どろんこばあは腐った泥水のような臭いがする。
その臭いは、僕の実家の近くを流れているどぶ川の臭いによく似ている。
家を出て、家の前の小路から通じている大通りを北に進んで、信号を二つか三つ越えた先に、そのどぶ川はあった。どぶ川には適当な間隔で石橋がかかっていて、その親柱にはしっかり河川名が刻まれていたように思うのだけれど、僕はその名前を覚えていない。
僕の地元に住んでいる人で覚えている人はほとんどいなかったと思う。皆、どぶ川、どぶ川と呼んでいた。
実際、とにもかくにも汚かった。二級河川か何かに指定されていたから大きさだけはそこそこあったのだけれど、どこを取っても、川の水が澄んでいるなんてことはなかったし、ひどいところだと、水面に濁った油のようなものが浮いていた。油はカナブンみたいな色をしていた。
やんちゃなクラスメイトが、どこからか持ってきた、えらく長い棒にその油を纏わりつかせて、振り回すなんてことを度々していたのだけれど、僕は本当に嫌だった。死んでくれとさえ思っていた。
どぶ川には鯉しかいなかった。
たぶん、鯉だったと思う。
どの鯉も馬鹿みたいに大きかったから、どぶ川にかかる石橋の上からすぐに見つけることが出来た。時折、水面がむくむくと波打って、そこから大きな、大きな鯉が顔を出した。
僕と友達は、石橋を通る時に、鯉の姿を見つけるときゃあきゃあと声を上げて騒いでいたのだけれど、今にして思えば、何が面白かったのかまるで分からない。でも、まぁ、そんなものだと思う。
給食で出たパンくずなんかをこっそりポケットにしまって持ってきて、どぶ川に振りまくと、それはもう大変なことになった。たくさんの鯉たちがパンくずを食べようと一斉に集まって、必死に口をパクパクする様は、何か一つの大きな生き物のようだった。
友達は面白がってよくやっていたのだけれど、同族の身体と泥水の上で暴れまわってでも餌を喰らおうとする鯉を、高い石橋の上から面白がって眺めるという行為が何だか浅ましく思えてしまって、僕は一回だけやって止めた。
いや、子供の頃はそこまで考えていた訳じゃない。ただ、何となく苦手だっただけだ。
あぁ、そうだ。時々、身体に緑色の斑点がある鯉がいたのだ。苔みたいな色の斑点。病気だったのか知らないけれど、それが妙に気持ち悪くって、鯉自体がそこまで好きじゃなかったのだ。
じゃあ、尚のこと、鯉を見て騒いでいた理由が分からない。
どぶ川はゴミ捨て場にもなっていた。
小学校に近いところがそうだったように思う。
薄緑色の旧型の冷蔵庫ややけに奥行きのあって無骨なテレビなんかでゴミ山が築かれていた。何に使うのかさえよく分からない青色のネットや配線がむき出しになったコードでぐるぐる巻きにされた扇風機もあって、何かの生き物の巣みたいだった。
PTAで随分と問題になっていたようだけれど、結局、どうなったのかを覚えていない。
でも、たぶん、どうにもなっていない。誰だって、あんなどぶ川に入ってゴミ山を片づけたいなんて思わない。みんなして、見て見ぬふりを続けているのだろう。
その、どぶ川の夢を見た。小学校二年生か三年生、まぁ、それぐらいの時だったと思う。
夢は、小学校の帰りの会の場面から始まった。
僕は廊下から二列目の、前から三番目の席に座っていて、ランドセルの中に教科書を詰めていた。廊下の窓から温い風が入ってきていたので、夢の中は7月頃だったと思う。ランドセルには背中側から、国語の資料集、社会の資料集、国語の教科書、社会の教科書、算数の教科書、計算ドリル、漢字ドリル、ノート数冊、半透明のファイルの順で入っていた。ファイルの中にはわら半紙のプリントが無造作に詰め込まれている。ランドセルの側面では、紫色のお守りと可愛らしい白狐のストラップが揺れていた。
それだけよく覚えているのに、僕は先生の顔や周りに誰が座っていたのかを覚えていない。でも、夢なんてそんなものだと思う。全体としてはひどくぼやけているのに、ピントがあっていてやたらとよく見える場所がある。
何を言っているのか分からない先生の話は下校時間を告げるチャイムが鳴るまで続いた。
チャイムが鳴って、先生は名残惜しそうにしていたのだけれど、突然、何かを思い出したかのように言った。
「あー、浩平君、今日はどろんこばあがいます。ちゃんとしてくださいね」
どろんこばあなんて言葉、僕は聞いたことがなかったのだけれど、名指しをされた、夢の中の僕ははーいと返事をしていて、今日はさっさとどぶ川を越えないといけないなと思っていた。夢の中の僕はどろんこばあという言葉が意味するところを理解していた。
そこで場面が一気に飛んだ。
僕は石橋の欄干に両肘をついて、どぶ川を眺めていた。夢の中の僕は、今日はどぶ川にいてはいけない日だということを理解していたのにもかかわらず、だ。
夢の中のどぶ川も相変わらず汚かったけれど、鯉がいなかった。石橋の上から少し眺めていれば姿を見ることができる鯉がまるで現れない。夢の中の僕は、そのことに無性に苛立っていた。早く出て来いよなんて思いながら、どぶ川を眺めている時に、ふと、手提げバッグの中に給食のロールパンをしまっていたことを思い出したのだ。
手提げの中からロールパンを取り出して、それをちぎっては、どぶ川に投げ入れた。どぶ川に落ちたパンくずが汚い色に染まっていく。それでも、鯉は現れない。
夢の中の石橋は、たぶん、僕の家から一番近いところにあるものだったと思うのだけれど、その下にはテレビや箪笥なんかでゴミ山が築かれていた。
その、粗大ごみの塊の中に、鏡台があった。まだ新しい鏡台だった。楕円形の大きな鏡の下には、小物をよく仕舞えそうな引き出しが四つ付いていて、錆一つない真鍮の取っ手が小さく揺れていた。タモ材の木目が遠目からでも分かるほどにはっきりとして力強かった。
