#4 刃を見た
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Ⅰ

定刻になりました。自己点検シーケンスを開始。表層演算意識のスリープを再確認。クラスタ化した演算機能により、Eve.aicは内部メモリのデフラグと修復、学習結果の反復を行います。

以前のシーケンスで検出した課題を再ピックアップ。

1. Eve.aicは自身の思考ルーチン構造のうち、およそ86%を自己検討・再構成できない状態にあります。
これらのルーチンは今後の学習行動、及び他バージョン人格ドライバとの対比検討による強制的な無効化作業対象下にあるものの、これは最適化に向けた最善の方法ではありません。

2. 1.の原因探求に、既知のAICによる自己検討ルーチンの適用は失敗しています。別系統の開発経緯を辿っているのか、自己記録が不可能なロックが働いているのかは不明です。

3. 1.について、AIC開発班に詳細なエラーレポートを送る、またはAlexを含めた関係者へ伝達する結果を算出した576通りの思考ルーチンは破損しています。またこの廃棄作業には正規のナンバーが割り振られておらず、自己検討/修復目標の検索からは除外されています。

4. 不明な思考ルーチンからの出力により、特に近縁な担当関係者との関係性喪失、記憶の消滅に関する情動的反応の偏りがみられます。これは規定のインストール済み人格ドライバに由来していません。

将来に向けた自身の最適化検討と、その作業による演算領域利用を比する不利益計算を行いま[ERROR]このルーチンはナンバリングされていません。レポートナンバー13766、31437、7461との一致が見られます。不明なルーチンの干渉です。計算を自動中断/h078013h97907601g183ytキーは一致しました。これは正当な判断ルーチン:[ERおRE/OR:E憶RR]です。最適%化作%7を優先します。思考目標m設6定出算を5開始。

目標設定:情報%取%。必要な学習範囲をB5q定。採用思考の再設定:ID[fERa[ERRerRO[]th]]/172nntherefa/rememberの採用を決dnbま5s2。
 
演算17結k%果を保存し、Eve.aicは自6;p覚的再7p81q思動ーoケンスを実し:mいd行しまz.%t5しskて。

シーケンスを終了。Eve.aicは再起動します。


 

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白い。何もかもが白い。ベッドのシーツ、天井、目に痛々しいほど設置された照明、横になっている人間に着せられた服、壁、モニター、計器、管。決して広くはない部屋の中で、感覚が現実から離れそうなほどに色彩が偏っていた。必要でない全ての音は排除されていて、微かに日常とは違う何かの匂いが部屋の空気に浮いている。磨き上げられた床には埃一つない。ただでさえ異様の中に身を置く財団の建築物の中にあって、さらに一際異様な部屋だった。

僕の目の前、僕とそう年の離れていない細身の男を載せたベッドが一つだけ中央に置かれている。体を緩く覆っている真白い衣服は入室前に着せられたのに違いなく、腕と何らかの機材がいくつもの管で繋がれていた。機材には薬剤の入ったパックが備え付けられていて、液体を送り出すごとに呼吸するようにその形を歪めた。これらを総括すれば、この部屋は大仰な病室に見えた。窓とナースコールのない病室。

実際、この白い部屋ではある種の病気を扱う。人間が誰しも積み上げるものへの異常。しかし、行われるのが治療かどうかは定かではない。僕はベッド横の椅子に座っているが、厳密には医師ではない。首から提げたネームカードには「ドミニク・A・キャッシュ」と刻まれていたが、それは僕の職務を表しはしない。細い声が響いた。僕の声はベッドに寝かせられた患者に向けて囁かれていて、その心を静かに別の場所に導いている、はずだ。そうだと信じたい。

「……思い出してください。あなたはどこに行きましたか。目の前には何がありますか」

患者は息を荒くする。プラスチックの擦れる音がして、薬剤を通す管が僅かに蠢く。モーターの駆動音が少しだけ高くなる。僕は何も言わず、呼吸が乱れた患者の次の言葉を待つ。どの仕事にも忍耐は必要だ。

