
昨日の私がほんとうの私か、今日の私がほんとうの私か?
谷崎潤一郎『痴人の愛』
爽やかな初夏の空気を震はせて、霜月しもつき女学園のチヤイムが鳴り響く。
鳥籠とりかごを思はせる鉄柵に囲まれた校庭では、女学生たちが思ひ思ひに休憩時間を過ごしてゐる。百花繚乱りょうらんのその中でも一際目立つ彼の人は、今日も信奉者に取り囲まれてゐる。歩き難いだらうに、嫌な顔一つせず優雅に微笑むその姿を、結花ゆいかは木立の陰からそつと覗う──胸奥に鼓動を早めながら。
(嗚呼ああ、今日もお綺麗で──)
紅のリボンを結んだ束髪崩しは、星々を散りばめた天の川。長い睫毛に縁どられた切れ長の明眸めいぼうに、その上を飾る柳の葉型の眉。細い顎あごへと滑り落ちる流麗な鼻梁。矢飛白やがすり柄の銘仙に紫の女袴と云ふ学園のお仕着せも、そのすらりとした長身に纏まとえば気品すら漂ふ。
完璧な、あまりにも完璧な美貌のその人こそ、学園の女王であり、結花が密かに"憧れの君"と呼び慕ふ立花 育恵たちばな いくえだつた。
彼女を女王たらしめているのは、容貌だけではない。育恵は伝統ある演劇部のスタアでもあり、学外にまでその演技力を知られているのだ。噂では活動写真会社からも『卒業後は是非当社へ』と誘いが絶えないとか。
結花は今でも、瞼まぶたの裏に思ひ描ける──去年の文化祭で育恵が演じた灰かぶり姫の姿を。その演技は現実と虚構を逆転させ、育恵は舞台と云ふ小宇宙を支配する女神と化した。彼女が南瓜かぼちやの馬車に驚けば、皆が驚く。彼女が王子に焦がれて泣けば、皆が泣いた。
少しでもお近付きになりたくて、演劇部に入部した結花だつたが──内気で臆病な気質故に、女中その壱だの通行人Aだの、居ても居なくても大差ない端役を演じるのが精一杯。今もこうして、遠くから見つめるだけで、育恵を取り囲む信奉者の壁にすら加はれない。
ホウとため息一つ、校庭の花壇を見やる。数日前に紫陽花あぢさゐから向日葵ひまはりに設定が変はつたばかりだ。結花と顔を並べる程の高さで、黄金の花容が真つ直ぐに太陽を見つめてゐる。
図書室で読んだ、遠き希臘ギリシヤの神話を思ひ出す──妖精ニンフのクリユテイエは太陽神アポロオンに叶はぬ恋を抱き続け、遂には向日葵の花になつてしまつた。そして、今でも太陽を見つめ続けてゐるのだと。
(おゝ、向日葵よ。ノツポすぎて少女をとめには不人気のお前だけど、私は大いに同情しませう──焦がれる相手を見つめることしか出来ぬ、その苦しみに)
休憩時間終了のチヤイムが響く。信奉者たちに囲まれた育恵が校舎に消える。まさしく、向日葵の視線に気付きもせず、天を回り続ける太陽のやうに。きつと、明日も明後日もこんな日々が続くのだらう。頭かぶり振り振り、教室に戻らうと靴箱を開けたその時。
桜の葩はなびらよろしく、ひらり舞ひ落つる便箋一枚。
女学生は頻繁に手紙メエルのやり取りをする。それこそ、毎日教室で顔を合はせてゐる仲であつても。面と向かつて話せば良からうと言ふのは、少女心を解さぬバンカラの言ひ草である。他愛ない一言でも、お気に入りの便箋に認したためれば、特別の隠微を帯びるものだ。
ハテ、みさをさんからの餡蜜のお誘ひか知ら。それとも、潤子さんからの図書委員会の相談か知ら。何気なく拾ひ上げ、封を破ると。
突然のお便りお許し下さい。本日の放課後、秘密の四阿あずまやでお待ちしてをります。
五年A組、立花 育恵
(アラ!?)
はしたなく大声を上げさうになつて、結花はギリギリで自制する。立花 育恵、はつきりそう書かれてゐる。あのお方らしい、流れるやうな麗筆で。書面を見つめた儘まま、結花はしばし石像のやうに硬直する。
『結花さん、どうかなさつたの?』
同級生の松代に声を掛けられ、結花は我に返る。何でもないのと応へ、そつと手紙を懐に仕舞ふ。親展機能があるのだから、他人に覗かれる心配はないことも忘れて。

午後は裁縫の授業だつたが、ボンヤリして自分の手に針を突き刺してしまう始末──警告表示が浮かび上がる手を、慌てて机の下へ隠す羽目になつた──。放課後になつても、結花は未だ信じられずにゐた。そうだ。これはきつと、クラスの茶目団の悪戯いたずらなのだ──そう思つてゐるのに、手足は勝手に目的地に向かう。
秘密の四阿──礼拝堂横の目立たない四阿を、生徒たちはそう呼んでゐる。生徒間での他愛ない決め事が由来だ。即ち、先客が居たらそれは密会の最中なので、邪魔をしてはならぬと云ふ──結花が恐る恐る覗ふと、育恵は確かに四阿のベンチに腰掛けてゐた。大理石の玉座に腰掛ける姫君のやうに。
(い、いらしつた、本当にいらしつた)
物憂げだつた育恵の顔が、結花の姿を認めてパツと輝く。白魚のやうな繊手が招くままに、結花はギクシヤクと四阿に入る。宮城のお茶会に招かれたとしても、ここまでは緊張しないに違ひない。
『結花さん、堪忍してね。急に呼び出したりして』
謝る必要などない。あなたのお呼び出しなら、津軽海峡を泳ぎ渡つてでも馳せ参じやう。そう言ひたかつたのだが、口から出たのはモゴモゴした不明瞭な呟きだけだつた。
『あまりお話したこともないのに、どうしてつてお思ひでせう?』
あまりどころではない。結花が記憶してゐる限り、育恵と交はした唯一の言葉は、演劇部に入部する際『ぢや、本当によろしいのね』と聞かれ、『ハイ』と吃逆しゃっくりのやうに返事したのみだ──それですら嬉しくてならず、繰り返し日記に書いたが──。
『でもね、私は前から貴方を見てゐてよ。いつも遅くまで残つて、お稽古していらつしやるでせう』
『え』
その通りだ。いつか重要な役を任され、育恵と共演することを夢見て。でも、まさか彼女に見られてゐたとは。『熱心な方だなあと敬服してをりましたのよ』とまで言はれ、結花は耳まで真つ赤になる。まるで金時の火事見舞ひである。
『結花さん、エスと云ふものをご存知?』
『い、一応は』
エスとはSisterのSであり、女学校の上級生と下級生、あるいは女性教師と生徒が擬似姉妹の契りを結ぶことを指す。否、姉妹と言ひながら、それはどこか妖しい響きも帯びてゐる。それが証拠にエスは必ず一対一であり、その関係は周囲には秘められることが多い。姉妹の代はりなら、そんな必要はないではないか。
一応などとカマトトぶつたが、エスを題材にした少女小説なら総当りしてゐる結花である。女学校を舞台にした少女たちの甘い交流の物語は、彼女にとつては現実以上に尊いものだつた。
しかし──何故、育恵はそんなことを聞くのだらう。
(──まさか)
『それなら話が早いわ。私たちエスになりませんこと?』
丁度その時、礼拝堂の鐘が高らかに鳴り響いたのは、いかなる神の計らいであつたものか。差し込んだ西日に花壇の向日葵が黄金に燃え上がり、四阿を吹き抜けた南薫が育恵の黒髪を巻き上げる。一服の絵画のやうなその光景を、おゝ、結花は生涯忘れまい!
