ムーンレイカー
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【Moonrakers】

1. 直訳すれば「熊手を使って月を集める人」。馬鹿者・阿呆者を表す古典的隠語。

2. アブサンやピーチ・ブランデーを使ったカクテル。甘そうに見えるが、実際は辛口。
 

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『そんな馬鹿な』

少年は慟哭どうこくした。

『そんなの嘘』

少女は崩れ落ちた。

これが世界の真実だと言うのか、それでは──。

『僕の夢は何だったんだ!』

『私の人生は何だったの?』

げらげらげら、闇が二人を嘲笑う。おめでとう、これで君たちも大人の仲間入りだ。自分は何も知らないと知ったのだから。

さあ、祝杯だ。飲め飲め。

口の中に真っ黒なタールが湧き出し、二人は慌てて吐き出す。しかし、吐いても吐いても、タールは無限に湧いてくる。苦い、苦い、真実の味。知りたくなかった、世界がこんなに苦いなんて。何も知らなければ。

『子供のままでいられたのに』

帰りたい。全てがカラフルな甘いお菓子で作られた、子供の世界へ。
 

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「そんじゃあ、イヴァノフの昇進を祝ってかんぱーい。あ、戸神とがみ雛倉ひなくらも遠慮しなくていいよ。全部こいつのおごりだから」

「おいおい西塔さいとう、なんで主賓の俺が奢らされるんだ?」

「ケチケチすんな、さぞ給料もアップしたでしょうが」

「イ、イヴァノフさん、僕も出しますから」

居酒屋すきっぷ。うらぶれた雰囲気とは裏腹にメニューが豊富なこの居酒屋は、財団の所有であり、フィールドエージェントたちの情報交換・休憩所としての一面を持っている。奥の個室は完全な防音・対盗聴仕様になっており、ここでなら他人の耳を気にせずに済む。常に仮面を被り続けねばならない彼らにとっては、貴重なオアシスだ。

つまみのスティルトン・チーズに手を伸ばしながら、戸神つかさは雛倉の横顔を盗み見た。

(もう少し楽しそうにしろよ)

ツーマンセルを組んでまだ一ヶ月の相棒は、相変わらず無表情だった。コーカソイド系の血が混じっているであろう端正な容貌だけに、表情筋の硬直具合が一層強調されている。

ようやく指導教官の元を離れて、僅かとは言え後輩である彼女と組ませてもらえることになった。これで自分も一人前のエージェントだ、先輩として見本にならなくてはと張り切っていたのだが。

『優秀な子だから、心配要らないわよ』

雛倉の指導教官である立花たちばなが保証してくれた通り、彼女は優秀だった。どんな偽装身分カバーも堂々と演じるし、細かいことにもよく気付く。格闘も射撃も男顔負けの腕前だ。だが、如何いかんせん──。

(絡み辛い)

それが正直な人物評だった。任務の合間にちょっとした軽口を投げつけても。

『お言葉ですが、任務と関係があるのですか』

『申し訳ありませんが、興味がありません』

『プライベートに関しては、ノーコメントです』

任務で必要な時以外は、その顔にいかなる表情も浮かぶことはない。自分はエージェントという名の機能だ。それ以外は全て余分だと言わんばかりに。

(こんなのと組み続けなくちゃいけないのか)

勿論、分かっている。雛倉はお友達ではない、仕事のパートナーだ。仲良くする必要などないのかもしれない。役にさえ立てばいいのかもしれない──そうは言っても、エージェントとて人間であるからして。

(ええい)

人的諜報ヒューミントはエージェントの基礎だ。相棒と打ち解けることすら出来ないで、何が一人前だ。そう、これは自己トレーニングの一環だ。そう言い聞かせて、まずはエージェント同士の飲み会に誘うことにした。

『私が同席することに、どのような意味があるのでしょうか』と、いつものような雛倉の返事に対して、参加者のイヴァノフたちが政治局というややこしそうな部署に所属していることを説明し、手を借りる時に備えて顔ぐらいは覚えておいてもらって方がいいとか何とか早口で言いくるめて、どうにかこうにか連れてきたのだが。

(そりゃあ、飲みニケーションなんて、僕だって面倒だけど)

一緒に酒を飲んで騒げば、皆友達! みたいな顔して、表面上だけのペラペラな交流を繰り広げる。大人なんて、所詮そんなものだろうが──込み上げてきた苦い味を、司は体内に押し戻した。

「どうだ雛倉、呑んでるか~?」

すっかり出来上がっている西塔が、雛倉の肩に手を回す。同性同士でなかったら、慌てて引っがして──危ないので──いるところだが。

(いいぞ、西塔先輩。もっとやれ)

雛倉をこの席に連れてきたのは、西塔の存在に期待したのも大きい。つまり、遠慮のない彼女のペースに巻き込めば、雛倉も少しは本音を漏らすのではないかと。

だが、相変わらず雛倉は置物と化して、拒絶の結界を張り巡らし──いや。

雛倉の視線がどこかに向いている。その先を辿っていくと、イヴァノフが傾けているグラスがあった。僅かに緑を帯びた真珠色の液体が、氷を浮かべて揺らいでいる。気付いたイヴァノフが、面白そうに眉を上げる。

「おや、嬢ちゃん、アブサンに興味があるのか」

(アブサン──フランスやスイス辺りのお酒だっけ)

確か、アレイスター・クロウリーがエッセイで触れていた。タイトルは〈ABSINTHE: THE GREEN GODDESS〉。

雛倉がこっくり頷くのを見て、司は内心仰天した。放っておくと、朝昼晩全てサプリメントで済ませるぐらい、食に興味がない娘なのだ。そんな彼女が、酒に興味を?

