疫病神

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疫病神

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厄病神,疱瘡神, 笠神, 芋明神, 厲鬼
KTE-1839-Smitty-Silver(焚書者達)
肉塊の伝令(篤実者達)

概観

世の中は
地獄の上の
花見かな 

— 小林一茶

イラストレーション

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2015年5月19日、バーレーン王国で撮影された写真。 疫病神と推定される1


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ほとんどの痘術師関連団体で発見された印章。

知識

特徴: 疫病神は、世界各国で天然痘などの疫病が発生する源とされてきた霊的存在です2

疫病神の外見は個体によって異なり、文献に現れるところによると、無形の存在から鬼、単純な人間に至るまで、様々な形態で現れています。これが認識歪曲能力の一環なのかは不明ですが、決まった形がないこと自体は推測できます。

性質: 疫病神は大きく二種類に分けられ、一つ目の事例を疫鬼、二つ目の事例を疫神と言います。

疫鬼は怨霊の代表的な事例で、エクトプラズムが「悪意的霊」に成長した部類です。疫鬼は疫神に比べてはるかに霊的側面が強調され、恨みに満ちている場合が多いとされています。他の怨霊との明らかな違いは、復讐の対象が最初から存在しないということです3。また、彼らは憑依という手段をあまり好まないように見え、時には群れをなして歩いたりもします。知性は存在するものの、特有の攻撃性と奇行456のために、表出することは稀です。

朝鮮の厲鬼、『沙石集』での異類異形、『春日権現験記絵巻』と『融通念仏縁起絵巻』での鬼顔の疫病神たち、第○九九一番78 などがこのような疫鬼の代表例です。これらの資料の中では、厲鬼は通常の怨霊がそうであるように非業の死を遂げた者たちが変化する存在で、彼らの無念と悔しさ、また寂しさによって怨気が蓄積され、和気を損ね、怪異と化すと考えられていました。このような怪異は、疫病の猖獗として表現されます。

朝鮮では疾病が蔓延すると、しめ縄を張って当該地域への出入りを防ぐと同時に、当時の超常対応機関だった不語都監とその後身である異禁衛910から対応人員を送って対処しようとしました。

鬼神 癸丑 第 二號

全羅道に現れた疫鬼
異禁衛の監察官、批士大夫 昉倫
鬼神社と交戦後除霊
秘錄に記録後終結


士人が言う。

今回、全羅の地に猖獗した痘瘡を調査すると、気運が悪く怨気に満ちており、明らかに邪悪なことが起きていると思われた。これに対し全羅地域の首領たちに公文を送り近傍の巫女が把握した実情を一つ一つ伝えさせたので、すぐにその地に強力な疫鬼が在ることが明らかになった。

この疫鬼とは、人々の間で疫病を伝播する存在で、その根源は実に古く、計り知れないものだ。ただちに異禁錄11を見ると、「客人たち손님네」という異物と「無頭鬼」という異物の存在が記録されている。推測するに、新羅の時代にも同じことがあったのであろう。事実であれば、疫鬼は遥か昔から昨今まで非常に頻繁に現れたことになる。

鬼神社はすぐに目的地に達するだろう。到着し次第、疫鬼を払うための別癘祭を行う。

[付記] 別癘祭の途中、疫鬼が暴れ、村民数人が痘瘡にかかった。 鬼神社がやつを捕らえて除霊した。

疫神は人々によって崇拝されてきた部類1213を纏めていう言葉で、日本の牛頭天王と疱瘡神、ヨルバ人のソポナ、ヒンズー教のシタラ・マタ、中国の痘疹娘娘、メソポタミアのパズズなどがここに属します。ただし、この例はいつでも変わる可能性があります。歴史書に記された疫神たちの挿絵は、痘術師やサーカイトの姿とよく似ているので、現在疫神と推定されている存在が彼ら14であることが明らかになったとしても、驚くほどのことではありません。

