Info
翻訳責任者: FattyAcid
翻訳年: 2024
著作権者: HarryBlank
作成年: 2021
初訳時参照リビジョン: rev.16
元記事リンク: https://scp-wiki.wikidot.com/whose-lake-is-it-anyway
結局のところ湖は誰のものなのか?
サイト-43とイッパーウォッシュ危機
全セクション主任
ネクサス外交セクション

聞かないことを選んでも、聞こえなくなるわけではない。
— キシュケディー、オジブワ族の長老、1963年
機動部隊ガンマ-5の隊員たちが、イッパーウォッシュ州立公園の端に立ち尽くしていた。その場所は、彼らが決して越える勇気のない境界線だ。まだ9月だというのに、周囲の空気は氷のように冷たくなっていた。彼らが持っていた高性能な通信機器は失われていた。鼻が無く、かん高い声の毛むくじゃらの小さな子供たちに持ち去られ、ヒューロン湖に引きずり込まれたのだ。航空支援は手を振って拒否された。周囲の松林を吹き抜ける季節外れの強風のために、飛ぶことができなかったからだ。暗闇の中に巨大な影が浮かび上がり、人間のような、しかし同時に獣でもあるような姿が、保護された土地に近づくエージェントらに向け、唸り声で威嚇するのだった。小さな何かが草の下を駆け回り、迷える兵士の足を傷つけたり、両足の靴ひも同士を結びつけたりした。キャンプ・イッパーウォッシュは紛争の真っ只中にあり、ガンマ-5は、その地下1kmに存在するサイト-43の発見を阻止すべく、アニシナベ族の抗議者たちを公園から追い出すために派遣されていた。しかし、彼らはその先には進めなかった。サイト-43は孤立していた。
1928年、オンタリオ州南部のストーニー・ポイント・ファースト・ネーションは、開発業者に対して377エーカーの土地を売却した。当初、交渉は丁重なものだった。しかし、彼らが売却を拒否すると、インディアン問題省は無作法な態度を見せ、同意を強要した。1928年に失わなかったものは、1936年と1942年に失うことになった。前者はイッパーウォッシュ州立公園の創設を、後者は国防省による戦時措置法の発動を指す。ストーニーの住民たちは、かつて故郷だった悲しき残骸、国防省キャンプ・イッパーウォッシュへと変貌した土地に対して5万ドルを受け取り、ケトル・ポイント居留地へと移住した。そこは、より適切な場所が見つかるまでの一時的な住居だということになっていたが、大方の予想通り、結局そのような場所は見つからなかった。オカルト・超自然活動委員会 (OSAT) が、兵器として利用できる超常存在を探すため、失われた墓を暴き、彼らの聖地を荒らし回る中で、先住民たちはそれを恐怖に震えながら見ていた。彼らはその後30年間、抗議活動を続けることになる。

イッパーウォッシュビーチ、1996年
彼らはいつも次のように尋ねる。「なぜ未だに文句を言っているのか?」と。「私が若者だった頃にも、子供だった頃にもお前らの文句を聞いた。両親も祖父母もお前らの文句を覚えている。それなのに、なぜ未だに言い続けている?」と。私は次のように返すが、大抵好まれる答えではない。「私たちが文句を言ったのはただの一回きりだ。これは問題が起きたときに言い始めた文句で、問題が解決すればやめるつもりだ。そうなるかは私だけの問題ではなく、君たちにもかかっている」と。
— キシュケディー、オジブワ族の長老、1966年
ストーニー・ポイント居留地は、第二次世界大戦の終結とともに元の住民たちに返還されるべきだったが、国防省は依然として軍事訓練のために土地が必要だと主張した。キャンプ・イッパーウォッシュは稼働中の軍事施設だったが、同時にサイト-43の隠れ蓑でもあった。1981年、ピエール・トルドー首相は、冷戦の状況下における超自然研究の重要性とストーニー住民たちの敵意の高まりを理由に、V・レスリー・スカウト博士に対してサイトを放棄して地域全体をOSATと国防省に委ねるよう助言した。スカウト博士は代わりに外交的解決を追求し、十分な信頼と時間さえあれば全ての関係者を満足させることができると約束した。過去30年間、彼は完全に信頼できる人物であることを証明してきており、彼ほど先住民との交流経験を持つ財団職員は他にいなかったが、当時は信頼も時間も不足していた。スカウト博士は、財団の業務の重要性と、ストーニーの住民たちによる土地主張の正当性をカナダの政治家に納得させることに非常に苦労した。特に、SCPデータベースの概念と周辺地域のネクサス-94分類に対して軽蔑の念が向けられた。
