シガスタン共和国(削除されたページ) - Wikipedia
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シガスタン共和国(シガスタンきょうわこく、シガ語: Шигастан Республикасы)、通称シガスタンは、中央アジアの共和制国家である。北にロシア連邦、東にカザフスタン、ウズベキスタン、南でトルクメニスタンと接する内陸国。カスピ海、アラル海に面している。首都はシガスメンバシ(ウォーツ)。旧ソビエト連邦の構成国であったが、1991年に独立した。
シガスタン共和国
Шигастан Республикасы(シガ語)
Республика Сигастан(ロシア語)

(国旗)

(国章)
国の標語:人を結び、時を結び、湖と結ばれる

首都:シガスメンバシ(ウォーツ)
最大の都市:シガスメンバシ(ウォーツ)
大統領:サマル・I・ガルブレイス
面積:736,297km2
人口:1,400,000人
国名
歴史
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詳細は「シガスタンの歴史(英語版)」を参照
紀元前から近世
古代ギリシアのヘロドトスによる『歴史』によれば、紀元前5世紀ごろにはカスピ海沿岸にオーミと呼ばれるシガスメン人系の民族の小国家が複数存在していて、争いを繰り返していた。また紀元前2世紀から4世紀にわたり、中国とアケメネス朝ペルシアの歴史書には現在のシガスタン聖堂遺跡の位置にシガスメン人系の民族のものと見られる集落連合があったことが記されている。これらの記録を最後に、約200年間のシガスタンについて歴史書の記述が発見されておらず、失われた空白と呼ばれている。しかし近年の研究で、文化的にサーサーン朝ペルシアの影響があった可能性が指摘されている。
その後、6世紀には遊牧民のテュルク系民族が移り住み、シガスタン一帯を支配した。これが現在のシガ人の祖と言われる。エフタルや西突厥、カラハン朝などの侵攻を受けつつもこの支配は継続したが、13世紀にはモンゴル帝国に支配された。これによってシガスタンは東西交通の要衝として急速な発展を遂げる。
その後オスマン帝国に文化的、政治的に影響を受けつつジョチ・ウルス(金帳汗国)、カザフ・ハン国に支配は継承されたが、18世紀前半までにカザフ・ハン国が政治的な統一を失ったため、シガスタン北部はカザフ・ハン国の流れをくむ部族連合体であるアザーイ・ハン国、南部はシガ人系のロカク族を筆頭とした氏族連合王国として独立し、両国はたびたび抗争を繰り返すこととなる。
1723年にはアザーイ・ハン国がロカク族の長ロッカク王を滅ぼし全シガスタンを統一するが、同年から激化したジュンガルのカザフ草原への侵入によってアザーイ・ハン国及びカザフ・ハン国は壊滅的被害を受ける。この1723年から1725年にかけてのアクタバン=シュブルンドゥ(裸足での逃走)と呼ばれるジュンガルの侵攻への対応策として、いまだ統一戦争の傷が残るアザーイ・ハン国は当時東方への進出を狙っていたロシア帝国との外交関係を強化。ロシアの支援を受ける形でジュンガルに対抗した。1726年にカラ・シユルの戦いでカザフ連合軍がジュンガルに勝利したのち、アザーイ・ハン国はロシア帝国に服属を表明し、保護国という形式でその傘下に入った。
シガスタン王国の国旗
しかし、1732年に帝政ロシア軍がカスピ海東岸に駐留し、現在のアド周辺に要塞の建設を始めるとアザーイ・ハン国はこれに反発し、関係が悪化する。アザーイ・ハン国は大英帝国に援助を求めロシア帝国に抵抗を試みたが、ロシアへの内通者によって計画が露見。1740年9月に首都ウォーツは制圧され、新しく傀儡政権としてシガスタン王国が成立された(9月事件)。専門家の中にはこの9月事件を「中央アジアにおけるロシア帝国と大英帝国との覇権争い」という意味でグレート・ゲームの前哨戦として見る向きも存在する。
