
民さんは野菊の中へ葬られたのだ。僕はやうやく少し落着いて人々と共に墓場を辞した。
伊藤左千夫『野菊の墓』
仏壇の鈴りんを鳴らす。
天井に這い登つていく線香の煙が、一瞬だけ揺らめいた。
布団に寝かされた母を囲む屏風は、上下逆さに立てられてゐる。この地方一帯に伝わる、逆さ屏風と呼ばれる風習だ。遺体に悪霊が入り込むのを防ぐ為に行われる。
無意味だと國義くによしは思つた。
がらんとした家の中には、たゞ虚無だけが蟠わだかまつてゐる。囲炉裏を囲む居間にも、合掌造りの天井にも、長櫃ながひつが積まれた蔵にも、何者も居はしない。最後の住人を失い、この家はとうとう抜け殼になつてしまつた。
母の亡骸の前に、國義は娘のやうにぺたんと腰を落とした。どうしてこうなつた。この家の虚無を満たす為に、自分は戦つてきたはずなのに。何故、母は一人寂しく死んでいかなければならなかつた?
その顔に被せられた打ち覆いに、國義は義躯腕をそろそろと伸ばす。津軽焼きの花瓶に活けられた菊が、凛とした芳香を放つてゐる──國義を咎めるかのやうに。

母は優しい人だつた。
祝い事の度に、國義の好きなおはぎを作つてくれた。冬が近づけば、毎年新しい藁沓わらぐつを編んでくれた。遠野町の呉服屋に反物を納めに行く時は、必ず國義も同行させてくれた。町の活動写真館で見る稲妻強盜シリヰズが、幼い國義の何よりの楽しみだつた。
國義が悪さをしても、他家の母親のやうにどやしつけたりしない。他人に迷惑が掛かる場合のみ、静かに窘たしなめる程度だつた。普通なら、甘やかされて弛たるんでしまうだらう。しかし、國義はそうはならなかつた。分別が付く歳になると、母を困らせるやうなことは一切しなくなつた。幼心にも分かつていたからだ。
母がこんなににも優しいのは、父が居ないからだと。
國義の亡き父は陸軍の軍人だつた。御國のために立派に戦い、殉死したのだと云いふ。殆ほとんど覚えていないが、その存在はいつも感じていた。仏壇に飾られた遺影を見る度に。外で父子連れを見る度に。深々と雪が降りしきる夜、母と囲炉裏を囲む度に──彼女はふと縫ぬい物の手を止め、國義の隣をじつと見つめることが良くあつた。そこに誰かが居るかのやうに。
否、母が見ていたのは、父の幽霊などではない。父の形にくり抜かれた虚無そのものだ。それは母子がどんなに仲睦むつまじくとも、決して埋まることはない。塞げない壁の穴のやうに、絶えず冷たい隙間風を吹かせ続けた。
母が近所のお節介連中の勧める再婚を、全て断わつてしまう理由も國義は気付いていた。この虚無は代用品では埋まらない。その役が務まるのは、父の子である自分だけだと。
父のやうになれとは、母は一回も云はなかつた。だから、國義は自分から告げた。父と同じ軍人を目指すと。
──気の所為せいだつたらうか。息子の決意を聞いた瞬間、母がとんでもない過ちを犯してしまつたやうな顔をしたのは。
「よぐ決めだね。父つちやんも草葉の陰で喜んでらよ」
一瞬後にはそう云つて、今夜はお赤飯にすんべえがと微笑む母を見て、やはり自分の気の所為だつたと國義は思ふことにした。
学費の心配は要らないと、母は父の遺産を切り崩し、それでも足りない分は、夜遅くまで機織り機に座つて捻出してくれた。その苦労に応えやうと、國義は我武者羅に学んだ。その甲斐あつて中学校を首席で卒業した彼は、校長の推薦で士官学校に入学できることになつた。
「東京の士官学校は全寮制だんて、下宿の心配はいらねあよ」
──東京?
