ヤンと異常な少女
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窓から吹き込んだ柔らかな風は、白いカーテンをパタパタと揺らしてから、少女の肌を撫でた。目が覚めたにも関わらず瞼を閉じたままにしている少女は妙に寝心地の悪いベッドに違和感を覚え、身をよじらせる。瞼を開けると、そこは知らない部屋であった。

「あれ……」

部屋には乱雑に物が置かれており、部屋の主の大雑把な性格を予想させる。明らかにこの少女の部屋ではなかった。異常事態に少女は固まり、脳内は深刻なエラーに侵されていた。暫くすると、何者かが扉をノックし、流暢な日本語を用いて少女に対して呼びかけた。

「入るぞ」

入ってきたのは東南アジア系の少年であった。齢は12歳ぐらいで、背は小さい。肌は焼けており、健康的な体つきをしているように見えた。

「えーと、こういう時は初めに自己紹介すべきだよな。俺の名前は舘橋たちばしヤン。裏通りで倒れていたお前を部屋に連れてきたのは俺」

困惑する少女を落ち着かせるように、ヤンは語りかけた。ヤンは自分がやはり面倒なことに手を出してしまったと、心の中で静かに後悔した。少女は状況を理解できたようで、ゆっくりと口を開いた。

「助けてくれてありがとうございます。私の名前は箕作美香みつくりみかです。えっと……ここはどこでしょうか?」

「あー、敬語じゃなくていいよ。というかどう見ても美香の方が年上でしょ。ここは、スリーポートランドにある俺たちの家だよ」

はぁ、と美香は相槌を打った。美香にとっては聞いたこともない外国の土地でしかなかった。

「とりあえず、メシでも食べながら話そうか。あー、バスルームはあそこだから、トイレとか顔とか洗いたかったらそこで」

ヤンはくるりと後ろを向き、部屋から出ていった。美香は一瞬たじろいでから、ベットから降り、バスルームに向かった。バスルームには洗面所と洋式便器と浴槽が備え付けられており、ここが一般的な日本の家屋ではないことを美香に推測させた。美香が顔を洗おうと思い、鏡を見つめると、自身の額に絆創膏が貼ってあることに気づいた。血が滲んでおり、まだ最近貼られたばかりであることが分かる。美香はおそらく治療してくれたのであろうヤンに、少し安心感を抱いた。顔を洗い、頬を叩く。己がどんなことに巻き込まれたにせよ、ここで泣いてはいられない。そう、鏡に映る自分に誓った。


「ふんふん、じゃあ最後の記憶は家でベッドに潜り込んだところまでって訳か?」

食卓の上の皿にはパンがいくつか並べられており、ヤンはそれにバターを塗り食べていた。美香は空腹になるような状況ではなかったため、パンを一つ水で食道に押し込んで手を止めていた。

「うん、そういうことになる……と思う。スリーポートランド、から家に帰るためにはどうすればいいんだろう。そもそもここってどこの国の街なの?」

「アメリカだけどアメリカじゃない、みたいなところかな?うん、そうだな……」

ヤンは腕を組みながら、一人で考えた。そもそも今日で別れるかもしれない人間にそんなに丁寧に、この世界のあり方を話す必要があるのか?どうせ記憶は消されてしまうというのに。ヤンは手間や時間を考え、最適解を導き出した。

「まぁ、でも見るのが一番いいだろ。百聞は一見に如かず、ってやつだ。出発すんぞ」

ヤンはコップに残った牛乳を飲みほしてから、シンクの中に皿と一緒に入れた。そして、帽子かけからキャップのついたものを取り、被って玄関の扉を開け外に出た。美香も今度は迅速に行動し、シンクに皿とコップを入れ、外に出た。

美香が外に出ると、眩しい光が真上から降り注いだ。どうやら、現在は正午近くであり、先ほど食べたものは昼食であることを美香はすぐに理解した。ただ、上を見ながらヤンの方へ歩いたせいか、タンクトップを着た男にぶつかってしまった。強い口調で何かを言われているが、日本語以外の言語を理解することができず、ただ美香はソーリーソーリーと背を曲げながら言うことしかできなかった。