19世紀にロシア帝国では軽工業を基幹とする産業革命が進行していたが、1860年代前半に勃発したアメリカ南北戦争の影響から、それまでアメリカ合衆国南部で奴隷制プランテーション農業によって生産されていた棉花の値段が上昇したため棉花原料の確保が困難となった。そのためロシア帝国では「安い綿原料の確保」ばかりでなく、「大英帝国による中央アジアの植民地化阻止」及び「平原を国境とすることの危険性」といった観点から、中央アジアへの南進及び領土編入・保護国化(グレート・ゲーム)が進められた。シガスタンは農業が貧弱であったためグレート・ゲームにおいてそれほど重要視されなかったが、周辺国との統一のため1868年にシガスタンは現在のシガスタン東部を含めてイイ総督管区内のヒコーリン州とされた。ロシア領となったことでシガスタンは急速な近代化を遂げ、多数の優秀な人材を排出することとなる。その代表例としてアレクサンドル3世の私的財政顧問であったソスターイェト・タスが挙げられる。
20世紀以降
シガ・ソビエト社会主義共和国の国旗
1917年に発生したロシア革命後はロシア内戦の中で白軍派のヒコーリン臨時政府(1917年 - 1920年)を経て、ソビエト連邦の構成下において1925年に5番目のソ連構成共和国としてシガ・ソビエト社会主義共和国が成立した。この時代から、シガスタンの鉱物資源の豊富さが注目されソ連による開発が進むこととなる。
1949年にはビゥワーミ事件が発生する。これはソ連軍の指示によってシガスタンを経由した放射能廃棄物の運搬作業を行った際、シガ人の監督官の指示がずさんであったことからカザフ人労働者7名が急性放射線症候群で死亡したことを切っ掛けとする。この事件は一連の類似する民族問題が表面化した事件の発生に加え、当時のカザフ・ソビエト社会主義共和国との「戦争前夜」と形容される関係の悪化を招いた。ソ連はこの事件の沈静化のために報道規制や秘密警察の動員を行った。言論弾圧への反発と事件のそもそもの原因をソ連に求める声もあり、シガスタン国民の中での対ソ感情が悪化する原因となった事件でもある。
こうしたソ連への不満は1991年12月16日のソ連脱退という形で表出された。現在の国名であるシガスタン共和国に改名し、独立したあとは1991年12月21日に独立国家共同体(CIS)に加盟した。同年共和国初代大統領にデイ・グアラクが就任し、共産党政権が復活する。
シガスタン内戦
1992年、シガスタン共産党系の政府とイスラム系野党反政府勢力との間でシガスタン内戦が起こる。11月にシガスタン共産党は旧シガスタン王国の王族の子孫であり国民の人気が高かったウージン・ドゥアニラを議長に選び新政権を樹立したが、サラ・I・ガルブレイス率いる反政府勢力が勢いを盛り返し1997年春までにほぼ全土を制圧した。1998年4月最初の和平交渉が行われた。1999年に大統領選挙が行われた結果サラ・I・ガルブレイスが第3代大統領に就任し、停戦命令を発効した。8万人以上の死者を出した内戦は1999年に終結した。国際連合シガスタン監視団(UNMOS)は2005年に和平プロセスを完了させ、以後は国際連合シガスタン和平構築事務所 (UNSOP)が復興を支援した。
2010年6月9日に演説を行っていたサラ・I・ガルブレイスが銃撃され、死亡した。第4代大統領には息子のサマル・I・ガルブレイスが選出されたが、この事件によってシガスタンの情勢は非常に緊迫したものになっている。
地理
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詳細は「シガスタンの地理(英語版)」を参照
シガスタンはカスピ海を挟んで北部と南部、アラル海周辺地域の東部に大まかに分かれる。またシガスタンでは伝統的に、カスピ海のことがバルバット海と呼ばれている。これはシガスタン王国時代に行われた測量調査で、調査員の報告書に記載された「沿岸部は弓なりであり、まるでバルバットの丸みの如くである」という記述が元となって定着したと言われている。
北部
ウラル山脈の南端が位置し、山岳地帯である。面積の半分以上を山地とカスピ海が占めており、可住地面積は狭い。ヨーロッパへの陸路はロシアを経由しなくてはならない。
南部
カスピ海沿岸の低地である。カスピ海にはコトー半島(英語版)が突き出しており(コトー州)、ナガマはシガスタン唯一の不凍港を擁する。シガスタン聖堂遺跡を筆頭とする古代シガスタンの貴重な遺跡が数多くあり、開発が進まない地域でもある。
東部
カザフステップが広がり、アラル海の減少による塩害被害を受けている。ヒコーリン州時代にシガスタンに組み込まれた地域であり、問題が頻発している。
行政区画
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詳細は「シガスタンの行政区画」を参照
シガスタンは以下の6州(Oblys)に区分されている。州