そう、この時初めて國義は、親元を離れなければならないことに気付いたのだつた。

帝都の中枢は 丸の内
日比谷公園 両議院
いきな構えの 帝劇に
いかめし館は 警視庁
帝都東京の輝きは、いつかラヂオで聞いた東京節そのまゝ──否、それ以上の眩まばゆさだつた。
建造中にも関わらず、既に三百メエトルを超えてゐる凌雲閣。中央大通りを悠然と進む、戦艦のやうな大市電。ハイカラ美人の立体映像が陳列窓に並ぶ百貨店。淺草の新花屋敷ではコオスタアが宙を舞い、カフエエからは夜遅くまで女給たちの嬌声が絶えない。
星々のやうに立ち並ぶガス灯の光、光、光。それに誘われた蛾のやうに行き交う、人、人、人。
しかし、何より國義の印象に残つたのは、幾条ものサアチライトに照らされる宮城だつた。近衞兵が警備する朱塗りの大橋。正面に掲げられた黄金の菊花紋。極楽淨土を思わせる鞠菊の花園。それらが大河のやうな御堀に鏡写しになる様は、まさに帝國の象徴に相応ふさわしい。
あそこに神格機関になられた天皇陛下が坐ゐますのか。
國義はぼんやりと思つた。一体、誰があの完璧な威容を脅かすと云ふのか。自分如ごときに、今更何の貢献が出来るだらう──慌てて迷いを振り切る。ウンと励んで将官ぐらゐになれば、拝謁が叶うかもしれない。そうすれば、母にとつても最高の栄誉になるだらう。
──お國の為に戦えるかどうかは分からない。しかし、母の為に戦うことは確実に出来る。
國義は士官学校でも精進を続けた。百年式歩兵銃を背負つての、果てしない行進演習にも根を上げず、寝台にまで教書を持ち込んで、軍規や戦術を頭に叩き込んだ。華族のボンボンの苛めには辟易へきえきしたが、剣術の試合でコテンパンにしてやつたらピタリと収まつた。そして、彼は同級生のみならず、先輩や教官からも一目置かれるやうになつた。
厳しくも楽しい青春の日々は、あつといふ間に過ぎ──それは、最後の学年でのことだつた。
同級生に「お前は真面目すぎる、少しは遊びも覚えろ」と云はれ、夜の繁華街に連れ出された。美人の女給が揃つてゐるカフエエを教えてやると云はれ、迷惑半分期待半分で随ついて行くと、奇妙な光景に出食わした。
柳が揺れる千鳥ヶ淵の側で、派手な銘仙を粋に着こなした女がシクシクと泣いてゐる。顔を両手で覆つていたが、雰囲気だけでも美しいと分かつた。同級生が下心丸出しでどうしましたと声を掛けるが、國義は近づく気にはなれなかつた。何処どこからともなく湧き出した霧が女の足元を流れる様が、応挙の幽霊画のやうで。
女がゆつくりと振り返り、手を下ろす。同級生が悲鳴を上げて腰を抜かした。女の顔には、目も口も鼻もなかつた。
女、否、のつぺら坊が同級生ににじり寄る。あのやうな顔にも関わらず、獲物を狙う猛獣のやうな殺気だけは感じ取れる。のつぺら坊が同級生に飛び掛る。接吻するやうにお互いの顔を密着させる。いや、違ふ。國義には分かつた。あれは食らい付いてゐるのだ。
ドサリと投げ出された同級生が、ビクビクと痙攣けいれんする。その顔を見て、國義は息を呑んだ。同級生の顔から、全ての部品が失われていた。痙攣するのも道理、これでは呼吸が出来るはずがない。ゲタゲタといふ笑い声に慌てて顔を上げると、のつぺら坊が同級生の顔で狂つたやうに笑つていた。顔を盜まれた──そうとしか思へない光景だつた。
國義は官給品のサアベルを抜き放つた。深く考へてのことではない。たゞ、このまゝでは友人が死ぬのは確実だ。母から教わつた念仏を唱え、横薙ぎにサアベルを一閃する。
のつぺら坊の上半身と下半身が泣き別れた。一瞬後、濁つた煙に包まれ、ヒラヒラと紙片に変わる。
それは二つに切り裂かれた新聞紙だつた。〈帝都の怪、千鳥ヶ淵にのつぺら坊現る!〉といふ胡散臭い見出しが目に入つた。大方、受け狙いで書かれた埋め草記事だらう。國義は困惑した。この記事が真実だつたと云ふのか。だとしても、何故切られたのつぺら坊が新聞紙に化ける? 抑そもそも、この科学の世紀に妖怪などゐるものか──。
ゲホゲホと同級生が咳こみ、國義は我に返つた。彼の顔は元通りになつていた。兎も角、宿舍に帰らうと肩を貸してやつたところで、カツカツと硬い足音が近付いてきた。軍靴を履いてゐると、國義には分かつた。
「オイ、この辺りで怪しい女を見なかつたか!?」
路地裏から現れた軍人たちが、居丈高いたけだかに詰め寄つた。その腕章に憲兵と書かれてゐるのを見て、同級生が震え上がつた。軍の規律維持や防諜を主任務とする兵科であり、云はば軍の警察だ。一般の軍人にとつては、畏怖の象徴──なのだが、國義は何ら疚やましい覚えはないので、正直に経緯を説明した。同級生が止せ止せと脇を突くのを無視して。
憲兵たちは切り裂かれた新聞を手にヒソヒソと囁ささやき合つていたが、やがて國義たちに向き直り、憲兵隊本部まで同行するやうにと云つた。同級生は処刑場に連行すると宣告された囚人のやうな顔になつたが、國義は落ち着いていた。憲兵たちの声と表情が、大分柔らかくなつてゐることに気付いて。

