デジタル・キャッチボール
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「…これで設定はいいはず」

明かりを消した自室のベッドで、橋ヶ谷勇人はスマホをいじっていた。彼が今開いているのは「Privatalk」という匿名通話アプリ、その財団ネットワーク内専用バージョンだ。運営元が財団フロント企業ということもあり、気兼ねなく話せるアプリとして複数の職員からの要望を受け、4ヶ月ほど前にリリースされた。

「那賀さんにゴリ押しされて入れたけど、本当にやらなきゃダメかなぁ…」

橋ヶ谷の数少ない友人の1人である那賀智美。彼女は以前から橋ヶ谷の交友関係の少なさを心配し、あれこれと世話を焼いている。今回は「もっと人と話をしなさい」と酔った那賀に延々説教された挙句、アプリを無理やりダウンロードさせられていた。

「履歴見るって言ってたからなぁ…せめて1回はやっとかないと…」

と、口では言っているものの、橋ヶ谷の指はかれこれ8分ほど募集開始のボタンを押すことができずにいた。顔が見えない分いくらかマシではあるが、人と関わることに半ば臆病になっている彼に、知らない人間との会話はかなりハードルが高いものだった。それでも、彼が那賀からのお節介を拒まなかった理由は、少なからず今の自分を変えたいと思っているからに他ならなかった。

「…いい加減やるかぁ」

意を決した橋ヶ谷は、ついに募集開始のボタンをタップする。『マッチング中…』と表示された画面を見つめる間、彼は自分の心臓が早鐘を打つ音に耳をすませていた。5秒、10秒、15秒。結構な人数が利用していると聞いていた割には、マッチングの速度が遅い。いっそ通話なんかせず、那賀さんに叱られる方が楽なんじゃないか…そんな風に橋ヶ谷が考えた瞬間。

マッチングが成立しました! 現在接続中です…


逃げの考えを嘲笑うように、マッチングが完了する。気を抜いていた橋ヶ谷は慌てて体を起こし、まもなく始まる通話に最終面接のような面持ちで挑もうとしていた。

『お、繋がった。初めまして〜MoMoって言います〜』
「あ、そ、は、初めま、して。YUといいます…」

マッチングした相手は女性の職員だった。声色から、20代後半から30代という印象を受ける。そして、少なくとも自分の知っている人の声でないことに、橋ヶ谷は少し安堵した。

『YUさん凄い緊張してますね~。もしかして、これが初めてですか?』
「そ、そうなんです。もっと人と話せって知り合いに強引に入れられまして…なんかすいません」
『全然謝ることなんてないですよ~。にしても世話焼きですねぇその人。知り合って長いんですか?』
「長い、って程ではないですかね…。僕、半年前に異動で今のサイトに来まして、その時に…」

 
 
 

かなり緊張しながらではあるものの、どうにか会話は途切れることなく続いていた。MoMoが質問し、橋ヶ谷が答え、そこからさらにMoMoが話題を広げる。そんなMoMoが主導権を握り続けた通話が、かれこれ30分ほど続いていた。

『いやー、全然人と話せないとか言ってましたけど、そんなことないじゃないですか~。どうです?良い練習になりました?』

話題が一区切りついたところで、MoMoはそう問いかけた。人と通話など滅多にしない橋ヶ谷でも、それが通話を終わらせるためのものだとすぐにわかった。

「練習だなんてそんな…でも、おかげで楽しく話すことができました。ありがとうございます」
『いえいえそんな~。ただ、会話の練習ってことなら、YUさんにはまだできてないことがあるんじゃないですか?』

橋ヶ谷は首を傾げる。色々考えてみるが、MoMoの言う「できていないこと」はさっぱり思いつかなかった。

「えっと…すみません。なんのことでしょう」
『YUさん、この30分で私に1回も質問してないでしょ?』

橋ヶ谷はあっと声を漏らした。思い返せば、自分はMoMoから振られた話題に答えることに必死で、彼女が何が好きか、普段どんなことをしてるのか、そうした相手に関することを何1つ聞いていなかった。

『会話ってキャッチボールですからね~。答えるだけだと、手元がボールだらけになっちゃいます。どうせなら、YUさんも自分からボールを投げたり、投げ返せるようになりたくないですか?』
「それは……はい。できたら、とは思います…」
『よし!じゃあ次回までの宿題です。今度通話する時は、YUさんから私に何か1つ、質問を準備してきてください』
「えっ、あ、また話してもらえるんですか?」