(わ、私、夢を見てゐるの?)
太陽が向日葵の眼差しに気付いて、天の軌道を外れて手を差し伸べて下さつたと云ふのか──それこそ、天変地異に等しい出来事ではないか。
『もつとお側で、結花さんのお力になりたいの。それに、私は一人つ子でせう。昔から姉妹が欲しくて──』
結花がずつと黙つてゐるせいか、育恵が段々不安さうになる。ああ、この方もこんな表情をなさるのか。
『あの、これ演劇の台詞ぢやなくてよ? 私は本気で──あ、それとも、ご迷惑か知ら? そうよね、矢つ張りエスなんて、小説かぶれの不良ガアルのすること──』
『と、とんでもございません! 迷惑などでは、断じて、その──』
縺もつれる口を、結花は一旦閉ぢた。これが夢か否か、確かめる言葉は唯一つ。小説の中で少女たちが口にしてゐた、世にも甘いその呼び掛け──。
『それでは、育恵さんのことを──お、お姉様とお呼びしてよろしいのですか』
オズオズとした結花の問ひに、育恵は微笑みを浮かべたまま、しかし瞳だけは真剣に答へた。
『そう呼んでくれるなら、とても嬉しいわ』

まりあ様、まりあ様、聖なる御母、白百合しろゆりの君、いと尊きろざりおの元后。
今、ここにお誓ひ致します。別々の母より生まれし私たちですが、これよりは互ひを姉と呼び、妹と呼び、病める時も健やかなる時も、慈しみ合ひ、支へ合ふことを誓ひます。おゝ、びるぜんさんたまりあ、哀憐あわれみを垂れ、全ての悪より、凡百あらゆる罪より、私たち姉妹をお守り下さい──。
礼拝堂のマリア像にそう誓つて以来、結花の世界はすつかり変はつてしまつた。蛹さなぎから羽化したばかりの蝶は、こんな気分であらうか。否、蝶はたつた一羽で無慈悲な自然界を漂はねばならないが、結花には手を引いてくれる育恵がゐる。
『結花さん、お待たせ! サア、今日は何を致しませう』
放課後になれば、育恵は魔法のやうに信奉者の包囲を抜けて会ひに来てくれるのだつた。どうやつてと尋ねると、悪戯つ子のやうな顔で教へてくれた。偶たまには一人になりたいと学長先生に相談したら、特別に秘匿モオドを実装して下さつたのだとか。この機能は、近くに居れば結花にも及ぼせる。お陰で、放課後の学園は二人だけの秘密の花園だつた。
甘味も充実してゐる食堂で、同じメニユウを頼んだ。食べ慣れた餡蜜も、育恵と共に味わうなら天上の美味だつた。
学習電端にダウンロオドした宝塚劇を見て、共に袖を泪なみだで濡らした。結花は女優より、育恵の泪に見惚とれきりだつたが。
長期休暇中も、毎日のやうに手紙をやり取りした。無論、育恵からの手紙は全て保管してある。
演劇部では相変はらず端役の結花、しかし舞台の外では育恵を独り占め。毎日が蜜を滴らせた花々で、二人と云ふ蝶が吸ひに来るのを待つてゐるやうだつた。
花と蜜の日々を通して、結花は育恵の意外な一面も知つた。
幼い頃は男の子のやうな蓮つ葉で、ジゴマごつこが大好きだつたこと。父親にもつと女らしくせよと厳命され、仕方なくしほらしい振りをしてゐたら、いつの間にか学園の女王などと呼ばれるやうになつてしまつたこと。だが、舞台上で思い切り演じてゐる時は、本当の自分に戻れる気がすること──。
『可笑おかしいでせう? 普通は逆よね』と育恵は苦笑していたが、結花は彼女の演技力の秘密が分かつた気がした。少なくとも、観客の視線に怯えながら、台詞を棒読みしてゐるだけの自分とは違ふということだけは。
『出来れば女賊とか女探偵とか、もつと大立ち回りする役を演じたいの。それこそジゴマみたいなね』
そんなことを口走つて、"学園の女王"がパラソルを薙刀代はりにヤアとポオズを決めてゐるなどとは──。
『育恵さん、今日もお綺麗だつたわねエ」
『立てば芍薬 座れば牡丹──』
『歩く姿は百合の花──嗚呼、私たちの女王様!』
──と、彼女のすぐ横で身悶えしてゐる信奉者たちには、想像も出来ないに違ひない。少し申し訳なかつたが、その背徳感さへもが蜜の甘さを増すやうで──仕合はせであつた。仕合はせの意味すら知らずにゐたと、そう思へる程に。
しかし、時間と云ふ名の厳然たる神は、少女たちの時計の針も容赦なく進めていく。
校庭の木々が紅葉し、枯れ散り、雪に覆はれた学園にクリスマスの賛美歌が響き──そして、花壇に設定された早咲きの紅梅が馥郁ふくいくたる香りを放ち初める頃、育恵は目出度く卒業を迎へた。おゝ、世間的には卒業は目出度きことであらう。しかし、結花にとつては、育恵の居ない学園など太陽が昇らぬ黄泉の世界にも等しいものを。
『嗚呼、お姉様! お姉様にもうお会ひ出来ないなんて、私いつそ死んでしまいたい!』
袖に縋すがつて咽むせび泣く結花を宥なだめながら、育恵の目尻からも泪は差し含ぐまれるのであつた。しかし──。
『卒業した後も、外で会へないか知ら?』
はつと育恵を見返す。そうだ、彼女は奥床しくも芯は毅つよい、大正女性の魂の持ち主だつた。愛する妹を、むざむざ時の荒波に拐わせるつもりは毛頭ないらしい。
『きつとお会ひしませう、お姉様! 私、両親を説得します』
『外で会へたら、一緒に行きたい所はない?』
『エゝ、あります。私、一度でいいから、お姉様と一緒に帝都の大市電に乗つてみたい』
『分かつたわ、きつと行きませう。結花さん、私たちは卒業しても、大人になつても、永遠に姉妹よ』
『ハイ、お姉様!』

あばたあヲ保存シテオリマス…
霜月女学園カラろぐあうとシテオリマス…
脳髄疲労ヲ診断シテオリマス…
オ疲レ様デシタ、超文転送網デンポウネツトカラ切断シマス。
校舎が遠ざかり、格子状のポリゴンになつて闇に消える。何時いつからだらう、この瞬間が堪らなく切なくなつたのは──肩に置かれた育恵の手の感触が、甘美な焼け跡の如く残つてゐるものを。
霜月女学園こそは超文転送網に築かれた仮想女学校である。逓信省と東弊舎の技術の粋を集めて作られ、何もかもが現実同様に再現されてゐる。食堂のメニユウは実際に味わえ、トレエニングマシインを連動させれば体育の授業さへ受けられるのだ。
身体に障碍しようがいがある、家から学校が遠い、親が娘を俗世間に触れさせたがらない等の理由で、現実の女学校に通へない女子を生徒として受け入れてきた。だが、結花が霜月女学園に入学させられたのは、どの理由でもない──。
結花はヘツドギアを外す。うんざりする程見慣れた自室の風景が戻つてくる。
彼女が腰掛けてゐた猫脚の椅子の横には、レエスの天蓋付きの寝台が鎮座してゐる。幾何学模様を描いたクリイム色の壁には果物の静物画が配され、独逸ドイツから輸入したと云ふグランドピアノの表面には、鈴蘭を模した電灯タングステンの光が反射してゐる。