國義たちを乗せた軍用車は、帝冠様式──洋風の建物に和風の屋根を乗せた和洋折衷せつちゆう様式──の堂々たる佇まいの建物の前に停車した。ここが憲兵隊の帝都本部らしい。
國義は同級生とは別の部屋に通された。応接室だらうか、落ち着いた内装の洋室だつた。茶を出してくれた事務係の女性が、自動人形だと気付いて驚く。どう見ても、人間としか思えぬ精巧さだった──唯一箇所、感情のない玻璃ガラス球のやうな眼を除いて。いくら便利でも、あの眼に四六時中見られながら生活するのはゾツとしないなと思つた。
やがてドヲアが開き、立派な口髭の軍人が入つてきた。立ち上がる國義を笑顔で制して、軍人は小泉少佐と名乗つた。話は聞いてをる、勇敢な若者だと褒められ、國義は大いに恐縮した。一人だつたら逃げていたと正直に告白すると、小泉は益々笑みを深くした。
「しかも謙虚。父上にそつくりだ」
目を丸くする國義に、小泉は懐かしさうに語つた。自分は國義の父の同僚だつたのだと。そう云へば、父が陸軍の所属だつたとは聞いていたが、兵科までは知らなかつた。父は憲兵だつたのですかと聞くと、小泉は少々違ふと答えた。
「表向きは通常の憲兵として振舞つてをるが、実際の任務は──」
途中で言葉を切つた小泉の後を続けるやうに、憲兵たちが入室してきた。机に標本箱のやうな箱を置く。中にはあの切り裂かれた新聞紙が収められていた。箱の表面にはベタベタと札──晴明神社の物らしいが、詳しくは分からない──が貼り付けられ、恰あたかも邪悪な何かを封じてゐるかのやうだつた。
「全く、三流新聞が。余計な仕事を増やしおつて」
我々はこれを妖怪記事と呼んでゐる、と小泉は溜息混じりに云つた。信頼性より娯楽性を優先する新聞が、このやうな記事を載せるのはよくあることだが、それは読者の念──ひよつとすると、このやうな妖怪がまだ居るのかもしれない、居るのなら見てみたいといふ思ひを凝縮させ、しばしば本当に妖怪を出現させてしまうのだと云ふ。
信じられぬやうな話であつた。しかし、信じるしかない。何せつい先程、己が目で見てしまつたばかりなのだから。
「妖怪記事ばかりではない。この國の闇には、科学の理が通じぬ者共、陛下の御威光にさえ平伏さぬ輩がひしめいてをる」
そのやうな怪異を人知れず封じ、日本の平安を守つてきたのが、安倍晴明で有名な陰陽寮に起源を持つ《天道総帥直属秘匿機関帝國異常蒐集総院》通称《蒐集総院》だ。しかし、近年になると、蒐集総院だけでは難しくなつてきた。日々増加する帝國民や新聞社の目から、怪異を隠し通すことは容易ではない。
そこで創設されたのが、小泉たちの所属する《特別憲兵》だ。蒐集総院の命を受け、その目となり耳となり手足となり、時には代理人にもなり、怪異に対処する。帝國民が光の下で健やかに暮らせるやう、自らは闇の中で戦い続ける。
──父もそうだつたのか。ほとんど記憶にないその姿を、ぼんやり想像する。煌きらめくくサアベルを構え、怪異に立ち向かう背中。その毅つよき血がこの身にも流れてゐるのか。
ずんと肩が重くなるこの感覚は、誇らしさ──なのか?
「短刀直入に言おう。お父上の跡を継いでみないか?」
小泉にそう云はれても、國義は驚かなかつた。何故か、ずつと前から知つていたやうな気がして。この時が来ることを。自分に務まるでせうかと独り言のやうに問ふと、小泉は自信を持ち給えと肩を叩いた。
「殆どの人間は、怪異を目にするだけで腰を抜かしてしまふ。君のやうに立ち向かえる者は希だ。それだけでも十分素質がある」
國義は窓の外に視線を逸した。雲間に煌々こうこうと月が輝いてゐる。故郷の母も今頃、同じ月を見てゐるのだらうか。父の形をした虚無が空いた家で、たゞ一人。
考へる時間が欲しいと請い、宿舍に戻つた。翌朝、食堂で同級生に会つたが、昨晩の出来事は何も覚えていなかつた。その日はひたすら素振りをして過ごした。
結局、國義が迷つていたのは一日だけだつた。憲兵隊本部を再訪して、小泉に入隊の決意を告げた。否、迷つていたのではない。迷つていない己を確かめたかつただけだ。
父の代わりになり、我が家の虚無を埋める。元より、そのつもりで帝都に来たのだから。

憲兵になるには本来は二年以上の軍歴が必要だが、特別憲兵は例外だつた。國義は卒業と同時に敍任された。
敍任式は蒐集総院の帝都分院で行われた。特別憲兵の心得を説く司令官の背後で、壁に掲げられた菊花紋が居並ぶ新兵たちを見下ろしてゐる。しかし、國義はそれを見上げることが出来なかつた。
お前は本当にこの紋に仕える気があるのか、母の気を引きたいだけではないのか、燦然さんぜんと輝く菊花紋にそう見透かされてゐるやうな気がして。

特別憲兵の任務は楽ではなかつた。一見すると平和な帝國において、最前線で戦う唯一の軍人が彼らなのだ。歴戦の先輩たちに助けられながらも、國義は己の役目を全うし続けた。超文轉送網デンポウネツトの噂に耳を傾け、機走馬や浮揚二輪ホバアバイクで怪異の現場に駆け付け、退魔の祝詞が刻まれたサアベルを振るつた。
スペインバチルスに感染し、スペイン語で喚きながら暴れる自動人形を制圧した。
外國人の振りをして、言葉巧みに少女を船に乗せやうとする異人を退治した。
