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逃げるようにやってきた、近所の公園。雨のせいか、午前中で授業が終わる市教研の日にも拘わらず、周囲に子供は居ない。目に入るのは、水溜まりとお菓子のゴミばかりだ。
少しでも気分転換になればと出てきたのに、現実は真逆へ進んでいる。ぬかるみしか見られない頭の重さが、何よりの証拠だ。
何分かそうして、気分転換にブランコを漕ぎ出してみようか、だなんて考え始めた頃、隣から不意に声が聞こえてきた。
「家出? 風邪引いちゃうよ」
耳に馴染まない、穏やかな声。ほぼ同時に聞こえてきたブランコの軋みと目に映る脚は、何者かが断りもなく そもそも遊具の使用は自由だが 隣に座ったという事実を示していた。
水溜まりから目を引き上げて見たその人は、おそらく男性だ。保健室の先生みたいに優しい表情をしているし、髪もクラスの女子みたいに長いけれど。おそらく、年齢的にも"お兄さん"と呼ぶのが適切だろう。おじさんではない。
大人の男と言うと体育の教師しか思い浮かばない僕にとっては、かなり新鮮だ。
何も返事をしないから、警戒していると思ったのだろうか。その人は、まるで悪意なんて無いと弁明するかのように言葉を続けた。
「たまたま通りかかって、ちょっと気になったんだ」
「……家の鍵、忘れちゃって」
「傘も?」
「ええ、まあ」
少し悩んで、口から出てきたのは嘘だった。鍵を忘れたのではなく家を出てきたところだし、傘に関しては持ってくる気が無かっただけだ。
会ったばかりの人を騙すのは気が引けるが、知らない子供の家庭環境を聞かされるよりはマシだろう。
そう自分の行いを正当化し、適当な相槌と嘘を返しながら、男の様子を観察する。
少し無理のある説明だったが、こちらを疑う様子は無く、悪意のようなものも感じられない。少なくとも、両親のような人間ではないのだろうか。
今だけは、少しくらいなら信用してしまっても構わないだろう。
そう結論付けるのと、男がそうだ、と何かを思いつくのはほぼ同時だった。
「親御さんが帰ってくるの、5時くらいだっけ。それまで、うち来る?」
5時。そういえば、そんな嘘も吐いていたか。今は2時くらいだから、大分時間がある。
3時間も雨に打たれていては、本当に風邪を引きかねない。そうなって家に縛り付けられたら本末転倒だ。
最悪の未来と見知らぬ男の家に行くのを比較し、少し悩んだ末にブランコを立つ。
本来は知らない人に着いていくべきではないのだろうけど、彼はあまり不審者らしくない。少し怪しいだけのお人好しであってほしい、なんて期待もあった。
仮に不審者だったとしても、家に帰るよりはマシだ。運良く生きて帰れたら、今度こそ優しくしてもらえるかもしれない。
そんな打算とも言えない希望とともに、男を追って公園を出た。
彼の住むアパートは、公園を挟んで自宅の反対側にあった。
雨が弱まる気配は無いが、屋根の下へ入ってしまえば、その冷たさも忘れられる。
彼の部屋だという204号室に辿り着く頃には、ようやく寒さを思い出す程度に調子が戻っていた。
「鍵、掛けてないんですね」
「盗られて困るものも無いからね」
不用心な。喉から半分ほど飛び出しかけた呆れを飲み干し、代わりにお邪魔しますと呟く。人に用心を説けるような立場でないことは、自分自身よく分かっている。
玄関の先には、一人分の横幅しかないような廊下が伸びていた。キッチンも兼ねているようで、左手側にはガスコンロやシンクが設置されている。
その先に見えるのはリビングだろうか。開けっ放しのドアの先には、ベッドと青い布のようなものが見える。案外、物は少ない。教科書と母親の贈り物でごちゃごちゃしている僕の部屋とは大違いだ。
水滴の足跡を残しながら通されたのは、廊下の中程から右に逸れた位置の洗面所だった。
「シャワー浴びちゃいな。その間、洗濯機回すし」
「いいんですか」
「風邪引いたら嫌でしょ。シャンプーとかは好きに使っていいからね」
部屋を水浸しにされるわけにもいかないと笑い、お兄さんはリビングの方へ行ってしまった。
どうやら、ここでシャワーを借りるのは確定事項らしい。
なぜここまで良くしてくれるのだろうか。いっそ下心でも見せてくれた方が安心できる。
そんな疑念にも似た思考のせいだろうか。観念して服を洗濯機に投げ込む瞬間、ふと注文の多い料理店を思い出した。お風呂を上がって、クリームを出されたら逃げ出すべきかもしれない。
