おはよう、良い一日を。
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君は目を開いた。

見たことのない景色が目の前に広がる。自分自身がなぜここにいるのか、君はわからなかった。——いや、そもそも、君は誰だ?

君の右手は、何かを握っていた。手を上げて確かめてみると、それが拳銃だったことに気づいた。

「俺からの忠告はただ一つだ、ルーキー。撃て。とにかく弾が切れるまで撃ち続けろ。そして逃げるんだ。それが生き残る唯一の道だ。」君は新人にそう言うと、あくまで冷静に前方に向かって射撃する。あたかも君の眼前にあるのは射撃練習場の的であって、つい先程5、6人を呑み込んだ内臓の塊ではないようだった。

銃は安心感をもたらす。それさえあれば、自分の身は自分で守れると、君は知っていた。それは君を守ってくれる。君が装備しているヘルメットとマスクと同じように。君が着用している、何かしらのロゴのついた防弾ベストと同じように——君の左胸に輝くそのロゴは、丸と内向きの3本の矢印に構成されている。首をねじって振り返ってみると、同じようなロゴが君の背後にもついていた。

そして君は思い出す。自分自身が財団のエージェントであることを。

自分のアイデンティティを認識した時点で、君はおおよそ一瞬で落ち着くことができた。君は数多くの恐ろしいものに直面してきた。様々な絶望的な突発的事件を処理してきた。そして今回も、君は無事解決することができるだろう。君は十分に訓練されており、経験を積んできたのだ。

君は周囲の状況を観察し始めた。世界はまるで色褪せた写真のようで、黒と白とが鈍い音を立てて互いに重なり合っていた。身にまとっている制服に色がついていなければ、自分の目を疑うところだった。

かつて対処してきたアノマリーのいずれにも一致しない。君はそう断定する。なぜならば、君は見たことのあるアノマリーをもれなく記憶しているからだ。

「本当に記憶処理はいらないのかい?」あまりにも惨烈な現場を経験する度に、サイトのカウンセラーは心配そうに君に問う。

「大丈夫だ。自分でなんとかできる。」君はいつもそう答えた。「大したことではない。」

見栄っ張りなどではなく、これは君の本心だ。だからこそ、財団に入って以来、君が自分の記憶を手放すことはほとんどなかった。

しかし眼前の景色は、既視感があまりにもありすぎる。

頭を上げると、頭上に輝くこの世界の唯一の光源が見えた。それは白い光を放つ電灯だった。天井に取り付けられた部分は不気味に歪な形をしていた。

君は仰向けに倒れる。強く殴られた目はすぐ腫れ上がった。腫れる瞼の隙間と溢れんばかりの涙を透かし、冷ややかな光を放つ天井の電灯は君の眼底に不条理な模様を投影する。

明かりが届かない場所に、品種不明の樹がそびえ立つ。暗闇の中で、それは軽やかに枝を揺らしながらも、まるで煙のようで、葉の擦れる音すらも発さなかった。

君は古いタンスの中にうずくまる。カビ臭い匂いが鼻腔をつんざいた。君は目を大きく見開こうとしたが、この暗い空間の中では、タンスの天井から垂れ下がる綿のような蜘蛛の巣しか見えなかった。君はひどく怖がっていた。声が嗄れるまで泣き喚いて、タンスのドアを必死に叩き続けた。

誰も来ない。タンスは外から施錠されていた。

足元は硬い石畳だった。その上に、成分不明のシミが忌々しく散りばめられている。

君は地面に横たわっている。鼻と口から流れ出た血は、床を赤く染めた。

「あーあ、また床を汚しちゃった。」と、君はそう思った。

君は刺さる視線に気づいた。ある男が左側の建物の影から上半身を乗り出し、陰気に君を見つめている。さほど身長が高くない、顔が皺だらけの男だった。万が一あっても、十分に対処できる相手と君は判断した。だから君は慎重に銃を取りやすいところに用意し、その男に接近した。

「すみません。ここはどこかわかりますか?」君はその男に声をかけた。

男は答えなかった。彼の下半身は暗闇に紛れていてよく見えない。彼の値踏みのような視線に、得も言われぬ悪意が込められていた。君は思わず銃把にそれとなく手を伸ばし、安全な位置まで後ずさった。

しかし、君が徐々に後ずさると、その男は突然と声を発した。「わかるさ。」しわがれるような声だった。

「お前もわかっている。」彼はゆっくりと喋りだす。「忘れたのか?」

この時、別のものが僅かの間に君の注意を引いた。右手の建物の階段から、今夜で出会った二人目の人物がいるからだ。それは恐らく女性だった。杖をついていて、漆黒のロープで身を包んでいる。おおよそ黒夜に溶け込むその姿が、はじめからそこに居たのか、それともつい先刻に現れたのか、君にはわからなかった。彼女は優しくも悲しい目で君を注視しながら、口元の動きで君に何かを伝えようとしていた。