帝國劇場の舞台裝置が暴走して、物語に取り込まれてしまつた宝塚少女夢劇団のスタアを救出した。
國義は順調に手柄と昇進を重ねた。上官になつた小泉にも褒められた。
「イヤ、推挙した吾輩も鼻が高い」
そう云つて貰えるのは、國義も純粹に嬉しかつた。母に手紙で報告──無論、詳細は伏せたが──する度に、大量のおはぎと共に「お前は我が家の誇りだ」と返事が届いた。やはりこれで良かつたのだと、國義はやうやく思へた。動機が何であれ、自分は人々の役に立つてゐる。母を喜ばせてゐる。

少々複雑だつたのは、同じ人間との戦いだつた。そう、特別憲兵の敵は怪異のみではない。怪異を利用して悪事を働く輩とも戦わねばならないのだ。
その日、國義は東弊舍の社長の護衞任務に就いていた。社長の乗る自動車を、特別憲兵たちが囲んで慎重に進む。 特高警察に潜入してゐる同僚が、夏鳥思想連盟の構成員が社長の暗殺を目論んでゐると報告してきたのだ。
あらゆる進歩を退廃と断じ、江戸時代への回帰を叫ぶ夏鳥思想連盟──小泉に云はせれば、旧士族の負け惜しみださうだが──は、外来語が読めなくなる感染呪詛ミイムの散布などの犯行を重ねてゐる。帝國有数の工業会社である東弊舍は、彼らにとつては正に退廃の象徴だらう。
なるべく社長には出歩かないで欲しかつたが、この日は陸軍省での外せない会談があるらしい。何でも自動人形の技術を応用した、画期的な医療を軍に導入する計画があるとか──。軍の為とあらば、軍人としては止める訳にもいくまい。
新宿の庁舎に到着し、社長が自動車から降りた瞬間、群衆から悲鳴が上がつた。はつと振り向いた國義は、異常に細長い狼のやうな獣が、何匹も宙を舞つてゐるのを見た。夏鳥思想連盟の妖術師が使役する犬神だ。
社長は慌てて車内に戻らうとしたが、出迎えたのは運転手の頭部を食い千切つた犬神だつた。腰を抜かす社長を自動車から引きずり出しながら、國義は拳銃を抜き放ち、犬神に破術弾を見舞つた。一発、二発、黒い血を流しながらも、犬神は倒れない。短剣のやうな牙で足に噛み付かれる。四発、五発、やうやく犬神が動かなくなり、黒い塵と化して消滅する。
戦況を見渡す。同僚たちは逃げ惑う群衆によつて分断されてゐる。そんな彼らを嘲笑うやうに、犬神たちは社長の頭上を飛び回る。帝國の工業の未来を担う人物を守れるのは、自分しかいない。弾が尽きた拳銃を捨ててサアベルを構える國義に、犬神たちが稲妻の如く襲い掛かり──。
気が付くと、國義は病院のベツドに寝かされていた。
慌てて起き上がらうとしたが、足が妙に重い。そう云へば足を負傷した覚えがあるが、余程きつく包帯を巻いてゐるのだらうか。困惑してゐると、病室に小泉が入つてきた。真つ先に任務の成否を訊く國義を、お手柄だつたなと労う。本人は覚えていないが、彼は犬神どもに噛み付かれながらも、サアベル一本で奮戦し続けたのだと云ふ。
おかげで社長は無事だつたが、國義の両足は──。
「犬神どもに繰り返し噛まれてひどい有様でな。残念ながら切断せざるを得なかつた」
切断、足を、両方とも。國義はその言葉を、どこか遠くで響いてゐるかのやうに聞いた。つまり、自分は最早戦えない、退役するしかないのだと、理解は出来ても実感には結び付かぬ。フワフワと体が虚空に浮かんでゐるかのやうだ。父の代わりにはなれぬ、母に何と云へば──。
だが、彼方を彷徨さまよつていた國義の魂は。
「ナニ、心配はいらん。社長が君にいたく感謝してな。会社の試作品を無償で提供してくれたのだ」
そう云つて小泉が毛布を下ろした途端、肉体へと引きずり戻された。
──國義の両足は機械になつていた。
「義躯ギクと云ふ。失はれた手足を、自動人形の部品で補う技術だ」
部品、自動人形の──あの感情のない玻璃球の眼を思ひ出す。つまり、自分は既に、足から下は自動人形と同じなのか。
改めて、己の両足を見る。ゴツゴツした外殼の隙間から、筋繊維のやうなワイヤア束が覗き、関節部分には無数の歯車が組み合わされてゐる。大腿との接合部がどうなつてゐるのか、恐ろしくて想像も出来ぬ。人の尊厳が機械に侵食されてゐる。これまで彼が戦つてきた、どんな怪異よりも悍おぞましかつた。
戻してくれと叫びさうになるのを、懸命に堪える。
「慣れるまで多少は時間が必要だらうが、マア、君なら直ぐに復帰できるさ」
気楽さうに笑う小泉の顔が、グニヤグニヤと歪んで見えた。どうして平然としていられるのだ。慄然としかけて、思ひ出す。父が──殉職したことを。
そうだ、小泉にとつて、特別憲兵にとつて、死は何ら特別なことではないのだ。況ましてや、両足が機械になるくらゐ如何程いかほどのことであらう。寧むしろ、これまで五体満足でいられたことが幸運だつたのだ。
どうして自分はそうならないと思ひ込んでいた。
「直に盆だな。どうだ、静養がてら里帰りしてみては」
見せられる訳がない、こんな姿を母に。
“お母さんへ、申し訳ありません。今年は任務の都合で帰れさうもありません。”國義は仕送りに添える云ひ訳の手紙を、早くも脳内で書き始めていた。
しかし、今年はいいとして、来年からはどうすれば?
