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1960年

若者が呻き、もぞもぞと目障りに身動ぐ。揺れる白衣はあちらこちらがグレーや黄色の汚れに染まっていて、自らがとうに洗濯すべき適切な時期を逸していることを主張していた。

「つまるところ、あなたの奥様が出産を控えていて、あなたは奥様以上にそのことが心配でいらっしゃる」

「違うんですよ、先生。話はそう簡単じゃない」

左手で箱から煙草を取り出しつつ、右手でマッチを取り出し、火をつける。
こちらをセンセイと呼んできた若い研究者は恭しく火に手をかざして風を避けようとしてくる。

「ここがカフェテリアではなく風が吹き荒ぶ平野だったら、気が利いていただろうね、先生。尤も、そう呼ばれるべきは君の方だと思うが」

「職責なんて関係ないです。今教えを乞うのは僕の方なんですから」

薄汚い白衣を着た若い研究者は会話の初めから貧乏ゆすりを絶やさない。
テーブルの上に放り出されたドキュメントフォルダが同じテンポで揺れる。
毎分128拍。

「同僚に聞いたんです。午後のカフェテリアには良く当たる占い師が出るって」

幽霊の目撃談のようだ。
そう返すと若者は大げさに頭を抱えて見せた。
食堂の中央のテレビで大統領の就任演説が流れている。

「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい」

テレビの中の男と全く同じ口調で言いつつ、ポケットからタロットカードを取り出す。
カードのへりはあちこちが解れ、捲れあがっていて、これまでに占った人間を数えていた。

カードをシャッフルするでもなく、適当に山の中から一枚取り出し、卓上に置く。

死の逆位置。

「奥様の出産は、初めてではないね」

白衣が初めて沈黙する。
清掃員が雑にモップをかけているのが見える。椅子をガタガタと騒々しく動かし、眼前の研究者の貧乏ゆすりの音をかき消した。

「今さらだが、スリーカードで占う。僕はアマチュアだからね、これしかできない。大アルカナという、『有名どころ』のカードだけで構成されたデッキから三枚引いて、そこから過去、現在、未来を見出して、自己分析の糧とする」

若者はまたしても大げさに頷いて見せる。
折ったマッチの燃え殻の転がっている灰皿に吸いかけの煙草を預け、ようやくカードをシャッフルし始める。

「大事なのは、こんなものに神秘性は無いという事。もし僕が本物の呪術師だったら、僕がいるべきはカフェテリアではなくクラス3棟の中の人型収容室だ」

灰皿の煙草から上がる煙が僕と研究者の間を分かつ。
騒々しい清掃員は既に仕事を終えており、食堂はすっかり静かになっていた。

二枚目。

「悪魔の逆位置。奥さんの出産が不安なのではなく、あなたはあなたの不安そのものが不安なのだ」

若者が反論を発するために息継ぎするのを、紫煙を吐き出して制する。

「人の話を最後まで聞きましょう、だよ、若人。初回の出産の結果がどうだったのか、すら、口にしなくて良い」

吸いさしの煙草を咥える。半分ほど無駄に燃えてしまっていて、灰が未練がましくぶら下がっていた。

「生まれはどこだい、君」

二回ほど息継ぎをした後、オレゴンです、と彼は答えた。
オレゴンの、ポートランド。

カードを一枚一枚、撫でるようにシャッフルしていく。

「僕も一度だけ行ったことがある。デカい川が流れているだろう。ウィル、ウィリィ、何とか川だ」

「ウィラメット川」

「そう、ウィラメットだ。思い出した」

三枚目のカードを卓上に放ってやる。

「その時はまだ僕にも嫁さんがいたんだ。この仕事に就く前の事だった。三枚目は世界の正位置だ。すべてが上手くいくよ」

デッキの山をテーブルに置き、煙草の残りの吸いしろを吸気で消費する。
巻紙の燃えるじりじりという音が、唇から聞こえた。

「でも、何か、アドバイスとか無いんですか。僕にできる事は」

「あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。冷たい言葉だ。大人なら、誰だって己は何を成すべきかなんざとっくに自問自答しているのにな」

