調査報告: "黄泉の国アパート"
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 サイト-8177の食堂は喧噪に包まれていた。
 日奉いさなぎ 千種ちくさはきつねうどんをトレイに載せて、その中で一人席を探していた。
 ここ南部食堂は千種の勤務先である八幡信仰研究所に近く、それゆえ食事を楽しむ人々の顔触れは彼女の見知ったものばかりである。しかし、千種が誰かと相伴することはない。彼らもまた、あいさつや会釈こそすれ、同席を誘うことはない。
 同僚の多くは、彼女が近寄りがたい人物であると思っている。謹直だが融通が利かず、他人と打ち解けるような雰囲気ではないと。
 皺一つないスーツに黒い長髪を束ねた彼女があたりを見回す。今日はひときわ人が多く、一人で静かに食事を済ませるべきスペースは見つからない。


 (──あ)
 誰かが千種の背中を押した。うどんの汁が揺れてこぼれ、親指を熱した。
「も、申し訳ないっす! よそ見してました!」
 千種が振り返ると、サイト-8177では見覚えのない男が立っていた。長身でカジュアルなジャケットを着ている、およそサイト内には場違いな格好の男だった。トレイには大盛のカツカレーが乗っている。
「ごめんなさい、俺このサイトに来るの初めてで、頑張って皆さんの顔を覚えようと思っていて──いやあ、このサイトって美人さん多いっすねえ。もちろんあなたも含めて! 手、熱くなかったっすか? 俺、何か冷やすもの持ってきます!」
「いえ、お気になさらず。やけどするほどの熱さではなかったので」
「そうっすか? あ、紙ナプキン使ってください!」
 ゴミ箱の上にトレイを置き、男はそばに置いてあった紙ナプキンを10枚ほど取って千種に渡した。
「ありがとうございます。でも、そんなにいりませんよ」
「そうっすか? いや、本当に申し訳ないっす」
 千種は男から数枚ナプキンを受け取った。
(異質だ)
 と思った。サイト-8177にはいないタイプの人物であるのと同時に、千種が今まで出会ってきた人々──そして、千種自身の人格と照らし合わせても、男のような人間は異質であった。
「そうだ。これも何かの縁ですし、一緒に食べません? ほら、あそこの二人組がちょうど席を立ちましたし」
 男はそういって振り返り、人懐っこい笑顔を見せた。


「千種さん! あなたが機動部隊い-2の千種さんですか。お噂はかねがね」
「はい、千種ちくさ 朱美あけみと申します」
 千種は名乗り、うどんをすすった。
 千種は日奉いさなぎという姓を嫌い、普段はそのような偽名を名乗っている。日奉一族──古代からこの国の超常的権威を担う氏族のひとつであり、財団日本支部の前身である蒐集院の中枢に密接にかかわってきた一族。その血を受け継ぐ者のほとんどが何らかの異常性を有しており、特に宗家においてはその血が薄まらぬよう、過酷な排外主義を貫いてきた。銃後に財団日本支部が設立される前後、落陽事件という凄惨な事件が発生し、宗家・分家にかかわらず一族の各々は財団派・反財団派に分かれ、入り乱れて全国に散らばっていった。
 千種は宗家に連なり、財団日本支部に合流してその中枢に収まった女の子孫だった。その異常性は神格召喚、神格感応、神格憑依能力──そして、それらにおいて傑出した成果を与えることが可能な、極度に優れた認知抵抗値であった。
「あ、俺も名乗んなきゃっすよね──俺、マンドラゴラっていいます」
「まんど──なんですって?」
「マンドラゴラ。オオカミに毒って書いて狼毒マンドラゴラっす。覚えやすいでしょう? 俺、この名前気に入ってんすよね」
「──覚えはしましたが──偽名ですか? 本名ですか?」
「さて、どっちでしょう?」
 男は屈託なく笑った。冗談に思えるが、嘘をついているようにも見えない。千種は困惑した。いよいよ千種の経験にはない人柄だった。
「あなたは今回、このサイトに何を?」
「打ち合わせっす。八幡研っていうところで」
「八幡研は私の勤務先です。あなたは──その格好だと、フィールドエージェントですか?」
「収容スペシャリストっす。瑞穂所長は俺のこの前の作戦の成果に注目したっていう話っす。稀有な能力だって」
「能力──あなたは何か──」
「テレキネシスっす。軽トラくらいまでなら、こう、ずずずいっと」
 男はそういってカツカレーに手をかざした。スプーンがひとりでにふわふわと浮き始めた。
「──とまあ、動かせるんすが──ここだとそんな自慢できないっすよね」
「いえ──異常性は人と比べるものではありません。それをどうやって有益なものにするかだと思います。それに、テレキネシス能力はありふれたものではありません。財団でも操れる人員は限られているかと」
「そうっすかね。でも、俺が元いたところでは散々馬鹿にされたんすよ。お前の能力は弱いって」
「──元いたところとは?」
「実家っす。日奉いさなぎ家っていう妙なところで、俺、16の時に家出して、ここに流れ着いたんす」


 千種は箸を置き、男を凝視した。
「──なんですって?」
「な、なんですか? 顔怖いっすよ、千種さん。確かに最近は色々人騒がせな一族っていうのは理解していますが──」
「日奉家から──家出したのですか?」
「す、すいません。何か癇に障ったんなら申し訳ないっす」
 男は頭を掻きながら俯いた。
 千種の曾祖母は日奉いさなぎ まきといい、蒐集院の中枢にかかわる人物であるとともに、蒐集院が作製した神格「八幡大菩薩」の依り代も務めていた。財団はこの神格をSCP-2218-JPというThaumielクラスオブジェクトに指定し、同時に槇の子孫の女性に神格の依り代として耐えうるほどの認知抵抗値を与えるため、授精をその管理下でおこなった。
 そのような作業が繰り返された結果、千種は神格への対応に関してこの上ない人材に培養された。そして、この授精作業は千種自身にも数年後に執り行われる予定だった。
 千種の曾祖母も祖母も母も、愛すべき相手を知らぬまま子を産み育てた。千種もまた、そのうち誰とも知らぬ相手の種をはらみ、子をなすことが通知されている。その通知では、交配プログラムなどという生々しい呼称が使われていた。
 千種はそのような境遇に置かれてもなお自身の職務をも全うした母親たちに無二の尊敬を感じるとともに、自身の生き方の規定に対して心血を注いだ。日奉一族宗家の優れた血を受け継ぐ者として、揺り籠から財団に面倒を見てもらったことへの恩返しとして、当然その器量の全てを財団に捧げるべきであると思っていた。
 しかし、千種の目の前に座っている男は、自分の生まれ育った家から逃げたのだという。
 千種は怒りを覚えた。
「なぜ──逃げたのですか?」
「え? だってまあ、さっきも言いましたが本家筋のえらい人たちに散々うるさく言われたんですもん。お前の能力は珍しいだけの無用の長物だ、家督を継ぐ者として死にもの狂いで努力しろって。俺、分家の長男だったんですけど、家を継ぐとかもうすっかり嫌になっちゃって、家を出ました。もちろん追っ手もすごかったですけど、なんとか逃げ切って、財団に転がり込むことができたって感じっす」
「長男であるにもかかわらず、あなたは家を捨てたのですか?」
「はい。俺の人生は俺が決めるんだって思ったんで」
(無責任だ)
 千種は男をにらんだ。


