Chariot in a cage
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少女とはなんだろうか。自分の吐き出した言葉を反芻する内に、そんな考えがふと頭を過ぎる。彼女の担当になった時から、この非常に曖昧で掴み所のない問いが心の部屋の隅に座っている。
 
生物学的に見て雌と分類される人類の中の、さらに齢の若い物を指すのが少女だろうか。小さく、弱く、そして新しい、それは一つの解になりうる。精神的に幼く成熟した判断が難しい一方、その危うさが愛嬌として現れるのが少女だろうか。強欲で、泣き虫で、そして美しい笑顔を持つもの。私はまだ彼女の笑顔を見た事がない。まだ父母の元を離れることが出来ず、家族の温もりに飢えているのが少女だろうか。愛され、託され、それでもちっとも満足できない。彼女は何も覚えていない。
 
しかし、成熟した女性にも少女のような部分が現れる事もある。少女というのは概念として存在しているのかもしれない。言葉の裏に、立ち寄る場所に、夢見るものに、幼さの持つ無邪気さと愛嬌、か弱さを一生を通して連れて歩く事。女という集合の中に、少女という要素が存在していて、他の要素に少しずつ重なっている。それはあまりに夢物語のようでもあるが、この私にもそれは存在していて、間違いではないと信じたくなってしまう。
 
オブジェクトへの道徳心は、なぜ生まれる?
 
個々の持つ倫理感の為、同じ生きているものとしての理解、仲良くなる方が有益であるという希望。
私は、きっと一人で泣いている子供を置いて行けないからだと思う。
 
だとするならば、彼女にも当てはまるのではないか?
 
彼女はオブジェクトだ。数千数万の収容対象の中の一つで、SCP-811の名を冠する。髪質、肌の色、体型は人に近いが人ではない。運動能力、生理機能は捕食者のそれだろう。だとしても、あのように過去の人影に怯え、苦痛に目に涙を浮かべ、私を母の様に慕ってくれるのもまた彼女だ。そばに立って守ってあげるべき対象に、違いはないだろう。
 
一時的に現れる感情は、目の前の生き物の弱さを目の当たりにした時母性となり思考を支配する。財団に務める限り、明確な客観性が重視され、感情は切り落とす必要がある。そんなことは分かっている。人を襲った狼の子供が傷ついて道に倒れていても助けてはならない。しかし、私たちは皆同様にその光景を痛ましく思うではないか。
 
彼女を一人の少女として認めてもらう為に労力を割くというのは業務的には非合理であり、助手のワクテルも賛同はしてくれるものの上層部の権限が怖いように見える。幸い彼女に少しずつでも言語能力の回復が見えていること、そして多少の要望であれば私たちに伝えられるようになってきた事は私が上層部に陳情する際のいい機会とはなっている。それでもやはり彼女と共に檻から出て二人で勉強やお話をすることは出来ないまま月日が過ぎてゆく。
 
彼女は見た目こそ成長はしないものの、流暢に喋ることが出来るようになった。彼女の外見と同じくらいの年であればもう中学生くらいだろうか。食事の時間も規則的になり、シャンプー等も日課となっている。精神面の成熟が見られ、捕食者としての本能が制御できるようになってきているのかもしれない。しかしながら、その身体性の発達は上層部にはあまり良い目で見られないだろう。さらに暗い部屋に移されるのはあまりに可哀想で、彼女が私と話している時のあの嬉しそうな笑顔も見られなくなるのかもしれない。その為にも、定期診断は私が行いたいのだけど、バイアスが掛かるからと許されたことは一度もない。ただ自室で彼女がどんな受け答えをしているのか、暴れたりしていないかを緊張して見守るしかない。その時間はあまりに孤独で無力感に溢れている。
 
彼女がうまく喋れていなかった頃の方が安心感があった。悪魔のような思考が自分の片隅に過ぎるのが恐ろしくなる。少女であることを願うのは彼女のためであり、私の安寧ではない。そのために出来ることを続けなければならない。彼女に関しての報告書の山と倫理委員会等への陳情書をかき集めて、また今日も日が暮れる。
 