まあ、そんなことは起こらないのだろうけど。
頭を振って下らない妄想を追い出し、レバーハンドルを捻る。
少しずつ温まっていく水に、大した警戒もせずにシャワーを浴びているという現実を再認識させられた。
着替えとタオルを置いておく、と外から声が掛かり、ほどなくして洗濯機が回り始める。
雨水と一緒に警戒心も流れてしまったようで、シャンプーを手に出す頃には返事もすぐできるようになっていた。
浴槽に浸からないのであれば、何十分も時間を掛けることはない。体も軽く洗い、浴室の扉を開ける。
ゴウンゴウンと揺れる洗濯機の上には、バスタオルとワイシャツが置かれていた。彼の言っていた着替えというのは、きっとこれのことだろう。
そういえば、ワイシャツのボタンの向きは、男女で違うらしい。腕よりも長い袖に腕を通しながら、ふと思い出した。
今借りているのは右手側にボタンがついている。着慣れたこの構造は、男物だ。
勘違いなどではなく、本当に男なんだな。
微かな感動にも似た実感を頭から追い出し、洗濯機の残り時間を見てから洗面所を出る。残り30分、どうにか暇を潰さないといけないらしい。
「すみません、お風呂上がりました」
「早かったね。ココア淹れるけど、飲む?」
「いただきます」
キッチンへ出ていくお兄さんと入れ替わるようにリビングへ入り、ベッドに寄りかかって座る。
外から聞こえる雨音は、さっきまでと比べると穏やかだ。建物の中にいるのもあってか、むしろ安心感に繋がっている。
図工の時間を思い出させる匂いに釣られて周囲を見渡すと、部屋の隅に追いやられた絵具とノートが目に入った。廊下から見えた青い布は、ブルーシートだったらしい。
絵具を見てようやく気づいた。この匂いは水彩絵具だ。小学校で使っていた絵具セットも水彩だったから、なんとなく記憶に残っていたのだろう。
得心が行くと同時に、電気ケトルを傾ける横顔に声を掛ける。
「お兄さんは、画家か何かなんですか?」
「元、だね。今は全然描いてない。見てみる?」
口ぶりに反して、ブルーシートの上の道具は放置されているように見えない。一応、趣味程度には描き続けているのだろうか。
ココアの入ったマグカップを受け取り、お礼を言いながら頷く。絵に興味があるわけではないが、なんとなく興味が引かれた。
恐る恐る受け取ったA4のノートは、よく見ると絵具で汚れているものの、ぱっと見の印象では絵が描いてあるとは分からないくらい 少なくとも、授業で使っているノートよりは 綺麗だ。もう少し絵具が飛び散ったような見た目をイメージしていたから、なんとなく拍子抜けである。
表紙を捲り、1ページ目。丸っこい雀の絵だ。次のページには眠っている猫、その次は一輪の向日葵……絵の良し悪しは分からないが、どれも上手い。水彩らしい色合いを出しつつも、よく見て描いたような印象を受ける。本屋のポストカード売り場に置いてありそうだ。
ココアの存在も忘れてページを捲っていくと、あるページで目が留まった。
描かれているのは妊婦だ。熊のぬいぐるみを抱いて、幸せそうな笑顔を浮かべている。女性であることを強調するように描かれた長い髪に現実感は無く、ここまでの傾向からは大きく離れていた。どことなく、顔や雰囲気はお兄さんに似ている。
そんな絵が、何ページも。
「この絵は……」
「ああ、失敗作だよ。全部ね。最近、うまく描けなくてさ」
吐き捨てるような口調に若干の引っ掛かりを覚えつつ、ページを捲る。どの妊婦も、構図や表情は同じように見えた。精巧なコピーを並べて間違い探しをしているような、厭な気分だ。
「そうだ、君も何か描いてみなよ」
「下手ですよ」
「ちょっとした暇つぶしだって。点数を付けようってわけでもないし」
そんな感情が表情に出ていたのだろうか。
室内の空気を入れ替えようとするように、彼はそんなことを提案した。
渋々ではあるが、鉛筆を受け取り、妊婦の絵が無いページまで進む。
特に描きたいものは浮かばない。
けれども、気づけば、手がゆっくりと動いていた。
迷いながら線を引く。
縦、縦、横。
意思に反してふらふらと揺れる線は、何かの幽霊のようにも見えた。
「雨が好きなんです」
溜息のように、言葉が滑り出す。あるいは、伝わりそうにない落書きを説明しているのかもしれない。
手が動くのに従って、線と一緒に言葉が生まれていく。
操り人形にでもなった気分だ。けれども、気分はそれほど悪くなかった。