 八幡信仰研究所に到着し、千種は所長室に入室した。
「今回の任務内容は」
 瑞穂 恆和所長は切り出した。
「いつもとは違った任務になろうと思います。岐阜県某所のアパートの一室に不明な神格実体が顕現しました。入居者は成人女性一人でした。既に周辺住民は退避させており、その神格のみが部屋に留まっている状況です」
 千種は今までの任務を思い出した。
 八百万の神というように、世界と比較しても日本にはきわめて多数の神格がひしめいている。したがって、日本においてはそのような神格召喚や顕現の報告が非常に多い。
 加えて近年、日本国において神格召喚や顕現の報告が明らかに増加している。ヴェールの外にいるはずの民間人でさえも、偶発的原因や独自研究によって各神格にアクセスすることができたという報告が増え続けている。
 千種は神格「八幡大菩薩」をはじめとした協力的な神格の力を借り、そのような敵性神格への対抗を担当する第一人者の一人であった。
「それで──それはどのような規模ですか?」
「それがですね」
 恆和は机の上の書類に目を落とした。
「相当大きなものであることが示唆されますが、詳細は不明なのです。Dクラス職員による調査が実施されましたが、十分な認知抵抗値を有していない人間では、アパートの敷地に入った直後に昏倒して使い物にならなくなってしまう」
「では、機動部隊い-2を出動させては?」
 千種は提案した。千種が所属する機動部隊い-2("扇の的")は神格「八幡大菩薩」の霊力を応用して神格実体を鎮圧するための機動部隊であり、そのような敵性神格の無力化に関しては適しているはずだった。
「そうしたいのは山々なのですが」
 恆和はかぶりを振った。
「当該領域は厄介な性質があります。領域内に持ち込んだ金属類は速やかに酸化し、朽ち果ててしまうのです。これは銃火器などの各種装備も含まれます」
(水神だろうか)
 千種は思った。金気は水を汚すから、金気を嫌うのは水に関係する存在が多い。しかし、金気は山を枯れさせ、田畑を汚す。加えて、破邪退魔の象徴は剣である。したがって、金属に関する神格以外、善悪問わずほとんどの神格や霊的実体は金気を嫌うと思ってよいだろう。
「接近するだけで金属を朽ちさせることから、相当な規模の神格であることが予想されます。しかし──この性質のために、今回各種装備を携帯している『扇の的』の各隊員を派遣するのは困難であると考えられます。よって、今回は千種さんにもう一人、十分な認知抵抗値を有する人員を付け、内部への探索を実施することを求めます。各種機器が持ち込めないためこちらからのサポートはできませんが、確実な生還をお願いします」
 千種の強みは、ほとんど自在に神格を召喚し、その力を借りることができることだ。しかし、今までこのような少人数で実地調査を行う経験はなかった。常に機動部隊い-2の各種装備によってサポートを受けつつ、千種は能力を行使していた。
「たった二人で作戦を遂行することは可能なのでしょうか」
「もちろん、補助にあてるべき式神や神使などの召喚が推奨されます。加えて、今回の同行者は異常性を有する収容スペシャリストです。人数は二人といえども、実際の遂行能力は大きなものになるでしょう」
「──それで、もう一人の参加者というのは?」
「もうすぐ来ると思いますが──」
 その時、所長室にノック音が響いた。恆和は入るように促した。
 カジュアルな格好に身を包んだ長身の男が入ってきた。
「千種さん、よろしくお願いします!」
 男はそういって、にこにこと笑った。
(考えさせてください)
 千種はそう言いかけた。


 八幡研の会議室のひとつで、千種は狼毒に向き合っていた。
「俺も日奉の端くれなんで」
 狼毒は資料をめくりながら言った。
「神とか霊とかは多少知ってるんすが、千種さんみたいにエキスパートじゃないんで、いろいろご教授いただきたいっす」
「……」
 千種は沈黙していた。狼毒は続けた。
「俺も幸い認知抵抗値はクリアしていたらしいんで、千種さんをいろいろサポートできると思います。とはいっても、何かを動かしたり、浮かせたり止めたりするぐらいっすけど」
狼毒マンドラゴラさんは」
 千種は話題を変えた。
「家からの出奔に抵抗はなかったのですか?」
「──そりゃあ、俺も長男ですし、周りからの妨害はすごかったですが」
「そうではなくて」
 千種は再び言い知れぬ怒りを感じ始めた。
 日奉の血に連なる異常性を有する人々は、一方では財団に人型オブジェクトとして収容され、一方では財団の協力者として迎えられている。中にはスタッフとして雇用された例もある。千種や目の前にいる男がその例である。この匙加減は運やタイミングも大きく影響するだろうが、基本的には異常性の性質の善悪や制御の可不可によって決められるものであろう。
 出生の瞬間から財団に理念を叩き込まれ続けてきた千種にとって、異常性を有する立場でオブジェクトとして収容房に閉じ込められていないという状態は特異なことであり、財団の方策と温情に感謝すべきことであった。その後母親たちに対して行われた財団の施策内容を知ってからは、千種は個人が異常性というものを有している以上、所属する組織にその能力を用いて貢献しなければいけないと考えるようになった。それを通じて、母親たちと自分の状況や運命が当然のものであると自身に言い聞かせ、やがて千種はそのように自身の人格を規定することに成功した。
 千種にとって、狼毒は自身の資産を組織に貢献させることを放棄した、無責任で放漫な男であった。
「組織に生まれたからには、その能力は組織のために用いるべきです。いくら能力が評価されなかったといえども」
「いやあ、俺も一時期は頑張ったこともあったんです。でも、ダメでした。それどころか口さがないやつからは『せっかく大層な名前をつけてもらったのに、これじゃ名前負けだ』と散々馬鹿にされまして、すっかり嫌になったんです」
「だからといって──」
 千種は言いかけ、口をつぐんだ。任務に関係のない話題に拘泥した己を恥じた。
 千種は不調法を詫び、自身と母親たちの運命について──日奉の名は出さずに──狼毒に語った。
「──はあ、財団ってそういうところは徹底してますね。千種さんの能力の高さにそんな秘密があったなんて。自分、今までぬくぬくと財団のお世話になってましたけど、そのような方がいるなんて知りませんでした」
「はい。私の能力はそこに根ざしています。ですが財団の手によって作られ、財団のもとで生まれた以上、義務と責任は果たさなければと思っています」
「でも──そうやって自分の境遇を受け入れてここで大活躍してるなんて、千種さんは──なんというか、かっこいいっすね」
 狼毒は心底感心するかのような顔をした。


