと、はい。初めまして、橋ヶ谷研究員。私はフィールドエージェントの斑座真利奈。よろしくお願いしますね」
    「その、よろしくお願いします。橋ヶ谷勇人です」

     彼が緊張していることは、会話をすればひしひしと伝わってくる。いけないな、こうしてると私まで緊張で固くなってきてしまう。
     恐る恐る差し出した手で握手を求めると、橋ヶ谷さんは少し驚いたような顔をしつつ、ゆっくりと握手を返してくれた。
     よく見れば彼の腰から生えている柔らかそうな尻尾が揺れている。案外私と組めて嬉しいのだろうか?

    「では、よろしく頼むよ。斑座、橋ヶ谷」

     部長は最後にそう締めくくると、別件での用事を思い出したのだろう。携帯電話を手に足早にオフィスを出て行った。




    2019年8月19日 - AM11:04
    サイト-8148 - 第3駐車場, 斑座が所有する自動車内

    「じゃあ、探索ポイントまで行くから、私が端末に送った場所と情報にはちゃんと目を通しておいてくださいね」

     新人教育自体は何度もやってきた身ではあるし、これもその一環のこと。
     アナログ媒体は用いず職員専用の携帯端末に情報を送信するのも、下手に情報が外部に漏れないための対策でもある。

     橋ヶ谷さんは私の指示にこくりこくりと頷き、送った情報を眺めている。
     獣人ゆえの柔らかそうな毛の生えた手で、そこに備わる肉球で、器用に端末をいじる姿を横目に見ていた私は、少し物珍しさに気をとられていたようで。

    「あ、あの。斑座さん、どうかしましたか?」
    「え? あっ、いや……何でもないですよ! えーっと、情報は読めました?」
    「はい、一通り全部読みました。追跡手順については前の職場で聞いていたのとそれほど変わらないですね」
    「まあ、基本的には共通手順ですからね」

     しまった。あまりに気になりすぎて凝視していることにも気付かなかったようだ。いけないいけない。
     "獣人"という要素を兼ねた彼がいかに興味深いからと言って、先輩たる私が気を取り乱していては世話がない。
     落ち着け、斑座。ここはしっかりしなければ、財団職員としての威厳がないぞ。

    「……えっと、斑座さん?」
    「へっ、あっはい! ちょっとボーッとしてましたね。ごめんなさい」

     橋ヶ谷さんはそんな私を訝しげに首をかしげて見ていた。
     組んで早々にそのような目で見られたのは少し堪えたのだが。




    2019年8月19日 - AM17:52
    サイト-8148 - サイトエントランス

    「今日はお疲れ様。よく頑張りましたね」
    「えっと、はい。お疲れ様です、ありがとうございます。斑座さん」

     業務を終え、エントランスに到着した私たちは互いに気遣う言葉を投げかける。

    「まあ初日ですし、エージェント業務としてはそれほど慣れてないかもでしょうし、こんなものですよ。3ヶ月でやっとこさ見つけられれば、新人として万々歳って感じです」
    「そう、なんですかね」
    「そうですよ。それに橋ヶ谷さんがいなければ、ここまで調査は進展しなかったかもですしね。これならもっと早くに発見できるかもしれません」

     まあ、アノマリーの追跡といえど、見た目が大きく変容している彼は人気の多いところで車から降ろすわけにもいかなかったし、いくつかの計測機材の準備や読み取りなどをして貰うくらいしかできなかったが。
     それでも実際、得られたデータからSCP-[編集済]-JPの発見に繋がる手応えはあったといえばあったので、これも彼と組ませてくれた部長のお陰とも言えるかも知れない。

    「そ、そんな。僕はそんなたいしたことはしていませんよ……」
    「はいはい、そう自分を卑下はしないでくださいね。私が素直に褒めているんだから、素直にそれを受け入れるのも後輩職員の務めですよ」

     私が彼へ抱いている感謝の気持ちを素直に伝え、フード越しに頭を撫でてやると、橋ヶ谷さんはまた少し俯いてしまった。
     しかしそれは、初対面の時のような緊張からではなく、照れ隠しからの行動なのは、彼の尻尾を見れば明白だった。

     私はその様子が少し微笑ましく思えて、思わず笑みがこぼれる。
     「愛らしい」――それが今、私が純粋に感じている感情だった。


     

     

     


