幾人かの子供たちが遊んでいた1。彼らは性別も宗教も形態も親の裕福さもだいたい違っていたが、あまりそこは彼らに取って重要なことではなかった。誰も彼も「人間」2の子供たちだった。
「ももっ!」
缶を蹴り上げた子供がいた。オーバーオールの動きやすい服装に身を包んだ少女である。彼女が叫んだのは自分の名前だった。
「あっ、ずるい」
「ももちゃん逃げろっ」
缶蹴りで捕まえられた子が解放されるのは誰かが缶を蹴った時だけだった。蜘蛛の子を散らすように捕まっていた子供がバラけていく。
「逃げろ逃げろ」
「榛一郎は早いぞっ」
缶を蹴ったので鬼は元の子供のままで続行。だが、4本足の強烈な襲歩3は日奉桃いさなぎももの足に追いついた。その少年は、馬のような下半身を缶蹴りに活かしていた。
「榛一郎しんいちろう!速すぎるよー」
「当然だよ。桃ちゃんと僕では形が違うんだから」
「でも悔しいものは悔しいっ!私もその体があれば速くなるかなぁ。追いつかれないようになるかなあ」
「無理だよ。人の形は変わらないんだから」4
その子供たちの遊びを物陰から怪しげに眺める男がいた。コートにサングラス、いかにも怪しい人間という風体だった。5
中央新都心の第3区6に位置する諸堂中学校7の社会科見学、もとい一学期のテストが終わってから夏休みの間までにある息抜きの遠足は毎年その時の時勢によってテーマが異なるものとなっていた。ただ、おおむね夏休みの宿題にある「多要素共生社会8の暮らし方」と関係のあるものが選ばれるようになっている。生徒らはその体験で感想を書かねばならない。
多要素共生社会──なんて胡散臭い名称だ。1年3組の担任であり数学の教科担当である赤名奈々あかななな はため息をついた。彼女が受け持つ生徒たちのみならず、彼女自身でさえヴェール崩壊以前9の人々の暮らしというのを知らないが、盛んに要素差別是正が叫ばれるようになったのは本当に最近のころであった。
かつては性差別が問題となった。女性が権利を切実に求めたことがあったのだ。赤名はそれらが問題になっていた時期を生きていないので、確固たる問題意識としての実感はまるでないが、今でもこの中学校の古参の職員の中にはそこを気にする人が割といる。
赤名が新人のころだ。自分自身がお茶を飲むのが好きだったので、自分のものを淹れるついでに他の職員の分も用意したのだ。なんて気の利いた若手だろう、と自分でも思っていたぐらいだ。だがしかし、それは逆に問題であることだったらしい。
「赤名さん。そのような気遣いは不要です」
赤名よりも長く学校に居る教員の大半は赤名が淹れた茶を飲まなかった。10年配の女性教員はそのことを良くないことだと言った。自らその仕事を進んでやる必要などない、女性はそのような業務から解放されているのだ。子供をあやす様に女性教員はそう説明した。このことが悪いことだったと赤名は今でも思っていない。自分が飲むついでにたまたま人の分まで気を遣える器量が、自分にあっただけなのだ。
現在の人間の多様性はそれらで括れるものを遥かに超えていた。性別や性的指向がどうこうで話が終わっていれば問題はもっと簡単だっただろう。今、多様性は新しい臨界点を迎えているのだと言ってもいい。
赤名が年配の男性にお茶を淹れ、「余計なこと」をしてからとうに5年は経った2061年11の職員室で、赤名は今日もお茶を淹れていた。自分がお茶を淹れるのを半ば無理やりに認めさせてから、新人が新しく入ってもまだお茶汲みをやっている。別にそこまでお茶汲みにこだわりがあったわけではないが、まあ別にいいだろうと思っている。そういう大雑把なところが赤名の良いところでもあり、悪いところでもあった。
赤名は中国産の安いお茶を啜った。少し苦い。
「赤名先生。一年生の社会科見学の行き先が決まったようですよ」
後輩の花月川名実はなつきがわめいじは気の抜けた声で報告した。すらっとした体型はどことなく脆そうで、不健康そうである。だが、彼はこう見えて保健体育の先生だ。ダンスだけで大学を出ている12。
「へえ。相手先と打診が取れましたか?」
「ええ、はい。私めちゃくちゃ頑張りましたから。後で褒めてください」
渡されたA4用紙のプリントには驚くべきことが書かれていた。
「これ、学年主任に聞いて許可もらったのですか……?」
「そこら辺バッチリです。何の問題もありません」
赤名は満足げな花月川の顔を見て半ばその狡猾さに呆れてさえもいた。花月川は親をYakushi13のとある企業の重役に持っており、この学校に着任したのもその権力のお陰だという噂だ。あくまでも噂は噂であり、赤名はそんなことを信じてはいなかった。だがしかし、そのプリントに書いてあるのはどう見てもYakushiで上位企業に連なるあの有名ハルヤ食品だった。
赤名はさっきまで飲んで口に含んでいたお茶を吹き出しそうになった。中学生の社会科見学で入り込むような場所ではない。赤名が中学生の頃はもっとささやかな場所であった。
「最近までハルヤ食品は工場見学の類を一切受け付けてなかったはずじゃ?」
花月川はどうやらコネがあるようだ。噂も馬鹿にしたものではないと赤名は思い直した。ハルヤ食品は異常性保持者の特別栄養保持食品を販売している企業だ。いまやこの社会を正常に回すのには外せない会社の1つだ。まさしく正常に。異常ではない。多要素共生社会がテーマであるこの社会科見学には適切だろう。
「いやーそうなんですけど、あちらが」
ちょっと渋い表情をしてまるで会社の重役の声色でそう述べた。
「"多要素共生社会の実現のためならどのような労力も惜しまないでしょう"────と言ってくださったんです」
普段ソプラノの声の男のモノマネはお世辞にも上手いというものではなかった。すぐに普段の声に戻って話を続ける。
「教育は何よりも国の未来です。だからこそ企業が奉仕する理由があると言いたいんじゃないですかね?」
1人の教育者としてそれなりに国の未来を担っている自信はある。だがしかし、こんなウマい話があるのかと赤名はどこか気になるのだった。
「そ、そうなの…。まあ、それで万事収まるならば私はそれでいいんですけど」
すかさず赤名は手元のプリントを確認する。
諸堂中学校1年次社会科見学
見学先: ハルヤ食品 中央新都心第6区特殊食品製造工場
担当者: 淡窓学年主任 花月川名実
目的: 多要素共生社会における企業の取り組みを見学し、その大切さを理解すること。また、自分たちの生活に根付いている技術や研究を実際に見学することで、将来の目標作りや勉強に役立てる。
いくら中学生と言えども昨年までランドセルを背負っていたのだ。赤名が姿を見せ、教壇に立っても教室内はまだ騒がしかった。辺りを見渡すと様々な要素を持つ生徒たちが遊んでいる。
諸堂中学校はスペインからの転校生を受け付けている。席の後ろで大柄なガキ大将に追いかけられ四足歩行で歩みを進めるのはヘノ・ルイズ・ロペス。単にヘノと呼ばれている。AFC……動物特徴保持者の中でも珍しいエスパノル・ヌートリアの1人だ14。
彼はカワウソなので体中に豊富な毛皮を持っている。基本茶色であるが、スカーフのように首を覆って白い毛が生えている15。体の関節の稼働部位はある程度人間に近いようで、盛んにガキ大将の攻撃に反撃している。二足歩行をすることもあれば四つ足で歩くこともあるが、おおむね四つ足の方が楽なようだ。
ヘノの父親はスペインの有名企業の重役で、赴任先が中央新都心であったため引っ越してきたのだ。当初は日本語を喋ることができず、赤名も心配したものであったが、クラスメイトと話すようになってからは習熟がめざましく、今では日本語話者と何の遜色もない会話能力を見せている。
