あなた
史上
最高の
食事
アンブローズ・グロスターのレビュー。
文責: サム・ヴァセリル
11分で読了可。
⭐⭐⭐⭐★

アンブローズ・レストランの全ての店舗には“策略”ギミックがある。これは料理評論界で長らく信じられている格言だ。老若を問わず評論家たちの間で語り継がれるうちに、それはある種の通過儀礼に、内輪の冗談に、そして洗練された味覚の持ち主や、この言葉の意味を完全に理解するのに十分な経験を積んできた人々にとっての太鼓判とでも言うべきものになった。知ったかぶりをする者はすぐさま見破られる - その種の発言はあまりにも真剣で、熱心で、言葉の裏に秘められた瑞々しい真実と矛盾するからだ。
無論、アンブローズ・レストランをレビューする機会に恵まれた評論家はほとんどいない。私のような評論家への、はっきりそれと分かる嫌悪の念は、ギミックの一部であるとすら言えよう。小さな店舗、不規則な営業時間、期間限定の出店 - いずれも、まるでわざと評論家たちを面食らわせ、苛立たせるかのように、アンブローズが独特の 熱意 を込めてやっていることだ。長年この仕事に携わってきたが、私はアンブローズの店舗に評論家が招待されたという話を一度しか聞いていない。
従って、皆さんもご想像の通り、アンブローズ・グロスターのグランドオープンへの招待を知らせる手紙を郵便で受け取った時、私は仰天した。さっそくウォルドン・スタジオの担当編集者と詳細を詰め、言わば事前情報抜きで来店するということで話がまとまった。参考資料として、アンブローズからは本来の招待状を送ってもらった。それは小さくシンプルなもので、店名 - “Ambrose Gloucester” - 住所、日付だけが記されていた。
認めよう、私の関心は掻き立てられた。グロスターへの出店計画があるとは耳にしていなかった。立地としては奇妙な選択だったが、それほど遠く離れていない。幸運は勇気ある者に訪れると俗に言う。そして、私はすっかり興味津々だった。
道のりはまだ続く
ここで過程を詳細に記すのは、私自身がまさしくその心構えで評論に取り組んでいるからだ。大抵の人は料理評論家と聞くと、フランス料理に執着し、高値の品以外は一切敬遠する、エゴの塊の如き俗物を思い描く。そのような印象は不当だ、と言い切れないのが悔やまれる!
しかし、そのように一般大衆の手が届かない料理にばかり照準を合わせるのは、どこにでもある美味しい食品に対して失礼にあたるというのが私の見解だ。例えば、私の地元駅の近くに、ソーセージロールを五十ペンスで売る小さな店がある。脂っこくて、チーズたっぷりで、温かくて、紛れもなく安い。そしてまた、私がこれまで食べた中で最高の料理のひとつだ。食べ物の唯一真なる基準は、それを堪能できるか否かなのだ。それ以外は全て卓上の飾りに過ぎない。
訪問当日の朝は、いつもとほぼ同じだった。午前六時きっかりに目覚め、毎朝定番のラテの準備を始めた。私は常々、ラテを淹れる過程は料理の完璧な提喩シネクドキだと思っている。無論、材料の質は重要だ。しかし、食事が作られる時の心配りや愛情とは比較にもならない。私は別に高級なコーヒー用品を揃えているわけではない。実際、我が家の設備はとても質素だ。単純な造りのハンドグラインダーと、手動レバー式のエスプレッソマシン。食べ甲斐のある料理を作るのは、やはり手仕事と情熱である。
それを改めて意識しながら、料理という繊細な舞踏の一歩一歩を踏み出す。まず、コーヒー豆を完璧な硬さに挽く。細かすぎると苦くなってしまう。粗すぎると水が複雑な風味を吸収しきれない。挽き立ての粉をパックに詰めてから、抽出マストヘッドの内部で熱と圧力が高まり、流れ込んだ水が豊かで土臭い挽粉の歴史と混ざり合う音に耳を澄ませる。それは音楽と風味が織りなす見事なクレッシェンドだ。そしてようやく、私はレバーを引き、エスプレッソをカップに注ぐ。
ちょっぴり苦い - 圧力を少し高めすぎたようだ。
しかし、構わない。これはこれで素晴らしい。