「俺はロックで飲む方が好きなんだが、せっかくだから正式な飲み方をレクチャーしてやろう。相棒君もどうだ?」

「い、頂きます」

どういう風の吹き回しか知らないが、願ってもない機会だ。同じ体験を共有すれば、少しは距離も縮まるだろうか。

「うーん、初めて飲むならブルジョア辺りかな」

「アブサンのスタンダートと言ったら、ペルノ・アブサンじゃないの?」

「むむ、あんなまがい物、俺はアブサンとは認めん!」

「へいへい」

注文の品が届くまでの間、イヴァノフがアブサンに関する薀蓄うんちくを披露してくれる。ニガヨモギを始めとする、多様なハーブで作られるリキュールであること。ファン・ゴッホ、ヴェルレーヌ、オスカー・ワイルドなど名立たる芸術家に愛され、そして彼らの破滅の一因になったこと。ツヨンという苦味成分に毒性があると疑われ、一時は製造が禁止されていたこと。

そんな背徳的なイメージから付いた別名が、緑の妖精、または緑の悪魔。

やがて、ウェイター役の南──彼もエージェントだ──が、何やら大袈裟な装置を運んできた。蛇口がいくつも付いた円筒形の水槽、とでも言えばいいのか。イヴァノフの解説によれば、アブサン・ファウンテンという道具らしい。

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蛇口の下にグラスをセットする。ラベルに黒猫が描かれた瓶から、澄んだ緑色の液体を注ぐ。イヴァノフが飲んでいるヴィユー・ポンタリエに比べると、アルコール度数やツヨンが抑え目で初心者向けとのことらしいが。

穴の開いたアブサン・スプーンをグラスに渡し、その上に角砂糖を置く。蛇口を慎重に緩め、角砂糖に水滴を滴らせる。角砂糖が溶けきったら飲み頃。

「なぜこのような手間を?」

雛倉の率直な質問にひやりとするが、イヴァノフは上機嫌で解説してくれる。理由は二つある。一つは、一気に水を注ぐと、アブサンのハーブ精油成分が固まり、味が変わってしまうため。もう一つは。

「こいつを見て楽しむためだな」

水滴はグラスの中で不思議な白濁に変わり、霧のように広がっていく。非水溶成分が析出して起きる現象だが、これもまたアブサンの神秘性を増すのに一役買ったに違いない。その様を、雛倉は食入るように見つめている。司は少しだけ嫉妬する。僕とは絶対に目を合わせない癖に。

やがて、グラス内のアブサンは、緑色を帯びた真珠色に変わっていた。

「よし、飲んでいいぞ」

グラスに口を付けようとして、およそ食品とは思えない臭いに顔をしかめそうになる。一番近いのは歯磨き粉のそれか。こんな物を飲んで喜ぶなんて。

(大人は分からないな)

しかし、今更要らないと言える訳もなく、覚悟を決めてぐっと飲み込む。

(うっ)

まず感じたのは、鼻に抜けるようなアルコールの噴煙。次いで舌を刺す青臭さ。例えるなら、真夏の理科室。うわ騙されたと思った瞬間、舌に残る優しい甘みが全てを包み、変える。

アルコール臭をミルキィなとろみに。

青臭さを爽やかな芳香へ。

(こ、これは)

真夏の理科室から初夏のプロヴァンスへ、司は瞬時に連れ去られる。ハーブ畑を地方風ミストラルが揺らし、多彩な香りが小波さざなみ のように鼻腔をくすぐる。※イメージシーン

なるほど、水で割る意味が分かった。単にアルコールを薄めるだけではない。青臭さの中に渾然一体となっている、様々なハーブの香りを分解し、絶妙のハーモニーへと還元するために必要なのだ。それをロックの水分のみでやってのけるイヴァノフは、さすがというべきか。

舌に残る緑の記憶は、瞬く間に消えていく。あれほど鮮烈な味だったのに。慌ててもう一口飲むと、舌は再び思い出す。

水車が回る農家の前で、美しい姉妹──あるいは現代アブサンの母、アンリオ姉妹であろうか──がアブサンの瓶を手に微笑んでいる。我が家の秘伝のレシピで配合したのよ。もう一杯いかが? ※イメージシーン

喜んでグラスを差し出そうとして、はっと気付く。農家はボロボロの廃屋であり、姉妹はしわくちゃの魔女であることに。イヒヒ! 一杯なんて言わずに、何杯でもお上がりよ。あんたの命が尽きる、その時まで! 彼女の背後では、ゴッホが己のこめかみに銃口を当てている。ああ、彼もアブサンの魔力に魅入られてしまったのか。※イメージシーン

「──苦いメロンソーダのような味ですね」

「ひ、雛倉!」

雛倉のすっとぼけた感想が、司を現実に引き戻す。

「はは、メロンソーダか、そりゃあいい!」

まさしくシベリアの大地のように広いイヴァノフの度量に感謝しながら、司は雛倉にだけ聞こえるぐらいの声で囁いた。

「意外だな、君がお酒に興味を示すなんて」

「──ええ」

彼女にしては珍しく、ぼんやりとした声だった。

「お酒が飲めれば、大人になれるかと思って」
 

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気が付くと、司は見覚えのある部屋に立っていた。

(ここは)

見上げるような大型の本棚があり、古今東西の魔道書で埋め尽くされている。〈天使ラジエルの書〉、〈ソロモンの鍵〉、〈レメゲトン〉、〈ホノリウスの誓いの書〉、〈隠秘哲学〉などの古典は勿論、ウィッカやケイオスマジックなどの新しい潮流まで網羅した様は、あたかも魔術の歴史を凝縮した小宇宙のようだ。