 まあなんと言いますか。それに私は橋ヶ谷さんや、それにあなたのような職員とは特に仲良くしていきたいな、と思っていたりもしてましたしね。だから、橋ヶ谷さんとの色々な毎日も、私にとって特に楽しい日々だったと言えます。
 ――あ、いや、その。特に他意はありません。あなたともメールでのやりとりこそしていましたが、こうやって顔を合わせるまで、橋ヶ谷さんと同じような特徴を持つ職員だとは思っていませんでしたので……。

 そして、福路さんは橋ヶ谷さんとは、やはり仲は良かったんでしょうか――――ああ、いえ。そういうつもりはなかったんですが。すみません、そ、その……泣かないでください。
 えっと、そうティッシュティッシュ……はい、その、ごめんなさい。福路さんがそこまで取り乱すほど、彼のことを考えている方だとは思いませんでしたから……。



 ――なるほど。そうだったんですか。
 いえ、そうですよね。橋ヶ谷さんは、私が思っている以上に、責任感の強い人だとは思っていましたから。

 ええ。もうかなり前になりますね。財団のとある部門で重大なハラスメント事案があったことについては、早い段階で聞いていました。
 アノマリー職員に対する風当たり。それは私も感じることは少なくはありませんが……あの事案は特にセンシティブな話だと思いましたし、今も思っています。
 「財団」という、世界の正常性を司るための最前線にいる組織でさえ、そのようなことが起きてしまう。……いえ、人間が主体となって運営している「財団」だからこそ、なのかも知れませんね。

 まぁともかく。今はもうその部門は無いみたいですが、橋ヶ谷さんが事件の中心にいたのを知ったのは、事案の概要を知ってからかなり後になってのことです。
 そうですね……福路さんの仰るとおり、あの事案が彼の心に深い傷を負わせた事件だったことは……ええ、聞くまでもない事でしたね。

    • _


     

     

     


    2019年11月30日 - PM20:39
    サイト-8148 - サイト併設飲食施設「居酒屋しちりん」

    「さあさあ橋ヶ谷くん! 今日は私の奢りだから、飲んで飲んで!」
    「あ、あの、良いんですか?」
    「いいのいいの。キミのお陰でSCP-[編集済]-JPの収容作業はこれまでより順調なんだから!」

     まさか、橋ヶ谷くんの立てた推論通りに現場を見回りするだけで、何体ものSCP-[編集済]-JPが確保できるとは思っていなかった私。
     1日に12体も確保できた時は、大人げないほどに思わず飛び上がってしまうくらいだった。

    「じゃあ私はビールにしようかな。あと焼き鳥とだし巻きも一緒に」
    「……えっと、じゃあ。すみません、僕はレモンサワーをください」

     最初は遠慮がちだった橋ヶ谷くんも、私が注文をとるのを見て後を追うように注文をとっている。
     私はその様子を眺めつつ、リラックスした体制のまま、彼の様子をじっと眺めていた。
     彼のふわついた綺麗な毛並みの尻尾が右へ左へ。メトロノームのような一定のリズムで振れているのが、やはりどこか愛らしい。

     最初の配属から3ヶ月と少し。そろそろ慣れてきた頃だろうか。
     最初こそ私まで緊張していたこの関係性だけど、いつの間にか私は橋ヶ谷くんとは口調を崩して話せる間柄になってきたなと思う。
     ……いや、そう思っているのは単に私だけかも知れないけれども。

    「その、斑座さん。どうかしましたか?」
    「ん、ああいや。なんでもないよ。ただ、前よりも私に心を開いてくれたかなあ、みたいに思ってさ」
    「そうですかね? まあ……そんなに話すことはあんまりないですけど」
    「でも休みが合えばゲームはよくやるじゃないの。FPS得意なんだねーって見ながら思ってるよ」
    「あはは、そんな……僕なんてまだまだですよ」
    「じゃあ、ゲームを色々遊ばせてくれたお礼に、今度は私が実銃の扱い方を教えてあげよう。射撃場で的撃ちも楽しいからさ」
    「そうなんですか? えーと、じゃあ、また今度お願いします。斑座さん」

     店員から届けられた酒を2人で嗜みながら弾む雑談。その時間はこれまでのなかでもとりわけゆったりと流れるものだった、と私は思う。
     しかしそれから半時間ほどが過ぎた頃。あれだけ弾んでいた駄弁りもある程度すれば底をつき、酔いが回ってきたこともあって、しばし沈黙が混じり始める。