コーヒーを飲みながら日の出を眺め、玄関を出る前の穏やかなひと時を過ごす。
アンブローズ・グロスターへの道程は至って坦々としている。日常生活を送る人々の合奏に聞き入りながら列車に乗り込む。数人の子供たちが宿題を終わらせようと果敢に取り組み、単純な算数問題の答えを模索している。一人の若い男性が眠りに落ちるまいとしている。
グロスター駅で列車を降りる。季節初めの麗らかな日和で、そよ風が開けた空間を吹き抜けてゆく。ちらほらと人の姿も見えるが、ラッシュアワーには少し早いようだ。私は北へと向かう。
道すがら、自分がアンブローズについて知っていることを熟考する。私は専らアメリカ国内の店舗の話ばかり聞いていた。カリフォルニア州で幾度か残念な事件が起きていたが、ポートランド店は概ね良い評判だった。近年、アンブローズは伝統的なレストラン経営から距離を置きつつある。ロサンゼルスのフードホールが思い出されるし、ウィーンではより個人的なことをやっているとの噂もある。さて、私はどんなものに直面するのだろう。なぜか、大掛かりなものを期待してしまう。
駅からアンブローズ・グロスターまでは徒歩で三十分。自動車や人の行きかう喧騒から離れて、セヴァーン・ブリッジへと入る。ここは小さな通りが点在し、時折公園も見受けられる閑静な区画だ。
アンブローズ・グロスターは、ウェザースプーン・チェーンパブの向かいにある、何の変哲もない小さな建物の中にある。これが果たして幸運な偶然なのか、意図的な決定なのかは分からない。ウィザースプーン系列店ほど人を新しい挑戦に駆り立てるものはない。
扉はシンプルな字体で店名が記された着色ガラスで出来ている。ガラス越しでも向こう側は見えにくく、押すと僅かに軋む。そのささやかな抗議を除いて、扉はびくともしない。私は後ろに下がり、誰もいない通りに目を走らせる。早く着き過ぎたのだろうか? 扉に目線を戻し、今度はもう少し詳しく観察する。
ばつの悪さを覚えながら、扉を手前に引いて開き、店内に足を踏み入れる。
真っ先に気になったのは雑音だった。常にブーンという鈍いハム音が屋内に満ちている。気が散るほど大きくはないが、執拗で耳障りな音だ。次に、匂い。ほんの僅かながら塩素の香りがしたのだ。飲食店には全く以て望ましくない不快臭である。
玄関ホールは狭いながらも明るく蛍光灯で照らされた白タイル張りの部屋だ。隅には小さな木製のエンドテーブルがあり、ガラスの花瓶に生けられた一輪の黄色い花と、はっきり目立つ手紙が置かれている。エンドテーブルと花には、どこか労せずして得られた居心地の良さや楽観の趣があるが、それは他の内装とは相容れない感覚だ。
私は少しの間、体重を預ける足をぎこちなく変えながら待機する。てっきり誰かが出迎えてくれるとばかり思っていたが、待ち構えていたのは無人の部屋と置き手紙だけだった。やがて好奇心が勝利を収めた。
手紙は案外短かった。
左の扉。
成程確かに、部屋には戸枠がもう一つあったが、扉は明らかに欠けていた。ポケットに手紙を仕舞った時、私はかなり緊張していたが、ほんの少し、わくわくしてもいた。一介の料理評論家の人生がここまで謎に満たされる機会はなかなかあるものではない。素人探偵という新たな役を満喫しながら、空っぽの敷居をくぐり、黒タイル張りの廊下へと入る。そこには扉が二枚あった。片方は左側、もう一方は右側だ。少々困惑したが、やがてこの左の扉こそが約束されたものだと気付いた。塩素の匂いは廊下ではほとんど消えていた。不思議なことに照明は無く、明かりは先ほどの部屋の空の敷居を抜けて入ってくるものだけだった。ハム音はより大きく、力強く響いていた。
興味本位で、私は右の扉を開けてみようとした。冷たい金属の持ち手を握り、今回は押しと引きを 両方 試すように心掛けた。びくともしない。システムをごまかそうとしても無駄ということか。左の扉は若干開いていて、魅力的な香りを漂わせていた。まだ鼻の感覚が塩素から回復しきれていなかったので、具体的に何の香りかは分からなかった。