彼女はもともと人間だったのでしょう。彼女がいったことが真偽かはともかく、彼女の怯える目は本当だったと信じられる。彼女は確かに危険かもしれない、でも彼女にとってのほんの少しの幸せを分けてあげることならできる。
 
なんの確証もない確信だけが夢の中でこだまする。こだまする声にノイズが混じる。汗ばんだ首筋と電話の音。嫌な朝だ。
「トレビュシェット、君はしばらく811の担当から外そう」
その言葉だけが切れた受話器からリピートされている感覚がする。さらに最悪な朝になった。
 
どうして、私じゃなければ彼女の事は分かってあげられないのに。誰よりも一緒にいたのに。どうして。
そんな言葉は上司には通じない。
 
「彼女に教育を施すのは問題ない。が、道徳教育や過度な接触に必要性があるのかが問題だ。君は彼女を飼い慣らせると思っているのかもしれないが、あれは超常医療を持ってしても解明し切れない危険性を孕んだ捕食者だ。知能が発達したら今以上に危険な腐食性を示すかもしれないだろう。違うかね?まあしかし、君の努力とは裏腹に彼女の知能はあまり発達していないようだ。監査員からの資料がいるなら後で届けよう。話は以上だ。しばらくその道徳熱を冷ました方がいいと思うぞ。」
 
やはり彼女をアノマリーとしてしか見ていない発言の数々にめまいがしそうになったが、客観性を持って見ればあちらが正しいのだろう。どれだけ彼女の笑顔があどけなかろうと、新しい知識に目を輝かせようとアノマリーはアノマリーなのだ。しかし、彼女の言語能力に発達が見られないとはどういう事だろう。私と話している時はある程度流暢に喋れるようになっているはずなのに。
 
送られてきた資料との齟齬とに一つの仮説が浮かぶ。"彼女がその能力を何故か私以外に秘匿している"という仮説。これが真である場合、今以上に問題視されかねない。しかし隠し通せるのであれば…いや、その考えはよそう。彼女ともう一度話してからでも遅くはない。それまでにアエが寂しいだろうけど。
 


 
急に先生が来なくなった。来るのは毎回違う知らない人ばかり。
面白い話も、お勉強もない。ただよくわかんないことを聞いてにこりともせずに帰っていくだけ。普通に喋ろうとしたら表情が曇ったから前と同じ話し方に戻してみた。うん、こっちの方がいいみたい。先生と話す時だけでいいや。この人たち嫌いだし。
でも、先生どこ行ったんだろう。もっとお話したいのに。アエのこと嫌いになっちゃったのかな…
 
ううん、きっと忙しいだけ。
 
 
…そうだよね?
 
 
狭い泥沼の中で目を瞑る。前にいた大きな池はもっと色鮮やかで、心地よかった。外に出るのは怖いけど、あそこには帰ってみたい。今ならもっといろんなことを知れるだろうし。
先生に言ったら、一緒に連れて行ってくれたりしないかな。柔らかい草の中で目を瞑る。明日は先生が来ますように。

草が揺れる音、水面が波立つ音、ガラスが軋む音、壁が崩れる音。壮大な揺れで目がさめる。

誰もいない部屋、赤い点滅、甲高いサイレン。外から微かに聞こえる知らない音。

あの時の部屋と同じだ。怖い、嫌だ。先生どこ。
逃走本能が働く。普段は絶対開かないドアに縋り付いて引っ張ってみる。
 
 
開いた。
 
 
早く、早くここから逃げないと。また痛いことされる。私が私じゃなくなる。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
今まで一度も出たことない部屋の外。人がいない。廊下の突き当たりが崩れて外が見える。

あそこに行かなきゃ。


急な地殻変動、影響の少ない地盤にも影響が出ているらしく私達のサイトも例外ではなかったようだ。財団の収容施設は万が一にも対応できるような基礎設計にはなっているが、その基礎そのものを崩壊させるような現象にはどうしようもない。朝から施設の被害報告とそれに伴う収容エリアの隔壁の破損、軽微な収容違反の報告が寄せられている。すでに鎮圧部隊は出動しているものの、余震によって倒壊する危険性のあるエリアには人をあまり送りこめていない現状のようだ。よりにもよってアエの収容房があるエリアらしい。
恐らくそのエリアからの収容違反が大きいはずだ。彼女は無事だろうか。この場を動けないことに酷いもどかしさを感じながら、収容違反報告に彼女の名前が出ないことだけを祈るしかなかった。

どうやらやっと鎮圧部隊が突入したらしい。次々と被害報告が寄せられる。「…811..収…違反」無線に耳を疑った。
 
彼女が、収容違反。一体なぜ、どこに。
 
首筋に嫌な汗が流れる。「負傷者…複数…逃走…」続く無線からも彼女が人を襲ったかのような報告が続く。

彼女が、人を襲ったのか?あの子が?