異国の姫君の閨ねやのやうな部屋に君臨しながら、結花の眼差しは伏せがちであつた。大きなアゝチ窓の前に立ち、天鵞絨びろうどのカアテンを開く。蔦が絡む露台バルコニイの向かうには、眠たげな鈍色にびいろの海が広がつてゐる。この邸やしきは絶海の孤島に建つてをり、島内の住人も全員が使用人だ。
結花は生まれてから一度も、この島から出たことがないのだつた。
彼女の家は正式な華族でこそないが、さる高貴なお方の血を引いてゐるらしい。両親や使用人たちの話では、悪党に知られると良い様に利用され、最悪命まで狙はれ兼ねないと云ふ。お陰で、島流しの如き暮らしを強いられてきた。彼女の内気な気質は、この暮らしが影を落としてゐることは間違ひない。
幼少期は尋常小学校にも通へず、自室で家庭教師に学んできた。当然、一緒に遊んでくれる友達は一人も居ない。せめて女学校だけは通ひたいと両親に懇願した結果、唯一許されたのが霜月女学園だつた。本当は現実の女学校に通ひたかつたと、渋々通学してゐた──育恵に出会ふまでは。
(全ては神様の采配だつたのかもしれない。お姉様と出会ふための)
「オ嬢様、オ誕生日会ノ準備ガ整イマシテゴザイマス」
女中型自動人形に呼ばれて、結花ははつとする。育恵との約束に気を取られて、すつかり忘れてゐた。そうだ、今日は自分の誕生日だつた。
この豪奢な捕囚生活を終はらせる希望、それは大人になつたら外に出してもらえると云ふ、両親との約束だつた。丁度良い機会ではないか。両親に伏して頼まう、自分はもう子供ではありませぬ故、何卒なにとぞ外出のご許可をと。何としても、現実でお逢ひしたい方がゐるのでございます──。
自動人形に手伝はせて夜会用のドレスに着替へながら、どう両親を説得しようか必死で思案する。手摺付きの螺旋階段を降りながら、しかし妙案は浮かばない。
食堂に入る。真つ白なテエブルクロスが敷かれた長大な食卓に、両親は既に着いてゐた。その背後には使用人たちも控へてゐる。蝶よ花よと結花を可愛がつてくれる人たちだ。「お誕生日おめでとう、結花」「おめでとうございます、お嬢様」と一斉に祝福され、決意が萎えさうになる。彼らの笑みを、あるいは曇らせねばならぬのか。
(駄目よ結花、しつかりなさい。お姉様と約束したぢやない)
「サア、お誕生日のプレゼントだよ」
父に命じられて、執事が大きな鏡台を運んでくる。まあ、言ひ出すのは、宴が落ち着いてからにすべきか。母に勧められるままに、付属のスツウルに腰掛ける。
「結花もお化粧の一つもしたい年頃でせう」
そう言はれ、結花は少しだけ勇気づけられる。つまり、娘はもう子供ではないと、両親も思つてくれてゐると云ふことだらうか。そう思つて鏡を覗き込んだ瞬間──。
〈停止条件ヲ確認イタシマシタ。こつぺりあ回路ぷろぐらむヲ停止イタシマス〉
「え?」
頭の中で声が響き、鏡に映る己の顔が揺らぎ始める。石を投じた水面のやうに。一瞬後、そこに映つてゐたのは。
ドレスを纏つた自動人形の顔だつた。
卵型の顔をフンワリと取り巻く、波打つ癖髪。何かに驚いてゐるかのやうに、パツチリと見開かれた瞳。開花寸前の蕾つぼみのやうな、可憐な唇。しばし観察して、結花はそれが自分の顔に似せてゐることに気付く。育恵も良く「結花さんはまるで、仏蘭西フランス人形に魂を吹き込んだかのやうね」と褒めてくれた。
マア、良く出来てゐること──とは言へ、本物とは見間違へやうがない。蟀谷こめかみには外部入力端子の差し込み口が開いてゐるし、頬には口を開け閉めするための溝が走つてゐる。何より──何の感情も浮かんでゐない、あまりにも透明な玻璃ガラスの瞳は、人間のそれでは有り得ない。どんなに似せても自動人形が人間に見えないのは、瞳の所為せいだと云ふ学者も多い。
自分の顔が自動人形に見える鏡台──どう云ふ仕組みだらう。面白いが、化粧には障るのではないか。そう思つて振り返つた結花に。
「「「ドツキリ大成功!!!」」」
ゲラゲラゲラゲラ、礫つぶてのやうに浴びせられた馬鹿笑ひ。それが何処どこから発せられてゐるのか、結花は咄嗟とつさに分からなかつた。無理もない。いつも穏やかにパイプを燻くゆらせてゐる父が、羽扇で口元を隠しながら微笑んでゐる母が──腹を抱へ、テエブルをバンバン叩いて笑ひ転げる姿など、初めて見た。
救ひを求めて周囲を見渡すと、使用人たちも笑つてゐた。執事も、料理番も、庭師も、馬丁も、主治医の先生も──あらうことか、主家のご令嬢たる結花を指差しながら、浅草の喜劇でも見てゐるかのやうに爆笑してゐる。
壁際にずらりと並ぶ女中の自動人形だけが、無言で直立し続けてゐた。
結花は──雛倉ひなくら家の一人娘、芳紀十四歳の雛倉 結花は頭が真つ白になるばかりで、それでも両親に向かつて「お父様、お母様、これは何の趣向でございますか」と手を伸ばさうとして──ようやく、気付いた。
球体関節で繋ぎ合はされた、セルロイド製の己の手に。
〈警告、電脳ヘノ負荷ガ増大シテオリマス〉結花の頭の中で、警報音と共にエラアメツセイジが鳴り響く。ゲラゲラゲラゲラ、皆の笑ひ声が唱和し、狂つたオオケストラを奏でる。〈警告、電脳ヘノ負荷ガ増大シテオリマス〉いやア、面白かつたよ。その顔が見たかつたんだ──結花は視界がグニヤグニヤと歪むやうな錯覚に襲はれ──〈負荷限界、強制しやつとだうんイタシマス〉。
ぶつん、全てが暗闇に閉ざされた。

結花さん──。
ゴウン、ガシヤン。
結花さん──。
ゴウン、ガシヤン。
逢ひたいわ、結花さん──。
ゴウン、ガシヤン。
(お姉様──結花も──)
ゴウン、ガシヤン。ゴウン、ガシヤン。ゴウン、ガシヤン──。
嗚呼、うるさい。折角せつかく甘美な夢を見てゐるのに、一体何の音だらう──そんな風に寝惚けてゐた結花は、富士山が崩れたかのやうな轟音に叩き起された。悲鳴を上げて、バラバラと降りかかる何かから我が身を庇ふ。狂乱の一時が過ぎ去り、結花はようやく周囲を見渡す余裕を得た。
機械の残骸、煤けた木材、歪んだ看板──見渡す限り、塵芥ごみの築山が並んでゐる。その合間を、ゴミを満載した荷車を引く大型自動人形が行き交つてゐる──夢を邪魔してゐた音は彼らの駆動音であり、自分が荷車から転げ落ちたところだなど、結花に分かるはずもない。
(ここは──塵芥捨て場? 随分、大規模なやうだけど)
島にこんな場所はない。かと言つて、学園とその付属エリアでもない。呆然としてゐると、埃つぽい風に吹かれて、バサリと新聞紙の破片が髪に掛かつた。取り去らうと、結花は片手を上げ──。
──悍おぞましい球体関節が目に入る。
ヒツと息を飲み、思はず塵芥の山に叩き付ける。砕けよとばかりに幾度も幾度も振り下ろして、ようやくそれが己の手であることを思ひ出す。
(い、痛くない?)
