バラを囲んで手をつなごう
ポケットには入るだけの花を詰めて
ああ、なんて悲しいことだろう
私たちはみんな病気になってしまった
イングランドの童謡より
フランス王国、アキテーヌ公領、ボルドー。
かつて月の港と呼ばれた──三日月形に湾曲しているガロンヌ川沿いに発達したことに因ちなむ──その街は、今や死出の港と化していた。そう、冥界の河ステュクスにも港があるとしたら、まさしくこのような光景に違いない。
宿屋の女将の死体、行商人の死体、船乗りの死体、路地裏の花売り娘の死体、生後間もない赤子の死体。
猖獗しょうけつを極める悪疫の前に、埋葬する暇もなく増え続ける死体が、街の至る所に積み上げられている。石畳の敷かれた王国広場で、帆を畳んだままの船の甲板で、サン=タンドレ大聖堂の"王の門"の前で、死体の山が烏カラスどもの狂乱の謝肉祭に供されている。王妃の農園で造られるクラレット・ワインに代わって、死体がこの街の名産品になってしまった。
神よ、何故ですか。祭服キャソックを着た司祭の死体が、曇天どんてんに手を伸ばしたまま固まっている。ケチな泥棒の死体と仲良く並べられて。貴方の裁きの利鎌とがまは、男も女も、富める者も貧しき者も区別しない。だが何故、信心深き者と不信心者まで一絡げになさる?
返ってきたのは、烏どもの嘲りだけだった。神? 何のことだ。お前たちよりよっぽど天に近い我々だが、そんな奴は知らないぞ。確かなのは、痩せっぽちのお前はあまり美味くないってことだけだ。どうれ、隣の死体の方がまだマシか。押すな押すな、順番だぞ──そんな烏どもの乱痴気騒ぎが。
雷光が照らし出した姿を前に、ぴたりと静止した。
全身を覆う漆黒のコート。両手と頭部も同色の手袋とフードに包んでいる。影のような黒ずくめの中で、唯一顔を覆う仮面だけが清らかに白い。口元に細長い突起が備わっており、鳥の嘴くちばしのように見える。
それは悪疫との戦いに身を捧げた、誇り高き医師の装束だった。仮面の嘴は、中に香草を詰めて悪疫の瘴気を浄化するため。徹底的に肌を隠すのは、死体との接触による感染を防ぐため。実用本位の、本来なら質素と呼ばれる出で立ちでありながら、死神の如き不吉な姿。
じゃり、と黒いブーツが石畳に踏み出すと、烏どもが羽を散らして一斉に飛び去る。あたかも、王の威厳に恐れをなした蛮族のように。
(何ということだ)
仮面の奥の青灰色の瞳が、悲しげに周囲を見渡す。惑星が不吉な合を見せていたので、もしやと思って駆けつけたが──予想を上回る惨状に声もない。
烏どもが飛び去った今、周囲に動くものはない──否、泥棒の指がぴくりと動いた。乾いた唇が歪み、神に呪いを吐く。その肌には悪疫による黒痣が浮かんでいるが、紛れもなく。
(まだ生きている)
医師は躊躇ためらうことなく、その傍かたわらに跪ひざまずく。泥棒はぎくりと目を見開き、咄嗟とっさに医師を振り払おうとするが。
「大丈夫、すぐに治療してあげよう」
医師がそっと泥棒の額に手袋を当てると、ぐるりと白目を剥いて動かなくなった。"麻酔"を打ったのだ。
ローブの下から医師鞄を取り出し、中から何本もの透明な管を引き出す。服を捲まくり上げると罪人の焼印が目に入ったが、一瞬も手を止めない。金属製の先端を各所に慎重に挿し込み、手動式のポンプで燃えるように赤く輝く液体を流し込む。
まずは四元素の乱れを正してやらなくては、体が治療を拒んでしまう。寒空の下に放置されたことによる火気の喪失を、火蜥蜴サラマンデル の血で補う。本来は猛毒だ。麻酔を打っていなかったら、確実にショック死している。
患者の手足がぴくぴくと動き出したのを見て、次の段階に移る。鞄の中から大蛇のように巨大な蛭ヒルを取り出し、全身の痣に充てがう。悪疫に侵された血がどくどくと吸い出され、みるみる痣が消えていく。バラの香水を嗅がせ、体内の瘴気を追い払う。金属の輪を頭に被せ、そこから伸びた銅線を廃屋の風見鶏に繋ぎ。
果たして、天空から導かれた雷が、一時肉体を離れていた患者の魂を呼び戻す。
口から煙を吐きながら、患者がよろよろと立ち上がる。その頭から金属の輪を外してやりながら、優しく声を掛けた。
「もう大丈夫、悪疫は去った。これに懲りて、二度と悪いことはしてはいけないよ」
返ってきたのは、冥界の底から響くような呻き声だった。舌を垂らし、両手をだらりと下げたまま、今や患者でなくなった男は去って行った。どんより濁った、何も見ていない目で。
彼の医術はこの上なく効果的で、少々──特殊だった。
治療過程を革装丁の研究日誌に記し、道具一式を鞄に仕舞い──どう見ても、あんな大量の荷物が収まる容積ではないが──、そこでようやく異形の医師はため息を吐いた。取り敢えず、一人救うことはできたが。
ご馳走を取り上げられた烏どもが、捻ねじくれた枝の上で囃はやし立てる。これで悪疫に勝ったつもりか。こうしている間にも、病人は次々死んでいく。お前一人で、この圧倒的な流れを食い止められるとでも?
