夏!忌まわしきニッポンの夏!
ゲリラ豪雨でたっぷりと水分を含んだ空気を猛烈に加熱する湿ったアスファルトの上にいれば、まるで調理中の天ぷらかシュウマイの気分を味わえる酷暑!大きな一軒家の解体現場を囲む工事柵の中から出てきた三人組が着るライトグレーの作業服も、じっとりと汗に濡れて彩度を大きく落としている。
「あっついですねー……今日も」「あー……言うともっとヒドくなるからやめろい」
真ん中を歩く長身の男が泥棒被りしたタオルでわしわしと頭を掻けば、のしのしと先頭を進むスキンヘッドの中年がうんざりした表情で振り返る。その顔は今日の暑さで茹で上がったタコみたいに紅潮していたが、左の眉上からこめかみにかけて筋状に残った白い肌が、かつてここに創られた深い傷の存在を今なお主張し続けている。
三人は早足で道路を挟んだ向かいにある空き地――今は解体業者が資材や重機を置いている急ごしらえの保管場――に辿り着くと、サビ付いてボロボロのパワーショベルの横に駐車されている、これまた傷だらけな白いバネット・バンの後部ドアを引き開けた。
む゛わ゛っ゛……というオノマトペを当てるべきだろうか。早朝から今に至るまで長いこと密閉され続けていた空間の中で内気は激烈に熱されており、普段からよく手入れされてはいたものの、わずかに残っていた車内の臭いを何倍にも増幅して周囲に漂わせる。
「うっわ、ったくやんなっちまうなー……クーラー付けてくれえ!」「了解でぇす!」
タオルを被った男は既に運転席に就いており、キーをひねってエンジンを掛けたところだった。中年は傍に控えていた三人目に後部座席へ座るよう促すと自分は助手席に乗り込み、だいぶ使い込まれた座面にどっかと腰を落として首に巻いたタオルで汗をぬぐう。バン、バン、ゴーッ……バン!三つのドアがそれぞれ勢いよく閉じられ、車内は再び密室に戻った。
「とにかく今日はこれで上がりだ、だいぶ遅えけどなんか食おうぜ!厚木、この辺にメシ食える感じの『セーフ』な店あったっけか」
「この辺だと『カン・パネルラ』か、『ぽんこつ』ですかね」
厚木と呼ばれたタオル男はハンドルの上で手を組み、少し考え込んだ後にハキハキと答える。
その声は幾分かすれ気味なせいもあり、目下全力で作動しているカーエアコンの音に遮られて少し聞き取りにくい。
「あー、『カン・パネルラ』……あそこはスナックだからまだ開いてねえ。『ぽんこつ』だな」「了解です」
厚木がぐいとアクセルを踏み込むとバネットは勢いよく砂利を蹴立てて空き地を飛び出し、先ほど歩いてきた道路を東方向に進んでいく。すぐに差し掛かった狭い一車線交差点をスムーズに左折させながら、その目が15時過ぎを示すカーラジオの時計にちらりと視線を落とした。
「こんな時間ですけども、駐車場空いてますかね」
「空いてるだろー。ダメなら向かいのタイムズ使えばいいじゃねえか、経費で落ちるさ」
ようやく冷えてきたエアコンの風を浴びて上機嫌に答える助手席のハゲに対し、厚木は前方を見たまま不満げに口をとがらせる。
「先週に同じこと言って、ナベさんが靴下ばっかり20足も買ったレシートを経理に出させたの……私はまだ根に持ってますからね」
「あぁ!?」
ハゲは寝耳に水とでも言いたげに跳ね起き、驚き半分呆れ半分の表情で厚木を見た。
「ありゃーお前、冗談だよ冗談!ホントに持ってったのかよ。バッカだなー」
「上司が大事そうに封筒出して『これ、頼むぞ』なんて言われたら、信じちゃうってものでしょう」
「いやいやいや、お前だって何年もいっぱしの『現仲(ゲンチュー)』やってんだからそこは……」
「……あの、鍋割さん」
それは車が赤信号で止まったのとほぼ同時。不意に後ろから涼やかな声がして、二人はくだらないやりとりを打ち切った。
『ナベさん』もとい鍋割が振り向いてみれば、体格のいい男が二人――押し込めば三人――座れる一体型シートの窓際に若い女がちょこんと腰を下ろしており、何やら不思議そうな目でこちらを見つめている。
「おお、悪いな。どしたいカウフマン」
カウフマンという英語姓で呼ばれているが、彼女の見た目は黒髪茶瞳の日本人……グローバルな区分ならモンゴロイドという奴であり、著しく目を惹くような外見的特徴はない。その名に関係しているらしいものといえば、行儀よく閉じられた膝の上に乗せられた濃紺ウール地のベースボール・キャップに白みがかった銀糸で刺繍されたフリゲイト艦のシルエットと、その周囲をカマボコ型に囲むかたちで配置された"USS KAUFFMAN" "FFG-59"の金文字くらいである。
彼女は一拍置いてから疑問を口にした。
「……『ぽんこつ』って、どんなお店なんですか?」
「質問で返しちまってわりいけど、『フロント』についちゃもう聞いてるか?」
「……はい」