テレビの中、新大統領は喝采の下で壇を降りた。

「君は十分に努力し、為すべきことを為しているよ、ウィリアム。一度目の出産が悲しい結果に至った時も、十全に奥様の支えになっていた。」

若者は言葉なく、表情で「何故」と語っていた。

「奥様がお待ちだよ」

ウィリアムの後ろには、清潔な白衣を纏った女性が立っていた。

「待ち合わせの時間が過ぎているのだけど、ウィル」

ああ、ああ。と、白衣は狼狽えながら立ち上がる。
煙草の火を消す。

「占いの時間は終わりだよ、若人。幸運を」

僅かにお腹の大きくなっている細君に引きずられながら、研究者はカフェテリアを去っていった。

三枚目、世界のカードを手に取り、裏返す。
裏面に、自分だけが分かるよう目印が付けられていた。

出産の成否か、死者の安寧を占う事になった場合だけ、目印を使って世界の正位置を出す。
それが、アマチュア占い師がただ二点、自身に許したフェイクだった。

不意に館内放送が数列を放送する。
その中にO5の集合命令を示す数字も含まれていた。
アマチュア占い師は静かに立ち上がり、カフェテリアには、まるで最初からそうであったかのように、もはや誰も残っていなかった。

世界(正位置) : 賛美、完了、成功


1980年

オリーブ・ドラブ。
深緑色と茶色の中間、あるいはキメラ。
そんな奇怪な色合いのTシャツは着込まれていて、あちこちが解れている。
丸太のような二の腕の表面を覆うポリエステルのテクスチャは、脆さ、あるいは老朽化と言った単語を連想させた。

「住宅ローンみたいなもんさ。世界大戦が終わったところで、戦争が薄く平らに世界中に延ばされただけだ」

オリーブ色の兵士は、ドーナツをかじりながら眺めていたテレビのニュース番組に対し総評を述べた。
新大統領の就任と同じタイミングで、イラン大使館の人質が一年ぶりに解放されている。
真っ赤な服を着たキャスターは、少し前に軍事力を以て彼らを救出しようとした作戦の失敗がいかに愚かだったかを饒舌に語った。

「戦争は軍人と悪の政治家のせい。平和は平民と善の政治家のおかげ。シンプルな考えの皆様は羨ましいね」

「二点ほど指摘できる。先ずは君がフレンチ・フライとドーナツを山盛りに載せているそれは恐らく皿じゃあなくてトレイだ」

「お一つどうぞ。どうも気が付きませんで」

トレイの隣、無造作に放り出されたステンレス製の1911拳銃を見る。
びかびかと光沢を放つそれは、騎士のサーベルのようでもあり、あるいは子供が後生大事に抱えているブリキのおもちゃのようでもあった。

「二点目。こちらの方が大事なんだが、僕は政治アナリストでもカウンセラーでもない。大統領選の結果について語りたければ老人ホームにボランティアに行くと良い。聞きたがり屋と話したがり屋と、あるいは両方こなせる奴が沢山居る」

「先日の作戦で部下がMIAになった。どうなったかを占ってくれ」

飲み物も飲まずに、芋とドーナツをむしゃむしゃと嚥下しつつ、何でもないように丸太は占いを依頼した。

「各個に撤退の命令は出ていた。奴みたいにスピードが無けりゃあ落伍する。そして、落伍ってのはそのまま死を意味する」

特に俺達みたいなMTF隊員は。
トレイに手を伸ばしつつ、男は続けた。

煙草を一本咥え、火をつけないままにタロットの束を取り出す。
ほんの少しだけシャッフルし、最初のカードを卓上に放る。

「一枚目、愚者の逆位置。命令自体が不適切、あるいは結果としては間違いだった」

ドーナツを半分にもぎる動作を停止し、オリーブ・ドラブがこちらに初めて視線を向けてくる。

テレビが生命保険のCMを流している。家族が安心できる生活を貴方に。

「二枚目。戦車の正位置。それでも彼は独り戦った。状況を掌握し、最善を尽くした」

大食漢の丸太は、手の中に残った半分のドーナツをトレイに投げ出す。

三枚目のカードを見やる。
目立たないように、しかし僕なら見分けられる、わざと付けたキズ。
世界のカードだった。

正しく捲れば、次は世界の逆位置が出る。
世界の逆位置。
停滞、失敗、目標の未達。

カードの上下を逆にするようにカードを捲ることもできる。
しかし世界の正位置を「故意に」出しても良いのは出産の正否か死者の安寧を占う時だけと決めていた。
ルールを守る。プロトコルを守る。

「三枚目。世界の逆位置。さておき彼の試みは上手く行かなかった」

テレビ番組はトークショーに切り替わっている。
戦争と、安心と、ひと時の笑い。
冷戦以降、テレビのタイムラインは概ねそれらで構成されていて、あるいは遠い未来もそれが続いているのかも知れなかった。