重量感のあるオーク材の机の上には、泉から立ち上がるユニコーンが描かれた羊皮紙が広げられている。ああ、〈ラムスプリングの書〉か。あの人が翻訳していた──。

天窓から差し込む月光に、幼い司と懐かしいあの人の姿が浮かぶ。

『お祖父ちゃん、これは何が書いてあるの?』

『これはな、司や。鉛を黄金に変える術について書かれているんだよ』

『本当? すごい!』

(ここは──お祖父ちゃんの書斎か)

亡くなった両親に代わって司を育ててくれた祖父は、文化人類学、特に西洋魔術では世界的な権威だった。普通の子供が特撮のヒーローに憧れるように、司は祖父が演じる魔術師に憧れた。

無論、長じるにつれて、憧れは修正されていった──普通の子供だって、特撮が絵空事であることぐらい、かなり早くから気付いている──が、それでも減じることはなかった。祖父がラテン語の魔道書をすらすらと翻訳してみせる時、司の眼前には中世の魔術師たちの饗宴がありありと浮かんだ。それは紛れもなく魔術だった。

一度だけ、思い切って祖父に尋ねたことがある。魔術は実在しないと分かっていながら、なぜ魔術を研究するのかと。彼はいつも通り、魔道書を手に微笑みを浮かべながら答えた。

『こんなものは、昔の人の妄想だと言う人もいる。だが、私はそう思わない。魔術は、人間が精神の世界に築いた、もう一つの歴史なんだ。それを研究することは、ピラミッドの発掘と同じくらい、面白くて有意義なことだよ』

(あれからすぐだったな──お祖父ちゃんが亡くなったのは)

祖父の衣鉢を継ぐべく、司は勉学に励んだ。祖父が翻訳した魔道書は勿論、未翻訳の関連書も読み尽くすために、英語、フランス語、ラテン語を身に付けた。祖父が在籍していた大学に入学し、学生離れした完成度の論文を何本も書き上げた。ついには、大学を首席で卒業するまでになり──財団が彼を迎えに来た。皮肉なことに。

そして司は、この世には条理を超えるものが実在すると知った。

『ふざけるな! それじゃあ、お祖父ちゃんの人生は何だったんだ!?』

魔術の研究にそれこそ生涯を捧げていたのに、ついに真実を知らないまま逝ってしまった。財団の研究者たちから、祖父はどう見えていたのだろう。自己満足のディレッタント? それとも、知ったかぶりの子供? こんな屈辱があるだろうか。

祖父の研究人生は、財団による情報隠蔽に殺されたのだ。そして、その跡を継ぐという、司の夢までも。

(何も知らなければ──)

魔術師に憧れる、子供のままで居られたのに。苦いタールが口の中に広がる。大人の味、真実の味。

ばう! 唐突に犬の鳴き声がして、司は過去から引き戻される。犬はドアの向こうで、鏡板をかりかりと引っ掻き、くんくんと鼻を鳴らしている。開けてくれと訴えているのか。エージェントの本能で身構えるが。

(この鳴き声は)

すぐに正体に思い至り、ドアを開ける。飛び込んできたのは、立派な体格のジャーマン・シェパードだった。

「ルディ、ルディじゃないか! 元気にしてたかい?」

戸神家の愛犬だ。撫でてやると、千切れんばかりに尻尾を振る。無理もない、久しぶりの再会なのだ。何せ、司が中学生の時に、虹の橋に旅立ってしまったので。

それを思い出した瞬間、ルディの体がめきめきと巨大化し始める。茶色の毛並みが漆黒に染まり、背中からは猛禽の翼が生え、ふさふさの尻尾がより合わさり、ちろちろと舌を出す毒蛇に変わる。

双眸を鮮血色に輝かせ、炎の吐息と共に名乗りを上げる。

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「我が名はマルコシアス! 地獄の侯爵にして、三十の軍団の指揮官なり!」

「うわあ、格好いい!」

ソロモン王が使役した七十二人の悪魔の一人だ。〈ゴエティア〉によれば、召喚者に忠実であり、全ての疑問に正しく回答するという。司が最も好きな悪魔の一人だ。キメラ的でありながら、バランスの取れた造形──バエルやアスモデウスはさすがに混ぜすぎだと思う──も好ましい。

気が付くと、そこはすでに思い出の書斎ではなかった。床にはマルコシアスの召喚円が描かれ、アルタークロスが敷かれた祭壇には剣、杯、印章ペンタクルなどの魔術道具が配置され、四方の壁には地水火風の三角シンボルが掲げられている。司の目から見ても、本格的かつ無駄のない儀式場だ。

(一度、これぐらい本格的にやってみたかったなぁ──何も起きないと分かっていても)

「召喚者よ、魔術名を名乗れ!」

「ま、魔術名? そんなこと言われても」

「名乗れぬならば、死ね!」

がばぁっ、短剣のような牙が並んだ口が、司に迫り──。

「わあっ、イマゴット、兄弟フラターイマゴットです!」

ぴたりと停止する。

「良かろう、汝を主として認めよう」

(え、あれでいいの?)

財団フロントサイト、"神の摂理"魔術クラブSorcerey club of providence で使っているハンドルネームである。TOGAMIを逆から読んだだけなのだが。

マルコシアスが力強く羽ばたく。突風が壁と天井を吹き飛ばし、外界があらわになる。そこは星空の下に広がる美しい渓谷だった。険しい斜面を山霧が雪崩落ち、谷底平野にはニガヨモギが生い茂っている。もしやここは、アブサンの故郷たるトラヴェール渓谷か。冠雪した山々の向こうに、何かが見える。

緑色の──入道雲?