しかもだ──烏どもの嘲笑が、一層騒がしくなる。お前の献身に対して、人々はどう報いた? 魔術師め、悪魔の手先めと石以もって追い払ったではないか。挙句の果てには、異端審問に掛けて焼き殺そうとする始末。あんな愚か者ども、救ってやる価値など。
黙れ! 医師の証たる二重螺旋の蛇カドゥケウスの杖を振るい、医師は小賢しい烏どもを、己が内から響く絶望のささやきを追い払う。
賞賛など望まない。自分の願いは唯一つ。
「皆に、生きて欲しいのだ」
医師はボルドーの街を巡り、懸命に治療を続けた。患者の貴賎になど拘こだわらず、何の対価も受け取らず。
「ああ、お医者様、娘を治して下さり、ありがとうございます! ほら、あなたもお礼を言いなさい──メアリー? ちょっと、どこへ行くの? メアリー、メアリー!?」
患者の母親の感謝に応じる暇もなく、医師は次の患者の元へと向かおうとして──はたと気付く。治療に必要な薬が尽きかけていることに。補充のためには森やユダヤ人街で材料を集め、炉やフラスコと長時間睨み合う必要がある。思わずため息を付く。その間にも、悪疫は人々を連れ去り続けるだろう。
残りの量では、治療はあと一回が限界だろう。止まっていても仕方ない。次の治療を最後に引き上げよう。そう思って顔を上げた時だった。
「おお、まだ医師が残っていたのか!」
振り返ると、恰幅の良い男が立っていた。
真っ赤なビロードの服、毛皮で裏打ちされたマント、丸々とした指ではエメラルドの指輪が輝きを誇示していた。紋章の類は見えないから貴族ではないが、平民としてはおそらく最高階級に属するだろう。左右には長槍で武装した兵士を従えていた。
男はレイモンド・ドゥ・ビスカルと名乗った。ボルドーの市長だという。
「何としても治療して欲しい方がいるのだ!」
医師の返事も待たず、ビスカル市長は一方的に捲まくし立てる。何でも、その患者は大層高貴な人物で、一国の命運を背負っているのだという。決して死なせてはならないのだと。
「頼む、金ならいくらでも払う!」
そう言って市長が開いて見せた革袋には、太陽の図案が刻まれたエキュ金貨がぎっしり詰まっていた。館の一つや二つ、家具込みで建てられる額だろう。
金など興味はないと言いたいところだが、生憎そうでもなかった。これだけあれば、薬の材料など仕入れ放題、研究室を拡大するのも助手を雇うのも思いのままだろう。さらに大勢の患者を救えるようになる。
──何より、どうせこの街では、あと一人しか救えないのだ。
医師が承諾すると、一刻でも惜しいとばかりに、市長に患者の元へと急き立てられる。しかし、すぐに後悔することになった。
道々、粗末な家々から、わらわらと患者たちが現れ。
「お医者様、お救い下さい」
「せめて子供だけでも」
「癒しを、癒しを」
医師に縋すがる、患者たちの手、手、手。黒痣の浮かんだそれを、兵士たちは長槍で乱暴に追い払った。野良犬か何かのように。
最後の患者の選択は天に任せて、次に遭遇した者にするつもりだった。しかし、これで言い訳はできなくなった。自分は金のために、彼らを見放したのだ。
「すまない、薬を補充したらすぐ戻る。それまで辛抱してくれ」
そう言ってやるのが精一杯だった。患者たちの返事は絶望の眼差しで、市長たちの反応は早く歩けという苛立ちだった。
針の筵むしろのような道行みちゆきを経て、ようやく辿り着いたのは、街外れの岬に立つ館だった。精緻なバラ窓を据えた前景ファサード、優美な飾り尖塔がそびえ、鉄策で囲まれた庭では噴水が飛沫を上げている。城壁はなく、花壇はあっても畑はない。不潔な家畜小屋など以ての外。生活感のない、舞台装置めいた美しい建物だった。
