夜が更けて尚、私は書斎で原稿用紙を前に頭をかいている。本屋ですれ違った学生はこう言っていた。
「この作家の書く話は、名作を組み合わせただけで新鮮味がない」
私はこの言葉を帰り道で小馬鹿にしていたのだが、今の私が何を思っても言い訳ではないのか。私はこのごろ、創作に限界を感じていた。私は今まで収集した名著たちを取り出し、そして静かに項垂れた。どれも私が感動し、参考にしてきた本である。どれも今更組み合わせる要素は残っていない、少なくとも私の頭では。
これらの本は私の価値観を凝り固まらせたのだろうか? いや、行き詰まっているのは私が情報吸収を怠った結果である。好むものだけを手に取り、好むものだけを書き続けた結果である。私は普段見向きしない世界にこそ手を出すべきであり、それに気付くには日が経ち過ぎた。
中身を取り出された本棚はろくに本が残っておらず、歯抜けの棚はなんとも涼しげであった。大層羨ましい。あれだけの空きが私の頭にもあったら、新しい知識をふんだんに取り込む事が出来ただろうか。
わかっている。私は本棚ではない。
だが今日の私は、創造力の限界や焦り、諸々に参っていたのだろう。眠気か疲労か現実的な思考から離れた脳は、突飛な考えを導き出した。
己の限界を超えたければ己の限界を捨てなければならないと何処かの誰かが言っていた。
それならば『私の頭に本をしまう事が出来たら私は本棚になれるのだろうか』?
冷静であればこんな考えには至らないだろう。しかしこの時の私には本棚になる事が最適解だったのだ。創造性の行き詰まりを打破する近道だったのだ。
私は今日購入した本を両手に持ち、勢いよく額にしまおうとした。しまえない。本の角が目を突いた、鼻を突いた。その時ほんの少しではあったが、私の中に本が入った。
これが限界を超える際の痛みなのだとしたら、あともう少しのはずだ。名高い創作者達が乗り越えた生みの苦しみが、私の場合これだったのだ。生まれた柔いへこみに向かって、本をしまおうとする。しまえない。鼻で息を吸うと鈍く痛んだ。しまおうとする。しまえない。何も見えない。二冊の名作を私の目から脳へ読み込む。
私の想い描く形へ! もっと、私の想い描く形へ! 一冊の新たな名作のために!
しまおうとする。しまえない。
何も見えない。
口で息をする。
ようやくしまえた。
赤黒い背表紙が見えた。
息ができない。
ああ……これから私は、私の創作のために生きていけるのだ。
どこかで警察を呼ぶ声がする。
「その後は警察の方々に来て頂きました」
「なるほど……此方は現場に残っていた、旦那様のコレクションです。ここから何か失くなっているものはありますか」
「えっと、黒っぽい表紙の本とか、語学の本とかあったと思います、けど……本当にこれが夫の書斎にあったんですか?」
「それはどういう意味で?」
「どの本も見覚えはあるんですが……確かに見たことがある本は、一冊もないんです」