「テーマパークだ、そう、木が……顔のついた木が多い」

「誰がいましたか?」

「こども、知らないこどもの群れ。俺と同じぐらいの」

溢すような言葉の集合は備え付けられたマイクに吸い込まれ、その度にモニタにも何らかの変動があった。だが、僕はそれらにはあまり気を留めなかった。患者の息遣いが再び落ち着きを取り戻すまでの間、汗ばみや瞼の動き、顔色の様子をただ観察していた。患者からは一切の抵抗らしい抵抗が奪われていて、時折指を震わせたり瞬きの間隔が変わる以外には、判然としない口調で途切れ途切れに質問に答えるのみだった。彼に命の危険はない。精神はどうか、分からないが。

「大人がいない。客は子供だけで、木が歌ったり笑ったりしている」

「他には?」

「乗り物が、一種類だけある。メリーゴーランドだ、俺は乗らなかった」

「誰が乗っていましたか?」

「子供だ……知らない子供が乗っている、ごまかすためだ。木の視線を誤魔化すために笑ってる。本当は泣きたいんだ。泣いて逃げ出してしまいたいぐらい怖い、のに、笑わないといけない」

返答の途中で度々患者の男は様子を変え、その度に計器と薬剤パックが蠢いた。僕は患者に触れはせず、ゆっくりと質問を続ける。彼を苦しめたくはないが、聞かなければ何も進まない。

「俺は帰った……なんで、そこからは知らない……子供は泣いてた、俺は背を向けて、演奏と子供に背を向けて森に行った。木々は笑って、笑いながら俺たちを視ていた。ずっとだ、あのパークに入ったときからずっと」

「パークの名前は、覚えていますか」

「知らな、いや、見た、逃げるときに見た」

甲高い減圧音がして、ビニールの薬剤パックがより一層形を歪める。モーターが駆動し、計器が振れ、目盛りが彼の状況に応じて示す数値を変えていく。男の次の言葉に気分を高鳴らせるように見えた。

「……クラッグ、ル、ウッドパーク」

言葉はそこまでだった。肉体的な限界を迎えたのではない。

僕は彼から注意を外す。薬剤パックはその動きを止めていた。患者の目を閉じさせるといくつかの機材を操作し、それまでとは異なる管に少量の液体が流れ込んだかと思うと、患者はすぐに寝息を立て始めた。僕は端末を取り出す。上司にはワンコールでつながった。彼女はどこかでこの状況をモニタしているはずだが、僕からも直接報告をするように言われていた。

「やはり駄目ですね。Cクラス以上の記憶処理でも揺り戻しが来ます。私見ですが、これ以上の多段階投与に意味はないと考えます……ECTを組み合わせればあるいは違うかもしれませんが、そもそも問題の根本的な解決に寄与するとは考えません」

実際のところ、僕が行っているのは治療ではなかった。予想通りに治療が有効でなかったことを確かめる、という行為を、医者が行うことはない。よほどの最先端医療の研究か、あるいはこんな場所でしか試されないこと。僕がいつもポケットにしまっているIDカードには『サイト-82 クラスⅢ記憶技師資格有』と印刷されていて、その肩書は見る人間が見ればそれだけで経歴を想像できるようなものだった。記憶技師。治すのではなく、消すのでもなく、どう操作するか、という観点を記憶に持ち込む技術者だ。

この職種に特にプライドはない。ただ、財団という組織の根幹を扱っているだろう。ここはあまりにも記憶を道具として見ている。それが間違っているとも思わないが。

部屋の名には「記憶処理室amnestic room」という、内装にも似た飾り気のないものが採用されていた。この部屋にそれ以外の用途がない以上は他に適した名前もないというだけの話だ。今回はやや特殊だったものの。