表皮は擦り剥け、小指が妙な方向に曲がつてゐるにも関はらず、何も伝はつてこない。当然だらう。機械の腕に痛覚などある訳がない。ヒシと我が身を抱き抱へても、その感触すらない。冷たい機械の体に、魂が閉ぢ込められてゐる。
(私、自動人形になつてしまつたの?)
御伽おとぎ話の姫君の如く、魔女に呪ひでも掛けられたのか。そうだとしても、両親や皆のあの態度は一体?
「オイ、気を付けろ──」
「そつち持つてくれや──」
塵芥山の裏側から人の話し声がした。ソツと覗き込むと、粗末な服装の男たちが集まつてゐるのが見えた。粗末も粗末、着てゐるから服だと分かつたが、脱ぎ捨ててあつたら結花の目には襤褸ぼろ切れとしか映らなかつただらう。さては、彼らが貧民と呼ばれる人々だらうか。塵芥を拾ひ上げては、シゲシゲと眺めてゐる。何をしてゐるのだらう。
怖かつたが、今はそうも言つてゐられない。結花はなけなしの勇気を振り絞つて、すいませんと声を掛ける。ギロリ、男たちが無表情に結花を睨む。初めて人間を見た獣のやうな目だつた。怖ぢ気づきさうになりながらも、途切れ途切れに素性を語り、自宅に連絡を取りたいので、最寄りの交番を教へて欲しいと頼む。
それを聞いた、彼らの返事は。
「オイ、瓦落多がらくたが何か言つてるぞ」
否、返事すらしなかつた。仲間同士でボソボソ呟き合ふばかり。
(瓦落多──?)
自分のことだと、結花は分からなかつた。その呼び方に、何の感情も込められてゐなかつた所為だ。哀れみどころか、蔑みすらも。彼らはごく自然に、結花をそう呼んだのだ。
「邸がどうとか、女学校がどうとか──」
「帝劇の女優人形か何かだつたのかねえ」
「まだ動くやうだし、売れば高値が付くかもしれねえな。ソレ、捕まへろ!」
一転、飢ゑた野犬の如く目をぎらつかせて、結花を包囲する。悲鳴を上げた彼女の口を、男たちは塞ごうとさへしなかつた。無矢理担ぎ上げられ、麻袋に放り込まれる。人拐いの手付きではない──物を扱ふ手付きだつた。

オンボロのダツトサンの荷台に乗せられ、彼方此方あちこち引き回された。
麻袋の破れ目から覗ひた限り、ひどく貧しげな街だつた。朽ちかけた木組みの建物が連なり、歪んだ屋根で波を描いてゐる。それが人家だと知つて、結花は仰天した。所謂いわゆる長屋なのだが、雛倉家の馬小屋の方が余程立派だつた。長屋と長屋の間隔はせいぜい二、三メエトルしかなく、その両側に掘られた溝どぶを鼬イタチ程もある鼠ネズミがチヨロチヨロしてゐた。
時々麻袋から引き出された。その度に何円で売る売らないと、怪しげな風体の男たちが周囲で怒鳴りあつてゐた。この人たちは何を言つてゐるのだらう──自分が転売されてゐるなど、結花に理解出来るはずもない。日本人なのに日本語が通じない。まるで異国へ来たかのやうだ。彼女は慈悲を乞ふことさへ出来ず、ただ縮こまるしかなかつた。
(恐い、恐い、助けてお姉様──)
やがて結花が運び込まれたのは、溝川沿ひにひつそりと佇む建物だつた。二階建てで造りはしつかりしてゐるので、馬小屋よりはましか。ご宿泊幾ら、ご休憩幾らと看板に書かれてゐるので、宿のやうだが──高い塀で囲まれ、全ての窓に鉄格子が嵌められてゐるのは何のためだらうか。
出迎へたのは、この旅館の主だと云ふ太つた男と、その片腕らしき小男だつた。どちらも世界の全てを疑つてゐるかのやうな目付きで凡そ好感は持てなかつたが、身成は普通だつた。ようやく話が通じさうな人と会へた──と、喜ぶ暇などあらばこそ、さつさと隅の一室に放り込まれてしまう。布団以外何もない座敷牢のやうな部屋だつた。
お待ちになつて、話を聞いてとドヲアを叩かうとして、結花の手が止まる。こんな会話が聞こえてきて。
「聞いたことがあるぞ。コツペリア回路──自動人形に自分が人間だと思ひ込ませる回路だ」
「そんなこと出来るもンですかい? 自動人形だつて自分の手ぐらゐ見るでせうや」
「見たとしても分からんのだ。記憶が勝手に修正されちまうからな」
「ハゝア、なるほど。しかし何のために?」
「金持ちの道楽だ。自分が自動人形だと知つて、懊悩おうのうする様を見て笑ひものにすると云ふ──」
「何とも、悪趣味なこつてすなあ」
「クククク、我々も人のことは言へんがな」
(そんな、まさか、そんな──)
狂つたやうに頭を振りながら、しかし結花は次々に思ひ出してしまう。
自分が学園の食堂でしか食事をしたことがないことを。
自分が一度も手洗ひに行つたことがないことを。
主治医の先生が用ゐてゐたのが聴診器や注射期ではなく、螺子ねじ回しと半田鏝こてであつたことを。
(私は人間ぢやあなかつた)
島から出してもらえなかつたのも道理、結花を部外者に見せないためだ。高貴な血筋云々は、その境遇を彼女に納得させるための作り話だつたのだらう。霜月女学園に通はされたのも、結花の正体を隠しながら通学が可能な、まさに唯一の女学校だからだ。超文転送網ではアバタアに細工すれば、人間も自動人形も区別が付かない。
(お父様とお母様は、本当の両親ぢやあなかつた)
自分の人生は、あの人たちが戯れに書いた人形劇だつた。人形風情がドレスを着て、使用人に傅かしずかれ、姫君のやうに振舞ふのを、影で笑つてゐたのだらう。十四年間もずつと。いや、今でもあの邸で笑ひ続けてゐるのではないか。突如捨てられ、自分の正体を知つた人形がどうしてゐるかと想像して。
足元がガラガラと崩れていく感覚に襲はれ、結花はヘナヘナと座り込む。お姉様、私はどうすればと縋りかけて、また思ひ出してしまう。さうだ、育恵は妹の正体を知らないのだ。自分が自動人形だと知つたら、どうなさるだらう。
──騙してゐたのね、自動人形の分際で姉妹など烏滸おこがましい!