“予告状、×月×日午前零時、 帝室博物館に大日如来像を頂きに参上する。怪盜ノウバデイ。”
帝都民でその名を知らぬ者はいない。狙う獲物は全て国宝級。犯行前に必ず予告状を送りつけ、厳重な警備を敷かせながら、まるで透明人間のやうに潜り抜けて盜み出す。その素顔を見た者すらないことから、付いた渾名が何者でもないノウバデイ。かの怪盗が犯行を重ねるごとに、新聞各紙は英雄のやうに誉めそやし、帝都民は密かに警察の無能を嘲笑つた。
これ以上、威信を傷付けられてなるものかと、警察は博物館の中も外も警官で埋め尽くして、ノウバデイを待ち受けたが。
「ヤヽ、ないぞ!」
「はてな、いつの間に!?」
時計の針が零時を示した瞬間、防弾硝子製のケヱスの中から如来像は煙のやうに消えてしまつた。蜂の巣を突いたやうな騷ぎになる博物館。その屋根から飛び立つ黒い影に、博物館を取り巻く野次馬たちは誰一人として気付かない。蒐集総院から支給された記憶補強の秘薬を飲んでゐる、國義たち特別憲兵を除いて。
──やはり、隠匿呪詛アンチミイムを使つてゐる。確かにこれは我々の案件だ。
追跡を開始した同僚たちを、國義があつと云ふ間に追い抜く。屋根から屋根へと、バツタのやうに飛び移りながら。義躯の足はバネ状に撓たわんで驚異的な跳躍力を生み出すのみならず、足裏を車輪に変形させて疾走することも出来る。東弊舎の社長は好意のつもりか、多機能な最高級品を誂あつらへてくれたのだ。
背後から、同僚たちの頼もしさと痛ましさの入り混じる視線を感じ、國義は居たたまれぬ。いつそ排斥される方が気は楽だ。しかし、今は使へる物は使わなければ。
黒い影はどうやら超小型の飛行機のやうだ。郊外の緑地帯に降りてゆく。木々の合間から大きな洋館が見えた。さてはあそこが隠れ家か。同僚たちの到着を待つべきかと思つたが、グズグズしてゐたら逃げられてしまふ。怪盜ノウバデイ、またしても警察を翻弄す。そんな記事を書かれては、警察の威信どころか帝國の秩序まで揺らぎ兼ねない。
洋館の二階に明かりが灯るのを見て、國義は弾丸のやうに飛び込んだ。義躯脚で窓硝子を粉碎して侵入すると、果たしてがらんとした居間の中央に如来像が据ゑられていた。その前に灰色の洋裝を纏まとつた男が佇んでゐる。そう、男だとは分かるのだが、それ以外は印象がぼやけてどうにも形容し難い。秘薬でも打ち消せないとは、何と強力な隠匿呪詛だらう。
動くなと拳銃を構える國義に、灰色の男──怪盜ノウバデイは全く動じない。窓から差し込む月光を浴びて、何やら嘆息してゐる。
「怪しげな薬に、機械の足だと? 違ふ違ふ、そんな力技では駄目だ。もつと頭脳を使ひ給え。折角せつかく、帝都のあちこちに手掛かりを残しておいたと云ふのに」
手掛かり? そう云へば、最近怪しげな事件が起きてゐると云ふ報告があつたが──街中に大猿が現れたゞの、火星人に拐われさうになつたゞの──あれもこいつの仕業だつたのだらうか。
「アヽ、明智君。我が愛しの宿敵よ。この永遠の大正世界では、やはり君は生まれ得ないのか」
悲しげに呟くと同時に、ノウバデイが怪鳥の如く飛び上がる。月光に透明な洋琴ピアノ線らしきものが浮かぶ。昇降裝置で天井からぶら下がつてゐるのだ。天窓から身を躍らせる灰色の影を、國義は義躯脚で追おうとしたが。
轟音が館を揺るがした。破れた窓から、立ち上る黒煙と、舞い散る火の粉が見えた。爆弾が仕掛けられていたのだ。慌てて如来像を抱える。重い。抱えたまゝでは、義躯脚での跳躍は無理だ。どうにか階段を降りる國義に、続く轟音と業火が追い縋すがる。一階の居間に降りたところで、同僚たちの声が聞こえてきた。助かつたと、僅かに気を抜いた瞬間。
頭上から空気を押し退ける気配。はつと見上げると、天井が崩れ落ちてくるところだつた。國義は抱えていた如来像を、咄嗟とつさに玄関の方に投げ出し──ずん、両手に圧倒的な重量が掛かり。
気が付くと、國義は病院のベツドに寝かされていた。猛烈な既視感を覚えてゐると、案の定小泉が病室に入つてきた。
「お手柄だつたな。お陰で如来像は無事だ。手なら心配いらん。ちやんと動くだらう?」
今度は両手が義躯になつていた。
──今年の盆も、帰郷出来さうにない。

掛けまくも畏かしこき大 日 神 社おおひのみやしろ・天 岩 戸 神 社あまのいわとのみやしろ・出 羽 神 社いではのみやしろの大 前おおまえに、恐かしこみ恐しこみも白まうさく、迷夢払い、闇夜払い、豊 葦 原 中 国とよあしはらのなかつくにに夜明けをもたらし給え──