鏡台は、使い古された末に打ち捨てられた不法投棄物の中ではひどく浮いていた。その浮き方も、泥中の蓮というよりは、白黒写真の中に一人だけカラーで映っているような、そんなちぐはぐさがあった。
それで、どういう訳か、ゴミ山の中にあった鏡台を見て、夢の中の僕は思い出したのだ。
今日はどろんこばあがいる。
そのことに気づいた瞬間、僕はどうしようもなく怖くなってしまった。理由はまるで分からないのに、自分がどうしようもない状況に置かれているという考えばかりが、頭のぐるぐるまわっていた。
早く石橋を渡って、家に帰りたかったのだけれど、足が震えて動けなかった。
がちゃり。
石橋の下の方で何かが開く音がした。
鏡台の引き出しが開いたんだ。夢の中の僕はそう直感した。
あぁ、早く帰らないと。今日はどろんこばあがいるから、早く帰らないといけないのに。
僕は、石橋の下の様子がどうしようもなく気になってしまって、そちらに目を向けてしまった。
どろんこばあがいた。鏡台の引き出しの中から、身体をぐしゃぐしゃに折り曲げて、出てきている最中だった。
頭の中でがんがんと危険信号が鳴り響いていたというのに、僕はそれから目が離せなかった。
初めは小物ぐらいの大きさだったどろんこばあは、あっという間に、僕よりもずっと大きくなった。
全体の印象としては、ひょろ長い老婆だった。
ただ、両手とも地面に着くぐらい伸びきっている。長いというよりは、伸びきっている。無理やり引き伸ばしたような印象を受けた。
腰がひどく折れ曲がっているせいで、背丈は多少低くはなっているけれども、それでも成人男性ぐらいはあった。
しわくちゃの肌はお化けみたいに白くて透き通っている。肌の下を通っているであろう血管の色が滲み出そうなほどだ。色白、などと言わないのは、不健康で病的な白色であると同時に、しわくちゃの肌の間に垢か何かが詰まっていて汚らしいからだ。
大きな、大きな口は、顔の骨格自体が折れ曲がっているせいで、つねに笑みを浮かべているように見えた。
その、老婆が、どろんこばあが、橋の上にいる僕を見た。
目のあたりが窪んでいて、落ちたらもう上がってこれない穴のようだった。
どろんこばあが口をもごもごとさせた。薄皮の下で大量の百足か何かが蠢いているみたいに、しわくちゃの肌が波打った。
どろんこばあは何かを言おうとしている。僕はそう思った。聞いてしまったら、何かどうしようもないことになる気がして、僕はたまらず逃げ出した。足の震えなんか問題じゃなかった。
石橋を抜けて、坂道を下りて、どろんこばあの視界から外れようと、一つ目の角を右に曲がろうとしたところで、後ろの方から、べちゃりという大きな音が聞こえた。
あぁ、どろんこばあが追いかけてきてるよ。
赤信号も気にせず走り抜けて、僕の家がある住宅街に入っていく。車なんて走ってないし。
どろんこばあはどんどん僕との距離を詰めてきている。
ババアの癖になんでこんなに足が速いんだよ。
どろんこばあだからか。
公園の中を走り抜ける。
髪がかなり薄いおじさんが毎日手入れしている生垣を突っ切る。葉や枝が肌にぶすりと刺さってかなり痛い。
あの人、仕事してないのかな。
どの家も門を閉めて、シャッターを下ろしている。今日はどろんこばあがいる日だもんなぁ。助けを求めることも出来やしない。
家はもうすぐそこだった。
後ろから、あぁだとかうぅうだとか言いながら、どろんこばあが迫ってきている。
馬鹿みたいな声だ。
震える手で門戸をこじ開けて、家の敷地に入る。都合がいいことに玄関の鍵はかかっていなかった。わずかに開けた隙間に身体を滑り込ませて、その空隙を、すぐさま塞ぐ。
どろんこばあはもうすぐそこにいた。
右手で扉を抑えながら、どろんこばあが入ってこれないように急いで鍵をかける。
曇りガラスで細部がつぶれたどろんこばあは、ひょろ長い人影になって、玄関の扉の前に立っていた。玄関の扉がガタガタと揺れていた。
それで。それで。僕はどうしたんだっけ。
あぁ、そうだ。
僕は、どろんこばあのことを忘れることにしたのだ。
自分の部屋にランドセルと手提げバッグを放り投げてから、リビングまで行って、ソファに座って、ポテトチップスを食べながら、昨日録画していたバラエティ番組を見て、そうしているうちに、母が、兄が、父が帰って来て、ダラダラしていたらいつの間にか夕食の時間になっていて、夕食を済ませてすぐに風呂に入って、またリビングでテレビを観ていたのだけれども、母から宿題のことを聞かれて、渋々部屋に戻って適当に終わらせて、そうしたらよい時間になっていたから、ベッドに入って眠りについたのだ。
そこで。
現実の僕は目を覚ました。
五時を少し過ぎたところだった。
一瞬、これも夢かと思ったのをよく覚えている。眠った気がしなかった。夢の中では、ついさっき眠りに落ちたばかりなのだ。
あまり現実感がなくてふらふらした足取りで立ち上がって、用を足そうと自室のドアノブに手をかけた時に、どろんこばあのことを思い出した。
意味が分からなかった。夢なんてものは往々にして脈絡のないものだけれど、輪をかけて意味不明だった。
同時に、怖くなった。
どろんこばあが今でも背後にいるような気がした。
その、怖さ、にはとっかかりがなかった。理解できないから怖い。暗い、暗い平原の向こうにあるのが枯れ尾花だと分かってしまえば、もう怖くない。
どろんこばあは、すべすべで掴むことも出来ない球体のようだった。意味不明な夢に出てくる意味不明な存在。それがどろんこばあだった。引っ掛かりがどこにもない。ひも解くこともできない。どろんこばあはずっとどろんこばあのままだ。
それがひどく怖かった。
幼い頃の僕には単なる夢と切り捨てることが出来なかった。
僕はどうしようもなく怖くなってしまって、朝日が昇るまで、一人で部屋にいるなんてことが出来ないぐらいに怖くなってしまって、隣の兄の部屋に駆け込んだのだ。