怒声が止んだのでちらりと前を見ると、美香は男と目が合った。その目は美香のものよりもやや小さいが、だが何よりもその数が異なっていた。額に三つ目の瞳があったのだ。

美香は飛びのき、ヤンの方へ叫びながら走る。出せる限りの力を持って、疾走した。

「ヤン!!あ、あの人、目、目が、目が三つ!!」

ヤンは走ってくる美香の腕を掴み静止させ、吐きそうになった溜息をグッと堪えた。これは自分が想定していたことではないか、と自分を宥めた。

「あのな、ここでは目が三つある人間ってそんなおかしくないんだよ。伝えてなかったの俺が悪かったけど、失礼なことをしたのは事実だから謝ろうな」

そう言うとヤンは、男に事情を説明し始めた。頭をペコリとヤンが下げたので、美香もソーリーと言いながら頭を下げた。男性は笑って何かを言ってから、去っていった。美香は、緊張した瞬間が終わり、ヘロヘロと地面に座り込んでしまう。

「気にすんなよ、だってさ。どうだ、百聞は一見に如かず作戦は成功したようだな」

美香はヤンに少し反感を抱いた後に、返事した。

「つまり、この街は異常であるってことだよね?」

「そうだ。三つ目だけじゃない。ほら、あいつなんかはシーだな。妖精ってやつだ。スリーポートランドの人口の約一割がシーだって話だ。こんな風に、通常の世界から隠されている異常に溢れてるのがこの街だ」

美香は街行く人々を見回す。確かに多くは通常の人間のように見えるが、羽が生えているものや、鱗に覆われているもの、若干透けて見えるものなどがいる。

「で、街の在り方もちょっとおかしくて、地球上にはこの街は存在しない。別次元にあるんだ。だから、普通には帰れない。もちろん、通常の世界に戻った後も日本に帰るにはそれなりに手続きが必要だろうし、ここは素直に警察に頼ろうと思う」

「う、うん。それが一番だよね。いろいろ考えてくれて、ありがとう」

美香は正直話に全くついていけていなかったが、ヤンには感謝を伝えるべきだと判断した。

「すぐに警察に行くわけじゃないぞ。『気がついたらここにいました!日本に返して下さい!』って身分証も無いのに言っても門前払いされるだけ。だから、美香が明確に行方不明になっているという事実を突きつけてやる必要があるんだよ」

「えっと、それはどうやってすれば?」

「行方不明者リストみたいなものを見せたりすればいいと思ってるけど。図書館でパソコンとか使えば引っかかると思うんだよなぁ。本当はスマホとかあったら今すぐ調べることができんだろうけどな」

「スマホ……?」

「ということで、今から図書館に向かうぞ」

そう言うと、ヤンは高らかに笑う。美香はその姿に安心感を覚え、立ち上がり、歩みを進める。その後、美香は知らない世界を精一杯吸収していった。石畳の坂道を下りながら、地平線は開拓されていく。

 

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「すごいね、スリーポートランド!」

「すごく簡単に受け入れちまうんだな。人によってはものすごい心理的負担になって、腹壊したりすんのに」

「確かに、すごくドキドキするよ。でも、それ以上にワクワクしちゃうな」

「ふーん、それならいいか……あ!ウィレム!」

そうヤンが叫ぶと、前方の建設現場で働くヘルメットをかぶった人型がヤンの方に振り向き手を振った。ただし、その顔面は虎のものであった。

「ねぇ、ヤン、あの人誰?」

「あの人はウィレム・ネイヤー。俺たち"ライフラフト"のメンバーの一人だよ」

「ライフラフトって?」

「うわ!これもまだ話してなかったのか。俺、先走っちゃう癖があってさ、ごめん。ライフラフトっていうのは、異世界からこの世界に流れ着いた人たち……漂流者ドリフターたちの集まりのことだよ。ドリフターはこの互助組織を利用して、異世界の地を生き延びることができるんだ。世界各地にライフラフトは存在していて、多分日本でも潜伏してんじゃねぇかなぁ。ちなみにあの家なんかは、ライフラフトのメンバーで共同で使ってる」

