「幼い頃に私が飲んでいた、何かに似ているわ。そうね、鎮静剤の味だわ」
「まったくその通り。アブサンは大きくなった子供たちの鎮静剤なんだよ」
バーナビー・コンラッド三世『アブサンの文化史』
「お待たせしました、マイ・シンです」
(ああ、やはり)
我が罪My Sin。そのカクテルの名を聞いた瞬間、この男は全て知っているのだと悟った。
180を越える逞しい長身、狼を思わせる鋭い眼光、眉間に刻まれた深いしわ。容貌だけ見れば、まだ二十代だろう。しかし、世間一般の青年ならまだ残っていそうな未熟さは、全く感じさせない。蒼井 啓介あおい けいすけという、外見とは裏腹に繊細そうなその名が、本名なのかどうか彼は知らない。
若いウェイターは蒼井の前にも同じカクテルを置いて、優雅に下がる。バーの個室は、彼と蒼井の二人だけになった。グラスには、罪という名に似つかわしくない純白の液体が湛えられている。
寂しげなジャズが、静かに店内に流れている。
「生きてたか」
「生きています、おめおめとね」
弱々しい笑み浮かべる彼に、蒼井は冷え冷えとした眼差しを向けた。
「卑屈になるな。ここは財団、みんな誇りを持って働いている。自分に誇りを持てない奴なんぞ、足手まといだ」
「そうですね──すいません」
そう、蒼井は財団のエージェントだ。それも、おそらくは結構なエリートの。GOCから移籍して間もない彼がなぜ知り合いなのかと言うと、他でもない、GOCと財団の共同任務で組んだことがあったからだ。正確には任務という名目で監視していたのだが。
『蒼井というエージェントを探れ。財団に潜り込ませていた工作員が、奴と接触した直後に行方不明になっている。分かっているだけで四人もな、クソッ!』
仮にも同じ正常性維持機関である財団に、スパイを送り込むのはどうかと思ったが、任務は任務だと割り切った。蛇の手の隠れ家の捜索という本来の目的そっちのけで蒼井を監視したが、尾行は尽ことごとくまかれ、囮おとりは全て無視され、どうやってスパイを炙あぶり出しているのかは、一向に分からなかった。
結局、その任務は司令部の介入指示で中断された。その直後、GOCを統括する108評議会で大きな再編があったのは、果たして偶然だったろうか。蒼井と、おそらくはその手に掛かったスパイたちが、何らかの形で関わっていたのか。分からない。ただ、一つだけ確かなのは──。
蒼井が彼の首を掻き切りたくてウズウズしていたことだけだ。初対面時から、ずっと。
そもそも、工作指揮官が蒼井の名を知っていたのは、本人があえて隠していなかったからに違いない。GOCから潜り込んでくるスパイを威圧し続けるために。来るなら来い、ただし財団には俺がいるぞ、と。
そんな、財団上層部子飼いの狩人──あるいは血に飢えた人狼と、密室で二人きり。
「それで、私は生きてここから出られるんでしょうか」
「何のことだ」
「ここ、エージェントのセーフハウスを兼ねているんでしょう? 壁は防音仕様ですし、さっきのウェイターさんもあなたの仲間ですよね? そのう、私を見る目が少し緊張して──」
彼のおどおどした指摘は、蒼井の盛大な舌打ちに遮られる。
「あの未熟者が。後で特訓だ」
(あああ、すいませんすいません)
何と、彼の教え子だったらしい。とんだ災難に遭わせてしまった。
「バレちまったんなら仕方ないな」
瞬まばたき前は腕を組んでいた蒼井が、終えた後には拳銃を構えていた。常人にはそうとしか見えなかっただろう。動作があまりに速く、そして無駄がなさ過ぎて。彼の目には辛うじて、蒼井のスーツの袖から拳銃が飛び出すところが見えていた。
銃口は真っ直ぐに彼の額を狙っている。
財団フィールドエージェント。ほとんどのGOC職員、そして大半の財団職員も、彼らを末端の斥候か、ひどい言い方では生きたドローンとしか思っていないだろう。しかし、彼の見方は違う。エージェントたちは財団の現場勢力であり、独自のネットワークも築いている。O5評議会とて彼らが集める情報がなければ何もできない。
