「本を読み終えるのが怖いんだ。」
唐突に私がそう漏らした時、頷いてくれる様な人はどれだけいるだろうか。すっかり冷めてしまったアメリカンコーヒーの匂いと、三週目に突入した温いジャジーなBGM。その全てを赦す様に打ちつける、舗装された雨のおと。
予定調和からは少しズレたカフェの中で、一冊の文庫本を開いたままで。一枚の上質紙をつまんだまま固まっている私を、店員は怪訝な目で見ながらお冷の追加を申し出る。取り繕うように返答して再び孤独を獲得した後、再放送の様に私は何もできない事を知る。
一度深呼吸をする。凹みが固定化された柔らかな椅子をなおしてから再び座り直してみる。私の他に数人いる客の会話に少しだけ耳を傾けてみて、やっぱり煩雑で耳障りだな。でもイヤホンをするのは個人的に気に入らないんだよね。その理由の一端たる雨音を微かに睨みつけながら、私はまた眼前の恐怖と相対する。やはり頁を捲る手は動かない。
何故こんな事をしているのだろうか。
私は物語が好きだ。どこまでも自由であり、複雑で、際限なく実体もない世界の縁。誰かが創り出した無限と夢幻。それは時に船の上の航海記。波濤は猛り、苦難は天を覆い、そのすべてを超える決意は大空を晴らす。時にローファイでポップなボーイ・ミーツ・ガール。官能と憎悪が交錯する怪談奇譚。
ロケットは上質紙の空白を舞い、現代に蘇る恐竜は行間を跨ぐ。ルビと幽霊が織りなす百鬼夜行に心は踊る。どこまでも楽しく美しい世界。そこに没入して溺れる瞬間に私は焦がれていた。暇さえあれば喫茶に足を運び、今日も新たな文庫本を開く。私だけの、辞める事が想像もできないルーティーン。
だから、怖い。
怖い。物語を終わらせてしまう事が。広がっていく筈だった世界を、他ならぬ私の手で閉じてしまう事が。恋慕を、冒険を、全てを冷たい現実で氷漬けにしてしまう事がたまらなく恐ろしいのだ。
だからいつも読めなくなる。頁を進めることが怖くて、何もできなくなってしまう。今回もどうせ最後まで読めないよ。ヌルい諦観が手汗と共にじわりと忍び寄る。カフェを包む雨音は私の鼓動を狂わせて、今か今かと決断を迫っている。
怖い。次の頁を捲る事が、怖い。
「化け物と戦うのが怖いんだ。」
そう告白した同僚を笑う奴は周囲に一人もいなかったが、首肯して慰めてやる奴もまた一人としていなかった。いつかの休息時の事だ。今思えば、それは奥底にある真実から全員が目を背けていただけだった、なんてありきたりな結論で。
血反吐。バイザーは既に機能停止、視界の先に広がるのは砂塵と骸。肉体が欠損していないだけマシだが、恐らく派手に折れているであろう胸部の骨が内臓に食い込まんとしている。親切にも激痛で伝わってくる事だ。眼の前に聳える全長9m程のデカい化物は、飛び交う鉛玉やガスの猛攻に悶え苦しみながらも破壊の限りを尽くしていた。裂けんほど開かれた口を埋め尽くす鋭い牙に、垂れた紅黒。当初の目標であった弱点部位の破壊は未だ達成されていない。
春、燦々。皮肉にもその光景は、吹雪の様に散りゆく桜に塗れながら繰り広げられていた。
ただの収容違反。ただの時間稼ぎ。後続の為のデータ収集。数字だけで処理される屍のリレー、そのバトンが俺達にも回ってきた。本当に、只それだけだった。最早俺が評する余地もない程に語り尽くされた覚悟や悲哀の手垢だらけのバトン。それを受け取ったからには、後は走るだけ。
なのに、脚が動かない。
それは全身に走る激痛故ではなくて、土壇場の思考力による冷静な行動判断故でもなくて。小刻みに震える腕で銃を構えるだけ構えても、状況が変わる訳もない。収容対象がこちらを向く。挑むべき化物の、血濡れの牙と相対する。
血と桜吹雪の濁流に呑まれて、脊髄に霜が張って凍り付く。いつかの同僚が吐いた言葉がフラッシュバックする。そうして漏れたのは、見て見ぬ振りをし続けるつもりだった筈の本音。
怖い。化物に挑むのが、怖い。
「鍵盤を鳴らす事が怖いんだ。」
そんな事、言えるわけ無い!