    「……そういえば、さ。橋ヶ谷くん。キミはいわゆる、アノマリー職員として財団に雇用されていることについて、ズバリどう思ってる?」
    「えっ……それって」

    「アノマリー職員って、ほら。やっぱり財団でも結構意見が割れる立場にいるでしょう?」
    「……」



    そんなとき、私は何を思ったのだろう。
    彼に対して1つ、質問を投げかけてしまった。



    「『何であんな異常存在が収容されないんだ』とか、『他のオブジェクトに影響を与えたら危険だろう』とか」
    「……」



    私は単に、
    彼に、橋ヶ谷くんと同じ立場として共感してもらえそうな話題を振っただけ。
    ――そのつもりだった。



    「そういう見られ方って結構されるものじゃない? ……って、え?」
    「……っ」



    でも、それはいくら酔いが回ったって許されることのない……。
    身も蓋もない言い方をすれば、彼の「地雷」だった。

    そう、私は地雷を踏んでしまったんだ。



    「あれ? 橋ヶ谷くん? えっ、なんで泣いて……」
    「そ、その……すみません。ごめんなさい、僕……」
    「えっ、ええ……いや、そういうつもりで聞いたわけじゃ、ご、ごめんね! そんなに気にしてるとは思ってなかったから……」

     橋ヶ谷くんは、フードの陰りに隠れた瞳から、大粒の涙を溢していた。
     私は知らず知らずのうちに彼を傷つけてしまった。

     パニックに陥った橋ヶ谷くんの前で椅子を弾き飛ばして慌てふためく私。おそらく無関係な人間が見れば、相当歪な状況に見えなくもないだろう。
     これ以上は店に迷惑をかけるおそれもあると判断した私は、キャッシュで代金を支払い、彼を抱えて店を飛び出した。




    2020年12月1日 - AM00:12
    サイト-8148 - 橋ヶ谷研究員の臨時職員寮前

    「その、すみません。取り乱してしまって……」
    「いや、私こそごめんね。まさか、橋ヶ谷くんがあの件の当事者だとは思ってなかったものだから」

     彼がこのサイトに赴任してから過ごしている部屋の前で、私はその扉にもたれかかっていた。
     そんな橋ヶ谷くんはといえば、私のすぐ隣でしゃがみ込んで俯いたままで。

     私たち2人の間には、あまりにも気まずい空気が流れていた。彼からの話で事情を知った私は、自分がとんでもないことをしでかした事実に胸を締め付けられていた。
     あの件。私が直接関わったわけでは無いことではあるけど、風の噂で聞いた、サイト-81██の研究部門解散の話。
     その主な原因となった理由は、とあるアノマリー職員に対しての、部門全体での大規模なパワハラ・セクハラ事件だった。

     噂を耳にした私は事件概要を読んだことがある。資料の名前部分はその全てが黒塗りに検閲されていたため、誰が被害に遭っていたのかまでは分からなかったが……まさか、彼が、橋ヶ谷くんがその当事者だとは、私は想像もしていなかった。
     あの事件は多かれ少なかれ、財団のアノマリー職員の中でもとりわけ話題になることが多かった。アノマリー職員に対する風当たりは確かに日々感じている事ではあったし、だからこそあの件はセンシティブな話題だと理解はしていた。

     だからこそ、その話を事前に知っていれば、あんな無粋な話を切り出すこともなかったのに。
     ただただ沈黙の続く、鉛のように重い淀んだ空気の中で、私は顔をしかめて後悔し続けた。

     しかし、その言いようのない沈黙に終止符を打ち、後悔の念を無限ループさせる私の思考にストップを掛けたのは、ほかでもない橋ヶ谷くんのほうからだった。

    「……その、斑座さん」
    「えっと……なに、かな?」
    「斑座さんは、僕はやっぱり……収容されるべきだと、そう思いますか?」
    「……ええっと、それは」
    「僕は、やっぱりアノマリーだから。財団でのお仕事だって、ちゃんとできているかなんて分からないですし……迷惑、ですよね、僕。やっぱり収容されるべきですよね……」

    「……」

     彼はただ俯いたまま、床を眺めて私に問いかけてくる。私は無言のまま、彼の言葉を遮らないよう、彼と同じ床を見つめて聞いていた。
     一体、どう返すべきか。なんと返答すべきか。

     彼はあの事件で大きく心を抉られた青年で。だからこそ、慎重にならなければならない。
     ふざけた態度なんてもってのほか。もしさらに傷つけてしまえば、それこそ職務上にも問題さえ出かねない。それだけ心の問題とは複雑なものだっていうのは、私だって理解しているつもりだ。

    「……もし。キミが、橋ヶ谷くんが本当に仕事ができない人だとしたら、こんな会話にも、そもそも私とペアを組まれることもなかったと、私はそう思うよ」

     私は噤んでいた口を開いて、彼の言葉への答えを紡ぐ。
     私は決意を固めた。同じアノマリー職員だからこその答えを、彼に伝えるべきだと。そしてこれは一つの賭けでもあった。