カウフマンは質問の内容をしばし咀嚼するかのように束の間目を閉じ、およそ一秒弱の間を空けて返事をする。その後頭部でふらふら揺れる黒い一つ結びの房を見ながら、こいつのこのクセ、直させたほうがいいかなあ……と鍋割は頭の隅でぼんやり思う。
「なら大丈夫か。まー、要はなんてことねえフロントの一つだよ。メシ屋だからそこに行きゃあ、他んとこより気を抜いてメシが食えるってだけ。俺が新入りの時からやってるかなぁ、あそこは」
「……そうなんですね。ありがとうございます」「あ、ああ……」
信号が青に変わり、車は速度を上げて道路を走り出す。
年若い親子ほど歳が離れた二人の間の少し気まずい沈黙を破ろうとしたのか、厚木が横から話に割って入ってきた。
「そういえばナベさん、あの店ってグループ・サウンズが流行ってた70年代に始めたって聞きましたよ。本当なんですか?」
「いやー、その頃はまだ俺ここにいなかったし、70年過ぎた頃にゃもうGSって流行ってなかった気がすんなあ。よく覚えてねえけど」
「あそこに置いてあるジュークボックスも当時品なんですよね?」
「ああ。昔おんなじのを知り合いのオヤジが持ってたよ。しかしアレが動いてるの、もう全然見てねえな……さすがに壊れたかね」
「それが聞いた話だと、月一でレコード持ち寄ったりとか素人バンドが演奏会したりとか、ちょくちょくイベントで使ってるらしいですよ」
「へー!税金対策みてえな店の割に手広くやってんだな!ところで……」
車は再び信号待ちで停止。言葉を切るとともに妙な向きへ動いた鍋割の視線を追って厚木が後席を見やると、カウフマンは二人の話には一瞥もくれず、手にしたリング綴じの小さなメモ帳へ一心に何やら書き付けていた。話の進行をなぞるようにボールペンが動いたり止まったりするのを見る限り、どうやら二人の話の要点を一生懸命書き留めているらしい。
ようやく会話が止まったことに気付いたのか、彼女はハッとした表情で姿勢を正すとこちらへ顔を上げた。
「……申し訳ありません!なんでしょうか」
そのあまりにも生真面目……というよりはクソ真面目な様子に、鍋割の口から苦笑いがこぼれる。
「前から思ってたけど、お前だいぶメモ魔だね」
「……すみません。早く仕事を覚えたくて」「う゛」
申し訳なさそうに頭を下げるカウフマンを見て鍋割が言葉を詰まらせる。彼は仲間相手に軽口を叩くのが好きで好きでたまらないのだが、真摯に仕事へ取り組む若き新人を茶化せるほど厚顔ではない。見かねた厚木がまたもや助け舟を出してやる。
「いやいや、それでいいんですよ。なんでも調べて、どんどん書いて……それでナンボの仕事じゃないですか、私達は」
みたび信号は青へ。バネットは前を走る清掃車にくっついてT字路を右折し、幅の広い国道に出る。
この辺りは、過ぎ去りし80~90年代の面影がある古めかしい街並みがまだそこかしこに残っている一帯だ。
鍋割はこれ幸いとばかりに大きく頷き、失点を取り返そうと一気にまくし立てる。
「うんうん、そうそう!でもな、根を詰めっぱなしじゃどんどん弱って、ホントに大変な時にプッツンしちゃうからよ……お前まだウチに来て一週間も経ってないんだぜ?確かにプロらしくしなきゃいけねえけど、そりゃ"いずれ"の話よ!入った時は散々シゴかれたり脅されたりしたろうけどな、あんなんは話三分に聞いときゃいいんだから」
「いやあ、七分くらいは聞いておいた方がいいと思いますけど……おっ、ナイス」「ん?」
妙な返答に怪訝な顔をする鍋割を意に介さず、バネットは右側のウィンカーを点滅させると直線道路のど真ん中でゆっくりと速度を落とし始める。車は完全に停止する直前で再度加速をかけると対向車列にぽっかりと空いたトラック二台分の隙間をするりと抜け、舗装があちこち崩れかけた駐車場の奥へ進入。車はそのまま流れるような動きでU字ターンを決めるとスムーズに後進し、ボロボロのブロック塀と消えかけた白線の間にその身を納めた。サイドブレーキがギリリと引かれ、解除されたドアロックが一斉に跳ね上がる。
「はい、着きました」「うっし、ご苦労さん。さ、降りた降りた!」
厚木が真っ先に運転席から降り、カウフマンが乗る後部キャビンのドアを引き開ける。
「さ、どうぞ」「……ありがとうございます」
彼女は特に荷物を持たぬまま車を降り、厚木がドアを閉められるよう彼の後ろに回った。鍋割といえば軍手やポケットティッシュや六角レンチ……とにかくいろんな物が雑多に詰め込まれたグローブボックスの中を漁っていたが、そこから黒ずんだ革財布を取り出すとゆっくりと助手席から降り立ち、力強くドアを閉める。
「いいぞー、閉めてくれ」
その声に応えて厚木が運転席ドアのキーホールに挿しておいた鍵をヒネる。カウフマンは彼が頑なにキーのリモコン機能を使わないことを以前から疑問に思っていたが、きっと電池切れしているのだろうとひとまずの結論を出して自分を納得させた。