この手の問題に関しては、私もある程度経験がある。一つ助言をしておこう。あの連中はな、自分たちが何かに分類されることさえ認めないのだ。1それで、君らは連中の精霊を分類するつもりだと? 幸運を祈る、としか言えんな。
— ピエール・エリオット・トルドー、カナダ首相、 1981年
1993年5月、ストーニーの住民たちは、第二次世界大戦がまず間違いなく終わったと判断した。国防省による抑圧は組織的抵抗の可能性を考慮していなかったが、すぐにそれに直面することになった。ストーニー住民の一団がキャンプ・イッパーウォッシュに (平和的に) 侵入し、施設を占拠したのだ。守備隊は退避せず、彼らと抗議団の間の緊張状態のため、サイト-43のメイン上部エレベーターは即座に使用不可能になった。サイトへのアクセス手段は、グランドベンドの町と繋がるセクション間地下鉄システムのみとなった。これにより、物資と人員の行き来自体は依然として可能だったものの、同地域における財団の活動は、長時間の列車移動が必要になったことで大きく妨げられた。外から公園へ入り、先住民たちを追い出そうとする財団の試みは、外部のオンタリオ社会から同地を隔絶するためにネクサス-94が生み出した、神話的な生物たちの強力な抵抗を受けた。この時ほど、かのヒューロン湖の施設が遠くにある、あるいは隠されていると感じられたことは無かった。
こんなに惨めな状況にいるのが、こんなに幸せだったことはないわね。今じゃ全ての、本当に全ての業務に2倍の時間が必要になった。新しいアノマリーは運び込めないし、ラボの在庫だって補充できない。本当に窮地に陥ってるのに、この状況は終わりそうにない。私のプロジェクトの半分は、何の面白みもないままに停止してる。いずれは何かしらの対策を立てなきゃいけないのは明らかで、だから嬉しい。落ちてくるのが分かってるのに、天に唾を吐くのが好きな奴はいないわ!
— リリアン・S・リリハンメル、本人確認・技術暗号セクション次席研究員、1994年
1995年7月29日、国防省はキャンプ・イッパーウォッシュを放棄した。その翌日、サイト-43管理・監督セクションの新主任アラン・J・マッキンス博士が、上部エレベーターを再起動させて占領地域に入った。彼は抗議者たちに正体を明かし、キャンプ・イッパーウォッシュはネクサス-94の長老たちが過去50年間に渡って交渉してきた秘密組織の隠れ蓑にすぎないのだと説明した。「ニムキィ」という偽名を名乗るストーニーの戦士が、その主張が正しいことを証明するよう強く要求した。マッキンスはそれに同意し、ニムキィ1人だけをエレベーターまで連れて行くと、サイト-43への入場を許可した。
先住民に対する我々の規定の対応方針は、協議だ。そして、仮説の検証が私の仕事だ。
— アラン・J・マッキンス、サイト-43管理・監督セクション主任、1995年
ニムキィはマッキンスに見せられたアノマリーに感銘を受け、サイト管理官と協定を結んだ。それは、前者がOSATの州立公園での活動に不満の矛先を向けるように仲間を説得し、後者はストーニーの先祖伝来の土地の返還を真剣に追求するというものだった。ニムキィはこの成果と共に抗議団の仲間の所へ戻ったが、彼らはマッキンスによる介入の前から公園への遠征を計画していたのだった。

マイク・ハリス州首相