 千種と狼毒は連れ立って所長室に向かい、恆和に任務を受けることを報告した。
(軽薄なところもあるが、悪い男ではない)
 隣に立つ狼毒を横目で見ながら、千種は改めてそう思った。


 千種と狼毒は離れた場所で車両を停めて降り、アパートに歩いた。
 二人はアパートを見上げた。曇り空の下で、アパートは瘴気に包まれていた。パイプなどの金属類はすべて錆び果て、ぼろぼろになっている。
 千種は機動部隊い-2の任務中における常装を身に着けていた。頭に黒い額当ぬかあてをいただき、長い黒髪を結んで後ろに垂れ下ろしている。純白の表着うわぎはかまを合わせた浄衣じょうえに身を包み、背中に梓弓あずさゆみを背負い、腰に大麻おおぬさを差し、懐に散供さんぐなどの各種呪具を忍ばせている。標準的な対神格戦闘用装束であった。
 それに対し、狼毒は千種の浄衣と同じくらい真っ白な対アスペクト放射用クラスC防護服を身に着け、背中にリュックを背負っていた。
 無論、無防備であるように見えても千種の装束はクラスC防護服に匹敵する防御性能を実現している。
「千種さん、俺も千種さんみたいなかっこいい服装したかったです。俺はこんな汚染区域に入る時みたいな格好しているのに、千種さんはそんな格好できるってずるいっすよ」
 透明なカバー越しに狼毒は口を尖らせた。


 アパートの近傍に、用水路にかかった小さな橋がある。
「潜入の前に」
 その橋の上で反閉へんばい──足さばきを通じた術式を行いながら千種は言った。
「一柱、補助となる神格を召喚します。どうやらここら辺は相当穢れが強い。配付された精神安定剤のみに頼るのは心もとないですから」
「そんな簡単に呼ぶって──俺の実家でもそんな気軽さはありませんでしたよ」
 狼毒は半ば驚き、半ば呆れた。
 日本では1000年以上にわたる神仏習合を通じ、各神格がほぼ完全な仏教の影響下に置かれた。本地垂迹、神本仏迹という相互作用を経た結果、機動部隊い-2が頼る神格「八幡大菩薩」を含め、日本の神格は簡便な仏教的操作、術式にも容易に呼応することが明らかになっている。この事実を活かし、千種は神道だけでなく、密教、陰陽道、修験道、方術、呪禁じゅごんなどのありとあらゆる系統の術式をないまぜにした独自の巫術を編み出していた。
 千種は両手の中指、薬指、小指を組んで普賢三昧耶ふげんさんまや印を結び、真言六字大明呪の第一字を鋭く叫んだ。
おん!」
 直後、千種の近傍に女性の形をした実体が出現した。実体は千種とは対照的に黒い留袖に黒い帯を締め、黒髪を肩のところで切り揃えていた。そして、黒い不織布マスクを着用していた。
「──何、千種ちゃん? なんでこんな空気の悪いところにいるの?」
 女性実体は顔をしかめ、咳き込みながら言った。
「──何その手印。あんた、まさか大神おおみかみを呼ぼうとしたんじゃないでしょうね?」
「いえ、貴神を想定していました。もちろん、あわよくば大神がいらっしゃってほしい、とも思っていましたが」
 千種はにこりともせずに返した。
「おお、なんとおそろしい。いくら私たちが現れやすくなったからって、それはちょっと人使い、いや神使いが荒いんじゃない? おあいにく様、大神はあいかわらず忙しくていらっしゃるからね。私が来たよ」
「はい。呼びかけにお応えいただき感謝します、瀬織津姫せおりつひめ神」
「瀬織津姫って、祓戸大神はらえどのおおかみっすか? 確かにふさわしいっすけど、こんな気軽に──」
 狼毒は開いた口が塞がらない。
 瀬織津姫。祓い清めを司る神の一柱であり、天照大神の荒魂と同一視されることもある。黄泉の国の穢れを祓い清めるには最適の神格であった。
「それで」
 瀬織津姫は振り返った。
「この青年は?」
「今回の作戦に協力してくれる方です。日奉の血をひいています」
「あ、そうなの?」
 瀬織津姫は狼毒の顔を覗き込んだ。
「君、名前は?」
「あ、はい。マンドラゴラっていいます」
「まんど──なんだって?」
「オオカミに毒って書いて、マンドラゴラって読むんです」
「ふぅん──狼毒ろうどくね。なるほど」
 瀬織津姫は何回かうなずいた。
「それで、マンドラゴラって横文字をあてるのね。ということは、イサナギマンドラゴラって名前? そんな名前つけるなんて、いつから日奉はそんなに今風になったの」
「──実は、元々の名前は別でして。財団に入る時に心機一転するために名乗りを変えたんです」
「元の名前は?」
「あー、金鳳花きんぽうげっていいます」
「金鳳花? それで、今はマンドラゴラ?」
 瀬織津姫は千種と顔を見合わせた。
「──君、名前負けしてない? ねえ、千種ちゃん」
 千種は首肯した。
「ひどい! 俺、もう信仰してあげませんから!」
「それは困るかもね」
 瀬織津姫はそう言って笑った。


 二人は一階のエントランスホールに立った。瘴気は一段と濃くなっている。
 千種は右手の人差し指と中指を立てて刀印とういんを結び、足を踏み入れた。狼毒がそれに続いた。瀬織津姫は非実体化して近傍に侍し、二人に対する瘴気の影響を軽減していた。
「神格が顕現したと思われる場所は」
 千種は言った。
「最上階である六階の602号室です。エレベーターは当該領域の異常性によって使い物になりません。外部の階段を用いましょう」
「了解っす」
 狼毒は神妙な面持ちでうなずいた。
 外階段は一階エレベーターホールの右手にあった。そこに続く扉の前に、実体が一つ座り込んでいた。
 白い髪はぼさぼさとして、その身体の多くを隠していた。黄色く染まりぼろぼろになった布のみをかろうじて身に着けており、その肌は灰色に乾いていた。四肢はやせ細り、爪は長く、髪の間から垣間見える顔は多くのかさに覆われていた。
 千種は足を止め、刀印を顔の前に構えた。
「千種さん、あれって──」
 狼毒はおびえ、千種の陰に隠れた。
 実体は千種と狼毒を認めると、しゃがれた声を上げながら、俊敏な動作で襲い掛かった。
「バン」
 千種は刀印で五芒星を宙に描き始めた。
「ウン・タラク・キリク・アク」
 五仏真言を唱えながら五芒星を描き切った後、千種は中心に点を打った。晴明紋が完成し、破邪の斥力が実体を押し戻し、引きちぎった。
 実体は踏み潰されたカエルのように短い断末魔を上げながら、壁に身体の破片を飛び散らせた。
 狼毒はため息をついた。相変わらず千種の後ろに縮こまっていた。
「──さすがっす。俺、実際にこういう戦闘を見たことが無くて」
「情けない。それでも神殺したる日奉の血族ですか? 瑞穂所長はあなたの能力に期待したのでしょう。もっとしゃきっとしなさい」
「め、面目ないっす」
 狼毒はおそるおそる実体の残骸に近づき、間近で観察した。
「油断しないでください。この穢れにこの姿──心当たりがあります。おそらく、まだ複数残っています」
「そ、それってもしかして──アレっすか? あの、黄泉の国にいるっていうアレ」
「アレと言われても困りますが──そうですね、おそらく泉津醜女よもつしこめでしょう。まだまだ多くの個体が現われることが予想されます」
 千種は言った。泉津醜女は黄泉の国から逃げ帰るイザナキを追いかけるためにイザナミが遣わした存在である。千種は瘴気の性質と実体の容貌から、実体が泉津醜女であり、このアパートが黄泉の国と同様の性質を有していると推測していた。
「ごめんなさい、俺、結局そういう巫術とか調伏とかの才能が無かったみたいで、千種さんみたいなことはとうてい」
「──先日も言いましたが、異常性は優れている、劣っているではなく、どう使うかです。あなたはテレキネシスという比較的珍しい力を持っている。それをどう使うか考えてください」
「そうよ。私のサポートもあるんだからね。しっかりしなよ、マンド君」
 瀬織津姫が実体化し、狼毒の肩を叩いた。