来た時と同じように鍋割を先頭にして三人は店の表に回る。店舗は鮮やかな緑色に塗られた壁と鋭い切妻屋根が目を引く山小屋風で、それが二つ直角に継ぎ合わされた構造をしている。入口の上に設けられた小さな庇の上には、『SOUND'S CAFE ぽんこつ』と青い丸文字でレタリングされた木製の四角い看板が掲げられている。どちらも丁寧に補修されながら大事に使われてきたことを窺わせる、整った古び方をしていた。
「お、すげえのが停まってんな」
入口の側に設けられた小さな駐車スペースの一つを幅いっぱいに占領して、ぬるりとしたフォルムの黒いスポーツカーが駐車されている。そのフロントフェイスへ何気なく視線を向けた鍋割が歩みを止め、感嘆の声を上げた。
「はぁー!これ911のニューモデルじゃねえか!もう輸入されてんだなあ」
「へぇー、これが?昔のよりずいぶんライトが引っこんだんですね。私、あのカタツムリみたいな目が好きだったんですよ」
隣に立った厚木も物知り顔で話に加わる。
「カタツムリぃ?もっとこう、カエルとかの方が近いんじゃねえか」
「あー、近いかもしれないです」「テールがツルッと落ちた……」「そうですそうです。お尻がツルッと……」
正直言ってクルマというものに微塵も興味はないが、さりとて先輩たちを置いてさっさと入店するわけにもいかない。二人に付き合う形でカウフマンも"ニューモデル"とやらを眺めてみる。正面から運転席へ(外車なのに右ハンドルだった)、運転席から後方へ……。そこで彼女は、平べったいリアウィンドウの右下に奇妙な図案のステッカーが貼られていることに気が付いた。サイズはおおむね名刺二枚分。図案は全て白抜きで、左側にはこの車の側面図と思しきシルエットの前半分"だけ"があり、その右側……本来車体の後ろ半分があるべき場所には、車体のエンブレムによく似たフォントで"RORO"の四文字が横書き二段組みでレイアウトされている。
「……ろろ?」
もしこれを自動車に多少明るい人間が見たならば、自分の知らないカスタムパーツメーカーかチューニングショップ、あるいは小さな走り屋グループや同好会のロゴマークではないかと推論したかもしれない。しかし前述の通りこの手の界隈事情についてまるきり知識のない彼女には、それが何を示すものやらさっぱり見当がつかなかった。そしてシルエットと"RORO"の下にキャッチコピーらしき小さな英文が書かれていることに気付いた彼女が、それを読もうと顔を近づけたその時。
「おーい、行くぜー!」
鍋割のダミ声が妙に遠くから聞こえることに気が付いて振り返ってみれば、いつの間にやら鍋割と厚木は車のそばを離れ、入口前に設けられたポーチの下で彼女を待っているではないか!(これじゃまるで、私が自動車マニアみたいじゃないですか!)カウフマンは気恥ずかしさを極力顔に出さないよう努めながら二人の方へ走った。
「……すみませんでした」「なんか面白いもんでも置いてあったか?」
「……いえ、特にそういうわけではないです」「うーん?そうなのか?」
喋りながら鍋割がグイとドアを引き開けると、ドアノブを掴もうとする姿勢で固まったスーツ姿の女性と相対する形になった。
突然のことで状況が呑み込めないのか、彼女はぽかんと口を小さく開けている。
「おっ、すいませんね。お先にどうぞ」
彼は素早くノブを握る手を持ち替え、空いた右腕で後ろの二人を強引に自分の背中側へ押し込む。
「あっいえ、すみません!ありがとうございます」
女性は慌てた様子で入口を飛び出していき、先ほどのスポーツカーへ大急ぎで乗り込んだ。その様子を横目に見ながら三人は店内に入る。中は空調が効いているのかほどよく涼しい。ヤニ汚れで少し黄ばんだ壁には色々なものが雑多に飾られているが、しかし不思議な統一感があるのは、いずれも古びてはいるがよく手入れされているものばかりだからだろうか。
一礼と共に彼らを出迎えたのは、Yシャツとジーンズの上に黒い質素なエプロンを身に着けた痩せぎみの初老男性だ。
外見から推し量れる年齢の割に豊かな白髪を後ろで小さく束ねている。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね」「どうも。仕事でしばらく栃木に行っててね、どーにか先月戻ってきたんだ」
主人は身振りでカウンターの前……店のほぼ中央に置かれた四人掛けのテーブルへ三人を案内する。先を行く鍋割は店の奥側に設えられた赤いソファ席に腰を下ろし、厚木は反対側の椅子に座る。カウフマンは少し考え込んでから厚木の隣に座った。
「それはお疲れ様でした。配置換えですか?」「いやあ、まだ『19班』さ」「それは何よりです」「ありがとう」