一方で、オンタリオ州政府は抗議活動に憤慨していた。当時、これらの抗議はメディアの注目を集めるようになっていたが、これはマッキンスが舞台裏で密かに煽っていたためだった。マイク・ハリス州首相は、スカウト管理官との非公式な会合の中で、イッパーウォッシュでのOSATと国防省の実験を「全く無意味なオカルトだ」として非難していた。彼が率いる進歩保守党は「コモン・センス改革」の旗印を掲げて当選し、予算を削減し (これによりハリスには「ナイフのマイク」のニックネームがついた) 、政府資金の不正使用を、実際に不正があったのかどうかにかかわらず、取り締まってきた。ハリスは抗議活動を不快な妨害とみなし、財団による居留地への浄水供給は政府の管轄を侵害していると考えていた。1995年9月4日、ストーニーの住民たちがキャンプ・イッパーウォッシュを出て、イッパーウォッシュ州立公園を占拠したとき、ハリスはこれを、厄介者の両方を一度に排除する好機だと考えた。彼はオンタリオ州警察を通じて、先住民たちと財団の両方に当該地域から立ち退くよう要求し、さもなければ報復措置を取ると脅迫した。
ハリス州首相は抗議行動を速やかに解散させたいと考え、また、その道徳的・法的根拠を認めなかった。結果、州警察は "衝撃と畏怖" 戦術を採用することとなった。彼らは空にヘリコプターを飛ばし (ネクサス-94に生息する神話的存在が生成したと思われる氷結した雲と乱気流のため、これは困難を極めた) 、湖にボートを走らせた (これはSCP-5494による攻撃の標的となった) 。私服警官が占拠地に潜入し、狙撃兵がキャンプと周辺地域の間の全ての出入りを追跡していた。疑惑とパラノイアが双方に広がった。
ハリスは能無しだ。スキーのインストラクターに州政府を運営させるとこうなる。奴が言っていた「私はインディアンが怒っていることに対して怒っている」なんてのは、今までの人生で私が聞いた台詞の中で最もスキーインストラクター的なお言葉だったよ。
— ハロルド・R・ブランク、記録・改訂セクション次席研究員、1995年
州警察は抗議者たちを繰り返し挑発したが、他のネクサス-94コミュニティの先住民たちが連帯のために来訪したことで、抗議者の数は膨れ上がっていた。OSATと国防省は、「イッパーウォッシュ危機」と呼ばれるようになったこの事件に対する、厳しく、そして今や世界的になった監視の目を避けようと、公園から撤退した。この注目も、マッキンスが仕組んだものらしかった。1995年9月6日、マッキンス博士はトロントのオフィスにて、激怒しているハリス氏と面会し、その会話は全て記録された。
マッキンス博士: それが不可能だということは、あなたもご存知のはずです。
ハリス州首相: あなたがたには不可能なことは何もないと思っていたのだが? 連邦の首相にも、(前州首相の) ボブ・レイにもそう言っていた。あなたがたは政府を倒せる力を持ちながら、あのちょっとした抗議活動はどうにもできないと?
マッキンス博士: あなたの頑固な態度のせいで、我々の施設に対して世間の注目が向いているのですよ。あなたは我々の活動を積極的に妨害しています。誰かが方針を変えなければ、すぐにメディア報道が殺到することになるでしょう。
ハリス州首相: 方針を変えるべきなのは、犯罪者たちの方だろう。なにせ、そう、連中は犯罪を犯しているんだぞ。
マッキンス博士: 状況が悪化しているのは、あなたが交渉を拒否しているからです。
ハリス州首相: 正当な政府は武装反乱軍とは交渉しない。
マッキンス博士: 武装ですか……? 抗議団が武装しているのは、あなたが威圧的に武力をチラつかせているからに他なりません。彼らが抗議しているのは
ハリス州首相: 連中には抗議すべきものなど何もない! 君たちがあいつらを擁護するのは、我々がそこに行って、君たちのチッポケなインチキをひっくり返してしまうのが怖いからだろう。オタワの全員に、君らの矢筒が空っぽだと見せられるのが
マッキンス博士: では、我々のことを嘘つきだと思っているから、平和的な抗議活動を妨害したいのですか? 我々の助けが欲しいから、我々を侮辱し攻撃しているのですか? あなたの望みは
部屋の扉が開く。ハリス州首相はそれに気づかない。
ハリス州首相: 私の望みだと? そんなもん、あのクソッタレのインディアンどもを公園から追い出すことに決まっているだろうが!
沈黙。
チャールズ・ハーニック司法長官: ……首相?