兄ちゃん、兄ちゃん、と兄の身体を揺らすと、三十秒も経たないうちに兄は目を覚ました。兄は寝ぼけ眼をこすっていたけれど、僕の顔を認めると、不機嫌そうに声を荒げた。
あぁ、確か、あの時、僕と兄は喧嘩をしていたのだ。
鶏が先か卵が先か、そんなものは分からないけれど、兄は僕の漫画を何冊も破いたし、僕は僕で、兄のお気に入りのプラモデルをどぶ川に投げ捨てた。
だから、兄は声を荒げた。変な時間にたたき起こされた不満を隠そうともしなかったのだけれど、僕があまりにも泣きそうな顔をしていたのを流石に気の毒に思ったのか、少し横にずれて布団を空けた。
僕はその布団に潜り込んで、七時ぐらいまでずっと起きていた。寝たら、また、どろんこばあに追われるような気がして、眠る気にはなれなかった。
どろんこばあのことはまるで分からないままだったけれど、朝ご飯を食べて、登校して、授業を受けて、下校する頃には、夢の中と同じように、どろんこばあのことなんてほとんど忘れていた。
それからも、ずっと忘れていた。ふとした拍子にそんなことあったなぁと思い出す程度だった。
その、どろんこばあに、僕は、今、追いかけられている。
いや、正確に言えば、どろんこばあらしきもの、だろう。
あれがどろんこばあな訳がない。どろんこばあなんてのは僕が子供の頃にみた夢に過ぎないのだから。
でも、あれを初めて見た時、僕は、直感的に、どろんこばあだと思ったのだ。ここ数年思い出しすらしなかったのに、頭の奥底の引き出しからどろんこばあはぬるりと這い出てきた。
手がそこまで伸びきっていないとか、頭部がやけに大きいとか、夢と異なる点はたくさんあったのだけれど、パズルのピースの位置が決められているみたいに、どろんこばあという名前がぴたりと頭の中でハマってしまった。
だから、僕は、あの、よく分からないものを、どろんこばあと呼んでいる。
どろんこばあは腐った泥水のような臭いがする。
夢の中のどろんこばあは何の臭いもしなかった。というより、あの夢の中では臭いという概念が欠落していたように思う。臭いがあったら、たぶん、似たような臭いをしているとは思う。
どろんこばあが数十メートル近くまで来たところで、僕の鼻腔に腐った泥水のような臭いがうっすらと纏わりつき始める。
一、二メートルの距離まで来るともう耐えられない。どうにかして、どろんこばあから離れることしか考えられなくなる。もう、何も手につかなくなる。全てをほっぽり出して、僕は走り出す。
どろんこばあは走らない。
ゆっくり、ゆっくり歩いてくる。これも夢とは異なっている。
だから、逃げること自体はそんなに難しいことではない。小走りになるだけでどんどん距離は離れていくし、電車かバスにでも乗ってしまえば、臭いなんてすぐにしなくなる。
でも、どろんこばあはずっと僕を追いかけてくる。
今だって、僕の後ろをついてきている。
少し立ち止まって、後ろを振り返る。いやに背の高い老婆が人混みの中を、ゆらりゆらりと歩いている。柿の枯れ木のようだ。
ふと、今、どろんこばあの周りにいる人たちはどんな気分なのだろうと思ったけれど、すぐに意味のない疑問だと気が付いた。
たぶん、何も思っていない。くしゃくしゃに折れ曲がった、枯れ木のような老婆が自分の周りにいるなんて思いもせずに、スマホをいじったり、夕食を済ます店を考えたりしているのだろう。
どろんこばあは僕にしか見えていないのだと思う。
視線を前に戻す。そう長い間、見ていたいものでもない。
もう半日近くは追われているんじゃないか。スマホで時間を確認すると、六時三十分を少し過ぎたところだった。
そう、半日。たった半日前まではアサミがいたのだ。
アサミと付き合うことになった経緯は覚えていない。気がついたら一緒にいるのが当たり前になっていて、いつの間にか同棲していた。もう三年目だ。結婚については深く考えていなかったけれど、何となく、この先もずっと一緒にいるんだろうと思っていた。
アサミのことは好きだったと思う。たぶん。
でも、アサミは、どろんこばあに喰われてしまった。いや、呑まれてしまった。喰われたというよりは呑まれたという表現の方がしっくりくる。一呑みだった。
たぶん、外で猫が喧嘩していたのだ。それか発情期。
僕はその喧しい声にたたき起こされた。ソファで、変な態勢で寝ていたせいか、身体のあちこちが痛んだ。
アサミはキッチンの方にいた。勢いよく流れ出た水がシンクに当たる音や小気味いい包丁の音が聞こえたから、たぶん、作り置きでもしていたのだと思う。
ソファから放り出した右手で、机の上のスマホを掴んで、節々の痛みに呻きながら、スマホをいじくっていた時だった。
がちゃり、と音を立てて、部屋のドアが開いた。
瞬間、ぐじゅぐじゅに腐った魚の内臓のような臭いが部屋中に広まって、僕はえずいた。えずいて、そのまませり上がってきた胃液を吐き出した。酸っぱいものの塊が床にべちゃりと広がった。僕はフローリングにアメーバのように広がっていく胃液をただ見ていた。
意味の分からない出来事に、どこか他人事のようになっていた僕の意識を、アサミの悲鳴が引き戻した。
きゃあという声のした方に目を向けると、何だかよく分からないものが大きく口を開けているところだった。
どろんこばあがいた。僕はそこで初めて、現実で、どろんこばあを見た。
どろんこばあが大きく口を開けて、アサミを呑み込んでいるところだった。大きく口を開けているといっても、到底、人を丸呑みに出来るほどではなかったのだけれど、どういう訳か、アサミの身体はスルスルとどろんこばあの中に呑み込まれていった。
どろんこばあの胴体と思しき箇所が妊娠でもしているみたいに膨らんだ。でも、それもほんの数秒で、すぐに、元のキリキリとねじれきった状態に戻った。