鍋割は主人から受け取ったビニール入りの紙おしぼりを二人の前へひょいと差し出すと、やおら厚木の方に向き直った。
「なあ、さっきのヤツ」「はい」
厚木の手が半透明のビニール袋を破り、おしぼりを取り出したところで止まる。
「ポルシェに乗ってコーヒー飲みに来るたぁ結構なご身分だよなぁ……女医さんかなんかかね」
「うーん、弁護士とか税理士とか、そっちの人じゃないですか?近頃のお医者はヒマなしですから……」
厚木は顔に巻いたタオルを外すことも緩めることもなく、畳まれたままのおしぼりを器用にその隙間へ差し込んで汚れた顔を拭く。
隣に座ったカウフマンは横目に少しだけ嫌悪の色を浮かべてそれを見ていた。
「先ほどの方は今日が初めての『お客さん』ですね。こちら、メニューになります」
戻ってきた店主は厚手のラミネートフィルムで覆われたA3版紙を差し出す。
それを鍋割が受け取り、これまた二人に向けてひょいと突き出した。
「どうも。『お客さん』なの!ふーん、見たことねえ顔だったなあ……『斉藤(サイトー)』んとこの人かなあ」
他のフロント同様、この店においても彼らが用いる様々な符丁は問題なく通用する。
符丁とは例えば寿司屋の『おあいそ』とか『ムラサキ』のようなものだが、それよりはもう少しだけ分かり辛くできている。
例えば『お客様』はごく普通の客を呼ぶ時に使われるが、これが『お客さん』になると、三人のような「皮をかぶった同類」を指す。
『斉藤』については語感で分かる通り、読者の皆様には言わずもがなだろう……彼らの仲間が大勢詰めている拠点のことだ。
「そういや、まだランチやってる?」「大丈夫ですよ」「じゃあ俺日替わりのスパゲッティ。アイスコーヒーで」
「本日のパスタはボンゴレ・ビアンコになりますが、よろしいですか?」「ああ、よろしく」
いかにも常連といった風情で手早く注文を済ませる鍋割。厚木も続く。
「えー……私はシナモントーストのセット一つ、紅茶の冷たいのをお願いします」
「なんだよ、メシ食わねえのか」「腹は減ってますけども、甘いものが食べたい気分なんですよ」
「あー、そう。お前は?」
カウフマンはしばらく真剣な顔でメニューを読み込んでいたが、ふいっと顔を上げると店主へメニューの一点を指差してみせた。
「アメリカンコーヒーをひとつ」
一杯350円也。彼女なりに気を使ったのかもしれないが、それはあんまりにも露骨すぎた。
鍋割はたまらず手と首を大げさに振って制止する。
「おい、おい、おい、カウフマン!メシくらい遠慮すんなって!」
「そうですよ?お代の事なら鍋割さんが、キッチリ!経費で落としてくれますから」
「おめえはまたその話かよ、しつけえぞ」
ここぞとばかりにブスリと恨みの釘を刺そうとする厚木を、鍋割は追い払うジェスチャーで気だるげにいなす。
「……いえ、私はこれが好きなので」「うーん……」
この新人はどうにも距離があるなあ!むさい男所帯なのが悪いのかなあ……と頬を撫でながら唸る鍋割。
主人は怪訝な顔で三人の顔を見比べていたが、やがて何かを思い出した様子で眉を上げると渦中の紅一点に声をかけた。
「カウフマンさん、でしたよね?」「……はい。『水島』という名前もいただいていますが、どちらでも結構です」
「そうですか。もしよろしければ、なのですが……今ちょうど女性向けの新メニューを試作していたところでして、よろしければその試食をお願いできませんか?もちろんお代は結構ですから」
「へぇー!そんなこともあるんですね」「……あっ、いえ、しかし……」
「いいじゃねえか!」
鍋割はハゲ頭をつるりと一撫ですると満面の笑みをカウフマンに向ける。
「俺はサイフが軽くならねえし、お前も気にしなくて済む。一挙両得、両手に粟!ご主人、それ頼むよ」
「承知いたしました、しばらくお待ちください」
カウンターの奥にある厨房の入口へ主人が姿を消すと、早速トースターがジリジリ言う音に乗って甘い香りが漂ってくる。
「あー、涼しい……」
ぐびぐびと一息でお冷やを飲み干した鍋割は気だるげにソファへ体を預け、大口を開けて盛大なあくびをしてみせた。
「おい、俺ちょっと寝るわ……来たら起こしてくれ」「ええ、了解です」
厚木がそう答えるが早いか、鍋割はすぐに目を閉じて小さないびきを鳴らし始めた。
店内にかかる落ち着いたジャズ・ミュージックと規則正しいいびきをBGMに二人はそれぞれの方法――携帯をいじくったり、メモ帳を読み返したり、トイレに行ったり――でしばらく時間を潰していたが、やがてその静寂の中でカウフマンはあることに気づいた。
いつからか厚木が携帯をいじくるのをやめて、なにやら疑わしげに鍋割の寝顔を見つめているのだ。
「……わざとらしいな」
厚木は突然そう呟くとおしぼりの端を小さくちぎり始め、指先でくるくると丸めると……スナップを効かせた手首でそれを打擲!
