平均にして0.25秒の暗闇
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瞬く。

平均にして0.25秒の刹那、貴方は目を瞑る。

ジッパーの様に上下の瞼が閉じ、眼球は束の間に外界から隠匿される。

分泌された涙が瞳を潤し、角膜に付着した異物を洗い流す。

上下の瞼が開かれ、眼球が再び晒された後、

虹彩が光を受信して、貴方は再び外の世界を見る。


「なんだ、お前まだいたのか」
「はい。まあ、つい先程まで業務だったんで」

Apple製のタブレットを片手に腰掛ける男の隣に、白衣の研究員がどっかりと座る。天井の電灯はいかにも不健康な白色を灯らせ、AM6:20の休憩室は相変わらず神経質な無菌さを保っている。男の着用した緑色のネクタイだけが、モノトーンの景色の中で酷く浮いていた。

見る。眺めて記録して、上の者へと報告する。男の業務を平たく言い表せば、そんな所だった。今日も色々な物を眺めてきたのだろう。タブレットには、今も尚ひっきりなしに通知が届いていた。おれもお前もお互い大変だな、と白衣の研究員が笑いかける。

「まだ業務は続ける予定か」
「これくらいで音を上げられないですよ」
「言うねえ。今朝はよく晴れていたから、俺は機嫌がいい。ここはひとつ先輩が飲み物を奢ってやろう」 

白衣の研究員が立ち上がり、近くにあった自動販売機に小銭を投入する。そうして一番下の段に並ぶ缶の珈琲──そのひとつ隣のホット・コーヒーを購入し、男へと差し出した。

「……そろそろ、休んだらどうだ」

研究員は、もう笑っていなかった。


見る。眺めて記録する。言ってしまえばただそれだけの業務を笑う者がこの職場に一人としていないのは、あらゆる物を見届ける事、その多大なる負荷を誰もが知っているからだ。ついでに言えば男がずっと禄に寝ていない事、その顔色の悪い面に深く重い隈が出来ている事なんかも研究員は知っていた。

「"ただ眺めているだけ"の自分が一人休む訳にはいかない──そんな事を考えているなら、今すぐその思考は捨てろ。お前はあくまで歯車に過ぎない。代替可能でないといけないんだ。お前一人だけが血眼で記録するべきものなんて、ここには何一つとして無いんだよ」

男はただ緑のネクタイを垂らしたまま、答えない。

瞬く。

平均にして0.25秒の刹那、貴方は目を瞑る。

ジッパーの様に上下の瞼が閉じ、眼球は束の間に外界から隠匿される。

分泌された涙が瞳を潤し、角膜に付着した異物を洗い流す。

上下の瞼が開かれ、眼球が再び晒された後、

虹彩が光を受信して、貴方は再び外の世界を見る。


瞬かなければ、酷く目が乾いてしまう。

乾燥した瞳には傷が付き、視界が霞がかる。

血管は拡張し、目は赤く充血する。そこには痛みがある。

故に、貴方は瞬いた。

平均にして0.25秒の刹那、貴方は目を瞑る。

眼前に広がる暗闇を前にして、エージェントは一人、かすかに目を細めた。

プロトコル・ヴェルダンディ。世界の命と一人の命が釣り合う狂った天秤に仕組まれた、無限の極夜で彼は息をする。足先に触れる冷たい感触が足首までを呑み込み、徐々に体温に馴染んで溶け合いながら身体を冷やしていく──エージェントは、海に立っていた。たった一人で。

ヘッドライトが照らす光の届く距離だけが視程範囲だから、水平線は見えなかった。ただ圧倒的な暗闇だけが、水面とぐちゃぐちゃに混じり合っている。エージェントはその様を前にして、自身が相対するこの状況を想起した。

本来数刻もせず異常が呑み込む筈だった世界。それを自分が救うんだ、よく理解しているさ。その意味も、責任も。エージェントが頭を掻いた。煙草を一本取り出そうとして、やめて、また海に立ち尽くす。

そうして、エージェントは仰向けに倒れた。


動かぬ水面がエージェントを迎え入れる。心地よい冷たさが、背中や耳元を満たしていく。着衣のまま海に浸される、ささやかな背徳が彼をほんの少しだけ癒やしていた。無音の世界で、嗚咽すらも出やしないままで。