ガキ大将の方は幕内仱矢まくのうちきょうやだ。赤名が受け持ったクラスの中では珍しい非異常性保持者だが、それ以上に性格面での評価から問題児と言わざるを得なかった。間違えたことはもう一度完全に解るようになるまで諦めず、どんなことでも遠慮なく疑問の声を上げる。このように表現するとまるで彼が優等生のように見えてくるが、その興味の対象がクラスメイトの個人的な領域に行ってしまうのは芳しくなかった。とりわけ生徒の服装の問題はタブーである。ヘノの尻尾の付け根のところのズボンがどうなっているのか詮索したのは間違いであった。
2人は取っ組み合いの喧嘩をしている。中学生のそれとはいえヘノと幕内では体格差があるので、若干幕内は加減をしているが、やはりそれは明確に喧嘩であった。赤名はこのクラスでいじめが発生しているとは思っていない。2人の間には特殊な友情があるのだと信じているのだ。16
チャイムが鳴ってギリギリの時間に速歩で教室に入ってきたのが、サラブレッドの下半身を持つ茶畑莉嘉ちゃばたけりか と欠瀬榛一郎かけせしんいちろう だ。足が床に打ち付けられるたび、他の生徒と似ても似つかない足音が響く。おそらく蹄鉄型シューズの音だろう。もちろんサラブレッドというのは比喩でもなんでもない。2人の下半身は馬そのものだ。17茶畑は栗毛の美しい立髪をなびかせて、欠瀬は芦毛のかわいらしい尻尾を振りながら、人型の体と馬の下半身の間で捻り顔を互いの方に向けて何か話している。その姿は年齢相応に子供の顔だ。
自分の席に大人しく着席し、難しそうな本を呼んでいるのは玄倉本子くろくらもとこだ。赤名は今回の遠足では彼女のセンシティブな部分に触れることになるのだろうと覚悟していた。彼女の額から生えているのは堂々としてて美しいツノだった。教室の蛍光灯の光が反射して白く光っている。18
そして2人の仔馬より少し遅れて入ってきたのは日奉桃いさなぎもも だ。彼女もまた難解な事情のある生徒の1人である。給食の時間に断食して本を読んでいるだけということがこの短い期間までにいくらかあった。家庭の事情でそういう断食をしなければならない日があったのは前もって聞いていたが、いざそれに直面してみると他の生徒への説明が思いの外難しく、特に幕内への説明は難儀なものとなってしまった。最後には、「伝統とは如何なるものか」ということを軽く説明して終わりにしたが、今でも納得しているような様子はまるでない。19
赤名が教室内を見渡すとやはりそこには十人十色の人間が居た。当たり前のことであるが。この多要素共生社会においてそんな事実は何の意味も持たない。ただ当たり前の事実を端的に述べるとこうなっただけなのだ。
「みなさん」
机を叩いて「パシッ」と音を出すのは指示棒。決して人を叩くものではない。
「もうチャイムがなっていますよ。そろそろ中学生となった自覚を持って……行動しましょう」
子供たちは気もそぞろに先に座り始める。ヘノが幕内の手から解放されてよろよろと席に座る。正確には他の生徒の机と同じ高さに揃えるための台に机が置いてあり、その机の前に彼は座った。エスパノル・ヌートリアの机を床に置くと、前の生徒の方が背に隠れ彼は黒板を見ることができなくなってしまう。
幕内仱矢はそのふくよかな体躯を席に運びながらこちらを見やった。中学生にしては鋭い眼光が赤名の目を貫く。
馬人要素保持者の2人の机には椅子が用意されていない。これは設備が足りていないというわけなどではなく、ホモ・ケンタウロスの肉体が着席に適していないことによるものだった。基本的にこの種族は座ることがない。常に立ちっぱなしでも疲れることはない。赤名が通勤時に見た電車の馬人要素保持者も席に座っていなかったが、いたって涼しげな顔をしていた。20
などと一般的な中学校の教室内の風景を取ってみても要素にとってそれぞれ適切なものがあった。体の構造によってそれぞれにぴったりなものがある。このことをわかりやすく伝えるのが今回の授業の目的なのだ。
「総合の授業を始めましょう。日直の欠瀬さん。初めの挨拶をお願いします」
欠瀬榛一郎は声変わりする前の甲高い少年の声で返事をした。
「は、はい。──起立」
といってもそれを言う彼本人は姿勢を変えていないが。
「注目。着席」
「では皆さん授業を始めます。前々からもお伝えしていた通り今回は多要素共生社会の実現についてです。皆さんは同級生やクラスメイト、家族から聞いていて知っているかもしれませんが、いわゆる"人間"に新しい定義が加えられたのはごく最近のことです」
そこですかさず発言してくるのはガキ大将の幕内だ。
「それなら知ってるよ先生。ヘノみたいな人間のことだよ」
生徒の前の教員はそれをはっきりと否定しこう言った。
「いいえ、それはちょっと違う。要素というのは、あなたにもありますよ」
「何?別に違くはないと思うけど」
「いいえ。形態の違いは自身にとってアイデンティティや個性になれど、それが差別する要因になってはいけません。幕内君、あなたにもヘノ君と同じように要素があります」
「僕は──何の力もないって親が言っていた」
幕内少年は言い淀んで顔が下を向き、次第に喋りの勢いを収めていった。
「幕内君にも性別はあるでしょう。あなたは"ヒト"で、ご両親の息子です。それだけで十分に要素があるのだと言えます。ヘノ君と同じようにね」
「私たちの周りには色々な人がいます。姿形も、考えることも違う人が」
それはヴェールが崩壊する前から何の変わりもないことだった。
「でもそれで誰かがサービスを受け入れられなかったりしてはいけませんよね。例えば女性であるからと言って就職や入学に不利になっては良くありません」
「でもさ、形態の違いでできる仕事とできない仕事があるのは当然じゃない?」
今日ばかりは幕内の性格が授業の進行に良いものを齎しているようだった。
「そうですね。かつて男女によって仕事の内容が違うのは当然と考えられていました。例えば看護師のことを昔は看護婦と呼んでいて、女の仕事だったのです。これは良くありませんでした」
「いや!違うんだよ先生。僕が言ってるのはそんなことじゃない。例えばヘノには重いものを持つ仕事はできない!どんだけ頑張ったって僕と同じものは持てないよ。そりゃ、男と女で重いもん持てるかとは別問題で、この場合は根本的に体の構造的に無理があるんじゃ?」
「その平等の実現には大きな困難がありました、幕内君。難しい言葉でいうところの機会的平等21
というやつです」
「それでも皆が平等な機会を享受できるようにしたのが、現代の社会であると言えるでしょう。馬人種の人とその他の人が同じレースに立つのは不平等です。それと同様に、今の世の中には多要素が共生して暮らしていけるようにたくさんの工夫がされています」
「それでは班になってその工夫を話し合ってみましょう」
Yakushi企業群には昔の財団のように秘密が多かった22。財団の目を避けながら事を為してきた彼らは、機密情報を財団にすっぱ抜かれたりすっぱ抜いたりしながら独特な均衡を保っていた。財団とYakushiはそこまで仲は良くない方で、あけすけに言えば敵対していた。それは超常を規制する側と販売する側という本質的な側面から説明できることかもしれないが、それとはまた別に長い歴史の中で培われてきた禍根があった。
中央新都心の一等地に位置するブロムホフィービルの屋上庭園には、庭園という名の通りの"庭"23と白いテーブルクロスが上品にしつらえられた円形の机があった。その"庭"はある特別な仕掛けを発動させる以外はほとんど機能していない特別製である。"庭"は主に林檎の木で構成されていた。それも赤くでっぷりとした実を結ぶセイヨウリンゴの類いではなく、ワリンゴという古来から日本に存在する種であった。その果実は天皇に献上されたこともある由緒正しき植物だ。その下には大きめの植木鉢でツツジが植えられていた。これもまた日本に広く分布していた野生種であり、ヤマツツジ…24学名でRhododendron kaempferi Planch. var. kaempferiと長ったらしく呼ばれるものだった。野生種であるということは血が昔のままで保たれているということなのか。まさしく、机に座っている人物らはそれに相応しい古き家々の者だった。