    「私だって、橋ヶ谷くんの思ってる気持ちも分からなくはないんだ。私が財団本部にいた頃も、私自身はよく不当な扱いを受けることもあったし。日本支部に転属してからだって、そういうこともあってあまり写真には写らないようにしてきたしね。だから、アノマリー職員の持つ心境や苦しさは、全部ではないにしても理解はしてるつもり」
    「……そう、なんですか」
    「うん。だから、"職員として雇用"とは聞こえはよくても、結局自由は普通の職員より制限されがちだしね。そこはキミも同じだと思ってる。いくら仕事ができる人だったとしても……異常性を持ってるってだけで、酷いことをしてくる人は、財団の中にも少なくはないってこと」

     私は彼と同じ高さにまで目線を合わせて言う。

    「キミはよく頑張ってきたと思うよ。ここまで傷ついても、それでも折れなかったんだから。えらいえらい」

     私は橋ヶ谷くんの頭にそっと手を掛けて、フード越しにまた撫でる。彼はその言葉を受けてまたも心を揺さぶられたのか、手で顔を拭っていた。
     そして、彼はようやく私の目を見て、安心した様子で笑ってくれた。

     私はそれで確信した。
     彼は本当に、とても純粋で、素直で、真面目な人なんだと。

     同時に私は感じていた。
     こんな彼を、彼のような優しい人を傷つける奴が、財団職員として何人もいるということを。

     私はこの時、人生で一番怒りに燃えていたかもしれない。

     アノマリーとしての異常な要素を持っている。ただそれだけで、その異常性に人生を振り回されながらも懸命に生きて、職務に従事している人を、不当に扱い、傷つけてくるような奴が財団にいるという事実が、私は許せなかったんだ。


    「斑座さん?」


     彼が私の目を見て問いかける。
     どうやら私は彼に共感しすぎたらしい。いつしか頬に熱いものが伝っているのをこの時初めて感じた。

    「……ふっ。よし、じゃあ辛気くさいのはもうやめにしよう。ここで気分を変えてさ。写真、撮ろっか」
    「え、写真ですか?」
    「そそ。写真。ほらほらカメラを見て、はい、チーズ!」
    「えっ、ちょっと……あっ!」





    picture-000.jpg





     普通の人であれば謎めいた提案。けれど、私にとってはこれは特別な提案だった。
     その理由は、端末に記録された撮影画像を見れば、すぐに分かること。

    「……これって」
    「へへん。私の異常性、面白いでしょ」

     写真を目にした彼は、まるで合点のいったような表情を浮かべて笑っていたのは、今もよく覚えていることだった。


     

     

     


 ――はい。こちらが私が彼と撮った写真です。……え? 別に描いたイラストなんかじゃないですよ?
 私の異常性は写真に収められたときに起きるものなので。まあ最初に見た人がこれを写真だとはすぐに理解はできませんでしょうけども……。

 ええ、後にも先にも、彼との写真はこれ一枚だけです。橋ヶ谷さんは写真に撮られるのはあまり好きじゃなかったみたいですしね。



 ――え? あ、いえ。ははは、すみません。彼との写真を眺めていたら色々思い出しちゃって……少し考え事をしていました。
 いえ、些細なことですよ。本当に些細なことです。どうしようもないくらいに些細で、意味の無い考え事です。

 まあ、有り体に言えば。
 私が、あのの話を橋ヶ谷さんから聞いた時に、特に大きな後悔を一つしたな、と思っていただけです。

 あの事案について知った時、もっと早くに彼と関わっていれば、彼は傷つかずに済んだはずだろうに、と。
 まあ、もう遅いことなんですがね。

 ――いえ、すみません。少し険しい顔をしすぎましたね。怯えさせるつもりはありませんでした。
 ほ、ほら……またそんな涙目にならないでくださいよ。っていうか、私の顔ってそんなに怖かったですか……?

 はぁ……よくないな。彼のことを思うと、色々な感情が渦巻いてきて、どうしようもなくなります。
 結局どこまでいっても、財団は人間が主体となって運営している組織である以上、そこからはみ出る存在には冷たくなるものなんだなぁ、って。

 私も、橋ヶ谷さんも、そして……あなたも。そんな組織の中で生きてきたんですから、色々思うことはあるでしょう?



