ColdWindHowling 22/02/22 (水) 12:04:17 #75784230
さっきウェイバックマシンをいじってたら www.welcometodreamland.co.uk というURLで登録されてた消失ウェブサイトに出くわしました。
確認した限りだと、インターネットアーカイブに残っているのはこのサイトのトップページのスクショ1枚だけで、そこにはVHSマスターテープの映像を直接縮小して雑にアップロードした何枚かの静止画像と、1997年夏季のパンフレットをダウンロードできるリンクがありました。サイトには世界最長のジェットコースターがあると書いてありましたが、私はイギリス出身なのにドリームランドなんて遊園地の名前は聞いた試しがありません。
画像を貼っておきますけど、誰かこのウェブサイトに詳しい方はいませんか?
EmleyMoorMysteries 22/02/23 (木) 00:31:54 #76967254
ドリームランドならよく知っている。私は経営に失敗して廃墟になったテーマパークにある種の魅力を感じるタイプなんだ。剥がれた塗装、腐った室内装飾、朽ちゆくインフラといった陰鬱な景観と、子供や大人の興奮した笑い声で満たされるべき場所に耳が痛くなるほどの静寂だけがある不穏な空気が生み出す、あの独特な関係性に惹かれているのだと思う。
ディズニーランド1つに対して、クリンクリー・ボトムのような失敗例は何十ヶ所もあるし、それこそ遊園地が潰れる理由なんて山ほど存在する。財政破綻や経営難、立地の悪さにお粗末な設計チョイス、騒動が収まった後も長々と遊園地に影を落とし続けるような大惨事。いったん下り坂になってしまうと、その遊園地の救済はあまり期待できない。合弁会社たちが介入し、破綻しつつある事業に何百万ドルも注ぎ込んでも、遊園地を水上に漂わせておくのがやっとで、いずれは放棄され、澱んだ汚物の中に沈んでゆく運命だ。
このパターンは歴史上、国ごとに繰り返されていて、遊園地業界の大手でさえ無関係ではいられない。シックス・フラッグス・ニューオーリンズはハリケーン・カトリーナの被害から二度と立ち直れず、保険会社はシックス・フラッグス社にこの遊園地の放棄を促した。あのディズニーでさえ、リバー・カントリーでは失敗を重ね、ついには不吉な雰囲気と廃墟特有の美観のおかげでクリーピーパスタの題材にされるようになった。
しかし、その中にひときわ異彩を放つ遊園地がある。1994年に一般大衆に向けて門戸を開いたドリームランドは、廃墟テーマパークの中でも変わり種だ。私がこれまで話してきた人々の大半はドリームランドの表層しか知らない — つまり、イギリスの観光産業の衰退によって経営不振に陥った幾つもの海浜テーマパークの1つに過ぎないという訳だ — だが、その短い歴史の中で起きた不可解な事件は、数え切れないほどの都市伝説の火種となっている。
まず、軽い歴史の授業から始めなければいけない。60年代から70年代にかけて、イギリス国内の休日観光産業は、夏休み期間にパッケージ大陸旅行を展開するヨーロッパの格安航空会社との激しい競争によって深刻な衰退期を迎えていた。長い夏場に海辺のリゾート地を訪れる行楽客に大きく依存していたイギリスの海浜テーマパークは、年間収入の大幅な下落に直面した。当時のドリームランドもまた、インフラ、娯楽施設、乗り物などを売却して収支を合わせ、営業を続けるテーマパークの1つに過ぎなかった。
80年代後半にもなると、ドリームランドにかつての面影は無かった — 生気の無い空っぽの抜け殻だ — そして90年代初頭、経営者たちはとある未上場の合弁会社に買収された。1991年、元々のドリームランドがあった場所、ケント州のマーゲートという活気の無い海辺の町で本格的な再開発事業が始まった。生まれ変わり改善されたドリームランドは、“皆様の最も奔放な夢を現実に変える”ことを約束し、1994年の夏にグランドオープンすることが決まった。新しい経営者たちは、夢とリミナリティというテーマを探求し、非現実との境目を越えられるような最新鋭の設備を用意すると請け合った。