「天気予報通りなら、人も一気に居なくなる……そんな雨の日の、一気に特別じゃなくなるような特別感が好きで」
「わかる。雨の匂いがすると、ワクワクする」
ちらりと横を窺う。ココアを飲みながら目線を伏せた姿から、本音を窺い知ることはできない。ただ、きっと本心なのだろうと願うことしか出来なかった。
「でも、雨の日は好きじゃないんです。お母さんが怒るから……機嫌が悪くなるので」
怒るという表現がしっくり来ず、訂正する。
ノートの上に線が3本増えた。
相槌が無いのを、続きを促しているのだと解釈して、言葉を続ける。
「良い母親ではあるんです。ご飯も作ってくれるし、家事も殆ど任せっきりです。でも、少しでも嫌なことがあると、すぐ不機嫌になるところだけは嫌いで」
爪痕のような線が増える。そろそろ、雨のつもりで描いていると伝わるだろうか。
「お母さんのこと、嫌いなのかな」
言葉の手綱はいつの間にかどこかへ行っていて、管理出来るのは描く内容だけになっていた。
そんなこともお構い無しに、円錐形の光を描く。
もやしがへろへろの街灯になった。
「でも、家族の情みたいなものはあるんです」
絵の全体を見てみる。確かな違和感。
テストの裏面に気づかなかったときみたいな、嫌な感覚だ。
「この前、料理中に指を切ったとき、確かに心配でした。それなりに幸せであってほしいし……」
もしやと線を引き、消す。
何かを追加したかったが、しっくりこない。少なくとも直線ではないらしい。
「嬉しいことがあったら話すくらいには、嫌いじゃないんですよ」
線を引き、消す。
足りないのはマンホールでもない。傘も違う。
何を足しても、指が6本あるみたいな違和感に襲われる。
「……でもやっぱり、どうしても、好きになれないんです」
逆に線を消してみる。まだ虫食いよりはマシだろうけど、絵としては酷いものだ。消さない方がよかった。
「お母さんが別の人だったらって期待しちゃうし」
線を引き直して、消えた部分を塞ぐ。
濃淡の違いが、ミスを指差していた。
「正直、今は顔も見たくない」
多分、お母さんは好きだけど、母親であるあの人は嫌いなのだ。
3kgくらいの岩を吐き出したような、現実味の無い疲労感。これが結論だと理解するのと同時に嫌気が差して、遂に鉛筆が止まる。
それでも未練がましく鉛筆を握っているのは、何のつもりなのだろうか。
長々と話してしまったことを謝り、手から鉛筆を引き剥がす。
出来に満足した訳ではないが、これ以上描ける気も、描きたいという気持ちにもなれなかった。
「お疲れ様、良い絵だね」
「下手ですよ」
「上手ければ良い絵ってわけじゃないよ」
ぬるくなったココアを捨てるように飲み干し、借りていた鉛筆とノートを返す。
そうして暇になると、夢から醒めた直後みたいな、現実感の希薄さだけが残った。
雨はまだ止まない。洗濯機も回っている。
もう暫く暇を潰す必要があるようだった。
肩を叩かれて意識が戻る。
いつの間にか眠っていたらしい。無防備に寝こけるなんて、自分の警戒心の薄さが信じられない。
ややあってようやく認識した電子音は、洗面所の方から聞こえてきている。洗濯が終わったのだろう。
ほかほかの服に着替え、視界の隅に映り込んだノートパソコンをチラリと見る。
記憶には無いから、眠っている間に彼が使っていたのだろう。今も点きっぱなしの画面には、"企画案"の大きな3文字がある。夜更かしが祟って視力が落ちてきているから、その下に続く文章は見えない。大学の宿題とかだろうか。そもそも、大学生かどうかすら分からないけど。
「雨、止まなかったね。傘なら貸すけど、帰れそう?」
「帰るのは大丈夫ですけど……良いんですか」
ここまでの道を思い出し、頷く。走って帰るつもりだったから、傘が借りられるのは少し想定外だ。
玄関を出てアパートに背を向け、どうやって恩を返せば良いのか、と不安になった。
服を乾かしてもらって、ココアまで貰ってしまった。さらに今は傘を借りて、見送りまでされている。
返せない借金がどんどん積もっていくような感覚だ。
好きでやったことだから、と微笑む顔には若干の憎らしさすら感じた。
彼は優しすぎる。ここまで優しくされるのは初めてで、どうしても恐ろしく感じてしまう。そうして恐れること自体が、彼の優しさを踏み躙る行為だと理解してなお、警戒心が捨てられなかった。
彼を見ていて女の人っぽいと感じたのは、髪の毛だけかもしれない。