 ――え、私?
 私は……どうなんでしょうかね。でも、今の財団に思うことがないわけではないですよ。色々と。

 少なくとも……例の件を引き起こした職員達に対しては、目の前にいれば一発ぶん殴ってるかもしれません。
 まあいいです。降格や減給などの罰則は下ったそうですし。個人的には全く足りてない処罰だと思いますけどね。

    • _


     

     

     


    2020年3月3日 - PM16:29
    [編集済]県某所 - 喫茶店

    「久しぶりに会ったと思ったら、もう随分と変わったな。斑座」
    「まぁ、色々ありましたから」

     その日は丸一日非番だった。
     こんな時は橋ヶ谷くんとゲームをするのがいつもの予定にすらなっていたのだが、彼はひと月前に、どうも別件で用事ができたらしく、しばらくサイト-8129へ赴任していた。
     私は少し悶々とした思いも抱いてはいたが、財団の職務に文句を付けるつもりは毛頭なく。それに私もただでさえ多忙な部署に属する以上、ゆっくり休みを取れるうちに休んでおくほうが良いと思った。

     そういうこともあって、私は久しぶりにサイトの外をプライベートの立場で出歩いていると、懐かしい人に巡り会うこともあるもので。

     目の前でコーヒーを啜っている男性は、私の1年先輩の北村沢さん。日本支部に勤め始めた頃から色々よくしてくれていた人で、サイト違いになった今でもメールでやりとりする程度には、それなりに親交も深い人だった。
     まあまさか、財団サイト外で出会うとまでは想像してなかったけども。

    「北村沢さんはあれから順調ですか?」
    「ん? ああ、それがな」

     北村沢さんは、少し言いよどむように言葉を濁す。
     何か複雑な事情でもあったのだろうか? 私は首を少しかしげつつ、コーヒーに口を付ける。

    「その……お前とサイト違いになってから俺が所属していた部門なんだが、色々あって閉鎖されちまってな。今は別のエリアで仕事をしてるよ」
    「閉鎖?」
    「ああ。なんでも、同僚や他の連中がある職員にちょっかいを掛けてた、とかでな」

     その話に聞き覚えはあった。
     聞き覚えはあったし、既にこの時点で察していた。

     まさか、北村沢さんがあの件に関与している……?
     いやまさか。そのまさかじゃないよね?

     なぜなら、私がこの異常性を持ってたことを知っていて、慣れない財団での業務を教えてくれたのだから。
     そんな人が、あの件に関与しているはずなんてない。そう思った。

     そう思いたかった。

    「んで、それが倫理委員会からの摘発でバレてさ。そういう流れもあって部門ごと解散になっちまったんだ」
    「……その職員って、もしかして、私みたいな人ですか」

    「え? ……そうだな。言われてみればそうだ。橋ヶ谷っていう名前の、犬っぽい見た目の研究員なんだが、不憫な話だ。財団での異常を持った職員なんてそう珍しくはないのにな」


     ああ、やっぱり。


    「今はサイトを転々として仕事をしてるらしい。そういや今は斑座のとこにいるんだっけ?」


     やっぱり、そうだったんだ。


    「……あっ、いや待ってくれよ? 俺はその件には関与してないぞ!? 俺はその前に今のエリアに転属になったからさ」

    「……北村沢さん」
    「ん、どうした?」
    「あなたは、止めたんですか」

     私は彼に問い詰める。俯いたままだった私は、おそらくすごい顔をしていたのだろう。
     私は彼をにらみつけるだけで、彼はとても焦ったように表情を曇らせていた。

    「止めた、って……そりゃもちろん上には告発したさ。匿名だけど。彼以外にも同じように被害を受けてた職員もいたし」
    「そうじゃない。あなたは現場を目撃したとき、そいつらに一発お見舞いしたのかどうかを聞いてるんです!」

     私はいつの間にか、テーブルから身を乗り出して彼の胸ぐらを掴んでいた。
     店内が騒然とする。周囲の視線が一点に私たちのほうへ向けられていることは分かっていた。
     分かっていて、私は止められなかった。

    「お、おい斑座……落ち着けよ。店に迷惑だろ……」
    「どうなんですか、北村沢さん」
    「そう熱くなられてもよ……お、俺だって立場ってもんがあるし。お前が彼に共感する気持ちは分かる。お前も同じような何かしらを持っているからだろ」

     私は彼の言葉の端々に不快感をあらわにしていた。
     ああ、間違いない。彼は……北村沢は、分かっていて黙認していたんだ。

     こいつは嘘をついている。なぜなら。

    「北村沢さん。あなた言いましたよね」
    「……へっ、な、何を」
    「しらばっくれないでください。つい数分前の事ですよ? 『あの件が倫理委員会からの摘発でバレた』って、言いましたよね!?」