(違う、あれは──)

樹だ、山よりも巨大な。頂上付近は空気で霞んで見えなくなっている。

その威容を見つめる内に、登りたいという衝動が湧き上がってくる。北欧神話のユグドラシルに代表されるように、巨木は世界そのものの象徴だ。司は確信する。あの頂上に至れば、求めて止まない知識が手に入る。財団がセキュリティ・クリアランスで出し渋る、魔術の奥義、究極の神智が。

しかも、今の自分には力強い翼がある。司はマルコシアスの背中にひらりとまたが る。

「あの樹へ連れて行ってくれ!」
 

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遠吠えと共に、マルコシアスが飛び立つ。耳元で轟々と風が唸り、あっという間に大地が遠ざかる。雲は司の足元にひれ伏し、山々も矮小な凸凹と化した。

それにも関わらず、樹の巨大さだけは変わらない。いや、近付けば近付くほど、そのスケールに圧倒される。まるで細長い天体だ。無数に分かれた枝と、折り重なる葉から成る天蓋てんがいは、都市の一つや二つは余裕で覆ってしまうだろう。

どれぐらい掛かっただろうか。やっと葉の一枚一枚──でさえ、家程の大きさがある──が見分けられる距離に迫る。山々から吹き上げる風に、ざわざわと揺れ動いて──。

『地、冷にして乾。ノームどもの住処すみか。最も重き元素。世界の礎となり、昇華して火を生み出す』

(な、何だ? 頭に直接──)

葉擦れの音は司の脳内で、魔術の知識に変換されていく。よく見ると、どの葉にもびっしりと文字やシンボルが描かれている。付近を通過するだけで、その内容が流れ込んでくるのだ。まさに言の葉。

気付けば、司は地の精霊の営みをすっかりマスターしていた。足元の大地が海から隆起した過程が、バラバラに引き裂かれて再び海に沈んでいく未来が、手に取るように分かる。

(ん? 何だあれ)

スカイツリー並の太さと長さの枝の上に、円盤上の物体が乗っている。樹と比較すると小さく見えるが、実際は東京ドーム並の大きさがあるだろう。マルコシアスに命じて降りさせると、何処からともなく荘厳な音楽が鳴り響き、ぬうと巨大な影が躍り上がる。

「うわでかっ!」

白く輝く翼を持った巨人だ。巨人も巨人、山より高いこの場所に、立っただけで頭が届いてしまっている。女性と見紛うような美貌、黄金で縁どられた司教冠ミトラを被り、十字架模様が刺繍された祭服をまとっている。

王国マルクトの座へようこそ。我は天使サンダルフォン」

(マルクト、サンダルフォン──ということは、この樹はセフィロトの樹なのか)

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神から流出した聖性が宇宙を生みだす様を描いた、壮大な創世記。未だに森羅万象に投影され続ける、宇宙の設計図──天体の運行も、魔術師の位階も、そして人体すらも、この形而上概念のコピーに過ぎない。故にこそ、セフィロトを知る者は全てを知る者と、カバラは説く。

マルクトとはセフィロトの樹を構成する属性セフィラの一つであり、最下部に位置する。対応天使は音楽を司り、天地に等しい身長を持つというサンダルフォン。対応惑星は地球──そう、地球とは、宇宙創成のエネルギーの流れ着く果て、残りカスが凝縮したものに過ぎないのだ。

「汝は地の精霊の営みを修学した。よって熱心者ジェレーターの位階を授けよう」

サンダルフォンの宣言と共に、司の手首に光が収束し、水晶──マルクトの対応宝石──の腕輪に具現化する。

「行くが良い、次のセフィラへ」

サンダルフォンが上方を指差す。そうだ、人間は次元の最下層たる、物質世界の囚われ人。しかし、近代魔術結社の権威〈黄金の夜明け団〉は説く。魔術とは精神にセフィロトの樹を描くこと。瞑想を以て、神の聖性の流出経路たる十個のセフィラをさかのぼり、宇宙創成の原点に辿り着くことだと。

そうだ、自分は熱心者になったばかり。黄金の夜明け団の位階制で言えば、新参者ニオファイトの次、十一ある位階の下から二番目に過ぎない。もっと上を目指さなくては。

「よし、行くぞマルコシアス!」

マルコシアスが稲妻と化してセフィロトの樹を駆け昇り、各セフィラを遡っていく。基礎イェソド栄光ホド勝利ネツァクティファレト峻厳ゲブラー──その経路は摩擦熱で燃え上がり、セフィロトの樹に炎のジグザグ模様を描く。これぞカバラが説く神に至る道、炎の剣。

「我は天使ガブリエル。汝は風の精霊の営みを修学した──」

「我は天使ラファエル。汝は水の精霊の営みを──」

「我は天使ハニエル。汝は火の精霊の──」

言の葉の知識を吸い尽くしながら、各セフィラの天使たちから位階を授かって回る。理論者セオリカス実践者プラクティカス哲学者フィロソファス小達人アデプタス・マイナー大達人アデプタス・メイジャー──。

燃える車輪を背負った天使が、くるくる回りながら司に告げる。

理解ビナーの座にようこそ。我は天使ザフ──」

「早く!」

「ああっ、急かすな、まだ準備が──ええい、持ってけドロボー!」

ザフキエルが投げつけた神殿の首領マジスター・テンプリの証たる真珠の指輪をキャッチし、次のセフィラに向かう。

ここから先はアストラル界の住人である〈秘密の首領〉の位階であり、生きた人間には辿り着けないとされている。司はすでに超人の領域に踏み込んでいる。だが、まだまだ立ち止まってはいられない。目指す場所はただ一つ。

(見えた!)