警戒する理由を探していると、そんな可能性に思い当たった。女の人にしては声は低かったし、体格も中性的と言った方が正しいくらいだ。髪の長さだけで、そんなに強烈な印象を与えるものだろうか。あるいは、中性的な彼を女の人に寄せる、最後のピースが髪だったのかもしれない。
あれこれと仮説を思い浮かべつつ、伸びてきた前髪に目を遣る。今まで、男子だからという理由で短く切っていた。校則もそうだったし、周りもそうしていたからだ。
僕も伸ばしてみようか。いや、きっと母親が認めないだろう。
安易な思いつきを振り払いながら公園を抜けて、ふと空を見上げる。
目に映るのは、真っ直ぐ伸びる街灯と、数えられないほどの雨粒。
今日描いた、見慣れた景色だ。ここからあと数歩進めば、家が見えてくる。絵には描かなかった あるいは書けなかった 平々凡々な一軒家が。
傘を畳み、扉を開ける。心臓がうるさいのは、決して喜びなんかじゃない。音読で指名されたときみたいな緊張のせいだ。
「ただいま」
「どこ行ってたの」
「ちょっと散歩に行ってて。ごめんなさい」
玄関まで出てきた母親に謝り、風呂場への道を空けてもらう。
家出かと思った、心配した、と母親が嫌味を垂れる。心配したのは、僕ではなくて世間体の方だろうに。
靴下を洗濯機へ投げ込み、軽く足を洗い、リビングへ顔を出す。
出掛けている間、母親は手芸をしていたらしい。机に広げられた布やビーズは、少なくとも僕の好みではない。完成したら、また押しつけられるのだろうか。
憂鬱な気分に浸りながら、自室に居ると言い残せば、ようやく束の間の自由が得られた。
明日の放課後は、傘を返しに行こう。
傘を返すよう書いたメモを、学習机の見えやすい位置に貼り付ける。
なんとなく、彼とは仲良くなれそうな気がした。
いつの間にか、彼のアパートへ遊びにいくのが、水曜日の定番になっていた。
宿題を見てもらったり、絵を教えてもらったり。たまに、彼が作ったお菓子を食べたり。
そうして過ごしていると、彼のことも少しずつ分かってくる。
1番驚いたことといえば、彼は絵のように世界を認識しているらしい。雀を見た時、僕は雀という言葉で認識しているけど、彼はその見た目をそのまま覚えている。僕がこうやって考えるみたいに、彼は絵で考えているのだろう。
だからかは知らないけれど、彼は物語を書くのが苦手だ。国語の授業でやった、続きを想像して書く遊びをやったときは、いっそ詩的に感じるほど難解だった。
そういう遊びや会話を通じて、彼も僕のことを理解し、関係は知り合いから友人へと移っていく。
人は孤独なのだと、彼はよく語っていた。その孤独を誤魔化せるのは相互の理解で、だからこそ僕のことを理解したいのだと。
どこまでが本当かはわからない。けれども、確かに彼は僕を理解してくれていた。
それが嬉しかった。
我ながらチョロすぎるとは思うけど、僕は彼に懐いていた。1番の親友で、唯一の家族のようにすら思うほど。
中学1年の夏。今を契機に、僕の人生はきっと変わるのだと、心のどこかで期待していた。
ある日のことだ。絵の具をパレットに出しながら、彼はゆっくりと話し始めた。
「昔はね、私も絵を描いてたんだ。ミームを使った感情の伝達と、強制的な共感。それが私の主題だった」
「ミーム?」
聞き慣れない単語を聞き返しながら、脳裏に浮かんだムーミンを谷へ追い返す。
単語の難しさに対して、彼の口は滑らかに動いていた。何度も同じ文句を唱えてきたような印象を受ける。
「テレビでやってる催眠術とか、ああいう感じかな。まあ、細かい理屈はいいよ。完全に分かってない部分もあるしね」
「なるほど?」
絶対に感動するような絵、と表現されて、ようやくその凄さを理解した。
魔法のようだ。同じ技術で漫画を描いたりしたら、かなり話題になるだろう。
そんな感心に水を掛けるように、でも、と話が続く。
「ちょっと前までスランプでさ。結局、どんなに優れた技術でも、題材が無いと作品にはならないんだ」
スランプ。その単語を聞いて、昔は画家だったという発言を理解した。
つまり、表現したい物が全く見つからなかった、ということだろう。
「最近はまた違うんだけどね。君のおかげ」
「僕ですか?」
何か特別なこと……少なくとも、"おかげ"なんて言葉を使われるようなことはした記憶が無い。
僕にとっては普通のことが、彼にとっては特別なことだったのだろうか。
好奇心に任せて尋ねてみても、秘密の2文字が返ってくるだけだった。
「もしかしたら、いつか手伝ってもらうかもね。その時は話すよ」