     私は鬼のような形相で、北村沢に食ってかかっていた。

    「『バレた』って何ですかっ、『バレた』って! 本当に彼のことを思っていたなら、そんな言葉は使わないでしょう?! どうせそんな態度なんですから告発したっていうのも嘘なんでしょう?!」

    「や、やめろって……」

    「あなたのような何の異常もないような職員には何一つ分からないでしょうね! 私たちのようなアノマリー職員の気持ちや立場なんて! 毎日毎日、出席する度に奇異な視線を向けられる辛さなんて! そこら辺で収容されるスキップと何ら変わらない奴らがなんで同じ席にいるんだって、そう思っているんでしょう?!」

    「斑座……それ以上言うな、そろそろマズいぞ……」

    「彼は、橋ヶ谷くんはあんたがいた部署でどんだけつらい思いをしていたか、ちょっとでも考えたことはありますか! どうせあなたはわからないでしょうけど、彼は未だにトラウマを引きずってるんですよ! それでも必死に財団に自分の居場所を見つけようと縋りながら生きてるんです……それなのにあなたは……」

    「本当にやめろ、斑座」

    「そうやってあんたは私を、私たちをまた押さえつけるつもりなのでしょう?! あの時のように、あの部署で彼に対してやってきたことのまねごとを、今ここで私に――


    「やめろ!」


     平手打ち。

     北村沢の手のひらが、私の頬を大きく弾いた。
     私はその痛みで、一気に冷静さが戻ってくる。

     ……え、私は、一体。何をして。

    「お前が彼を思う気持ちが強いことは分かった。だが落ち着け、ここはサイト外だ。人の目もあるし、そう易々と情報を表に出そうとするな」
    「……北村沢さん……」
    「忘れるな。俺もお前も財団職員だ」

     北村沢さんは、私が日本支部にやってきてすぐの、初めて私に叱責を入れた時と同じ表情をしていた。
     まっすぐで、真剣なまなざしだった。

    「いいか。こんなところで仕事の話をした俺も俺だが、いきなり暴れ出したお前はもっと悪いぞ。俺の同僚たちは丸々処分された。その事実があるだけだ」
    「……そんな。それじゃあ、彼はどうやって浮かばれろと……あなただって、彼を……」
    「俺だって最大限尽くしたつもりだ。だがな……俺には同僚たちの言い分も理解出来るんだよ」

     北村沢さんは私を席につけさせ、襟を正してゆっくりと話す。
     私はそんな彼に怒りを露わにする気力も出ず、力なく椅子に深く腰掛けた。

    「俺がお前を懇意にしていたのは事実だ。慣れない日本支部での業務がどんなものか、それを教えるのが先輩職員の務めだからな。だがそれとは別に、俺らは普通の職員である以上、異常のある職員に恐怖しないわけじゃないんだ」
    「恐怖……」
    「そうだ、恐怖だ。ただでさえ世界が簡単に終わりを迎えるかもしれない不安定な世で、それを回避するためなら、そんな脅威を封じ込めるためなら何だってやってる組織で……そんな異常な連中が安易に危険なアノマリーに触れたらどうなると思うよ? ましてやそんなヤバイ奴らが同じ権限を持って白衣着て歩いてんだ。怖がらないわけがないだろ」

     いつしか私の視界は歪んでいた。
     どう頑張ったって処理しきれない強い感情が、次から次へと瞳からこぼれ落ちる感覚がハッキリと伝わってくる。

    「確かに同じ環境のもと働いてる職員をパワハラで潰すなんてもってのほかだ。だがな……そうしたいと思いたくなる気持ちを、普通の職員らも持ってるってことを……斑座、お前には理解して欲しいんだよ」



    「すまない。お前もそういう立場の奴だもんな。俺も冷静じゃなかったみたいだ。あまりにも酷なことを言い過ぎたよ……」
    「……っ!」

     僅かな沈黙。
     周囲のガヤガヤと立てる人々の声が、少しずつその沈黙を消し去ってきた頃、私は俯いたまま、椅子を弾き飛ばして立ち上がった。

    「お、おい斑座!」

     私はどうしようもなくなっていた。
     この気持ちを制御できなくなった。
     誰かに対して、ここまでの感情を抱いたのは、人生で初めてかもしれない。

     私は持っていた鞄を無造作に握りしめ、いつしか店を飛び出していた。



     ――当然、次の日には財団の上層部から呼び出しを食らい、機密情報の漏洩の恐れを招いたとして厳重注意を受けたのは、言うまでもない。
     だが、この時の私にとって、そんなことはどうだって良かった。