一投目……はずれ。二投目……はずれ。三投目……あたり!
湿ったパルプ不織布製の砲丸はなだらかな放物線を描いてふわりと飛んでいき、みごと鍋割の鼻先に命中した。
「んが」
鍋割の頭がかくんと動き、ぼんやりした表情で薄目を開ける。
「まだ来てませんよ、大丈夫です」「んご」
何事もなかったかのように答える厚木と、それをすっかり信じ込んでまぶたを閉じる鍋割。
出来の悪い即興コントじみた二人の掛け合いを見ながら、カウフマンは吊り上がった口元を手で覆い隠した……
「ウソ寝かと思ったんですけど、ホントに寝てましたね。よかったよかった」
……のだが、彼がこちらを向いて小声でしれっとそんな事を言うものだから、彼女はついに笑いをこらえきれなくなってしまった。
「ふふ、でも厚木さん、あんな……ふふふ」
「ナベさんにはバラさないでくださいね。あの人、倍にしてやり返してくるので」
「くく、ふふっ、わかりました」
その時、料理を載せた銀色のトレイを持って主人がやってきた。
「お待たせしました。こちらシナモントーストとアイスティ……それとこちら、アメリカンコーヒーになります」
厚木とカウフマンの前にそれぞれの注文品が置かれる。
「……え?あの、私が頼んだのは試作メニューだけですから……」
困惑するカウフマンの隣で厚木も訝しげに謎のコーヒーを眺めていたが、突然ポンと手を叩いた。
「あ、そうでした。ここ、初めて来た人には一杯サービスしてくれるんですよ」
「『お客さん』方だけへのサービスですから、口外なさらぬようお願いしますね。では、失礼します」
主人は口元に手を当てて小声で彼らにそう伝える(店内に他のお客はいないのに!)と、軽く一礼して厨房へ戻っていく。
カウフマンがぼんやりとその背中を見送っていると、厚木が自分の皿を彼女の方へ軽く差し出した。
「カウフマンさん。試しに一枚、食べてみますか?」
皿の上には半割された分厚いトーストの上に、じっくりと火の通ったグラニュー糖とシナモンがどっさり乗せられた豪快なものが鎮座している。言ってしまえばパン一枚とはいえ、これは結構なボリュームがありそうだ。
「……いえ、大丈夫です」「そうですか、では」
厚木は鮮紅色をしたガラスコップの中身にガムシロップを一つ開け入れるとストローで氷ごと数度かき回し、コップに口を付けて一気に半分ほど飲んでしまう。それからトーストを一つ手に取ると思い切りよくかぶりつき、これまた半分ほどかじり取る。ようやく人心地つけたのか、小さなため息が彼の口をついて出る。
カウフマンもせっかくなので"サービス"に甘えることにした。湯気の立つコーヒーカップを手に取ると音を立てないようゆっくりと啜って風味を確かめ、それから机の上に置いてあるシュガースティックを一つ入れてまた啜る。
いつの間にか厨房からの匂いは塩コショウの効いた香ばしいものに変わり、ジュウジュウと何かを炒める音も聞こえてくる。その両方を楽しみながら、二人はどちらから切り出すでもなくとりとめのない話をした――もうじき台風が来るから少しは涼しくなるだろうとか、座学で分からなかった点を教えてほしいとか、ここの雑多なインテリアは全国から立ち寄った『現仲』たちが支払い代わりに置いていったもので、中でも西側の壁に掛けられたあの豪奢な仮面は「差前」という悪名高い男の置き土産である、とか――。
二人のグラスとカップ、それから皿が空になってしばらく経った頃、主人が再びトレイを持って厨房から出てきた。
厚木はテーブルの反対側に腕を伸ばし、眠りこけている鍋割の右肩を軽く数回叩く。
「ナベさん!来ましたよ」「んご……おー、わりい」
傍目にはすっかり熟睡しているように見えたが、その目覚めは素早いものだった。
また大きなあくびをした鍋割のそばに、盛んに湯気を立てるボンゴレ・ビアンコが盛られた大皿が置かれる。
「こちら、日替わりランチのパスタとサラダ、アイスコーヒーになります」
主人が陶製の白い粉チーズ入れやお手製ドレッシングの瓶を手際よくテーブルに置いていく傍らで、彼はパスタの大皿を引っ掴むと自分の前にたぐり寄せる。
「どうも!……悪いな、先食っちゃうぜ」