クリスマスツリーのトップスターの如く、最後のセフィラは樹の頂上で燦然さんぜんと輝いていた。

王冠けてるノ座へヨウコソ。我ハ天使めたとろん」

無数の目が浮かぶ火柱、そこから花弁のように広がる36対の翼。天の書記とも呼ばれる異形の天使は、淡々と司を迎えた。

「汝ニ自己自身者いぷししますノ位階ヲ授ケヨウ」

ダイヤモンドをあしらった王冠が現れ、うやうやしく司の頭上を飾る。自己自身者、己を律するのは己のみであることを知る者。簡単なようで、実は困難な資格の証。

「やったよ、お祖父ちゃん! ついにセフィロトの樹を制覇したよ!」

周囲を見渡す。地平線の彼方まで視界を遮るものはない。今の司には全てが見える。千年後の惑星の配列も、あらゆるタロットの吉兆も、賢者の石の錬成方法も、宇宙に満ちるエーテルの潮流も、神の無数の別名すらも。

だが。

「え、これだけ?」

拍子抜けする司。確かに自分は全てを知った──ただ一つ、それを力に代える手段を除いて。物理学をマスターしたからと言って、荷電粒子砲が作れる訳ではないのと同じだ。

足元の大地では、司のことなど知らんふりで、雲が渦巻き、雨が降り、人々がせせこましく争っている。

「違う! 僕は、僕は──魔術師になりたいんだ!」

杖の一振りで雲を従え、雨を呼び、人々を平定する。そんな、祖父がなれなかった本物の魔術師に。

(そうだ、確かセフィロトの樹には、隠されたセフィラがあるはずだ)

その名は知識ダァト。他のどのセフィラとも繋がっていない、別次元に属するセフィラであり、セフィロトの樹の図にも多くの場合描かれていない。いかに全てを学んでも、最後まで埋まらない空白を象徴するかのように。

(どこだ、どこにあるんだ?)

うろうろとセフィロトの樹を飛び回っていたマルコシアスが、

こっちじゃ、こっちへ来い。魔術師になりたいのであろう──

ぴたりと静止する。高い、とても高いどこかから、誰かに呼ばれたような気がして、司は頭上を見上げた。

「あった──!」

司の目に、夜空に輝く大いなる円盤が映っている──つまり、月が。思わず自分を笑う。何を迷っていたのだろう。真理はいつも見えていたというのに。

「マルコシアス、月へ!」

セフィロトの樹がぐんぐん小さくなる。上へ、上へ、ひたすら昇る。いや、それとも潜っているのか。精神の奥底、あらゆる神話の故郷たる集合無意識の海へ。地平線が丸みを帯び、ついには司の背後で紺碧の球になったところで。

ぼうん!

「ぐわははは! 我は四重の恐怖の上に立つ悪の王子、すなわち最も遠い深淵の主コロンゾン!」

硫黄イオウの爆煙と共に現れた、赤い肌、捻くれた角、コウモリのような羽を持つ、筋骨隆々の悪魔が立ち塞がる。

(コロンゾンと言えば、確か)

迷妄と真理を隔てる深淵に巣食う悪魔であり、そこを越えようとする修行者を妨害するとされる。理由は不明だが──あるいは、修行者の迷いが具現化した存在なのかもしれないと、司は考えている。

「ここは通さんぞ!」

コロンゾンが通りかかった流星を鷲掴みし、大鎌に成形して襲いかかる。その切れ味は、司どころか地球も両断できるだろう。せめて虚しい抵抗だけでもと袖仕込み銃スリーブガンを抜く司を、コロンゾンが嘲笑う。

「無駄無駄ぁ! 我が肉体を貫けるのは、聖別された銀の弾丸のみ!」

「あ、そうなんですか。ちょうどルコさんに貰った奴があるな」

がちゃ、装填完了。

「えっ、ちょ、マジで!?」

慌てふためくコロンゾンを尻目に、冷静に照準を──メタトロンから授かった王冠がずれ、視界を塞いだ。

「ああもう、邪魔!」

迷わず投げ捨てる。ついでに、今まで授かった全ての位階の証も。身軽になって、改めて照準を向け、トリガーを引く。放たれた銀の弾丸は、青白い電光と化してコロンゾンの額を貫く。

「ぐわあああ」

コロンゾンが硫黄の爆煙と共に消滅し、

「見事だ、若者よ!」

全裸の壮年男性に姿を変える。安心して頂きたい、大事な部分は何処からともなく割り込む光で隠されている。

「わっ、変態?」

「変態ではない! 我こそはアレイスター・クロウリー! 銀の星A∴A∴の創設者にして、セレマ修道院の主!」

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「えっ、本物なんですか!?」

二十世紀最大の悪人、不出世の大魔術師。黄金の夜明け団が生み出した、奇人にして偉人。いくつもの魔術結社の主宰、膨大な魔道書の執筆、トート・タロットの開発など、近代魔術史に無数の足跡を残す男は、厳かな声で語った。一瞬も留まることなく、様々なヨーガのポーズを決めながら。

「汝が捨てた品々は、知識に伴うおごりの象徴だ。神智に至るためには、それら全てを捨てる必要があったのだ」

「な、なるほど」

だから、彼もすっぽんぽんなのだろうか。さすがに自分は、そこまではできないが。

「神智に向かう汝に、最早多くは語るまい。だが、一つだけ餞別せんべつの言葉を送ろう──汝の意志することを行え、それが法の全てとなろう!」

「はい!」

遠ざかるクロウリーの姿が光に包まれ、頭でっかちの天使へと変わっていく。ああ、彼は己の聖守護天使エイワスとの合一を果たしたのか。一説には、聖守護天使とは誰もが持つ高次自己ハイヤーセルフの化身であるという。

(彼はエイワスになった。僕は──何になるんだろう)

月がぐんぐん大きくなり、視界を覆い尽し──。
 

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嵐の大洋を過ぎ、カルパティア山脈を越え、雨の海を睥睨へいげいしながら、マルコシアスは飛び続ける。見渡す限りどこまでも、クレーターだらけの灰色の大地が広がっている。ここに魔術の奥義があるというのか。

(ん?)