疫鬼でも崇拝の対象になれば疫神に属することができ、この場合、以前よりも強力になります。疫神は総じて疫鬼よりも広範囲に疫病をまき散らすことができ、より脅威的です。これは崇拝によるアキヴァ放射線の増加に起因し、存在に対する崇拝だけでなく、彼らが行動した結果—疫病そのものに対する崇拝にも影響を受けると考えられています。

疫病神たちの明白な特性は、まさに疾病を操って無計画にまき散らすことにあります。この能力は後述する痘術師のようにサーカイトのそれから発展したのではなく、純粋な霊能力に基づいた現実改変能力に起因すると推定されます。彼らはこのような能力を言葉通り濫用し、ある挿絵によれば、このような行為自体を楽しんでいるようにも見えます。

歴史と関連組織: 疫病神の来歴を語る時に欠かせない存在がありますが、これらがまさに痘術師です。痘術師は名前からも分かるように、病気を操る痘術を運用する奇跡師のことで、その源流は「客人たち」に求めることができます。

「客人たち」は後期ダエーワ出身のナルカNälkä教徒1516173人と新羅人1人で構成された団体で、前者の3人がダエーワから追放され、新羅に亡命した際に結成されました。彼らはナルカの血術とダエーワの奇跡術に基づいた「痘術」18の主要な提唱者でした19。彼らの行動理念は「お互いがお互いを迫害しない、理想社会の建設」であり、「客人たち」はそのために痘術を使いました。 天然痘感染によって「他人を排斥しない強い人間を選り分けることができる」と考えたからです2021。このような思想のためかは不明ですが、痘術師は韓半島だけに閉じこもっていたわけではなく、中央アジアと東アジア地域を徘徊しました。その結果、様々な国で彼らから影響を受けた団体が誕生するに至りました。

代表的な団体が中国の花倫学派22と日本のほうそう家、そして韓国のウルです。

中国の「花倫学派」は宋家の人々を筆頭とした痘術師集団で、後代には「中華異学会」の一つの分派となりました。彼らについては特に知られていませんが、清の弾圧の代表的な標的となったためだと推測されます2324。残存する書籍でも花倫学派については1、2行程度が記録されているだけで、そのため内部の詳しい階級や所属する一員の情報は皆無です。ただ花倫学派の設立者とされる「ソンリャンスイ」に関する叙述だけが目立っています。

宋亮湜は五代十国時代初期に道士として活動した人物で、基本的に養生術と変身術に長けていたと伝えられています。915年、「客人たち」が燕を経由して南シベリアに向かっていた時25、宋亮湜は彼らの行く手を阻み、道術対決をしてみようと依頼しました。しかし自信満々だった宋はすぐに惨敗し2627、「客人たち」に教えを請うたのです。その後、宋は燕と契丹の国境を行き来しながら勢力を集め、花倫学派の前身となる「痘賑會」を設立し、子孫の代まで続く集いへと発展することになります。

日本の「方相」家は、痘術師たちと出会う前から疫病神を扱ってきた名だたる家柄で、蒐集院の一員であり、少なくとも773年から存在してきたと伝えられています。995年、「客人たち」が初めて来日したとき、当時の家元の てるとらが彼らと会い、どの文献にも記されていない3日間の問答2829で「真の痘術の美とそのきらびやかさを悟った」と言います。その後、方相家の人々は代々この術法を伝授し、受け継いだのです。

一つ特記すべき事項は彼らが痘術を使った方式です。「客人たち」がまさに疫病神に比肩するほど頻繁な天然痘感染を起こしていたのとは違い、方相家はこれらとは違い、むしろ日本国内の天然痘を始めとする疫病の感染を防ごうと試みました。これは、「客人たち」由来の知識が代々受け継がれる中で変質した可能性があることを示唆しています。現存する方相家の記録を見ると、生活様式も痘術の使用も、いずれもナルカ的色彩は微々たるもので、天然痘の意図的感染が図られたという記録は皆無でした。