「キム特技兵には2級褒章が贈られる予定だ」

「死者に贈る勲章に何の意味があるって言うんだ」

「遺族に金が入る」

は、と眼前の機動部隊隊員が、乾いた笑い声を上げる。

「大事なことだ。全ての財団職員が人類への貢献を人生のメイン・テーマにしているわけじゃない。彼だってそうだったろうし、君だってそうだろうし」

僕だってそうだ。

そう続けながら、トレイを兵士と、僕の中間地点まで引き寄せる。

火のついていない煙草を卓上に爪弾き、ドーナツを掴んでかぶりつく。
僅かに驚いた気配を対面から感じるが構わず、大味なドーナツと、脂っこくて冷めているフレンチ・フライを飲み物も無しで咀嚼する。

対面の男も、それに倣った。

テレビのトークショーは大いに盛り上がっている。
ベトナムで、イランで、そして異常性の只中で死んでいく無名兵士たちなんて初めから居なかったかのように。

しばらくの間、ふたり、何も言わずに、ジャンクフードの山に取り掛かっていた。

世界(逆位置) : 停滞、失敗、目標の未達。あるいは万事は常に不完全である事の象徴。


2000年

若者が纏う清潔そうな白衣は、ぱりっとアイロンがかけられていた。
逆光か、ハレーションを連想する。

「初めまして、先生」

第一印象よりも神経質さを感じる第一声を、若手技術者は発した。

「先生と呼ばれるべきは君の方だよ。待っていた」

カフェテリアに新規導入されたプラズマ・テレビには深刻そうな顔をしたアナウンサーと、黒煙を吐くツインタワーが映っていた。

「錠剤と、個人的な依頼。どちらを先にしましょう」

「私用から聞こう」

「先日、父が亡くなりました」

タロット・カードを取り出す。
デッキも既に5回ほど買い替えていたが、このデッキもだいぶ使い込まれている。汚れと傷だらけで、いつも通りの世界のカードの印も、うまく溶け込んでいた。
シャッフルで紛らわしながら、三枚目に、正位置で仕込む。

「病気かね。あるいは事故」

「事故です。ここでの、勤務中に。暫定的にSafe分類されていたオブジェクトの取り扱い中でした」

煙草を一本取り出す。

「ここは禁煙です。」

サー、という前置きののちに、若者は咎めてくる。

「知っているよ。咥えただけだ」

このカフェテリアにも灰皿が失われて久しい。
財団職員たる者、常に健康であれ。
職場は安全ではないけれど。

「彼は幸福でしたか」

「一枚目。恋人の正位置。遠い過去、大きな実りが彼にはあった」

午前10時のカフェテリアは、遅めの朝食と早めの昼食の凪の只中にあり、テレビ以外のすべての音が失われているようだった。
カードを捲る。

「二枚目。塔の……逆位置」

対面の純白の白衣がテーブルを二回、爪で叩いた。

「よく当たっています。評判通りですね。とても……苦しい最後だったろうと、報告書で読みました」

薄型テレビに映る大統領が涙ながらに国民へ演説しているのが見えた。
もし私が死の影の谷間を通って歩むとしても、私は邪悪さを恐れはしません。何故なら、皆さんが私と共にいるからです。

「愛する者が隣に居ようと、死の谷はいつだって恐ろしいものだ」

「特に我々のような職業だと」

「三枚目。世界の正位置。彼は穏やかな所にいる」

テーブルの上に並んだカードに目を細めつつ、若者はブリーフケースから書類と、ピルケースを取り出す。

「ありがとうございます。最後に占ってもらえて良かった」

咥えた煙草を口先で揺らし、返事に代える。

「書面のここにサインを。錠剤は、今ここで服用してもらいます」

クラスF-4型記憶処理剤。
服用して24時間から72時間のどこかのタイミングで、あらかじめ静注しておいたクラスF-3記憶処理マイクロカプセルを一斉に溶かし、マイクロカプセル内部のクラスFを活性化させる。
クラスF-3は、既に先日、注入済みだった。

要するに遅効性のクラスF──人格の再挿入だ。
本日付の退職をもって、明日から三日間のいずれかのタイミングで、財団で勤務した記憶は奇麗に失われ、O5-1と呼ばれた男の生涯の職業は、私的にも公的にも、ダクトの清掃業だった事になる。