「Yakushi本社のセントラルビル名前が"ブロムホフィービル"ってのはさあ〜なんつーかお爺ちゃんのナルシズムじゃない?言いにくいし」
「あ?」
「ブロムホフィーって、ニホンマムシの種小名じゃん。虺おじいちゃんが意図してつけたんだよー。グロイディウス・ブロムホフィー」
「違う違う。虺さんがそんな俗っぽいこと考えてるわけないだろ!なんか、こう、うまいこと最高に深淵な意味があるに決まってるぜ!俺らなんかじゃあわからねえよ」
円卓には上座下座という概念がなく、この場においても平等を強調するという役割が実際にあった。だかしかし、若い者はまとめて座らされられていることがあってか、先程不躾な発言をした少女は1番扉に近いところへ座らされていた。
「黙れ、桐に紅花。やっぱ若い者は煩くてかまわん」
「へー、杯おじちゃんも老いぼれだったんだー。そろそろ若いもんに席を譲ったらどうですかー?」
「教育が必要なようじゃな」
席に座る者どもは誰がどうみても仲が悪かった。この光景を眺めている薬師寺製薬の社員たちは、出世欲や金銭欲など銘々に異なる願望を抱いているが、彼らの共通した見解はこの古き家々の人間とはあまり関わりたくないという気持ちだ。だがしかし、名誉欲や出世欲がないわけではない。あわよくば、彼らが争いをしているうちに漁夫の利だけを受け取っていきたいとすら考えている。
紅花と呼ばれた少女の名前は薬師寺紅花やくしじべにはな 。桐と呼ばれたのは日奉桐いさなぎきり という男だった。紅花はYakushiの化粧品を販売する企業「花姫堂」25の若き社長で、桐は薬師寺製薬の希少疾病用医薬品部門26の部門長を担当していた。
日奉桐の秘書27が耳打ちする。
「おいおい!そろそろ来るみたいだぜ」
「またまた老いぼれがよ〜〜何で集合するときいつもお爺ちゃんのこと待たないといけないんですかー?」
床から迫り上がってきたエレベーターの透明な箱の中には、日本の一角を支配する権力を持つ男が乗っていた。薬師寺虺やくしじまむしだ。複数の秘書に囲まれ、にやにやと笑っている。
「お待たせ、皆」
いつまでも若々しい声と肉体を持つ元忌み子は自分が老人であることを知らないかのように若々しさを保っている。だがしかし、決して常軌を逸しているほど若々しいというわけでもなく、年相応にその声は歳を重ねているし、その肉体はまた少しだらしなくなっていた。
「は〜この老人は老人で若者言葉使うんだからも〜」
「ふふっ、老人のような喋り方といっても役割語にしかすぎないんだ。老人は皆、自分が生まれた時の言葉で喋っているだけだ」
「虺さん!!こいつら生意気なんですよ。シメてやりましょうよ」
「ははっ、かわいいもんだよ」
「それ俺に言ってください。虺さん」
「さすがに男同士で言い合うのは気恥ずかしいだろ」
テーブルの上にはまだ暖かいアップルパイが切り分けられて置いてある。これは先程都内の有名店「グランド」28から配達された人気商品だった。虺はそれを丁寧にフォークで食べながら話し続ける。
「ああ。それにしても人数が少ないな?せっかく日奉も呼んで親族一同揃ったかと思ったのに」
薬師寺紅花がアップルパイのかけらを口に放り込もうとした時だった。虺がその場で言ってはいけないことを言ってしまう。紅花はパイが喉に詰まりそうになった。
「あっ」
日奉杯いさなぎはい が声を震わせて発言した内容は空気を響どよもした。怒りに声を振るわせて大声をあげる。
「お”前”か”全”員”殺”し”た!」29
「ひえ、年寄りの激怒は怖いな」
「あー、キレちゃった。何回同じことでキレてんの。最近の老いぼれは短気でコマッちゃうなー」
「何を言う、紅花。これは一族の重大なことだ!」
「俺もこんな風にならないようにしないと。部下を怒るときとかさ。ここまで偉くなるとむしろそんなタイミングは減ってくるんだけど」
日奉杯の声はまだ震えている。
「ワシが……ワシが……あのあとどれだけ苦労したかわかっているのか?5年近く隠れやがって。30最悪だ。お前お前」
彼らが集まるといつもこうなるので、紅花と桐は慣れたものだった。
「虺さんも毎回煽るからよくないんじゃなーい?もう私としては飽き飽きです」
虺は意図的に杯の地雷を踏み抜いているきらいがある。
「まあそこは何十年も経ったことだ。今更怒っても何も益はないよ。俺もそこそこ代償は払ったし」
そのようなことを言ってみせるものだから、杯も怒りの矛先を虺に向けてしまう。とうに時間が経ったことだが、禍根は著しい。それを示すように怒りの声は生々しかった。
「何が代償だ。万世を支える黄金桃の血統ぞ。宝玉の璆鏘きゅうそうを知るが良い。彼らを弑いた罪は貴様如きの死を幾千と積み上げてもまだ足りぬ」
日奉杯のなみならぬ怒りが頂点に達しそうになったとき。和リンゴの"庭"で仲良く虫を啄んでいた鳥たちが殺気を感じて空へ飛ぶ31。
「そういえば」と薬師寺虺はおどけて言ってみせた。もう日奉杯の怒りには関心がないらしく、杯の咎を弁解する気持ちもないようだった。
「紅花。こないだそっちのシャンプーが炎上してた件32は?」
「あー?アレか。ぜーんぜん大丈夫。今騒いでるのはほんとに少ない人たちで大勢には影響しないよ。私のPlantalot33のチャンネルもそこまで酷い感想はないよ」
「お前Plantのチャンネル持ってんのか……?」
「うん」
「確かに便利かもしれないけど、社長直々の動画ってのはどうなんだ。なんつーか、危ないぜ」
「そうそう。だから"薬師寺紅花"34という私個人で有名になっておくんだよね。自社製品を社長私が宣伝するのはあざといから他の色々なことでバズっておいて、後から自社製品の宣伝をぶっ込んで行けばいいんだよ」
「それだとステマってやつになっちまうんじゃねえの?炎上するのはまずいぜ」
「そこはもー、正直に言うんだよ。あらかじめ商魂たくましいみたいなキャラをアピールして、恥ずかしながらステマをさせていただきます……でも、うちの商品はめちゃくちゃ良いから安心して!な感じの話の流れを作っておけば大丈夫」
「なるほど、隠さないで正直に言うってのが最近のマーケティングなわけだな」
「視聴者をバカにしてるから燃えるんだよ。宣伝したいならバカにされないと。私も色々と学んだからなぁ」
「そりゃ重畳」
「でもどこまでの要素に対応してるかはちょっと明記しといた方が良かったねー。全国民の1%っても100万人はいるんだからさ」
「財団の統計だと80万人下回るんだがな」
「いや──もしものために統計はサバ読むでしょ。近いうちにYakushiでも調査しようね」
「大変なんだよ統計調査は。財団の調査は偽装ばっかりだし、政府はこういう手合いの統計に消極的だしね。何かを判断して分類するというのが難しいんだろうけど」
「だからウチでやろうって言ってるんだよ」
「まあ、今度のダイバーシティ推進委員会で話してみるよ。だけど、あんまり期待しないでくれ」
「ありがとう虺さん!尊敬する」
薬師寺紅花は見え見えのお世辞を言って手を合わせた。
薬師寺虺はあくまでも久闊を叙するつもりでここに来たのであって、仕事の話をするために来たのではなかった。しかし、長い間仕事漬けの彼らが集まると自然にそういう話になってしまうのであった。
「じゃあ桐、そっちの研究はどうだい」
日奉桐35は一昔前の不良のような格好をした研究員である。今はこうして学ランっぽい服を羽織って下に赤いシャツを着ているが、社内では白衣を着用していた。そしてこの男は昔ながらのリーゼントヘアに固執しており、白衣が足されると違和感しかなくなってしまうのだった。
「万事順調だぜ、虺さん。こないだのフィオラ症候群36の件でしょう?ハーネリセンの口腔内投与で治療してたけど、もっといい方法があるって試行錯誤始めてから2年経ちました。今やってる治験でこれまでの成果をお見せできると思います」