嫌な仮説が頭の中で結びつく。彼女が私以外に言語能力を隠していたこと、そしてこの現状。計画的な逃走計画として彼女は私を欺いていたのでは。従順であるのも、過度な要求をしないのも、全ては自身を檻の中で飼い慣らせる獣であると誤認させるための。
 
そんなことはない、そう思いたい自分と疑いを拭いきれない自分がいることが酷く胸を締め付ける。私が行なっていたことが本当に独善的であったならば、私は…
 
「だから言っただろう。アレはアノマリーなんだ。現に逃げている。彼女は制御できる存在じゃないんだ。これで分かっただろう。」
 
ともに現場指揮をしている上司がそう宣う。
 
「いいえ、彼女はそんな子じゃありません。きっと何か事情があるはずです。」
 
「見つからないのなら、私が探しに行きます。」
 
怒りと、焦燥。彼女に新しい傷がつけられるのではないかという不安。彼女が、誰かを傷つけているのではないかという恐れ。自分の口から搾り出す言葉が、胸に溢れる意志が矛盾の塊である事に吐き気がする。
 
まだ完全に決まった訳ではない。この逡巡は私が直接確かめればいいだけのこと。
 
「私だけが彼女を説得できます。逃げたということは混乱に陥ってるはず。人を攻撃するまでに私が止めます。」
 
「それを許すとでも?」
 
「許してもらわなくて結構です。私は、私の成し遂げることのために動きます。」
 
足はすでに動き出している。人の波を抜け、制止の手を払っていつもの廊下へ。赤い警告灯、ヒビの入った壁、いくつかの無惨に吹き飛ばされたドア。彼女の収容房は、こっちだったはず。曲がった廊下の先に見えたのはいつもの部屋の開いたドアと、突き当たりに開いた壁の穴。そしてそこに向かう濡れた何かが通った後。追いかけるしかない。他の収容違反個体も外に出ている可能性が高いが、致し方ない。彼女が鎮圧部隊に見つかる前に。
 
壁の穴を抜け森に出る。水跡は植物の腐食に変わり、沢の方へ下っている。川の流れに乗られたらもう捕まえられないだろう。その前に何としてでも見つけないと。
 
白衣が破れ、手に切り傷がいくつもついた頃、川の対岸に彼女がいるのを見つけた。
 
「アエ!」
 
彼女がこちらに気づく、それと同時に近くにあった茂みから何かが飛び出してきた。異常に発達した体躯を持つ恐らく元は犬か何か。これは、別の収容房から逃げ出した個体。まずい、逃げないと。思う暇もなく地面に組み伏せられる。尋常じゃない力に全身が悲鳴をあげる片隅で、アエがこっちに来ようとしているのが目に入る。
"ダメよ"それすら声にできない。アエは必死に川を渡っている。
 
彼女は、どのような意思でこちらに向かっているのだろう。生死の狭間でも彼女への猜疑心が消えない自分が酷く惨めだ。
 
「博士!」
 
別の方角から別の声がする。きっと鎮圧部隊だろう。助かったのかもしれないが、非常に不味い。この状況だとアエも恐らく博士に向かう脅威だと捉えられかねない。
 
ふと全身を締め上げていた力が抜ける。
 
私を押さえつけていた化け物は威嚇射撃に反応して一転鎮圧部隊を襲いに出たのだろう。大の男の体が軽々と宙を舞う側で、アエが私の下にたどり着いた。
 
「先生!」
 
今にも泣き出しそうな顔で、それでいて嬉しそうな顔でアエは私を見ている。その顔を見て胸の内に溢れるのは愛おしさで、この子が人を騙すなんて少しも感じられない。
 
少女はいつも嘘つき。でも隠すのはとても下手。
 
私のそばで、直接私に触れないように何かできないかあたふたしているこの子が、人を傷つけるはずがないでしょう。おそらくあの無線はあの個体のせいで、彼女ではない。そう確信できる。胸の中で過去の私を叱りつける。まずは、信じること。疑うのは全てが揃ってからだ。
 
