アパートの扉はいささか建て付けが悪いらしく、男がドアノブを回し引くと甲高い金切り声を上げた。
「それじゃあ、取ってきてもらえるかな」
薄暗い玄関には埃も靴も……かつて人がここに暮らした生活臭もない。
自分の靴を脱ぎ揃え、少年はゆっくりとした歩調で奥へ向かう。
二階の最奥、南と西の窓からそれぞれ夕陽が射し込む8畳ほどのこの部屋が、彼の祖父の居室だった。
少年はタンスの上に置かれた小物棚に手を差し入れ、触覚を頼りに小さな薄い木箱をつまみ上げる。
ピタリと嵌まるように作られたそれは久方ぶりの離別を恐れてキュイキュイと鳴いたが、
慎重に指先へ力をこめて蓋を引き上げると、スポッ、と空気の抜ける小気味よい音を立てて腹の中身を晒した。
青いビロードで内張りされたその中に納まっていたのは、親指の先より少し大きなピンバッジ。
真円形をした土台の頂点と両斜め下から飛び出すのは、山を連想させる三列一組の突起。
土台の縁を慎ましく飾るのは、装飾のない巻物と月桂冠。
そしてその中央に鎮座ましますは、三本線の大地の上で見えざる風を受け、はち切れんばかりに膨らんだ日章旗。
巻物の文字は随分と古風な書体であったが、頭の四文字『関東八都』は年若い彼にもどうにか読み取ることができた。
「これかい?」
戸口の男の節くれだった右手が祖父の形見をそうっとつまみ上げる。
その真剣な眼差しに口を挟んではいけないような気がして、少年はただ頷く。
男は小さく頷き返してみせると少しの間バッジを眺め、また彼の方に向き直った。
「バッジの話は他の人も知っているかい?」少年は首を横に振る。
「お父さんお母さんや、親戚の人も?」もう一度。
「ありがとう。大変な時に本当に迷惑をかけたね……」少年の小さな頭に男は大きな右手を乗せ、できる限りの優しさで撫でてやる。
「……このバッジは僕が預かろう、そうすれば君は、安心して今までの暮らしに戻れるんだから」
既に充満している疑いと驚き、そして分泌され始めた少しの怒りに任せて口を開きかけたその時が、まさに絶好の機会なのだ!
いつの間にやら男はもう片方の手に印鑑様の黒い金属筒を握り、それを少年の口に素早く突き入れ、そして――。
アパートの扉はやっぱり建て付けが悪いらしく、閉めるときにも悲鳴を聞くハメになった。
男は建物の陰が落ちた裏路地で主を待つ愛車にするりと身を滑り込ませ、指の腹で旧型の識別章をつるりと撫でる。
50年代初頭に関東某県で催された競技大会に便乗して百数個だけ作られたという"こんなもの"、当時のエージェントたちに配られ離散したそのうちの一個……に至るまで所在を把握しているお偉いさんの徹底ぶりに彼は改めて舌を巻いたし、もしかするとまたあの少年に会う――今度は処理器具なしで――ことになるかもしれない、という非日常の到来に心の奥で歓声を上げてもいた。
(冷酷で不条理な日常ってのにすっかり慣れちまったんだ、こんな非日常を人よか温かく感じたっておかしかなかろう?)
男の左手がゆっくりと動き、助手席のダッシュボードに外付けした簡易テーブルの上に識別章を置く。
少し逡巡したのち、その手は背広の隠しポケットから取り出したもう一つのバッジを隣に置いた。
やがて車は静かに走り出し、国道に沿って伸びる長い車列に混ざってすぐに見えなくなった。