「全身性樹化症候群37のIII型はニッソ医機に先を越されたからな…。今度は勝ちを掴んで欲しい」
「もちろんっす!アイツら概念除去って時点で話がわかってないですよ。概念除去の成功率は認められんほどに低いです。なのにさもこれまでの治療方法よりも確実なやり方を見つけた……なんてことを言ってますからね。本当に腹ただしい」
「概念除去の成功率59%〜まあ元々の死亡率高かったこと考えるとまあまあじゃない?」
「言ってることがめちゃくちゃなんだよ。アイツら。PFCと遺伝性疾患の関係はいまや明白っつうのによ。ほら、これ見ろよ」
日奉桐がタブレット端末で見せたのはニッソ医機が出したのは『人を人として未来へ繋ぐ。再転移型異形化抑制システム』と題されたニュース記事だ。
「20年前の記事にどうこう言うなっつうの〜」
パイを食べつつ紅花は言った。
「まあ元々アノマリースミスの科学者さんたちだからそういうの雑なんじゃないの?科学とかわかんなくても感性でちょろまかしてるんだよ。私もああ言う手合いは嫌い」
2人の会話を見て薬師寺虺は
「まあ良きライバルだな」
とポツンと独り言のように放言した。
「はあ〜虺さんつえー。しゃーないか。私たちとは比べ物にならないくらい付き合いがあるもんね。財団も日本生類創研も」
「ついて行きますよ、虺さん。良きライバルだ、ですね!心の格言帖に一生留めておきます」
「やめてくれよ。2人とも」
「いやいや。会長のお言葉ですから」
「俺は単なる置物にしかすぎないって」38
空には暗雲が広がっていた。日奉杯は怒りを収め、やや鷹揚に振る舞って発言した。
「そういえば、虺よ。お前からすればこの程度のこと些事かもしれないが、ハルヤ食品の多要素共生プログラム39の一環として地元の中学校の招待が決まったぞ」
しかし、やはりどうして心の奥底では怒りがおさまらないのか、日奉杯は机の下で拳を握りしめていた。
「ああ、これか。些事ではないよ。瑣末でもない。とうの昔に滅びた一族よりもよっぽど重大なことだ」
日奉杯の3人の秘書は彼の肩を掴み必死に押さえ込んだ。
「やめましょう!杯さん」40
「ここで何を言ってもダメです」41
「ココはどうか落ち着いて」42
「ああ、ああ。そうだな」
と言いつつ着席し、服の乱れをなおす日奉杯。
「やめなよ、虺さん」
「別に何も言ってないんだがな」
「なんとなく虺さんが成り上がった理由はわかる気がする」
「確かハルヤ食品の社会科見学だね。個々の企業の動きについては何も口出しできないが、Yakushiとしてはいつでもそういうのには賛成だと言っておこう」
「これはむしろハルヤ食品の方針じゃ。これまでパラテク企業は中学生に企業見学させるなど思いもしなかったからな」
「秘密主義なのはどこも一緒だしな!簡単に技術漏らせないってのは、うちも同じだ」
薬師寺虺は手に持つタブレット端末の画面をスクロールさせながら社会科見学の概要を眺めていく。下のところまでスクロールすると参加者の一覧が簡易に記述されており、そこには細かい文字でいくつも名前が並べられていた。
「目が悪くなってきたな。今度ウチのコンタクトレンズ使おうか」
「眼鏡をつけた虺さんも良いと思いますよ!」
「何を言ってんの、桐」
虺が目を凝らして名前の一覧を見ているとその中に見覚えのある文字列があった。
「日奉桃……?こんな親族いたっけ」
見間違えかと思い目を擦るが、それでもなおタブレットに映し出される文字は変わらない。
「日奉桃?」
と桐は言う。
「日奉桃〜?」
と紅花は言う。
「日奉桃、か」
杯はそう言った。
「桜の娘43かっ!」
"庭"の木に戻ってきていた鳥たちがまた飛び立っていた。
「花月川くん。結局どういう手でこの社会科見学を可能にしたのですか?」
「赤名先生は何も気にしないでいいですよ。とりあえず生徒たちを連れていけば我々の目的は果たせるんですから」
新都心の街は階層的だ44。複雑に建築されたビルはいくつかの階層を産んでいる。下に行けば行くほど光は通らなくなるが、ここは全体で言えば中くらいの場所に位置していたため、そこそこ光が入ってきて明るかった。45
ゾロゾロと列を成して歩く子供らは背丈も形態も違っていたから、まるでまとまりのない"庭"のように思えた。だがしかし、庭の群は別々にコミュニケーションをしていた。
「茶畑さん、列を乱さないで。あなたは列からはみ出ると人とぶつかるんです」
欠瀬榛一郎は真面目な顔をしてこう言った。メガネをクイと上げるのはアピールなのか癖なのか。確かに馬の体格は列を圧迫していたのだが、茶畑と同じ要素を持つ彼だからこそこう注意しても角が立たないのだと皆は知っている。他人の要素についてとやかく言うのはタブーである46。
「列から私がはみ出てるんじゃなくて、列が右に寄りすぎなんよ」
「もうちょっと寄りなよ」
柔軟な4本の足関節は器用に体を右側に寄せていった。馬人固有の移動術であるステップだ。上手く使うことによって前にしか進めないウマの体でも横にスライドしていける。47
「ねえくろちゃん、何読んどるの?」
横にスライドしていった茶畑は玄倉本子に話しかける。
「…………本」
「本は本でも何読んどるかって聞いとるんね。本子の返事はいっつも要領えんけん、今日こそはっきりと言ってもらうけん」48
必然、欠瀬の方が背が高いために若干見下すような構図になっている。玄倉は頭を上げる。大理石のようなツノが馬体に突き刺さる。
「痛っ」
「………本、詮索は無用」49
「なんね〜くろちゃん」
「教えない。教えない」
「諸堂中学校の皆さん、今日はよろしくお願いします。こちらへどうぞ。ハルヤ食品宣伝部門担当の甘宿志士あまやどしし50です」
その男は30代くらいの中肉中背で、暗そうな顔立ちを無理矢理笑顔にしているような人間だった。笑顔は宣伝担当と思えないほどに偽物で、体はぎこちないし、どことなく文化系な顔が陰鬱だった。どちらかといえば研究職の方が向いてそうな風体であったが、身なりはそれなりに小綺麗にしていた。
「ここではいわゆる"特殊栄養食品"を製造しています。これは特殊な形態や要素を持つ方々の必要とする栄養素を補完するためのもので、たくさん種類があります」
「ここの境界オフィスで軽く説明したあと、実際に生産されていく過程を見ていきます」
境界オフィスの四階にはホワイトボードにパイプ椅子のある小さな部屋。その部屋の中に生徒らが流れ込んでいく。
「さて、皆さんはどのくらいまで特殊栄養食品についてお知りですか?」
そう気怠げに男は話し始めた。
「特殊栄養食品なんてイカつい名前は覚えてないけど、普段からコマーシャルとかで似たものは見ているよ」
欠瀬はいつも予習と復習を欠かさなかった。今日のために、ちゃんと調べてきたのである。
「僕らは体格が大きいけど、食べられる量は猿人51と同じなんだ。口や消化器官が馬のそれと合っていない。だから多くのカロリーを摂る必要があるってわけ」
「そうそうー!だから私もたくさん食べるんよー」
「いや、茶畑さんは食べすぎだと思うけど……」
「それでよく使うのが"パスコフレンド"52、栄養調整食品の一種だ」
「おお!詳しいですね」
だが彼はちっとも驚いてないような表情だった。
「これには我が社の歴史といいますか、創業に関わる秘密があるのです53」
「ハルヤ食品が1番大切にしていることは、個人のニーズが銘々に違う中でどのように対応していくかということです。54これはハルヤ食品の創業者、春屋十三の考えです。皆さんがより良い生活を送れるようにいつも尽力しています」
「我が社がYakushiに参加しているのもそれが理由です。皆様の健康にリーチする食を作るというのが目的なのです。そして医療関連事業と食品産業の両方からアプローチすることによって、この多要素共生社会を支えています。医療の事業では新しい医薬品の研究開発にも携わっており、例えばHBウイルス感染症55の治療薬であるアントラセルフィルもハルヤグループが開発しました」