ライフラフトの説明をしながら、工事現場は通り過ぎていった。彼女かよ?とウィレムはからかったが、ヤンは聞こえていないふりをしていた。

「え!じゃあ、ヤンも違う世界から来たってこと?」

ヤンは、初めてこの世界に来た日のことを思い出す。田園の広がるあの村しか知らなかった少年にとって、この人々が集まり・行き交う世界はあまりにも生きづらかった。その時に彼らに知り合うことができていなかったら、路面で野垂れ死んでいただろう。その役回りが自分に回ってきたのだということを、再び自身の中で確認した。

「……そうだな。おっと、見えてきたな。あれが図書館だ」

二人から見て正面にそびえる中央のビルが市庁舎があり、その横の低めの長方形の建物が図書館であった。それらと二人を挟むように、セントラル・パークと呼ばれる市民の憩いの公園が広がっていた。芝生は青々としており、キャッチボールを楽しむ人々もいれば、寝転がって寝ている人々もいた。そんな人々の在り方は異常があってもなくても同じなのだと、美香は少しほっとした。

図書館は美香が知っている図書館の数十倍大きかった。きっと、本を読まなくても歩いて一周すれば簡単に一時間はかかるであろう規模であった。それもそのはず、ここには"異常"について書かれた本も多くあるからである。だが、ヤンはそれらに目もくれず受付に利用書を出してからPC室に向かった。

「最初に言っとくけど、昨日の今日ですぐに美香の家族が行方不明情報を公開しているかどうかわからない。だから、例え情報が無くても気にすんなよ」

ヤンはそう言うと、パソコンに向かい始めた。

「えー、"みつくりみか"ってこの漢字であってるか?で、行方不明者っと」

検索欄に並んだ文字列を見て、美香は自身の現状を再認識する。今まではぼんやりとしか実感していなかったが、こう視覚で捉えると、言葉の重みがのしかかってくるようであり、喉を鳴らした。

「なぁ、美香。昨日って何日だ?」

突如、ヤンが声色を変えて問いかけた。

「えっと、9月22日……かな?」

「何年のだ?」

「今年は、2004年だけど」

それを聞いたヤンは両手で顔を覆い、深呼吸をした。そして、美香にパソコンの画面を見るように促した。

「えっ、これって……。私の顔写真だし、私帰れるんじゃない?やった!」

「あぁ、今年が2004年だったなら、な」

ヤンは、2020/09/22と表示されたタスク・バーを指さした。

「えっ、え?これって、え?ヤン、これって、つまり、え。今は2020年ってことなの!?」

ヤンは静かに頷き、茫然とする美香の腕を引いて図書館の外に出た。どうやら、自身が想像していたよりも美香には長く時間をかけなければならないということをヤンは悟った。


二人はセントラル・パークのベンチに座っていた。美香はせわしなく、ヤンに質問攻めをしていた。

「え!?じゃあ私ってタイム・スリップしてきたってことなの!?」

「まてまて、結論をあせんなよ」

「いやでもさ、そうなるよね!?」

「話を聞けって!……焦る気持ちもわかるけどさ」

美香はごめん、と言いうなだれる。ヤンはその様子を見てから、ゆっくりと話を始めた。

「確かに、タイム・スリップは考えられるだろうな。実際に過去から来る奴は存在する。しかし、他にもいろいろと考えられる。そうだな……異世界から来た、とか」

「私もドリ……ドリなんとかってこと?」

「ドリフター。うーん、日本の2004年の総理大臣の名前、分かる?」

「えーと、小泉さん!」

「うん、じゃあもし別世界出身だったとしてもそんなに変わりのない世界なのかもしれないな。本質的な違いなのかもしれないのかもしれないけど。まぁ、今その線を追ってもしょうがないしな……」