(ち、違ふの、お姉様。私は──)
幻像の育恵に打ちのめされる結花を他所よそに、ドヲアの向かうでは主人が誰かを出迎へてゐる。
「これは××様、ようこそいらつしやいました。新しい人形が入つてをりますよ。これがチヨイと変はつた奴でして──」
「ホウ、どれどれ」
ぎいいい、怪物の唸りのやうな音を立てて、ドヲアが開く。逆光を背負つて立ちはだかる、顔の見えない人影。立ち上がれないまま後退る結花を見て、「なるほど、まるで人間のやうぢや」と楽しげに口元を歪める。笑つたつもりかもしれないが、彼女の目には猛獣が牙を剥き出したやうにしか見えなかつた。
「どうぞ、ごゆつくり」
ドヲアが無情に閉ぢられる。乱暴に手を掴まれる。無礼者、離してと身を捩よじつたら、大人しくしろと殴られた。殴られても、痛みは全く感じない。その事実が齎もたらしたのは、しかし安堵ではなく絶望だつた。ドレスをビリビリと引き裂かれ、力づくで組み敷かれ(おゝ、これ以上を記すには忍びない故──)
わたしの人形はよい人形。
目はぱつちりといろじろで、
小さい口もと愛らしい。
わたしの人形はよい人形。
わたしの人形はよい人形。
歌をうたえばねんねして、
ひとりでおいても泣きません。
わたしの人形はよい人形。
作詞・作曲不詳『人形』
襤褸切れと化したドレスを纏つて布団に転がりながら、結花は「これは夢です、夢に決まつてゐます」と壊れた蓄音機のやうに呟き続けた。その瞳から泪は溢れない、ただ芒洋と虚空を見つめるのみ。彼女はまた一つ思ひ出してゐた。
現実世界では、自分は一度も泣いたことがなかつたと。
あれからどれぐらゐの月日が流れたらう。永劫のやうにも、一瞬のやうにも思へる。
メンテナンスの時以外は、あの部屋から一歩も出してもらえなかつた。それでも此処ここがどう云ふ場所かは、結花にも分かつてきた。人形娼館──自動人形を相手に、変態性欲を満たす為の施設なのだ。以前の結花には、そんな商売が存在するとは想像も出来なかつた。
彼女以外にも多くの自動人形が居た。その殆ほとんどは雛倉家──架空の家名かもしれないが──でも使つてゐた女中型だつた。中古品を再利用してゐるのだらう。彼女たちは嘆くことなく、かと言つて喜ぶでもなく、淡々と客の相手をしてゐた。そんな自動人形たちの中で、結花だけは人間のやうに、それも未通女おぼこのやうに振舞ふと好評だつたのだが。
「すつかり他の人形どもと同じになつちまいやがつて」
娼館の主人が舌打ちする通り、今や結花は人の演じ方を思ひ出せなかつた。命じられれば何でもしたし、命じられなければ何もしなかつた。邸や学園で過ごした日々は、最早遠い昔に演じた劇でしかなかつた。題目は"雛倉 結花の愚かな生涯"。
ただ、時折閃光のやうに脳裏を過ぎる、紅のリボンと束髪崩しの俤おもかげは──。
(お姉様、今頃どうなさつてゐるだらう)
会つたのは劇中でだつたが、育恵は間違ひなく現実に存在してゐた。あの日学園に咲いてゐた向日葵は、とつくに枯れて土へ還つたであらうに、太陽の眩さだけが今も電脳に焼き付いてゐるものを。
(結局、お別れも言へなかつた。ご心配なさつてゐるだらうか。それとも、私のことなど忘れてしまわれただらうか)
「いらつしやいませ。へへへへ、本日はどのやうな人形をお求めで」
階下から主人の下卑た声が聞こえる。また客か、面倒臭ひとため息を吐き、結花は準備をする。三つ指を付いて正座し、何時客が入つてきても「ご用命ありがたうございます」と出迎へられるやうに──。
「警察だ! 自動人形取扱法違反の容疑で逮捕する!」
「何だと、自分の物をどう使はうが、わしの勝手であらうが」
──何やら騒がしひ。
「黙れ! 貴様のやうな輩に、自動人形を扱ふ資格はない!」
主人の呻き声がしたと思つたら、カツカツと迷ひのない足音が近付いてきて──ドヲアが勢ひ良く開いた。其処そこに立つてゐたのは長身の青年だつた。垂れ気味の双眸に、男性にしては細い腰、サラリと撫で付けた髪が軟派な印象を与へる。これで山高帽にロイド眼鏡を掛け、スウツのポケツトからハンケチでも覗かせれば、立派なモダンボオイだらう。
しかし、彼の帽子に輝くは金の桜紋。その身に纏うは、房飾り付きの肩章と金ボタンも重厚な、暗緑色の詰襟制服。腰には流麗な曲線を描くサアベル。何より、結花を見つめる眼差しは、真剣そのものだつた。
(お巡りさん?)
若い警官が口元を綻ほころばせ、白い歯を覗かせる。
「もう大丈夫だ、助けに来たぞ!」
結花の手を取り、部屋から連れ出す。力強いのに、強引と云ふ印象は受けない。
(助けに来た?)
結花の電脳は、その意味を処理しきれずに混乱する。何故、警察がそんなことをしてくれるのだらう。自分は人形なのに──人間に近い形をしてゐるだけの、ただの器物なのに。
廊下には彼の同僚らしき警官たちがをり、部屋のドヲアを開けては自動人形たちを外に出してゐる。その足元では、主人が手錠を掛けられて転がされてゐた。
「オイ桜庭さくらば、自動人形たちはこれで全てのやうだぞ」
「分かつた、手筈てはず通りに。俺はこいつをチヨイと尋問──」
若い警官、桜庭が腰のサアベルを抜き放ち、主人に突き付けた瞬間。
「に、人形ども、羅刹らせつ回路だ!」
主人が上擦つた声で叫んだ。
〈羅刹回路ヲ起動イタシマス〉。結花の電脳内でメツセージが響くのと、桜庭がはつと振り返るのはほぼ同時だつた。
ジヤキンと云ふ金属音と共に、結花の手の甲から鋭い刃が飛び出した。視界に真つ赤な標的が映し出され、桜庭に狙ひを定める。添へられたメツセイジは〈排除対象〉。横薙ぎに振るわれた刃を、桜庭は危うく飛び退すさって避けた。他の自動人形たちも至る所から刃を伸ばして、ジリジリと警官たちに迫り始める。
「ぬかつたな、警官ども! こやつらは護衛も兼ねてをるのさ」
「おのれ、非道な!」
主人の哄笑と、桜庭の怒りの叫びが交叉する。その頬からツウと一筋の血が滴る。僅かに刃が擦かすつてゐたのか。
結花の足が勝手に動く。正眼にサアベルを構へる桜庭に近付いていく。素人目にも隙がない。油断しなければ、彼女ごときに遅れを取ることはないだらう──つまり。
(私はこの人に殺される)
サアベルがギラリと輝く。マリイ・アントワネツトの首を刎はねたギロチンの刃のやうに。
怖くはなかつた。人形は死など恐れない。ただ、世界が急速に遠ざかつていくやうな、この感覚は──若もしや寂しさだらうか。人形も最期にはこんな気持ちになるものか。せめて誰かに傍に居て欲しい──結花の瞳と桜庭の瞳が、合はせ鏡の無限回廊と見つめ合ふ。恰あたかもこれから手に手を取り合つて、ワルツでも踊るかのやうに。
(お巡りさん、あなたが結花の最期を看取つて下さいますか)
「止せ、彼女たちは被害者だぞ!」
自動人形にサアベルを向ける同僚たちを桜庭が制する。それを聞いた主人は目を白黒させてゐる。被害者と自動人形、彼の中では凡およそ結び付く言葉ではないのだらう。警官たちもどちらかと言ふと主人寄りの見解のやうだ。
「し、しかし、このままでは」
「任せろ、新しい機能をアツプデエトしておいた」
何を思つたか、桜庭はサアベルを鞘に戻してしまう。慌てる同僚たちを他所に、素早く右の手袋を脱ぎ捨てる。その下から現れたのは機械の腕だつた。クロムメツキを施され、無数の小型モオタアで制御される最新式だ。
(この人も人形?)