大日教の本山となつてゐる屋敷からは、今日も信者たちの祝詞が絶えない。大層な名前だが、帝都に蔓延はびこる新興宗教の一つに過ぎない。しかし、その勢いはかなりのもので、信者数はすでに一万人を越えてゐる。警察はつい先日、不敬罪で取り潰しを決定した。
大日教の教祖は神話の天岩戸を発見したと称し、現世はその中で眠る天照大御神の見てゐる夢に過ぎないと説いてゐるのだ。彼女を目覚めさせ、真の世界を取り戻すべし──大日教はそう主張する。警察の判断も無理からぬことではあつた。全てが女神の夢なら、その子孫たる陛下はどうなると云ふのか。
それでも狂信者の妄想なら、特別憲兵の出る幕ではない。はずだったのだが、蒐集総院から直々に天岩戸の回収命令が下り、小泉も困惑してゐた。ご丁寧にも、大日教幹部の一斉検挙に同行出来る様、手筈てはずまで整えた上で。
蒐集総院は天岩戸とやらに心当たりがあるのではないかと、國義は推測した。しかして、ひどく警戒してゐる──まあいい。自分としては、命令には従うのみだ。
國義は圧縮蒸気が生み出す義躯腕の力で、屋敷の門をぶち破る。周囲で警官たちがギヨツとする──自分のやうな化物は、特別憲兵でなければ何処にも居場所はないのだから。
教祖や幹部たちの捕縛は警官たちに任せて、國義たちは信者たちが本殿と呼ぶ離れに向かう。事前の調査では、天岩戸はそこにあるらしい。入口には見張りの信者が立つていたが、國義が高圧電流を帯びた義躯腕で一撫ですると、あつさり気絶した。
注連繩が張り巡らされ、紙垂かみしでが揺らめく室内に、巨大な岩が安置されていた。その周囲には玉串や様々な和楽器が散乱してゐる。さては岩戸開きの神話を再現しやうと、歌舞音曲を捧げていたのか。どう見ても只の岩だが──國義がそう思つた瞬間。
岩の表面に亀裂が走り、高熱を伴う眩い光が溢れ出した。恰も、光り輝く何かを内包してゐるかのやうに。そんな、まさか本当に──光はますます強くなり、熱に晒された紙垂が燃え始める。まづい、逃げろ、國義が同僚たちに叫ぶと同時に、視界が真つ白に染まり、次いで闇に閉ざされた。
國義が目を覚ますと、最早馴染みの病院の天井が見えた。
「あの岩は蒐集総院が責任を以て封印してくれるさうだ。全く、我ゝにロクに説明もせんで──。ところで、義躯眼の調子はどうだ? 暗視機能や望遠機能も付いた逸品らしいぞ」
嗚呼、今年も──。

鏡の前に立ち、変わり果てた己の姿をじつくりと眺める。
金属の両手が生えた傷だらけの胴体が、鉄柱のやうな両足に支えられて浮かんでゐる。無残に焼け爛たゞれた顔で、感情のない玻璃球の眼が冷たく光る。そう、小泉から運命を告げられたあの日、初めて目にした自動人形の眼にそつくりの。或あるいは、國義自身の未来の姿であつたらうか。
義躯腕に煙草の火を押し付けてみる。当然ながら、何も感じぬ。存在するのに、存在しない己の腕。湧き上がるのは、後悔でも自嘲でもなかつた。たゞたゞ、圧倒的な──虚無感だつた。
虚無だ。
虚無だ。
身体が、魂が、虚無に食われていく。
背後で父の亡霊が嘲笑つてゐる。どうした、喜べ。父のやうになりたかつたのであらう。我も手足を失い、両目を奪われ、最後は虚無に飲まれたのだ。お前ももうすぐそうなるぞ。
特注の黒い覆面と外套に身を包み、義躯を、己を、全てをその下に隠す。いつしか國義は、母への仕送りに手紙を添えなくなつていた。
しかして、数年後。一通の電報が届いた。
ハ ハ キ ト ク ス グ カ エ レ

小泉に休暇取得の手続きを任せ、最新式の夢汽車に飛び乗る。
煙突から吹き出す虹色の夢幻粒子が、車体を包み込む。こうして周囲の現実を希薄化させ、山を透過し、空中を飛翔することも出来るのだ──試作段階では夢幻転換エンジンの暴走で、銀河系の彼方まで飛んでいつてしまう事故が起きたが──故郷の最寄り駅へは二時間もあれば着くらしい。
車窓から虹色に霞む景色を眺めながら、國義は今更ながら後悔を噛み締めていた。その気になれば、すぐ帰れる距離だと云ふのに──その一方、この期に及んで、まだ母に会うのを躊躇ためらう自分もゐる。
夢幻粒子が車内にも入り込む。空いてゐるはずの隣席から、楽しげな笑い声が聞こえてくる。夢幻粒子の副作用だらうか。何となく、家族連れのやうな気がする──窓の外の景色にはしやぐ男の子と、それを微笑ましげに見守る両親──あれは幼い頃の自分と、まだ若い母と、顔も覚えていない父──現実には有り得なかつた、満ち足りた思ひ出──。