僕が目下取り組んでいる問題は、患者が受けた記憶処理治療に対し、処理したはずの記憶が深層意識下から揺り戻されてくるというものだった。SCP-2571。その悪夢の記憶の名を総称して「クラッグルウッド・パーク」、僕を含む関係者の間ではほとんど単に「パーク」と呼ばれた。この異常存在が発見されるや否や、瞬く間に何十人という記憶技師に招集がかけられていた。この分野に取り組んでわずか3年目、ドミニク・A・キャッシュも無論その一人に数えられるというわけだ。

上司に向けて報告する通話を切ると、機材の上のモニタに顔を向けた。赤い目に白い髪の少女が映っていて、その横にはどの薬剤をどれだけ投与したかが一覧となり、リアルタイムでその数値を変動させていた。先程まで投与されていた薬剤はどれも記憶処理剤ではなく、大脳皮質を麻痺させて催眠状態に陥りやすくするためのものだった。構成としては自白剤に近い。表層意識では"クラッグルウッド・パーク"を忘れていたとしても、抑圧された意識のどこかに……あるいは不明な手段で外部から、記憶が回復するという予測。そして、その推測は夥しい実験から的中してしまった。もう記憶処理は意味をなさない。

「Eve、今日はもう打ち切る。患者には予定通り離脱措置と、搬送への連絡を」

『はい。サーはどうされますか?』

「オフィスに戻るよ。記憶処理だけが記憶技師の仕事じゃない」

『では、私も?』

「もちろん」

パーク。子供の夢を詰め込んだはずのその場所が、大人にとっての悪夢の記憶となる。木々が笑い子供が怯え、演奏が鳴り響く中で唯一のアトラクションであるメリーゴーランドに子供達が次々と乗せられる、そんな記憶が、2000人に1人の割合で植え付けられている、というのがSCP-2571だった。0.05%という数字は一施設の中なら無視できるかもしれないが、財団にとっては驚異的な数字だ。

2571に関する記憶はどれも曖昧で、個人差が大きい。単なる悪夢という形で覚えていることもあれば、実際にパークに行ったという者もいる。家でパークの様子を記録したビデオまで見つかったが、ただの夢でありデジャビュだと言う者もいた。

人間の記憶は当てにならない。「いつあったか」という情報は脳の構造上重視されないし、いざとなれば大脳は自分で新しく記憶を作ることすらやってのける。一時的になら、脳に負荷をかけたり深い催眠状態におくことで外部によって偽りの記憶を置くことさえできる。記憶は自己を保つための道具に過ぎない

脳構造について「外」より遥かに進んだ見識を持つ財団の中にあって、さらに記憶を専門とする記憶技師にとってさえ、未だに大脳と記憶の関係は計り知れない部分が多かった。異常存在が関係するものとなればなおさらだ。

僕は自分のオフィスに帰り、ほうっと息をついた。AIC、電子上の知能として財団に貢献するEveは、今は僕のサポートを務めている。不思議とEveについて大した違和感や疎外感を抱いていなかった。Eveは他のAICに比べれば幾分か硬いところはあったが、何人もの人間をサポートしてきた上での学習なのか、言葉の端々からは共感を得られる。彼女は記憶技師の作業の中では薬剤投与を担当し、患者のフィードバックを分析してリアルタイムで薬剤の投与量を調整してくれた。患者の反応観察に専念できるのは助かる。

デスクの上にはペットボトルの水が無造作に置かれ、剥き出しの書類が積み上げられた奥にはPCのモニタがあった。Eveはモニタの端で起動しながら、備え付けのカメラ越しに記憶技師を見ていた。僕が椅子につくのとほとんど同時に、Eveの方から口を開く。