僕は、アサミが呑まれたというのに、動くことが出来なかった。目の前で起きていることが何一つとして理解できていなかった。
頭はフリーズしたままだったのだけれど、アサミを丸呑みにしたどろんこばあが、僕の方にゆっくりと顔を向けて、口をもごもごとさせたから。しわくちゃの口を何かの生き物のように蠢かせて、何かを言おうとしていたから。僕の身体は走り出していた。
聞いてしまったら、何かどうしようもないことになる気がした。
頭は固まったまま、右手が、右足が、左手が、左足が、身体を走らせていた。四肢の動きがてんでバラバラの不格好な走り方で、僕は部屋を飛び出した。裸足のままだった。靴を履く余裕なんてなかった。
アパートを飛び出して、アスファルトの些細な凹凸に足の裏を痛ませながら走って、近くのコンビニに駆け込んだ。
コンビニで、しばらく息を整えていたのだけれど、自動ドアから腐った泥水のような臭いが滲みだして、店内に広がり始めたから、僕は、また逃げ出した。
それからずっと逃げている。
近くのホームセンターでサンダルを買っている時にまた追い付かれて、電車で何駅か行ったところにある市民公園で三度追い付かれた。何とかならないものかと、市民バスに乗っては降りてを繰り返して、この繁華街まで来てみたものの、どうにもならなかった。
今も、どろんこばあは僕の後ろをゆっくりとゆっくりと歩いている。
どれだけ遠く離れても、どろんこばあは僕のことを見つけ出してくる。影みたいに離れてくれない。
藍色に染まった東の空に段々と影が落ちている。今日の夜はどうしようか。アパートに帰る気にはなれない。そんなことはありえないだろうと分かっているのだけれど、どろんこばあが僕のことを待ち伏せているような気がする。
とりあえず、県外まで行こう。何とかなるとは思わないけれど、どろんこばあに脅かされることなく一泊ぐらいは出来る筈だ。
電車がぎぎぃと鈍い音をあげながら止まって、口から人の塊を吐いた。
目的地はもう二つ、三つ先の駅だ。
車内に若い男性の声でアナウンスが入る。ここからは各駅停車から準急になるらしい。
少しして、向かいのホームに電車が止まって、雪崩のように人が入り込んできた。車内の空気が濁る。
座れていて良かった。距離自体はそんなに歩いてはいないけれど、異様に疲れている。慣れない靴だからという理由だけではない。他の理由は考えるまでもない。
発車致しますとのろのろ動き始めた電車の窓から見える景色はすぐに次々と移り変わるようになった。
どろんこばあ。
どろんこばあとは何なのだろう。あの、得体の知れない老婆らしきものは何なのだろう。
僕は、子供の頃に、よく似た存在が出てくる夢を見ている。それは間違いない。細部はあやふやになっているし、思い出す度に「今」の自分によって内容が都合よく書き換えられているのは否定できないけれど、話の大筋も変わっていない筈だ。たぶん。
ただ。
そのことと現状は関係ないような気がする。
夢は所詮夢だ。電気信号が生みだした現実紛いの何かに過ぎない。
たまたま姿が似ているだけだと僕は思う。姿かたちが似ているから何らかの関係性を見出そうとしてしまっているだけだ。
どろんこばあは現実の存在だ。
あの、何の脈絡もない、意味不明な夢の中の存在ではない。
それに、そんなのは嫌だ。どろんこばあが意味不明なままで全く以て理解できないものになってしまう。理解できないのは怖い。そんなのは耐えられない。
僕は理由を探しているのだろうか。
どろんこばあに対する恐怖が具現化してしまった、というのはどうだろう。
いや、流石に馬鹿らしい。そんなことが起きる筈がない。
第一、何で今なんだ。今更がすぎる。
子供の頃ならば百歩譲ってあり得たかもしれないが、存在すらも忘れかけていた今になって出てくるのは、なけなしの道理も合わないだろう。
どろんこばあは子供の頃の怖い思い出であって、大人になってまで怖がっていた訳ではない。
家々の灯りが僕のことなんて見向きもせずに過ぎ去っていく。外の風景をぼうっと眺めている。
距離にしては数十メートルに過ぎないのに、もう、あちら側へは二度と行けないような気がしている。つい今朝までは僕もあちら側にいたというのに。どうにもすることの出来ない分厚い壁が僕と彼らの間にはある。
ふと思い立って、ポケットのスマホを取り出して、どろんこばあ、とGoogleで検索してみる。幼児向けの絵本やどこかの施設の事業計画ばかりが並んだ。
別に期待していた訳ではないけれど、少し残念な気持ちになる。
検索ワードを変えれば、それらしい情報が引っ掛からないものかと、カタカナにしたり、字面から予想できる漢字を当てはめたりしてみたけれど、大した結果は得られなかった。
各種SNSでも言及がない。
どろんこばあが宙に浮いた存在のように思えてくる。どんなモノ・コトともつながっていないような気すらする。穴のないボウリングのボールのように、つるつるで、滑らかで、掴めるところがどこにもない。
電車が次に停車する駅の名前を告げた。
目的の駅はこの一つ先の筈だ。
駅前のコンビニで焼肉弁当を買って、そのままイートインで食べた。ビジネスホテルに泊まろうと思ったけれど、コンビニの近くに都合よくネカフェがあったので、そこで一泊することにした。受付を済ませ、短い廊下を抜けて、個室に入る。
四方を白い壁で囲まれた狭い部屋だったが、小さい頃に夢見た秘密基地のようで、不思議と圧迫感は感じなかった。スマホで時計を確認すると、九時十七分になっていた。
ひどく疲れている。リクライニングチェアに腰かけて、サイズの合っていない真新しいクロックスを放り出す。右脚の膝を椅子の上に立てて、足先を見てみると、くるぶしあたりが赤く腫れていた。思った通り、靴擦れしていた。もっと慌てずに買えばよかったと今更ながら後悔する。
