少し昔の話である。
ここは、███にある、とある大きな舞台。
男は、そこに立っていた。
たった1人で、胸をはり。
その男のために集まった、無数のファンの思いを一身に受け、いつもの口調で陽気に喋る。
革製のカウボーイハットにチェック柄のシャツ、腰には大きなフォークとナイフ。
そして手には、1つのヴィブラスラップが握られている。
そんな「彼」の「お笑い生き方」に、ある者は惹かれ、ある者は慕い、ある者は惚れ込み、ある少年は憧れを抱く。
そんな「彼」のファンに、「彼」の姿を見ている人に、そして「彼」の相棒に。
そういった全ての人達のために、「彼」は自分の「お笑い生き方」を示す。
ネタが進む、もうすぐだ。会場のボルテージが上がっていく。
何故かって?そう、「彼」があの言葉を叫ぶからね。
そしてその時、独特な持ち方の、ヴィブラスラップが鳴り響く。
そして「彼」は、いつものようにこう叫ぶ。
「……夢……?」
そして彼、エージェント・井戸田せいどだこと、反ミーム師匠は起床した。
今日、特に任務もない反ミーム師匠はサイト内を練り歩いていた。自身のギャグを、道行く職員達に披露しながら。
そうやって廊下でひたすらに叫ぶ彼に、ある者は困惑し、ある者は苦笑し、またある者は冷ややかな目を向ける。
それを、全身がギャグで出来ているような、この男は気にしない。これが彼の日常であり、生き方なのだ。
だが、何故だろう。
少し違和感を覚えるのは。いつもなら感じないものを、叫ぶ度に感じる。
何かがないような、それとも何かがあるような。だがそれが、わからない。知らない。思い出せもしない。
何故だろう。
そう、反ミームだからだろうかか。
……
……
……
……そういえば、今朝見た夢はなんだったのだろう。
過去に全く執着しない彼が、珍しく後ろを向いていた。
「あ!井戸田いとださん!やっと見つけましたよ……。」
1人の変人が、そう声をかけてきたのは午後になってのことだった。
肉倉ししくら宇吉郎うきちろう。█年ほど前に財団に就職した研究員だ。財団に就職した経緯として、反ミーム1が最初にこいつを発見したからか、かなり頻繁に絡んでくる。
「毎度いうが、反ミーム、井戸田いとだじゃなくて井戸田せいどだなんだけどね。肉倉にくくらくん。」
「分かってますよ。第1、私の方も、肉倉にくくらじゃなくて肉倉ししくらですよ。」
いつもの会話だ。そのはずだ。
だが何故か、井戸田いとだという呼ばれ方が懐かしく、馴染み深く思えた。
立て続けに襲ってくる違和感に、正直困惑してくる。これをどうにか、ギャグのネタにでも変えられないだろうか。
「……どうかしました?何か気になる事でも?」
「ん?あぁ、今ちょっと考え事をしてたんだけどね。反ミーム、何を考えていたか忘れてしまったよ。何故かって?そう、反ミームは記憶できないからね!」
いやに勘のいい同僚の言葉を、ふざけて笑い飛ばそうとギャグを放つ。そうしてヴィブラスラップを響かせようとした、その時だった。
「井戸田いとだ。」
突然のタメ口に、井戸田は思わず肉倉の方を見た。
「井戸田いとだと、そう呼んだ時の反応が少し変でしたよね。どうしたんですか。」
こいつがギャグを遮ってくるとは思ってもみなかった。
「……いやなに、ちょーっと違和感を覚えただけさ。別段気にする事でもないよ。」
だか肉倉は、またも逃がしてはくれなかった。
「……反ミーム師匠、あなたはそう言いますけどね、それはあなたの過去に関するものかも知れないんですよ。」
エージェント・井戸田は、日本生類創研の廃棄された研究所内にて発見された。
それも、記憶をなくした状態で。
あなたが何か思い出せば、それは日本生類創研の手掛かりにもなりうると、肉倉は付け加えた。
(面倒くさいな……。)
「あ、反ミーム使って逃げようとしないでくださいよ。」
逃げようとしたが簡単に見抜かれてしまい、3度目の正直とはならなかった。……まぁ、2度あることは3度あるとも言うしな。
無関心ですと言わんばかりのエージェント・井戸田の態度を見て、肉倉は少しため息をつく。
「あなたは自分の過去について、どうだっていいとでも言うんですか。あなたにだって夢の1つや2つ、あったはずです。あなたを大切に思う人も。あなたが大切に思うものも。そういった、なくしてしてしまったものはどうでもいいと?」
「反ミーム師匠、あなたは自分の過去や昔の記憶について、どう思っているんですか?」
「……何故、そんな事をお前さんが気にするのさ。」
「何故かって?そう、私は、あなたの大ファンですからね。」
そう言うと肉倉は、かつての少年は、悲しそうに笑った。
忘れもしない昔の記憶。
あの日、テレビで「彼」を見た。
向こう側にいる「彼」は、その少年にとって始めて目にする光景であった。
叫ぶ「彼」と、沸く歓声。
それらは、雛の刷り込みの如く、少年の心に流れ込んでいった。
真っ白だった、少年の心のキャンバスは、バカみたいにキラキラな焦げ茶色で塗りたくられた。
今思えば、始めて見たのが「彼」だったから。
たったそれだけ、そんなちっぽけな理由だけだったのかも知れない。
だが、例えそうだったとしても。
ある少年は、「彼」の姿に、憧れた。
それから少年は、「彼」を追い続けた。
テレビをつける。
嫌な事があっても大丈夫。
彼に元気を貰えるから。
ひたすらに追い続けた。
舞台を見に行く。
何があろうと耐えられた。
「彼」に支えられるから。
醜悪な家庭もクソったれな環境も何もかも。
全部全部、バカみたいに叫んで笑い飛ばす。「彼」を真似て。
盲目に盲信して妄執し続けた。
「彼」の姿に魅せられて。「彼」が見えなくなっていた。それほどまでに「彼」を観る。
少年は、いつまでだろうと追い続けた。
かつて少年だった青年が、その異常に気がついたのは、大学1年生の秋のことだった。
その日、いつものように「彼」のブログを見ようとパソコンの電源をつけた。
最初におかしいと感じたのはパソコンの検索履歴を見た時だった。
なかった。
履歴に一切、「彼」の名前が。いつもなら、履歴はびっしり「彼」に関する事で埋まっているはずなのだが。
不審に思ったが、そんな些細に事は気にせずブログに行こうとした。
だが、ブログには行けなかった。存在しなかった。
これはどういう事なんだ?凍結でもされたのだろうか。
度重なる違和感に襲われつつも、どうしてブログがないのか、情報を調べることにした。
だが、衝撃は三度襲ってくるものである。
ない。ない! 全部ない!