寛永の大飢饉以降、彼らに対する記述は全般的に大きく変化します。飢饉以後の蒐集院の記録からは、方相という名字はほとんど見当たらず、もともと彼らが担当していた疫病関連の蒐集物の記録でも状況は同じです。代わりに、その地位をという名字を持つ集団が満たしたのですが、これは方相の変形であると考えられます。実際、ある記録に登場する仁賀保義一という研儀官は先代の記録に触れ「方相輝虎」という名前を述べていますが、彼が付け加えた「祖父」という尊称から推測すると、方相家と仁賀保家が同一の家柄であることは確かであるようです。

韓国の「世乙加」は韓半島のプロト-ナルカ集団で、後期新羅(しらぎ)からその歴史が始まりました。上記の二つの団体とは異なり、「客人たち」と敵対しており、痘術士たちから影響を受けた団体のうち、唯一痘術士の印章を使用していない団体です。彼らの教祖である「處容」30は「客人たち」たちと交戦した後、彼らを追い出しましたが、そのためか、後の世乙加教徒の主な活動の一つは疫病神を退治することでした。彼らは定期的に疫病の流行の時期を見計らって、全国的に疫病神掃討運動を展開しました3132

世乙加は自ら大きな危機に瀕したいくつかの時期を除き33、このような救済活動を行っていたと思われます。『般若輯』によると、1912年以前までは全国各地で疫病神退治をする者の噂を聞くことができたそうです。しかし、この噂もあってか、当時の帝国異常事例調査局では、三代目ハクタク計画の一環として、世乙加に関する情報収集を開始しています。そして1912年夏、異常事例調査局の本営の指示により、朝鮮部から二つの小隊が出撃し、智異山の頂上に存在していた世乙加教徒の村「瘙乙村」が侵奪される結果となります34。その後、世乙加教徒の活動は著しく減少し、現在まで続いています。

このような団体の存在が示唆するのは、疫病神が非常に長い間人類の歴史に関与しており、正常世界の人々が最終的に疾病への解決策を見出したように、超常世界の人々もそれなりの対処をしてきたという事実です。

接触: 疫病神は根本的に疫病を広めることのみに特化した存在であり、その行動に罪悪感さえ持たない悪質な怨霊・悪神です。もし遭遇した場合は、直ちにその場所を去るべきです。 また、近隣の医療機関を訪ねることを推奨します。35

彼らに対抗する方法が全くないわけではありません。 我輩が疫病神と痘術師に関する文書を確認したところ、各文化圏に共通して登場する「疫病神退治術」が存在することが明らかになりました。しかし、各文献の記述がすべて異なっており、術法を実施した場合に効果があるのか確認する方法もなく36、現在まで学者の間では熱い論争が起こっています。

最も信頼できる効果的な方法は、何でもいいので赤い存在で威嚇することです。あらゆる文化圏では疫病神は赤を恐れると伝えられており、特に仁賀保家の蒐集院出身の人々は疫病神を追い払うために常に赤い衣服を着ていたと言われています3738

観察と物語

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…よって、近年発生した重症急性呼吸器症候群の感染自体に関して、世界超保健機構で対応する特異点はないとの判断が下されたが、5月13日、香港シャティン区のプリンス·オブ·ウェールズ病院(Prince of Wales Hospital)で観察された一つの現象は、当該結論を覆す余地があると解釈される。

該当日午後1時ごろに病院の閉鎖回路カメラに撮影されたこの実体は身長約2mの巨体で、その外見および服装は入院患者や病院勤務者と全く異なっている。 彼は廊下に立って行き交う人々を黙って眺めており、何の行動も取っていない。 実体は明らかに移動の邪魔になるほど空間を占めているが、勤務者たちは実体を認知せず、回避するか、ある時はその体躯を貫通して通ることもある。

調査の結果、該当病院に勤務していた一部の人員が重症急性呼吸器症候群に感染したことと既存の感染者の状態が悪化したことが確認され、直ちに治療が行われた。 新規感染者は全員が上述の実体を認知していたという共通点があった。感染者以外の当直職員ならびに患者の調査結果とは全く異なっている点が注目に値する。実体が感染を引き起こしたかどうかは詳細な調査が必要と考えられるが、病院で設立した感染対応策が強固であったこと、既存の感染者の状態が好転していたことなどから、一定の関連性があると推測される。