地元メディアが我先にと群がって、ドリームランドの当座の経済的成功についての記事を掲載し、数百人もの地域住民の雇用を創出したと報じ、マーゲートの果てしない景気低迷を打開し得る可能性に着目した。入場チケットは夏から秋にかけて飛ぶように売れ、イギリス中の行楽客が電車で、車で、バスでやって来た — ドリームランドが与えてくれる貴重な体験を分かち合おうと熱心に望む人たちばかりだった。
しかし、ここでドリームランドを取り巻く最初の特異性に触れなければならない。この遊園地は現地の新聞やラジオ番組では盛んに取りざたされたが、全国放送の大手ニュースネットワークではほとんど話題にならなかった。その代わりに、ドリームランドの話題は、最初のうちは興奮したスリルの探求者たちの間で口コミとして広まり、やがては巷間の噂だけで何百万人ものイギリス人行楽客の想像力を掻き立てるまでに至ったのだ。
1995年までに、チェシントン・ワールド・オブ・アドベンチャーズやソープ・パークの方がロンドンに近く、しかも安価で人気のある鉄道路線に面していたのに、ドリームランドはブリテン諸島で最も訪問者の多い観光地トップ10に選ばれた。この時点でドリームランドの華々しい成功はほぼ確実視されていた。急ピッチで拡張を進めていたので、地方自治会から定期的な検査や監査が命じられていたが、その専門的な報告書はごく表層の部分しか公開されなかった。言うまでも無く、ドリームランドがマーゲートの地域経済を活性化させていることに、町議会は大いに満足していた。
想像力に没頭する機会を与える、というのがこの遊園地の主要かつ独自のセールスポイントだった。ドリームランドは初期の複合現実技術をテーマパークに導入した草分けだ。立体視・アナグリフ3D眼鏡とサラウンド音響を園内各所で併用することで来場者に没入感を与え、あらゆる最先端の乗り物に野心的な技術革新が盛り込まれた。
毎年、新しいアトラクションが会計四半期ごとにオープンし、人々が遊園地に向ける関心を常に高く維持した。“ドリームランド・エクスペリエンス”はループ構造になっている木造骨組みのジェットコースターで、1995年にたった2週間だけ運行した。これは“シーニック・レールウェイ”の部品や木材を使って建造されたと伝えられている — 再開発前のドリームランドのメインアトラクションだった別な木造ジェットコースターだが、残念ながら1971年、走行中の大火災で焼け落ちた。“ナイト・メア・ハイダウェイ”は鏡張りの部屋を幾つも通り抜けるダークライド・アトラクションだったが、乗客の感情に合わせて鏡が向きや映り込むものを変化させ、更にその感情を増幅したらしい。
ウェブサイトで紹介された2つのライド、“シンクホール”と“ヘルター・スケルター”は、ドリームランドで最後にオープンしたアトラクションの一部だ。巨大なドロップタワーの“シンクホール”は、1996年中に敷地の下に形成され始めた陥没穴の上に建てられたという触れ込みで、乗客たちを遊園地の地下構造の深部へと突っ込ませた — 尤も、このライドの名前の裏にある物語は恐らくただの宣伝だろう。一方、“ヘルター・スケルター”は、ドリームランドによれば世界一長大な鉄骨組みのジェットコースターだった。
グランドオープンから僅か3年後の1997年、ドリームランドの扉は永久に閉ざされることになる。“シンクホール”と“ヘルター・スケルター”を含む最新アトラクションは取り壊され、遊園地自体もコンクリートで舗装され、跡地は一夜にして商業用の駐車場に再整備された。
ドリームランドの運営陣は唐突な閉園について何一つ説明せず、違法行為の噂がインターネットのいつもの片隅に流れ始めるまで、そう長くはかからなかった。慢性的な人手不足、職場でのいじめ、財政面での不正行為、予防できたはずの事故といった疑惑が、IRCサーバ、掲示板、フォーラムの書き込みなどでドリームランドに向けられたが、これらの主張はいずれも裏付けられていない。
ドリームランドに関する公式文書は乏しく、この遊園地に言及したごく少数のイギリス国内メディアの報道にも、直接的な引用や出典がほとんど見られない。間もなく、ドリームランドの代表弁護士たちは地元メディアに対して名誉棄損の差し止め請求を始め、更にはマーゲート図書館の公文書庫にドリームランドの機密文書が紛れ込んでいたとして、地方自治体にも一連の返却命令が出された。その後の数年間で、何故ドリームランドの運営者たちがその歴史を隠蔽しようとしたかが明らかになる。