アプリを使うのはこれが最初で最後だろうと思っていた橋ヶ谷にとって、相手から次回の話をされるなど、考えもしていないことだった。

『もちろんですよ~。私もYUさんとのお喋り楽しかったですし、是非是非、また話しましょう。もしかして…迷惑ですかね?』
「め、迷惑だなんてそんな!こちらの方こそ、よろしくお願いします」
『ならよかったです。じゃあ明日早いんで、今日は落ちますね。暇な時間はチャットで連絡しますので。じゃ、お休みなさい~』
「は、はい。お休みなさい…」

言い切るか切らないかのタイミングで、プツンと音が鳴り、募集開始の画面へ戻る。スマホを握りしめたまま、橋ヶ谷はベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。天井の暗闇を見つめながら、長く息を吐き出す。心臓は、いまだに早鐘を打っている。

「…質問かぁ」

財団に来る前から話しかけられることでコミュニケーションが始まっていた橋ヶ谷にとって、質問を投げるというのは選択肢に無い行動だった。これまでどうにか誤魔化せていた、話しかけられれば答えるという姿勢が、遂に大きな壁となって立ちはだかっていた。

「…今度那賀さんに聞こ」

どっと押し寄せてきた疲労感と睡魔に屈しそうな橋ヶ谷は、この課題を未来の自分に丸投げすることにした。眠りにつくまでの短い時間、橋ヶ谷の頭の中には陽気なMoMoの声と、何を質問すればいいのかという焦りが渦を巻いていた。



「そのMoMoって人凄いですねぇ。顔が見えないとはいえ、橋ヶ谷さんに30分も喋らせ続けるなんて。尋問担当のエージェントさんとかなんですかね」
「人のことなんだと思ってるんですか…。あまり喋らないのは否定しませんけど」

3日後の昼休み。橋ヶ谷は自室で那賀智美と昼食をとりながら、この前の通話のあらましを話していた。思ったより成果があったからか、話を聞く那賀の尻尾は嬉し気にゆらゆらと揺れている。

「で、女性ってどんな質問だったら変に思いませんか?」
「…なんですか、その初めて恋した10代みたいな質問」
「恥ずかしながら、これまで女性と話す機会があまりなかったので…」

なんでもかんでもハラスメントになりうるこのご時世、橋ヶ谷が質問の準備に慎重になるのは仕方のないことだった。

「うーん、無難に趣味とか聞けばいいんじゃないですか?」
「やっぱそうですよねぇ。趣味、休日何してるか、好きな食べ物は何か…」
「いっそ、どこのサイトで働いているのか、なんてどうですか?あと好みのタイプとか」

那賀の突拍子もない言葉に、橋ヶ谷はエビチリを吹き出しそうになる。那賀はさっと尻尾で顔を守るが、その拍子にカップに入った麦茶が白衣を汚した。

「あぁもう、ちょっと橋ヶ谷さん!」
「ゲホッゴホッ!いやいや、どう考えても那賀さんが悪いですよ!今のご時世人によってはセクハラでかすらねそれ」

「染みになったらどうするんですか」とぶつくさ言いながら那賀はティッシュで服を拭いていく。橋ヶ谷がそんな様子を呆れながら見ていると、プライベート用のスマホが震えた。画面を見ると、『MoMoさんからチャットが届きました』とPrivatalkのバナー通知が表示されていた。

「ちょちょ、那賀さん!MoMoさんから連絡来ました!」
「えっ今!?もう、まだ拭いてる途中なのに!」

ティッシュを何枚かまとめて服を雑に拭いた那賀は、素早く橋ヶ谷の隣に移動する。

「ほら、早く開いてくださいよ!」
「急かさないでくださいって、えっと…」

『ごめんなさい~!明日からしばらく出張で出ないといけなくなっちゃって…。急で申し訳ないんですけど、今日の夜9時半からでどうですか?もちろん、忙しかったら全然断ってください。そしたら出張から戻った後にまた連絡しますので!』

「今日!?」

あまりの不意打ちに、橋ヶ谷は素っ頓狂な声をあげる。MoMoとの次回は、想像よりもはるかに早くやってきた。

「良いじゃないですか。善は急げって言いますし」
「いやいやいや、心の準備が! それに質問もまだ固まってないですし…」
「そんなもの流れでいいんですよ流れで。質問を用意って、営業職じゃないんですから」