西オーミ州
南オーミ州
クォガー州
東オーミ州
コトー州
コキター州政令指定地区
ウォーツの岩舞台
シガスメンバシ(ウォーツ)‐首都
シガスメンバシ(シガスタン国民の長の意)が正式名称だが、現地や諸外国においても旧名であるウォーツと呼ばれることが多い。主要都市
詳細は「シガスタンの都市の一覧」を参照
政治
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シガスタン官邸
詳細は「シガスタンの政治(英語版)」を参照
シガスタンの国家元首は、直接選挙により選出される任期5年の大統領である。大統領は政府を組閣し、閣僚・最高裁判所長・検事総長・国立銀行総裁を任免、国民投票を実施し、非常事態を導入する権限を有する。また、軍最高司令官を兼任する。
シガスタン内戦終結以来、リレフ・オタン(祖国救済党)が単独過半数を占めており、事実上の一党独裁体制である。
立法府は、下院と上院の二院制である。下院は定数152議席で比例代表制による直接選挙で選出される。上院は定数71議席で、内51議席は国内の民族団体の包括組織であるシガスタン民族総会によって、シガ人とシガスメン人以外のシガスタン内少数民族から選出される。これはサラ・I・ガルブレイスの「すべての声を聞き、救済するべき」という思想から、少数意見を反映するためである。残りの20議席は旧シガスタン王族から選出される。
大統領
詳細は「シガスタンの大統領」を参照
初代大統領 デイ・グアラク
軍閥出身。シガ・ソビエト社会主義共和国の最後の大統領であり、そのままシガスタン共和国の初代大統領に就任した。これは改名に従い政治体制が一新されると期待していた国民の失望と反発を招いた。第2代大統領 ウージン・ドゥアニラ
旧シガスタン王族の末裔であり、ソスターイェト・タスの玄孫にあたる人物。温和な人柄から人気が高い人物だった。シガスタン内戦終結後は政権をリレフ・オタンに明け渡し、アメリカに移住した。第3代大統領 サラ・I・ガルブレイス
初の女性大統領であり、「シガスタン建国の母」と呼ばれる。行政改革やインフラ整備、インターネットの普及などに注力し、弱者救済を重視した政策をとった。世界的にも著名な人物であり、2010年の銃撃事件の際には各国から哀悼の意が表された。旧姓はオイゼラ。第4代大統領 サマル・I・ガルブレイス
サラ・I・ガルブレイスの息子。今までの政策から舵を切ったシガ人を優遇する独裁的な政策が国内外から批判を浴びている。また(シガスタンは発展途上国であるという言及に対して)「石油の輸出を止めてやろうか」といった過激な発言で知られ、「シガスタンのカミナリ」と呼ばれている。主要政党
詳細は「シガスタンの政党一覧(英語版)」を参照
軍事
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シガスタン共和国空軍国籍マーク 低視認型はこちら
詳細は「シガスタン共和国軍(英語版)」を参照
シガスタン共和国軍は陸軍、海軍、空軍、国境警備軍の4軍種から構成されている。大統領は4軍の最高司令官であり、空中機動部隊および空挺部隊、ならびに大統領親衛隊を直轄する。シガスタン共和国軍はロカク族配下の暗殺者集団(クォガーのアサッシン)から引き継がれている特殊な身体訓練メソッドを実行しており、飢餓や乾燥など過酷な環境に対する耐性で知られている。
国際関係
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詳細は「シガスタンの国際関係(英語版)」および「シガスタンの在外公館の一覧」を参照
シガスタンの式服を着用した安倍晋三(ハリトノフ総合大学にて)
隣国であり、旧ソ連時代には同じ国であったロシア連邦と経済統合を進めてユーラシア経済連合を設立するなど政治・経済両面で密接な関係を持つ。ロシア、中華人民共和国、ほかの中央アジア諸国とともに上海協力機構(SCO)のメンバーであり、軍事的にも経済的にもロシア連邦と中華人民共和国の影響力が強い地域である。
またトルコ共和国などを含むテュルク評議会のメンバーでもある。欧米諸国やイスラム諸国、日本を含むアジア諸国とも良好な関係を築いている。カザフスタンの提唱するアジア相互協力信頼醸成措置会議と中央アジア諸国連合に賛同するなど、積極的に国際機構への参加を図っている。