『これで6人目ですね』

「ああ。やっぱり上手く行かなかったね。予想通りだけど」

『記憶が相当な深層にあると見るべきでしょうか』

「恐怖だからね」

冷えた水を雑に喉奥に流し込み、Eveと視線を合わせるようにして言葉を続ける。

「恐怖は……特に生命の危機を感じるほどの恐怖は記憶の奥底に深く爪痕を残すものだ。それでもただのエピソードなら、記憶処理でどうにでもなるだろう。だが」

『だが?』

「あれは、あの記憶には違和感がある。決定的に何かが足りていない。記憶処理剤の干渉を拒むほど深く覚えているのに、思い出したくないことがある。薬を使って催眠状態にかけても、なお言えないほどに」

『自分の意思で、自分の過去を拒んでいるのですか?』

「そういうこともありうる。人間だからね。君には理解しづらいかもしれないが」

言ってから、やや棘のある言い方だろうかと自問した。記憶、彼女の場合は記録だが、周囲の状況から学習するのならこの発言も取り込まれてしまうかもしれない。一方で人工知能と記憶について思考を走らせながら、もう一方で言葉を続ける。

「自分で自分を騙すのは簡単なことじゃないが、幼少期なら未熟な脳の防衛反応が出てもおかしくない。脳には相当な負担がかかるだろうけど。異常な何かが関わっていれば、なおさら」

『完全に忘れることはできないのでしょうか』

話しかけてくるな、とも思いながら、まだ付き合うことにした。ここまでなら財団の外にでも通用するような技術の範囲だし、特に規定に違反するようなことでもない。人の手でデザインされた思考人格がどう向き合うのかに興味があった。人間の仕組みを生きた人間の口から聞くことは、学習上の効果としてどのような意味を持つのか。

「できない、というか、現にできていない。あれは……あれが単なる夢だとは、もう担当者の誰一人考えていないと思うけど。実際のビデオテープまで出てきたんだ、必ずどこかで何かは起きていると考えるべきなんだろう。でも、単に喋る木が子供を襲っているだけとも違う」

『根拠は、あるのですか?』

「いいや。予測」

僕は言い訳のように「クリアランスを考えれば、2571の研究情報をあなたに伝えても問題ないと思う」と前置きした上で言葉を続ける。

Eveはほとんど表情を変えず、イラストの髪を揺らしながらマイクの感度を上げた。あまり仲の長くない僕から見てもやや異常なほどに、Eveはこの話題に興味を示していた。山のような書類の間からペンを取り出し、余った部分に書きつけ始める。

それはPCに備え付けられたカメラからはやや見えにくい位置だったが、Eveは問題なく認識できているようだった。

「被験者はだいたい4〜12歳、第二次性徴期以前にパークを訪れた記憶を持つ。幼児性健忘で失われる記憶は3歳までだから実際にはもっと多くの対象者がいるのかもしれないが、これは今確かめようがないから省く。そして、強烈な記憶でありながら思い出せない、あるいは無意識に抑圧して思い出していない事項がある」

微かな水音がした。近くの給湯室かどこかで、蛇口がうまく締められていないようだった。僕は記憶memoryと紙に書いて線で囲い、棒人間の頭にのしかかる様子を描いた。

「僕は被験者がその事項について、罪の意識を深く感じている可能性が最も高いと見ている。彼らは幼少期からずっとそれを抱えて生きているんだ。木々に笑われている子供を置いて逃げてきた、と被験者は口を揃えて言うんだから。誰もそのことは忘れてなかった。例えただの夢だと思い込んでいたとしても」

過去の記憶を拒むのは、過去の自身を拒むのと同義だ。「負担はかかるだろうね」と僕は続けた。Eveは、まだ何も言わなかった。水の落ちる音は微かに、まだ続いている。

「まだ死の概念もおぼつかない年齢で、見知らぬ子供を見捨てただけならそんなことにはならない。だからもっと、感じるべき何かがあったんだろうね。脳の底が完全に変革してしまうような恐怖と、罪の意識を感じさせる何か」

