私が寝る直前に撮った写真。
「やっほー。」
今日も山に姉の声が聞こえる。
山の岩場や、ぬかるんだ腐葉土にからみあい、姉の声が山に反響する。
昔から変わらない声。姉は歳を取らないんだな、と思った。
あれは11年前の出来事だったはずだ。
私たちは家族総出で東京から親戚が持て余している山の奥に建てられた家に引っ越した。
1970年代の脱サラブームの波に乗って建設されたその家は、モダン建築でありながらどこか黴臭かった。
壁紙の縁は剥がれ、隅には黒く集合した小さな虫の死骸が溜まった居間、何年もの不浄が蓄積し、臭いとしてこびりついたトイレに、ひび割れた床とナメクジの湧く風呂。
私はこの家が好きではなかった。姉も同意見で、外に日が出ている時間帯は家から飛び出して山で遊んでいた。
越してきて少しすると、梅雨の季節になった。
雨の中、まだ子供の私たちは山に遊びに行くことなどできず、しばらく家に籠った。
家の中は湿気で更にカビの匂いに包まれ、昼でも薄暗く、家に出ていけと言われているような、居心地の悪さと閉塞感を感じた。
母がせめてもの心遣いでそうめんを出してくれたが、麺を啜るときに淀んだ空気と共にこの家のカビまで吸い上げて、喉から、鼻腔から、脳へと侵食されていくのではないかと考えてしまい、気は晴れなかった。
二日ほど経ち、雨が止んだ。梅雨の時期には珍しい、雲ひとつない快晴だった。
雨で濡れた草の匂いの中、中学にあがったばかりの姉が晴れ晴れとした笑みでヤマモモを取りに行こうと私に提案してきた。これからも梅雨で雨が降るのだから早いところ収穫してしまおうと。
私は二つ返事で姉に同行し、ヤマモモを取りに行った。
ヤマモモの群生地は家の裏から少し進んだ場所にあって、近場のため両親も特に心配はせず、私たちに収穫用のポリバケツを持たせてくれた。
長雨の後のヤマモモはかなりの数が地面に落ちていた。
ヤマモモ自体甘みが少なく、うちの家ではジャムにして食べるが、それでもなかなかに酸味が強い。
酸っぱいのが苦手な私は完全に熟れたヤマモモ以外収穫しなかったが、姉はとにかく根こそぎとってきたようで、ポリバケツにぎゅうぎゅうのヤマモモが詰まっていた。
「そろそろお昼だし、もう帰ろうか。」
「そろそろお昼だし、もう帰ろうか。」
姉の声と被せて、男の声がした。
低く濁声で、おそらく中年の男性。
周囲を見渡したが誰もいない。声の出どころは明らかにこの近くなのに。
「えっと、すみません。誰ですか?」
「えっと、すみません。誰ですか?」
姉の呼びかけに返事もせず、ただひたすらに姉の真似をしている。
近所の人の声でもない。知らない人。
ぎゅっと姉の服を掴む。
「戻ろうお姉ちゃん。」
ここは家からそこまで離れていない。
走って家まで逃げれば追い付かれることもないはずだ。
しかし、声をかけても、姉はピクリとも動かない。
浅い呼吸をはっ、はっ、と犬のように繰り返し、声のした方向を凝視している。
「私、迷っちゃった。」
「私、迷っちゃった。」
姉の酷く狼狽した声に男の馬鹿にしたような声が被さる。
そんなわけがない。
ここには何度も来ているし、家まで道なりに進んだ場所だ。
迷う要素なんて、どこにもありはしない。
「あそこを道なりに進んでも、ここに戻っちゃう。ね。」
「あそこを道なりに進んでも、ここに戻っちゃう。ね。」
「おかあさーん。おとうさーん。加奈ー。」
「おかあさーん。おとうさーん。加奈ー。」
「ね。置いてかないでよ。」
「ね。置いてかないでよ。」
「おいわいしてよ。」
「おいわいしてよ。」
大声でのっぺりとした声調で意味を掴みきれない言葉を口走る姉と、笑いを堪えるような声で、姉の言葉を繰り返すなにか。
背中に汗が伝う。
何が起きているのかはわからない。ただ何かがおかしい。
それに、いくら山とはいえ、ここまで大声を出しているのに、全く響かない。音が跳ね返ってこない。
「じゃ、いってきます。」
「じゃ、いってきます。」
そう言うと姉は山へと入っていく。
あの声の主と一緒に。
止めなきゃと制止の言葉をかけようとした瞬間、冷たい何かに胸を圧迫され、息ができなくなった。
薄れゆく意識の中、あの声は「お前は、まだいい。」と舌なめずりをして笑った。
目が覚めると病院にいた。
私はあそこで倒れており、お医者さんから熱中症で倒れて二日ほど眠っていたと説明を受けた。