隣で目を輝かせている那賀は、麦茶の染みのことなどすっかり忘れた様子で、楽しそうに橋ヶ谷の肩を尻尾で突く。出張前の忙しい合間を縫ってわざわざ連絡をくれたことへの申し訳なさと、ちゃんと質問ができるかという焦燥感が入り混じる中、橋ヶ谷は「大丈夫です」と震える指先で返信することしかできなかった。



『お、来た!お疲れさまです~』
「お疲れさまです…」
『いや~すいませんねぇ。こっちの予定に合わせてもらっちゃって』
「いえいえそんな。僕の方こそお忙しいのに時間を取ってもらって…」

ソファに体操座りで座り、スマホを太ももに置いた状態で、橋ヶ谷は通話を始める。画面の向こうからは、前回と変わらない明るい声が聞こえてきた。

『ほーんとやんなっちゃいますよ。今朝急に「申し訳ないけど、明日から出張頼むよ」って言われたんですよ?おかげで土曜に予約してたスイーツビュッフェをキャンセルしなきゃいけなくて…」
「今はその上司の方の声真似ですか?」
『ですです。いい人なんですけど、ちょーっとステレオタイプなところがあってですねぇ…」

外出できるということは、MoMoは少なくともぱっと見でわかるような異常性持ちではないんだろうなぁと、橋ヶ谷はふと思う。それと同時に、別のことを考えられる程余裕を持って会話できていることに気がついた。

『まぁ、私のことはいいんですよ。どうです?できましたか?』
「何をですか?」
『宿題に決まってるじゃないですか~。どうです?何か考えてきましたか?』

橋ヶ谷の動きが一瞬止まる。用意したものが妙な質問ではないとはわかっていながらも、相手の不興を買わないか…橋ヶ谷が1番気にしているのはそこだけだった。

「えぇと、まぁ一応は…」
『お、いいですねぇ~。それで、どんな質問ですか?』
「その、ありきたりなんですけど、週末って普段何をして過ごされてるんですか?」
『週末の予定!いいじゃないですか~鉄板ネタの1つですよ。私はですねぇ、たまった映画やドラマを見たり、出かけたりですかねぇ~。それこそ、さっき言ったスイーツ巡りなんかは出かけた先でよくやります』

MoMoの声色は特段変わることなく、明るいままだった。それを聞いた橋ヶ谷は、小さく安堵のため息をつく。

『YUさんはどうなんですか?休日どんなことしてます?』
「僕は…ゲームをしたり本を読んだり、あとはたまに知り合いと食事…とかですかね」
『結構色々あるじゃないですか~。ゲームはどんなものをやるんですか?対戦ゲー?それともソロゲー?」
「基本ソロゲーですね。対人はあまり得意ではないので、RPGとかシューティングをよくやります。MoMoさんはゲームはされるんですか?」
『最近はできてないんですよねぇ~。何かおススメってありますか?ジャンルはなんでも大丈夫です!』
「なら、最近パソコンで出たやつでオススメが…」

 
 
 

MoMoが主導権を握ってるのは変わらずだったが、前回ほど一方通行ではなく、橋ヶ谷も多少質問を投げ返し、話を広げられるよう努力をしていた。

『ありゃ、もうこんな時間ですか』

その言葉に橋ヶ谷が目線を上げると、スマホの時間表示は間もなく10時半になろうとしていた。

『私も気づかなかったので、全然大丈夫ですよ!それに今日のYUさん、結構ボール投げ返してくれて嬉しかったです。宿題、花丸です!』

小学校の先生が生徒を褒める時のような言い方に、橋ヶ谷は少し顔が熱くなるのを感じていた。気恥ずかしさはありつつも、努力を真っすぐに認めてくれるた言葉が、胸の奥をじんわりと温めていく。

「ありがとうございます。MoMoさんの話し方が上手で、学ぶべきところがたくさんあるからこそ、僕もこうやって話せているんだと思います」
『ふふ、そう言ってもらえると私も嬉しいです。これで出張がんばれます!帰ってきたら、またお話しましょう!では、お休みなさい~』
「はい。お休みなさい」

静かな音がして通話が切れる。橋ヶ谷がふと後ろを見ると、尻尾が少し満足げに揺れているのが目に入る。すぐに手で握って動きを抑えたものの、橋ヶ谷自身、その感情自体を否定する気は全くなかった。



それ以降も、週に1度か2度のペースで通話は続いていた。画面越しに交わされるやり取りの中で、橋ヶ谷はMoMoから会話の何たるかを学んでいった。相手の興味の引き方、相槌のタイミング、話題の広げ方など、そのどれもが的確かつ実践的なものだった。相変わらず通話ボタンを押す前には小さな緊張が胸を掠めるが、以前のように逃げ出したくなるほどの圧迫感は感じなくなっていた。