天地も嗤い飛ばすオーサカに無理矢理建てられたステージ。そしてその周りを覆うビル、通路、廃屋、ケーブル、全部全部が巨大な観客席。悪と混沌を謳うこの街の一角が、今宵一つの"熱"を伴って湧き上がっている。揺れる毒々しいネオンと爆ぜるカラフルな煙幕筒、熱狂と狂騒を見上げながら───当機ボクは、一人ステージの真ん中に立ち尽くしていた。
零式第六幻覚鍵盤機、通称"酔醒夢死ダイ・ドリーミン"。この子が響かせるビートを聴いた者に簡易的な「降霊」を成立させる事で聴覚だけでなく視覚、第六感まで揺らす強烈なバッド・トリップを提供───そしてその全てを鍵盤の形で自由に調節、操作可能な前代未聞の装置だ。
その開発者にして唯一の演奏者たるこの当機ボク! ハロー世界、お待たせ世界。このイカれたイカした装置を引っ提げてやって来たぜ。お披露目ライブの入場料は無料、終了時刻はO2PDが会場を制圧するまで。これまでの地道な活動で集めた、溢れん程のオーディエンスは既に場の熱量を作ってくれている。世界がその演奏を待っている。なのに、なのに。
どうして、当機ボクだけがこの場にノれないでいるんだろう。
酔醒夢死ダイ・ドリーミンの前に座る。演奏の、熱狂が始まる気配を察知した観客達が少しづつ静寂を作っていく。そうして完成したのはネオンの壁だ。只サイケで無秩序な光の波が、無音の中で当機ボクを呑み込まんと睨んでいる。
不安。緊張。失敗の可能性。普段なら笑い飛ばせる筈のそれらが、十色の光の重圧となって急速に背中に伸し掛かっていた。自慢のポニーテールが力無く揺れる。焦燥。ヒトを模した全身から、流れない冷や汗が吹き出す様な感覚が襲い来る。
怖い。鍵盤を弾くのが、怖い。
「皆に嫌われるのが怖いんだ。」
皆があの子の存在を忌々しいものとして扱っている。あの子の左脚から落ちた羽は穢れだからって、今日も掃除の時間で揉め事が起きている。あたしに笑いかけながらキーホルダーをくれた塚田ちゃんの顔は、あの子に向けられる時のそれだけ別人のように見えるんだ。皆の二面性を「そういうもの」として受け流せるほど、どうやら自分は器用じゃなかったらしくて。
AM15:40、気怠い日差しが差し込む教室は小さくざわついていた。あたしの制服から色んな粕がぽろぽろと零れる。クラスの皆の豆鉄砲を喰らったような顔が少しだけ可笑しい。パッチワークの様に身体の箇所が鳥に塗りつぶされたあの子に、「今日の餌」として投げつけられた色んな食べ物のかすの延長線上に、割り込むように。あたしの身体があった事がこの状況の全てを作り出していた。
それにしても、勇気って奴はどうしてこうも気まぐれに顔を覗かせるのだろう。
もうこんな事やめようよ。颯爽とそう言い放つ、筈だったあたしの顔は。金魚のように口をぱくぱくさせる事すらできなくて、ただあの子からも皆からも浮いた第三者に向けられた視線を欲しいままにしていた。コンマ二秒前に可笑しく思っていた皆の顔の裡に潜んだ敵意が突然に怖くなる。───まだ事故ってことに出来るかも。そんな情けない思考が血液のように全身を廻っていく。
怖い。皆から嫌われるのが、怖い。
「この先のすべてが怖いんだ。」
財団の宣誓から約四ヶ月。悪意を伴った混沌に世界が呑まれて、残された選択肢は三つ。己の正常を貫いて抗うか、潔く楽に死んでおくか、せせら笑いながら更なる混沌をぶつけるか。当然の様に選ばれた第三の選択肢、その最終到達点に僕は一人立っていた。涼しい風が透き通る野原を切り抜くように存在する、小さな緑色の扉。どうやら図書館でも別次元でもない、深く暗い最奥にそれは繋がっているらしい。数分前に粉微塵になった蛇の手の男から聞いた話だ。
右手に握った鍵を扉の鍵穴に差し込む。文字通りに託された混沌への片道切符は随分とすんなり差し込まれて、あとは鍵を回すだけ。総勢数十名によって立案された命がけの嫌がらせは、これにて結末を迎えようとしている。……その寂寥が故かは分からない。けど、僕は、鍵を回す手を動かせないでいた。この先の世界はどうなるのだろう。僕らが愛した物の全ては、嘲るように壊されるしかないのだろうか。言い訳の如くにじみ出た躊躇いの言葉は、つまる所こういうふうに訳せるのだろう。
