世に知られざる物語である──。
*
幾度目かの十字軍がイスラムの軍勢に惨敗し、教皇の権威が失墜しつつあった頃。
月下のコロッセオにて、古の剣闘士の如ごとく睨み合う二つの人影があった。
片方は男である。逞しい体躯を鎖帷子かたびらに包み、その手足は鉄の甲冑かっちゅうで覆われている。
片方は女である。うねる黒髪、縦長の光彩を備えた金の瞳。ローブから覗く褐色の肢体が艶なまめかしい。
「こんな所に潜んでおったか、ラダト」
「こんな所まで追ってきたのね、ロクス様」
周囲に他に人影はない。あったとしても、二人の静かな声が孕はらむ殺気を恐れ、一目散に逃げ出すであろう。
「何を企んでいる?」
男──ロクスの甲冑が蒸気を吹き上げ、変形し始める。否、それは甲冑に非あらず、彼の腕そのものであった。無数の部品が回転し、分解され、組み合わさり──右腕は蟷螂カマキリの腕のように、左腕は鎖付きの鉄球に、両足は車輪に再構成される。この機械の手足こそ、鉄の神に仕える誇り高き修道騎士の証であった。
「知る必要があるかしら?」
女──ラダトの両足が粘土の如く融合し、伸び、ぐるりと渦を巻く。それは青銅色の鱗に覆われた、大蛇の尾であった。短剣のように伸びた爪は濃紫色の毒液を滴らせ、にいと釣り上がる唇からは二股の舌が覗く。肉の邪神を奉じるカルキストのみが扱える、肉の工芸術に違いない。
「無いな、確かに──滅ぼせば済むことだ」
「ええ、お互いにね」
鉄の神と肉の邪神、その対立の歴史はローマよりも古い。二柱の神の信徒が見まみえれば、どちらかが倒れる以外の結果は有り得ない。
一瞬の静寂を挟み──。
ロクスとラダトが同時に動いた! 車輪と尾の踏み込みが瓦礫を爆散させ、鎌と毒爪が降り注ぐ月光すら切り裂く。防御を全く考慮していない、あまりに真っ直ぐな一撃──あわや相討ちかと思われた、その時。
おお、予言者カルカースにも見通せまい。鉄の修道騎士と、肉のカルキストがひしと抱き合い、逞しい鉄の腕を、鱗に覆われた尾を、愛おしげに撫で合う光景など。
「おお、忌まわしい肉の体が、何故このように美しく見える?」
「ああ、血も通わない鉄の腕が、何故こんなににも心地良いの?」
聖書の神でさえ、アダムとイヴの背信を予測出来なかった。斯様かように不可解なるは人の心──幾度も刃を交わすうち、ロクスとラダトの胸には、信仰でも抑えられぬ愛の炎が宿っていたのである。
「しかし、このような関係が許されるはずもない。どうしたものか」
「道はあります。東へ逃げましょう」
「東へ? まさか──」
「そう、背信者イオーアンネースの国へ」
その名は鉄と肉、双方の教団に伝わっている。鉄の教団にとっては、大司教でありながら肉の邪神に与くみした裏切り者として。肉の邪教団にとっては、与する振りをして邪神の力を簒奪さんだつした詐欺師として。
かくて二柱の神の力を得たイオーアンネースは、世に比肩し得る者なき超越者となり、東方に強大な帝国を興した。この脅威に対し、鉄と肉の教団は歴史上最初で最後の共同戦線を張り、イオーアンネースと彼が率いる侵略軍を討伐した──それが通説であった。
しかし、ラダトは異説を記した古文書を見た。鉄と肉の教団もイオーアンネースを倒すことは出来ず、帝国に押し返すのが限界だった。そしてかの裏切り者は、今でも王として君臨していると。
「私も信じていた訳ではありません。あの噂を聞くまでは──」
最近、バチカンの教皇庁で妙な噂が流れている。遥か東方からキリスト教を信じる王が現れ、強大な軍勢を率いてイスラム勢力と交戦中だと。
王の名はプレスター・ジョン──ジョンJohnとはイオーアンネースJoannesの訛なまりではないか。確かなことは分からない。しかし、同一人物だとしたら、きっと自分たちを受け入れ、匿かくまってくれるだろう。今や二人は、かの王と同じ立場なのだから。
「かの帝国は、ペルシャよりさらに東方と聞く。厳しい旅になるぞ」
「貴方と添い遂げるためなら、地獄までも」
*
かくて、ロクスとラダトの逃避行は始まった。