彼らが結託すれば、独断で自分を始末し、証拠を捏造するぐらい造作もないだろう。今頃、蒼井の仲間が、彼の部屋に"GOCに情報を流すための通信機"でも仕込んでいるところだろうか。
「上がどういうつもりか知らんが、元GOCゴックスなんぞ信用できるか──死ね」
蒼井の指が引き金に掛かる。それを見ても、彼は動じない。否、動じるだけの心がない。相変わらず弱々しい笑みを浮かべたまま、困ったように銃口を見つめている。蒼井が撃とうとしているのは、人ではない。人の形をした、ただの虚ろだ。
永遠にも等しい、一瞬の後──。
ふん、蒼井がつまらなそうに鼻を鳴らし、拳銃を下ろす。
「疑って悪かったな。あまりに出来すぎた話だから、財団に潜り込むための作り話かと」
氷刃の嵐のような殺気は、嘘のように静まっている。どうやら分かってもらえたようだ。今の自分が、殺す価値もない腑抜けであることを。
蒼井はマイ・シンをぐっと飲み干して席を立つ。僅かに苛立たしげな顔で。
「奢おごりだ。財団へようこそ」
「ありがとうございます」
彼も口を付けてみる。白い泡立ちは、おそらく卵白によるものだろう。優しい甘さに油断していると、不意に鋭い苦味が舌を刺す。アブサン──ファン・ゴッホやヴェルレーヌといった名立たる芸術家に愛され、そして彼らの破滅の一因になった魔の酒が、このカクテルの主成分なのだ。
甘く、苦い、罪の味。
「片岡さんにもよろしく」
個室から出ようとしていた蒼井が、ぴたりと立ち止まる。
「──誰だそいつは」
「女性の相棒の方がおられましたよね、大層お綺麗な」
朗らかで優しそうな、春風のような人だった。常に控えめながら、的確な助言で蒼井を支えていた。仕事上だけの付き合いではないことは、彼の目にも分かった。
蒼井は振り返らない。今どんな顔をしているのか、見られたくないかのように。
「忘れたな、そんな女」
落下感。
ミルクのような白い海面に叩きつけられる。視界を覆う白い泡。
浮力が全く働いていないかのように、彼の身体は真っ直ぐに沈んでいく。光が差し込む水面が、みるみる遠ざかる。白い海水は、甘く、そして苦い味がした。ああそうかと、彼は気付く。
ここはマイ・シンの海か。
自分は捨てられたのだなと、ぼんやり思った。誰に? 無論、自分自身に。
(ようやく私は、自分自身を捨てられたのか)
安らいだ気分だった。これでいい。このままこの白い海に沈んで、世界から隠れてしまおう。あの、何の救いもない、地獄そのものの世界から。
無数の泡が浮かび上がり、沈みゆく彼を通り過ぎていく──かと思いきや、渦巻きながら凝結し、巨大な泡になる。中に何かが見える。
(これは)
白いバックスクリーンが敷かれ、三脚に固定されたカメラやストロボが並んでいる。撮影スタジオのようだ。中央に置かれた椅子には、若い女性が座っている。彼女が被写体だろうか。それにしては表情が冴えない。気持ちは分かる、自分も写真は苦手だ。写真は永遠に風化してくれない。それでいて、撮られた過去には決して手が届かない──。
ぬう、女性の背後に黒い影が立つ。フォルムは男性のようだが、常に逆光になっているかのように、細部は影に包まれている。女性の周囲を歩き回りながら、全身に視線を這わせる。好色と言うより、美術品でも鑑定しているかのような見方だ。やがて影が、ふうと失望したようなため息を漏らし、女性の肩がびくりと震える。
ずぼり、影が自身の腹に手を突き入れ、中から何かを取り出す。金属製のチューブだった。貼られたラベルにはハンドクリームと印刷されている。影は自身の手にクリームを塗りたくり、べとべとになった手で女性の鼻に触れ──。
(な──)
ぶちりと千切り取った。粘土か何かのように、易々と。女性は血を流さない。痛みを感じている風でもない。とは言え、己の顔からパーツが削げるという事態が、若い女性にとって衝撃でない訳がない。にも関わらず、女性はじっと耐えている。豚にように丸見えになった鼻の穴を晒して。