私は左側の部屋に入った - 塩素臭とハム音はどちらも完全に収まっていた。室内装飾は奇妙な取り合わせだった。深みのある重厚な木材の床と、それに合わせた濃緑色の壁は、幾つかの揺らめく燭台で照らされていた。テーブルと椅子が一脚ずつ用意されていて、両方とも非常に上品かつ頑丈な造りだったが、この部屋の中心的存在はベルトコンベヤーだった。私にとって、この部屋は心地良くもあり、些か不愉快でもあった。
それはどこか、十年ほど前にイギリスを熱狂させた格安の回転寿司 - しかし果たしてあれを寿司と呼んでもいいものか - を連想させた。寿司の繊細かつ複雑な風味と、ファストフード並みの迅速さと利便性。
ベルトコンベヤーはテーブルの上を横切って伸びており、椅子に座ればすぐに手が届きそうだった。室内での存在感を別とすれば特筆すべき点はなく、他の内装とはあからさまに不調和だった。ベルトコンベヤーの入口は大きい - 高さは凡そ一メートル、幅も半メートルはあるだろうか。実に興味深い特徴で、意図や目的は未知数だった。いずれにせよ、またしても私の好奇心が刺激された。どんな料理がこのような型破りな搬送手段を必要とするのだろうか? 私は暗い入口を覗き込もうとしたが、ベルトコンベヤーはその先ですぐに角を曲がっており、その先にいかなる謎が潜んでいるにせよ、私の視界は遮られてしまった。
室内で調べるものがあっという間に尽きてしまい、他に何をすればいいかも分からなかったので、着席した。
ベルトコンベヤーが静かに回転し始めた時、よく整備された機構はほとんど音を立てなかった。
いかなる理由で私が招かれたにせよ、それは始まったようだった。
風に吹かれて、噛みしめ、求める
コップ一杯の水がコンベヤーの上を運ばれてきた。手に取ってみた。全くの常温だが、不快ではない。しばらく時間が経ち、まさかこれが私のアンブローズ体験の全てなのだろうかと思い始めた時、コンベヤーは再び動き始めた。今回は、小さな金属のプラカードが乗っていた。
私はそれも手に取り、調べてみた。非の打ち所がないほど精巧に機械加工されており、触れるとひんやりして重みがある。プラカードを置き、コンベヤーがそこに記された約束を果たすのを見守る。
アミューズブーシュ。正確には三品だった。一品目は整然と並べられたスイカのスライスに、調味料を振りかけ、アクセントとしてネギの小口切りを添えたもの。二品目はクルミにプロシュット、イチジク、ゴルゴンゾーラ・チーズを重ねたもの。三品目のアミューズブーシュはセロリのスープで、具材はニンジンとヒカマだった。
興味深い、しかし大胆な導入だった。シェフが私をからかっているような気がした - それぞれ不統一でありながらも魅惑的な前菜の集まりを、非常に独特なやり方で供するとは。
これがいわゆるギミックなのだろうか? だとすれば、随分と地味な策略だった。
まず、クルミから食べ始めることにした。舌はまだ清らかだったし、私は美味しいゴルゴンゾーラに昔から目がなかった。
プロシュットの濃厚さがゴルゴンゾーラのクリーミーな風味に引き立てられ、柔らかい食感がクルミのカリッとした歯応えで抑えられることを期待して、私はかじりついた。確かにその通りの味わいだったが、予想外だったのは、ショスタコーヴィチの“祝典序曲”を口にしたとしか言いようのない繊細な味だった。バイオリンの温かさ、堂々たるクレッシェンドから続くブラス・セクションの意気揚々たるファンファーレ、そして首席フルート奏者とクラリネット奏者の間での遊び心溢れるソロ演奏の往復。私はそれら全てを、いやそれ以上のものを、未だかつて経験したことのない奥深さと質感で味わったのだ。私は椅子に深く腰掛け直し、誰かが私の食事に合わせて音楽を奏でているに違いないと思った。しかし、どこにもスピーカーは無かったし、私が聴いたものをスピーカーなどという粗削りな道具が再現できるはずもなかった。私は一品目のアミューズブーシュを完食し、再びショスタコーヴィチの音楽に浸った。
私はアンブローズ・グロスターのギミックを見出した。