連合国隠秘協約(Allied Occult Initiative; AOI)時期に収集された資料によると、1918年インフルエンザ汎流行(Pandemia de gripede 1918)当時も発病地全域で正体不明の実体が時折現れたというが、今回の現象で把握された実体はこれらの一部である可能性がある。特にアメリカのカンザス州で目撃された一人の男性(あるいは霊的存在)は「背が高く無口で他の人たちが彼を通過して通り過ぎた」という点で当該実体と相当な類似性を見せる。

これに対する調査が進行中だ。

[筆: ビフトリ·ニエミネン(Vihtori Nieminen)]

WPhOの研究員から流出した文書と写真。世界超保機関はSARSの流行以前から疫病神の存在を弱く認知していたが、その現象がもとで調査を開始したようである。現在、研究がどの程度まで進んでいるかは把握できなかったが、それなりにコツコツ進めているらしい。 もっと多くの情報を得たらここに追加しよう。 ~ オットー F.Otto F.


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2015年に中東呼吸器症候群(MERS)が流行したのを覚えてる人? 起源そのものは確かに疫病神ではなかったけど、少なくともその流行にこの虫けらみたいなやつらが介入した可能性がある。

中東地域に行っていた時期、つまりMERSが盛んに広がっていた当時に経験したことだ。ORIAの施設に侵入しようとしてある都市に行ったら、狂ったように笑っている一群の人々が道路の上で踊っていたの。最初は単に狂人かと思ったけど、車がそれらの身体を透過して走り去るのを見て「これは噂の疫病神なんだな」と思った。ぞっとしてすぐ図書館に戻ってきて、全身をきれいに消毒してしまったのよ。

後で聞いてみると、その都市は疾病神に完全に占拠されていたよ。その都市の患者たちには申し訳なく思ってる。 早くこの雑魚どもを退治する方法を開発しなければならないね。

— S.B.


私たちはまだ疫病神を狩っています。もちろん先祖たちのように全国を歩き回って隅々まで調べることはできない境遇になったのですが。 それでも、秋夕や旧正月など一家親戚が集まる日だけはそのような行事を行います。 先祖の墓に生えた草を刈るように。

少なくとも、最近の韓国には疫病神はそれほど多くありません。探していても、本当にちょっとしたことで倒れそうなものしかいません。 医療施設が発達して、人々の健康水準が良くなっているので当然のことかもしれませんが。多分他の国々も似たような感じでしょう?

ところが、最近ちょっと妙な事が起きています。中国に留学に行った私の姉によると、当地にいる疫病神たちが徐々に元気を取り戻しているようでした。最初の頃は韓国の連中と同じように弱っていたのが、いつの間にか強力になってきていると。そんなEメールが送られてきたのが昨年の12月末で、昨日送られてきたものを読んでみると事態はかなり深刻になったようです。 疫病神の数が……想像以上に多いようですね。 これはどういうことなのか……

姉もかなり怖がっている様子です。 密かにやつらの中から一匹を倒そうと試みて、失敗したということです。家族の中で一番腕のいい姉が。姉は休学して韓国に帰ることも考えているようです。でも、私は姉を理解しています。 いやいや、私が姉だったらもうとっくに家に帰ってきてましたよ。

何か大きなことが起こるんです。

— 世乙加教徒、Ahn39


一方、上述の蒐集院の仁賀保家は20世紀に入り、他の団体との関係において新たな局面を迎えます。

彼らと関わった代表的な団体としては、異常事例調査局があります。1909年2月、蒐集院から仁賀保家の一員が調査局に移ったのですが、それがはん40です。1918年、彼が提案した「初代疫病計画」は、疫病神を戦前の日本に流用しようとした計画で、この計画において彼は植民地の劣悪な衛生状況、そしてそれに派生する不必要な死と障害について力説しました。そのため、調査局は自ずと疫病神に対する関心を持つようになり、当然ながら自国内の疫病神に関連する者たちに視線を向けるようになりました。現在の我々の記録によると、調査局の担当人員の幾人かは仁賀保家を調査局に引き入れようとしています。

