腕力の異常な財団
または財団は如何にして心配するのを止めて筋力に頼るようになったか
かつて財団は彫刻をEuclidクラスオブジェクトとして厳重に封じこめていたらしい。必ず3人以上で入室することとされていた。Dクラス職員がコンテナから全員退室し、収容コンテナが再び施錠されるまで、常に入室した職員のうち2人は彫刻を注視し続けなくてはならなかった。なぜなら彫刻は目を離せば移動し、人間の頚椎を破壊できるものとされていたからだ。
かつての財団は彫刻をマッサージ器替わりには使っていなかった。
かつての財団じんるいは、弱かった。
一万数千年前。ユーラシア大陸の西端。まだオーストリアという名前がつけられるはるか昔。その地に住まうある部族の中の原始的な生殖器崇拝によって誕生したその神格は、元来は単に"強さ"の象徴として信仰されていた。強靱性、勇敢性、好戦性。獣を狩猟する男達の、あるいは敵対部族を殲滅する戦士達の守り神として、原始的な父権制社会におけるマッチョイズムの擬人化された存在だった。敵対部族との衝突により部族が滅亡し名前を忘れられてもなお、その神格は時代を超え様々な神と同一視されることで姿を変え、力を得てきた。ローマのメルクリウス、ギリシャのヘルメス。果ては彫刻や絵画の肉体美の観念、アスリートやボディビルダーの筋肉に対する熱狂的執着。それらと自らを誤認させ、混ざり合い、寄生することでそれらへの信仰を喰らって存在し続けてきた。
「肉体美を追求するマッチョ・マンのための魔術的ボディビル研究会」。アメリカで活動していたその異常団体は、魔術───奇跡論という超常的技術を用いてその神格を形而下現実に降ろした。召喚されたその神格は、筋肉の神として顕現した。彼は信者達の求めに応じ、その権能を現実に奮った。儀式に参加していた96人の筋肉信奉者達は遺伝子を改変されミオスタチン関連筋肉肥大が発現した。彼らのあらゆる行動は筋組織への負荷へと収束し、その負荷により破壊された筋繊維は破壊と同時に因果律により生き物の域を超えた超回復が行われ際限なく肥大を遂げた。本来ならば死に至るような、本来のヒトの機能では到底耐えきれないような影響を受けてもなお彼らが生存し続けたのは、彼の行使した奇跡論術の強力さゆえに実現したのだった。
だが、彼の力はそれだけに留まらなかった。筋肉信奉者によって現実へと降ろされた時点では、狂気に満ちたマッチョ・マン達のオリジナリティに溢れた儀式のみを捕食して互酬的に力を奮うだけだった。だが時間が経つにつれ彼は完全なものに近付き、ノウアスフィアにおける彼の姿───あらゆるマッチョイズムを信仰として喰らう健啖家の姿を現実に現していった。
財団が察知した時には、既に力の源泉たる信仰観念はもはや彼らの崇拝に限定されていなかった。強靱性、勇敢性、好戦性。数千年の時を経てもなお人類から失われていなかったその暴力的な概念。社会の発達と共にそれらの観念は人類に浸透し、複雑化し、多様化した。彼は人類のその無尽蔵とも言える"信仰"を捕食し、現実に獲得した肉体は不滅と化した。そして彼は己への信仰を現実における不変のものとするため、己の存在を絶対のものとするため、そして、全ての人類の上に絶対の神として君臨するために、現実の征服を成そうとしていた。強靭性を以てあらゆる反抗を抑圧し、勇敢性を以て信徒からの信仰を得て、好戦性を以てあらゆる存在を侵略する。
財団が干渉した時にはもう既に神格───EE-73618は、もはや解体できない域に達していたのだ。
本来弱いうちに討ち滅ぼされるはずだったこの神格は、滅されるべき時期を経てもなお成長し続けてしまった。
このタイムラインでは、財団は一手遅れてしまった。
時刻: 地球 UTC 0158
日時: 2017年██月██日
全財団サイトへ警告 - コードレベル赤 - 最高優先度
確実なCKクラスシナリオが検出 - 蓋然性 99.99%
異次元サイト記録と財団サイト記録の間に9億6万8740個の不一致が検出
予測されるCKクラスイベントの重大性は極めて重篤な現実不全
装置稼働状況:適切
財団戦術神学部門と世界オカルト連合は合同作戦を展開し、強大な神を討滅する術を模索した。
あらゆる物理的攻撃を跳ね除け、脊椎動物の筋組織の発達と退歩を操作し、時空間を捻じ曲げ、奇跡論と現実改変により理外の超常現象を引き起こしたその化け物はほとんど無敵と言っても差し支えない存在だった。人類が彼を殺さんと武力を結集させれば、その行動や心理に存在する好戦性や強靭性、または兵器や武装に対する信仰を喰って強化してしまった。戦おうとすれば神格は力を増し、戦わなければ神格は侵略を続ける。人類は手も足も出せないはずだった。