「……約束ですよ」
微かな不信感をねじ伏せ、そう返す。指切りはしない。そんなことをするほど子供じゃなかったし、 そこまで疑いたくもなかった。
何より、今は彼自身の話が聞けたことを純粋に喜びたかった。
7月28日、課題も終わって暇だった僕は、彼の家へ向かっていた。授業が始まれば、また水曜日にしか会えなくなる。だから、今のうちに会っておきたかった。
疲労感を覚えるには少し足りない道のりを超え、彼の部屋である204号室へ辿り着く。
相変わらず、扉に鍵は掛かっていなかった。
今日はどんな話をしようか。また絵を描いても良いかもしれない。
そんな淡い期待を胸に、扉を開け
「ふざけんじゃねえぞ! これの何処が芸術だ、言ってみろ!」
見知らぬ男の、荒々しい怒鳴り声に迎えられた。
怒られているのは僕ではない。じゃあ誰が。彼しかいない。
硬直した身体の中で、疑問が浮かぶと同時に解消していく。
ぼそぼそと声は聞こえるから、一応無事らしい。
でも、あの声、酔った父親と同じ声はダメだ。あれは平気で人を傷つける声だ。
靴を撒き散らすように脱ぎ捨て、ドタドタとリビングへ走る。
扉を開け放つのと、大きな拳が彼の頬にぶつかるのは、ほぼ同時だった。
彼を殴った男は、扉の音で僕に気づいたらしい。奥歯を噛み締めた表情は鬼のようで、扉を抜けてすぐの位置で足が竦んでしまう。
そんな僕の何かが気に食わなかったのだろう。舌打ちをすると、苛立ちを少しも隠さない口調でお兄さんに話しかけ始めた。
「お前は全くもってクールじゃねえ」
「いいでしょ。陽だまりでありたいんだよ」
「キチガイの体温なんて、毒と同じだろうが。この前だって……」
「確かに誘ったのは私だけど、乗ったのは君だよね。それに、救われちゃったんでしょ? 君も悪いんだよ」
男が黙る。一体彼は、どんなことをしたのだろうか。知らない一面があって、そんな一面があることすら知らなかったという事実が、じっとりと心臓を握り締めてくる。
彼が口にした"救う"という言葉と、男の態度が結びつかない。少なくとも、あそこまで敵意を剥き出しにするような行為ではないだろう。
「とにかく、企画案は却下だ。ガキに手ェ出すんじゃねえぞ、サイコホモ野郎」
「わかったよ」
「それとガキ、そこのカスには関わらねえ方がいいぞ。さっさと帰れ」
助言のような何かを吐き捨て、不機嫌な男が出ていく。リビングの扉の前で、僕はついぞ一歩も動けなかった。
部屋はそれほど荒れていない。明確な痕跡といえば、赤く腫れた彼の頬くらいだ。
玄関が開いて、再び閉じて。
強まってきた雨足に雑音が踏み潰されて、静けさが立ち込める。結局、僕が動けたのは、お兄さんがふらふらとベッドに腰掛けてからだった。
「何か……出来ることはありませんか」
「お酒取って。冷蔵庫の、瓶のやつ」
「保冷剤は」
「だいじょうぶ」
酔った彼も、あの男や父親のように暴力的なんじゃないか。
そんな疑念を飲み下し、冷蔵庫を開く。今はとにかく、動けなかった罪悪感を、少しでも薄めたかった。
冷蔵庫を開くと、彼の言っていた瓶はすぐに見つかった。透明で水のようにも見えるそれは、ラベル通りならとても濃い酒らしい。ここまで来ると、消毒液との区別に困りそうだ。
「ありがと。ちょっと、話聴いてもらってもいい?」
酒を渡し、隣に腰掛けると、彼は瓶に口をつけた。
細い首が動く。まるで、湧き上がってくる何かを押し込むような勢いだ。
やがて、瓶が半分ほど空いたとき、ようやく彼は口を開いた。
「さっきの人ね、一応、昔からの知り合いなんだ。あんな性格だけど面倒見は良くてさ。水道のお金払い忘れてたとき、立て替えてくれたこともあったっけ」
絵を描いていた頃のと付け足し、何処か遠く おそらくは過去 を見つめるような視線を壁に向けていた。
殴られた直後だというのに、口調は穏やかなままだ。さっきの人を庇おうとしているのだろうか。
そんな姿が母親と重なる。母親も、よく分からない理由を付けて父親を庇っていた。ガーゼに包んだ保冷剤を頬に当てて、怪我一つない僕を撫でながら。
「でもねぇ、可哀想なんだよ。私なんかに救われちゃってね」
「あの、救ったって、何をしたんですか?」
その単語を聞き返したのは、単に気になったからと言うより、彼の全てを知りたかったからだろう。
あんな人が知っていて僕は知らない一面というものを、認めたくなかった。
「何回か抱かれてあげただけだよ。あんな性格なのに甘え始めると子供みたいでさ」