私はセロリのスープに目をやり、体験を味わい堪能するためにもゆっくり食べ進めようと自分に言い聞かせてから、サン=サーンス作曲 “動物の謝肉祭 - 第七曲: 水族館” へ、そして私が初めて荒野ムーアを目にした時の記憶へと飛び込んでいく。
石盤色の雲が、ほとんど気付かないほど緩やかに頭上を流れてゆく。その移動がどこに雲をいざなうのかは、間違いなく幼少期の私の理解の及ばぬところにある。私は淡い光の中に立ち、足元の沼をゆっくりと長靴で踏みしめ、ピアノの音色という雲の波が穏やかに鳴り響き、移り変わってゆくのを、心地よい安心感を湛えて眺めている。荒野は地平線の彼方まで広がり、その尽きせぬ忍耐力で私を飲み込んでしまおうと脅している。荒野の存在意義はずっと昔に定められており、私はその横で小さく孤独に生きている。自分の理解が及ばないものが世界にどれほど溢れているかを、私はこの時初めて悟った。私の両親が前に踏み出すように促し、優しげな決まり文句で宥めてくる - 泥炭の下には何も隠れちゃいないよ、と。
しかし、私はそれに応じて行動しない。怖いからだ。
一人きりでセヴァーン・ブリッジの一室に腰掛けているのだと思い出すのに少し時間がかかった。もう一度思い出の中に戻ろうとするが、曖昧でぼんやりしている。ここのシェフが作り上げた驚異的な料理がもたらす鮮明さと比べれば、私自身の回想記憶ごときは取るに足らない希薄なものなのだろうな、などと推量してみる。自分の役割を思い出し、写真を撮ろうと携帯電話を取り出したが、やはり採光が悪く、ウォルドン・スタジオが自信を持ってお見せできるような写真は撮れなかった。とんだ茶番だが、私の仕事はまだ終わっていない。
好奇心に突き動かされるがまま、次はスイカに手を伸ばした。完璧な立方体に切り分けられているのは一つだけで、残りは様々な多面体だった。シェフは私に何かを伝えようとしており、その謎を解き明かすことこそ、評論家としての私の務めだった。最初の一口はサクサクしていて、しっかりとしていながらも軽やかな食感だった。味付けは塩と花椒の組み合わせで、舌をほんのり痺れさせる。夏の暑い日などにはかなり爽やかだろう。しかし、私を魅了したのはヴィヴァルディの“四季、協奏曲第一番 - 春 -”だった。
一瞬一瞬を堪能しながら目を閉じ、ふと気付くと私の心は十二歳の春に戻っていた。その年の冬は特に寒くて長く、太陽をしばらく目にしていなかった。私たちは校庭の裏手にある、タンポポや雛菊が咲き乱れる新緑の野原に連れ出されていた。テイラーと私は同級生たちからはぐれ、幼いながらに散歩や会話に夢中になっていた。
私はドキドキしていた。多感な時期にあった私は、頻繁にテイラーのことを考えるようになり、まだ理解していなかった思考や感情に振り回されていた。こいつを殴ってやりたい、でも絶対にこいつを傷付けたくない、というはっきりとした感情を覚えている。笑い声が響くたびに、私は顔を真っ赤にして、自分の考えから気を逸らそうとした。
腕を伸ばし、テイラーの手を握りたいという衝動に駆られる。当時はおそらく複雑にもつれ合った欲望と不安のように思えた感情に囚われて、私は衝動に抗う。
しかし、私はそれに応じて行動しない。
柔らかな感触が私の空想を打ち破る - 私たちの手は今、私の意志とは関係なく、絡み合っている。
私は顔を上げ、テイラーと目を合わせる。私たちは微笑む。
前菜を食べ終えた時、私は二つの確信を抱いた。まず、これほどの情熱が込められた料理に出会ったのは初めてだということ。そして、他にどんな料理が待ち受けているのか、自分が胸を高鳴らせていること。
まるでシェフが心を読んだかのように、空になった皿がコンベヤーで運び出された。
代わりに、別なプラカードが現れた。
今回、コンベヤーは止まらずにプラカードを運び去り、代わりにステーキ・オ・ポワブルを運んでくる。エシャロット、ローズマリー、ウィスキーの香りがするクリーム・パンソースがかかっている。ステーキ自体は霜降りで、完璧なキャラメル色に焼き上げられた表面の隙間からパンソースが浸透している。私のナイフはバターを切るかのように滑らかに進む。一口食べる。