「通常、黄泉の国は下方向に広がっていますが」
 階段を踏みしめながら千種は言った。
「このアパートの場合、上に上がれば上がるほど深奥に近づいていくようです。したがって上がれば上がるほど攻撃も増すと思われますが──外階段を上る際、外に投げ出されればさすがの私も対応できません。その時はマンドラゴラさん、あなたのテレキネシスで支えていただけませんか?」
「もちろんす! 任せてください」
 狼毒は親指を上げて見せた。
 千種、狼毒の順番に、二人は外階段をゆっくりと上がっていた。近傍には非実体化した瀬織津姫が控えている。千種は梓弓を手に持っていた。
 三階に着いた際、一体の泉津醜女がエレベーターホールからおどり出てきた。
 千種は梓弓の弦をひっかき、鳴弦めいげんを行った。不可視の矢が実体の右脚を貫いた。
 飛び上がって苦悶する実体に対し、千種は晴明紋を描き、調伏した。
 狼毒は再び感嘆のため息をついた。
「すごいっす、千種さん。もう俺、なんにもすることないっすよ」
「油断はするなと言っているでしょう」
 千種は振り返らずに言った。
「階層を上がれば上がるほど危険が増すのです。それに、よく考えてください。ここが黄泉の国と同じ性質を持っているならば、ここにいるのは泉津醜女だけではないはずです」
「え、それは──」
 狼毒が言いかけた時、突然閃光と爆風が二人を襲った。狼毒は思わず顔を伏せた。
 狼毒が顔を上げると、千種が持っていた梓弓が真っ二つに折れていた。
「な、なにが──」
 狼毒は千種が見上げている方向に目を向けた。
 黒い雲が8つ、アパートの周りを飛び交っていた。よく見ると、それぞれの雲の上には小さな人型実体が乗っていた。頭は大きく、手足は短い。目は飛び出るほど大きく、口も耳まで裂け、鋭い牙をのぞかせていた。
八雷神やくさのいかづちのかみで間違いないでしょう。神話に語られる1500の軍勢を率いていないだけよしとするべきですね」
 そういって千種は実体群をにらんだ。
 イザナミの遺体の8つの箇所から出現したとされる8柱の雷神は、泉津醜女と同様にイザナキを追跡するために遣わされた。泉津醜女が敵対的である以上、雷神たちも同様であろうと千種は考えた。


 千種は大金剛輪だいこんごうりんの印を結んだ。
 雷神たちは叫びながら次々と稲光を光らせ、二人に電撃を浴びせ続けた。大金剛輪印による八幡大菩薩の加護が二人を守護した。
「しかし」
 千種は雷神たちをにらみながら言った。
「こうも数が多いと、私も守りに徹するしかありません。厄介ですが──このまま階段を上っていくしかないでしょう。しかし──この状態で泉津醜女が来たりすれば、少々困りますね」
「そうっすね──」
 狼毒は首肯しながら、雷神の動きを観察した。
 日奉家の分家の長男として、狼毒もまた神格の対応に関する教育を受けたが、その実体を目にするのは初めてだった。
(神格実体もまた自分たちのような術式を用いるのだろうか)
 狼毒は思った。術式には様々な体系があるが、基本的にそのほとんどがキネトグリフ──つまり体肢の動きの組み合わせによって実現されることが知られている。先ほど千種が行った術式のように、神格実体もまたキネト学的動作を通じた奇跡論行使を用いるのだろうかと思った。
 狼毒は観察を継続した。雷神たちは相変わらず矢継ぎ早に雷撃を浴びせてくるが、その際右手を一定の動作で動かしていることに気づいた。
 狼毒は雷神の一つに手をかざし、テレキネシスを行使した。雷神は困惑したような表情を浮かべ、動きを止めた。その雷神が雷撃を用いることは無くなった。
「千種さん」
 狼毒は言った。
「雷神たち、雷撃のときに右手を動かしています。あの動きを止めると、攻撃ができなくなるらしいです」
「──なるほど」
 千種はうなずいた。
「マンドラゴラさん。一度にどれくらいの実体の動きを止めることができますか?」
「そうっすね。散らばっている相手に一気にかけることはできませんが、狭い範囲に集まってくれれば、まとめてでも」
「集める──ですか。それはすこし──」
 千種は沈黙した。
「──あ、そうだ。俺自身が集めれば──」
 狼毒は両手を用いて、雷神たちに対する能力の行使を開始した。
 雷神たちはテレキネシスを受け、不可視の力に押された。やがて雷神は一つの場所に集まり始めた。
 雷神たちが集合したところで、狼毒は両手をひねった。雷神たち全員の動きが停止した。雷神たちは狼狽の声を上げた。
「く──宙に浮いているやつはまだ動かしやすいっすけど──結構疲れますね。千種さん、オーケーっすか?」
「十分です。お見事です、マンドラゴラさん」
 千種は微笑し、印を解いた。そして、普賢三昧耶ふげんさんまや大金剛輪だいこんごうりん外獅子げじし内獅子ないじし外縛げばく内縛ないばく智拳ちけん日輪にちりん隠形おんぎょう──九字の手印を、破邪の呪文を唱えながら次々と結んだ。最後に、
「急急如律令奉勅」
 とつぶやいた。
 破邪退魔の閃光が雷神たちに向かって放たれた。
 雷神たちは奇声を上げ、次々と霧散していった。
 ふう、と狼毒は息をついた。
「よかったっす。あんなやつらにも俺の能力が効いて。正直俺、千種さんの力を見て俺の力なんか役に立つことあるかなあとか思ってたんすけど、なんとか役に立ったようでよかったです」
「ええ。やはりあなたの能力は十分有用です。日奉から馬鹿にされる筋合いはありませんよ」
「そうっすかねえ。金鳳花なんて名前、お前にはもったいなかったって散々言われたんですが。まあ、他のやつの能力は、なんというかもっと派手だったっていうのもあるかもっす」
 狼毒は苦笑いした。