可愛かったな、と呟く顔はうっとりしていて幸せそうだ。
話が止まり、酒瓶が傾く。
質問には答えてもらえたし、その内容も大体分かった。ハグだけで救われるなんて、いまいち現実味は無いけど。
そうやって意識すればするほど、心臓が内側から痒くなる。
どうにか返せたのは、納得したような言葉だけ。それ以上の何かを口にできるほどの余裕が無かった。
「この前、君のおかげでスランプが終わったって話したでしょ」
暫くの沈黙の後、彼が再び口を開いた。
スランプの話なら記憶を掘り起こすまでもない。
あの男ではなくて、僕が。他ならぬ僕が、スランプを終わらせたという実感が湧いてくる。
僕が頷くと同時に、空になった瓶が地面に置かれた。
「最初は純粋に心配だったんだけど……君の寝顔で思い出したんだ。やっぱり、人を安心させられるのっていいなって」
冷蔵庫へ向かい、缶のプルタブを起こしながら、夢を語るような口調でさらに続く。
隣に座り直す動きはぎこちない。酔いが回ってきているのだろう。
お酒を飲むたびに、普段の優しい彼が溶けていってしまうようで、言葉では表せない焦りが湧き上がってくる。けれども、最後の一巻きを使い切ったオルゴールみたいに、少しも口が動かなかった。
「それで、企画案をあの人に見せたの。やっとできたから」
「企画案……っていうと、初めて会った日に書いてた?」
「見てたんだ。でね、あれを見せた瞬間、すごい怒られちゃって」
それで、さっきの状況に繋がるらしい。
あそこまで怒らせるなんて、どんな企画書を出したのだろうか。全く想像がつかない。
僕にも関係があるのだろうけど、僕の何が関係しているのかまでは分からなかった。
「でもさ、諦められないよね。ずっと考えて、初めて君と作るつもりだったのに」
理解できなくもない。
ダメだと言われたのにやりたくなってしまうことはあるし、我慢したら我慢した分だけ後悔が募ってしまう。
「ねえ、君は手伝ってくれる?」
自己満足でしかない。作品として発表はできない。
そんな但し書きを言い訳がましく連ねてはいるが、彼の本音は分かった。
否定されたくないのだろう。
それに関しては、理解も共感も出来る。
「……僕でよければ」
頷くと同時に、肩に重みを感じる。視線を向けると、こちらに寄り掛かった頭が見えた。
髪の毛が肩に掛かっている。それはまるで、日陰に差し込む光のようで。僕の何かが、大きく奪われたような錯覚に襲われた。
「嫌なこととか、させるかもだけど」
「痛くないなら、いいですよ」
甘えるような、縋るような声。少し震えているのは、酒のせいだろうか。
拒絶する気はなかった。罪滅ぼしとかではなく、彼の手伝いが出来るのなら、それが1番嬉しい。
弱い衝撃とともに世界が回転する。
少し遅れて、彼に覆い被さられていることを理解した。
そういえば、彼は何回かハグをされたと言っていた。これをハグだと思っているのなら、僕が彼を救えるということだろうか。
そんなことを考えながら、彼の顔を見上げる。泣きそうな子供を、そのまま大人に引き延ばしたような顔をしていた。
ベッドに広がる髪から、くらくらするような甘い匂いと湿度を感じる。ヘアオイルの匂いだと聞いたことがあるけど、こんなに濃く感じるものなのだろうか。隣にいる時は、全くと言っていいほど気にならないのに。
「私、お母さんに憧れてたんだ。優しくて、暖かくて、でも厳しくて。そんな童話のお母さん……人って孤独なんだよ。だから、お母さんが要るの。だから、私がならなきゃ」
甘い匂いを押し流すような、酒の臭い。
何かを探すように、僕の服の下へ手を滑り込ませながら、彼は話を続ける。いや、話ですらないのかもしれない。独白のような……あるいは、それよりも独りよがりの、思考をそのまま口にしているかのような雰囲気だ。
いつか書いてもらった物語みたいに、重要な部分を抜かしたような口調は、きっと余裕の無さの表れでもあるのだろう。
だから、意味の理解は諦めて、彼の話すままに任せていた。
「でも、お母さんになるには子供が要るでしょ」
「……」
「ね、だからさ。赤ちゃん作らせて。私を、おかあさんにしてほしいの」
輪郭だけじゃ満足できなくなったのか、ズボンのゴムに指が掛かる。
雨音が厭に大きい。
肌を見られる不快感も、知らない欲望で蕩けた彼の瞳も、全てが意識の外側へ滑り落ちていく。
ただ、裏切られたという感覚だけが、自嘲的に脳髄を突き刺していた。