怖い。待ち受ける何もかもが、怖──────
…
……
冗長。
只、冗長さだけが積み重なり綴られていた。恐怖に竦む。その場面は、一瞬は、直後に起こるであろう克服や絶望を前提としているからである。山も谷もない、「底」故の平坦。下限まで落ち切った失望感とこれ以上落ちる事はない安心、果てにたどり着いてしまった小さな落胆が混ざり合う刹那。それを切って並べる行為が引き起こすのは、即ち物語の停滞だった。
思うに、恐怖とは停止である。変化が怖いから、保守的な選択肢を取る。傷つくのが怖いから、儚い今を力一杯に抱きしめる。大切な物が失われるのが、孤独の匂いを忘れてしまうのが、貴方の顔を思い出してしまうのが。愛憎と哀愁を向けた尊いものを咄嗟に護ろうとする時、人は停止を選ぶ。
恐怖に勝て、なんて言葉は綺麗事だ。
それは護りたい物が何一つ無い者の虚しい戯言に過ぎない。恐怖に勝つ必要なんて、必ずしもあるとは限らない。そうじゃないか。
少しだけ安心したんだ。恐怖とは、停止である。身体は止まり、世界は止まる。桜と血が靡く戦慄の花吹雪も、混沌が渦巻く熱狂の夜も、柔い日差しが差し込む教室の一場面も。全てはもう、失われる事は無い。止まった物語は、もう終わる事は無いのだから。
「でも、それじゃあ何も始まらない。」
声が聞こえた。
小さく、細い声だ。しかしてそこに一切の戸惑いは感じられない、針金の様な鋭い声だ。
何も始まらない。まだ、何も歯車は動いていない。分かっている。分かり切っている事実だ。それを優しく、されど残酷に照らす声の奥に迷いの類は一切なくて。恐怖に竦んだその先が途切れたのは、本当は。
「────ねえ、」
「貴方に言っているんだよ。」
きっとそれは誰もが抱えているもので
きっとそれを拾い上げる行為は愚かで
だけど私は、貴方と話がしたいと思ったから
「物語を紡いでいくのが怖いんだ。」
目を開ける。
冷めてしまった珈琲も、一冊の文庫本もここにはない。代わりに並べられた記号は文字となって、言葉を拙くも確かに重ねていた。その言葉の先に「私」は立っている。私が相対しているのはカフェを包む重苦しい雨音、血に塗れた怪物の牙。眩しいネオンの光。クラスの皆の顔。鍵穴。私たちの私たちによる恐怖。そのすべてを創り出した、画面越しの空白。つまる所───それは貴方だ。
息を吸う。込められた意味を咀嚼して、ゆっくりと。
簡単でくだらない疑問を、けれど心臓に届き得る銀の弾を、私は放つ。
「それは、どうして。」
怖いんだ。
物語を物語たらしめる事が。星の様に朧気で眩い幻想の砂粒を、凡庸な城に留めてしまう事が。それは可能性の収束であり、認識の固定化。本当に書きたかった、伝えたかった物は書き記した時点で何もかもが辷すべり落ちていて、全ては言葉にした時点で彩度が失われるとして。
結果自分が書き続けて、出来上がるのは本質も何もなくなった妥協と諦念の塊だとしたら。自分の行為は、原初の衝動を緩やかに腐らせるだけの物だったとしたら。鏡面に映った"それ"はどこまでも等身大で、合わせ鏡の様に反射を繰り返し、屈折し、ドロステの果てに吸い込まれ無くなって、底無しに自分を吞み込んでいた。これ以上幻想を綴っていく資格はもう自分には無いように思われた。
怖い。物語を書くのが、紡ぐのが、怖い。
だなんて常套句がつらつらと吐かれる物だから、私は少しだけ可笑しくなって笑ってしまって。笑って、愛おしくなって、その後の感情を崩れない様に大事に抱える。そうだ。確かに私も同じ恐怖を持っているんだよ。私も物語を進めるのが怖かった。頁を捲るのが怖かった。
でも、だからこそ言わなければならない。改めて貴方を見据える。白い空白の向こう側、未だ届かぬ貴方へ。微笑を讃えて、伝える。届かせる。口を動かして、私は答える。
「───ふざけるなよ。」