盛岡駅に着いた。汽車を降り、手配しておいた軍用車を走らせる。次々と見覚えのある光景が現れる。思ひ出の背景にいつも佇んでいた早池峰山はやちねさんに、友人たちと鮒フナ釣りに興じたカツパ淵。母と七五三の参拝に訪れた荒神神社。記憶にあるものと殆ど、いや何も変わつていない。走つて、走つて、時を逆行してゐるかの如く走り続けて。
やがて見えてきた我が家も、國義が出た時とまるで変わつていなかつた。
本当の自分はまだ幼子で、あの家で軍人になつた夢を見ていたのではないか。目覚めれば、母が台所で朝餉あさげの支度をしてゐるのではないか──。
車の音に気付いてか、玄関から老人が現れる。村長だ。電報を打つてくれたのは彼だ。國義の父方の祖父と同級生だつたらしく、母子には何かと親切にしてくれた。彼の姿も、記憶にあるものから何も変わつていない。國義が物心付いた時には、村長はすでに老人だつた。
國義が呼びかけると、村長は一瞬だけ怯んだが、すぐに思ひ出してくれた。おお、國坊か。すつかり──立派になつでと、ややぎごちなくも顔を綻ほころばせる。しかし、村長の笑顔はすぐに萎しぼんでしまつた。
「すまんなア、わしがもつと早ぐ知らせでいれば」
國義の鋭い嗅覚は、すでに線香の煙を嗅ぎ取つていた。
母は──。
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打ち覆いの下から現れた母の顔が、國義の時を一気に現在に引き戻す。
永遠に静止したその顔は、かつての面影を残しつつ──あちこちに刻まれた皺しわが、確かに過ぎ去りし年月を物語つていた。
夢などではなかつた。母は自分が出た後も、ずつと家に取り残されていたのだ。父が居ない虚無に加えて、息子が居ない虚無まで巣食つてしまつたこの家に。
しかして、とうとう虚無に飲まれてしまつた。
天井を見上げる。嗚呼、幼い頃は天蓋てんがいの如く見えていたのに、今は何と低く見えることか。先祖代々使ひ続けた囲炉裏も、箪笥も、襖ふすまも、こんなに煤けていたか。虚無はすでに、我が家を廃墟に変へ始めてゐる。
村長が遠慮がちに室外から声を掛ける。母から預かつた物だと、一通の封筒を差し出す。葬儀の手配は代行するので、母の傍に居ておやりと云つて出て行つた。
國義へ、封筒にはそう書かれていた。恐る恐る開き、書面に目を落とした瞬間。
“お母さんを許して下さい。”
思ひもかけぬその言葉が、真つ先に目に飛び込んで来た。どう云ふ意味だ? 何故、母が自分に謝る?
“もしお父さんが生きていたら、きつとお前が軍人になるのには反対したでせう。お父さんはお前に平和な世界で生きて欲しくて、自らは戦場に身を置くことを選んだからです。”
考へてもみなかつた。父が特別憲兵になつた理由など。まるで天皇陛下が生まれながら現人神あらひとがみで有らせられるかのやうに、父も最初から特別憲兵だつたかのやうに思ひ込んでいた。少し考へれば、容易に分かつたはずなのに。帝國民かぞくを光の下で生かす為に、自らは闇の中で戦い続ける。それが特別憲兵なのだから。
今こそ、亡き父の姿が鮮明に浮かぶ。それは傷を負えば悩みもしたであらう、自分より少し年長なだけの一人の漢おとこだつた。その傍らでは母が幸せさうに微笑み、しかして永遠には一緒に居られないと悟つてもゐる。
“それにも関わらず、お母さんはお前が日に日にお父さんに似てくるのが、嬉しくてならなかつた。しかしてとうとう、お前が軍人になると云つた時も、お母さんは反対出来なかつた。それがお父さんの遺志に背くことだと、分かつていながら。”
夫が命を捨ててまで守りたかつたものを、台無しにしてしまうと分かつていながら。
“いいえ、國義は悪くありません。きつと、お母さんが知らず知らずの内に、お前をお父さんの代わりにしてゐたのでせう。さぞや息苦しい思ひをさせていたと思ゐます。”
こんな母が待つ家になど、帰りたくないのも無理はない。そんな彼女の嘆きを、國義は行間からはつきり読み取つた。違ふ、父の跡を続ぐと決めたのは、自分の意思で──本当にそうか? 背後で父の亡霊が、否、まだ手足も眼も生身だつた頃の、國義自身の亡霊が嘲笑ふ。自分がそんな殊勝な人間でないことぐらゐ、お前自身が一番知つてゐるだらうに。
いつも感じていたぢやないか。母が無言で自分に何かを求める視線を。
“この上、お前まで戦死するやうな事があつては、それこそお父さんに顔向け出来ません。國義、お母さんはお前に生きて欲しい。出世などしなくて構ゐません。軍人なんて辞めてしまつてもいい。非國民と呼ばれやうと、どうか生きて下さい。”
「東京の士官学校は全寮制だんて、下宿の心配はいらねあよ」
──東京?