そう言い始めたときには既に右手にフォークが握られており、言い終わる前にはもうパスタの中にその先端が深々と突っ込まれていた。しかしフォークはパスタを彼の口に入れる前にぴたりと動きを止める。その動きを制御している鍋割の脳ミソが、視界に捉えたモノに釘付けになっていたからだ。
「お待たせいたしました、こちら試作メニューの『山小屋パフェ』になります」
「ヘー!うまく作るもんだ!」「すごいですねぇ」
カウフマンの前に置かれた曇り一つないレトロな縦長のデザートグラスには、下から順に生クリーム、シリアル、シロップ漬けのミカンとオーソドックスな具材が行儀よく重ねられている。朝顔の花びらのように広がったグラスの口からは渦を巻いてそびえ立つホイップクリームと大きな半球形に盛り付けられたダーク・ブラウンのチョコアイスが前後に並んで飛び出し、そしてチョコアイスの上には……ウェハースを器用に組み上げて造型された、高さ3cmほどの素朴な小屋がちょこんと建てられていた。
「よくできてますねー。窓も煙突もある」「見ろよここ、草が生えてるぜ!オーバーテクノロジーってやつだな」
鍋割が感心しているのはウェハースの屋根とチョコアイスの地面に振りかけられた薄緑色の粉だ。
それは砂糖よりもずっとキメ細かく、冷たいアイスの上にあってなお一嗅ぎで見当が付く特徴的な香りを漂わせている。
「なんだか分かりますか?どうぞ、食べてみてください」
にこにこと笑う主人に促されてカウフマンは細長いパフェスプーンを軽くチョコアイス上の草原に差し入れると、控えめに最初の一口を舌に乗せた。
「……抹茶ですね、でも普通の店のよりすごく濃い……おいしいです」
疲れた体によほど甘味が効いたのか。彼女の顔がふにゃりと緩み、年相応の朗らかな笑みを垣間見せる。
「おおおっ、ウマそうだなー。ちょっと一口、俺にもくれねえか!」「ナベさん……」
図々しく欲しがってみせる鍋割を、『みっともない』と言わんばかりの胡乱な目でたしなめる厚木。
「わかったわかった!なあご主人、俺にも同じやつもらえねえかな?」
「こちらの品は試作でして材料があまりありませんから……オーナーに聞いてまいりますので、少々お待ちください」
いそいそと口とスプーンを動かすカウフマンをよそに、鍋割と厚木は怪訝な様子で顔を見合わせる。
「ここ、店長さんのお店じゃないんですか?」
「はい。確かに私と妻は二階に住んでいますけれども、経営権は別の方が持っていますよ」
「マジかよ」「知りませんでした」
「3年前に今の方に変わったんです。その方が料理や経営に詳しいということで、時々こちらに来ていただいて……おや?」
主人の視線がテーブルの一点、鍋割の前に置かれたアイスコーヒーのグラスの底に注がれる。
そこに挟まれていたのは本のしおりサイズの紙切れだった。元々は厨房に置いてあったものなのか、あちこちに小さな油染みや食材由来らしきカラフルな汚れが付いている。問題はそれそのものではなく、そこに書かれていた内容であった。
ごぬんなちい
まっさゃとウェ/ヽースがもうあいません
きょうは/ヽ○フェをおだUできません
キうしねけあしほせんしらりU
まさにミミズがのたくったような文字であった。しかし単純に下手なだけというわけでもなく、なんというか子供が一生懸命書き上げたような純粋さを感じさせるものでもある。鍋割はうーっ、と素っ頓狂な声を上げて腰を浮かせ、慌てた顔でキョロキョロと周囲を伺う。
「……なんだよコレ!ご主人、置いたのあんたか!?俺がホラー苦手なの、知ってるだろ!」
紙をつまみ上げ、しげしげと観察する厚木とカウフマン。
「しらり……お名前ですよね、これ。なんて読むんですか?」
「白石さん、です。お優しい方ですよ」
少し人付き合いが得意でないだけで――と主人は柔和な笑みを崩さないが、これでちょいと苦手レベルだってーんなら、俺は今頃上海辺りで腕っこきのサギ師やって100億ドルぐらい荒稼ぎしてるよ……と鍋割は心の中で毒づく。
「というわけでして、申し訳ありませんが今回はパフェをお出しすることはできません……ご了承ください」
「あー……全然大丈夫だよ、うん。俺はやっぱり、この店のスパゲッティが一番好きだしさ」
まだ気になるのか周囲にちらちらと視線を配りながら、勢いよくパスタを巻き取って口に放り込み始める鍋割。