那賀など友人達からも会話が上手くなったと言われるようになり、橋ヶ谷の中にあった人と関わることへの恐怖は、少しずつ、だが確実に薄れていっていた。自分から質問を投げ、返ってきた言葉に耳を傾け、時には些細な冗談を返して一緒に笑う。少し前の自分からは想像できない時間が、少しずつ日常の一部となりつつある。アノマリー職員以外への恐怖心は未だハッキリとしていたが、絶対に乗り越えられない壁だとは感じなくなっていた。

そんな日々が2か月ほど続いたある日の夜、その日も橋ヶ谷はMoMoと通話の約束をしていた。

「お疲れ様です、MoMoさん」
『YUさん、お疲れ様です』

いつものように交わした挨拶。しかし橋ヶ谷はMoMoの声から、どこかいつもより余裕がないような、静かな印象を受けた。

「あの…何かありましたか?」
『え、どうしてですか?』
「いえ、いつもより少し声に元気がなかったので、トラブルでもあったのかなと」
『いやぁ…YUさん、耳がいいんですねぇ』

あははと笑いながらも、やはりMoMoの声にはいつものような張りがない。これだけ明るい人がこうなるというのは、よほどの事があったんだろうと橋ヶ谷は考える。

「もしよければ、話だけでも聞かせてもらえませんか?」
『うーん……実は、このアプリをやめることにしたんです』
「え」

突然の引退宣言に、橋ヶ谷はコーヒーに手を伸ばした状態で動きを止める。耳が遠くなるような感覚と、冷や汗が毛を濡らす感覚だけがハッキリとしている。

「ど、どうして!そんな、急に…」
『まぁまぁ落ち着いてください。ちゃんと話しますから、ね?』
「あ、す、すみません」

MoMoに宥められ、橋ヶ谷は深呼吸をする。コーヒーを半分ほど飲み、ソファに深く座り直す。

『実は、来月異動することになりまして…』
「異動…でもそれだけなら消す必要は…」
『まぁまぁ、まだ続きがあるんですよ。異動先なんですけどね、どうやら収容されてるオブジェクトの関係で、電子機器の使用がかなり制限されてるらしくって、私物のスマホとパソコンが持ち込めないらしいんです』

情報漏洩やオブジェクトの異常性拡散を防ぐため、職員にある種の制限を課されるというのは決して珍しい話ではない。それは財団で働くうえで、誰にでも起こりうる必要な理不尽だった。

『いつ戻ってくるかもわからないんで、しばらくできないくらいだったらいっそスパッとやめるか~って感じですねぇ。なんか、いつぞやの出張の時みたく突然になっちゃってすみません。言い訳でしかありませんが、異動のバタバタで連絡する暇がなくて…』

寂しさとショックで、橋ヶ谷の胸の奥が強く締め付けられる。声しか知らない相手だが、自分の背中を優しく押し、会話のキャッチボールの感触を教えてくれた恩人だった。

「そう、ですか…。凄く寂しくなります…」
『そんなしんみりしないでくださいよ~! ほら、最後なんですから笑って終わりましょう!』
「…ふふ、そうですね」

こうして、2人の最後の通話が始まった。最近観た映画の考察や、前に橋ヶ谷が薦めたゲームの進捗、サイト内での他愛もない日常や噂話。そんなこれまでと変わらない話のキャッチボールが続いていく。2人の間に流れる時間はいつもと変わらない温かさに満ちていて、橋ヶ谷は、これが最後の通話だという事実を忘れそうになるほどだった。



時計の針は二時間近く進み、別れの瞬間は静かに、だがすぐそこまで近づいていた。

『いやぁ~喋った喋った! やっぱりYUさんと話すのは楽しいですね』
「僕も…すごく楽しかったです」

会話が途切れ、静寂が部屋を支配する。5秒、10秒、15秒。最初の通話の時でさえ、ここまで長い無言の時間はなかった。

「あの、ずっと聞きたかったことがあるんですけど、いいですか?」
『どうしたんですか?改まっちゃって』
「どうして、僕にここまで色々してくれたんですか?アプリでたまたま出会っただけの僕に、どうして親身になってくれたんですか?」

ずっと聞きたかったが、相手を疑っているようで聞くことを躊躇っていた質問。最後に気がかりを残したくなくて、橋ヶ谷は勇気を振り絞ってそれを言葉にした。

『なーんだ、そんなことですか~。別に大層な理由はないですよ?最初の通話の時、YUさん、声がすごく引きつってたじゃないですか。でも、途中で切ったりせず、頑張って最後まで話そうとしてくれたのを聞いてて思ったんです』