 二人は階段を上り続けた。
 途中、階下や階上、エレベーターホールから泉津醜女の襲撃に遭ったが、狼毒のテレキネシスと千種の巫術を用いることで、安定した撃破に成功していた。
「千種さん、俺たち良いコンビじゃないっすか」
「そうよ、千種ちゃん。ずっと見てたけど、なかなかいい組み合わせじゃない」
「ねー、神様もそう思いますよねー!」
 狼毒が笑い、実体化した瀬織津姫が茶々を入れ、二者は千種の背後ではしゃいだ。千種は咳払いをした。


「それで」
 階段を上りながら千種は言った。
「財団に入る時にマンドラゴラと名乗ったのですね。なぜわざわざ名乗りを変えたのですか?」
「そうっすねえ──やっぱり、実家にはあまりいい思い出が無かったので。これからここで第二の人生を歩むんだ、って思ったときに、名乗りも変えてしまおう、って思ったんです」
「第二の人生──ですか」
「ええ。結果的に財団にはいい待遇をもらえたんで、大正解って感じです」
 狼毒は笑った。
 千種は考えた。千種はこれまで、自分の人生に疑問を感じたことが無かった。たとえ感じたとしても、母親たちがたどった轍として、当然自分も享受するべきだと自らを律していた。人生に対して口を挟む権利がもし自分にあったならば、何に文句を言おうとしただろうかと千種は思った。
「マンドラゴラさん」
 千種は振り返り、頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「ど、どうしたんすか、いきなり」
「あなたと初めて会った日、日奉から逃げたと言ったあなたを、私は自分の役目から逃げたと心の中で批判していました。でも今は──逃げるという選択をして、実際に逃げることができたあなたに憧れます。あなたのように、自分の人生に疑問を持ち、行動に移す勇気がある人は立派だと思います」
「そ、そんな立派なものではないっすよ。自分のために逃げただけっす」
「しかし、結果的に現状が好転しているのは、判断が正しいことを示していると思います」
「いやあ、照れますねえ」
 狼毒ははにかんだ。
「俺はこんなところにいるべきじゃない、って思って考えて、それで実行に移しただけっす。千種さんは──」
「?」
「何か、やりたいこととかはないんですか?」
「……」
 千種は沈黙した。
「余計なお世話かもしれないっすけど、もしあるんなら、勇気を出して向かっていけばいいんじゃないっすか? ──説教臭いっすね、すいません」
 狼毒は頭を下げた。
 千種は沈黙を続けていた。
(恋を経験したい──なんて言えるわけがない)
 千種は再び階段を上り始めた。あわてて狼毒が続いた。


 やがて二人は最上階である六階に着いた。空は赤色に変色し、瘴気もきわめて濃くなっていた。
「おそらく──黄泉の国の内部と同じほどの穢れになっています。瀬織津姫神がいなければ、私でも危ないかもしれません」
 顔をしかめながら千種は言った。
「──千種さん。今更なんすけど、今回の調査ではどこまでを目標にしますか?」
「とりあえず、602号室を探索しましょう。可能ならばこの異常性の原因の特定を行い、容易な収容ができるようにしたいところです」
 二人は外階段からエレベーターホールを抜け、602号室に向かった。
 エレベーターホールの先を左に曲がると、奥から二番目にある602号室の玄関扉が見えた。各部屋の中で唯一扉が半開きになっていた。
「あの部屋です」
 千種と狼毒は歩を進め、やがて二人は玄関扉の前に着いた。
 扉は損壊し、上手く閉まらないようになっていた。
「おそらく、醜女や雷神たちがこの部屋から出る際に破損したのでしょう。扉を閉めることで異常性の軽減を行うことはできないようですね」
「ち、千種さん。やっぱりこの部屋に入るんすか?」
「収容スペシャリストが何を言っているんですか」
「面目ないっす。でも、こんな狭い部屋で収容作業をしたことはなくて」
「突入の前に」
 おびえる狼毒をよそに、千種は狼毒を正視しながら言った。
「マンドラゴラさん。今回、この部屋には何の神格が顕現しているのか、予想はつきますか?」
「えっと──こんなに黄泉の国が強調されてるってことは、やっぱり──イザナミですか?」
「ええ」
 千種はうなずいた。原初の母神であり、夫のイザナキと訣別した後は黄泉津大神よもつおおかみとして死者の国たる黄泉の国の主となった女神である。
「イザナミという大規模な、しかも黄泉の国に留まっているであろう神格がこのような民間人の居室に顕現すること自体信じられませんが──おそらくそうでしょう。その場合、何に一番気を付けなければいけませんか?」
「え、えっと──」
 狼毒は日奉家で学んだ神話を思い出した。
「──あ、見てはいけない──ってことっすか?」
「そうです。『見る』という行為は対象と自身との境界を曖昧なものにする。清浄神聖なものであれ、不浄で穢れたものであれ、見ることでそれに付け入る隙を与え、あちらに引き込まれてしまいます。特にイザナミは神話でも語られる通り、自身の姿を見た相手を執拗に追いかける性質を持ちます」
「ど、どうすれば──」
 千種は懐に手を入れ、中から折り紙を出した。折り紙は既に折られており、馬の形を精巧に模していた。
 千種が折り紙に式神を付すと、折り紙は馬のようにあたりを走り始めた。千種は折り紙を部屋に突入させた。
 やがて、馬は玄関から再び現れた。
「この部屋の間取りは1Kです。式神に部屋をぐるりと回らせてもあちら側に引き込まれていないということは、部屋の中には神格はいないと思われます。あるいは既に消失したのかもしれません」
「そうっすか。ちょっと安心しますね」
 千種は大祓詞おおはらえのことばを唱えた後、扉を開いて足を踏み入れた。狼毒はこわごわと後に続いた。