主人はそれを見ると、満足げにぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。それでは、ごゆっくりどうぞ……」
「……うー、食った食った。食後になんか頼むか?」
テーブルに備え付けられていたつまようじで歯の隙間をチクチクやりながら、遅めのランチを終えた鍋割がのんびりと口を開く。
「ナベさん、この前食事制限やるって言ったばかりじゃないですか」「俺じゃねーよ、カウフマンだよ……どうだ?」
呼ばれた当人は手持ち無沙汰なのか、すっかり氷が溶けきってぬるくなったお冷やをちびちびと飲んでいるところだった。
彼女は少し考えるようなそぶりを見せたあと、鍋割へ穏やかな笑みを向ける。
「いえ、大丈夫です……ここ、いいお店ですね。初めて来ましたけど、なんだか懐かしい感じがします」
「そうか!?ありがてえ。他の連中はボロいって言うけど俺もお気に入りでさ……そう言ってもらえると嬉しいよ」
大げさに喜ぶ――このハゲたおっさんは実際のところ、陽の感情表現ならなんでもかんでも大げさなのだ――鍋割。
その時机の下から聞き慣れた振動音が響く。彼はすぐさまポケットから携帯電話を取り出して広げ、右耳に当てた。
「はい鍋割……はい」
返答と共に彼の目が細くなる。それに気づいた厚木は空になった皿やグラスをまとめて片付け始める。
「…………はい、了解。ええ、近場です……直行します。では」
「『急行』ですか?」
携帯電話を閉じた鍋割に厚木が短い問いを投げかける。彼は答える代わりに胸ポケットからヨレヨレになった地図のコピーを取り出してテーブルの上に広げてみせると、その中央を通る川沿いの一点を指で軽く二度叩いて肩をすくめた。
「南部大橋の下にある野球場で、『ヒゲの生えた』『酔っ払い』が『寝っ転がってる』そうだ」
「ここ、16班の『枠』じゃないですか。もしかして……」「ん」
鍋割は小さく縦に頷いて肯定の意を示すと、それから大げさに左右へ首を振ってみせた。
「アイツらまーた産業道路に釘付けなんで、手空きで面倒見ることになった。今17班と20班が『柵引き』してるんで、応援に行く」
「『ドライブスルー』の密売やってた『丘サーファー』、まだ捕まんないんですかね……『職人』はどうします?」
「20班が一組連れてくるからいい……カウフマン。今の話でなんかわかんないとこ、あるか?」
鍋割が自分のアゴでカウフマンを指し示すと、彼女はひとしきりメモ帳とにらめっこした後に顔を上げた。
「……『溝堀り』と『柵引き』って何が違うんでしょうか」
「おーおう、いい質問だ。これは確保する対象……今回は『酔っ払い』だが、これが動いてるかどうかによる。前に教えたように対象が動き回ってるか動き出しそうな場合、それ以上他のところに行かれちゃ困るから『溝堀り』をする。"溝掘って・落として・隠す"で覚えてもらったな」
「……はい」
「今回は移動もせず周りに妙な影響も与えてない、つまり『寝っ転がってる』んで『柵引き』をする。"落とす"手間がない分『溝堀り』よりは楽だが、その分手早くやらなくちゃいけねえ」
「隠す範囲も広くなります。だいたい1.5倍くらいかな」
「まあ最初だから訓練通りにやりゃあいい。三班合同だし、17班もこの前新人入れたばっかりだ。足並み揃えてゆっくりやろう」
「でもまあ、油断はさせませんよ。あそこが新人さんを入れたのは、今年の春にメンバーを2人なくしたからです」
少しだけ声のトーンを落とした厚木の様子から、カウフマンは"なくした"の意味を察する。
オリエンテーションで何度も聞いてはいたことだが、やはりこの職場では確かに死は身近でありふれたものなのだ。
(でも、だからといってそれが理由になるだろうか?)彼女は目を閉じて自分に問いかける。
親もいる、帰る家だってある。この道しか選べなかった身分じゃない。この道のために人生の全てを費やしてきたわけでもない。
それでも偶然開けたこの道へ進むために、陳腐かもしれないが血のにじむような努力をしてきたのだ。
ここで立ち止まってどうする?ここで終わって何が残る?ここで逃げてしまったら、誰がこの街を守る?