     

     

     


 ――あはは。すみません。このお話は私の恥ずかしいエピソードですね。冷静さも欠いてましたし、まだまだ未熟だった頃のことですよ。
 結局、彼の言っていたことは、ある意味においては間違ってはいないんですよね。……いえ、彼の部門で起きてたことを正当化は一切できませんし、それはあくまで正常な職員からの視点で言ってるだけのことですけども。

 結局、私たちアノマリー職員は、一般の職員からこんな風に見られている、ということはこの時分かりました。
 むしろそれ以外に分かったことといえば、あいつを含め、橋ヶ谷さんに酷いことをしていた奴らは職員として仕事をする資格すらない、ということくらいですが。



 ――あっ、すみませんね。かなり本題からずれてしまいました。こんな愚痴を言うつもりなんてまるでなかったんですが……。
 そろそろコーヒーもなくなっている頃でしょう。おかわり、いります? ……分かりました。では少し待っていてくださいね。



 ――それにしても、実はなんですけど。

 橋ヶ谷さんのうちのサイトでの赴任期間って、実はもっと後だったんですよね。
 ええ、そうです。福路さんの仰るとおり、彼は指定された赴任期間をきっちりと満了したわけではないんです。

 というのも、彼、今より2ヶ月くらい前からかなり調子の悪い様子だったみたいで。よくカウンセリングを受けてたとかで。
 欠勤も多かったですね、無断欠勤もです。なので、後半は私一人で任務に赴くことも多くなりました。

 それはそれで寂しかったですよ。なんせ、職務以外のプライベートでも親睦を深められた方だったから……。
 仕事だって、元々2人でこなす分量だったのが私一人にのしかかってきたわけですから。その上彼のことが心配で、仕事なんてまるで手つかず。
 よく部長から叱責されたりもしましたよ。

 まあ、部長も察してはくれていたみたいで、罰則はなかったですけどね。



 ――え? そうなんですか?
 福路さんも様子が変だったこと自体はご存じだったんですか。ふむ……やっぱり心配しますよね。

 一体、どうしてあんな風になってしまったのか。私には心当たりはありませんし。



 ――いや。一つだけありました。
 私が直接関係してるわけではないんですが、橋ヶ谷さんが、一度だけ、私のもとにいきなり押しかけてきたことがあったんです。

 あまりに突拍子もない出来事だったので、早々忘れることではないと思ってたんですが……なぜでしょう、今になって思い出しました。

    • _


     

     

     


    2020年3月21日 - PM19:41
    サイト-8148 - エージェント・斑座の職員寮

    「……えっと、どうしたの? っていうか、すごいびしょ濡れじゃない!」

     その時、私は仕事から帰って一段落をしていた頃だった。
     いつも見ていたバラエティ番組を晩酌しつつ見ていたところ、インターホンの音が鳴ったので出てみると、びしょ濡れの橋ヶ谷くんが立っていた。

     彼はただ下を向いて、パーカーの裾をぐっと握ったまま黙り続けていた。

    「え、えっと、とりあえず上がってよ。そんな格好じゃ風邪引いちゃうからさ」

     私は彼のあまりに不自然な様子が心配で、すぐさまバスタオルを持って彼の濡れた身体を拭ってあげていた。
     あのおとなしく真面目な橋ヶ谷くんが、こんな時間に雨に濡れながらいきなり訪ねてくるなんて、あまりに突飛すぎる出来事だったからだ。

     バスタオルで彼の身体を拭っていた私だが、彼の顔だけはどれだけ拭っても濡れ続けていた。

    「……何があったのさ、橋ヶ谷くん。8129から戻ってきてたのは聞いたけど、こんな再会はちょっとビックリすぎるよ」

     私はドライヤーで彼の冷えた毛皮を乾燥させつつ、恐る恐る様子をうかがう。
     しかし彼は黙りこくり、口を噤んだまま静かに泣いてばかりで。私はただどうして良いか分からず、しばしドライヤーの稼働音とバラエティの出演者の嬌声だけが部屋に木霊していた。



    「斑座、さん……」

     一通り乾かせる部分だけは乾かした。さすがにパーカーは脱がせて浴室で乾燥させているけど、とにかく彼をどうしよう……なんて思っていると、橋ヶ谷くんはようやく噤んでいた口を開き始めた。