「彼」の名前も情報も。どこもかしこもない、ない、ない。
頭を鈍器で殴られたような、いや、そんなもの以上の衝撃と混乱を全身で感じていた。
異常であった。何もかもが。
あれからひたすら、必死に「彼」を探し続けた。見つからなかった。
何もかもだ。
物も記憶も情報も。唐突に全てサッパリ消えていた。
まるで泡沫の夢のごとく。
家あったはずのグッズ類は全てなく、事務所にも駆け込んでみたが「知らん」と一蹴、追い出された。インターネットの海にも、情報はおろか、覚えている人すらいない。
まだ、今までの全てが、悲しい少年の夢だったと、幻であったと考えた方が現実味のある話である。
だが、そんな事、到底思える筈もなかった。
唐突に手からこぼれ落とすには、あまりにも大きな存在であったから。
「彼」はどこだ。
狂いそうな、いや、実際狂ってしまっていたのだろう。
焼けただれ、ただひたすらに「彼」を探す。
少年の心は焦げてゆく。まるで、鉄板の上の肉のように。
追い求め、追い求め、追い求め。
追い求め、追い求め、追い求め。
探して求めて這って追って。
そして、かつての少年は、「彼」と出会った。
ファンも「彼」も何もかも。真っ白に消えてしまったステージの観客席に、かつての少年はたった1人で居座り続ける。
「私はあなたの大ファンですからね。」
「彼」がまた、舞台裏からひょっこり現れてくると信じている。
「重ねてお聞きします。」
知るためだけに。
「あなたは自分の過去について、どう思っているんですか。」
ここに来たのはそのためだった、その為だけに、財団に来た。危険だとかクソったれな職場だとかは気にしなかった。
ただ、知りたかった。また見たかった。
「彼」が消え、絶望した少年がいる。「彼」の記憶をなくし、絶望すらできない人達がいる。
「彼」は何故全てなくしてしまったのだろう。
「彼」に何が起きたのだろう。
彼は何を思っているのだろう。
「彼」は、どこにいるのだろう。
反ミーム師匠、いや。
彼は、「彼」について考えた。
……
……
……
だが、さして時間はかからなかった。
何故かって?
そう、「彼」はもう居やしないんだから。
向き合うまでもないほどに、「彼」は少なく、薄っぺらい。それっぽっちしか残っちゃいない。
肉倉は、こんな成れの果てに何を望むのだろう。何を求めるのだろう。
「彼」がかつて何を持っていたとしても、最早ほとんどありもしない。
彼は、ハットの正面についている、1つのバッチを触る。
結局はそこなんじゃないだろうか。
だが、彼がきっと、「彼」から多くのものを渡された事は確かだ。
「彼」のように、彼は生きる。
「彼」のように、彼は笑う。
「彼」のように、彼は叫ぶのだから。
過去の自分について、「彼」についてどう思っているか。
反ミーム師匠は、そんな肉倉の問いフリに対する返答ギャグを用意し終えた。
あとはただ、答えるだけだ。示すだけだ。
「反ミームはね、こう思うんですよ。過去の記憶も心に感じるわだかまりも、なくしてしまったものすらも、全てどうだっていい。」
肉倉は黙って、彼を見る。今度は遮る事などなく。
「何故かって?そう……。」
「『反ミーム』だからね!!」
突然の意味不明な返答に、肉倉はポカーンと、混乱したような顔をする。答えとしてどころか、ギャグとしてすら成り立っていないように思う。
それが答えだ。
彼は「彼」なのかもしれない。だが、彼は「彼」とは違う。彼は「彼」の記憶を持ちはしない。財団に救われ、世界の裏側舞台裏にやって来た。井戸田いとだではなく井戸田せいどだであり、ハン█ー█師匠でもなく、『反ミーム師匠』なのだ。
革製のカウボーイハットにチェック柄のシャツ、ハットの正面には、財団ロゴモチーフのバッチ。そして、手には1つのヴィブラスラップが握られている。
肉倉はただ黙って、彼を見る。あの時と同じ感情を心に抱いて、「彼」を見る。
何故かって?そう、彼があの言葉を叫ぶからね。
そしてその時、独特な持ち方の、ヴィブラスラップが鳴り響く。
そして彼は、いつものようにこう叫ぶ。
何故だろうか。
それは過去の名残りなのか。
はたまた、たった1人になった、かつて少年だったファンのためか。
いや、違う。
これが「彼」の生き方なのだ。
たとえ記憶がなくなったとしても、背に1人しか残らなくとも、「彼」が「彼」でなくなったとしても、「彼」は「彼」なのだ。
それが、彼の生き方であり、答えであり、『identity』だ。
だから「彼」は、いつものようにこう叫ぶ。