この潮が満潮になって、自分がこの浅瀬に沈むまでの時間は、本来どれ程だったのだろうか。エージェントは自らの両手で視界を覆いながら、そんな事を考えた。どうせ時間は無限にある。これから自分が救う、自分がいない未来の世界について、結末の確定した自分自身について、想いを馳せたっていいじゃないか。

両手の隙間から漏れたヘッドライトの光が、滲む視界に一本白い線を描く。

それがふと水平線の様に見えたから、エージェントはまた少しだけ目を細めた。

瞬く。

平均にして0.25秒の刹那、貴方は目を瞑る。

ジッパーの様に上下の瞼が閉じ、眼球は束の間に外界から隠匿される。

分泌された涙が瞳を潤し、角膜に付着した異物を洗い流す。

上下の瞼が開かれ、眼球が再び晒された後、

虹彩が光を受信して、貴方は再び外の世界を見る。


瞬かなければ、瞳は光を求めて拡張を続ける。

貴方が立つ闇の中にそんな物が存在しない事なんて、ずっと前から分かっている。

疲労と孤独。それを微かに癒すために、

一瞬だけでも瞼の裏で、涙を流す選択がある。

故に、貴方は瞬いた。

平均にして0.25秒の刹那、貴方は目を瞑る。


「俺達は、いつまでこうしてりゃいいんでしょうね」

若年の機動部隊員はそう投げ掛ける。吹き付ける砂混じりの風に汚されたフェイスバイザーと、これみよがしにぶら下げられたM4カービン・アサルトライフル。何処まで続いてるかも分からない夜の砂漠に、二人の人影だけが浮き上がっている。

「死ぬまでだ」

機動部隊員から少し離れた場所に組み立てられた簡易ベンチに座る、もう一人の老兵が事も無げに答えた。その装備は若年の彼と全く同じであったが、どれもに使い込まれた跡が年季という形ではっきりと現れていた。

「死ぬまでって。このだだっ広い砂場に居る"かもしれない"化け物が、って事です?」
「違う。俺達がくたばるまでだ」

老兵の言葉に、若年の機動部隊員は半ば呆れた様子で首を振った。言葉を投げれば、言葉が返ってくる。それ以上の価値はこの場では見込めない様にすら思えた。改めて老兵の方へ向き直る。

若年隊員は、ふと老兵の手が震えている事に気づいた。

「……もしや、怖がっています?」
「当たり前だ。この地に住まうかもしれない怪物も、この恐怖を忘れてしまう事も、俺はずっと怖い」

老兵は続ける。

「俺達は常に臆病者でなくちゃあならねえ。恐怖によって警戒心が生まれる。誰よりも怖がっているからこそ、誰よりも早く俺達は動くんだ」
「ちょっと、勝手に仲間に入れないで下さいよ」

若年隊員の軽口に、 老兵はただ手を震えさせたまま答えない。ただ簡易ベンチに腰掛けながら、一点の方向を見つめている。

「時に、10時の方向を見ろ。砂が不自然に集まっている。風向きもさっきから妙だ、明らかに外的要因が働いている」

老兵の腰が微かにベンチから離れている。
手の震えが、ピタリと止んだ。

「来るぞ」

夜の砂漠に、突如として大きな孔が穿たれる。

瞬くな。

怪物の脚が職員の胴を貫いている。

収容房の強度がほんの少しだけ足りなかった。15人の職員が命を落とした理由である。更に言えば、これからも犠牲者の数は上々の速度で増え続けるようだった。

蜘蛛の怪物が壊滅的な行儀で逃げ遅れた職員を貪る様を、博士は強化ガラス越しに凝視していた。咄嗟に避難先として選んだ空きの収容房は、選択肢としては最悪だったと言う他にない。絶対的な安置でもなく、逃げ道もない。この状況を打開するには、どうやっても蜘蛛の怪物を通過する必要がある。

「なあ、あんた、ここからどうするんだ」

誰かが博士の肩を掴む。一緒に収容室へと雪崩込んだ、ひとりの研究員だった。ボロボロの白衣、額から滲む血を拭いながら、ただ眼前の惨状を眺め続ける博士に研究員は吠える。

「何してるんだよ!? 気でも狂ったのか!?」
「観測をしています。気が散るから、どうか黙ってくれると有り難い」

頭蓋骨を割られ、脳味噌を啜られる職員の悲鳴が徐々に弱々しく途絶えてゆく光景を見て、研究員が思わず吐瀉物を吐いた。床に這いつくばり、限界を嘆く心の音を嗚咽と共に零す。