近年では石油パイプライン設置や一帯一路政策を受け入れるなど、中国に接近している。また、サマル・I・ガルブレイスの国内シガ人を優遇する政策方針からカザフスタンとの関係は悪化しつつある。
経済
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シガスタン銀行ロゴ
1000IGS(シガスタン・ソム)札
通貨はソムである。
IMFの統計によると、2017年のシガスタンのGDPは1,215億ドル、1人あたりのGDPは推計8,785ドルである。特に内戦終結後の経済発展は著しく、2004年から2007年のGDP成長率は10.6%に達した。2007年以降は金融危機による世界的な景気の減退とともに経済成長率は鈍化し、2010年 - 2013年は5パーセント前後の成長率で推移している。
シガスタンの経済は天然資源依存型である。2015年8月、原油価格やロシア通貨ルーブル下落の影響を受け為替相場を管理フロート制から変動相場制へ移行すると発表した結果、ソムの対米ドル為替相場は6割下落。さらにその影響でインフレ率が急上昇し、これによる実質所得の大幅減少と個人消費の落ち込みで、景気は大きく失速している。
農業
シガスタンでは穀物栽培や牧畜が行われている。砂漠化が進む近隣諸国と異なり、カスピ海とアラル海に挟まれ水源は豊富だが、もともと土地が肥沃でないのに加え、特に東部はアラル海の減少による塩害で農業は壊滅的な被害を受けている。
石油・天然ガス
色と面積で示したシガスタンの輸出品目(茶色は石油、天然ガス)
シガスタンにおいて石油・天然ガスは重要な経済部門のひとつであり、輸出・国家歳入の約8割を支えている。国営企業のシガスタンガスや、アメリカ政府と共同で出資しているシガスタン石油採掘権株式会社(Shigastan Concessions of Petroleum inc.)が中心となって石油・天然ガス資源を開発・輸出している。そのため、シガスタンは「中央アジアの石油タンク」と呼ばれることもある。2016年11月、新たにカスピ海のアワミ油田が商業生産を開始した。
このように石油に頼った経済のため、現地では「シガスタンにはビアーコ(石油の意)しかない」というジョークがある。[要出典]また、こうした油ガス田がカスピ海沿岸の南部北部に集中していることが、東部との深刻な経済格差の広がりの原因となっている。
観光
世界遺産でもあるシガスタン聖堂遺跡が有名だが、2015年にシガスタン聖堂遺跡の一部が倒壊したことや、内戦からの復興が進まないことで、全体として観光業はあまり発展していない。また、観光ビザに関しては、海外の先進国や新興諸国に比べ処理のスピードなどが遅めであることから、その取得手続きは煩雑である。
日本からの観光については、物価がとても安く、期間にかかわらず滞在しやすい。
交通
国民
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詳細は「シガスタンの人口統計」を参照
民族
構成はシガ人が52%、シガスメン人が20%、ロシア人が8%、カザフ人が5%、ウズベク人が3%、トルクメン人が2%、その他が10%(2015年)となっている。
ソ連時代の名残りにより、国内では現在もロシア語風の姓名を用いる世帯が多い。
言語
カザフ語の方言に近く、一部チュルク語系・印欧スラブ語系の語彙を持つシガ語が公用語と定められている。ロシア語も広く使われ、特に都市部においてはロシア語を母語とし、シガ語をまったく話せないシガ人も多い。上流階級やエリートにはロシア語が必須であり、上級公務員の採用試験にはロシア語のテストがある。
宗教
2009年の調査では、イスラム教が70.2パーセント、キリスト教が26.2パーセント、その他の宗教が2.8パーセントとなっている。イスラム教徒が多数を占めるが服装・戒律とも極めて緩やかで女性の地位も高い。飲酒なども公然と行われている。東部においては厳格なイスラム教徒が多く見られ、イスラム原理主義過激派と新興宗教勢力の衝突が頻発している。
教育
2011年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は77%(男性:83.5%、女性:70.4%)である。主な高等教育機関としては、リトゥメ=イカヌ大学、ハリトノフ総合大学、バルバット海学院大学などの名が挙げられる。特にリトゥメ=イカヌ大学は、中央アジア諸国の中で4本の指に数えられるほどの教育水準の高さで知られている。