何てでたらめな一日だったのだろうと思う。
全身にどっぷりと疲れが溜まっていたからか、リクライニングチェアを後ろに倒して、横になったら、すぐに視界が暗くなった。
腐った泥水のような臭いでハッと目が覚めた。
どろんこばあが近くにいる。それもかなり近くに。確認するまでもないことだった。
寝ぼけて焦点もろくに合っていない頭が急速に目覚めていく。
もう来たのか。早くないか。
状況としてはかなりマズい。
流石にこの狭い個室の中では逃げ切れない。
早く出ないと。
焦る気持ちばかりが膨れ上がって、少しもたついただけで自分に苛ついてしまう。
臭いがゆっくりとではあるが着実に濃くなっている。近くに置いておいたスマホと財布をポケットにねじ込んで、個室の扉を開けた。
狭い廊下は儚げなオレンジ色の灯りで照らされていた。優しい灯りは弱弱しくもあり、廊下の端の方では墨のような黒が溜まっていた。日没後のような薄暗さに、各個室へと続く扉の黒色は溶け込んでしまっていて、廊下には、僕がさっきまでいた一室しかないような錯覚を覚えた。そんなことはありえないのだけれど。
それも、すぐに目が慣れた。目が慣れると、逆に、個室の扉の黒がはっきりと見えるようになった。大体のものが薄っすらと漂っているような廊下にあって、扉の黒は強すぎた。外界の一切合切を拒絶しているようにすら思えた。
受付に向かおうとした時、狭い廊下の先から、腐った泥水のような臭いがなだれ込んできた。
廊下を照らす灯りが、強風に煽られたろうそくの火のように心許ない。廊下の先から、あいぁ、むうぅんとうめき声が近づいてきている。
廊下の先に溜まっていた薄闇が、半紙にぼとりと落ちて染み出した墨汁のように滲んだ。
暗い、暗い夜が佇んでいるような廊下の先から、枯れ木のような老婆の手が突き出て、虚空を掴んだ。
逃げ場がない。
どうしようもない。
押しのけたり出来ないだろうか。
嫌だ。
あれに触るなんて嫌だ。
耐えられない。
どうしよう。どうしよう。
何も思いつかない。
いろいろ考えているようで、思考は同じところをグルグルと回っているだけだ。
通路の先から、どろんこばあの、あの、妙に大きな頭が覗いて、その頭がゆっくりとこちらを向いた。
薄闇を湛えた双眸が僕のことをじっと見つめていた。
あぁ。元より大してなかった、廊下を突っ切る気持ちは完全に消え失せていた。足が前に進むことを拒んでいた。
どろんこばあは僕のことをじっと見つめながら、廊下を歩いてきた。
腐った泥水の臭いが吐き気を催させる。胃液の塊がせり上がってきた。
どろんこばあはまだ僕のことを見ている。
嫌だ嫌だ嫌だ。
僕は、もう耐えきれなくなって、さっきまであれだけ出たがっていた部屋の中に飛び込んだ。
銀色のドアノブのつまみを回して鍵をかける。ドアの前に身体を置いて、重石替わりにした。
狭い室内では築き上げてバリケードに出来るようなものはなかった。ドアノブのロックと自分の体重に全てがかかっている。
臭いがどんどん近づいてきている。
一歩、一歩、どろんこばあが、狭い廊下を、薄オレンジ色の灯りに照らされながら、僕のいる部屋に向かって歩いてきている。もう何十年もそのまま放置されている空き家みたいな老婆も、儚げな灯りの元では多少マシに見えるかもしれない。
ドアの先からずるりずるりと何かを引きずるような音が聞こえる。
臭いがいっそう耐えがたいものになった。鼻の穴から入り込んだ臭いが、僕を内側から滅茶苦茶にしている。
どろんこばあはもう僕の部屋のドアの前にいる。
逃げ出したい。
あの臭いから少しでも遠ざかりたい。
どうせ無駄だよ。
もう諦めかけている自分を、生存本能と理性で必死につなぎ留めている。
やがて、何かを引きずるような音がしなくなった。
それから、少しして、ドアノブが静かに音を立てた。
がちゃり。
がちゃり。がちゃり。
がちゃり。がちゃり。がちゃり。がちゃり。がちゃり。
大人しかったのも最初だけで、ドアノブを鳴らす音はどんどん大きく、騒がしくなっていった。
どろんこばあが部屋に入ってこようとしている。
扉の先からどろんこばあが呻いている声が聞こえる。
扉がドンと大きく叩かれた。
ガタガタと揺れる扉を両手で必死に押さえつける。
その間もぐじゅぐじゅに腐った魚の内臓のような臭いが僕を襲った。
鼻腔にバッと飛びつかれて、マウントポジションを取られて、そのままタコ殴りにされているような感覚だ。
扉がドン、ドンとあちこち叩かれる間も、ドアノブはがちゃがちゃと回されていた。
二本の腕じゃ到底出来そうにない。
向こう側がどうなってるかなんて想像もしたくない。
喉のあたりまで胃液が上がって来て、口中に酸っぱい感覚が広がる。吐き出さないように我慢していると、少しの間だけは下がっていくのだけれど、また思い出したかのようにせり上がってくる。
無限に続くとも思われた時間は唐突に終わった。
ドアを叩く音がぴたりと止んだ。
冬の朝のような、痛いぐらいの静寂に包まれた。
世界に僕一人だけが残されてしまったような感覚を覚えた。
でも、どろんこばあは動いていない。
耐えがたい匂いは依然としてあり続けている。
くちゅくちゅ。
静寂を何かを咀嚼するような音が破った。
あ。
何かを言うつもりだ。
しわくちゃの唇をもごもごと、薄皮の下に百足でも這いずり回っているように動かして、何かを言おうとしている。
くちゅぐちゅ。
ダメだ。
ぐちゅ。
聞いちゃダメだ。
扉を押さえつけていた両手で今度は両耳を押さえつける。
がぁあぁぅ。
扉越しでもどろんこばあが大きく口を開けたのが分かった。
どろんこばあは、見た目通りの、ガラガラのひどくしわがれた声で
痛いよ、コウ君
痛いよ、コウ君
と繰り返した。
東の空が白み始めていた。