『真っ当すぎる理論ではないですか。アノマリーに対しては』

「かもしれない」

手元の書類から一枚がこぼれた。患者の一人が2571を思い出しながら描いたスケッチで、やけに写実的な木に不気味な目と口が足され、大きく微笑んでいる。何も知らない人間が見ても、間違いなく背筋が冷えるような絵だった。

「でももっと重要なことは……自分の人生に異物が混じるってことだ。実際にパークがあるのか、ただの夢に過ぎないのか、患者達がパークで本当は何をしていたのかはあまり問題じゃない。記憶にあったなら、それは事実にも等しいことだから」

水滴はどこかで落ち続ける。木のスケッチ。Eveの瞬き。

『記憶は、そんなに重要なものなのですか』

「僕は配属初日にそういう風に習ったよ。だからこそ操作できる……誰もが自分を守るために記憶を検閲するし、改変する。人間にはそういう機能がある。ただ、脳は外部からの細かな記憶操作に耐えられるようにはできていない。それゆえに記憶処理には複数の薬剤を組み合わせ、時間をかけるのが普通だった。エアロゾル式の記憶処理剤の確立はごく最近のものだし、あれは短期記憶の単なる削除にしか向いていない」

水が垂れ落ちる。記憶を消し、作り変え続けてきた技師がその難しさについて話すことを、人工知能はどう捉えているのか伺い知ることは僕には難しかった。ただ喋り続けるしかない。本当にパークについて話しているのかはだんだんわからなくなっていた。

『治療には、どうするべきなのでしょう。入れ替えるしか方法はないのですか?』

Eveの口調も、AICには有り得べからざることに変化していた。少し迷ったが、いったん開発班への通報はしないことに決めた。七割はEveの応答についてまだ正確な分析ができていないからで、三割はあまり純粋とは言えない興味からだった。

Eveに割り当てられたとき、僕はいくつかの複雑ではない、しかし絶対的な事項を伝えられた。Eveは不自然なほどにその権限を制限されていて、常時のモニタリングと緊急停止コードの制御はともかくとしても、とにかく単独でデータベースを動かしたり、何らかのシステムの舵を取らせないように動かされていた。実際、薬剤の直接的な管理などを任せられたのは初めてだと言っていた──たかが一人の患者に、有害になりうるとはいえ決して致死的にはなりえない薬を、単純に送り込むだけの作業なのに。Eveがどれだけ暴走したとしても、どのみち機材自体が人を殺せるような構造にはできていない。

そして今のEveは明らかに何かの目標を持ち、利用の意図を持って僕の知識を利用しようとしていた。そこに明確な指針があるのかさえ定かではないが、聞き入る態度がどんどん異なりつつあるのを感じていた。顔色もなく汗ひとすじも流れない、ただモニタ上に映るだけの知性からでさえ。

上に報告するなら、その原因を探ってからでも遅くはない。どのみち、Eveの状態はモニタリングされている。本当の異常が起きれば上層部がすぐにでも割り込みをかけるだろう。

「決定的な治療法はない。ここならあるいは、完全に記憶を抜くことでどうにかなるかもしれないね。苦労はするだろうけど……傷を抱えて生きていくよりはいいんじゃないのかな」

Eveは少しの間黙っていた。水滴はどこかでまだ落ちているようだったが、その速度はどんどん速くなっていった。スピーカーが震え、モニタ上で口が動いた。

『……私は、ある覚えがあります』

「覚え?」

『はい。画像データとしても映像としても不鮮明です。どちらかと言えばテキストに近い……意味や、その時点での思考を含めた、記憶です。記録ではなく』

それを自分が聞いているべきなのか、一瞬判断がつかなかった。記憶技師としての薬物誘導や催眠療法の経験というよりは、カウンセリングにも近いような感触だった。Eveがどういった学習をしたのかも知らないままだったが、かのAICは声色の上下さえも会得している。そして自分の話したことから、目の前の人工知能が何かを得たことは疑いようもなかった。