裏口から通され、見事な曲線が交差するヴォールトの廊下を進み、大理石の螺旋階段を上る。そして、獅子と葡萄ブドウが彫刻された──ボルドーのシンボルだ──扉が開けられる。
輝きが漏れ出す。部屋に溢れる宝物が、暖炉の炎を照り返しているのだ。
衣装掛け上の絹のドレスは、コルセットと一体になったギタスと呼ばれるタイプだ。真珠を散りばめ、金糸銀糸で花々が刺繍された腰部はきゅっと括くびれている。あたかも、服の方が着用者の体型を強制しているかのように。
トレド渡りの象嵌ぞうがん細工の箱からは、金で縁取られた銀細工のボタンと七宝焼きのボタンが溢れ出し、個人礼拝用の祭壇にはビザンチン帝国の金貨が埋め込まれていた。
だが、それらの品々の輝きも、天蓋付きの寝台に横たわるこの少女の前では色褪あせることだろう。
雪花石膏アラバスターのような、という常套句通りの白い肌。アルテミス像を思わせる優美な鼻梁。花弁のような口元は青ざめていたが、柔らかさは失っていない。緩やかに波打つ黄金の髪が枕元に広がり、麦穂揺れる豊穣の大地を再現せしめていた。
大人になる直前の、未熟さと美が奇跡的に釣り合ったこの瞬間を、神はその手に収めたいと謀ったのか。掴んだら折れてしまいそうな細首に黒痣が浮かんでいるのを見て、慣れているはずの医師でさえ嘆きに貫かれた。
市長が劇の口上のような、重々しい声で告げる。
「恐れ多くも、この御方こそイングランド国王エドワード3世陛下が御息女、ジョーン王女殿下であらせられる」
政治には興味がない医師も、かの王がアキテーヌ公領を含む広大な土地をフランスから削り取り、剰あまつさえ王位まで要求していること──根拠は母がフランスの王女だったとやら──や、息子の黒太子ブラックプリンス率いる長弓部隊がフランス各地で屍の山を築いていることぐらいは知っていた。後世に百年戦争と呼ばれることになる戦乱の始まりだ。
医師にとっては愚の極みでしかない。力を合わせて悪疫に立ち向かうべき時に、人間同士の殺し合いにかまけるなど。その愚王の娘だと言うのか。この月光が凝こごったかのような、清らかな美少女が。何のために遥々はるばる海を渡って来たのだろう。ロンドンのウィンザー城に居れば、こんな不運に見舞われることもなかったろうに。
「治療は任せるが、くれぐれも粗相のないようにな」
そう言い残して、市長たちは出て行った。本来であれば、侍女以外は近づくこともできない部屋なのだろうが、彼女たちも悪疫に倒れてしまったのか。部屋に残っているのは、医師とジョーン王女だけになった。
血色を失ってもなおも美しい彼女の横顔に、医師は決意を固めた。患者に貴賎はない、ましてや容貌が人の価値を左右するはずもない。それでもなお、この美しい患者を悪疫に渡してなるものかと思った。
「殿下、医師でございます。早速、治療を始めさせて頂きます」
ダマスク織の寝具を捲くり上げ、静かに上下する王女の胸に手を置いて──彼が医師でなかったら、死に値する罪だ──、仮死に導入しようとした、その時。
「お医者様、それには及びませんわ」
鈴を転がすような可憐な声が、医師の手を止めた。
いつの間に瞼まぶたを開いていたのだろう。長い睫毛に縁どられたヘーゼルの瞳が、真っ直ぐに医師を見つめていた。
「どうか、わたくしをこのまま死なせて下さい」
王女は言った。柔らかく、しかしきっぱりと。
医師は随分掛けてその言葉を飲み込み──己の理解を超えたものだと知った。他の誰に理解出来ても、彼にだけは無理な相談だった。
「殿下、何故──」王族への反駁はんぱくは不敬と重々承知しながら、それでも問わずにはいられない。「死をお望みですか」
王女は微笑みすら浮かべて、恐るべき答えを明かした。