ローマから北上し、海の都ヴェネツィアへ。地中海を船で渡り、シルクロードの入口たるアンティオキアへ。駱駝ラクダの背に揺られ、カリフのお膝元バグダッドへ。メディア王国の遺跡を横目に、かつての都エクバタナへ。
道中、イスラムの人々にも出会った。しかし、プレスター・ジョンやその軍勢を目撃した者は、一人も居なかった。それでも、いつかは報われると信じ、果てしない砂漠を東へ、東へ、東へ。
砂嵐に息を詰まらせ、地獄の釜の如き太陽に焼かれ、幾度も流砂に飲み込まれそうになった。それはか弱き人の子にとっては無論、鉄の修道騎士と肉のカルキストにとっても過酷な旅であった。
それでも、自然の脅威だけであれば、二人は甘んじて受けたであろうが──。
「見つけたぞ、裏切り者め!」
どのような手段を用いたものか、追手は二人の前に現れ続けた。無論、鉄と肉双方の教団からの。襲撃に次ぐ襲撃の中、ロクスは妹のように慈しんでいた部下を、ラダトは父のように慕っていた師を、その手に掛けねばならなくなった。
「おお神よ、あの者たちに罪はありません! お咎とがめになるべきは、貴方を裏切った我々ではないですか」
一夜の宿を提供してくれた親切なキャラバンが、襲撃に巻き込まれて全滅した時、さしもの二人も膝を折り、血の涙を流して慟哭どうこくした。
「どうぞ、我々に天罰を!」
一天俄にわかに掻き曇り、遠雷が響く。しかし、裁きの雷が二人を打ち据えることはなく──見よ、雲間から差し込む光芒こうぼうが、遥か東の地平線を差した。
「──行けと宣のたまうか」
赦ゆるされたとは、到底思えない。しかし、ここで歩みを止めては、彼らの死は無駄になる。二人は悲しき骸むくろを踏み越え、旅を続けた。
ようやく砂漠が途切れ、草原地帯に差し掛かる頃、二人の体に異変が起き初めた。ロクスの手足は徐々に錆さびに覆われ、ラダトの褐色の肌は醜く爛ただれていく。幾度も追っ手を退けられた両教団が、遠方からの呪殺に切り替えたらしい。
ラピスラズリ色のモスクがそびえるサマルカンドで、二人は遂にプレスター・ジョンの真実を知った。しかし、それは思いもかけないものであった。
「不壊王──お主らが背信者と呼ぶイオーアンネースこそ、我らの王であった」
二人に馬乳酒を勧めながらそう語る老婆は、かつてエフタルと呼ばれた騎馬民族の末裔だという。エフタルこそイオーアンネースの帝国の臣民であった。
「不壊王は不老不死故、今も生きておる。しかし、この世界においてではない。鉄と肉の教団の秘術によって、異界へと追放されたのだ。王を失ったエフタルは四散し、鉄と肉を統合するという王の大望も潰えた。もう、五百年も前のこと」
ではプレスター・ジョンとは、歴史の残響と救世主願望が生み出した、蜃気楼に過ぎなかったのか。そんなものの為に、自分たちは遥々旅をしてきたのか──身内や無辜むこの民を巻き込んでまで。肩を落とす二人を見兼ねてか、老婆は躊躇ためらいながらも続けた。
「不壊王が追放された地には、異界に通じる穴が開いているという」
「その穴を通れば、我らも王の世界に渡れるだろうか」
「望みはある。しかし、鉄と肉の教団は、穴の周囲に強壮な番人を置いた。今のお主らに退けられるか?」
「賭けるしかない。どの道、我らに残された時は少ない」
*
老婆に教えられた道を、這うように進む。呪いは既に、二人の全身を蝕むしばみつつあった。彼らが通った後には、錆びた金属片と腐液が散らばった。
世界の屋根とも呼ばれる、峨々ががたる雪嶺が連なる高原。遠い未来でタジキスタン共和国と呼ばれることになる地。その地下に埋もれた宮殿跡こそが、五百年前に不壊王イオーアンネースが異界に追放された場所であった。
「これは──」
何とか玉座の間に着いた二人は、畏おそれに息を飲む。玉座の背後の空間が渦状に歪み、異界の光景が映し出されている。機械の手足を持つ民と、半獣人の民が語らい、ミルクの川を機械の船が行き交う。宝石で飾られた宮殿の宴では、未知の動物の手足と機械油が供されている。驚くべし、不壊王は追放された先の異界で、新エフタル帝国を建国していたのだ。