肌がヒリヒリする。40度を超えるシャワーのせいだ。軽い火傷のようなものだろうか。
現実感の薄い痛みを水に溶かして、うがいを3回。
舌の感触は、ようやく薄れてきた。
でも、彼の体温と匂いは、まだ意識にこびりついたままだ。
ふとした瞬間に記憶を掠めるのは、保健の授業で学んだ、男女間でしかしないと思ってた行為。
男同士なら大丈夫だと思っていた。少なくとも、彼は大丈夫だと信じていた。
年齢確認に嘘を吐けないような真面目さが憎い。もう少し知っていれば、避けられたかもしれないのに。
たらればを考えながらシャワーを止め、体温と匂いを忘れるのは諦める。
今日は一刻も早く帰りたかった。母親の待つ家でもいいから、とにかく彼の匂いがしない場所へ。
半袖のインナーに水を吸わせ、タオルに触れること無く身支度を整える。
雨上がりのようにびしょ濡れの状態で靴を履き、扉を開ければ、逃げ場を絶つような雨に迎えられた。
さっきまでは止んでいたのに、また降り出したらしい。底の抜けたような青空よりはマシだが、もう少し勢いの弱い方が好みだ。
濡れるのも気にせず、前へ前へと足を進める。
僕がシャワーを浴びて家を出るまで、彼は眠っていた。酒に弱いと語っていたのは、どうやら真実のようだ。
もっと早くに眠って、余計なことを言わないでいてくれたら、とは思うが……過ぎたことは仕方が無い。どっちにしろ、僕はいずれ失望していたのだろう。
雨水で体と思考が冷えていく。
冷静になればなるほど、彼の姿が浮き彫りになってくる。
肌をなぞる指。絡みつく舌。髪から漂う、甘い匂い。全ての記憶が、レインコートのように雨の下で蘇った。公園の片隅で胃液として吐き出しても、嫌悪感は消えない。
気づけば走っていた。歩いてもそれほど時間は掛からないのに、体にまとわりつく記憶から、少しでも自由になりたくて。
どこか他人事みたいな衝動を、地面に転ぶまで、スクリーンでも眺めるみたいに漠然と感じていた。
学校へ行って、親への不快感を募らせて。そうこうしているうちに、次の夏が来た。
去年と比べて身長が伸びたし、声も大人っぽくなった。14歳の流行り病にも罹った。これだけ変わったのに、未だに彼のことを覚えている。
彼のことは、もう好ましく思えない。彼は、子供を道具のように語った。自分が母親となるために、これから産まれる 実際に産めるのかは分からないが 子供を、必要か不要かで語っていた。夢から醒めるには、それだけで十分。所詮は大人だったと諦めて、さっさと忘れるべきなのだろう。
けれども、受けた恩があるのも事実だ。
シャワーと服を貸してくれた。ココアも淹れてくれた。悩みを聴いてもらったし、宿題だって見てもらった。
そして同じくらい、彼の苦しみを聴いた。彼が父親から受けたという仕打ちを、僕は覚えている。丸い火傷痕も、その時想像したら恐怖も、同情も。
204号室、その玄関。いつも通り施錠されてない扉の前で、去年の記憶を掘り起こす。許すか許さないかは、少し話してからでもいいんじゃないか。
そう結論付け、部屋へ入る。
去年とそれほど変わらない廊下を抜け、リビングへ。
「いらっしゃい。もう来てくれないかと思った」
はたして、彼はそこに居た。部屋の隅で、キャンバスに絵を描いていたらしい。振り返った表情は柔らかい。酔ったときの泣きそうな表情でも、かといって笑顔でもない。普段通りだ。
けれども、一点だけ。ほんの一点だけ、大きな違和感があった。
その違和感とは、彼のお腹だ。丸く膨らんだ、大きなお腹。手や顔立ちに大きな変化はなかったから、きっと肥満ではない。
脳裏を掠めた嫌な予感を振り払い、きっとご飯を食べすぎたのだと適当な理由をこじつけ、意識を逸らす。
次いで目に入ったのは、室内に増えた色々な物だった。目に留まりやすい色の、基本的な図形を組み合わせて作られたようなプラスチック。持ち手のついた小さなカート。部屋の隅の、籠のようなベッド……見覚えの無い品は、どれも"赤ん坊"の一語で説明がつく。
「親戚の子を預かっていた、とかですか」
「私の子のだよ。君と、私の」
微かな祈りにも似た感情で質問するが、現実は非情だった。余計なことを言うべきじゃなかった。
いつの間にか準備されていた麦茶の入ったコップ きっと、ペットボトルから注いだものだ を机に置き、彼は話し始める。
「赤ちゃん、出来たんだ。君が手伝ってくれたから。1回で出来るのは意外だったけど……運命なんて言ったら、ちょっと気障かな」