否、自動人形が血を流す筈がない──桜庭の腕は義躯ギクだつたのだ。元は戦争や事故で失つた手足を補ふための技術だつたが、今では生身の手足を遥かに凌駕りようがするその能力を求めて、積極的に移植する者も多い。
「起動、絡新婦じよろうぐも!」
桜庭の起動ワアドと共に、義躯の人差し指からワイヤアが飛び出す。それは空中で畝うねり狂ひながら、結花に迫り──。
(ア)
外部入力端子の接続口に突き刺さる。〈はつきんぐヲ開始イタシマス〉と云ふメツセイジと共に、熱く硬い感触が結花の冷え切つた電脳に侵入してくる。
(ヒ──)
──良いではないか、良いではないか。
──いいぞ、もつと厭いやがれ。
──ヒヒヒヒ。
その感触は、客から受けた数々の仕打ちを、結花に思ひ起こさせた。何故だらう、何も感じなくなつて久しかつたのに──この人に見られてゐると思ふと──。
〈侵入ヲ検知イタシマシタ〉〈攻性防壁展開〉〈最優先排除対象〉〈コイツハ敵ダ〉〈抹殺セヨ〉〈殺セ!〉〈殺セ!!〉〈殺セ!!!〉。結花の視界が警告表示で真つ赤に染まり(あああああああああああああああああああ)全てを膾なますに切り刻みたい衝動に駆られ──。
〈君を助けたいんだ、受け入れてくれ〉
暖かく力強い何かに包まれる感触に、結花は思はず羅刹モードの防御を緩めた。その隙を逃さず、ハツキング回路は彼女の電脳の奥底に到達し──。
〈羅刹回路ヲ解除イタシマス〉
全ての警告表示が霧散し、結花は自分が桜庭に抱きしめられてゐたことに気付く。
それではあの感触は、この人の腕の──否、自動人形がそんなものを感じられる筈がない。攻性防壁を誤魔化す回路から生じた錯覚が、偶然にも現実と一致していただけだ。けど、けれど──。
桜庭がそうしてゐたのは、束の間だつた。結花をそつと離し、他の自動人形に向き直る。コツが掴めたのか、今度は五本の指から同時にワイヤアを繰り出し、次々と自動人形たちの羅刹回路を解除していく──結花と違ひ、抱き締めはしなかつたが。
「誑たぶらかすのは人間の女だけにしておけよ」
「人聞きの悪いこと言はんでくれ」
同僚に茶化され、顔を赤らめる桜庭を見つめながら、結花は何故か(お姉様、御免なさい)と謝つてゐた。

かくて、人形娼館の主人は逮捕され、自動人形たちは警察に保護された。
警察署の窓から外を見て、結花はようやく自分が何処に居るのか悟つた。
天をも貫けと伸びるは、全高六三四メエトルの 凌雲閣。瓦斯ガス灯が立ち並ぶ道路を、スパアクを散らしながら市電が行き交ふ。金蒔絵を施した義躯を移植したモダンガアルたちが、シヨオウインドウの幻像マネキンを覗き込む。ネオンサインに彩られたカフエエから女給の嬌声が響き、仕事帰りのサラリイマンたちが吸ひ込まれていく。
(東京だつたのね)
大日本帝国帝都、天皇陛下のお膝元、大科学世紀の都、花の東京の輝きは、とてもあの貧しい町並み──裏帝都と呼ばれてゐるらしい──と地続きとは思へなかつた。
ビルヂングの合間を、何か巨大な物体が動いてゐる。まるで陸に上がつた戦艦のやうだが、あれも市電だと桜庭が教へてくれた。全長五十メエトル、五階建ての車体で中央通りを進む威容は、東京の観光名所の一つだ。中には食堂や娯楽室も併設され、貴賓席には華族もお忍びでご乗車なさるとか。
──外で会へたら、一緒に行きたい所はない?
──エゝ、あります。私、一度でいいから、お姉様と一緒に帝都の大市電に乗つてみたい。
(あれがそうなのね──)
帝都中央通り大路面電車、通称"大市電"。育恵と誓ひ合ひし約束の場所、まさかこのやうな形で目にすることにならうとは。
カレンダアで確認したところ、あの日から三年余りの月日が経つてゐた。あの頃は何も知らなかつた。自分の正体も、この煌きらびやかな帝都の裏の顔も。だが、何故か──あの無垢の時代へ戻りたいとは、もう思はなかつた。
「名前は何と言ふんだい?」
だから、桜庭にそう聞かれた時も、雛倉 結花とは名乗らなかつた。それは劇中の──只の役名だ。
「お店では七型と」
「ウゝン、そいつは何とも味気ないな」
桜庭は事務机をちらりと見やる。そこに置かれた一輪挿しに活けられてゐるのは、奇くしくも向日葵の花だつた。
「ぢやあ、七型向日葵でどうだ?」
正直、ネエミングセンスはどうかと思つたが。
「了解しました。以降、本機は七型向日葵と呼称されます」
「はゝ、気に入つてくれたなら嬉しいぜ」
保護された自動人形たちは、サナトリウム等に引き取られていつた。中古品とは言へ彼女たちは女中型、まだまだ人の役に立てるだらう。
問題は結花だつた。割烹かつぽう裁縫は女学校で齧かじつた程度で、とても実用には耐へない。かと言つて、彼女の電脳は特殊な仕様とのことで──おそらくはコツペリア回路に特化してゐるのだらう──、他の用途への転用も難しいらしい。
これでは如何いかにも仕方ない、諦めて処分場に送るしか──と云ふ周囲の声に、桜庭は声を荒らげて反対した。どうも彼は、自動人形に特別の同情を寄せてゐるやうだつた。
後から知つたことだが、彼のやうな人間はピグマリオン派と呼ばれるらしい。自動人形の虐待を禁止した自動人形取扱法が成立したのも、同派の活動のお陰だとか。
「ヒマワリは本官が引き取ります。ナニ、家事なんぞ追々覚えれば良い」
(え?)