影は千切り取った鼻を、女性の額に貼り付ける。まるで最初からそこにあったかのように、鼻は継ぎ目一つなく融合した。影はそれを見て、ひどくはしゃいでいる。手を叩き、ぴょんぴょん飛び跳ね──今度は女性の耳を千切り取った。
影の手の暴虐は止まらない。女性は両手と両足を入れ替えられ、頭部を背中に移植され、両目を塞がれ、みるみる原型を留めなくなっていく。
(やめろ、なんてひどいことを)
彼は慌てて手を伸ばす。女性は苦手だが、その受難は見過ごせない。あの日以来、若い女性が全て彼女に見えて仕方ないのだ。しかし、泡の表面はやんわりと彼の手を押し戻す。それには及ばないと。
「いいんです、私は"退屈な女"だから」
ヒトデにちょこんと人間の頭を乗せたような姿になって、女性は申し訳なさそうに言った。
「もっともっと個性的な姿にならないと、彼に撮ってもらえない」
こんな仕打ちを受けながら、罪悪感を覚えているのは彼女の方なのか。違う、あなたは悪くない。悪いのは──言葉に詰まる。自分に誰かを裁く資格などあるのか。自分自身にすら捨てられるような、見下げ果てた悪人の自分に。
泡が弾け、白い海に溶ける。ごぼごぼという音に混じって、彼女の最後の言葉が聞こえた。
「でも、私よりもっと哀れなのは──」
残響が遠ざかる。結局、何もできなかった。無力感が重く胸に溜まり、彼はますます深く沈んでいく。
だが。
(どういう意味だろう)
彼女よりも哀れな者とは?
再び泡が浮き上がってくる。中には広大な芝生の敷地に建つ、コロニアル様式の洋館が映し出されている。目を凝らすと、視点が玄関を潜り、廊下を渡り、螺旋階段を上っていく。繊細なレースのカーテン、ドレスデンの花瓶、ターナーの幻想画、目に入る調度は一流の品ばかりだ。
ドアが開き、部屋に入る。豪奢なシャンデリアの下、純白のテーブルクロスが敷かれたテーブルを、スリーピーススーツの紳士やバッスルスタイルドレスのレディが囲んでいる。三段のケーキスタンドにはサンドイッチやクッキーが並び、金縁のカップに注がれた紅茶が、薔薇のような芳香を放っている。伝統的な英国式アフタヌーン・ティー・パーティーだ。
古めかしい蓄音機からはショパンの〈子犬のワルツ〉が流れ、その軽やかな旋律に合わせるように人々は談笑している。そんな和やかな席で、一人だけ例外がいた。他でもない、おそらくは主催者と思われる女性だ。参加客への細やかな気遣いから、そうだと分かる。即ち、この邸宅の主でもあるのだろう。
紅茶のお代わりを勧めていた、彼女の笑顔が。
(レディ、何があなたを悲しませているのですか?)
彼がそう尋ねた瞬間、悲しみに凍り付いた。そう、彼には最初から分かっていた。その笑顔が仮面であることに。自分も似たようなものだから──と言いたいところだが、自分はあんなに上手く仮面を被れていない。
「自ら申し上げるのも何ですが──私は悲しい女なのです」
ヒアシンス侯爵夫人と名乗った女性は、隣席を見つめながら語った。そこは空席だった。にも関わらず、ティーカップはちゃんと並べられている。
貿易商にして冒険家でもあった彼女の夫は、黄金に満ちた幻の島を探しに行ったきり戻らないのだという。ある人物の話によれば、異世界の海に迷い込んでしまったらしい。それ以来、彼女はこの屋敷で、百年以上も夫の帰りを待ち続けている。こうして華やかなティー・パーティーで寂しさを紛らわしながら。
「最も一緒にお茶を飲みたい人が、傍にいない」
参加客たちは笑顔のまま時を止めている。まるで世界が、侯爵夫人の涙を見せまいとしているかのように。彼は少し前に聞いた言葉を思い出す。
(退屈な女より哀れなのは、か)
無論、どちらが哀れかなど、一概に判じられるものではあるまい。しかし、あの"写真モデル"の彼女は、少なくとも好きな人と一緒に居られるのだ。自分だって彼女と再会できるなら、どんな姿にされても構わないと思うだろう。
「でも、私よりもっと哀れなのは──」