カウフマンは自分の心臓を重たいブーツで蹴り上げるヴィジョンを思い描く。心臓は勢いよく動き出し、全身に熱い血を巡らせる。
彼女は静かに一度だけ深い呼吸をして、ゆっくりと顔を上げた。
「いけるか?」「……はい、よろしくお願いします!」
「いい返事です。冷静な人は土壇場に強い!さぁー、行きましょう!」
言うやいなや厚木はテーブルに右手をついてすっくと立ち上がり……その姿勢のまましばらく固まって、やがて首だけを動かした。
「……あれ、行かないんですか?」「燃えてるねえ、アッちゃん。後輩の前でいいとこ見せちゃって、まあ!」
彼の前でわざとらしく頬杖をつき、鍋割はにやにやと笑う。隣を見れば、カウフマンが少し苦笑してこちらを見ていた。
「うっ、ううん!……茶化さないでくださいよ」
厚木は照れ隠しのつもりなのかしかめっ面でわざとらしい空咳を出し、その場でわしわしと頭を掻く。
鍋割はそれを眺めながら黙って何か考え込んでいたが、やおら厚木の方へ腕を伸ばすと五本の指をわきわきと動かした。
「おう、立ったままでいいから車のカギくれ」「はい?どうぞ」
鍋割は受け取ったバネットの鍵をカウフマンへ差し出す。
「先に乗っててくれ。できれば後ろに積んでる青い工具箱開けといてくれるか、すぐ使うから」
「わかりました」
彼女がぱたぱたと扉の向こうへ消えたのを見届けると、鍋割も腰を上げた。二人はテーブルを挟んで向かい合う格好になる。
「ちょうどいい機会だ。今日の柵引きであいつに『トンプソン』と『糞バサミ』の使い方、教えてやってくれねえか」
「『糞バサミ』じゃなくて『火バサミ』ですよ」「通じるんだからいいじゃねえか」
厚木の肩を軽く叩いて笑うと鍋割はテーブルを離れてカウンター端のレジスターへ向かい、傍らに置かれているベルをチンと鳴らす。
厨房の奥で主人の声がしたのを確認してから、ふと彼はこちらへ振り向いた。
「あとはまあ、用語も復習してもらった方がよさそうだな。一度に全部は覚えきれねえだろうから……」
「昔作ったアンチョコがあります。戻ったら『糊』付けて渡しておきますよ」
鍋割が満足げに頷くとほぼ同時に、主人が急ぎ足で厨房の入口から飛び出してきた。
「お待たせいたしました」「お勘定お願い。ちょうどね」「はい……1250円、ちょうど。ありがとうございました」
店主が察したのか支払いは実に手早く済まされた。鍋割はレシートを財布にねじ込み、片手を上げて店を出る。
「ごちそうさん!」「ありがとうございました。またのお越しを」
その後を追う厚木が会釈しつつ静かにドアを閉めると、途端に周囲は再び熱気に支配される。
「あっついですねー……まだまだ」「あー、まあ……ちったあ風が出てきたからマシだな」
鍋割は空を見上げる。現場を出た時よりはだいぶ雲が減り、ときおり吹く北からの風が彼と相棒の肌を撫でていく。
閑散とした店の前を通って裏手に回ると、奥に停めたバネットの前でカウフマンがなにやらドアと格闘しているようだった。
「あれ!乗ってろっつったのに。何してんだ?」
「あっ……鍵の『ヒネり方』、まだ教えてなかったかもしれませんね」
「あー……そういや、そうだったな……」
二人はひとしきり顔を見合わせ、それから大慌てで走り出す。
「おーい!それ以上触んな!」「壊れちゃいますからーっ!」
洗い場に運んだ皿を厨房の妻に任せて主人がテーブルを拭いていると、店の裏で控えめなエンジン音が轟き始めた。
顔を上げれば窓の外を白いワンボックスカーがそろそろと進んでいき、巡回中のパトカーを刺激しないギリギリのスピードで道路へ飛び出していく。それと入れ替わるようにまた別の車がやってきて、つい先ほどまで三人のバネットが置かれていた一番奥のスペースに停まった。降りてきたのは五人の男女で、窓越しにもわかるくらい楽しげに談笑している。それぞれが赤・青・黄・緑・桃色で服のトーンを揃えているのがまるで戦隊モノの主役のようで、彼の口元から思わず小さな笑みがこぼれた。
主人は厨房の入り口から中を覗き込み、せわしなく立ち働く妻にそっと声をかける。
「ミエちゃん、次のお客はどっちかなあ」
「えぇ!?今日は朝からずーっと『お客さん』ばっかりじゃない!今度もそうよぉ」
『ミエちゃん』はちょうど洗い終えた食器を乾燥機に入れ終えて、足りなくなったパスタの具を作り始めたところだった。
「そうかなあ、じゃあ僕は『お客様』に賭けてみようかなあ」
「あ!そういえば白石さん、もう帰っちゃったわよ……もー、また聞いてない!」
ざわめきがゆっくりと近づいてくる。主人はシャツの襟とエプロンの裾を正し、カウンターの中に陣取る。
次に来るのは『お客様』か『お客さん』か、それを当てるのが年老いた彼の貴重な楽しみなのだ。
そしてドアが開かれたその瞬間、彼はカウンターから身を乗り出していつものように『お客』を出迎える。
「いらっしゃいませ!」