 部屋の中は雑然として、食品包装やペットボトル、ティッシュや髪の毛が散らかっていた。金属類はすべて錆びており、部屋を赤茶色に汚していた。金属の骨組みを持つ棚は朽ち果て、倒壊していた。
「だいぶ荒れた生活だったようですね」
「ええ。足の踏み場もありません」
 狼毒はかがみながらノートや錆びたパソコンなどを回収し、リュックに入れていった。ノート類には詳細不明の恨み言が書き連ねてあった。
「大方、なんか恨みつらみを募らせて、神格召喚を試みたってところでしょうか」
「ええ。ですが、今はあまり調べないでおきましょう。ノート類がオブジェクトになっている可能性があります」
「確かに、それは大いにあり得ます。まあそこらへんはまた他の職員に調べてもらうとして、とりあえず無事に終わりそうっすね」
 リュックに物品を詰めながら狼毒が言った。
 千種は部屋を見回していた。その足元にペットボトルが転がってきて、千種の足に当たった。
「──マンドラゴラさん。この部屋、傾いてますか?」
「え、そうっすか? 全然気になりませんけど」
「そうですか。気のせいかもしれません」
 千種がそう言ったとき、棚から本が落ちた。二人はその方向を向いた。
「ち、千種さん。俺、別にテレキネシス使ってないっすよ」
「ええ──ポルターガイスト現象かもしれません。今のところはまだ大丈夫そうですが、早々に退避した方がよさそうですね」
「そうっすね。こんなところに長居は無用っす。帰って報告しましょう、千種さん」
「ええ。神格はどこに消えたのか、というところだけ引っかかりますが──」
 千種はそう言って部屋の中を歩き、改めて調べた。クローゼットの中にも収納の中にも不自然な点は見られなかった。
 その時、またしても部屋の隅から何かが倒れる音がした。千種は目を向けた。
 二つのプラスチックの容器が目に入った。一つは塩素系漂白剤、もう一つは酸性洗剤のボトルだった。
「──塩素による自殺──」
「え、なんですか?」
 狼毒はかがんで作業を継続しながら言った。
(うかつだった)
 千種は後悔した。
(式神による探査がルーティンになっていて、ここがアパートの居室であることを失念していた。廊下と居室を調べるだけでは不十分だった。1Kという単純な作りによって忘れていたが、この部屋には──)
 千種は洋室の出口、玄関に続く廊下の方向に向き返りながら言った。
「──マンドラゴラさん。あの式神の探査は不十分でした。調べていないところが──」


 そう千種が言ったとき、狼毒の背後、廊下の方で何かが開く音がした。
「──そのままで、マンドラゴラさん!」
 千種は鋭く叫んだ。狼毒は立ち上がって振り返ろうとしたが、ためらった。
 千種は懐から呪具を取り出そうとしたが、その手はそれによって封じられた。それはもう片方の手で千種の首を圧迫し、そのまま千種を洋室から廊下へ引き寄せた。千種は苦悶の声を漏らした。
 千種の先ほどの忠告が頭をよぎったが、意を決して狼毒は千種の方を向いた。


 不明な実体が、千種の手と首を圧迫していた。実体は長髪を有する全裸の女性であるように見えたが、全身は腐乱して変色し、蛆と腐汁をまき散らしていた。
 狼毒はテレキネシスを行使して引き留めようとしたが、千種の動きは止まらなかった。それどころか、狼毒を含め、洋室にある物体の全てが不明な力で廊下の方向に引っ張られていた。
 手と首を握られた千種は、やがて洋室から見て廊下の左手にあった浴室の前まで引き寄せられた。
「千種さん!」
 狼毒は叫んだ。
 千種は狼毒に目を向け、何かしゃべろうとしたが、首への圧迫のため声にはならなかった。
 やがて千種は実体とともに浴室に吸い込まれ、浴室の扉は勢いよく閉じられた。
 狼毒たちを引っ張っていた力は止み、静寂があたりを包んだ。


 狼毒は呆然と浴室の前に立った。浴室の中は暗闇で何も確認できなかった。
 このような場合どのように対応すればよいのか、狼毒は頭を巡らせた。本来ならば千種は作戦行動中行方不明Missing In Actionとして指定され、狼毒は回収した物品と作戦の報告を携えて速やかに帰還するべきだった。
 しかし、狼毒は浴室の前から動けなかった。
 狼毒は扉に手を添え、ゆっくりと開けた。


 内部は浴室ではなく、別の空間につながっていた。
 そこは夜の山の中のように見えた。空は暗く、月や星の明かりは全くない。鬱蒼とした森の中に荒れた道がまっすぐに続き、ゆるやかな下り坂になっていた。
黄泉平良坂よもつひらさか──」
 狼毒はつぶやいた。千種はこの道の先に連れていかれたのだろうか。
 狼毒は入り口の縁に足をかけた。
「マンド君。本当に行っちゃうの?」
 不意に後ろから声がした。実体化した瀬織津姫が腕を組んで立っていた。
「言っておくけど、ここから先は私も面倒見切れないよ。確かに私は黄泉の穢れを払い落とすけど、さすがに黄泉の国自体に足を踏み入れてもらっちゃあ、どこに洗い流せばいいのやら。それに君、悪鬼を打ち負かす術なんてもってないでしょ? どうするの、多分あいつらたくさんいるよ?」
「……」
 狼毒は沈黙し、
(無理だ)
 と思った。
 狼毒はかつて日奉家にいた頃を思い出した。
 「神殺し」の大役を担うべき日奉の跡目として狼毒に期待されていたのは、巫術の技術、そしてそれを実現する高い認知抵抗値であった。しかし、狼毒は生来の認知抵抗値こそ高かったものの、巫術の習得は全くはかばかしくなかった。そしてそれを補うべき異常性すら、テレキネシス──ただ物体を遠くから動かすだけというものであった。その上性格は臆病で、模擬戦闘の際ですら足が震えて一歩も動けなかった。
 日奉の老人たちは狼毒をなじった。周りの同年代たちは狼毒をあざけった。
(実際)
 狼毒は先ほどの戦闘を思い出した。
(一階のエントランスホールで泉津醜女に襲われたとき、俺は反射的に千種さんの陰に隠れてしまった。その後は何とか対応できたが、それは千種さんの巫術があると知ってこそだ。今の状況で──あいつらに相対する勇気が俺にあるだろうか)
 入り口の縁に足をかけたまま、狼毒は硬直した。
(俺にはできない。俺は──千種さんのようになりたくて結局なれなかった、ただの落伍者だ。千種さんが死ぬくらいなら──俺が代わりに死んでやりたい)
 狼毒は拳に力を込めた。


「何難しい顔してるの」
 瀬織津姫は狼毒の肩をぽんぽんと叩いた。
「だって──神様も、俺には無理って──」
「確かに難しいとは思うけど、無理とは言ってないでしょ。それに、千種ちゃんも言ってたでしょ? 君には憧れるって」
「──俺なんか、千種さんに憧れられるほどのものでは──」
「よく思い出して」
 瀬織津姫は言った。狼毒は瀬織津姫の方向に向き直った。
「千種ちゃん、君のどういうところが憧れるって言っていた?」
「たしか──日奉家から逃げることができたというところに」
「そう言ってたでしょう」
 瀬織津姫は狼毒を正視した。
「今こそ──私の父イザナキがやったように、千種ちゃんに君の逃げっぷりを披露するべきじゃない?」
 そう言って瀬織津姫は微笑した。