文化
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詳細は「シガスタンの文化」を参照
シガスタン人の国民性として「温和で、一徹ではなく、計数に明るく利害に敏感で、蓄財に長じている。文にたけるが武はそれほどでもない。」「地味で着実、おとなしく粘り強く努力する。」とされる。駐日シガスタン大使のユーリィ・ラメンはシガスタンの国民性イメージはソスターイェト・タスに関する伝説から生み出された部分が大きいとしている。モンゴル帝国の時代には錬金術に関する研究がシガスタンで始まり、東西の文化が融合した独自の文化を形成することになった。南部をロッカク王が支配していた時代では、ロッカク王の不死に対する憧れから錬金術には積極的な支援が与えられ、急速に発達した。一部の書物では、この錬金術の研究が由来となって、クォガーのアサッシン達は毒や薬の扱いに優れるようになったとされている。実際に、シガスタンの化学・薬学分野で活躍する企業はクォガーのアサッシン達の子孫が設立したものが多くある。
ソビエト時代には、シガスタンは劇場と有名な小説家を輩出することにより知られていた。
シンボル
シガスタン旧国旗案
シガスタンの国璽
シガスタンではノアザミが国花であり、国のシンボルとして扱われる。これはサラ・I・ガルブレイスがノアザミの花を好んだことが由来であり、公的機関のロゴマークなど様々な場面でモチーフとして用いられる。
食文化
詳細は「シガスタン料理」を参照
牛、馬などの内臓料理が有名である。東部を原産地とする“オーミの骨馬”は高級食材として隠れた人気を誇る。
また、錬金術の研究から副次的に発酵食品の製造技術が発展し、酒類はワインや麦酒など多数の種類が生産されている。発酵技術と豊富な水産物を活かし、なれずしに近いものも伝統的に作られている。
ラーメンの文化が発達している。サラ・I・ガルブレイスが広めたと言われており、最も一般的な種類は醤油をベースとした牛骨出汁である。
一部地域では金属食の習慣が存在している。
文学
詳細は「シガスタン文学」を参照
伝統的なシガスタン文学では、物語の最後に神格や救世主といった存在があらわれ事態を収拾する、いわゆる「機械仕掛けの神」様式が多くの作品で見られる。しかし登場する存在はただ万事を円満に収めるだけでなく、時には物語の関係人物を全て殺害することで問題を解決したり、超常的な力を発揮せず「天の声」のような干渉に留まる場合も多い。そうした側面が「機械仕掛けの神」様式とは異なると指摘する研究者もいる。
音楽
詳細は「シガスタンの音楽」を参照
世界遺産
詳細は「シガスタンの世界遺産」を参照
シガスタン国内には、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が1件存在する。有名なものはシガスタン聖堂遺跡、カン・ノンジー遺跡、ウォーツの岩舞台。
祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考 1月1日 新年 2月6日 種の日 サラ・I・ガルブレイスの誕生日 3月22日 ノウルーズ(イラン歴新年:春分の日) 4月10日 終戦記念日 別名、ノアザミが咲いた日 5月9日 戦勝記念日 1945年にナチス・ドイツがソ連などの連合国に対して無条件降伏した日。これはソ連時代から引き継いでいるものである 6月9日 追悼、全国民服喪の日 サラ・I・ガルブレイスの命日 6月13日 救済の日 7月19日 ラーメンの日 サラ・I・ガルブレイスがラーメン好きであった事から制定された記念日で、現在も引き継がれている。当日はラーメンを称える様々なイベントが行われる 8月25日 ワシの日 国鳥であるオジロワシに由来する 9月30日 憲法記念日 10月27日 共和国の日 11月16日 健康の日 12月16日 独立記念日 1991年にシガスタン共和国がソビエト連邦に対する主権宣言を採択した日 憲法によって、シガスタンの記念日は各月に最低1日あるように設定されている。
著名な出身者
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- ソスターイェト・タス-アレクサンドル3世の私的財政顧問、ラスプーチンとの政争に敗れる
- サラ・I・ガルブレイス-第3代大統領
- ユーリィ・ラメン-現駐日シガスタン大使、翻訳者