泡が弾け、悲しいティー・パーティーが白い海に溶ける。彼はさらに沈んでいく。
次の泡が浮かんでくる。そこに映っていたのは、アシが生い茂る沼と、それを取り囲むコンクリートの壁と天井だった。一瞬戸惑うが、すぐにその正体に思い至る。これは財団の収容セル、それも内部に自然環境を再現したタイプだ。一面は強化ガラス張りになっており、研究者らしい女性が覗き込んでいる。
水面を蛙がすいすいと泳ぎ──水中からぬっと突き出された手が、素早く掴んで引きずり込む。それをもちゃもちゃと咀嚼そしゃくしながら現れたのは、緑色の人型実体だった。異様に細長い手足と膨らんだ腹部は、共に粘液で覆われている。奇々怪々な異常存在の中ではむしろ分かり易い、典型的なモンスターだ。
その様子を、研究者の女性は沈痛な表情で見つめている──およそ、財団の研究者が異常存在に向けるとは思えない。彼が思わず声を掛けようとしたら。
「アエ、ふこうなおんな、なんだって」
予想もしないところから、先に声を掛けられた。即ち、人型実体の口から。いつの間にか彼に向けられていた目、そこだけは奇妙に人間味があった。
「まえのアエ、みどりはだ、ちがった。そういったら、はかせ、アエがふこうだって」
アエと名乗った人型実体は訥々とつとつと語った。白い部屋で、白い服を着た人に注射をされ、気が付いたらこういう姿になっていたと。水面にぷかぷか浮かびながら、他人事のような口調で。
(何てひどい)
実験動物扱いの挙句、人外の存在に堕とされ、そんな我が身を嘆くことさえできない──確かに哀れだ、悲しい女より。彼女は少なくとも、涙を流すことは許されていた。今は傍にいなくとも、伴侶もいた。この緑肌の少女にはそれすらない。
「でも、私よりもっと哀れなのは──」
泡が弾ける瞬間、急に流暢りゅうちょうになったアエの声が聞こえた。沈みながら、彼は愕然としていた。彼女よりさらに哀れな女がいるのか、この海には。
然しかり。泡は次々と浮かび上がってくる。その内部に、さらにさらに哀れな女たちを映しながら。
「ゴホゴホッ、私ハ病気ノ女ナノ」
ベッドの上で咳き込んでいるのは、全身無毛の体長3m超の少女だ。本来は死産であったところを父の施術で救われたが、その副作用でこんな姿になってしまったらしい。その父も、最近は滅多に会いに来てくれないのだという。
「私は捨てられた女です~♫」
全身を白い薄布で覆った歌姫は、悲しげな歌声を響かせる。彼女はサーカスの花形スターだったのだが、ある日突然捨てられてしまったのだという。
「ぴぃぴぃ、私は寄る辺のない女なの」
半鳥半人の少女は、誰もいない路上で心細そうに囀さえずっている。
「はぁっ、はぁっ、わ、私は追われた女なの」
なぜかカオス・インサージェンシーのサイボーグ部隊に追われ続ける女性は、果ての見えない逃亡を強いられている。
〈件名・助けて! 私は死んだ女なの〉
助けようにもどこにもいない女性は、収容セル内のパソコンに虚しくメッセージを残し続けている。
泡が弾ける。その度に、彼女たちは必ずこう言い残す。
「「「でも、私よりもっと哀れなのは──」」」
(まだいるのか、さらに哀れな女性が)
なぜ世界は、こんなにも哀れな女性たちで満ちているのだろう。決まっている。我々男のせいだ。女性に甘えている癖に、決して対等に扱わない。そんな身勝手な男どもと、同じ世界に生まれてしまったばっかりに。すまない、すまない──。
沈む、沈む。水面越しに差し込む光は最早遥か遠く、周囲は闇に包まれている。
遂に海底が見えてきた。魚一匹おらず、槍のような山々が峯を連ねるばかりの、荒涼とした光景だ。人類の集合無意識の奥底に横たわる、無の深淵なのか。誰もがいつか還っていくこの場所に、彼女も還ったのか。自分も還るのか。
彼の身体が泡になって溶け始める。ああ、今まで見てきた泡たちも、こうして無に還った哀れな人魚姫たちの残滓だったのか。
(ようやく辞められる、生き物を)
虚無に身を委ねて、閉じようとした彼の瞳が。
(──!)