 黄泉路は暗く、狼毒のヘッドライトがわずかに足元を照らすのみであった。あたりは寂寞として、ただ狼毒が落ち葉を踏む音だけが響いていた。
 傍らには実体化した瀬織津姫が並んで歩いている。暗闇の中に黒装束が溶け、白い顔と手先のみが照らされていた。
「神様は」
 狼毒は口を開いた。
「なんでこんなに協力してくれるんですか? 俺、日奉の実家にいた時は、神はひたすら恐れかしこむべき存在だって叩き込まれたんですが」
「まあもちろんそうなんだけど、私はそんなにこだわる方じゃないからね。確かに私らの中には君たち財団を嫌う人も大勢いるけど、私はそこまでじゃないかな。やっぱり禊祓みそぎはらいをやってる身としては、わだかまりもきれいさっぱり水に流すってことで」
 瀬織津姫は箒で何かを掃くジェスチャーをした。わだかまりというのが引っかかったが、狼毒は聞かないことにした。
「そうですか。いや、本当ありがたいっす」
「うん。それに──千種ちゃんのことも長い間見てるから、情が移ってるのもあるかも」
「長い間?」
「そう。というか、何代も前からかな。ちょっと彼女がかわいそうでね」
 瀬織津姫は遠い目をした。
「それって、その──相手を財団にあてがわれるっていう──」
「あ、知ってるの? そう、かわいそうだよね。彼女、それで自分のことを堅く縛ってるところがあるから」
「自分を縛る──」
 千種が自分に頭を下げた際に言った言葉を、狼毒は思い出していた。
「千種さんは」
「?」
「本当は、何をしたいんでしょうか」
「え? にぶいなあ、マンド君。ちょっと考えたらわかるでしょ」
「……」
「彼女、恋することを夢見てるのよ」
 瀬織津姫はそう言っておかしそうに笑い、「じゃあ後は見守ってるから」と言い残してぽっと非実体化した。


 狼毒は瓦葺きの御殿に行き当たった。御殿は大きく、狼毒の想像よりもずっと小奇麗だった。
 狼毒は門の前に立ち、ゆっくりと扉を押し開けた。
 板敷の広間に藁が敷いてある。周りには燭台が並び、広間を明るく照らしていた。
 藁の上には千種が寝かされており、その奥に白い装束の女性が正座をしていた。髪はきれいにかれ、化粧も行っていたが、女性の背格好や顔は千種を浴室に連れ去った実体に類似していると狼毒は思った。
「ここまでのご足労、大儀に存じます」
 女性は慇懃に礼をした。
「しかし、彼女は私の大事な客人まろうどでございます。おもてなしが十分でないうちにお帰しすることは、こちらとしても恐縮の至りでございます。──さ、どうぞこちらへ。あなたさまにもぜひ、別室でご饗応させていただきたく存じます」
「お構いなく。それに、彼女は体調がすぐれないようです。彼女を引き渡していただきたい」
 狼毒は女性をまっすぐ見ながら言った。
 女性は白い顔に微笑をたたえながら沈黙した。眼窩には闇が広がっていた。
「それは了承しかねます。この方は依り代としてたぐいまれな素質を持っていらっしゃる。もし私がこの方の身体を用いて現世に顕れれば、現世でも十全とした力をふるうことができ、私の悲願──千引石ちびきのいわを越え、皇孫すめみまを我が国に迎えることもできるでしょう。そのためには、彼女には十分この国の空気に慣れていただく必要があるのです」
(とんでもないことを言いやがる)
 狼毒は防護服の中で冷や汗をかいた。
 沈黙の中、二人の対峙が続いた。女性は口を開いた。
「──では、当方でしばらく相談いたします。その間、この部屋でどうかごゆるりとお待ちください」
 そう言って女性は礼をし、奥に消えた。


 燭台の油が焦げる音のみが聞こえる。
この部屋で待てとイザナミは言った。これは契約だ)
 狼毒は思った。イザナキがイザナミに命を狙われた理由は、イザナミの「見るな」という約束をイザナキが破ったからである。神話において、片方が課した約束をもう片方が破るというのは重要な意味を持つ。この場合、狼毒がこの御殿を脱出すれば、全力を挙げてイザナミが狼毒たちを追跡するのは確実だった。
(しかし、やるしかない)
 狼毒は千種の顔を見た。眠っているようであり、顔は安らかだった。危害を加えられたわけではないらしい。
(イザナミは千種さんの身体を依り代として欲している。つまり、あの部屋で自殺した女性では依り代として不十分だったんだ。すなわち──俺たちがなんとか元の世界まで戻って、アパートから十分離れて黄泉の国の影響から脱することができれば、あいつは弱体化し、なんとか俺だけでも対応することができるかもしれない)


 狼毒はそっと千種を抱きかかえ、千種の腕を自分の首に回した。千種の起きる気配はなかった。
 抱きかかえたまま、狼毒は扉に向き直り、右手のてのひらを扉の方に向けた。きしむ音を立てながら、扉がゆっくりと開いた。
 背後で何かが動く気配がした。


(──!)
 狼毒は全速力で駆けだした。
 御殿を脱出すると、すぐ後に御殿が大きな音を立てて崩れ去る音が背後で響いた。
 複数の何かが、獣のような叫び声を上げながら狼毒の背後に迫るのを感じた。しかし、狼毒は振り返らなかった。
(──あの日も)
 狼毒は16歳の夜を思い出していた。
(こんな感じだった。人ならざる者どもが俺の跡を追う。結局──俺は一度も振り返らなかった)
 狼毒は千種を抱きかかえた状態で両手をひねり、左右に立つ木々や岩に向かって能力を行使した。木は根元から倒れ、岩は転がり、道を塞いだ。そのたびに背後の声が少し遠ざかるが、しばらくすればすぐに近づいてきた。
(付け焼刃だ。しかし、あの世界に戻りさえすれば──)
 狼毒はまっすぐ正面を見据えながら、一心不乱に走り続けた。


 やがて、浴室の扉の光が近づき始めた。
 狼毒は能力によって扉を開き、千種をかばいながら中に飛び込んだ。廊下に降り立った狼毒はすぐに左に折れ、玄関から共用通路に出た。
 狼毒は下をのぞいた。六階の高さの下に、駐車場があった。
(あの日)
 狼毒は逃避行の夜を思い出していた。渓谷の崖に追い詰められた狼毒は、はるか下に流れる川の水面を見た。
(日奉の追っ手から逃げきることができたのは、日奉でこれができるのが俺しかいなかったからだ!)
 狼毒は千種を抱きかかえ、共用通路から駐車場に飛び降りた。
 急速にアスファルトが迫る。狼毒は右腕で千種を抱きかかえ、左のてのひらを下方に向けた。
(──!)
 狼毒は緩急をつけて地面に対して能力を行使することで、自身と地面との距離を緩やかに固定した。
 狼毒はふわりと地面に着地した。
(まだ──安心はできない)
 激しく呼吸しながら、なお狼毒は走った。黄泉の国の入り口から十分離れることで、少しでも有利な立場に立つ必要がある。
 狼毒は千種の顔を見た。まだ眠りから覚めない。
(千種さん──)
 狼毒は祈った。