にげて。」と。

君は咄嗟に振り返った。しかし、時はすでに遅く、その男は体格と年齢に見合わない敏捷さで君に襲いかかってくる。反応する間もなく、君は腹に重い蹴りを食らわされてしまった。

にげる気だぁ?クソガキが。」彼は黄ばんだ歯を見せながら笑う。

激痛は腹部から広がる。君はよろめきながら、なんとか次に来る一撃を避けて、腰に装備されていた拳銃を抜いて、男の肩に目掛けて撃つ。

銃撃が当たった。男は痛そうに肩を押さえ――そして手のひらを開くと、プラスチック弾がその指先から転がり落ちていく。

俺に楯突くだと?クソが!」獰猛極まる表情で、彼は君に向かって突進する。一瞬のうちに、君は地面に叩き込まれた。男の年老いた小柄の体は、その瞬間だけ、まるで鉄塔のように君を覆いかぶさる。

後頭部が硬い床にぶつかり、数秒間めまいがした。冷静になれ、慌てるな――君は自分に言い聞かせる。君は兵士として十数年の戦闘訓練をそつなくこなしてきた。君なら勝てるはずだ。だから君は片手で振り上げられた拳をガードしようとした。

君は失敗した。彼の拳は君の手のひらを叩き、君の手は君の顔にぶつかった。君の歯は皮膚に引っかき傷を作り、血は傷口から流れた。けれど君はただ愕然と自分の手を見つめた。

それは子供の手だった。ひどく無力な、痩せた手だった。

拳とビンタは雨粒のように君の身を叩く。このままだと死ぬかもしれないと悟った君は、どうにか隙をついて起き上がり、覚束ない足取りで前へと走り出した。

男は執拗に君を追ってきた。全身の激痛を無視して、必死に前へ走るしかなかった。短く貧相な両足を駆使しながら無我夢中に走った。しかしこれでは、早かれ遅かれ追いつかれると君は知っていた。

君は右の建物へと駆けつけた。君に声をかけてくれた女性は半開きのドアの後ろに隠れて、両目だけを見せる。

私は行かないと。」と彼女が言う。

「僕も連れてって!」君は彼女に嘆願した。「追いつかれると死んでしまう!」

知ってるわ。」彼女は目をそらす。「でもごめんね、君を入れるわけにはいかないの。

至近距離で、君はようやく彼女の顔が見えた。蒼白で柔らかい顔つきだった。悲しげな表情をしているけれど、なぜか偽物臭く感じる。

君は喉が乾くのを感じた。「なぜだ?」

彼女は急に逆上し、杖をぶん回しながら君に怒鳴りつけた。「なぜだって?前に君を助けたらこのザマなのよ!

怒鳴っている彼女は、相変わらず悲しげな仮面を付けていた。「君が逃げたら、彼は君にしたことを全部私にするの。なぜ逃げようとするの!?

なぜ逃げようとするの!?

ここにいるよ!」彼女は突然、大きな声を上げながら、君を前に突き出した。

ガチャリとドアが閉まる。それと同時に、段々と近づいてくる男の荒い息遣いが聞こえた。君はまた前に走り出すしかなかった。あの角を曲がったら、あるいは振り切れるかもしれないと――

角を曲がったら、そこには何もなかった。建物も、街灯も、枝を揺らす樹も、汚い石畳も。足元には、ただ闇が崖の下に蠢いた。

男は君に追いついた。彼は君の襟首を掴んで、まるで若鶏をつまむように君を持ち上げた。

男は君を殴った。君を街道の片端からもう片端まで引きずった。君の血は石畳に擦れ、新しいシミを残すこととなった。女性は階段の上に立ち、悲しくも柔らかい顔で君を見つめている。

暴行は、まるで千年間続いていたかのようだった。彼がもう一度、楽しげに世界の果てまで君を引きずってきて、崖の下の闇を指して君を脅かそうとしたその時、君は最後の力を振り絞って、そこから飛び降りた。

落下の途中で、君はすべてを思い出した。なぜ、この場所に既視感を覚えたのか。それは、この場所に訪れるのは3650回目だったからだ。

それは、君がその女性そっくりな鼻と、その男そっくりな目を持っているからだ。

そして

君はまた

全てを忘れ

夢のない夜を

君が目を開く。








今は

これは、お前が財団に入ってからの3650日目だ。

この10年間に、

君は972回の訓練を受け、

78件のアノマリーの収容に協力した。

お前のセキュリティクリアランスはレベル3。さすが、知識豊富だな。

十年の仕事の中で、君は56回の怪我をした、そのうち重症は13回。私たち、ほんとうに君が心配だわ。

お前が受けた記憶処理の回数は9回、そのうち、機密保持が目的ではなかったものはたった1回だけだ。

それは、君が財団に入ったばかりの時に行ったものよ。アノマリーなんて怖くないでしょ?君は、ただ私たちを忘れたいだけ、そうではなくて?

おはよう、エージェント子よ、良い一日を。

そして、また明日。

次の夜で待ってるわ。

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