かっと見開かれる。
山腹にしがみつくように、家が建っている。立地条件を除けば、ごく平凡な民家だ。車庫には白いセダンがあり、小さな庭にはハナミズキが植えられている。玄関を潜ればダイニングキッチンが──待て、なぜ間取りが分かる。
(この家は──)
分かるはずだ。それは、彼が──冠城 真軌かぶらぎ まきが、以前に住んでいた家だった。
ぞわり。久しく忘れていた感覚が、冠城の全身を伝う。即ち、血も凍るような恐怖が。
(あ、ああ)
恐ろしい、恐ろしいのに、目が逸らせない。庭側の窓から、ダイニングキッチンを覗き込む。そこに恐怖の源があると分かっていながら。中から話し声が聞こえる。穏やかで、楽しそうな。テーブルには何冊ものアルバムが広げられ、二人の人物が覗き込んでいる。
他でもない、冠城自身と。
──彼の妹だった。
『これはいつ撮ったんだっけ?』
『いやだ、忘れちゃったの、お兄ちゃん? 日比谷公園にお花見に行った時よ』
ああ、そうだ。あの日は両親の命日だった。
GOCでの戦いの日々から、束の間離れて。妹と共にアルバムをめくりながら、亡き両親の思い出を語り合っていた。もう、両親の写真を見ても、葬式の読経や骨壷の軽さが生々しく蘇ることはなかった。両親の死から数年が経ち、ようやく思い出として客観視できるようになったのだ。
妹のお陰だと思っている。自分より一回り近く歳下だと言うのに、彼女は強い少女だった。二人でアルバムを見ようと提案したのも妹だった。彼が家中の写真をアルバムに封印してしまった後も、どうやらこっそり覗いていたらしい。そうでなければ、提案のタイミングを判断できるはずがない──自分だって辛かったろうに。
妹を正常な世界で生かすためにGOCに入ったが、精神的にはむしろ自分の方が妹に生かされていたのかもしれない。
分かっている。世間一般の兄妹なら、罵ののしり合いの一つぐらいするのが正常かもしれない。花の女子高生が浮いた話もなく、兄のために毎日手料理を用意している。それは両親の欠損を埋めるための代償行為なのだろう。でも、それもそろそろ卒業しなくては。
彼氏でも作ったらどうだい、自分に遠慮する必要はない。彼がそう言うタイミングを伺っていた時だった。
『あ、このソファー懐かしいわね』
(ソファー?)
どくん、冠城の心臓が跳ね上がる。正確には、窓から自身の過去を覗いている、現在の冠城の。
妹が見ているのは、ソファーに腰掛ける両親の写真だ。
『よく二人でこの上で跳ね回って叱られたよね。結婚記念に頂いた物なんだからって──あ、ごめんなさい』
何気ない日常の一コマ、だからこそ油断したのだろう。妹の瞳から一粒だけ涙が零こぼれた。
──そして、あんな結果を招いたのか。
(よせ、何も考えるな!)
ヴウンという奇妙な音が響いた。排撃班の任務で何度も聞いた、ヒューム値の偏りが空間を歪ませる音だ。風もないのに妹の髪が逆立つ。彼女の全身から広がったヒューム波が、テーブルの上でソファーに具現化し、アルバムを押しつぶす。
ソファーは写真に写っている物と同じデザインだった。それどころか、付属のクッションも、格子模様のカバーも、隅の破れ目も全く同じだった。つまり、これはあの思い出のソファーそのものだ──そう、両親共々、溶けた飴細工のように変形させられ、GOCの工作班によって秘密裏に処分された、あのソファーだ。
こんなことができる存在は、一つしかない。GOCの筆頭粛清対象。神のルールを侵す神気取りども。そして、彼にとっては両親の仇。即ち、現実歪曲能力者タイプ・グリーンしか。
『俺が最初に粛清したタイプ・グリーンは、指を鳴らすだけで相手をチョコレートに変える奴だった』
上官のヴァイトマン隊長の言葉が蘇ってくる。ムンクの〈叫び〉にそっくりだった、両親の死に顔と共に。
『分かるな? そんな敵を相手に、躊躇ためらいは一瞬たりとも許されない』
数百回、数千回と繰り返した訓練通りに、半ば自動的に懐の拳銃に(よせ)手が伸びて。
『たとえそれが、九歳の少年だったとしても』
困ったような顔でソファーを見つめる妹の後頭部に(やめろ)銃口を向けて。
(やめろおおおぉっ!)