甘宿は嘘を言っているかのような声色でそう言っている。別に彼は嘘を言っていないが、声高でどうにも慣れていないような身振りなのだ。
「諸堂中学校の皆さんの中にも"ニーズの違い"について意識的な人がいると思います。先程言ってくださったお2人もそうかもしれませんが、今この世の中、多くの人が"食事"や"医療"という面でも別々のものやサービスを欲しています56」
「例えば、マンハッタン次元崩落テロ事件に起源を持つ悪魔人種は硫黄や硫酸など特別な栄養素を必要とします57 。さっきのパスコフレンドにもサルファータイプがありますね」
幕内とヘノは小声で話した。
「ああ?禁忌食品58だから食べたことはないけど」
「アレ食べたことがあるんだ」
「いや、食べちゃあダメでしょ。それともヌートリアは大丈夫なわけ」
「そんなことはないよ。まあヌートリアは薬物に強いとか言われてるけど59」
「じゃあ何?」
「間違えたんだ。小さい頃。友達の」
「倒れた?」
「そのまま、寝た。覚えてないけど」
「ちゃんと起きれたのか?」
「今僕がこうしてることがその証明だよ」
「まあそうだけど」
「取り違えは危険だよな」60
禁忌食品は誤って食べられることがあった。そのために成分を薄めにしたりわざと特徴的な味にしたりなど改良がされているが、事故はやはり後をたたない。
赤名はこのやり取りを最後方で立って見ていた。このあたりの情報はこの社会で暮らしていたら自然と耳に入ってくることだったが、改めて説明されると奇妙であると思う。ヴェール崩壊以前の食習慣はそれほど多要素など気にしていなかった。「異常性」という概念が民間の中に無いとは言え、アレルギーや宗教的な配慮はあまりされていない61。だからこそ今この世の中でやたらめったら過剰に配慮が為されているのは面白みがあることだった。赤名は「クスッ」と音すら出さずに小さく笑う。
ふと気配を感じて窓の外に目をやると、そこには四つ目のスーツを着た男性と同じく几帳面にスーツを着たイヌのAFCの人が立っていた。後者は二足歩行でこちらを見ており、ソプラノボイスでこう喋った。
「赤名先生。ちょっと良いでしょうか」
イヌのAFCというべきなのか、知性化動物というべきなのか、赤名はこの社会でありがちなことに少し迷った。
「どなたでしょうか」
「ああ。すいません。無礼でしたね。しかしここでは甘宿も話していることですし、あちらへ来てもらえないでしょうか」
「少し待ってください」
何の用なのだろうか。赤名は前もってこんなことを聞かされていない。花月川周りのことだろうか。それならば十二分にあり得る可能性だった。しかしそれでも花月川ではなく自分を呼ぶ意味がわからない。花月川に報告を入れると「何の話ですか?」と簡素な返事が返ってきた。相手の意図も花月川の意図もよくわからない。
「こちらです。ついてきてください」
オフィスの中を歩いていくとここが国内でも有数の大企業であることがわかる。諸堂中学校の設備など比べ物にならない。何やら個別の狭い部屋で宙を眺めてぼーっとしている人がいる。62
「ああ、あれは集中する時用の部屋ですよ。普段は皆の椅子が並べてあるところで仕事するのですが、特に納期が迫ってきてるときとかはああやって集中するんです。今は何人か使ってる人がいますね」
「な、なるほど」
陽の光が入る空中廊下を渡っていくつかの扉をくぐり抜けるとミーティングルームがいくつかある大部屋に入る。席に座るよう椅子を引いて、自分もそれよりさらに小さい椅子に座る。そうしてイヌの(ネクタイをつけているのでおそらく)男性が喋った。63
「私は虺会長の秘書ジュール・ナダールです」
紙コップにお茶と水を入れてきた四つ目の男がナダール氏の隣に座る。
「ええ、失礼。私は水しか飲まないもので。あなたはどちらがいいですか?」
「では私はお茶をもらいます。そちらの方は」
「私は同じく薬師寺製薬のシニアスタッフ、鴨居陣かもいじん64です。いわゆる管理職というやつです」
「はあ、それで私はなぜ…」
「焦らないでください。話し合いには落ち着きが寛容です」
「まあ何も焦るようなことをしないといけないわけではないのですが」
「甘宿には通常よりも長い原稿を渡しております。なのでこの話が長引いても問題ありません」
「──今の薬師寺の長……あるいはYakushi全体のトップということになるのですが、彼、薬師寺虺の人生は言わば叩き上げでした」
「は、はあ」
「こう思いますか?"薬師寺"は薬師寺製薬の創業一族であえて"叩き上げ"という単語を使うのはおかしいのではないかと。何もおかしいことはありません。彼の産まれはそれほど恵まれたものではなかったからです」
ただでさえ自分の普段の仕事場とは似ても似つかないような、言ってしまえば上流階級の企業に来ているのに、赤名はYakushiの沿革を滔々と聞かされて混乱していた。知ったことではない。薬師寺何某の産まれた年はいつ頃だろう。いくら大きい企業だからといって、一般市民である赤名の認識はその程度のことだった。
ナダール氏は犬の口で水を飲もうとして不器用に舌を動かしながら嚥下した。獣人用のストローはないのだろうか65。
「それがまさしく本題です。もうお分かりでしょう」
確かにそうだった。赤名はそのことをわざわざ再確認したにすぎない。
「日奉桃さんのことでしょうか。生徒のことに関してはご両親のところに聞かないといけないので、私の一存では決められません」
「別に何を頼もうというわけではありません。ただ、これは財団やその他の企業に知られないようにしないといけなかった。実を言いますとね。今ここに来ているんですよ。虺会長」
「両親やその子本人の考えを無碍にする私ではありません。まずは彼女と彼女の親族にその旨を聞かないことにはなんとでも言えないんです」
「しかし、結局のところ日奉一族も薬師寺一族も親族のようなものですから……。これは単に親戚が日奉さんの顔を見たいという話だけなんですよ」
「……わかりました。ではまず彼女本人に話を聞いてみましょう」
「鴨居、日奉桃さんを連れてきてもらえますか」
鴨居は無言で頷いて外に出た。数分後背の高い彼の背後に隠れるようにして日奉桃がやってきた。さぞかし奇妙に思えたことであろう。何せ担任の先生が見知らぬ黒服に連れられ席を外していたのだ。他の生徒にもだが、不安を感じさせたに違いない。
「せ、先生……?」
「日奉さん。安心してください。この人たちがあなたにお願いがあるようです。少々聞いてはくれませんか」
「はい……なんですか?」
日奉桃は普段規律とした態度を崩さない赤名先生が頼み事をしたことに驚きを覚えた。このことはかなりの間記憶に残るだろう。それだけ、日奉桃にとってこの邂逅は印象的な出来事だった。
「ちょっとだけある人と面会をしてもらうだけで良いんです。時間は30分も取らせません。そうしたら、工場見学に戻れますよ」
「ある人、ですか?」
日奉桃は小声で、おっかなびっくりに喋る。
「偉い人?」
「まあ…確かに偉い人ではあるんですけども、あなたにとってはほとんど関係ありません。親戚でしょうから。あなたの親御さんから何も聞かなかったんですか?」
「あ、あ……。お母さんは実は"日奉"とは離れたくて」
ナダール氏の顔が少し歪んだ。そう見えただけでその顔には全く変化がなかったのだが、とにかく何か気分を悪くしたように思えた。
「私は"三日屋"66を失敗したから…」
黙っている日奉桃のことを律儀に待つナダール氏。
「もうちょっとそのえらい人のことを聞いてもいいですか?」
日奉桃は強ばりながらも明確にこの事態を認識していた。
「といっても私の口からはWikipedia67にあるような情報くらいしか出てきません。薬師寺虺、御年65歳。薬師寺製薬の社長兼Yakushi理事会の長です。それ以上はやはり本人から聞いてもらわなければ」