両組織による武力の投入にも関わらず、神格は全世界的な現実の再構築を引き起こした。神格は歴史を遡り、人類という種自体を改変した。財団で"CK-クラス:再構築"と呼ばれるその現象により、財団の保有下にある全てのCKクラスシナリオ検出器CK-Class Scenario Detectors, CSDがアラートを吐き、これ迄人類の歩んできた歴史は大きく捻じ曲がってしまった。その神格はこれにより人類から揺るぐことの無い絶対の服従と信仰を獲得するはずだった。
だが、そうはならなかった。その神格には誤算があった。
現実再構築によりHomo sapiensは、強力な肉体を得た。かつてミオスタチン関連筋肥大と呼ばれた筋肉の過剰な成長を抑制するタンパク質が欠乏する遺伝子疾患が全人類のゲノムに刻み込まれ、ミオスタチンの欠乏による諸悪影響が肉体に及ばないように他の遺伝子も補完的に改変された。人類という種の強靭性は強化され、勇敢性は膨れ上がり、好戦性は増大した。
端的に言えば、全ての人類がつよくなった。
神格は呆気なく殲滅された。神格自身の力で種として強くなった人類は強靭かつ好戦的な群れと化し、彼らの培ってきた超常的な技術と相まって神格のもつ権能を凌駕するに至った。激甚と評するに価する神格による被害も、人類が強くなってしまったことで遡及的に改変が及び無かったことにされてしまった。神格は死に、現実下の肉体を喪失した。神格との戦闘によって生じた被害も、財団が隠蔽可能なレベルだった。こうして世界は以前と同じように存続することとなった。
ただ一つ、異常につよくなった人類を除いて。
「これが真相、というわけか」
ジャック・ブライト博士は画面上の資料に目を落としながら言った。
除外サイト。スクラントン・ボックスの技術を利用して作られた、この世界から意図的に"除外"された施設。CK-クラス事象の発生による遡及改変から情報を保護する。外部とサイト内の情報のズレから再構築の発生を予測する役目もあり、CSDが置かれている場所一つでもある。つまりは、潜在的に進行するCK-クラス:世界再構築シナリオの影響から免れることのできる場所だ。
その除外サイトの中からある実体が発見された。除外サイトの職員の人格と知能を持ち、除外サイトの職員として振る舞う実体。記録上もそれらの存在が正規に財団に雇用されたことを示しているが、その外観は明らかに現生人類とは異なっていた。彼らは財団に、"筋肉の神"が降臨してHKクラス: 神的征服シナリオが発生したこと、それに伴って発生したCKクラス事象とその顛末を報告したのだった。報告を受けたO5評議会は各部門から研究者を招集し、その事実確認を行っていた。ブライトはその調査チームの一員だった。
「連中のゲノム解析はどうだ?もう済んでるだろう?」
ブライトがそう言うと、生物学部門の担当者が「えぇ」と答え画面上に解析結果を表示した。
「結果から申しますと、彼らのゲノムの大部分は我々ホモ・サピエンスに類似しています。しかし、骨格筋分化抑制遺伝子であるMstnに共通した顕著な変異が見られます。彼らはミオスタチン筋増殖不全症候群に類似した状態にあるようです」
「ミオスタチン量が多い故に骨格筋が発達しにくい、というわけか」
「信じ難い。これ程迄に脆弱なもやしみたいなのがCK-クラス以前の人類だと言うのか?」
調査チームのメンバーが口々に言った。彼らは諸々の証拠を元にある結論に辿り着いていた。その結論とはつまり、除外サイトから発見された実体はCKクラス事象を免れた財団職員だということだ。異常に筋肉量が少なく、体中が骨張っているか病的な脂肪層が皮下を覆っているこの存在こそが、ついこの間まで人類の名を冠していた生物なのだ。
「彼らを見るに、どうやらCK-クラス事象によって我々人類はつよくなったらしいな」
彼ら除外サイトの職員達がオブジェクトに指定されるのか、或いは除外サイトでの任務に再び就くのかは分からない。だが、少なくとも彼らの報告と一連の情報はクリアランスレベル5以上の高度機密に指定されるのだろう。誰の目に触れぬように隠蔽され、人類はもともと頑強な生物だったということになるのだ。
ブライトは調査チームの面々の顔を眺めてそんなことを考えながら、会議中にも関わらず腕橈骨筋を意識して黙々とダンベルカールを続けた。