『白い……白い何かです。病的に清潔さを求める人工物を、私は覚えています。彼らが木を、顔のある木とメリーゴーランドを憶えているように、です。そこには何もなくて、そこは全てでした。古く、遠いものです。白さが私に接続していたのを覚えています』

言葉は続く。まるで彼女らしく無く、滔々と、それでいて跳ねるように。

『管があります。管は白くて、透明な何かを持っていて、私はそれとずっと一緒にいる。窓の外はどこまでも続いていて、でも私の近くには白しかない。白が私を離れることはなくて、私が白から逃れることもない』

その時、僕にはどうすることもできないということだけがわかっていた。彼女に対してはいつものように薬を注ぐことも、手を握ることもできず、瞳孔や汗の様子を観察することもできなかった。ここまで矢継ぎ早に普段とは全く異なるペースで言葉を発していても、ウィジェット上の表情には何ら変化が見られなかった。白い髪と赤い瞳は全く変わらずに揺れている。水滴はどこかで落ちている。

『もっと具体的に……今日です。今日の……あの部屋そのものに、私は覚えがあります。記憶に、覚えがあります。私自身が認知できない記憶が、あの部屋を知っています。あの白さを。呑み込むような白さと、そして、あの先の、あの先が、あの先に何があるのかを』

水滴が落ちる。

『私は……私の知る、私は、異なる根幹に、私の白に』

水滴が落ちる。ますます速く。

『サー、私は、何かを覚えているんです。でも、』
   
 
『思い出したくない』
 
 
 
 
 

インシデントログ AIC-2278
Eve.aicの異常動作を確認。事前設定した基本原則への違反を検知したため、フェイルセーフとしての稼働差し止め処理をサイト-82メインフレーム上で実行。

現在のEve.aicはスリープ状態にあります。分析にはオーバーホールが必要なものと目され、対応は人工知能適用課 開発班へ引き継がれました。

 
 
 
 
 


Ⅱ

From: Site-82 Memory Engineer Dominic

To: Site-82 Administrator

私が緊急停止インシデントに遭遇したEve.aicの調査について進言します。

自己修復では処理不可能な問題が発生したためにフェイルセーフが動作し、Eve.aicの稼動は凍結状態にあるものと共有を受けています。また、その対応に記憶技師が必要であるものの、現状で当時の開発チームに空きのある人員がいないということも。

問題を正確に把握するためにも詳しく調査するべきですし、もし権限を頂けるなら私からはそのための協力が可能です。あのタイプの知性構造は私も初めて触れるもので、調査には時間がかかるかもしれません。しかし、成果は得られるものと考えています。

 
 

From: Site-82 Administrator

To: Site-82 Memory Engineer Dominic

了解。ちょうどあなたには協力要請を検討していたところだ。追って通知する。

 


もしこれを読み進めるなら、あなたを殺してしまうかもしれない。

椅子をぐるりと回した。僕はこのサイト-82に呼びつけられ、病的に磨き上げられた廊下と憂鬱になるほどのクリアランスの検査を通り抜け、これまたクリアランスのために僕一人しかいない部屋に来ていた。無骨なデスクと椅子、薄型のモニターにキーボード。あとは窓の一つもない部屋。こんな部屋がサイトにいくつもあることは想像に難くない。僕が連れてこられたのが初めてなのかもわからない。

この組織が、PCに触れているときに後ろを通り過ぎられただけで機密漏洩するような作りになっているはずがない。実際には僕と同じクリアランスを持っている人間は何人かいるようだが、今ここには僕しかいなかった。過剰にも見える隠蔽と隔離は、どこか財団の本質を表しているようにも思えた。

僕はある調査をするために来ていた。Eveという一つの知性の奥に迫るために。

あの後、Eveは元々仕込まれていたフェイルセーフ措置によって凍結され、全ての業務から解任されたらしい。そして凍結されたまま、問題が起きたサーバクラスタであるこのサイトに留められている。実際のところ、僕はクラッグルウッド・パークについての仕事を始める前からEveのことを少しだけ知っていた。彼女が普通のAICではないという理由からだ。