『それなら話が早いわ。私たちエスになりませんこと?』
桜庭の啖呵たんかに、遠い記憶の反響が重なる。足に羽が生えて、雲の上まで駆け上がつて行けさうな感覚も、あの時と同じだつた。嗚呼、そうか──今こそ、結花は思ひ出した。かつて、自分が人間であつたことを。踏み躙にじられ、顧かへりみられることなく萎しおれし花が、春の訪れと共に再び芽を出すやうに──。
自分は再び、太陽に巡り会つた。
結花は感情の映らぬ玻璃の瞳で桜庭を見つめながら、心では確かに泪を流してゐた。
(お姉様、御免なさい──けれど、お許し下さいますよね)

かくて結花は、七型向日葵として新たな生を歩み始めた。
女学生時代の教へを必死に思ひ出しながら、床を掃き、衣服を繕つくろい、どうにか朝晩の膳を整へた。焦げた目刺しと芯の残つた麦飯を、旨いと旨いと食べてくれる桜庭に、結花は申し訳ないと思ひつつ、慕はしさは愈々いよいよ増すばかりだつた。
「只今ただいま、ヒマワリ」
「お帰りなさいませ、桜庭さん。お食事になさいますか、それともお風呂?」
「ああ、先に風呂にしようかな。夏鳥の連中と取つ組み合つたから、埃だらけだよ」
平気で下まで脱ぐ桜庭から、結花は慌てて視線を逸らす。
(──分かつてゐるの)
桜庭にとつて自分は、女性ではない。人間ですらない。あくまで自動人形だ。人間の都合で造られ、振り回され、捨てられる、かあいさうな似而非えせ人間。だから、自分が守つてやらなくては──それが、桜庭が優しい理由だらう。それでもいい。人間でなければ不仕合はせだとは、もう思はない。
自分は人形、桜庭さんに大切にされる人形。ただ、彼が思つてゐるよりは、人間に近い。
『ぢやあ、七型向日葵でどうだ?』
遠き希臘の神話を思ひ出す。ピグマリオンとは自らの手なる彫像を愛し、ガラテアと名付けることで魂を吹き込んだ男のことだと──桜庭が自分にヒマワリと云ふ名を与へ、現実の世界へ連れ出してくれたやうに。
劇は終はつたのだ。桜庭の制服にアイロンを掛けながら、結花は一人誓つた。これからは、この慎ましくとも確かな現実で生きていかう。
それから、穏やかな日々が過ぎた。
雛倉 結花を演じさせられてゐた時代のことは、あまり思ひ出さなくなつてゐた。それでも、買ひ物の途中に向日葵の花を目にすると、遠くから懐かしい声が聞こえる気がするのだつた。結花さん、私たちは卒業しても、大人になつても、永遠に姉妹よ──。
(お姉様、辛いこともありましたが、結花は今仕合はせでございます)
その日、桜庭は非番だつた。日頃の疲れから、昼近くになつても布団でゴロゴロしてゐた──佳いい男が台無しである──が。
「桜庭さん、お電話ですよ」
「何だア、仕事の呼び出しなら勘弁だぞ──ヤゝ!?」
携帯電端を確認した途端、桜庭は目を剥いて飛び起きた。すわ、帝都を揺るがす大事件かと思ひきや。
「ヒマワリ、急で悪いが大切な客が来る。ご馳走の用意を頼むよ」
大慌てで髪を梳とかし、無精髭を剃り始める。どのやうなお客様ですかと尋ねると、それはいらしつてからのお楽しみだとはぐらかされた。だが、正月前の子供のやうにはしやいだ表情から、桜庭が余程その客を心待ちにしてゐるのは確かだつた。ならばと、結花は腕まくりして台所に向かう。
挽肉をキヤベジで包み、干瓢かんぴようで結ぶ。トマトケチヤツプで作つたソオスで煮込み、仕上げにエゝテル調理器で──どんなイメエジを注入しよう? そうだ、桜庭と共に暁星屋 ぎようせいやへ買い物に行つた時の記憶はどうだらう。彼処あそこには大食堂もあつたし、相乗効果で風味が増すに違ひない。名付けて、ロオルキヤベジ・暁星屋百貨店風。
「こいつは旨さうだ。ヒマワリは本当に料理が上手になつたなあ」
「あの、以前は矢張り、無理して召し上がつて頂いて──?」
「あ、イヤ、元々上手だつたけど、更に上手になつたと云ふ意味だよ、うん」
玄関のチヤイムが鳴つた。主人に呼ばれた犬の如くすつ飛んでいく桜庭を見送り、結花は茶の準備に──。
「ヤア、いらつしやい!」
「お邪魔致します、茂一しげいちさん」
(え?)
結花は茶筒を取り落としさうになつた。客の声に聞き覚えがあつたからだ。いや、聞き覚えどころではない。今でも向日葵の花を見る度、はつきり思ひ出す──。
「紹介するよ、ヒマワリ。この人は俺の恋人──」
桜庭の横で微笑んでゐたのは──。
「立花 育恵さんだ」

現実世界で見る育恵は、霜月女学園で見るより更に美しかつた。
三年の月日は、彼女をすつかり大人の女性に変へてゐた。薔薇ばらのコサアジユをあしらった小豆色のワンピイスに、同色のクロツシエ帽子と云ふ洋装も粋に着こなしてゐる。それでゐて、全身から発する発剌はつらつとしたAtmosphereは、少女時代と変はつてゐない。居るだけで太陽のやうに周囲を照らす彼女は、帝都の雑沓にも埋没出来ないに違ひない。
かつて自分は、その光を独占してゐた。
「アゝ、貴方ね、茂一さんがお救ひなさつたと云ふのは。どうぞ宜よろしくね」
しかし、育恵には分かるはずもない。目前の自動人形が、妹とも呼んだ結花の正体であることなど。
「それにしても、どうしたんだい? 急に俺の部屋に来たいだなんて」
桜庭にそう話を振られると、育恵はすぐに結花から視線を逸らしてしまつた。頬を赤らめながら。
「エゝ、どうしても此処でお伝へしたくて──お父様がね、とうとう私たちの婚約をお認め下さつたのよ!」
「ほ、本当かい!?」
抱き合つて喜ぶ二人を眺めながら、結花は視界がグニヤグニヤと歪むのを感じてゐた。そう、自分が人形だと知った時にも襲われた、あの感覚だ。
これはどうしたことだ──劇は終はつたはずでは──否、育恵は実在の人物だ──だとしても、過去の思ひ出だ──それがどうして、現在に立ち顕あらはれる──時の流れが乱れてゐる──蓄音機が奏でるジヤズが、酷い不協和音に聞こえる──。
それでも、結花はその言葉だけは認識してゐた。それは縁にも呪にも成り得る、あまりにも強い言葉故に。
(恋人──いえ、婚約──桜庭さんと、お姉様が──)
電気ブランで祝杯を揚げる二人に給仕しながら、結花は必死に因と果を繋げようとしてゐた。お姉様と再会出来た。しかも、桜庭さんの婚約者として。この世で最もお慕ひする二人が、永遠に結ばれようとしてゐる。
それなのに、どうして喜べない?