それは蒸し暑い夏の日だった。私はコンクリートのベンチに居心地悪く腰掛け、ぴくりともしない空気をそよ風に変えようと無益に努力している。気を紛らわそうと通行人たちに目を移す - しかし、誰も彼もが胡散臭く、密かに私を笑っているように見える。
アレックスの、初めて出会った日と同じくらい魅力的な姿が見える。恋人たちのモチーフが金管楽器の演奏と淀んだ空気を切り裂き、残酷に嘲弄する。私は呼び出された理由を知っている。
いつから知っていたのだろう? 最後に幸せを感じたのはいつかとアレックスに訊いた時からだ。
アレックスが何を言い出すか、私は既に知っている。静かな朝が訪れるたびに聞いてきた。あらゆるさようならの言葉にそれが欠けているのを感じていた。口に出されなかったあらゆる言葉にそれが宿っているのを知っていた。
世間話。一言一言が突き刺すようなバイオリンの音であり、解消も安堵もなく高まっていく、耐え難い、煮え滾る熱だ。ステーキは柔らかくて肉汁がたっぷりだ。パンソースは絶品だ。
もう、あなたを愛してないんです。その言葉が私の耳にすとんと落ち、辺りは束の間の静寂に包まれ、暑さは忘れ去られる。ローズマリーがエシャロットの風味を実に良く引き立てている。
どこかで鐘が鳴る。“怒りの日”の演奏が始める。悲しみはとうに冷めている。執拗に、怒りを込めて、トランペットがチューバに応える。私がいかに奮闘し、労苦を重ねてきたかという説明 - オーケストラが当然の憤怒と理に適う激情を盛り上げる。言葉が私の頭の中で組み立てられ、私たちの失敗の完璧な宇宙観を形成する。足元にひれ伏す原罪。
アレックスと目が合う。風に吹かれる木の葉のように、バイオリンの音が緩やかに響く。
私は私たちのために戦うことができる。今あるものを守りたい、埋没費用を清算したいという衝動が、私の心の中で回転する。
しかし、私はそれに応じて行動しない。
トランペットが怒りの声を上げるが、十分ではない。自分がしてきたことの記憶が蘇ると、金管楽器は躊躇し、降参するかのように音を弱めてゆく。
こんなことになる前に手を差し伸べることができたはずだ。アレックスに私の気持ちを伝え、君を許すと、私にも責任があると言えたはずだ。私たち二人のために戦うことができたはずだ。
しかし、私はそれに応じて行動しない。
私は自分の居場所である深淵へと戻ってくる。溜め息を吐き、ステーキ・オ・ポワブルの最後の一切れを飲み込む。あの瞬間は失われた。私だけの“幻想交響曲”はこうして幕を閉じた。
私はしばらく部屋に座って、自分の経験をじっくりと思い返していた。私が食への情熱を再発見したのは、あの別離の後だった。当時の動揺や境遇にも拘らず、それは新鮮な空気を吸い、人生そのものに対する情熱を見つめ直し、再び見出す機会となった。あらゆる悲劇は改善への機会であり、幸福への道なのだ。
少なくとも私はそう自分に言い聞かせていた。
静寂は心地良かった。シェフがいかなる駆け引きを仕掛けているのか、なぜあの楽曲を選び、この思い出を呼び起こしたのか、私には分からなかった。おちゃめなトリックスターというシェフの印象は覆された。今では、権謀術数に秀でた人形遣いが知識と技量をひけらかしていた。次に何を予期すべきか分からなかった。
隠れる場所はどこにもない
最後のコースで、この部屋の構造についてある程度の洞察を得ることができた。料理を運ぶにしても、コンベヤーの入口をやけに大きく設けたものだと戸惑っていたが、恐らく最後であろうプラカードの到着は、私が口に出さなかった疑問への静かな答えとなった。
間もなく、円錐形に堆く積まれたプロフィトロールが滑り込んできた。
しかし、クロカンブッシュが現れると共に疑問も増えた。この部屋はそもそも客にクロカンブッシュを出すのを念頭に置いて作られたのだろうか? いかなる駆け引きが繰り広げられているのか? 黒幕は何者なのか?