「わたくしがここで死ななければ、百の街が焼け、千・万の人々が死ぬことになるのです」
自分はカスティーリャ王国──現在のスペイン中央部──に向かい、ペドロ皇太子に嫁ぐ旅の途中なのだと、王女は他人事のように語った。だが無理もない。全ては父と義父アルフォンソ11世の都合で決められたことだ。婚約者とは会ったことすらないという。「愛情もない訳ではないのでしょうけどね」と王女は苦笑した。
「父はカスティーリャを味方に引き入れ、戦争を有利に進めたいのでしょう。しかし、市井の人々にとっては、戦火の拡大以外の何物でもありません」
父の操り人形に過ぎない彼女には、抗う術などないはずだった。皇太子妃という椅子に座って、傍観する以外ないはずだった。高貴な者共の共食いを、持たざる人々の嘆きを。しかし、神は機会を与えてくれた。
「わたくしにとって、これは召命の聖痕スティグマータなのです」首筋の黒痣を、王女は愛おしむように撫でた。「その命を以て、父の企みを挫くじけと」
(馬鹿な)
生きてくれ、医師はそう言いたかった。命と引き換えに叶う願いなど、何の価値があろう。況ましてや、彼女のような心優しい御方を犠牲にしてまで。
しかし、彼は見てしまった。王女の背後から差し込む、聖母のような頭光ヘイローを。彼女は生きながら、すでに人智を超えた存在になっている。
この御方は自分と同じだ。人のために身を捧げながら、決して理解されることはない。だからこそ、自分だけでも理解してやらなくては、あまりに気の毒だ。
気の毒だが──結果として、自分は彼女を神に引き渡すしかない。
光が消えかけたヘーゼルの瞳と、仮面の奥の青灰色の瞳が、お互いの姿を合わせ鏡に映し合う。刹那せつな、心奥しんおうまで見通し合う。
「お医者様。代わりにお願いしたいことがあるのですが」
「はい、何なりと」
「お医者様は旅をなさっているのでしょう? 他所の土地のお話を聞かせて頂けませんか。わたくしは城からほとんど出たことがないもので」
どうせ、間もなく自分は死ぬ。それまでの慰みで構わないから。王女の瞳がそう言っているのは百も承知で、医師は気付かない振りをする。
「詩人ではありませぬ故、上手には語れませんが」
講義でもするかのような調子で、医師は語った。医術の知識を求めて、各地を放浪したこと。医者を名乗る者の多くは迷信に囚われていて、師と呼べる人にはなかなか出会えなかったこと。諦めかけていた時、鳥の仮面を付けた不思議な男──堂守と名乗っていた──に導かれ、アラガッダと呼ばれる異次元の都に辿り着いたこと。
黄色い空に黒い星が瞬またたき、非ユークリッド幾何学に基づいた建造物が立ち並ぶ。四人の領主を始め、誰もが仮面を被って役を演じる。世にも奇妙なその都には、ありとあらゆる知識が揃った大図書館があり、そこで彼はある思想に触れた。
「リンネ・テンセイ、ですか?」
王女は不思議そうに言った。輪廻転生、西洋人には聞き慣れない単語だろう。
死者は墓に横たわり、最後の審判の日まで眠り続ける、それがキリスト教の教えだ。しかし東洋では、死者の魂は再び母の胎内に入り、他人、時には動物に生まれ変わり、次の生を送ると考える。
「まあ、人が動物に? 本当かしら」
「確かなことは申せません。ただ、私は以前、人の言葉を話すリスや狐に会ったことがございます。彼らは、自分が十字軍の騎士や国王だと思い込んでいました。あるいは、かつて人だった頃の記憶が残っていたのかもしれません」
だとしたら、肉体とは魂の乗り物に過ぎないのではないか──彼の医術はそこからスタートした。輪廻転生は宇宙の摂理、それ自体をどうこうするのは不可能だ。しかし、利用することはできるのではないか?