しかし、彼らが一つ見逃していた点は、仁賀保家の立場は決して彼らに友好的ではないということでした。仁賀保家がいくら特化した力を持っているとしても、彼らは蒐集院の一員であり、思う存分勢力を拡大した調査局の行動には反感を抱くしかなかったでしょう。このような情勢下、1919年秋、仁賀保般野まで調査局を去ることになり、疫病神に対する調査局の関心も自然に低くなっていきました。

1935年9月、異常事例調査局朝鮮部京城基地でテロ事件が起こり、状況は急変します。翌年捕まった組織41の首魁は他でもない仁賀保般野本人42であり、この情報を入手した調査局本営では秘密裏に仁賀保家の襲撃を指示しました。 京城基地で遺失した記録と負傷者の復讐という名目で推進された襲撃だったようです4344。1936年1月12日未明、東京の仁賀保邸は全焼しました。死傷者の数はかなり少ないとされていますが、当主の仁賀保文子が死亡し、家門が破壊されるなど被害が甚大だったのは明らかです。当時、正確にどのようなことがあったかは、現在のところ情報がなく把握できていません。 しかし隣人の証言によると、銃声と悲鳴が聞こえ、時たま軍服を着た男性が邸宅の外に墜落する姿を見たということで、少なくとも交戦に類する衝突があったと見るのが合理的でしょう。

こうした衝突の直後、仁賀保家の人々は蒐集院の施設にも姿を現さず、徹底的に姿をくらます道を選びました。我々が追跡できた唯一の人物は、仁賀保文子の後を継いだ第56代当主の「仁賀保初代」だけで、事件直後、各地に散った仁賀保家の人々の大多数を再び集めたのが彼女だと推測できます。『般野輯』では、仁賀保家の新たな根拠地が京都外郭に秘密裏に建設されたと述べられ、「決して外部の者が立ち入れないように様々な術法と禁制が掛けられていた」としています。テロ後に連行された「栗島」から脱獄し、1942年にここを訪れた仁賀保般野を最後に、記録上は新しい仁賀保家の拠点を訪れた者はありません。

第2次世界大戦が勃発すると、異常事例調査局と蒐集院の過激派は、当時、第〇九九一番に蒐集されていた疫病神を戦争兵器として利用しようとしました。 当時の記録によると、調査局では妖怪大隊の一つの分派として「疫病部隊」を創設しようと試みていました。後-疫病計画がその証拠といえるでしょう。しかし、この計画は疫病神の調練が不可能であることが明らかになったことで(そして部隊内で疫病が発生する原因が疫病神であることが示されたことで)うやむやになり、第〇九九一番も蒐集状態から解放されてしまいました。 現在、我々は第〇九九一番のその後の行動を調べていますが、成仏したためか上手く隠れているためか、これといった資料を見つけることができていません4546

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疫病神を知っているか、と? リュさん、常ならぬことを聞かれるものだ。無論、知って御座る。わしは随分と長く、あれらを見てきました故。 ほとんど一生の間にもなります。

疫鬼は師らが最も頭を悩ませた悪鬼たちにて、その筋道なき行動と無差別な横暴は、ひどく厄介な部類で御座った。我らが定め、接収した区域や経路などがこうした疫鬼50に介入されること、一度や二度ではなし。 わしは思いがけず命が奪われることがないよう、これらを除き、あるいは殺したので御座る。

そのような秘術は蒐集院でもよく使われ、第〇九九一番や第一一七五番など、疫鬼の係累たる蒐集物を扱う際には特に用いられて御座る。痘術と禁制の術式をよく組み合わせれば、疫鬼どもを縛る堅牢なる鎖として扱うことができた故。1820年、金七郎がー つまり、仁賀保金七郎に御座るが。研儀官仁賀保金七郎が制圧した第〇九九一番は割合に弱いありものの禁術でもって抑えられたので、蒐集から脱することが多く御座る。それ故、再び研儀官となった1919年の末頃に、わしが術式を再建し申した。