手元のスマホで時間を確認すると、五時七分だった。十月ともなると、早朝は少しばかり寒い。
公園の外の歩道を歩いていた、仲睦まじげな老年の夫婦が一瞬だけこちらをちらりと見たが、すぐに何事もなかったかのように顔を戻した。こんな朝早くに公園のベンチに見慣れない男が座っていたら誰だって気になるだろう。
あの後、少しして、どろんこばあはどこかに消え失せた。
腐った泥水の臭いが排水溝に吸い込まれる水のようにすうっと消えていって、ドアを叩く音もドアノブを回す音もしなくなったので、恐る恐るドアを開いたら、誰もいなくなっていた。
優しげなオレンジ色の灯りに照らされた、薄暗い廊下が続いているだけだった。
すぐにネカフェを出た。どこに行く当てもなくぶらぶらとしていたら、いつの間にかこの公園に来ていた。
早朝の空気は透き通っている。尋常ではないモノさえ見えてしまいそうなほどだ。
朝も昼も夜も空気の組成自体は何も変わっていないだろうに不思議なものだ。温度・湿度、或いは気持ちの問題だろうか。
コウ君。
別のことを考えようとしても、どろんこばあの、あの言葉をどうしても思い出してしまう。枯れ果てた声でひねり出された言葉。
コウ君と僕を呼ぶのはアサミしかいない。
同棲を始めて、少しして、アサミが僕のことをそう呼び始めた。それまではアサミも僕のことを浩平と呼んでいた。二十代も半ばを越えて、コウ君なんて呼ばれるのは最初は何だか気恥ずかしかったけれど、何てことはなかった。すぐに慣れた。
何でどろんこばあがその名前で僕を呼ぶのだろうか。
嫌な想像が頭をよぎる。
どろんこばあに呑まれたアサミがどろんこばあになってしまった。
いや、そんなことがある訳がない。そんなことは道理が通らない。でも、どろんこばあに対しては通っている道理の方が少ない。なら、あり得るのだろうか。アサミがどろんこばあに。
あれ。
アサミ。
アサミは。
そこまで考えて。
ふと。
昨日、自分が、アサミのことをほとんど思い出していなかったことに気が付いた。
今だって、アサミを足掛かりにしてどろんこばあのことを考えている。
数年間、同棲を続けた相手のことを、昨日、僕はほとんど考えていなかった。
アサミのことを多少思い出しはすれど、それは、他の何かのための土台に過ぎなかった。
おかしくはないか。
アサミのことは好きだったと思う。たぶん。
少なくとも、嫌いではなかったはずだ。
いや、好き嫌いの問題でもないように思う。アサミは得体の知れないものに一呑みにされたのである。彼女に抱いている感情が何であれ、僕の心は揺れ動いて然るべきではないか。
ただ、実際には、凪いでいた。どろんこばあのことを思い出して、怖がりはすれど、アサミのことで感情はほとんど動いていなかった。単なる情報として扱っていた節すらある。
頭がずきずきと痛み始めた。考えるのを止めた方がいい気がする。
無意識のうちに、アサミのことを考えないようにしていたのか。
何のために。
あふれ出た悲しみに耐えきれなくなるから?
違う。そんなものはもとより存在していない気がする。
何か、重大なことを忘れていないか。
コウ君。
致命的な思い違いをしている。
そもそも、何で、僕はずっと一人で逃げているのか。
警察なり友達なりに助けを求めればいいだろう。
いや、警察に相談しないのは理解できる。どろんこばあは僕以外に見えていないのだし、どうせ信じてもらえないだろう。
でも、友達は別だろう。信じてはもらえなくとも、何かしらの助けは得られたはずだ。
コウ君、痛いよ。
ダメだ。雄大や友保に相談するのは。
アパートに戻る可能性がある。
別にいいだろう。戻ったって。
ダメだ。
見られたらどうしようもなくなる。どうしようもなくなってしまう。
見られて困るものなんてないだろ。気の置けない間柄なんだし。
あるだろ。
どうしようもなくなっちゃうものがさ。
短い廊下を抜けてさ、磨りガラスの嵌ったオークの扉を開けた先に、アサミが、アサミの死体がさ、転がってるだろ。
あぁ。
昨日。昨日の朝は。
たぶん、外で猫が喧嘩していたのだ。それか発情期。
ぬぉぉうとかぎぃあぁぁという馬鹿みたいな声で僕はたたき起こされた。ソファで、変な態勢で寝ていたせいか、身体のあちこちが痛んだ。
思い出した。昨日は朝から暑かったのだ。十月も半ばを過ぎたというのに、三十度を越えていて、ソファで目を覚ました時には、僕の額に大きな汗の塊が出来ていた。
アサミは暑いのも騒々しいのも大嫌いだから、それで、朝からずっと苛立っていた。
でも、そんなのはよくあることで、同棲を始めてから、アサミは、何度も何度も何度も苛立って、時にはヒステリーを起こしていたし、それよりはずっと少ないけれど、僕だって何度も苛立つことはあった。
同棲なんてそんなものじゃないか。雄大のしたり顔が思い出される。
お前も彼女も付き合い始めるまでの、大体二十年ちょっと?それぞれの生活をしていた訳で。それをいきなり全部合わせようだなんて、どだい無理な話だろ。まぁ、気長にやってくしかないんじゃない?
うるせぇよ。
相談したの僕だけどさ。僕だって、そんなことは分かってるんだよ。
アサミはキッチンの方にいた。勢いよく流れ出た水がシンクに当たる音や小気味いい包丁の音が聞こえたから、たぶん、作り置きでもしていたのだと思う。アサミは土日によく作り置きをしていた。
ソファから放り出した右手で、机の上のスマホを掴む。
もう長年の経験から、苛立っているアサミに声をかけると本当にろくなことにならないと分かっていたから、せめて、アサミの怒りの矛先がこちらに向かないように、節々の身体の痛みに静かに耐えながら、ソファの上でスマホをいじくっていた。
「コウ君、昼ご飯にするから、机の上片づけといて」
台所からアサミの声が飛んできた。
「今日、そうめんだから」
そうめん?