「私は興味があります。そのえらい人がなぜ私に会いたいのかとか……母さんがどうして私にそのことを隠し続けるのかとか……」
AFC、あるいは動物の要素を持った人々の表情は読みづらいところがあるが、赤名はこの時の笑顔をしっかりと理解していた。口角が上がるようなこともないが、頬の筋肉が少しだけ緩みかけたように思えたのだ。
「わかりました。このビルの最上階に虺さんはいます」
「こんなことがあってたまるか」と赤名はさっきから思っていた。ほぼ強引に、自分の生徒を連れていかれてしまった。もし日奉桃が自分でも興味があると言わなければ断りようはあったのだが、日奉桃が意気揚々と好奇心を発露してしまったせいで何もかも有耶無耶になってしまった。学年主任の淡窓先生に怒られてしまうかもしれない。
エレベーターの前で「ここから先は日奉さんだけにしてもらえますか?」と警備員68から言われ赤名は逡巡した。生徒の安全を守る義務があるのだ。
「せめて部屋の前までいけませんか」
なんとかしてエレベーターに2人で乗り込み、最上階へとたどり着いた。そこには何かの来賓室があった。社長室ではない。
「日奉さん。何があっても動揺しないようにしてくださいね。あなたはとても強いですから」
「はい」
日奉桃はこくりとうなづいて扉を開けて部屋に入ってゆく。扉の奥には一瞬だけ、体格の良い生命に満ち溢れた1人の老人の姿が見えた。何かを垣間見たのだった。
横面のガラス張りの壁越しに街を見ている男は、いささか似合わないスーツを自身の体に張り付けていた。背中だけで彼が送ってきた人生の重さが分かり、幼い日奉桃にもそれは明白だった。しかし、日奉桃が彼のことを目にして1番先に思ったのは、どこからともなく感じさせる懐かしさと親近感であった。しかし、どの程度血縁関係があるのかは日奉桃のあずかり知らぬところである。
「あー……。そこのソファに座ってくれ。何も緊張しなくてもいい。親戚の子に会いたくなっただけなんだ。老婆心というやつかな。お茶でも淹れるか。それともオレンジジュースがいいか?」
薬師寺虺はミニ冷蔵庫に入っている缶ジュースを取り出す。それをグラスに注ぎ込み机に置く。日奉桃はそれを両手で掴みごくごくと飲み続ける。彼女は慣れないことの連続で喉が渇いていた。「ぷはぁっ」と飲み終わると丁寧にコースターの上にガラスを置いた。
「虺さんは私の何にあたるんですか?」
「血縁関係の話はかなり難しいな。ヴェール崩壊以前まで遡らないといけない。69」
薬師寺虺は彼女が緊張していることくらいわかっていた。
「私も子供の頃はこういう場は苦手だったよ。偉い人間ってのは偉そうでね70。ああ、今この話は笑えないな。緊張しなくても良い」
日奉桃はあまりに率直に疑問を口にした。
「薬師寺さん?は偉い人なんですか?」
薬師寺虺は少し考え込む。やおらに答え始める。
「偉い人か。まあこの会社の社員から見れば私は偉いってことになっているのだろうが……偉さってよくわからないな」
ほんの少しだけの沈黙。
「まあ、そうだ。私は偉いよ。私より偉い人はたくさんいるが。こんなの世界の偉い人100人に聞いてもそう答えるだろうけどね」
「……例えばどんな人があなたより偉いの?」
「例えば……総理大臣71とか、財団のO5とか。私の持つ権限なんて彼らからしてみれば木端みたいなもんだ。吹けば飛ぶというようなね72」
「私に何か聞きたいことがあって呼んだんですか?」
「いや、逆だよ」
そこには1人の老人、あるいは大きくなった少年の姿があった。自嘲気味に、そして自己嫌悪感と傲慢さの中間くらいにあるような表情でコップの氷が溶けてゆき「カラン」と音を鳴らすのを見ていた。
「聞きたくない?君の親類がどのようにして社会と関わってきたか」
虺はそう問いかけたが返事はない。
「日奉や薬師寺が関わってきた事件はあまりにも多い……。おおやけになっていないだけで国家を揺るがしかねない事件はたくさんあったんだよ」
「私は常々平凡に暮らしていけたと思っています。お母さんのお陰で、他の人たちとは関わらないで生きてこれました。だからこそあえて考えないでいたんです。私たちの血縁が何をしたかということを」
「君のお母さんの努力を無碍にしてしまうのは本当に心苦しい。だがしかし、別にそういうつもりで君を呼んだわけではないんだ。どちらかといえばこれは贖罪に近い」
日奉桃が壁にかけられたテレビを見るといつのまにか動画が流れていることに今更なことに気がついた。ニュース番組だろうか。桃は異様なことに訝しみつつもそれを確認した。かなり前のニュースだ。
「長野市AFC殺傷事件……?」73
「君のお母さんの6親等くらいの親戚かな?えー……伯叔父従祖父母。君のお母さんのお爺ちゃんのお爺ちゃんの孫。日奉蓮いさなぎれん74」
「20年くらい前の事件だ。君が知らなくても仕方ないことだ」
「何が言いたいかって、この事件は最終的に日本国民への反夏鳥感情75を再び燃え上がらせることとなったということなんだ。実際のところ日奉一族は……違う。Yakushiは……」
「何があった?」
「いや、もう一つ事件の話をしよう。別に"何が"あったわけではないよ。これは緩やかな思想の変化を辿るための方法論なんだ。思想の変化を感じるにはその節目を理解するのが1番良い」
「そうそう。まずあらゆることに先立って日本国内ではまず奇蹄病事件76があった。今思えばあれが全ての原因だったのかもしれない」
部屋の隅にある懐古的な形をした時計だけがチクタクと一定のリズムを刻んでいる。ガラスコップの中の氷はすでに溶けている。虺の目がどこか悲しげに窓の外を眺めていた。日奉桃のポニーテールが揺れた。飛び上がって席を立ったからだ。
「何を、何を言おうとしてるんですか?!」
「認知現実論77は20年代からまことしやかに言われ続けてきたが、今ではほとんど事実に等しい扱いを受けている。だがしかし、それには莫大な認知の量が必要だ。今、息を吐く量を増やしたからといって即座に大気中の二酸化炭素濃度が増えることがないようにね。二酸化炭素濃度を増やすためには地面の中に埋没していた有機体を掘り出して燃やすか、家畜を大量に飼うなどの創意工夫が必要だ。私たちがやったのはまさしく認知への反逆」
「奇蹄病事件もYakushiが原因なんだ。正確にはけしかけたのがYakushiで、本質的な原因はやはり日本生類創研の側にあるけどね。大局的に見ればこれはやはり外道な方法だ。奇蹄病事件を引き起こし、そしてその後もさまざまな事件を引き起こし、人類の認知を変えたのは私たちだ78。だから私は謝りたくて仕方がない。こんなことをやった君たちの親世代が持つ無邪気で純粋で無垢な想像力が世界を変えた」
「全てマッチポンプなんだ。今でこそ多要素共生などと言って、皆が平等に暮らしていけるようにいろいろな薬や食べ物や建築物に至るまでを作っているが、それは私たちが作った格差をひたすらに埋める作業をしているだけだ。マッチポンプみたいでむごいことだ」
日奉桃は当惑した。これまで人々に要素の違いがあることはあまりにも当たり前で常識的で当然のことだったから、それが誰かの手によって起こされたものだと想像に至ることがなかった。まるで将棋の盤が終盤でひっくり返されたように、あらゆるものがめちゃくちゃになったことをまずまずとイメージされた。
「私のことをいくらでも罵ってくれ。街中でウマの足が闊歩し、オフィスでは四ツ目が人を案内し、食べ物は人と人でことごとく違う。レストランではおぞましい物を食べる人間がたくさんいて、中には見に余る病気で子供の時から一度も空を見ていない人間がいる。公園で遊ぶ子供達はいつまで経っても馬人要素の人間に追いつくことができない。足の速さが違うからだ。根本的に、生物学的に、それでは追いつかないのだ」79
「きっとこれは順番なんだ」薬師寺虺はそう思った。世界では幾度となく繰り返されてきた世代交代の歴史。自分がかつての大人たちを「老害」と下し、暴力的なまでに排除してきた若者だったので、その意識はかなりあった。そうやって人間の意識は徐々に成長していくのかもしれないなと、考えた夜はものの数ではない。