引き金を引いた。念のため、三回。
(何だったのだろう、私の、そしてあの子の人生は)
両親を殺した世界の敵から、妹を守る。そのためにGOCに入ったのに、当の彼女が世界の敵になってしまった。
否、GOCは悪くない。タイプ・グリーンになる可能性は誰にでもあると、最初に説明されたではないか。妹だけは例外だなどと思い込んでいた自分が甘かったのだ。
妹の後追いだけは、ヴァイトマン隊長の懇願で思い止まった。自殺すらできない腰抜け、それが自分に相応しい肩書きだと思った。冠城は二度と銃を握れなくなり、GOCを辞職した。
いつの間にか家は消え去り、妹の死体だけが海中を漂っている。後頭部の銃創から、血煙を流しながら。無論、彼女はとっくに荼毘だびに付されている。家も売り払った。全てが失われた後も、記憶だけがいつまでも生々しい。まるで──写真のように。
(ああ、いっそ──いっそ?)
何だ、自分は今、何と思ったのだ。しかし、内省している暇はなかった。
ずずぅんという震動が海を揺るがした。巨大な影が海底山脈の合間から身を起こす。それは全長数千メートルに及ぶウツボだった。まるで、暗黒の海溝そのものが、生命を得て動き出したかのようだ。あるいは、神聖な竜と邪悪な蛇の、双方を生み出した原型アーキタイプなのだろうか。
ブラックホールのような大口を開き、妹の死体を飲み込もうと襲いかかる。そんな、思い出すらも奪おうというのか。冠城は妹の死体を抱えて泳ぎだす。凄まじい金属音と共に閉じられた牙を逃れ、必死で藻掻もがくが──ああ、水面はあまりに遠い。
「退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です──」
酸欠なのだろうか、何処からともなく女性の声が聞こえる。ああ、この声は、自分は退屈な女だと言っていた、写真モデルの──否、彼女の声だけではない。ヒアシンス侯爵夫人の、緑肌のアエの、今まで出会った哀れな女性たちの声が、連奏するように続く。
「悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です」
「不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です」
「病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です」
「捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です」
「よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です」
「追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です」
「死んだ女より もっと哀れなのは──」
そして、最終パートを担当したのは。
「──忘れられた女。私のことよ、お兄ちゃん」
妹の死体が漏らした、懐かしい声だった。
その口元は微笑みを湛えている。しかし、その瞳は見開かれたまま虚空を見つめている。もう二度と兄を見つめることはない。
(忘れられた女──この子が?)
どんな女より──それこそ、死んだ女より哀れな女。それが妹だというのか。
「何を言うんだ! お前を忘れる訳がないじゃないか」
それだけはしない。なぜなら、自分が妹にしてやれることは、記憶し続けることだけなのだから。そのためにGOCの"カウンセリング"すら拒否したぐらいだ。
だが、妹の死体は繰り返す。
「いいえ、お兄ちゃんは忘れているわ」
みしり。妹の頭に切れ目が入り──、
──ぱかりと頭蓋骨が外れ、脳が露出する。
そんな姿になってもなお、妹は微笑みを浮かべていた。
「検死したでしょう、私を」
「あ、あああ──」
そうだ──そうだった。
タイプ・グリーンの脳は高ヒュームを帯びている。死後すぐに検死すれば様々なデータを取れるため、対グリーン排撃班には医療担当も兼ねてその技術者を配属することが多い。冠城もその一人だったが、実際に行ったのはあの時が始めてだった。
はっと我に返る。時計を見ると、既に日が変わっていた。妹の死体を前に、何時間も呆然としていたらしい。いけない、急がないと検体が劣化してしまう。直前までの廃人ぶりが嘘のように、冠城はきびきびと動き始めた。
妹の死体を素早くバスルームに運び、検死に取り掛かった。妹の死を無駄にしないために、せめて有用なデータを残すために、