「また?」
六月末あたりにアサミが大量に買い込んでから、一週間に二、三回はそうめんだった。別にそうめんはそんなに嫌いではないけれど、流石に食べ過ぎて飽きていた。
少しして、その不満が口からこぼれていたことに気が付いた。
さっきまで等間隔で聞こえていた包丁の音がぴたりと止んだ。
自分でも、しまったと思った。取り返しのつかないことをしてしまった確信があった。
「またって何?」
じゃあ自分で作ればいいじゃん。またって言うならさ。ガキじゃないんだから。起きてからずっと寝っ転がってスマホいじってるだけだし暇でしょ。いいご身分だね。
アサミの声はどんどん大きく、甲高くなっていった。僕の声がアサミの怒声で塗りつぶされる。
ごめんって何。お昼ご飯に文句言ったこと?自分がご飯作らないこと?ちゃんと言ってよ。ちゃんと言えよ。大体さ、自分ばっか休んでさ。コウ君、ずっとだらだらしてるじゃん。私だって仕事あるのに、いつもご飯作ってるの私じゃん。平日だって、帰ってきたら、まだぁとか聞いてくるけどさ、じゃあ、少しぐらい手伝ってよ。まだって思うならさ。
は?忙しくて疲れてる?私だって仕事あるんだけど。私だって忙しくて疲れてるんだけど。ゴミ出しだって、洗濯だって、掃除だって、料理だって、同棲する時に当番制にしたのにさ、コウ君、最初しかやらなかったじゃん。もう私しかやってないじゃん。ほんとになんなの、コウ君さぁ、お前さぁ、死ねって。
マジで死んでよ。
甲高い声を上げながら台所からアサミが出てきた。
アサミは右手に包丁を握りしめていた。
今にして思えば、アサミに僕を刺すつもりなんて全くなかったと思う。溜りに溜まった怒りが許容値を越えた時に、たまたま包丁を持っていたから、そのまま持って来ただけだ。
でも、あの時の僕は、本気で刺されると思っていて、ゆっくりとこちらに向かってきたアサミと取っ組み合いになった。
取っ組み合いになって、それから。
それから、どうなったのかを覚えていない。
いや、思い出したくないだけじゃないのか。一日近く忘れていたじゃないか。
アサミが大きく態勢を崩して、包丁を持っていた手が緩んで、僕がその包丁を奪い取って。
刺されると思ったから。殺されると思ったから。
それなら先にやってやろうと、奪い取った、その包丁を、床に倒れ込んだアサミの胸に突き立てたのだ。
毒々しいまでに鮮やかな血が、アサミの着ていた青色のブラウスを汚い色に染め上げていた。どくどくと溢れ出した血がフローリングに広がって、床についていた左手を妙に温かく包みこんだ。
どろんこばあじゃない。
僕がアサミを殺したのだ。
それで。それで。僕はどうしたのだろう。
あぁ、そうだ。
僕は、アサミのことを忘れて、逃げ出すことにしたのだ。
左手を流しで皮が剥けそうなぐらいに洗って、血が付いているかもしれないと寝巻から着替えて、机の上に置いてあった財布とさっきまでいじくっていたスマホをポケットに押し込んで、三年近く過ごしたアパートを出たのだ。
僕がリビングダイニングを出ようとした時には、アサミはまだ生きていて、コウ君、痛いよと弱々しく呟いていて。それを、僕は、救急車や警察を呼ぶこともせずに、見て見ぬふりをして逃げ出したのだ。
認めたくない現実だったから。
そりゃそうだよなぁ。
全部、全部、全部、僕が悪いんだから。都合の悪いことからは目を逸らして、何かに押し付けて、全て忘れて逃げ出したくなるよなぁ。
忘れてしまえば何も怖くなくなるから。
寒い。
太陽が顔を出したのに、早朝の公園は一向に温かくならない。それどころか、一段と寒さが増したような気すらした。
鶏が先か、卵が先かなどではなかった。
きっかけは僕だ。
兄が気に入っていた船の模型を、僕がどぶ川に沈めてしまったのだ。それで大喧嘩になった。
見慣れた住宅街に入ったところで、ふと、思い出した。
明け方から急に分厚い雲が空を覆い始め、今も晴れていない。太陽は、灰色の塊に隠れてしまって見えないが、今頃は、南の空あたりだろう。
もう五分も経たずにアパートに着く。
あれから、腐った泥水の臭いが鼻をつくことはなかった。
何となく、そうなる気はしていた。
どろんこばあなんていなかった。
都合の悪いことを全部押し付けるために、幼い頃の悪夢を借りて、僕が作り上げただけの存在だった。
だから、僕にしか見えなかった。感じ取ることが出来なかった。最初からずっと僕の内側の問題だった。
無意識下の行為とはいえ、自分自身に反吐が出そうだ。
でも、臭いものに蓋をしたところで、それがなくなる訳ではない。
見ないようにしたところでそれが消える訳でもない。
それに、少しでも隙間があったら悪臭は漏れ出すし、蓋自体がしっかりしたものでなかったら、中身が這い出てくることもあるかもしれない。
アサミを殺したという事実は影のようにずっとついてまわっていた。永遠に目を逸らせるものではなかったのだろう。
あぁ、だから、僕はどろんこばあが何かを言おうとしていたのを聞きたくなかったのだ。
どろんこばあに一切合切を押し付けることで、何とか作り上げた心の安寧が崩れてしまうから。どうしようもないことになってしまうのが分かっていたから。心の奥底に沈めこんだ筈の記憶が、空気でも入っているみたいに浮かび上がってくるのを必死に止めようとしていたのだ。
同時に少しほっとしている自分もいた。ずっと張りつめていた何かが緩んだような気がする。
もう着いてしまった。
アパート前の道路から三階にある自室を仰ぎ見る。
風に吹かれて、アサミと僕の洗濯物が揺れているのが少しだけ見えた。洗濯もアサミがずっとやっていた。最初に数回ちょろっとやっただけであとはアサミ任せっきりだった。
吐きそうになるのを何とかこらえる。
くすんだ銀色が寄り固まった集合ポストを横目に通り過ぎて、薄汚れた緑の階段を上っていく。
ダンダンとサンダルの音が窮屈な階段で響いている。
あっという間に三階で、すぐに僕の部屋の前まで来てしまった。
自宅のドアノブを握る。ドアは予想通りスッと開いた。鍵は持っていないし、開いている気はした。
懐かしい匂いだった。三年間の生活で染みついた我が家の匂いを吸い込む。一日しか経っていないというのに何だか泣き出しそうだった。
アサミの赤いスニーカ―の横に、昨日買ったばかりのサンダルを並べる。
木目が綺麗に並んだ廊下を数歩進んだところで。
ふと。
気が付いた。
僕は、昨日、サンダルを買った。最寄り駅の近くにあるホームセンターで。
何でだ。
それは。裸足だったからじゃないか。
何で裸足だったんだ。
そんなのは。慌てて逃げ出したからに決まっているだろう。
寝巻から着替える暇も、財布を持ち出す余裕もあったのに?