異常事例調査局に参じた時分には、そのような秘術をありのままに揮う機会はありませなんだ。然れども、第三次ハクタク計画とその後の処置を断行する際には、一部を用いたことが御座った。それというのも、わしが計画を提言する以前にも、調査局では疫鬼の知識があったらしく。1870年以降には、政府は天然痘やに相対するための策を示されたしと各所に半ば懇願して御座った。それ故、調査局にもこのような部類を研究する部署が現れたので御座ろう。今となっては、計画を最後まで推し進めることができなかったのが無念に御座る。提言の2年後には……わしは調査局から出奔して御座った。よりにもよって1919年と1920年には、朝鮮にコレラが横行していたというのに。

その時分、わしは日本に御座った。 1919年9月から1923年9月までのことで御座る。

……

面目次第も御座らん。かつての日々を思い出して御座った……

今なおその術式は使えるか、と? 無論。けれども、禁術に関する基本知識に、痘術の素養も備えねばならず、これを学ぶには長い時間ががかかりましょう。 仁賀保家の人々はこれを幼い頃から学んだからこそ、わしと同じように縦横に扱うことができた故。今から学ぶとなれば、その分長くかかる覚悟をせねばなりませぬ。ともすれば、あなたに差し上げた『般野輯』こそが役に立つやもしれませんな。

— 「小さき客人」、金哲賢

蒐集院だと?彼の言い方は……あまりにも慣れているように聞こえる。 — Shr.

それに、『般若輯』なんてね。 彼はなぜそのことを知っているんですか? — U.K.N.

……なぜなら彼が仁賀保般野だから、かな? — Liú

…何だと? — AO

……そう、まずは謝らないとね。 君たちが本当に熱心に調査をしてくれたので、邪魔にならないように黙っていたんだけど。仁賀保般野、ラザロ·チェン、そして金哲賢は同一人物だよ。アメリカ5152から帰ってきた金哲賢は仁賀保家を頼り、蒐集院に起用された。その後は君たちの調べてくれた通りだ。1919年まで働き、その後再び蒐集院に戻り、数年後に異常事例調査局朝鮮府の基地でテロを起こした。そして、捕まって栗島で労役に従事した。第二次世界大戦の終戦後に、また何かをしたと仄めかしていたけれど、詳しくは聞けなかった。 — Liú

調査局……とするとやはり、それは抗日運動だったのか。 — AO

おそらくは。あの人、異常事例調査局にいた日々を恥じていた。 多分、今でも。 — Liú

どこからでもその単語が聞こえてくるんだな。俺と似ている人のようだ。 彼もまたくびきから抜け出せなかったのかもしれない。 — AO


一方、仁賀保家は現在も行方をくらましたまま、隠れて暮らしているようです。唯一、仁賀保家の子孫であることが確実とされている人物は麻耶まやで、現在、花籠学園の1年生として在学中です。 彼女は上述の仁賀保初代の弟「仁賀保謙次郎」の曾孫として知られています。仁賀保麻耶と接触した結果、本人は家の特性も痘術の原理自体についても全く理解していませんでした53。現在、我々は仁賀保家の子孫、あるいは彼らの痕跡が残っている可能性がある場所を追跡しています。

疑念

一つ疑問があるとすれば、疫鬼から疫神に変異する過程で、時おり現れる予期せぬ副産物があるということでしょう。

多くの奇跡的作用がそうであるように、アキヴァ放射線は意識的認知作用の結果であり、崇拝者たちによって顕現する信仰の発露です。 この原理について知悉していたかどうかにかかわらず、古代から近代までのあらゆる神格とそれに準ずる存在は人間に数学的・力学的卓越性を呼び起こし、物理法則に反する力を得て、この力でまた人間に影響を与えることによって、まるで株式の配当金を得るように力を還流しています。