などでは断じてなく。
ただただ、一刻も早く確かめたくて。即ち、妹が確かにタイプ・グリーンであったことを。まさか、何かの勘違いと言うことは。
携帯用の検死キットで頭蓋骨を取り外し(めきょっ)、カント計数機の針を脳に刺し込み(ずぶりっ)、モニターが色鮮やかなヒューム紋を描き出すのを見て、ああ、間違いない、このパターンは典型的なタイプ・グリーンだと、安堵のため息をついて。
──そんな事実は何の救いにもならないことに、ようやく気付き。
過去と現在の冠城は、絶叫を合唱した。
(私は悲劇のヒーローなんかじゃない、妹の骸を弄もてあそぶグールだ)
妹の死を忘れまいなどと言いながら、都合良く粉飾していた。浅ましい。自分など、生まれてきたこと自体が間違いだとしか思えない。すまない、私の妹に生まれてしまったばっかりに。
冠城は逃げるのを止める。あのウツボに食われ、全てに忘れられるべきなのは自分だ。
「忘れてくれていいのよ、お兄ちゃんが前に進むためになら」
こんな兄に、妹はあくまで優しい。当然だ。これは彼に都合の良いことしか言わない、優しい鏡像にすぎない。
「どこへ行こうと言うんだ、お前を忘れて」
「それじゃあ、お兄ちゃんはどうして財団に移ったの?」
「え?」
何処からともなく、タタタという発砲音が鳴り響く。ヴァイトマン隊長の鋭い指示や、チームメイトたちの応答と共に。ナパーム弾の炸裂音。物騒で懐かしい、戦場の喧騒。彼らは今も戦っているのか。当然だ、自分が逃げ出したからといって、世界から異常存在が消えてくれる訳もない──そして、その犠牲になる人々も。
(そうだった、私は)
もう銃は握れない。けれど、何もしないでは居られなかった。だから、冠城は検死官として財団に移籍した。確保・収容・そして保護をモットーとする財団なら、いつかはタイプ・グリーンと共存する方法を見つけてくれるのではないかと、微かな希望を胸に。実際、財団はある程度タイプ・グリーンの収容に成功している。
GOCはそのやり方は、あまりに危険だと非難する。いつ爆発するかもしれない核爆弾を、いくつも抱え込むようなものだと。あんなことがなければ、冠城だってそう考え続けていただろう。
(ああ、それなのに、皆は──)
冠城は思い出した。私情であっさり財団に転んだ自分を、ヴァイトマン隊長やチームメイトたちは心からの笑顔で送り出してくれたのだ。どんな形であれ、彼が生き続けてくれることを喜んで。あばよサウィング、財団に行っても元気でな、任務中に出食したら手加減してくれよ──。
忘れていたのではない、そもそも受け入れていなかったのだ。グールの自分に、そんなものを与えられる資格はないと。忘れたい痛みは、忘れてはならない絆に繋がっていた。あたかも、パンドラの箱の底で、災厄と希望が繋がっていたように。
「お兄ちゃんってつくづく苦労性よね。私が生きていたとしても、そこは変わらなかったんじゃない?」
「そ、そうだね」
まるで、ソファーに座って歓談したあの日のように、兄妹は笑った。その泳ぐ速度はぐんぐん増し、いつの間にか忘却の大ウツボは遥か後方だ。
水面の光が近付いてくる。暖かいけれど、容赦のない明るさで、妹の死体はぐずぐずと溶け始める。そう、妹は現実の世界には、もう居ないのだ。それでも彼女を忘れたくないなら、方法は一つしかない。
冠城の全身が泡に包まれ、ノコギリザメへと姿を変える。GOC時代のコードネーム・サウィングのこぎりからの連想だろうか。どうせ自分はグールなのだ、毒を食らわば皿まで。鋭い牙が並ぶ口吻こうふんを振り乱して、妹の死体を切り刻む。四散する血肉を残らず食い尽くす。己の血肉にするために。
「お前を忘れられた女にはしない。一緒に行こう」
妹の記憶はようやく消化され、思い出になったのかもしれない。しかしそれは、生きた彼女との永遠の別れでもある。
サファイアの涙を零しながら、ノコギリザメは水面を目指す。いくつもの泡が彼を追い抜いていく。中に映る女性たちの表情が、少しだけ晴れたように見えるのは気のせいか。
──お兄ちゃん。私を忘れたくないなら、まず自分を忘れないで。
──私や、皆と、一緒だった頃の自分を。
──私たちは、そこに居るから。
夢と現を隔てる水面を切り裂いて、ノコギリザメは眩まばゆい目覚めの世界に飛び出す──。
ぱしゃり。
カメラのシャッター音に反射的に身を竦すくめるが、以前のように気分が悪くなることはなかった。少しは慣れたのだろうか。