虺が排除したのは、独善的な思考を持つ美魔女80と金が溜まり過ぎて頭がおかしくなったジジイ81であった82。どちらもヴェール崩壊以前に生まれた魔物。自分とは逆に「治す力」を色濃く持つ者たちだった。若い頃の虺にとって彼らはこの世の悪を体現した存在に見えた。下劣で、色に狂い、金にがめつい。身の回りにある財産は全て自分のもので、腐ったような現実主義を振り回しながら人を支配していた。彼らは貧乏人を見下し、何百人という人を首輪をつけて飼っていた。このような人間を社会にのさばらせておくから、貧乏人や難病の子供たちを救うことができないのだと年頃の人間としては至極当然なことを素朴に思った。そいつらを倒して、正式に会社を乗っ取って、そして世界を良くするためにがむしゃらにがんばった。これも全て世界のためだった。より良くなる方法を探してのことだった。
それで実際に社会が良くなったかを決めることは虺の職責にはなかった。おそらく、かつての虺と同じようにこの社会に不満を持つ者たちが自分のことを殺すのだろうと覚悟していた。もしその時があればそれに甘んじようと、弱々しく思ったこともある。逆に、悪役は悪役らしくせいぜい抵抗するべきなのかもしれない。あのとき虺が倒した2人のように、罵詈雑言と一抹の芯の太さだけを見せつけて堂々と消えてゆくのがより良い世代交代の仕方だろうか。
『確かに僕は悪役な為政者だったさ』
『本当にね』
『だけど今の僕の気持ちがわかる時が君にも来るよ、虺くん』
かつての薬師寺家は貧乏人を半ば見下していた。翻って今の自分はどうだろうかと虺は考える。虺は自分が思っているよりも良い世界を作ることに貢献した。はっきり言って、この世界の成功者の1人であると言っても良い。だがしかし、Yakushiがこれまでやってきた罪を背負う枯れた彼の背中は、同じ部屋にたまたま同席した親族の少女にとってどこか寒々しく見えた。虺はこの世界を作ってしまった自分を憎んでいるとともに、新しくできた人間の形が受け止められていなかった。だから「人によって形態に違いがあるのは不平等」で「特別な力がないのは不幸」なことだった。
「君たちは大人世代の不見識な想像力の被害者だ。これはどうやっても償われることはない。だから謝らせてくれ……」
虺はうなだれた。
「第6区特殊食品製造工場」83は生産領域と生活領域の境界線にあった。生活領域の側には高層ビルのオフィスがあり、生産領域の側には工場がある。工場は屋上に"庭"を乗せた平べったい建物で、潰れたクロワッサンみたいな見た目をしていた。三日月状の工場の真ん中はくぼんでいて、そのくぼみには"庭"が群生している。84
「こちらです。皆さん」
気怠げな顔がようやく抜けてきた甘宿は生徒らを先導しつつそう言った。
「うわー!」
まずは小さなどよめきから。茶畑の最初の感動は群れを徐々に伝播していく。
「これ、何が起きとるとねー?」
この声を皮切りに、子供たちは一斉に口を開けた。各々が別々の感想を言うと姦しく、花月川はそれを鎮めるのに苦労した。
「あれがパスコフレンドの列さ。ああして、粉を練っていつも見てる形になるんだよ」
「へー!」
「これは……本で見たことがある」
「ヘノ!こっち行こうぜ!」
「勝手に行くなって!」
かと言って教師陣も明るい様子を見せているとは限らず、日奉桃のことに関する落胆でイマイチ盛り上がっていない。
「結局日奉さんはどうなったんですか」
「やめてください。もう話したくない。花月川先生?あなたがこの社会科見学を手引きしたのですか?」
「何のことを言っているんですか赤名先生。確かに先方と話をつけたのは私ですが」
「あなたにコネとかあったんじゃないかって聞いているのですが」
「別にないですけど……」
「ああ、そういう……。結局私の独り相撲ですか」
「いや、僕には先生が何を言っているのかさっぱり」85
甘宿が案内している間、教師の2人は陰鬱な気持ちが確かにあった。保護者のことを無視して勝手に一人で行動させたことを淡窓学年主任に追及され、そして次の保護者会で問題にされるかもしれない。この端的な事実が陰鬱にたらしめていた。
「ヘノ!じゃああっちへ行こうぜ!」
「あっちには"侵入禁止"って書いてあるでしょ!」
「じゃああっちだっ!」
「バカ!!」
「それでは」案内しますと甘宿が言う。ガラスの向こうには工場の生産ラインが画一的に設けられており、今も休むことなく大量の食品が生産されていた。それに目を輝かせる子供たち。先程までやけに長い説明の繰り返しで眠そうに目を擦っていたのに、今ではそれが見る影もないくらいに騒いでいる。86
「まずは入る前にこの服と帽子をかぶってください。AFCの方は毛が多いので特に気をつけて身体中を覆ってください」
しっかりとエスパノルヌートリア用や馬人要素保持者用のものもあった。87
「まずは秤量ですね。材料は主に小麦粉です。マーガリンと砂糖、そして味付けのためにナチュラルチーズを入れています。ここは100キロカロリーのプレーンタイプなので基本特殊な物は入れません」
「あちらがサルファータイプですね。色がちょっとだけ違います。これは禁忌食品を知らない人が勝手に食べないようにするための着色で、元々の素材の色ではありません。若干ピンクっぽいです」
「混ぜる過程も少し特殊です。卵と小麦粉は砂糖と他のものが完全に混ざってから入れます」
「次は……」
「わあ!」
「アレだよアレ。僕が工場見学で1番先に想像したのはさ!」
幕内は興奮気味にヘノに捲し立てる。ヘノもそれなりに興奮しているようで、嬉しそうだ。そこは整形されて「いかにも」な形へと変貌した粉の塊である。それはどこか奇妙なところがある、画一的な小麦の塊が焼成機に運ばれてゆく姿は面白かった。工場見学には底知れないロマンがあるものだ。88赤名はそう思う。
「焼成ですね。火力はいつも日ごとの湿度や温度などによって微妙に職人が調整しています。あちらですね。あそこに立っているのが職人の周防89さんです。手を振ってあげてください」
そう言うとヘノと幕内はノリノリで手を振り始めた。周防はそれに同じことをして返した。
「上下から熱を加えているのでちょっと特殊な機械を使ってますね。でもそのおかげでパスコフレンドの独特な味わいが出るんです」
「あの人が火の使い手だぜ」
「機械を使ってるだけだって」
「冷めやすいように色々と工夫されています。例えばあそこから出てくるとこには網が貼ってあって冷ますようになっていますね」
「そして包装です。あのようにしてアルミの個包装をした後パッケージします」
工場見学はつつがなく終了した。ヘノや幕内が騒ぎ気味であったところはあるが、心配ごとに対してそこまで大きな問題は起きなかった。
「出来立ての製品です。皆さんお食べください」
極めて偏屈な性格をした広報である甘宿は皆にパスコフレンドを配っていた。出来立てといっても製造過程でしっかりと冷ますので、他の製品とは何も変わりがないようであった。
「しっかりとうまい」
ヘノは器用に小さな手で掴んで食べている。口が小さいことも彼らの特徴だった。故に、というべきなのか、そのために効率的なカロリー摂取が考えられるようになったのは当たり前とも言える。
「ヘノ、半分くれよ」
「自分の分があるでしょ」
「もう食べてしまった」
「……今あるもので満足してよ」
「榛一郎!そっちは何味をしとると?」
「これはチョコレート味だ」
「こっちはバナナ味やけん交換しない?」
「チョコレートが1番うまいんだ」90
「くろちゃん、そっちは何味しとると?」
「……」
「あー、食べカスこぼしとるよ。本の表紙が汚れとる」
茶畑が食べカスを払おうとするとその手を弾いた。
「触るのもダメなんね」
「……」