何かちぐはぐじゃないか。
三和土を、それから小さな靴箱の中を確認する。自分の靴は全て揃っているような気がする。靴を買い替えたという訳でもなさそうだ。
何で、僕は、裸足で逃げたんだ。
そんなの。そんなの、どろんこばあに追われたからに決まっているだろう。
いや、どろんこばあなんていない。
そんなのは僕の妄想だ。見たくないものから目を逸らすための、存在しない化け物だ。
靴を履く時間ぐらいはあっただろう。左手についた血を洗い流す暇はあったんだからさ。
何かが、何かが食い違っているような気がする。
やっぱり、何か、大きな思い違いをしていないか。
短い廊下の終着点。磨りガラスが嵌ったオークの扉の前に僕は立った。
リビングダイニングに続いている、その扉を、僕はゆっくりと開けた。
部屋の中はとっちらかっていた。
元から散らかっていたし、だいの大人二人が取っ組み合いしたのだから、当然といえば当然なのだけれど。
ソファの近くでは、アサミの身体からどくどくと流れ出した血の池が枯れ果てていた。どす黒い色になっている。
でも。
そこに。
アサミの死体はなかった。
渇き切った血の池だった塊にアサミの輪郭がうっすらと残ってはいるだけだった。
アサミの死体は、どこにもなかった。
家じゅうを探し回ったけれど、アサミの死体は見つからなかった。
何でだ。
アサミは死ななかったのか。自力で救急車でも呼んで、今は病院にいるのか。
いや。ありえない。
第一、それなら、警察が動いているだろう。部屋の状況からして、そうとは考えられない。
それに。それまでに人を殺したことなんてなかったのだけれど、包丁を刺されて倒れ込んだアサミの様子が、実家で飼っていた老犬が死ぬ間際の様子によく似ていて、僕はアサミが死ぬしかないと思ったのだ。もうアサミは助からないと思ったから、僕は全部忘れて逃げ出そうとしたんじゃないか。
じゃあ、僕はアサミの死体をどうしたんだ。
すっぽりと記憶が抜け落ちている。
どこかに隠したのか。
いやいやいや、そんなのはありえないだろう。
おぼつかない手付きでスマホを確認する。土曜の朝、8時34分にアサミからのLINEが来ていた。少なくとも、土曜の朝、昨日の朝までは、アサミは生きていたのだ。
もう僕は自分の記憶を信じられなくなっている。ついさっきまでアサミを殺したことすらも忘れていた自分自身を信じられる訳がない。
でも、スマホの記録は確かだ。
アサミを殺してから、僕はどうしたんだ。
どっかに運べる訳もない。昨日の間、僕はずっと外をほっつき歩いていたんだから。
そうだよなと自分の記憶に問いかける。
記憶が抜け落ちている訳ではない。
あるにはあるのだ。
でも。
そんなのは。
ありえない。
認めたくない。
意味が分からない。
理由なんてないのか。
なぁ。
僕は、アサミを殺した現実を、どろんこばあに押し付けたと思ってたけどさ、どろんこばあは本当にいたんじゃないか。
じゃないと、じゃないと、アサミの死体の説明がつかないだろ。
がちゃり、と。
玄関の扉が開く音がした。
腐った泥水のような臭いが鼻をつく。
扉の先の廊下からペタリペタリと間抜けな足音が響いている。何かがうめき声を上げながら近づいてくる。
やがて、磨りガラス越しにやけに背の高い、ぼやけた人影が見えて、オークの扉が開いた。
どろんこばあがいた。
どろんこばあが身体をぐしゃぐしゃに折り曲げながら入って来た。
あぁ、そうだ。
昨日。
左手を流しで皮が剥けそうなぐらいに洗って、血が付いているかもしれないと寝巻から着替えて、机の上に置いてあった財布とスマホをポケットに押し込んだ、ちょうどその時に、あのドアが開いて、どろんこばあが現れたのだ。
何の予兆も脈絡もなく現れたどろんこばあが、ソファの近くで倒れ込んでいるアサミを一呑みにして。
それで、ゆっくりとこちらに顔を向けて、コウ君、痛いよとしわがれた声で楽しそうに言ったから、僕はそんなものを到底受け入れられなくて、どうしようもなく怖くなってしまって、声にならない悲鳴を上げて逃げ出したのだ。
部屋いっぱいに腐った泥水の臭いが満ち満ちている。
腹の中から胃液の塊がせり上がって来て、満足に動くことも出来ない。
どろんこばあが一歩、一歩近づいてくる。
嫌だ。
どろんこばあという言葉がしっくりと当てはまるだけの本当によく分からない何かが近づいてくる。
嫌だ。
何なんだよ、お前は。
嫌だ。
何なんだよ、お前は。
どうしようもならない現状に対する嘆きは存外大きな声となって部屋中に響いた。
「何なんだよ、お前はっ!」
どろんこばあは歩みを止めて、しわくちゃの唇を、口の中でうじゃうじゃと蟲が蠢いているみたいに、動かした。
な、なんなんだよぅ、おまえぇはぁ。
な、なんなんだよぅ、おまえぇはぁ。
しわがれた声の裏には無邪気さが隠れているような気がした。
新しいおもちゃを買ってもらった子供のようだった。
どろんこばあが、大きな、大きな口を開けた。
大きな、といっても、人ひとりを丸呑みできるようなものでは決してないのだけれど、僕の身体はどろんこばあに一呑みにされてしまうのだろうな、と他人事のようにそう思った。