 その時、背後で柔らかいものが破裂するような音がした。
(──!)
 狼毒は振り返った。駐車場に女性の死体が木っ端みじんになって散らばっていた。
 直後、死体は集合を始め、元の状態に戻っていった。
(──イザナミ!)
 髪の長い腐乱死体の形を取り戻したイザナミは、右手を狼毒たちの方にかざした。アパートの周辺全体に不明な上方向の力が発生し始めた。
 狼毒は上を見上げた。602号室があった場所には黒い穴のようなものが広がっており、ごみや木の葉を吸い込んでいた。
 狼毒は必死で千種の身体を抱えたが、千種の身体には特に強い力が働いていた。
(千種さん──)
 狼毒は千種を抱きしめたまま、必死に考えを巡らせた。
 周りを見回すと、車両や給水タンクなどの重い物体ですら、力を受けて宙に浮きそうになっていた。
(──この状況なら──俺の力でもあいつにぶつけられるかもしれない)
 狼毒は思った。狼毒のテレキネシスは地面に置いてある物体ならばなんとか軽自動車を動かせる程度の出力だが、先ほどの雷神のように、宙に浮いている物体ならばそれよりもずっと動かしやすかった。
 狼毒は右腕で千種を抱きしめ、左手で能力を行使した。周りの木々や赤さびた車両の残骸を滑らせ、勢いをつけてイザナミにぶつけようとした。
「……」
 イザナミは身をひるがえし、物体を回避した。
(──ダメだ。俺の能力は一つの限られた範囲にしか行使できない。あいつを固定したまま物をぶつけることができれば──)
 狼毒は歯を食いしばった。イザナミが回避した車両はアパートの一階部分に打ち付けられた。車両は破砕し、錆びの破片と化した。
 アパートの二階部分の壁が音を立てて崩れた。
(……)
 狼毒はアパートを見上げた。アパートの壁全体に無数のひびが入っている。


 狼毒は再度能力を行使した。
 浮きそうになっていた車両や給水タンクを、狼毒は次々とアパートの根元にぶつけていった。
 それらは大きな破砕音を立て、アパートの足元に散らばった。
 イザナミは怪訝そうな顔をした。
(結局──俺は物を動かすことしかできないけど──千種さんはどう使うかだと言ってくれた!)
 狼毒は千種をかばいながら作業を継続した。


 アパートの根元で、何かが割れるような音がした。
 イザナミは後ろを振り返った。
(──今!)
 狼毒はイザナミに能力を行使し、アパートの根元に縛り付けた。
 直後、轟音とともにアパートが崩壊し始めた。
 狼毒は振り向いてしゃがみ、千種を抱きすくめつつ背中でかばった。イザナミは瓦礫の中に消えた。
 やがて崩壊音が止んだ。
 602号室の位置にあった穴は消失し、そこには静寂とコンクリートの瓦礫のみが残されていた。瓦礫からのぞく鉄筋は、麩菓子のように粉々に砕けていた。


 狼毒は肩で息をしながら千種をそっと路上に横たえ、防護服の頭部分をはずした。そして千種の傍らにどっかりと座りこみ、瓦礫の山を眺めた。
「──ん──」
 千種がうめき声を上げ、ゆっくりと目を開けた。
「ち、千種さん!」
「──ここは──」
「千種さん! 俺、やりましたよ!」
「──戻って──これたのですか?」
「はい!」
 狼毒は親指を立て、笑った。
「──よかった──マンドラゴラ──いや、金鳳花きんぽうげさんがいなかったら──私──」
 そうつぶやいて微笑し、千種は再び目を閉じた。
「う、その名前は──」
 狼毒は赤面し、頭を掻いた。


「感心しませんね。そのような大規模な神格を認めていたにもかかわらず、たった二人で突入するとは。本来ならば、そこで一旦帰還し、指示を仰ぐべきでしょう」
 八幡研の所長室で、恆和は眉をひそめた。
「申し訳ありませんでした」
 千種は頭を下げた。
「──マンドラゴラさんの活躍があったからよかったものの、本来ならばあなたはMIAまたはKIA指定されるところでした。仮に財団があなたを損失した場合、財団にとってそれがどれほど大きな痛手になるのか、あなたはわかっていらっしゃらないようだ。次からは一層、確実な生還を心がけてください」
「……」
「──とはいえ、生還を確認することができ、私としてもとてもうれしく思います。報告内容を見るとどうやら安定した収容が難しい対象であったようなので、無力化の成功は悪くない結果と言えるでしょう。お疲れさまでした。今日はゆっくり休んでください」
「ありがとうございます」
 千種は一礼して退出しようとしたが、途中で立ち止まった。
「──瑞穂所長」
「はい?」
「──私の交配プログラムの件でお聞きしたいことがありまして」
「どうぞ」
「──私の交配相手というのを──私自身が提案するということは許されるのでしょうか?」
「……」
 恆和は顎を撫でた。
「──あなたがその件に関して自分から質問をするのは初めてだ。ええ、当然の質問だと思います」
「──はい。今まで私は──この質問を避けてきました。母親たちがたどった運命を、自分も甘んじて受ける必要があると思いこんでいました。しかし──考えてみれば、この質問をすることくらいの権利は私にはあると思ったのです」
「──ええ」
 恆和は首肯した。
「先代までの時代と比べ、財団の遺伝子工学は飛躍的に進歩しています。したがって、プログラムにおける配偶者の自由度は以前よりもかなり幅広いものになっています」
「……」
「もちろん、ある程度認知抵抗値の高い男性が好まれます。もしめぼしい男性を見つけたら私に紹介してください。その時は、『お前に千種はやらん』とか『千種をよろしく頼む』と私が言うことになるでしょうね」
 恆和はそう言って笑った。


 サイト-8177の食堂は喧噪に包まれていた。
 千種はきつねうどんをトレイに載せて、その中で一人席を探していた。
 皺一つないスーツに黒い長髪を束ねた彼女があたりを見回す。今日もひときわ人が多く、一人で静かに食事を済ませるべきスペースは見つからない。
 千種は前を歩く長身の男を見つけた。
「マンドラゴラさん!」
 千種は呼びかけた。男は振り返った。
「あ、千種さん! ちょうどよかった、一緒に食べませんか?」
「ええ。混んでいるようですし、もっと奥まで行きましょう」
「そうっすね!」
 男はそう言って前を歩きだした。
(認知抵抗値の高い男性──か)
 千種は恆和の言葉を思い出した。
 男が立ち止まった。千種は男の背中にぶつかり、うどんの汁をこぼした。
「あ! す、すいません! また知らない美人さんがいて──あ、汁熱くなかったっすか? 紙とってきます!」
(……)
 千種は苦笑いした。

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