赤名か生徒たちの騒がしい会話を聞いていると、「先生」と声がした。そこにはジュール・ナダールと日奉桃がいた。赤名は虺会長の個室で何が起きたのか心配で仕方がなかった。当然の職責である。規律を重んじる彼女にとってイレギュラーな行動はストレスだ。また、そこで何が起きたかは秘密事項である。ナダールはそこに釘を刺し、日奉桃を解放した。
「あなたの方からこのことを聞いてもダメです。彼女本人にはしっかりと言っているので」
「先生、ごめんなさい……。大丈夫だったので何も気にしないでください」
赤名はちょっとだけ陰鬱な気分になった。子供に謝らせてしまったことを憂いている。
日奉桃はそのことを冷静に俯瞰していた。誰にも言えない中、自分の頭の中で記憶を完結させた。
虺は己の一族が世界を変えてしまったことを悲しんでいた。そのせいで、人と人の間に大きな格差が生まれてしまい、苦しんでいる人が増えたことをYakushiの会長であるという立場から見ていたのだ。
日奉桃はその言葉、謝罪をする虺の発言にこう答えた。
────「"色々な人がいて不平等"なんて私はそう思いません」
────「たとえ人によって大きな差があってもです。元からそれは変わらないことだから……」
────「むしろ、私は世界が"こうなる"前のことを伝聞でしか知りません。でもきっと、今より退屈な世界だったんだなって、思います」
────「だから私たちのことを応援してくださいね。よろしくお願いします」
だがしかし、これは虺と日奉桃以外の人間が誰も知らないことである。記録にも、2人以外の記憶にも残らない会話であった。虺以外には意味がなく、誰かが聞いていても意味がないというところは同じであると思われる。
その会話とは関係なく、赤名は日奉桃のことを見て「やっぱり最近の子だな」と思う。人の違いにあまり頓着がない。ありえない状況に対する適応度が高い。それらは新世代の子供たちによく言われることだった。91
「大丈夫でしたか?日奉さん」
「はい。本当に大丈夫です。話を聞いていただけですから」
「……そうですか。なら問題ありません」
薬師寺虺が1人、自分の寝室であらゆるところに思考を巡らしていた。この部屋には誰も入ってこない。かれこれ1時間くらい虺は何もせずただ考えていた。
虺には昔から細かいことは考えないという性向があったが、歳をとるにつれこれまで意味もなくやってきたことの大半がやたら鮮明に何か重大な意味を持っていたのではないかと思うようになってきた。
そして今日の日奉桃の件である。彼女の回答は虺にとってあまりにも憂鬱なものだった。
「なあ、何で変わってしまったんだと思う?蔡」
旧友に呼びかけるが当然の如く返事はない。それはもはや過ぎ去ってそこにはないものだ。虺はこれをあるように思って問いかけているにすぎない。
「変わってなんかいないさ。変わったのは世界の方だって……わかっているだろ」
現実的にはその実体は存在しないが、虺にとってその実像は存在する。あくまでも虺の中の記憶にあるものを再現したのに過ぎないから、自問自答にしかならない。そしてその答え通り、ただ世界が変わり相対的に虺が古くなっただけだった。
「お前がどこまでも恋しいよ、蔡」
「ああ、私もだ」
「そっちに行ってもいいか?」
「……まあ仕方がない。結構頑張ったもんなあ」
鏡を見る。そこにはすっかりと衰えた自分の顔しか写らない。
「毒し殺せウン・ハッタ」
そこには倒れ込む虺の姿があった。彼の心臓の冠動脈は狭窄し、体全体に回るはずの血液が停滞する。脈拍が上昇し、冷や汗が止まらなくなる。92
虺の体に取り付けられた医療用ナノボット"I medic"93が医療機関にただちに異常を知らせた。
「虺さんっ!」
"I medic"が異常を発見してから数十分後、日奉桐が虺のいた部屋に飛び込んできた。ついさっきまで学会で論文を発表していた彼は、白衣を似合わないライダースーツの上に着ていた。
「何でこんなことおおおおおおおおお!」
続いて5分ほど遅れて薬師寺紅花と日奉杯も部屋に入ってきた。紅花はさっきまで学校の授業があったらしく、制服のままだった。
「虺さん……?何でっっ!」
日奉杯は目ん玉をギョロリとさせて驚いて虺の体を見ている。護衛の黒スーツたちが杯の体を支える。あまりのショックで彼まで倒れ込みそうになったのだ。唐草模様の和服が乱れている。
「誰よりも死ななかったお前がっ……」
「ふざけるな。責任から逃げるな」
虺の肉体に近寄って確認する。そこにはもう生きていない肉体があった。
「あ、あの。虺会長は」
「生きておらん」
「はあ、しかし……」
普通なら異常発覚からすぐの今であれば間に合う可能性は十二分にあった。だが、日奉杯はこれをトリアージ黒救済不可であると判断した。恨みつらみでそう判断したわけではない。医者としての経歴も持つ彼はヒポクラテスに誓って誠心誠意判断をしたと言えるだろう。
まず第一に虺は息をしていなかった。心臓は完全に動いておらず、脈拍も完全になかった。第二に、虺は自発的に死を選んだということだ。虺には特殊な異常性があり、その彼が自発的に死を選んだのであれば、現在どのような医療でも救うことができないであろうという考えだ。第三に、彼は笑っていた。何故だか知らないが、とにかく笑いを見せた。
「虺の前じゃ治るものも治らない。ケガは悪化していく、鬱は悪くなっていく、薬は効果がなくなる。それは本人に対しても同じだ。何もかも無意味じゃ」
「俺は虺さんをCCU94に連れてくぜ」
「私もついてく」
日奉桐の目は濡れている。心臓疾患の研究をしている彼にとってはそれは当然の判断だった。否、最高のリーダーを崇拝する1人の人間としての判断だった。その一方、杯の目は厳しい。
「いいのか。死体の心臓を切っても?」
「な、何ってまだ生きてるんだ。虺さんはこれからも俺たちの……」
「ワシらはいずれ死ぬ。早いか遅いかの違いよ。最近ではそれを忘れそうになるがね」
「くそっ……」95
薬師寺虺ははっきり言って、日本国内最高峰の治療を受けたとも言って良い。だがしかし、「医療が失敗することそのもの」の彼を救うことは、どんな医者であれできなかった。
幕内仱矢まくのうちきょうやは昼食の時間にぼんやりと空を眺めていた。
「ふわぁ」
工場見学が終わって数日経った。夏休みが目前までに近づいている。部活動の大会が控え、練習はより辛くなってくる。96体はこれまでにないほど疲れて自ずとあくびも出てくる。
「どうしたの。仱矢?」
カワウソみたいな見た目をしたヘノが言う。というかカワウソそのもので、表情も最初はよく分からなかった。だけど今は克明によくわかる。これは何か疑問に思っていることがある顔だ。
「いやあ、なんでもない。部活の先輩にこないだ叱られて。それを思い出してた」
「なんだ、仱矢。立派に部活動をしてるじゃん」97
「あの人らやたら下級生のことを目にかけるんだよ。大会も近いし、俺たちのことをほっとけば練習に集中できんのに」
「それが先輩と後輩の関係ってもんじゃ?」
「先輩たちがやたらと教育に熱心なだけだよ」
幕内は早々に会話を打ち切り、弁当を目前に置いて黙々と食べ始めた。それを見てヘノも同様に食べ始めた。
「いただきます」
幕内は教室の隅に一人で弁当を食べている日奉桃のことを見た。工事見学の日、いつのまにかいなくなって、そしていつのまにか合流していた少女だ。
「なあ、ヘノ」
「ん?」
「日奉さんって……何で飯を食わないんだっけ」
「前先生が言ってたじゃん。家族の伝統だって」
「そ、そうか。いや……」
「あんなに先生が説明してたのにな」
「お、おう」
「なんだよ。もしかして惚れた?」
「んなわけ、あるかい。気になっただけだよ」
この時の幕内にとって日奉桃は神々しく見えた。それは幕内がこれまでに見たことがない風景だった。光が窓から差して彼女の席とその周りを包んでいる。彼女はしばらく手を合わせて祈りのような姿勢を取った後、ブックカバーがかけられた本を読み始めた。9899100