延々と続く雪と氷の中を男は歩いていた。視界は真っ白だ。他のモノなど見えやしない。
外からの音も無い。ザッザッと雪を踏み鳴らす音も、パキリと割れる氷の音ももうとっくに聞こえない。全てが真っ白な中に消えていく。
今、男が信じられるのは心臓が脈打つ音だけだ。だが、そのドクリという音ももうすぐ雪の底に掻き消えてしまいそうになっている。
男は倒れてしまった。
男は夢を見ていた。在りし日の、とてもとても幸せな夢。ふわりふわりとした中にある、温かい夢だった。
「ただいま」
この声と共に男は家へと帰ってくる。すぐに家族からの、
「おかえり」
の声が家に響く。五つになる娘の声と妻の声。
男は滅多に帰れなかった。だが、四季が変わる頃になる度に必ず一回は帰ってくる。男は真っ先に仕事で経験した様々なことを話した。
「すごいね!」
男はこの反応を毎回楽しみにしていた。仕事の世界と家の世界は違う。毎回毎回話す度に多少盛ってるところはあれど、外の刺激に興味は湧くのだろう。ちょっと変わった人とか、モノとか、現象とか。天気雨のことを話したら驚いていたりとか。
夕飯時になった。妻が家族全員分のシチューとフランスパンを用意していた。薄切りの玉ねぎにごろごろとした人参とじゃがいもと鶏肉、他には鮭とさつまいもが入った具沢山のクリームシチュー。あと、カリカリに焼いたフランスパン。湯気と共に香る温かな雰囲気。家族みんなで発する「美味しいね!」の声。男が冬に帰った時の一番の楽しみがこれだった。男の家族の味でもあり、冬の味でもあるのがこのシチューだった。春に帰った時にはお弁当、夏にはそうめん、秋にはかぼちゃの煮物、そんで冬にはシチュー。男が毎年、季節ごとに戻ってくる度に食べるのは決まってこの料理だ。これが家族の味。世界一美味しい食べ物だ。
男は食べ終わった後、部屋の隅の壁の絵を見ていた。壁の絵は毎年、妻が描くものだった。毎年、1枚ずつ増えていく。これは言わば家族の記録だ。今までの家族の全てがここにある。描かれている娘と現実の娘の大きさを比べて見ると、大きくなったなぁと男は少し誇らしげになる。なんて満ち足りているのだろうか。
場面が変わる。十、二十年か経った頃だ。もう娘も嫁いでいった。男は、この先が見てみたいと思った。まだ見ぬ孫の姿や……もしかしたらひ孫も見れるやもしれない。毎年絵となり記録される家族の思い出も。増えて増えて、まるで美術館みたいになっているのを見てみたい。家族の思い出の美術館だ。そして時折皆で集まり、食卓を囲みたいとも願った。昔からずっと変わらない。春にはお弁当、夏にはそうめん、秋にはかぼちゃの煮物だし、冬にはもちろんシチュー。変わらぬ家族の味が、男は何よりも好きだった。どんなものにも代えられないし、どんなものよりも優しい味が。
地面には薄い桃色がちらりほらり落ちている。そろそろ、お花見の季節だったか。
男は一瞬だけ夢から覚めた。
現実に引き戻されたくない。
寒くて。寂しくて。温かな手は雪の中に。雪の底に。
涙を流そうとしても、流す前に凍り付く。
男はまたすぐに目を閉じた。
真っ白な雪と花と共に、幸せな夢へと埋まっていく。
距離は遠くとも、家族と同じ雪の下に。
次は春。家族とお花見。
お弁当が楽しみだ。卵焼きは外せない。