司の目に、不意に鮮やかな色彩が飛び込んでくる。クレーターの片隅に──。

(何だ、あれ──樹?)

間違いない。半径45m程の領域に樹々が生い茂っている。セフィロトの樹のような異常なサイズではないが、それが却って場違いさを強調している。

「マルコシアス、あそこに降りてくれ!」

近付いて見ると、小さな池を中心にした樫とトネリコの森であることが分かった。マルコシアスの背から降りた司を、柔らかい落ち葉が受け止めた。樹と土の香りが満ち、カッコウのさえずりが聞こえる。頭上で輝く地球さえなかったら、ごく普通ののどかな森だ。

池の周囲を歩いていると、樹々の合間に藁葺わらぶき屋根の家が見えてきた。小さな畑のある庭には、素朴な揺り椅子が置かれている。

何者かが腰掛けている。

足音を忍ばせ、慎重に近付く。それは枯れ木のように痩せた老人だった。粗いウール地の青緑色のローブと灰色のナイトキャップ、椅子には樫材の杖が立て掛けてある。司がすぐ背後に迫っても、何の動きもない。あたかも、刺客が迫っても超然としている武術の達人のように。

「すぴょー、むにゃむにゃ」

提灯ちょうちんという現象を、司は生まれて初めて現実に見た。

「あの、すいません」

「うひょっ? 何じゃい、お主は──あ、ああ、そうか。上手く繋がったようじゃな」

飛び上がる程驚いてから、老人は咳払い一つ、体格に似合わぬ朗々とした名乗りを上げる。

「我こそは大魔術師ナイペリウス、天に輝く月と星の支配者なり!」

青く輝く地球を頭上に、樫の杖を掲げるその姿は、まさに幼い司が思い描いた──。

(魔術師──本物の)

「あの、この領域はあなたが?」

「左様。地上で暮らしとると、我が知恵にすがる者が多すぎてな。煩わしいので、引っ越したのじゃ。領地ごとな」

「す、すごい」

月への転移だけでも離れ業なのに、地球と同様の環境を維持しているなんて。御伽話にだって、ここまで超人的な魔術師はそうそういない。

「さて、若者よ。お主は見事──ええと、何の樹じゃったか──そうそう! セフィロトの樹を登り、我が元へ至った。お主の頭脳には、すでに森羅万象の理が刻まれていよう。しかし、それを力に換える術を知らぬ。違うか?」

「そ、そうです」

「案ずるな。その術は儂が教えてやろう。お主は今、魔術の入口に立ったのじゃ」

「本当ですか!?」

何と、最後のセフィラたるダァトへの到達は終着点ではなく、出発点だったというのか。魔術の道のいと果てしなきかな。しかし、司に落胆はない。これまでは、言わば学生時代。ここからが実践の場だ。

「コモドール・バックル!」

ナイペリウスの呼びかけに応じて、キツネノテブクロの茂みから黒猫が現れる。使い魔か何かだろうか。口に羊皮紙の巻物を咥えている。

「この契約書に魔術名を記すが良い。さすれば、お主は正式に儂の弟子じゃ」

司は祖父の形見の万年筆で、喜んでサインしようとして──その手が止まる。

「あの、毎日お師匠様の肩揉みをするのは、別に構わないんですが」

「よ、読めるのか?」

「十年もここに居ないといけないんですか?」

「それぐらい当然じゃ! 魔術の道は甘くないぞ」

「でも、財団エージェントの仕事もあるしなぁ」

「ええい、何を迷っておる」

ナイペリウスの言う通りだ、何を迷う? 司にとって、財団は祖父の仇、そして魔術の知識を独占する邪魔者だ。奴らに義理立てする理由などない。

(でも、それなら──)

自分は何故、財団エージェントになったのだ?

「お兄さん、そんなこと言わずに弟子入りしましょうよ」

鈴を転がすような声に振り向くと、サンザシの樹の下に可憐な姿があった。

「おお、ヨハンナ。お主からも説得してやってくれ」

まだ十代前半だろうか。丈の短いドレスのような衣装に、ハート型のルビーをあしらった杖、妖精のように愛らしい少女が、無垢そのものの笑みを浮かべていた。

「一緒に修行する仲間が欲しかったの! あ、でも、魔術の道では私の方が先輩なんだから、ちゃんとそう呼んでよね?」

ヨハンナと呼ばれた少女が、ちょっと生意気そうに杖を突き出した瞬間。

司は初めて、彼女を叱った。
 

「何をしている、エージェント・雛倉! それでも財団エージェントか!」


 
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「い」

ヨハンナ、否、雛倉の顔が恐怖に歪む。そう、多少幼くなっているとは言え、相棒の顔を見誤る訳がない。お互いの命を預け合う仲なのだ。

「いやああああ!」

雛倉の絶叫と共に、周囲に無数の炎の竜巻がそびえ立つ。燃え上がる木の葉と金色の火の粉が、熱風に巻き上げられて荒れ狂う。

「手を出すな!」

牙を剥き出そうとしたマルコシアスを制して、司は雛倉目指して歩き出す。ゆっくりとした、しかし迷いのない足取りで。彼女は火炎地獄の中心で、全てを拒絶し続けている。

「私は、私は、そんな名前じゃない!」

炎の竜巻が司に迫る。あぶられた彼の前髪がちりちりと焦げ──しかし、全身が飲み込まれる寸前、炎の竜巻が接近を止める。躊躇ためらったかのように。

一転、司は雛倉との間合いを一気に詰める。予備動作のないスタートダッシュで相手に構える猶予を与えない、縮地の技法だ。鬼教官の特訓に耐えた価値はあった──魔術の修行だって、多分あれ程きつくはない。