脚注
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参考資料
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- 松平千秋訳『世界古典文学全集 10 ヘロドトス』(筑摩書房、1988年、ISBN 4480203109)
- 山田信夫『北アジア遊牧民族史研究』(東京大学出版会、1989年、ISBN 4130260480)
- ストラボン(訳:飯尾都人)『ギリシア・ローマ世界地誌Ⅱ』(龍溪書舎、1994年、ISBN 4844783777)
- アッリアノス(訳:大牟田章)『アレクサンドロス大王東征記 上』(岩波書店、2005年、ISBN 4003348311)
- サラ・I・ガルブレイス(訳:ユーリィ・ラメン)『ノアザミの咲いた日~紛争地帯を統一した世界一の女性大統領~』(2005年、講談社)
- 小松久男『世界各国史4 中央ユーラシア史』(山川出版社、2005年、ISBN 463441340X)
- ロレンツ・エルドリッヂ(訳:黒野 花難)『"紀行 第2巻"』(岩波書店、2006)
- 岩村忍『文明の十字路=中央アジアの歴史』(2007年、講談社)
- 鵜山智彦・藤本透子『シガスタンを知るための60章』 (2015年、明石書店、ISBN 978-4-7503-4062-3)
- ユーリィ・ラメン『シガスタン旅歩き』(2015年、講談社)
関連項目
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なぜ誰も覚えていない?
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Anomalousアイテム記録
説明: 存在しない国家"シガスタン共和国"について詳細に記述されたデジタル文書。当該ページの初版は2003/8/15にWikipedia日本語版において作成され、その後も定期的な追記・修正が行われていた記録が残っているにもかかわらず、20██/██/██に当該ページ削除に関するサイトユーザーの議論が提起されるまで"シガスタン共和国"が実在しない国家であるということに言及するユーザーのコメントは記録されていない。
回収日: 20██/██/██
回収場所: インターネット百科事典サイト Wikipedia日本語版
現状: 当該ページをWikipedia日本語版から削除(オーバーサイト処理)した後、財団デジタルライブラリにアーカイブ済み。
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いったい、何が起こったんだ?
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編纂官転眼式見の回答
…あの文書についての質問はよく来ますが、私はその度にこう返しています。「シガスタン共和国は存在しない」。それは紛れもない事実です。記述が詳細であるというのはシガスタンという国が存在する、或いは存在したという証拠にはなりません。私の予想としては、どこかの暇人が手慰みにでも書いて、ジョークのつもりで投稿したんでしょう。ユーザーたちはそのよく出来た嘘をつい信じ込んでしまって、気づくのが遅れた。それだけのことです。…
…ええ、確かにシガスタンが20██/██/██に何らかの理由で消失し、あの文書だけが残ったという可能性も否定は出来ません。実際に財団はそういったアノマリーをいくつか確認していますしね。しかしながら、20██/██/██に大規模な現実改変、あるいは因果干渉は確認されていません。はい。確かです。なのであなたの仮説は成り立ちませんね。・・・・・・財団内の虚偽情報じゃないかって? 20██/██/██に何が起こったかを隠すための?…
…例えそうだとしても、それはあなたのクリアランスでは知るべきでないことです。…
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我が祖国は消え失せ、私は空虚に置き去られた。
20██/██/██に何が起こった? 真実にたどり着くには、今の私はあまりにも無力だ。
だから私は、この虚無から故郷の名を呼び、声を張り上げる。誰かに届くことを信じて。
私は叫ぶのをやめない。シガスタンが蘇るその時まで。