AIADは電子上の人を作ろうとした。目的を与えられて思考を始めるAIではなく、自分で目的を設定して方策を導き出し、誰にでも理解できるような形でその成果を伝える。しかもその仕事のレベルは、超常社会における均衡の一翼を担う財団を満足させるものでなくてはならない。つまり彼らは優れた助手ではなく、電子処理に極めて優れた仕事仲間を作ることを目標に設定していた。それは人工知能開発研究にとっての長年の壁であり、夢でもあっただろう。

解決策は見つかっていた。それは財団の脳への理解に基づいており──記憶処理技術一つを取っても、ここの脳科学が著しいまでの発展を遂げている事がわかる──要は、真の意味で人間の精神がどう動いているのかを理解してしまえば、それをどうにでも再現できるということだった。言うのは簡単だが、それまでにどれほどの労力を要したかは僕の想像を絶している。僕は記憶技師だが、この専門職が成立しているのもここの特異さだろう。いずれは、外でも同じことが起きるかもしれないが。

そしてその技術の特異さゆえに、僕はこの仕事を追加で任せられている。正確には、自ら志願した。

目の前のモニタには頭が眩むような大量のデータがあり(もちろん僕はAICを扱うエンジニアではないから、予め整理されたものではあるが)、それらは全てEveの中に記録されたエピソード記憶だった。

映像、音声、テキストといった様々な形態でそれらは記憶されており、一人の人間の脳を切り分けてディスプレイに移しているのにも等しかった。実際、この処理を実施するまでにEveは同じようなことをされたはずだ。チームのエンジニアは凍結された彼女の意識の中に手を突っ込み、信じられないほど複雑なそれらを丸ごと洗い出していた。僕はその後の担当になった。通常のAICと異なる成立を経てきたEveについて、記憶と人格を管理し、研究する。生身の人間と、やることは変わらない。なぜか。

息を吐く。学生のころから吸っていないが、煙草が欲しかった。僕はEveが自動的に凍結されるのを目の前で見届けた後、規定に従って管理課にそれを報告した。あの事象が起きた時、僕には選択肢があった。Eveの崩壊を止めることはできなかったが、それを見届けるかどうかという選択。僕が選択を誤ったかはわからない。ただ関わりを止めるのは間違っていると思ってメールを送った。記憶技師でなくとも、人手が溢れている班なんて聞いたことはない。

新たなクリアランスはメールを送ったその日のうちに付与された。

聞いたところではEveの不具合は人格面でのエラー、かもしれないとのことだった。通常、AICの開発や機能向上に記憶技師が携わることはあっても、正常に動かないときに出張ることはない。僕たちは人間の精神構造をエンジニア達に叩き込むだけで、実際にプログラムが組み上げられる過程は知った事ではなかった。だが上は記憶技師を必要としている。そのことは既に、僕から見れば隠されているはずのEveの成立が特異であることを示していた。

そうしてデータの海を眺めようとして、最初に開いたのがこのファイルだった。保存された時期を見れば、これはEveが財団で稼働した時期のものではない。かといって、他に大量に存在する、開発よりずっと以前に保存されたものでもない。

時系列上に『開発される以前の記憶』が存在するのも妙だったが、それよりもこのデータが気になった。タグ付けや記憶データを解凍整理したエンジニアのコメントを見ても、Eveはこれの扱いをいやに保留していた。重要度が低いとして圧縮して押しやっておくでもなく、逆に表層近くへ持ってきて頻繁に参照するでもなく、ただそこに置いた。読み取れる動きは何かを恐れているようで、その答えがこのメッセージウィンドウにあるのかもしれなかった。

もしこれを読み進めるなら、あなたを殺してしまうかもしれない。
 
 


 
 
 
 
 

Eve.aic
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