この会合の後、ハリスは抗議者たちを24時間以内に排除するよう要求した。その夜、州警察は公園を封鎖し、軍用兵器と暴動鎮圧用装備を使用して前進した。それから、数件の騒動が起きた。抗議者の犬が溝に蹴り込まれ、数人の戦士 (ニムキィを含む) が暴動鎮圧用の警棒で殴打され、ストーニー住民の車両に向かって発砲がなされ、州警察のケン・ディーン巡査部長代理が、ライフルを所持していたという根拠のない容疑によって、抗議者の1人であるダドリー・ジョージを射撃した。州警察はジョージとその家族をイッパーウォッシュに1時間以上拘留し、結果としてジョージは死亡した。その後の広報上の失敗により、州や連邦の部隊は公園でこれ以上の活動を行わなくなった。ストーニーの先住民たちは道徳的にもメディア的にも勝利を収めたが、後者では警察に有利な報道がなされることが多く、抗議活動の違法性を強調する傾向があったため、一長一短であった。
彼らは私を野蛮人か雇われたチンピラのように扱った。呼ぶ声に応じて現れたから、助けが必要な人を助けたから。占拠が始まったとき、私はケトル・ポイントに住んでおらず、アルバータ州の大学にいた。しかし、私は帰郷することにした。それが正しいことだったから。居留地の外から行動する人間が十分にいなかったから。私は何を知ったか? 聖地の地下では、大勢の人々がじっとしていた。彼ら自身もそれを好ましく思っていなかった…… しかし、それでも動かなかった。私は、彼らを立ち上がらせることができるかどうか試したいと思ったのだ。
— ニムキィ、1996年

ダルトン・マッギンティー州首相
ジョージの死去、そして占領軍の解散の後、ニムキィは財団に対して約束を果たすようにと要求した。スカウト博士はニムキィに対して、ネクサス-94居留地を担当するサイト-43の連絡員として彼を雇用することを申し出た。この申し出は受け入れられ、ニムキィはネクサス外交セクションの初代セクション主任となった。ハリス政権の予測不可能性と好戦性を意識したマッキンス博士は、ハリスとイッパーウォッシュ危機との関連付けを強化することによって、ハリス政権が崩壊するように画策した。2003年の州選挙において進歩保守党がついに敗北すると、当時サイト管理官に就任していたマッキンスと、全セクション主任 (かつてのニムキィ) は、自由党のダルトン・マッギンティー州首相に対して、占領と警察の対応についての調査を実施するよう圧力をかけた。マッギンティーは喜んでこれに応じたが、その数年後には彼自身の政権もまた、カレドニアの町近くで起きた同様の抗議活動において、その焦点となることになった。
もちろん、私は彼らがこのような形で抗議することを望ましくないと考える。それは一般大衆を危険に晒しすぎるからだ。そして、彼らの土地を開発することについての問題は、今後も議論を続ける必要がある。しかし、ハリスはその方法を誤った。それを指摘することを、私は全く残念には思わない。
— ダルトン・マッギンティー、オンタリオ州首相、2004年
ダドリー・ジョージを殺害したディーン巡査部長代理が証言の前に交通事故で死亡したことで、調査は疑わしい後退を余儀なくされた。しかし、マッキンス博士には切り札があった。彼はハーニック元司法長官を脅迫し、首相の人種差別的発言を公式記録に残させたのだ。ハリス、州政府および州警察は、ストーニーの先住民たちの正当な主張を怠慢かつ敵対的に受け止め、実際の情報ではなく、人種差別的で無知な感情に基づいて行動していたことが判明した。それでも、イッパーウォッシュ州立公園が先住民の手に再び帰ってくるのには、2015年まで待たなければならなかった。
しかし、スカウト博士が1996年に引退したとき、彼は自らの遺産が確実に継承されたことを間違いなく確信していた。
どれほど有能であっても、自分のささやかな人生の成果を安心して譲り渡せる手は思い浮かばなかった。そこで、私は、可能な限りの多種多様な手を集め、彼らに仕事をさせることにした。最後には、そのうちの2組が、まるで自分自身の手かと思えるほどになった。マッキンス管理官と、その比類なき副官ならば、よもやボールを取り落とすことはないと確信している。
— V・レスリー・スカウト、元サイト-43管理官、1997年
こうして現在、サイト-43とネクサス-94は、カナダで最も人口の多い州においてほぼ自治的な異常政治体制を代表している。連邦政府は、我々の存在によって課せられた制限に苛立ち続けてはいるものの、我々を追い出したり信用を失墜させたりする行動を起こすことはなくなった。スカウト博士によって創始され、マッキンス博士によって完成された、この異常ではあるものの効果的な政策によって、我々は効果的・効率的かつ倫理的な収容の新世紀に突入したのである。これを成し遂げたのは、長きに渡ってこの地に定住してきた地元住民との対立ではなく、むしろ彼らとの協調であった。
カナダのファースト・ネーション居留地は、他に3100ヵ所ある。その全ての地下にも、財団サイトがあれば良かったのだが。