ともあれ、優先すべきは義務だ。申し分なく組み立てられた塔には、極めて軽く細い金線が繊細に被せられていた。このような線は今まで見たことのない装飾だったが、それが塔にある種の重厚感というか、威容を与えていた。個々のプロフィトロールの、カリカリに焼き上げられ、グレーズを塗られ、上白糖をうっすらとまぶされた表面が、揺らめく照明の中で輝いていた。
しかし、クロカンブッシュの芸術性は、盛り付けだけではなく、その安定の度合いにもかかっている。私は円錐の中央からプロフィトロールを一つ摘み取り、構造全体が崩れ落ちるのを、そしてこれ以上の義務を果たす必要がなくなるのを - そうだ、認めなければならない - 僅かに期待しながら、待った。
崩れなかった。
グレーズが少し指にくっついてしまった。予想よりも厚く塗られていたのは、クロカンブッシュの構造的完全性を保証するための巧妙な方法らしかった。私のプロフィトロールがグレーズで被覆されているのは、シェフがこれらのシュー菓子を手ずから一つ一つ丸め、積み上げた証である。ここまでの全ての料理がそうであったように、今回も入念な注意が払われていた。
ついに、私はかじりついた。外側はパリッとしていながら、内側ではふんわりとしたケーキのような食感の生地が破れ、仄かにメイプルシロップとイチゴの香りを漂わせる、濃厚で甘美なクリームが現れた。柔らかく、悠然としたギターの音色が、優しいそよ風となって私を包み込んだ。
この記憶は私のものではなかった。他人の心の奥底に潜む思考や欲望に侵入した覗き魔のような気分になった。しかし同時に興奮し、そこで何が見つかるのかワクワクしてもいた。
情景はほとんど浮かんでこなかった。最初は感情や観念がじわじわと入り込んできて、徐々に強まっていった。希望、奥深い高地の遥か上空で轟くシンバルのロールとクラッシュ。ハイハットの星々がベースの雲層を突き抜け、冷たく澄んだ光を放つ。
変化に気付くまでにどれほど歩き、どれほど食べたことだろうか。風が勢いを増し、雷鳴はますます横暴な響きを帯びる。ベースはより重層的になり、濁った七の和音と半ば解決された和音が前後に交錯する。雲が消える時、その雲には何が起こるのだろうかと、私は思いを巡らせる。
雲は私に何かを伝えようとしていた。そう思い当たったのは後になってからだ。当時はそのことにも、雲がゆっくりと星明かりを遮っているのにも気付かなかった。数滴の水が私の顔に飛び散った。
やがて雨が降り始めた。風はかなり強まり、けたたましいヴァイオリンの音色が横を通り過ぎてゆく。何かがおかしいという感覚を拭いきれないままに、私は速度を上げる。
叫び声がバイオリンと風を切り裂く。私は足元に、ヒースが生い茂る荒野のしっかりとした地面を感じる。よろめくように走り出し、自分の足が傾いたスタッカートのリズムで地面を打つのを感じる。またしても叫び声が嵐をつんざき、宵闇の中で私はその主を見つける - 泥炭の中に深く埋もれて、半分しか見えない人影。助けを求めて泣いている。
風が私を打ちのめす。すぐ傍では計り知れない憤怒に満ちた雷鳴が轟く。音楽が高まり、怒りと情熱と悲しみで膨れ上がり、凄まじい大嵐の中で私を襲う。
沼の向こう側で、人影が嘆願している。悲鳴を上げ、泥濘の更なる深みへと沈みながら、助けを求めているが、その言葉は喉からもぎ取られて、私たちを取り巻く大渦の中へと消えていく。
一つの選択。そう遠くはない。せいぜい百メートル。私の理解を越えて遥か遠くまで伸びる踏破不可能な道のり。私は最初の一歩を踏み出すだけでいいのだ。その一瞬に身を委ねて、今回こそは後先考えずに動けばいいのだ。
私は人影を見て、逃げた。自分がどこにいるのかも、これからどうなるのかも分からなかった。ただ、何か恐るべきものを目撃したことだけは分かっていた。