ライドの事故や技術的問題は日常茶飯事で、ライドは頻繁に分厚い防水シートを被せられて立入禁止扱いになり、区画全体が安全対策テープや三角コーンで封鎖されたこともあったようだ。やがて、敷地内で起きた1つの謎めいた事故について、曖昧模糊とした情報が浮上してきた — 曰く、“ドリームランド・エクスペリエンス”の乗客13人によって大人5人が殺害され、他多数の乗客たちが重傷を負ったという。メディアや地元住民の間で憶測が飛び交ったものの、ケント警察による地道な捜査で、この事故は無謀かつ不注意な行為で自分の命を危険に晒した乗客たちに過失があったと結論付けられ、すぐに鳴りを潜めた。
マーゲートから鉄道ですぐの場所に住んでいる私は、幾度かドリームランドの跡地を訪れたことがある。20年以上経った今、その土地にドリームランドがあったことを示す決定的な証拠は、イギリス最古のジェットコースターの惨たらしい死骸 — 絵に描いたような海浜地の町に聳える、腐りかけの木材と剥がれかけの鉛塗料から成る蛇めいた背骨 — そして、板張りされた入口に建っている老朽化した赤レンガの建物だけだ。崩れかけのレンガの壁にはピンク色の文字がうっすらと浮かび、遊園地の名前の汚れた名残だけを残している。
ドリームランドにはそれなりに個人的な繋がりもある。私の家族は80年代初頭には定期的にあの遊園地に足を運んでいたが、私が生まれた後の1995年、家族総出でドリームランドを訪れたのが最後だった。何しろ当時は子供だったから、ドリームランドのことはさっぱり覚えていない。眠りに落ちる寸前のような霞がかった記憶だけだ。奇妙な話だが、これまで話した人々の中にも、ドリームランドのはっきりとした思い出がある人は全くいなかった。
ドリームランドについて地元住民たちに訊ねてみれば、彼らはどこか遠い昔を思い出すような口調で、90年代半ば頃は確かに洒落ていたが、決して傑出した遊園地ではなかったと語る。あらゆる点から見て、ドリームランドは世界にかすかな印象さえも残さずに消え去ってしまったようだ。
あの朧げな思い出こそ、ドリームランドの記憶を多少なりとも後世に残すべく一丸となって努力しているアマチュアのテーマパーク愛好家たちに、私が仲間入りした理由だ。ドリームランドの情報検閲のニュースが世間に広まった時、現代のインターネットユーザーたちは、ドリームランドの思い出がかつての所有企業によって隠蔽されないように手を打つことにした — 彼らは過去の過ちを葬り去ることに熱心過ぎる。 www.welcometodreamland.co.uk のスクリーンショットはインターネット上に保存された最古の記録の1つだ。しかし、ドリームランドには、そのアーカイブよりもなお古い物理的な遺物さえも残っている。
“ドリームランド・エクスペリエンス”の閉鎖を巡る事故の噂を思い出してほしい。警察の調査報告書によると、乗客の1人はジェットコースターのカートから放り出され、その頭は木造線路とそれに沿ってカートを推進するためのチェーン機構に挟み込まれたらしい。オペレーターが機構を逆に動かし、負傷した後部カートの乗員たちを安全に乗り場へ戻そうとした結果、チェーンがゆっくり逆回転し始めた時の力で、挟まれた乗客の顔からは皮膚が剥ぎ取られた。そして、1971年の“シーニック・レールウェイ”の火災事故の際、民事訴訟の証拠資料として提出された検視報告書は、当時のジェットコースターの木材に火が付いた時、1人の乗客が同じ負傷で死んだことを示しているのだ。
EmleyMoorMysteries 22/02/23 (木) 00:32:24 #76967255
ここ数年になって、私は両親が屋根裏部屋で保管していた古い写真アルバムを数冊手元に置くことになった。そのうち1冊に、両親が1995年にドリームランドで撮影した一連の写真が入っていたが、現像されていなかった。父が“ドリームランド・エクスペリエンス”に乗っている下の写真は、私が2017年に知人の下に持ち込み、専門職の手で現像してもらったものだ。
母は今でも、このポラロイド写真を撮影した時、父の隣にも後ろにも、誰も乗ってはいなかったと言い張っている。