「異常存在に呑まれるな!」

司から、現実から逃げようとする雛倉の肩を掴んで、その場に留めさせる。

「思い出せ! 君は財団エージェント、セキュリティ・クリアランスはレベル2、所属は諜報局日本支局、市民生活部捜査Ⅲ課、登録名・雛倉結愛ゆあだ!」

「う、う──」

光の花弁を撒き散らしながら、雛倉の姿が変わっていく。身長が伸び、頬から丸みが抜け、魔法少女めいた衣装はかっちりしたパンツスーツに。唯一変わらない青い瞳が、ぼんやりと司を見つめ返す。彼は初めて、相棒の瞳を正面から見た。凍てついた湖のようだと思った。

炎の竜巻がしゅるしゅると縮み、煙を残して消散した。周囲に静寂が戻ってくる。

「戸神、先輩?」

「思い出したか」

司が手を離した途端に、雛倉は垂直に崩れ落ちた。慌てて再び伸ばした司の手は、しかし彼女に触れられない。

「思い出したくなかった!」

雪解け水のように溢れ出す、雛倉の涙を見て。

「私は魔術師になりたかった──いいえ、なりたいも何も、私は元々魔術師だったんです。なのに、ある日突然、魔術が使えなくなってしまった」

あまりに突飛な雛倉の告白に、しかし司は戸惑わない。あの姿を見た瞬間に察していた。ああ、やはり彼女もそうだったのか、と。

「君の家庭環境のことなら、立花教官から聞いているよ」

「ご存知だったんですか」

いいや、それは家庭環境などと呼べた代物ではなかった。雛倉は物心付く前に誘拐され、ずっと監禁されていたのだ。自分は地上最後の王国の皇女にして炎の魔術師、そう思い込まされて。外界からの情報を完全に絶ち、ご丁寧にも監禁場所の一画に火炎の噴出機構を備えた“魔法陣”まで用意して。全ては十四歳の誕生日、こう告げて彼女の反応を楽しむために。

『ドッキリ大成功──いやあ、楽しかったよ──その顔が見たかったんだ──あはは、くけけ、うひゃひゃひゃひゃ──』

笑い転げる誘拐犯たちの中には、雛倉が両親だと思っていた者たちも混じっていたという。司は信じられなかった。ただの人間が、そこまで邪悪になれるものなのか。財団に保護されてしばらくの間、雛倉は譫言うわごとのように繰り返していたという。あれは夢です、夢に決まっています。

雛倉が笑わない理由に、今更気付いた自分を司は恥じた。きっと、今でも恐ろしいからだ。自分の笑顔でさえ。

「戸神先輩も内心では笑っていたんでしょう、私のこと!」

「笑う訳ないだろう、そんな辛い過去を乗り越えた君を」

財団の調査の結果、雛倉と同じ境遇の子供たちが他にも見つかった。彼らは記憶処理を受けて里親に預けられたが、雛倉はそれを拒んだ。なぜなら、誘拐犯たちにあの遊びをそそのかした黒幕がいると知ったからだ。もしかしたら、今も世界のどこかで、誘拐された子供達が茶番を演じさせられているのかもしれない。

かくて雛倉は、財団職員の養成機関に入り、寸暇を惜しんで学んだ。自分の手で奴らを捕らえることはできなくとも、せめてその手伝いぐらいはできるようになるために。

そして、見事エージェントとして採用され、彼女は財団に戻ってきた。真実はあっても、安らぎはないこの世界に。

「乗り越えたのかしら、私は」

「少なくとも、努力はしているじゃないか。自信を持てよ」

雛倉に掛けた励ましは、鋭い棘となって司自身に刺さった。何を偉そうに。そう言う自分は、乗り越えたというのか。

雛倉は我が身を抱えたままうずくまっている。生まれることを拒む胎児のように。今度は司も手を貸さない。黙って待ち続ける。どれぐらい待っただろうか。果たして雛倉は、よろよろしながらも立ち上がった。

いつも通りの、可愛くなくも気丈な顔で、司を見返す。

「帰りましょう、戸神先輩」

「ああ!」

「そ、そうはいかんぞ!」

よろよろと割って入ったナイペリウス──髭やローブの裾が焦げている──が、羊皮紙の契約書を掲げる。その署名欄にはプリンセス・ヨハンナと書かれていた。

「この契約書がある限り、ヨハンナはここを離れられ──あっ」

ひょい、マルコシアスが蛇の尻尾で契約書を取り上げ、

「ああっ!?」

じゅっ、炎の吐息で蒸発させる。

「やれやれ、お主らに手伝わせて、地上に戻るつもりじゃったのに」

ナイペリウスが不貞腐れたように揺り椅子に戻る。パチンと指を鳴らすと、焼け焦げた森が一瞬で元の青々とした姿に戻った。

(僕たちに手伝わせて?)