クロカンブッシュの下半分は塩辛く、湿っていた。理由は分からない。
最後のプロフィトロールを飲み下すと、嵐は衰え、最後の和音が解決した。大いなる啓示は特になかった。部屋に変化はなかった。
いつもと同じように、私は一人きりだった。頬を流れ落ちる涙を拭いながら、自分の身体が思い通りに動かないのを新たに意識した。身動きが取れないほどの満腹感を感じていたが、退室しなければいけないのは分かっていた。静寂に包まれた部屋は、何も変化していないのに、様変わりしているようだった。
外に出ると、右側の扉が聳え立っていた。私は、その扉が施錠されていないのを、その奥に私の疑問への答えがあることを知っていた。ただの冷蔵庫であってほしい何かが立てているハム音が聞こえた。
私たちが自由意志を行使する機会はあまりにも少ない。人間は様々な影響、結果、意見が織りなす瘴気にすっぽりと包み込まれているので、私たちが下す決断は真に自由ではない。変化をもたらそうと努力しても、有意義な改善をかき消す雑音の嵐に翻弄されるばかりだ。私たちの反響は遠くまで届かない。私たちの決断は、それを意識するずっと前に計画され、定められた豚のサーカスに過ぎないのである。しかし、アンブローズ・グロスターの狭い廊下で、私はただ一人、何かを行う有意義な機会を得た。優柔不断の泥沼から抜け出す機会を。私だけのための、私を永久に変える決断を下す機会を。
その扉を開けて、あらゆる答えを見つけることもできただろう。
しかし、私はそれに応じて行動しない。
敷居の向こう側にいた人物、或いは存在は、私の決断がどう転ぶかを分かっていたのではないかと思う。どうして分かったのだろう。訊きたくはなかった。
私はアンブローズ・グロスターを後にしたが、扉から目を離さなかった。
アンブローズ・グロスターからの帰路は至って坦々としている。日差しは弱々しく、外の暖かさはほとんど感じられない。私は周りを見回し、情景を心に留める。セヴァーン・ブリッジは型通りの狭い集落で、忘れても何も困らないほど退屈だ。不愉快を覚えるほどの興味さえも引かない。
駅まで歩いて戻る。ひっきりなしに響く自動車の騒音が、群衆の冴えないどよめきに変わる。そそり立つグロスター駅は人でごった返している。彼らは意味のあることを何も言わない。
アパートに帰ると、居間の絨毯の根元まで染み付いたコーヒーの饐えた匂いが鼻を突く。私は腰を下ろし、一日の終わりを待つ。
あなたたちに嘘をつけたら良かったのに
あの小部屋で私から何が奪われたか、言葉では表せなかった。私はこのレビューを何度も書き直し、自分がどう変化したかを的確に伝える言葉を探してきた。何が起きたかを完全に言い表すことは永遠にできないかもしれない、ということが次第にはっきりしてきた。ただ、それはもう無くなってしまったのだ。そして、私がどうしようと二度と戻ってはこないのだ。
アンブローズ・グロスターを訪れて以来、私の人生に劇的な変化はない。日の出は全く同じように見えるが、本物の太陽が隠され、偽物に挿げ替えられたような気がしてならない。鳥たちの鳴き声はか細く遠い。私はシェフのことが気になっている。仕事に対する情熱はあったのだろうか、それとも流れ作業をして一日の終わりを待っているだけなのだろうか。いつか、この思いを言葉にできる日が来るかもしれない。
いつか、なぜこんなことが私の身に起きたのか、分かる日が来るかもしれない。
これが私の最後の料理評論になるだろう。食への情熱、風味と香りの交響曲を味わう喜びは薄れている。単純にもう食欲が湧かない。ここ一週間で食べたのは、昔からの好物だった豆花飯トウファハンだけだ。なんとも味気なかった。
総評: 誰にも体験してほしくない、人生を変えるひと時。星四つ。