「もう、おしまいだ。次は俺達の番だ。俺達が頭を割られて、脳を食われる。見てられないよ、もう何も見たくねえ」

博士はその言葉に一切の動揺を見せなかった。否、彼は自身のすぐ前に広がる凄惨な絵面にも、鼻を劈く吐瀉物の臭いにも、何一つ動揺の素振りを見せず、ただ怪物の観察を続けている。

「立って下さい。目を、逸らさないで下さい」

そうして博士は続けた。

「観測を続けるんです。もしも私達がここから生きて逃げられたとした場合、あの怪物を収容する手順を定めるのは我々だ。怪物の異常性を伝え、対抗手段を伝えるのは我々だ。決して秩序の檻から奴を逃がしてはならない」

一通り職員を貪り終えた怪物が周囲を見渡し、すぐ近くのガラスの向こう、生存者2名と目が合った。

8本の脚で方向を変え、迷いなく次の標的へと怪物が向かう。こちらへと、怪物が迫ってくる。

「クソッ!いくら説法垂れたって、ここを生き延びないと何の意味もないぞ!」
「当然。あらゆる情報をこの眼に焼き付けた上で──足掻く事には、確かな価値がある」

博士が腰に収めていたUSPを構え、残弾を確認して安全装置を解除する。蜘蛛の怪物がその脚で強化ガラスを叩いた。恐らくもう2、3発もすれば、両者を隔てる透明な壁は呆気なく崩壊する。

「眼を狙って下さい。奴の耐久力は破壊耐性ではなく、再生能力によるものだ。だが、先程機動部隊員に撃たれた右の複眼だけが未だに治っていない。眼だけ再生が遅いのかもしれない。そこを叩けば、隙ができるかもしれない」
「分かった、分かったが、その根拠は?」

怪物の一撃によって、ガラスが音を立ててひび割れた。あと数秒後もせずに停滞が消え去る、確かな確信。

「無えよ」

そう吐き捨てて、博士はUSPの照準を定めた。


  

瞬くな。

例え0.25秒の刹那だとしても、決して眼を瞑るな。

瞼のジッパーは閉じぬうちに縫い付けろ。常に、貴方自身の眼球から新たな情報を欲せ。

分泌される涙の、充血と痛みの刺激を脳に送り続けろ。

例え貴方がその瞳を晒して立ち続ける場所が、

虹彩に光が届く事のない、永遠の暗闇だとしても。

何処までも深い黒に紛れ、奴等は常に貴方を見ている。

奴等に、貴方が相対している奴等を前にして。

一瞬たりともその目を閉ざしてはならない。

常に見続けろ。観測を続けろ。

深く暗い闇の中に立つからこそ、貴方の眼光だけは灯し続けていなければならない。

故に、貴方は瞬くな。

それが例え、0.25秒の刹那だとしても。

男は一人、眉ひとつ動かさずに立っている。

首が折れる音の残響だけが、その場には木霊していた。収容作戦に当たったのは4人。そのうち3人が、既に物言わぬ死体と化している。男は独り向かい合う──この状況を作り出した、唯一無二の元凶と。

SCP-173。

運が良かった。本当に、それだけだ。偶々3人目を彫刻が殺した瞬間が、男の視線の中に収められていた。男は眉ひとつ動かさずに見続ける。否、より正確に言えば、眉ひとつすら動かせずに。

微かでも目を逸らした瞬間、瞳を瞼で覆った瞬間、確実な死が自らには待っている。救援が来るまでの間、男に出来ることはただ薄氷上の停滞をどうにか保つ事だけだった。

充血の痛み、滲み出る涙、全てが即死の罠と化して男を手招いている。圧倒的な負け戦、勝利手段の存在しない均衡状態。限界の疲労、圧倒的な焦燥、底の見えない絶望、眼前に迫る真っ暗な恐怖──その全てに相対して。


ただ瞳孔を広げたまま、男は歪に口角を上げた。

瞬く。

平均にして0.25秒の刹那、貴方は目を瞑る。

ジッパーの様に上下の瞼が閉じ、眼球は束の間に外界から隠匿される。

分泌された涙が瞳を潤し、角膜に付着した異物を洗い流す。

上下の瞼が開かれ、眼球が再び晒された後、

虹彩が光を受信して、瞳は再び外の世界を見る。

故に、貴方は瞬くな。

平均にして0.25秒の刹那、その首は既に折れている。

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