この詐欺じみた権能強取の体系の中で神格たちが把握していなかったのは、その権能を人間たちが提供したのと同じ原理で、彼ら自体も他ならぬ人間たちによって変質させられる可能性があるということでした。

このような副産物の中で最大の事例として、日本国内における疫病神の占める地位が挙げられます。 日本で疫病神というのは、疫病を振り撒く従来の平凡な疫病の神の概念だけではなく、厄払いの厄神の性格も持っていました54。このような性格を有しているのは社会文化的な理由もあるものの、蒐集院の記録とその後現れる日本国内の疫病神の目撃談を考慮すると、非常に局所的ではありますが、本当に彼らに不幸をもたらす能力があることが示唆されています。このような事実を鑑みると、信仰者の誤った信仰が、信仰される対象者に本当にそのような権能を付与するのではないでしょうか。


この記述について知りたいことがある。これが事実なら、人が疫病神になることも可能なのか?AO

私が知る限りでは、その通り。私は4年前に「客人たち」を研究していた。意見は様々だけど、ともかくダエーワ人も人は人だし5556、新羅人は言うまでもないということは皆が知っている通りだと思う。彼らは韓国の民間信仰から「媽媽神」と崇められてアキヴァ放射線を放出するようになり、加えて、彼らの痘術もまた強くなったとみられている。いわば生きたまま疫神になったとでも言おうかな。皮肉なことではある。疫病神たちを煩わしく思っていた人たちも、やはり疫病神の範疇内に入ることになるからね。Liú

疫病神も料理できますか?U.K.N.

ファイルを作成するのにもう少し警戒心を持ってくれ、ユウキ。 そして、このような料理はアンブローズ・山猫軒でも取り扱わない。AO

さ、最近山猫軒が恋しくて……すみません、大将。U.K.N.

現在まで残っている疫病神退治の術は本物なのだろうか? 統一されたバージョンの疫病神退治術が存在するのか?

痘術師団体の始祖がいるだけに、実在する可能性は高い。 唯一の問題は、これらの団体がすべて壊滅したことだ。Deck.

それでも、韓国の世乙加はまだその命脈を保っていませんか。現在も疫病神を退治しているという話ですが。R.円

赤斑蛇の手 ヨンとともに彼らの術式を調べてみたが、どうやらサーキックの血術が道術と結びついた形式で、平凡な術者が使うのは難しいようなんだ。厳密に言うと、統一されたバージョンがあるにはあるが、小規模な統一バージョンなのさ。疫病神が現われるたびに世乙加の人間を呼ぶことはできないから、結果的には失敗ということになる。Liú

では、残ったのは日本の仁賀保家しかない。彼らが鍵を握っていそうだから、後でもう一度訪ねてみることにしよう。今度は蛇の手の人間だということを明らかにしてな。AO

だけど大将、彼らが私たちに友好的だという保障はありません。看守たちと迎合した蒐集院勢力に取り入っていたかもしれないし、可能性は少ないけれど、五行結社と手を組んだのかもしれません。この前のように、正体を隠して情報だけ調べる方が、安全上はより良い選択です。U.K.N.

もちろん安全上はそうだろう。しかし、俺は彼らが再び世の中に出られるようにしてやりたい。数十年間を屋敷に隠れて暮らしながら、昔の仲間や知人たちが超常世界を歩き回る間も、そこに閉じこもっていた彼らのことを考えてみろ。俺はまだあの子、仁賀保麻耶がどんな眼差しで俺たちを見つめたのか覚えてる。家門の来歴を聞いた時、一瞬、瞳を過ぎった恐怖の色を……単なる勘違いかもしれないが。

戦争が終わって、世の中は変わった。彼らの異常性が彼ら自身を脅かす機会は減っているが、彼らはそのことにまだ気づいていない。俺たちは彼らを助け、自由に生きられるようにするべきじゃないのか? それが俺の考えだ。

俺たちが受け入れられたように、彼らもまた受け入れられるべきだ。世界は彼らに隠れるよう強制する権利はない。AO

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