    「僕、どうしたら、いいのか……分からなくなりました」

    「……どういうこと……?」

     私が返事を返せば、彼は黙ってしまう。しばらくすればまた話し始める。以降はその繰り返しだった。

    「僕、ただ、僕は、あいつと、一緒にいたかった、それだけだったんです……」

    「あいつ……」

    「……それだけ、なのに、どうして……斑座、さん、僕、どうしたら良かったんですか」

    「……」

    「僕は、やっぱり、あの時……いや、最初から、僕は……僕は、うっ、うぅあぁぁっ……!!」

    「……っ」

     彼の言っていることは、具体的なことは何一つ分からなかった。
     けれど、言わんとしている事はなんとなくではあるけれど、彼の話す言葉の端々から重々伝わった。

     彼はおそらく、酷くつらい思いをしたのだろう。それも、彼自身が今まで一度も経験してこなかったであろうことで。
     私はそれを察すると、無理に話を聞こうとはしなかった。
     そんな勇気もなければ、踏み込むだけの立場もなかったから。

    「……もう、いい。キミはよく頑張ったね。無理に言わなくていいさ。ゆっくり……ここでゆっくりしていくといい」

    「ごめんなさい、斑座さん……本当に、ごめんなさい……」

     彼は何一つ悪くもないのに、絞り出すような狼狽えた声で謝罪の言葉を吐き捨てる。私はそんな彼の頭を撫でて、ゆっくりと、彼の体重を私に預けさせた。

     思えばパーカーを脱いだ彼の姿を見たのは、これが初めてかも知れない。
     毛皮ではごまかせない、彼の身体に刻まれた痛々しい傷跡は、彼自身のここまで歩んできた人生そのものを物語っているものにさえ感じられて、私は目を背けたくなるような気持ちに苛まれる。

     私は彼に何もしてやることはできなかった。当然彼からそんな相談は一度も受けなかったから、当たり前のことだけど。

     だけど、だから……そう、だからこそ、彼が今落ち込んでいる事実を、私の胸で受け止めてやる。それがこの時、私にできる最大限の彼への慰めだと、そのように思えた。

     ――それから、彼はしばらく、抱きしめた私の胸の中で、疲れて眠ってしまうまで号哭しつづけるばかりだった。


     

     

     


 ――そうですね。結局その日は彼は私の寮で一晩を過ごしました。まあ起きたところで、彼は気まずそうに目を背けるばかりでしたけど。
 あはは、そうですよね。だって橋ヶ谷さん、そういう性格ですし……自分から気持ちを伝えるのが苦手なのは私もよく分かってることですから。だからこそあえて聞かなかったんですけど。

 ――? どうしたんですか、福路さん?

 えっ、あ、いや……そんな! 私はただ、橋ヶ谷くんの先輩職員としてできる限りのことはやっていきたかったですから!
 た、たた確かに抱きしめた時、ちょっとドキドキしたのは事実ですし、それにまあ……結局、射撃場には一緒に行けなかったのはちょっと後悔ですけど……。

――えっ?! そ、そんな、私はずっと橋ヶ谷くんのことは、さん付けで呼んで……あっ。

 す、すみません……。



 う、うぅ……そ、そうですね。
 隠していても、しょうがないですね。



 あはは……そうです。
 私は、いえ、私も、橋ヶ谷くんと一緒に、ずっと一緒にいたかった。

 それが、私の今の素直な気持ちです。



 それに、ここまでの私と橋ヶ谷くんとの関係の話を聞いて、あなたも色々と思ったでしょう。

 ――あはは。まあ、もうどうしようもないことです。
 彼はもう、職員ではなくなってしまった。

 その事実は大きく受け止めなければなりません。同じアノマリー職員として。
 彼と一緒に過ごした日々を、時間を、思い出を忘れてはいけないと。私はそう思っています。



 ――ああ、すみません……また私はあなたを泣かせてしまいましたね……。
 そう、ですよね。彼はただオブジェクトに再指定されただけ。収容コンテナに入れられただけで、またあそこから出られる可能性は、いくらでも、ありますものね……。

 っ……ご、ごめんなさい。私まで堪えきれなくなってきました。

 あははは……彼が戻ってきた時に、こんな表情を見られたら、どんな顔をされるか。想像するのも怖いです。

 でも、それでも、橋ヶ谷くんはまた戻ってくる。それを信じるしか、今はできませんもの。

 同じ後悔の念を持つ人として、いつまでも待っていましょう。
 そして、彼がコンテナから出てくる日がいつか来たら、また笑顔で迎えてあげましょう。








 ――さて。コーヒー、冷めちゃいましたね。
 また淹れてあげましょうか。

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。