「他には、どんな可能性が?」

「あとは、記憶を弄られてるとか」

「記憶を弄る!?」

「うん、まぁ、実際に異常な世界に記憶を書き換える方法は実在する。ある組織はそれを使いまくって異常を世界から隠してたりするな」

「じゃあ、私が家から連れ去られてからここに来るまでに、16年の歳月が過ぎていたかもしれないってこと?」

「それはないだろ。だって、"昨日"から体が成長している感じはしないんだろ?」

「た、確かに……」

「まぁ、その成長を異常な方法で抑制していた、とか、異常な方法で成長を元に戻した、とかならその推察でもいけるな。異常が絡めば何でもアリだかんな」

「そんなぁ」

美香はベンチにもたれかかり、頭上を見上げてそう言った。白い雲が、ゆっくりと流れていた。

「とりあえず、家族に会ってみるのが一番分かりやすいとは思うけど……」

「そうだよね、じゃあ警察の人に事情を話してみる?」

「いや、ダメだ。あいつらは異常が明るみになることをよしとしないだろう。だから、その姿で家族に返すことはしないだろうな」

「じゃあ、成長するのを待ってから、ってこと?」

「いや、それじゃ実際の年齢の見た目に追いつけないだろ。それにそんなに時間はかけたくないだろ?そうだな、警察を経由せずに日本に帰るのが一番だろうな」

「えぇ、そんなことできるかなぁ」

「できるよ。多分。ちょっと俺は詳しくは分かんないからさ、他のライフラフトのメンバーに聞くことにしようぜ。よし、方針も決まったし、帰るか」

その言葉を聞いた美香は先に立ち上がり、両手を挙げ、背中を伸ばした。日は傾き、影が長く延び始めていた。


「ただいま~」

ヤンが暗い室内に放った言葉は帰ってこなかった。

「誰も帰ってきてないみたいだね」

「まぁ、みんなが遅くまで働いてるのはいつものことだしな」

ヤンは冷蔵庫からコーラを取り出しながら言った。ドクドクとコップに黒い液体が流し込まれ、それをヤンは一気に飲み干し、息を吐いた。

「あ、喉乾いたらこの中に入ってるやつ飲んでいいよ」

ヤンは酒はだめだぞ、と笑いながら言った。そして、流れるように冷蔵庫から鶏肉やソーセージ、玉ねぎなどの食材を取り出していった。

「何か作るの?」

「ジャンバラヤを作るよ。食事を作るのは、俺の役目なんだ」

「手伝うよ」

「えっ。いいよ、座ってなよ。知らない土地を歩くのは疲れたろ?」

「いいからいいから!えーと、ジャンバラヤだから……米を洗えばいいのかな?」

「あ、じゃあ頼もうかな。米は5カップ分を洗って、そこのザルで水気を切って欲しい」

美香はokと返事してから、ボウルに米を入れて洗い始めた。

「ねぇ、ヤンは、どんな世界から来たの?」

「俺か?俺は、そうだな、大東亜共栄圏が数十年間成立し続けた世界から来たんだ」

「えーと、大東亜共栄圏って何?」

「大日本帝国の実質的な領土みたいなものかな」

「あ、あれか」

ヤンは手早く先の食材を切り終え、鍋を取り出し油を引いて熱し始めていた。

「これでも、この世界とのズレは小さいもんだよ。昼間にあったウィレムの世界なんかは、人間の科学力が遥かに進んでいたから、あんな風に人体の改造もできるようになってたみたいだな」

「へぇ、ホントにいろんな世界があるんだねぇ。あ、米の水切ったよ」

「サンキュ、そこ置いといて。もうあと炒めて炊くだけだから、休んでていいよ」

美香はコップに水を注いでから、近くのソファーに座りこむ。所々破けており、ソファーが長年使われていることが分かる。

「ヤンは、その世界に帰りたい?」

「あぁ、もちろん。家族も友達もいるしね。だから、帰る方法を探すためにも大学で勉強したいんだ」

「すごい!私なんかヤンぐらいの時は、大学のことなんか考えたこともなかったよ。」

「ありがとう。でもこうやって勉強をしようと考えられるのもライフラフトのみんなのおかげなんだ。本来はいかだでしかないはずなのに、みんなが希望を俺に託して支えてくれてるんだ」

「そっか。そんなライフラフトの人たちに囲まれてるから、ヤンも私を助けてくれるぐらい優しいんだね」

「優しくなんかないよ。俺もライフラフトのみんなに助けてもらったんだから、同じように美香も助けなきゃいけないって……思ってるだけだ」

ヤンは米を炒める手を淡々と動かしながら、呟くように言った。それを聞いた美香はヤンに向き直り言った。

「ねぇ、もし優しくなかったら、そんな義務感感じないはずだよ。ライフラフトの他の人への単なるアピールだっていうのなら、そもそも倒れていた私を連れてこなければ良かった。ヤンは"見なかったふり"をしなかった。それだけで胸を張って言えることだと思うけどなぁ」