「ちょ、ちょっと待ってください。僕もあなたも、男ですよね? そんなの、不可能じゃないですか」
「出来るようにしたんだよ」
思わず口を挟んでしまったが、やはり問題はそこだ。
人は有性生殖をする。当然、オスとメスを揃えないといけない。それが、人……というよりも哺乳類の構造だ。
勉強が出来るタイプではないけど、そういう基礎的なことくらいは覚えている。
そこからはみ出すことなんて、出来る筈がない。だからこそ、彼の膨らんだお腹を食べ過ぎたということにしたかったのだ。
なのに、彼は子供だと語っている。男同士の、生物として不可能な存在。その意味が分からなかった。
出来るようにしたということは、体を作り替えたということだろうか。
去年の記憶が正しければ、彼の体は男のものだった。僕と同じような形のはずだ。
理解の追い付かない僕を見かねてか、彼は僕の頭に手を乗せると、言い聞かせるように口を開いた。
「ミームの話はしたでしょ。世界にはね、不思議なものがいっぱいあるの。こうやって妊娠することだって出来るんだよ」
「そういうものですか」
「うん、そう。それでね。ずっと待って、この前やっと40週で。浮かれて色々買い揃えちゃった」
40週。その意味も既に習っている。
いまいち理解は追いつかないけれど、そういうものと丸呑みにすれば、どうにか話の筋も通るように見えた。
同時に、彼の膨らんだお腹という矛盾にも気づく。まさか、産んですぐ捨てた訳でも、2人目という訳でもないだろう。
「 でも、産まれなかった。私ってバカだね。訊いてみたら、妊娠したいとしか言わなかったからだって」
「それは……残念、ですね?」
「大丈夫。むしろ、嬉しいんだ。だって、ずっと一緒に居られるってことでしょ」
悩み、当たり障りの無い言葉を吐き出す。喜ぶよりは良いと思ったが、彼にとってはそうでもなかったらしい。
ゆっくりとお腹を撫でながら微笑む表情は、とても正気とは見えなかった。
触ってみるか、という質問を丁重に断り、ここに来た目的を思い出す。
話題の切れ目を狙い、話題が変わることを断って口を開いた。
「子供は、物だと思いますか」
「物ではないと思うよ。でも、この子は人じゃない」
安堵したのも束の間、彼は希望を断ち切るように、そう付け加えた。
男同士で子供は作れない。ましてや、赤ん坊として孕んだのではなく、厳密には孕んでいる状態なだけ。
言い聞かせるようにそんな根拠を挙げて、結局は作り物なんだと彼は答えた。
一部は理解出来なかったが、分かり合えないことは分かった。
「失望した? 君は、子供も人だって言って欲しかったんでしょ。どんな子供でも生きる権利があって、自由なんだって」
麦茶を飲み干した直後。もう帰ろうと腰を浮かせた瞬間に、そんな指摘が差し込まれた。
僕を貫く視線は相変わらず穏やかだが、それでいて有刺鉄線のように絡みついてくる。
意地の悪い言い方だったが、頷くことしかできなかった。
「でも残念。子供を産むのって、目的があるからなんだよ」
「目的……」
「そう。私の子は、私が母親になるための条件だっただけ」
絵本を読み聞かせるような、それでいて授業中の教師みたいな口調で、彼が話す。
これ以上、聞きたくない。でも、身体が動かない。
「君は、何のために産まれたんだろうね?」
「 なんてね。ちょっと意地悪しすぎたかな?」
言葉が出て来ない。分かりたくない。
足場がぐらぐらと崩れていくような不安感に襲われて、空のコップを握りしめる。
ぐうの音も出ない正論で叱られたときの気分を、何倍も酷くしたような感覚だ。
タチが悪すぎる。
呆れとともに若干の怒りを覚え、そして疑問が実る。
「でも、なんでこんなことを?」
「だって君、もう来ないでしょ。いいんだよ、それで」
私みたいな男に、ロクな人間は居ないから。
悲しげに彼がそう呟き、再び沈黙が訪れる。
"私みたいな"というのが、具体的に何かはわからないが、それが何かを聞くことは出来なかった。
疑問すらも捨てるのであれば、これ以上話すことは無い。当然、居座る理由も無くなる。
数分間まごつき、僕は結局部屋を出た。お腹が重いのか、彼は見送りには来なかった。
慣れた道を辿りながら、溜息を1つ。
相手を妊娠させて、自分は知らぬ存ぜぬとは。責任の取りようが無い 実際、僕は悪くないし が、それでも無責任な大人になったような気分だ。
気分転換に空を見上げれば、いっそ憎たらしいくらいの快晴。例年より長引いた梅雨も、ようやく明けるらしい。