サイトの検死室は、今日もステンレスと薬品と血の匂いに満ちていた。幸いにも、検死台に乗せられているのは人間の死体ではない。サイト近郊の牧場で見つかった牛の脚部だ。切断面は溶けて癒着している。手際よくその様子を写真に収めながら、助手のエージェント・八岩はちがんは首を捻っている。
「うーん、切断はともかく、この溶けたような痕は一体──」
「もしや」
冠城は検死室備え付けのパソコンを操作し、検索窓を呼び出す。過去十数年分の膨大な検死データを検索するための、日付、発見場所、大まかな死因分類、検死担当者、必要セキュリティ・クリアランスなどの細々とした絞込み条件──を全て無視して、ファイルナンバーを直打ちする。
表示された画像を見て、八岩があっと声を上げる。それは人間の腕だったが、切断面の溶け方が検死台上の牛とそっくりだった。
「SCP-312の犠牲者です。こうして、消化しきれなかった部位を吐き出す習性があるんです。まさか日本にもいたとは」
「──これ、十年前の、しかもアメリカの事例ですよ。どうして分かったんですか?」
「覚えていましたので」
「お、覚えていたって、まさか──過去のデータを全部!?」
「はい」
さらりと答える冠城に、八岩が目を丸くする。
「うへえ、どういう記憶力してんだ」
「いえ、大したことでは」
諜報室への報告を終え、コーヒーで一息入れながら、冠城はふと思い出した。
「そういえば八岩さん、機動部隊の入隊試験はどうしたんですか?」
先日、機動部隊さ-9の一瀬いちのせ隊長が入隊試験を告知していた。はっきり口には出さないが、陸自出身で本来はバリバリの武闘派の八岩が、もっと前線に出たがっていることは感じていた。少なくとも、検死官の助手兼カメラマン──という名の監視役などに甘んじていたくはないだろう。
てっきりそう思っていたのだが、八岩は特に準備を始める様子もない。
「ああ、今回は見送りました」
「おや、それはまたどうして?」
八岩は一瞬口ごもり、もごもごと続ける。
「──冠城さんに恩返しするまでは、ここを離れないと決めたんです」
「え? 何かして差し上げましたっけ」
「いや、助けてくれたでしょう、動く死体から!」
そんなこともあったか。検死中の死体が突如暴れだし、危うく八岩が絞め殺されそうになったのだ。冠城が死体の手足の腱をメス一本で切り裂いて、事なきを得たが──GOC時代に身に付けたナイフ術の応用だ。
そう言えば、あの頃から八岩の態度が、微妙に変わったような気がする。自分などには勿体無いぐらい丁寧な物腰だったのに、何だかざっくばらんになって──猫を被り続ける程の相手でもないと、見切られたのだと思っていたのだが。
(そうか、感謝されていたのか──)
少し前までの彼には、想像も出来なかっただろう。自分が誰かに感謝されるなんて。
「まったくぅ、仕事のことはよく覚えてる癖に。そりゃあ、冠城さんにとっては、俺の決意なんかどうでもいいでしょうけどね~」
「そ、そんなことはないですよ。すいません、もう忘れませんから」
──そう、忘れないと約束したのだから。
「ところで、昨夜はどこへ行っていたんです? いや、監査部が把握しとけってうるさくて」
思わず苦笑する。正直な監視役もあったものだ。
「ええ、蒼井さんに飲みに誘われまして。GOC時代に一緒に働いたことがあるんです」
「へえ、そうだったんですか。あの人、写真が趣味で、たまにアドバイスを求められるんですよ。顔に似合わず、綺麗な写真を撮るんですよねえ」
そうだ、蒼井には礼を言わなくては。彼のおかげで思い出せたのだから──何を?
(ああ、いけない。また忘れているなぁ──)
マイ・シンの海の底で、蒼井は女性の死体と対峙していた。
「私を忘れてしまったの?」
額に開いた銃創から血煙を漂わせながら、女性の死体は呼びかける。恨むでもなく、嘆くでもなく、淡々と。応える蒼井の声は、彼女以上に無感情だった。
「ああ、忘れたな、お前なんぞ」
袖仕込み銃スリーブガンで女性の死体を撃ち抜く。女性の死体が泡と化し、マイ・シンの海に溶ける。
海底の山々の合間から、大ウツボが身を起こす。迫る口と牙から、蒼井は逃げようとしない。なぜなら、ウツボの頭部は彼の顔をしていたからだ。両目から止めど無くルビーの血涙を流している。
己が罪の業苦に耐えかねて。
「戸神とがみ、お前は──」
飲み込まれる寸前、蒼井は愛弟子の名を呼んだ。恋人を忘れ、彼女を愛した自分すら葬っても、その名だけは捨てられなかった。
「俺みたいになるなよ」