ヤンは"見なかったふり"という単語を聞き、身震いをした。それを行わなかった自分に、少し感慨深いものを覚えた。ヤンは、美香と、ある少年の姿が混じって見えた。

「あぁ、美味しかった!」

二人は鍋から皿に盛られたジャンバラヤを完食し、満たされていた。窓の外は暗く、家々の明かりが光って見えた。

「風呂は、美香から入っていいよ。着替えは悪い、ちょっと俺には用意できないから明日まで同じものを着てもらえるか?ここに住んでるもう一人の人に明日頼むから」

「わかった、にしてもウィレムさん遅いね」

「うーん、なんだろな。こういう時に限って飲んでんのかなぁ。まぁ、いいか、風呂入って帰ってきてなかったら寝ちまおう。また明日の朝話せばいいよ」

ヤンは、食器や包丁を洗いながら言った。美香は、感謝の言葉を述べながらバスルームへ向かった。

温かいシャワーは、確実に、美香の身体を溶かしていった。なんだかんだいって坂道を往復して歩いたのはそれなりに堪えたのだろう。剥がれた額の絆創膏が、排水溝で引っかかった。

結局、ウィレムが帰ってくることはなく、美香は就寝前にベッドの上で今日起こった様々なことを思い返していた。異常な都市・スリーポートランド、そこに住む異常な人々とライフラフトの人々、そして自身の身に起きた異常な出来事。もしこれが夢ならば、気は楽になるだろう。だかしかし、今日という日も、決して悪いものではなかった。そう、思いながら、美香は瞼を閉じた。


「えっと、どなたですか?」

ヤンは、唖然としていた。昨日半日共に行動した少女が、そう発したからだ。白いカーテンが、音もなく揺れた。

「寝ぼけてんのか?俺だよ、ヤンだよ」

「えっと……すいません、覚えてないです……」

この丁寧語は昨日のそれとかなり類似するものがあるとヤンは気づき、ならば、と行動する。

「もしかして、ここがどこか分からなかったりする?」

「……分かんないです」

「昨日って、美香の家の部屋で寝たところまでしか覚えてない?」

「……はい」

ヤンは、これが16年の正体の一片であることを理解した。ここで、匙を投げるのは簡単だ。だが、"見なかったふり"をしなかった先を、しっかりとヤンは見届けたいと、ヤンは強く思った。

「うん、なるほどな、前日のことを毎回忘れてしまう記憶障害か……」

虎の顔をした男は、呟くように言った。風呂に入らずそのままソファーで寝ていたせいか、汗の匂いが少し残っていた。

「でも、身体は16年前のままなんでしょう?ただの記憶障害では無いことは確かよ」

手鏡を見ながら、化粧をする女が答えた。赤い口紅が、曲線を女の顔に描いていく。

「うーん、分からんな。おーい、ヤン、なんか気づいたことはないのかよ!」

廊下にウィレムの声が響く。あったら言ってる!という返事がヤンと美香のいる部屋から聞こえてから声が止んだ。

一方ヤンは、異常な都市・スリーポートランド、そこに住む異常な人々とライフラフトの人々、そして美香の身に美香に起きた異常な出来事の説明を行なっていた。

「え〜、で、それで今に至る……って感じ。まぁ、昨日みたいに実際に見たわけでもないし、信じらんねーよな」

ベッドに腰かけ不審そうにヤンを見やる少女の滑らかな額には、薄ら汗ばみ前髪が張り付いていた。その瞳はまだ微睡みの中にあるように見えた。

「ヨシ、一回顔洗って、頭スッキリさせた方が良さそうだな!額の絆創膏も剥がれてるから、貼り直す必要もありそうだし……あ?」

美香の額には、傷一つついていなかった。


美香は少し大きめのTシャツを着て、ダメージ・ジーンズを履いていた。既に太陽は十分に上がり、人々は今日という日の活動を始めようとしていた。ヤンはつま先で地面を叩き、靴を履き言った。