鉄と肉が融和した世界──まさに、二人が夢見た理想郷がそこにあった。よろめきつつ手を伸ばした二人に、番人たちが立ち塞がる。無数の歯車で構成された、象にも匹敵する巨躯の鉄人形。その表面に刻まれた操血術ヘモマンシーの文様から鮮血が吹き出し、真紅の剣を、槍を、棍を、斧を、十字弓を形成する。鉄と肉の両教団の恐るべき合作。
しかし、歩くのもやっとの二人に、最早抗う力はない。嗚呼ああ、約束の地を前に、旅はここで終わるのか──せめて死後も引き離されまいと、二人が身を寄せ合った、その時。
空間の穴が眩まばゆい輝きを放った! そして、おお、光を背に立つ、鉄の翼と無数の触手を備えた、威風堂々たるその姿。
「不壊王──なのか」
穴の向こうに立つ不壊王が、両手を差し伸べる。世界を隔てる壁が揺らぎ、鉄製の右腕と鱗に覆われた左腕が、こちら側に突き出した。だが、それ以上は出られないらしい。王の両腕は何かを捧げ持つかのように、掌を上に向けたまま静止している。
不壊王の意図を察したラダトは、懐から必死に何かを取り出した。それは毛皮の産着に包まれた──そう、ロクスとの間に生まれた子であった。
『おお、生まれたぞ!』
通商路から外れたオアシスにて、二人の子は産声を上げた。男児であった。産婆にも頼れず、ロクスが慣れぬ手付きで産湯に浸けた。
赤子の背には虫の羽程の鉄の翼が備わり、尻からはか細い触手が生えていた。それを認めた二人の眼から、法悦の涙が溢れた。禁断の関係から生まれた罪の子にも、鉄と肉の神は等しく祝福を与え給たまうたのか。
『我が妻よ、俺は今ほど神に感謝したことはない』
『我が夫よ、私もです。己の神にも、貴方の神にも』
我が子を抱く二人の頭上で、見慣れぬ星が輝いていた。救世主の誕生時にも、夜空に星が現れたと聖書は記している。それはいかなる符合であったのか。この子を必ず不壊王の国に辿り着かせると、二人は堅く誓い合った。
──そう、たとえこの身が朽ち果てようとも、この子だけは。
番人たちは静止している。あたかも不壊王の出現に恐れを成したかのように。その機を逃さず、ラダトは利き腕の筋肉をゴリアテもかくやと膨らませる。番人の一体が我に返ったように動き出し、真紅の剣を振り上げる。間一髪、ロクスが振るった錆だらけの鎖付き鉄球が刀身に絡む。番人が剣を引くと粉々に砕けてしまったが、時を稼ぐには十分だった。
「坊や、元気で」
ラダトは渾身の力で、我が子を王に向かって放り投げた。ずるり、既に腐りかけていた彼女の腕が、完全に崩れ落ちる。果たして、赤子は流星の如く番人たちの頭上を飛び越え、見事不壊王の腕に抱きとめられた。
長い旅が終わった。
「王よ、息子をお願いします」
最早、二人に思い残すことはなかった。殺到する番人たちも眼中になく、異界に去る王と我が子を見つめ続けた。
世に知られざる物語である──。
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十字架に捧げられ続ける、かの御方の土地の子供たちのために祈りを捧げます。
私たちの世界が、かの正義の剣の聖光を浴びるその日まで。
肉と鉄と聖骸の御名の下に、終わりのない世界を。
*
宮殿前広場に集まった帝国民に向かって、不壊王は赤子を掲げてみせた。
「見よ、これぞ我が故郷よりの使者である」
帝国民の大歓呼にもかき消されぬ、朗々たる声で不壊王は続けた。
「この子は力を秘めておる。いずれ、二つの世界の架橋となるであろう。その時こそ、鉄と肉の真の融和が叶うのだ。この子を王子として、余に等しい忠誠を捧げよ」
国を挙げての祝宴が準備される中、大法官が恭うやうやしく進み出る。
「恐れながら陛下、王子殿下の御名は如何いかに?」
「ふむ、名か」
不壊王が赤子の産着を捲まくり上げると、刺繍ししゅうによる文字が顕あらわになった。J、O、H、N。
「あの者たちの読み方では──ジョンか。嘉よい名だ」
世に知られざる物語である──今は、まだ。