一拍置き、MoMoが小さく笑う。

『この人は凄く真面目で、優しい人なんだなぁって。それに、自分を変えたいって本気で思ってるんだろうなって』
「……」
『だから、その手助けが出来ればいいなぁって、本当にそれだけなんです。まぁもっとも?私も途中からYUさんとの通話を楽しみにしてたんですけどね、えへへ…』
「MoMoさん…」
『YUさんはもう大丈夫です。慣れるのには時間がかかるかもしれませんけど、もう立派に人と繋がることができます。だから、胸を張って前へ進んでください』

橋ヶ谷の視界が滲む。目元を拭い、鼻を1度すする。

「…僕がここまで変われたのは、他でもないMoMoさんのおかげです。教えてもらったことは、絶対に忘れません。本当に、ありがとうございました」

橋ヶ谷は声を震わせながら、今の自分が伝えられる限りの感謝を、まっすぐにMoMoへとぶつける。画面の向こうから、鼻をすするような音が聞こえた気がした。

『ふふ、どういたしまして! …よし!言いたいことも言えたし、それじゃあ私、そろそろ落ちますね』
「はい。次のサイトでも頑張ってください。じゃあ…行ってらっしゃい」
『はい! YUさんも、お元気で!行ってきます!』

通話が終わった。橋ヶ谷はスマホをソファに投げ、カップに入ったコーヒーの残りを飲み干す。中身はすっかり冷め、食道と胃がほんの少しだけひんやりとした。



「異動ねぇ…ここじゃよくあることですけど、寂しいものです」
「そうですね…。でも、お別れがしっかり言えてよかったです。別れも言えず、気がついたらいなくなってる人も少なくない場所ですから」

カップに注いだ紅茶を飲み、那賀はどこか遠くを見るように目を細めた。彼女の尻尾が、床の上で静かに滑る。その目は橋ヶ谷の成長を喜んでいるような、はたまた何かを思い出しているような。少なくとも、橋ヶ谷にはそんな風に見えていた。

「ま、これが今生の別れって決まったわけじゃないんですし、異動願い出してふらっと戻ってくるかもしれないですよ?」
「あはは…かもしれませんね」

1つだけ名前が表示されていたPrivatalkの相互フォロー欄は、通話の翌朝には空になっていた。試しにメッセージを送ろうとしたが、チャットにもMoMoの名前は見当たらない。胸の奥にはまだ冷たいものが残っていたが、それ以上に彼女との交流で得たものが、確かな自信となって胸に息づいていた。

「あ、そうだ。那賀さんに聞きたいことがあったんですけど、いいですか?」
「はい?なんですか改まって」
「えっと…」

橋ヶ谷は少し照れくさそうにこめかみのあたりを掻きながら言葉を続けた。

「その、那賀さんってどんなお菓子が好きですか?クッキーとかケーキとか」
「………」

那賀は数秒ポカンと目を丸くした後、ぷっと小さくふき出した。

「なんですか。そんなに変なこと聞きました?」
「ふふふ…いや、まさかそんなこと聞かれると思ってなかったので…。通話の成果ですね」
「なにも笑うことないじゃないですか…で、どうですか?」
「んーそうですねぇ…焼き菓子だとフィナンシェとか好きですねぇ〜。それ以外だとプリンとか」
「あ、フィナンシェだったら、簡単なレシピをMoMoさんから教えてもらったんですよ。ただお菓子って作ったことがなくて…良ければ一緒に作りませんか?」

予想だにしていなかった菓子作りの誘いに那賀は驚きつつも、嬉しそうに笑みを浮かべた。

「いいですねぇ~。せっかくなら、プレーン以外にも紅茶を入れてみたりでアレンジしてみません?」
「だったら香りの強い茶葉の方がいいですかね?その方が紅茶をより感じるでしょうし…」

橋ヶ谷の質問を皮切りに2人の会話は弾み、菓子作りの予定調整へ話が進んでいく。自分から投げたボールを那賀が返し、さらに投げ返す。返ってくるボールの手応えを感じながら、橋ヶ谷は弾む声で言葉を重ねた。那賀は楽しそうに尻尾を大きく揺らしながら、試したいフィナンシェの味を語っていく。橋ヶ谷の尻尾もまた、隠すことなく嬉しそうにゆらゆらと揺れていた。

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