マイケル・ブライトはジャック・ブライトのオフィスの扉を静かに閉めた。
「なぁ兄弟」
ジャックは目線を下にし、机の上に置かれた書類の束に記入を続けていた。
「兄弟?」
二人の間に流れる静寂の気まずさはマイケルにとって天敵だ。
とても長い時間を経てジャックは書類から目を引き剥がした。
「なんだよ?」
だが、彼の持っているペンは紙から離れなかった。
マイケルは弟の視線を真っ直ぐと見られなかった。
「俺が昇進するってことは聞いてると思うんだが」
「まぁね、本当は機密情報なんだろうけど、僕達家族だし」
「そういう無駄話はいい」
彼らが今までに一度も話したことの無い会話達が宙ぶらりんのままになっていた。2人は約10フィート程しか離れていなくて、あと2、3歩足を踏み出したら身体に触れるような距離であった。
一言で本心を伝えるには十分なはずなのに素直にはなれなかった。
「O5-6……なかなか良い地位をゲット出来たんじゃない?」
ジャックは書きかけの書類を一瞥して、また兄に視線を向ける。
「こんなに早くに出世して……君は本当にラッキーだな」
ジャックが絞り出した言葉の一つ一つに長年の苦悩が詰まっていた。
マイケルは落ち着かず、何かを触りたいという衝動に駆られる。
「そうだな。俺はラッキーだよ」
「誰が君の後釜になるかわかる?」
「さぁ……ついさっき昇進の知らせが届いたばっかりだ」
ジャックの視線に当てられ、マイケルは逃げ出したくなった。マイケルは背筋を伸ばし、手を横に揃え、何事にも動じないという態度を取り繕う。
「僕が荷物をまとめて別れを告げるのに数時間の猶予が与えられた。もう二度と会えない……」
「そう思う」
「なぜ……」
マイケルは言葉を飲み込み目を閉じる。だが、再び目を開けても部屋の中の何かが変わるということはなかった。
「お前はそれをいつから知っていたんだ?」
「数日前からかな」
ジャックの目からは少し悲しみの影が感じられた。
「君に話が行く前からじゃないかな。父さんはそれについて僕に話してくれたよ。まあ父さんなら知ってておかしくないんじゃないかな」
「あぁ」
「ただの言葉の綾だけど」
「そうだな」
マイケルは目の前の現実から気を逸らすためポケットに手を入れ、中身を漁ろうと無為に指をぐるぐる動かした。
「でも……準備出来てるかどうかは別問題だ。」
「準備はとっくのとうに終わっているさ」
ジャックは綺麗にペンを動かし、一つの絡まった思考を解き、また次の思考へ移っていく。
「じゃなきゃ昇進なんてしないだろ?」
「まぁね」
マイケルは息を深く吸い込む。
「だが……覚悟ができていないと思う」
「君ならできるさ」
「なんでそんな事が分かるんだ?」
「君がマイケルだからだよ」
ジャックの言葉は淡々として、とても冷たく痛々しく感じる。
「だって…その立ち位置をもう受け入れているんだろ? 現に、僕に向かってさよならも満足に言えないのが証拠さ」
「すまない」
マイケルはまた息を深く吸い込んだ。
「俺は話す事が下手だ」
「今更?」
「さよなら。だけだと少し寂しいだろ?」
「別にそうでも無いんだけど」
ジャックはペンを置き、事務作業を完全に終わらせた。
「なぁ、マイケル……」
「なんだ?」
ジャックは頭のどこかで引き留めた理由の言い訳を考える。
「ここに来てくれてありがとう」
「こんなに急な連絡に対処出来るのはきっとお前だけだろう」
「そんな事は別にどうでもいい。肝心なのは君がまだ僕の事を考えてくれているって事だ」
2人の間に再び訪れた静寂は先程と違い、ナイフで刺されるように冷たく鋭く感じることは無かった。
二人の目が合い、マイケルは口を開く。
「俺はこの仕事に相応しい人間なのだろうか?」
ジャックは動きを止め、床を見たあとに言った。
「君はどう思うのさ?」
マイケルにはその質問に答えることが出来なかった。
「早く荷造りをしてきなよ」
ジャックはペンを持ち直し、作業を再開させる。
「これから君の人生は大きく変わる事になる」
「寂しくなるな」
マイケルはオフィスに入ってきた時と同じように静かに部屋から出る。
彼が泣く事はもうなかった。