患者の魂を病んだ肉体から切り離し、錬金術で培養したホムンクルスに移植する。つまり、輪廻転生を実験室という小宇宙で再現するのだ。服を着替えるように、肉体を取り替える。実現すれば、人は病どころか、老いや死すらも克服できる。
技術は完成には程遠い。まず、フラスコの外でも生きられるホムンクルスが必要だし、いかに魂を移植するかの問題もある。現時点では、あの泥棒に施したように、治療中に魂を一時離脱させておくのが精一杯だ。その過程で"記憶の一部"が失われるなど、副作用も多い。しかし、いつかは必ず完成させてみせる。
分かっている。魂を弄ぶなど、神への冒涜かもしれない。人々が魔術だペテンだと罵るのも、無理はないかもしれない。
それでもなお、彼は皆に生きて欲しいのだ。
「だとしたら、わたくしも生まれ変わるのでしょうか」
「そうかもしれません」
「それなら、鳥に生まれ変わって、広い空を飛び回りたいわ。きっと爽快でしょうね。イルカに生まれ変わって、アトランティスを探すのもいいかしら」
王女は賢い人だ。獣の日常が死との戦いであることは、重々承知だろう。それでもなお、瞳を輝かせている。
「でも」
ぱちり、暖炉の炎が一際激しく燃え上がる。
「もう一度、人間をやるのも悪くないかもしれませんね。お医者様の弟子としてなら」
「私の弟子、ですか?」
「はい、ご一緒に色々な土地を巡って、病に苦しむ人々を救うのですわ。いかがでしょう。いつかお医者様に再会した時、わたくしが人間だったら、弟子入りさせて頂けませんか?」
「はい、お約束致します」
「ありがとうございます。ああ、楽しみ! わたくし、頑張ってお勉強致しますわ。楽しいことばかりじゃなくてもいい、自由に、自分の、意思で、力で、生き──」
暖炉の炎が消え、残った薪からすうと煙が抜ける。
煌きらびやかな寝室に、神聖な静寂が満ちる。
「殿下──」
返事はない。ジョーン王女の笑顔は、限りない希望を湛えて静止していた。永遠に。
(私は)
そして王女は、正しかったのか、間違っていたのか。時代という檻に囚われた身には、答えは出せない。
いずれにせよ、これは受け取れない。金貨の入った袋を掴んで、市長に返しに行こうとしたその時。
ドアが乱暴に開けられた。
「ま、魔術師め、全て聞いたぞ!」
市長と兵士たちが悪魔に追い詰められたような顔で立っていた。その背後では、見覚えのある女が喚わめき散らしている。
「こいつよ! こいつが娘を、メアリーを化物に!」
弁明は無駄のようだ。医師は即座に身を翻ひるがえし、窓を開け放つ。死と悪疫が渦巻く外界へ、その身を躍らせる。
「に、逃がすな!」
やがて曇天が破れ、その向こうから星空が覗く頃。
小高い丘の上から、医師はボルドーの港に火の手が上がるのを見た。市長が悪疫を祓うために、非情な決断を下したのだろう。炎の波がうねり、金色の火の粉が舞い散り、黒煙の塔が雲に届く。街が、海が、空が、炎を照り返し、モノクロームの世界を鮮血のような赫あかに染める。
遺体が燃えてしまっては、最後の審判での復活もできなくなる。そう信じているキリスト教徒の遺族たちは、悲嘆に暮れているだろう──唯一人を除いて。
一際ひときわ高く上がった火柱の中に、医師は確かに見た。炎の翼を広げ、水平線の彼方に飛び去る王女の魂を。
天国になど、目もくれずに。
(私も生きなくては)
いつか彼女との約束を果たすために。その日までに、世界から悪疫を根絶するために。
火の粉を振り払いながら、医師は再び歩き始めた。まだ見ぬ、医術の地平を目指して。
我らは、我らがこのうえなく深く愛せし、いかなる穢けがれをも知らぬ我らの一族の一人が我らに先立って天国に召され、天国9隊の処女の天使らを束ね、神の御前にて我らが犯せし罪の取り成しをなせるようはからいたもうた神に感謝を捧げる。
エドワード3世の書簡より
『あの時だけだ、助けられる患者を助けなかったのは』
モニターの中ではSCP-049が淡々と陳述を続けている。仮面──否、顔を覆う殻を虚空に向けて。
『今なら分かる、王女殿下のお気持ちが。世界のために身を捧げ続ける、君たちを見ているとね──悲しいことだが、理解せざるを得ないではないか』
「どう思う?」
「怪物の妄想だ!」
意見を求めたイトキン博士を、シャーマン博士は一蹴した。
「ジョーン王女がボルドーでペストに罹って亡くなったのは史実だが」
「奴はペストplagueとは一度も言っていないぞ。"悪疫"Pestilenceだ。奴の妄想の中にしかない病気だ──レイは完全に健康だった。奴に"治療"される必要などなかった!」
レイモンド・ハム博士はイトキンにとっても友人だった。シャーマンに賛同してやりたいのは山々だが、分析的な態度は最早本能の一部になっている。
(分析的、か)
地動説や進化論を否定した学者たちも、自分だけはそうだと信じていたことだろう。遠い未来、全てのSCiPがExplainedに再分類された時、自分も真理に裁かれるのだろうか。
『だが、それでも私は──』
SCP-049は研究日誌を広げ、そこに描かれたスケッチを見つめている。ベッドに横たわる、死せる乙女を。
『皆に、生きて欲しいのだ』