どうしてそんな必要があるのだろう。気にはなったが、あいにく訪ねている時間はなさそうだ。月の地平線から、太陽が顔を覗かせ始めている。

そろそろ、目覚めの時間だ。

マルコシアスに二人乗りする。雛倉は散々迷った挙句、自棄やけのように司の腰に腕を回した。

「──振り落とされたくないですからね」

「そ、そうだな、しっかり掴まれよ」

「でも、先輩はいいんですか。本物の魔術師になれるチャンスだったのに」

「何だ、君も知ってたのか」

「え、ええ、蒼井あおい教官から」

鬼教官──もとい、恩師の眉間にしわを寄せた顔を思い浮かべる。滅多に褒めてくれない癖に、弟子の売り込みには熱心な人なのだ。

「ああ、いいんだ。思い出したから」

自分が財団エージェントになった理由を。

自分が築き上げてきたものが、全て机上の空論だったと思い知らされて。司は一から学び直すことを決意した。無知という名の祖父の仇を討つには、それしかない。ただし、財団が用意していた研究者の席は蹴った。十年以上も魔道書を読み続けながら、真実に至れなかった。つまり、自分は研究者に向いていないのだ──認めるのは、地獄の苦しみだったが。

だから、司はエージェントになった。書物を通してではなく、その目で見て学ぶために。魔術の──いや、全ての真実を。無謀な転職だとは思わない。エリザベス1世の顧問魔術師だったジョン・ディー博士は諜報活動にも関わったそうではないか。情報を集め、分析し、利用するという点では、魔術も諜報と同じだ。その技法なら十分応用できる。

セキュリティ・クリアランスが邪魔するのであれば、O5にだってなってみせる。たとえその道程が、セフィロトの樹よりも険しいとしても。

『戸神君──いいえ、エージェント・戸神、私の生徒をよろしくね』

雛倉と引き合わされる前日、立花から言われた。

『あなたなら、彼女を解かってあげられるはず。だって──』

魔術師になり損ねた者同士じゃない。

(まったく──)

苦笑するしかない。あの時、自分はどんな顔をしていたのやら。ひょっとして──いや、きっとそうだ。雛倉も蒼井から、似たようなことを言われたのだろう。やれやれ、指導教官という人種は、どうしてこう過保護なのか。

二人を乗せたマルコシアスが飛び立つ。地球では陽光が太平洋を照らし始めている。日本は間もなく朝だろう。今更ながら、司は騎獣の大悪魔に尋ねた。

「なあ、マルコシアス、どうして君は僕を助けてくれるんだ?」

「──奴に頼まれたからな」

マルコシアスが僅かに振り向く。釣られて見ると、遠ざかる大魔術師のいおりで、揺り椅子に腰掛ける懐かしい姿があった。魔道書を開いて、穏やかに微笑んでいる。

あの日と同じように。

(ああ、お祖父ちゃんは本物の魔術師になったのか)
 
やはり、自分はまだ子供だ。多くの大人たちに支えられて、どうにか社会の一員の振りをしている。
 

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「ふわあああ」

財団フロント企業の自動販売機でコーヒーを買いながら、司は大あくびをした。蒼井に見られたら『仕事中に気を抜くな!』とデコピンが──ビール瓶を木っ端微塵にできる威力の──飛んでくるところだが、生憎居ない。

(ちゃんと寝たのになぁ)

何となく寝不足っぽい。ずっと夢を見ていたような気がする。そう言えば、昨日の飲み会のつまみのスティルトン・チーズには、食べると妙な夢を見るという言い伝えがあるとか。以前に食べた時は、何ともなかったはずだが──もしや、アブサンと組み合わせたのがまずかったのだろうか。

どんな夢だったか。細部は思い出せないが、確か──何かに乗って空を飛んで──巨大な樹を登って──全裸のアレイスター・クロウリー──月にまで行って──何だか懐かしくて──そうだ、最後の方で雛倉が出てきたような。

コーヒーの紙コップを捨て、オフィスに向かおうとしたところで。

「あ」

当人とばったり出くわした。

「お、おはよう」

「──おはようございます」

相変わらずの無表情。そして、さっさと行ってしまうとばかり思っていたら。

「昨日はお誘い頂き、ありがとうございました。機会があれば、またご相伴に与からせて下さい」

司は一瞬、何を言われたのか分からなかった。分かって、我が耳を疑う。

「ほ、本気で言ってるのか?」

「勿論ですよ。恥ずかしながら、アルコール飲料に関しては疎いので、実践経験を積みたいんです。エージェントなら、協力者を酒席で持てなす任務もあるでしょう?」

「ああ、なるほど」

本気なのか、建前なのか。今の司の眼力では、雛倉の真意は見抜けない。しかし、一つだけ確かなのは──相棒はいつの間にか、彼と目を合わせて話すようになっているということだ。

当の司は気付いていないが。残念なことに。

「そういうことなら、僕もワインに関しては多少詳しいぜ。色々教えてやろうか?」

「先輩がワインに? 意外ですね」

「どういう意味だよ?」

「大した意味はありません、お気になさらず」

そう、大した意味などない。表面上だけの、ペラペラな交流。しかし、子供のように、いつもいつも本音でぶつかり合うのも疲れるから。

(大人も悪くない、か)
 

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アイテム番号: SCP-2686

オブジェクトクラス: Euclid

特別収容プロトコル: その静的かつ遠距離的な性質ゆえに、SCP-2686-1とそれに付随するSCP-2686の完全な封じ込めは、現時点において現実的ではありません──

説明: SCP-2686は推定75歳の人間の成人男性であり、現在は月面・雨の海の[編集済]に位置します──

インタビューログ-2686#021

日付: 2021/██/█
 
回答者: SCP-2686
 
質問者: エージェント・戸神、および雛倉(諜報局アメリカ本局奇跡論関連事案部所属)
 
序: SCP-2686からSCP-████の収容に必要な情報を入手する目的で行われた。質問者にはSCP-2686へのある程度の情報開示、および報酬の提示が認められている。
 
<記録開始>
 
エージェント・戸神: お時間よろしいでしょうか、ナイペリウス先生?
 
SCP-2686: ああ、構わんが。
 
エージェント・戸神: はじめまして、戸神と申します。諜報局から参りました。
 
エージェント・雛倉: 同じく、雛倉と申します。
 
エージェント・戸神: 本日は是非、先生のお知恵を拝借したく[中断]
 
SCP-2686: 何じゃ、お主らか。
 
エージェント・戸神: え?
 
エージェント・雛倉: え?

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