「死の影の谷間に居たことは、忘却の彼方へ消えてくれるのか」

記憶処理の承諾書にサインをしつつ、水も無しで錠剤を嚥下する。

「忘れやしませんよ」

純白は答える。

「あなたが全て忘れたとて、我々は忘れも、恐れもしません。O5-1」

「ありがとう、ウィルソン」

神経質そうな顔にわずかに驚愕の表情が浮かび、慌てん坊な彼の父の面影を見出し、O5-1はようやく安堵した。

「お母様がお待ちだよ」

ウィルソンの後ろには、清潔な白衣を纏った、壮年の女性が立っていた。

「待ち合わせの時間が過ぎているのだけど、ウィル」

ああ、ああ。と、白衣は狼狽えながら立ち上がる。
煙草を、箱に戻す。

「占いの時間は終わりだよ、若人。幸運を」

しっかりとした足取りで歩む純白の白衣を、もう一つの純白が追いかけ、二人の研究者たちはカフェテリアを去っていった。

三枚目、世界のカードを手に取り、裏返す。
裏面の、目印のキズを撫でる。

何度この目印を使う事になっただろうか。
少なくとも一般的な占い師よりも、出産の成否と死者の安寧を占う割合は高かっただろう。
後者は、特に。

テレビではいつまでも、昨日のテロ事件の映像を流し続けている。
ビルからは、新たな時代の始まりを告げるように、黒煙がいつまでも上がり続けていた。

世界(正位置) : 内なる幸福、安寧、完了


null

O5-1は平凡な男だった。
職責の重大さに反した、ごく一般的な倫理観と、判断力と、平均値より僅かに秀でた知性の持ち主だった。

カフェテリアがある。
カフェテリアに誰かがいるのではなく、カフェテリアという場が存在している。

O5-1は感傷的な男だった。
彼は全ての財団職員の幸福と安寧を祈っていて、それはほとんど叶うことが無かった。
彼は財団の殉職者を全て暗記し、命日には毎年、遺族へ花と、いくらかの金を送っていた。

カフェテリアのテーブル上には、真新しいタロットカードのデッキがある。
20枚前後の厚みのそれは、大アルカナのみで構成されていると思われた。

O5-1は皆を支えたかった。
彼は自身の非力さを誰よりも理解していて、全ての職員を救うことはできないという事も同じくらい理解していた。
彼は、学生時代の戯れに占いの手法を覚えていた、タロット・カードを手に取った。
救わずとも、支える事は出来る筈だと思った。

男がタロットをシャッフルする。
自身の死後の安寧を占う時も世界の正位置を出すというルールを守るべきなのだろうか、と男は考える。
いずれにせよ、この新品のカードには当然、印など無いのだが。

最新型の液晶テレビでは、顔の無い新大統領が演説をしている。
灰皿を手繰り寄せ、マッチで煙草に火をつける。
館内放送が数列を放送する。

O5-1の占いは好評だった。
彼の職場の人間は軒並み科学者か、あるいは科学者の親戚か、または軍人だった。
彼らは全員が現実主義者であり、しかしリアリストほど根拠のないまじないを好むものらしかった。
言いようによっては、彼は皆の支えになることができたのかもしれない。

何について占うかも定めず、一枚だけカードを捲る。
世界の正位置。

O5-1だった男のその後を知る者は少ない。
身寄りはおらず、しかし身体を壊す事も無い、穏やかな晩年だったという、記録にもならない噂話だけがあった。
近所のバーの店主だけが「たまに席が近くの客をタロット・カードで占っていた」と語る。

カフェテリアがある。
カフェテリアに誰かがいるのではなく、カフェテリアという場が存在している。

テーブルには大アルカナのデッキが置いてある。
三脚の椅子が並んでいる。小奇麗な白衣が二着かけられたものが二脚と、薄汚い白衣がかけられたものが一脚。
テーブルの端には、銀色のM1911拳銃が、スライド・ストップがかけられたまま置かれていた。

卓上には他にも、占いに救われたという礼が書かれた手紙があり、100人連続で職員を占った時の祝杯で開けたバーボンの瓶があり、カフェテリアが禁煙になったのちに手癖で煙草に火をつけた結果として渡された戒告書があり、その他様々な、とりとめのない雑多な品々があり、そこで男が過ごした時間の長さを語っていた。

全てが静止したままに。
カフェテリアがあった。
カフェテリアに誰かがいたのではなく、カフェテリアという場が存在していた。

灰皿の吸い殻が誰も居ない食堂で、最後の紫煙を一筋、虚空に描く。
無人の林で音もなく倒れる木のように。

世界(正位置) : 完成。あるいは終了。または新たな始まりに繋がる祝福。

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