そう、この時初めて國義は、親元を離れなければならないことに気付いた──。
否。
本当は分かつていた。
しかして、こう思つた。嗚呼、これでやうやく、この家から、母から解放される、と。
深々と雪の降りしきる夜、虚無を見据ゑる母の視線が怖かつた。この虚無を埋めてくれと訴える、無言の圧力が煩わしかつた。いつそ正面から要求してくれれば、跳ね除けることも出来たのに。父など知らぬ。代わりになれと云はれても困ると。
何も望まづ、何も拒まづ、命じられるまゝに動く自動人形のやうな自分が、生涯で唯一抱いた望みが──この家から逃げ出すことだつたのだ。その後ろめたさを誤魔化す為に、誤魔化す為だけに、父の跡を続ぐと云ふ口実が必要だつたのだ。口実に過ぎないから、父の実像など、母の真意になど、思ひを巡らせもしなかつた。
何が母の為だ、國義の喉から引きつつたやうな笑いが込み上げる。母はあんなに優しくしてくれたのに。それは相違ないのに。
國義の手からぱらぱらと便箋が落ちる。散りゆく菊の花弁のやうに。何故、母は一人で死んでゆかねばならなかつた? 決まつてゐる、自分が捨てたからだ。義躯だらけの姿を見られたくない、などと云ひ訳をして。この母なら、たとえ息子がどんな姿にならうとも、生きて帰つたことを喜んだだらうに。
母を信じられなかつたのは、後ろめたかつたからだ。
笑いが嗚咽おえつに変わつていく。しかし、義躯眼は涙を流せない。涙を流さずに泣き続ける。お母さん、お許し下さい。國義の懺悔ざんげは何処にも届かず、家を包む虚無に消えていく。お許し下さい、國義は親不孝な息子でした──。
偉大な父の代わりになど、なれるはずもなかつた。

母の遺骨を墓に収め、周囲に黄・紅・白八重の小菊を植ゑた。
生前、母が豪華な一輪菊より、小菊の方が好きだと語つていたことを思ひ出したのだ。小さくても沢山の花を付けるから、賑やかで良いと。それは彼女が終ついぞ縁がなかつた、賑やかな家への願望であつたろうか。
結局、國義が母にしてやれたことは、墓を飾ることだけだつた。母は國義からの仕送りには、殆ど手を付けていなかつたのだ。家の売却手続きを村長に任せて、國義は帰りの夢汽車に飛び乗つた。
帰りの車内では、もう誰の声も聞こえなかつた。

「義躯部隊の設立を考へてをる」
小泉の構想を、國義は内心困惑しながら聞いていた。
最近は義躯も普及が進んだ。同僚にも何人か使用者がゐる。将来は民間への開放も検討されてゐるらしい。だが、それはあくまで失つた手足の代用としてだ。小泉は戦力の増強の為、希望者を募つのり、優秀者を選抜して、義躯を支給しやうと云ふのだ。
いかに有用とは云へ、己の手足を切り落としてまで、こんな物と取り替えたい奴などゐるのか。國義はそう思つたのだが、既に希望者が殺到してゐるらしい。君の活躍のお陰だなと小泉に肩を叩かれ、彼はどんな顔をすべきか分からなかつた。
「是非君を隊長に据ゑたいのだが、いきなり大人数を率ゐるのは難しからう。そこで、取りあえず希望者の一人を部下に付けやう。何、優秀な男だから心配はいらんよ」
小泉に呼ばれて執務室に入つてきた若者は海野うんのと名乗つた。まだ士官学校を卒業したばかりだと云ふ。長身で爽やかな笑顔の、なかなかの好男子ぶり──だと思ふのだが、何故か記憶に残らない顔だ。よもやノウバデイのやうに、顔に隠匿呪詛でも掛かつてゐるのだらうか。
「よろしくお願いします、山友やまとも大尉! 自分も早く、そんな格好いい義躯が欲しいであります!」
海野は憧れの目で國義の義躯を見つめてゐる。人の気も知らんでと苦々しいものが込み上げたが、若者の夢をぶち壊すのも忍びなく。
「そうだらう、そうだらう。こんな事も出来るぞ!」
義躯脚で身長をビヨンと三メエトル超に伸ばしてみせると、海野は童わらべのやうにはしやいだ。
どうやら、まだまだ退役する訳にはいかぬやうだ。國義は覆面の下で母に謝り──海野に少しだけ感謝した。