「よし、行こうか」

二人はICSUT国際統一奇跡論研究センターの設立した大学病院に向かっていた。おそらく人為的に美香がこのようになってしまったことは確かであるが、なんにせよ精密な検査が必要なのは確かであろう、というウィレムとベスによるアドバイスに二人は従ったのであった。

「なぁ、マジで覚えてないのか?」

「うん、その、昨日色々話してもらったのに、ごめん」

「いやいや、美香は悪くないから、さ……」

二人の間に、なんとも気まずい空気が流れる。ヤンは、少し考えてから、話題を振った。

「なぁ、美香!あの人の耳、見て見ろよ」

「うわ!長いね……」

「あの人、何だと思う?」

「えーと、妖精かな……?」

「ブッー、答えはただの整形手術をした芸術家でした!」

二人は、笑った。確かに昨日の美香と今日の美香は記憶の共有をしていないが、根底にある趣向は同じである。ヤンは昨日の美香の様子から、それを推測し、コミュニケーションに利用したのであった。病院までの道のりは、賑やかなものとなった。ヤンは美香を緊張させまいとしたのであった。

病院内には多くの人々がごった返していた。スリーポートランドにはそもそも病院が少なく、大規模な病院ともなればここに集約されるのであった。ヤンは案内に従い受付に行き、問診票に病状を記入する。

「えー、記憶障害と成長不良、でいいのか……?部位は……」

記入を終え、受付に提出すると、Mika、と呼ぶ声がした。そこには白衣を着た背の高い黒人女性が立っており、手招きしていた。

「あっ~!そういえばアンジェラさんってここで働いてたっけ!」

「え、知り合いの人?」

「そう、昔ライフラフトのメンバーだった人だよ。えっと、ウィレムの紹介で優先的に見てくれるって。良かったじゃん!」

「だった人?今は違うの?」

「ライフラフトは、本来一時的に暮らしを耐え抜くものでしかない。いずれは、この世界で根を張って自分だけで生きられるようになって独立したり、元の世界に帰るもんなんだ。アンジェラさんは前者」

その後、美香は身体計測やX線検査等を受け、診査室でヤンと共にアンジェラの話を聞いていた。

「結論から言うと、記憶の方の異常の原因は分かりませんでした。まだ検査が足りません。ただ、身体の方の異常の原因は分かりました。細胞が異常な再生力を有しているみたい。それで、身体が16年前の状態に常に戻り続けているんでしょう。」

ヤンは、その事実を美香にゆっくりと訳して伝える。美香は、神妙な面持ちで聞いていた。

「これに関しては、はっきりとは言えませんが、治療できる可能性はあると思います。ただ前例が存在しないため、それなりの期間と治療費は必要になるでしょう」


二人は、病院の外に出て、家に向かって歩いていた。

「なぁ、美香、なんとかなりそうじゃん、良かったな」

ヤンは、どことなく思い詰めているように見える美香に語り掛ける。

「私、これからどうすればいいんだろう。治療費なんて用意できないよ。それに、こんな記憶障害があったら、誰も私なんかを雇ってくれないよ」

美香は、興奮もせずに、ただ淡々と話した。それを聞いたヤンは、少し溜めてから言った。

「なぁ、ライフラフトの意味、分かるか?」

「え、ライフは……いのち、だよね。ラフトはわかんないな」

「ラフトはいかだって意味。合わせて救命いかだ。この世界という大海原に投げ出されたドリフターが、救助されるためにある組織だ。俺も、ウィレムも、ベスも、アンジェラさんも、そうやって助けられてきた。誰だって、一人で岸辺に泳げやしないんだ」

ヤンは美香の前に立ち、手を差し出した。ヤンが言う前に、美香はその手を取り言った。

「ヤン、お願い、ライフラフトに乗せてほしい。私、助かりたいよ」

ヤンはその手を引くと同時に、美香の後ろに回り込み、背中を押した。美香は少しよろけた。

「よし来た!でもお客様ってわけじゃねぇぞ。料理も作ってもらうし、洗濯もしてもらう。掃除も!そして働いてももらうしな。あ、安心しろよ、俺たちも一緒に仕事探してやるから!」

スリーポートランドの坂道を二人の若者が登っていく。青空を背景に、これからが広がっていった。その時間を明日美香は忘れてしまうとしても、重要な瞬間であることに変わりない。

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