アエを安心させるために伸ばした腕に激痛が走る。きっと折れているのだろう。
 
それでも彼女に触れようとした時、アエの近くを銃弾が掠める。あの個体を鎮圧しながらこちらへの威嚇射撃を忘れないのは素晴らしい。私を掠めたのを含めあとで上司に報告しておくとして、どうにかして彼女が無害であると説得しなければならない。この惨事を収めて、尚且つ彼女とって良い形である方法なんてあるはずが…
 
いや、ある。
 
自分の頭に浮かんだその方法に目眩がする。アエにあの個体の鎮圧を手伝って貰うだなんて。
信じるというのはそういう事じゃない、でも、彼女にしかできないこと。
 
彼女が人を助けられること、私が彼女に信頼されているということ、そして今後私が彼女を信じ続けることの証明。やってみるしかない。
 
「あのね、アエ」
 
酷く怯えたアエが頷く。
この怯えた顔も、きっと本心なのだろう。
 
「怖い思いをさせてごめんね。でも、あの人たちは悪い人じゃないの。だから、攻撃しちゃダメ。分かる?」
 
またアエが頷く。
 
「それとね、アエ。意地悪なお願いかもしれないんだけど、あなたなら、あの人たちを助けられると思うの。あなたはワニが苦手だし、怖いかもしれないけど、あの暴れてるおっきいのに少し痛いことするの、できる?」
 
アエが振り向いて、もう一度こっちを見て首をブンブン振った後、また振り向いて
 
「…頑張る。だから先生、今度はどこにも行かないで。またお話しして。約束。」
 
そう言ってコクリと頷いた。
 
「うん、約束。」
 
そう言い終わるや否や彼女は銃口を向けられた中飛び出して、化け物と取っ組み合いを始めた。
 
「あなたたち!彼女の補助に回りなさい!」
 
アエもろとも鎮圧しようとする部隊員に檄を飛ばす。これでも私は機動部隊なのだから現場指揮くらいはさせてもらおう。彼女が苦しそうな顔をするたびに自分のお願いの馬鹿さを噛み締めることになったが、最終的にはアエと鎮圧部隊の側で巨大な体躯が動かなくなるのを見届けた。
 
その頃には私も立ち上がれて、鎮圧部隊に囲まれて怖がっていたアエを白衣の裾に隠すくらいはしてあげられた。
助けてもらったのも事実なので私がアエを連れて収容房まで戻ることを許してくれた彼らには少し感謝しなくてはならない。
 


 
またアエの担当に戻った。アエは前より少しだけ広くなった収容房の中にいる。

アエの体にも傷ができて、私もまだ腕のギプスが取れていない。アエが言語能力を隠していたことも、理性的な攻撃性を示せることも明るみになったが、私がアエにお願いしたのをみていた部隊員たちの証言もあってか私が彼女を制御できるという結論に落ち着いた。というかアエが私じゃなきゃもういやって突っぱねたのも大きいのでしょうけど。

上司は未だに彼女のことをアノマリー扱いしていて、それが当然なのでしょうけど、彼女は普通の人と同じように怖がり、傷つき、笑うことができる。どんどん成長していく。それが示せたのは大きい気もするし、小さすぎる一歩かもしれない。それでも、アエがもっと少女のように笑うようになって、ワクテルや他の研究員にも前とは違った認識が現れ始めている。
 
彼女自身の証明は私がすることではなく、彼女がすることなのでしょう。
 
内にいる少女はその人だけがめいいっぱい表現できて、外野がとやかくいうことじゃない。現に私はそれで失敗して、アエを傷つけたのは私なのだから。
 
彼女の中の少女は今日も優しく笑って私を待っている。いつかそれが女性になっても、変わらず少女は残り続けるでしょう。それのお手伝いを始めましょう。
 
「アエ、今日は何を話そうか──」

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