二人を同時に喪うしなつてしまつたかのやうな、この虚無感は何としたことだらう──。
メインのロオルキャベジを口にした二人が、顔を見合はせて微笑む。
「お、この味は暁星屋の食堂の──」
「茂一さんとお買ひ物に行つた時のことを思ひ出すわ」
(ち、違ふ、その思ひ出は、私と桜庭さんの──)
結花の煩悶はんもんなど露知らず、桜庭は無邪気に言ひ放つた。
「気に入つたよ。これからも度々作つてくれないか」

結婚の準備の為に、育恵は屡々しばしば桜庭の部屋を訪ねてくるやうになつた。二人の会話から、婚約に至つた経緯を知つた。
育恵が今や、『氷の茨いばら』を皮切りに数々の活動写真で主演を務める新進気鋭の女優であること。彼女に付き纏う与太者を桜庭が懲らしたことが切掛けで、交際が始まつたこと。育恵の父親──旧弊的な人物で、彼女が女優になるのにも反対した──になかなか婚約を認めてもらえずにゐたこと。業を煮やした育恵が一世一代の名演技を繰り出したこと。
「いやア、あれは凄かつたな。露台にスツクと立つて、お義父さんをキツと見据ゑて、『どうしても認めて戴けないなら、仕方ありません。せめてあの世で一緒になりませう』とか言つて、本当にグラリと──俺が駆け付けるのが遅かつたら、どうなつてゐたことやら」
「嫌だわ、あんなの演技に決まつてゐるぢやありませんの。茂一さんが間に合ふやうに、チヤンと計算してゐましてよ。フフフフ」
「お義父さん、あれですつかり降参しちまつたんだよなア」
これまでの苦労も、今の二人にとつては笑ひ話のやうだ。因があり、果に繋がつている。二人の大恋愛劇は確固たる現実だつた。そうだ、育恵はかつてこう言つた。演技をしてゐる時の自分こそが、本当の自分だと。故に育恵の入魂の演技は、彼女を主役として現実に昇華するのだ。
騙されて人間を演じさせられてゐた結花とは違う。
「嗚呼、こんなに仕合わせで良いのか知ら」
その日、育恵は式場選びの相談のために、桜庭の部屋を訪れてゐた。彼が電話で席を外した際に、育恵は独り言のやうに漏らした。
「これであの子も式に呼べれば、言ふこと無しなのだけれど」
「──親しいご友人なのでせうか」
電脳が誤作動しさうな動揺を抑へて、結花はさり気無く訊いた。そして、それは呆気なく成功した。育恵にとつては七型向日葵なぞ、居ても居なくても大差ない端役に過ぎない。一々台詞を練るまでもない。
「女学校の同級生なの。所謂エスの関係。卒業しても仲良しでゐようと誓ひ合つたのに、急に連絡が取れなくなつてしまつてね。お元気になさつてゐると良いのだけれど」
育恵は遠くを見つめる眼差しだつた。埃及エジプトの砂漠よりも遠い、思ひ出の彼方の女学校を。今でもそこでは、向日葵が花壇で揺れてゐるのであらうか。若い二人の囁ささやきが聞こえる──。
──アーア、結婚なんてしたくないわ。殿方なんてお父様一人で十分よ。
──同感ですわ。結花にはお姉様さへ居て下さればいいの。
──いつそ、少女のまま死んでしまいませうか。
あの時、自分は何と応へたのだつたか。
(お姉様、結花は此処に居ります!)
叫びは、電脳の内部で反響するばかり。信じてもらえる訳がない、信じてもらえたとしても、届きはしない。ここに居る育恵は、既に少女ではない。桜庭に巡り合ひ、大人の女性へと成長した育恵だ。どうしてそれを責められよう。自分とて、桜庭に生まれ変わらせてもらつた点は同じではないか。

買ひ物に行くと云ふ口実で、部屋から逃げ出した。
歩き慣れてゐるはずの帝都の街並みは、まるで迷路のやうだつた〈警告、電脳ヘノ負荷ガ増大シテオリマス〉。人々の影法師が墨字の如くのたうち、〈警告、電脳ヘノ負荷ガ増大シテオリマス〉街頭スピイカアが垂れ流す音楽が、催嘔吐的に交じり合ふ。〈警告、電脳ヘノ負荷ガ増大シテオリマス〉自動車が実際の十倍近い速度で流れていく。
(私は人間ぢやない)
しかして、人形にも成りきれなかつた、哀れで中途半端な瓦落多だ。
フラフラと幻惑の帝都を彷徨さまよう内、不意に視界が開けた。中央通りに出たのだ。上り方面から巨大な何かが迫つてくる──大市電だ。周囲への警告を兼ねた宣伝文句が聞こえる。大市電ノ屋上庭園デ、帝都ヲ眺メナガラノ結婚式ハ如何いかがデセウ──。
(結婚式──)
電脳が勝手に未来をシミユレエトし始める──嗚呼、見える。大市電の屋上庭園で、警察の礼服姿の桜庭と、白無垢姿の育恵が固めの杯を交はす様が──桜庭の同僚たちが歓声を上げ、育恵の父親がハンケチで泪を拭い──。
──そして、天上の祝祭を地べたから見上げる、虫螻むしけらのやうな自分。
劇だ。
劇だ。
劇は終わつてゐなかつた。
これまでの全てが、神様が仕組んだ人形劇だつたのだ。この儘では、待つてゐるのはあの終幕だけだ。ゲラゲラゲラゲラ、雲の上で神様が笑ひ転げてゐる。家族だと信じていたあの人たちそつくりに。
大市電が迫つてくる。その窓に陽光が反射し、結花の瞳を灼やいた。遠き希臘の神話を思ひ出す。太陽に近付き過ぎた挙句、蝋ろうで固めた翼が溶けて、エゝゲ海に散つた哀れなイカロス──何故、もつと早く思ひ出さなかつた。育恵から手紙を受け取つた時に。桜庭に助けられた時に。
仮令たとへ境遇は変はらなくとも、分さへ弁わきまえてゐれば──こんな地獄には堕ちずに済んだものを。
結花は買ひ物籠を放り出し、大市電に向かつて走り出す。
(お姉様、桜庭さん、末永くお仕合はせに)
神様、神様、天上の主、運命の糸を束ねるお方、世界と云ふ舞台の唯一人の観客。
楽しんで頂けましたか、愚かな人形の糠ぬか喜びと幻滅の悲哀の一人芝居は。もう沢山です。これ以上は耐へられません。おゝ、父なるでうす様。結花は、ヒマワリは、ここで舞台を降りさせて頂きます。
人形にも来世が在るのだらうか。在つたとしても、また人形にされるのは真つ平だ。かと云つて人間も御免蒙こうむる。来世は──そう、向日葵の花に転生しやう。太陽を見つめてゐるだけで満足な、向日葵の花に。
そして、お二人の新居の庭先で咲いてゐれば──。
(それだけでいい、それだけで私は仕合はせ)
大市電の影が結花に覆ひ被さる。
ピイ──悲鳴のやうな警笛が響く。
巨大な車輪が目前に迫