そして、姉が行方不明であることも。
しばらくの療養のあと、家に戻ると姉の捜索が行われていた。
「君のお姉ちゃんはまだ見つかっていない。」
カビの匂いに塗れた雨のなか、捜索隊の人に神妙な面持ちでそう告げられた。
そうですか、と半ば反射的に口に出したとき。
「やっほー。」
姉の声がした。私以外誰も姉の声に気づいていない。
「やっほー。」
幻聴ではない。明らかに姉の声だ。
姉は、姉はまだ生きている。
靴のかかとを踏んで、家を飛び出した。
「やっほー。」
間違いない。ヤマモモの木の方からだ。
私はゴツゴツとしたヤマモモの樹皮に手をかけ、ヤマモモの木の裏を覗いた。
そこには冷たくなった姉がいた。
体を持ち上げると、首の肌がぶつぶつと音をたてて裂け、頭がごろりと私の左腕にしなだれる。
姉の顔は獣の毛と泥に塗れ、目は爛れ、そこから蛆が湧いていた。
長らく雨にさらされていたからか、肌はぶよぶよと膨れ上がり、首元からはツンとしたクセの強いチーズのような匂いと捌く前の魚の匂いがした。
手先は冷たく、手を握り込んだ時にはもう、姉は生物ではなく異物になってしまったと、ありありと突きつけられた。
後から知ったことだが、人間の心は壊れる寸前に乖離と言って、精神と現実を切り離して、ショックを受けないようにするらしい。
もう、私は限界だったんだと思う。
姉の死体は、急に家を飛び出した私を追いかけてきた捜索隊の人達が、丁寧に搬入していった。
姉の死因は、心不全という形で理由づけられた。要は死因不明だ。
遺体もあの様だったため、葬式は遺骨を用いて行われた。
両親はさめざめと泣いていたが、私はどうにもぼんやりして、足を交互にぶらぶらと遊ばせていた。
姉のいなくなった家はがらんとして、更にじめじめと、黴臭くなった。
セミが鳴く。
ふと、姉の死体を思い出して、抜け殻みたいだったなと思った。
それから三年が経ち、私の入学式が間近となった夜。
「明日は早いんだから、もう寝なさい。」
母に促されて早めにベットに入った。まだ時間が早いため、思うように寝られず、浅い眠りと目覚めを繰り返しているうちに喉が渇いた。
すでに両親は寝たようで話し声や足音も聞こえてこない。
階下に行って水を飲もうと思い、体を起こす。
足音がする。
父のような大股を開ける歩き方ではないし、母はもっと静かに歩く。
もっとこう、ドタドタと四足歩行の獣のような。
そんな足音が。ゆっくりと、近づいてきている。
廊下の板材がきぃきぃと音を鳴らし、寝室のドアの前で止まった。
「ねぇ。」
声が聞こえてきた。
なんというか、ぼんやりと曖昧な声だった。
「ねぇ。」
声は聞こえたかと思うと消え、姉の声のようにも聞こえるし、あの男の声のような濁声に聞こえるときもある。
ガチャリ。
ゆっくりとドアノブが回り、ドアが開く。
反射的に壁の方を向き、寝たふりをする。
「気づいてるよね。」
声の主は、私のベットに腰掛けた。私の背のすぐ後ろだ。
「私ね。今、すごい大切にされててさ。」
声の調子は子供のような、明るく弾んだものだった。
「もっともっと、奥さんが欲しいんだって。」
頭の上あたりに気配がする。今、上を向けば誰が私に話しかけているのか、わかるだろう。
だが、これは姉ではない。顔を見たら、悲鳴を上げるような化け物であることくらい目を開けずともわかりきっている。
「私に割いてくれる時間が減っちゃうかもしれないのが、嫌だけどさ。加奈ならいいかなって。」
もうしゃべるな。そう思いながら乱れる呼吸を押さえつける。
いつ居なくなるのか。そもそも居なくなるのか?
冷や汗が頬を伝うが、動くことはできない。
「一緒にいこ?加奈。」
姉の声だった。
布団の間に何かが入り、寝間着越しに私の背中を撫でる。
指だ。姉の指は、ひんやりと、日陰の石のような冷たさだった。
「おきて。」
自身の意思とは反対に、顔が上を向き、瞼がすーっと開く。
剥き出された目に映った姉の顔はぐにゃりとうずを巻くように歪み、溝から生えた毛がうぞうぞと蠢いていた。
ぷつりとそこで意識がきれ、そこからはよく覚えていない。
起きた時には、いつもと変わらない、草の匂いに囲まれた寝床に私が一人で寝ているだけだった。
それからも何も変わらず、姉は私達に声をかけ続ける。
「やっほー。加奈ー。」
ざわざわと声が騒がしい山で、よく通る姉の声が聞こえた。
どっちもおれのもの


