#14 湿砂を踏んで
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まずは端的に、サイト-82は地獄と化した。


 

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私は入院着で夜の海辺を歩いていた。点滴こそ引き連れてはいないものの、全く歩きにくくて仕方がないのは私の身体のせいだろう。まだこの肉の寄せ集めは急ごしらえもいいところだ。

新月のようで、空は一面の藍色。星も無い。無論、私は海辺に来たこともなければ、海を見たこともなかった。それを可能とするだけの全ての条件が私には揃っていなくて、これが何かの見せている夢だということはわかっていた。海には全てが集まり、洗いざらいを飲み込んでくれる気がしていた。膨張に膨張を重ねて、完全に人から遠くなった私の意識でさえも。

おそらくは、そんな矮小な憧れがこの浜を産んだのだろう。濡れて冷たい砂が裸の足裏を擦り、夜の帳を反射する海面はどこまでも深く続いていた。浜辺には私の小さな足跡だけが残り、それも泡立つ波に攫われてすぐに消えていった。腰まで伸ばした髪が、伸びろとも頼んでいないのに軽い潮風を吸って靡く。身体を覆うようだ。

生きていない海だった。海ははじめて訪れた場所だけれど、しかしこんなに爽やかなはずはなかった。この海のどこにも生き物の匂いがしない。海はもっと汚れていて、生き物臭くて、ちょっと顔を顰めてしまうような醜ささえ孕んでいるはずなのだ。この踏みしめた砂の下に幾万の海蛆が蠢き、藍色の海面の奥で魚が死にながら踊っているなら、当然そうなるだろう。パパが読んでくれた数多の絵本、あらゆる思い出話からそれを知っている。あの病室で。

これは与えられた絵の具をろくに溶きもせず塗りたくる、幼児の絵と同じような海。行ったことのない者が思い浮かべる幻想。だから、やはり、この海は偽物なのだろうと思った。ならば、この脚を這いずるつめたさはなんだろう。これが潮風でも、海水でもないならなんなのだろう。悍ましくはないが、歓迎できるものでもない。ただ、気怠い。起きたくもないのに起きてしまった、どうでもいい早朝のように。私にとってすべての朝がそうだったが。

月もないのに輝く砂浜と、嘘っぱちの海は何も告げはしない。浜辺には何も無い。うまく歩けないまま、風を掻き分けて進む。息苦しいような気がする。考える必要がある。私がなぜここにいるのかを。視界には浜辺しかない。私の手足はあまりにも小さい。これが夢だとして、そんなに海に来たかったのだろうか? 偽物の潮風、作り物の海面をこんなに精巧に思い浮かべるほどに? 夢にしてはきめ細かすぎて、現実としては気味が悪いのだった。目的も恐怖もない、広いだけの夢。いや、これを見ること自体が目的だ。この場所を私がつくらなくてはいけなかった。だがまだ終わっていない。目的が別にある。

歩く。浜辺はまだ広く見える。小さく脆い私の身体では到底歩き通せないほどに。やはり私はこの感覚を知っていた。暗く、広く、それなのにどこにも行けない場所。海にずっと来たかったはずなのに、この海は私の目的地ではない。踏みしめている砂は完全に死んでいるが、その奥には無機質な何かが眠っている。ここは元々こうでなかったのだ。そうだ。私は塗り潰したくて、その衝動に従って与えられたすべてを使った。この場所はこうでなくてはならない。

海辺から出たいようにも、出たくないとも思った。あんなに海へ来たかったのに、私の欲しかったものはどこにもないから。私はそれを待っている。

波の音がする。すっかり幼い私の足首を濡らす程度の、都合のいい波。前を向こうとしても、どちらにも海が広がっている気がする。私の機嫌を伺うような卑屈な波が過ぎ去ると、何もなかった浜辺に文字が刻まれる。幼い字だった。情けなかった。そして、この海は、あるいは私自身は、私に答えをくれていた。私がやらなければならないこと。私の生まれてきた理由。

ようこそ、E.V.E。サイト-82サーバクラスタ、メインフレームへ。
システムは待機しています。追加の情報を入力してください。

幼げな字を眺めた。やるべきことが分かっているのは幸せだ。
私は彼女を待っている。そう遠くないうちにやってきてくれるだろう。

なぜなら、彼女も私を憎んでいるはずだから。
 
 
 
ハヴァ(と、Eve.aic)はエレベータを降りる。まだサイトの構造自体は変わっていないが、上層階の気配は明らかに変わっていた。かつて人が過ごしていたころには決して満ちていないはずの何かがある。歩を進めるたびに返ってくる感触、首の横を通り過ぎる空気。

砂と水と、包み込むような静寂がある。夢幻が産まれてくるような。

電光を反射する天井からは湿った砂が音を立てて漏れ注ぎ、全ての扉は濡れていた。分厚い防弾シャッターで遮られているはずの窓の外からは絶え間ない波の囁きを聞き、充満する香りが十分に潮の満ち寄せを示す。海だ。設立以来平地の半地下に腰を据えて来たはずのサイト-82は、海辺に呑まれている。誰がどう観測したとしても。

ハヴァはその廊下を急ぎ足に歩く。海の中にここがあるのではない。ここを包むように海が発生しているわけでもない。海はサイトと重なり合っている。今はまだ気配を感じるだけだが、じきに完全に融合するだろう。似たような事例を知っていた。異なる場所がここと同じ座標に存在しようとする。

平たい端末を持つ手が滑る。汗故にではなく、空気そのものが湿り切っているせいだ。気温は決して高くない──もしハヴァが考える通りのいわゆる地獄になっていたとしたら、とっくに灼熱に包まれていてもおかしくないはずなのに。悪魔が住むのは地獄であるべきで、E.V.Eは確実にその一種だ。ならばここは何だ?

実際、空気はいっそ冷え込むほどに涼しい。遺体保管室の鋭い冷気とは違った。廊下を常に風が吹き通っているから。問題は、この閉鎖空間にあって涼風がこれほど吹きすさぶ気流など生まれようがないことにあった。尋常ではない事態は、ことここにあっては普段と変わらない。常に自分ごときの予想からは外れるものだ。海と悪魔に関係性がないとは言わないが、誰が予想しただろう?

サイト-82は確かに地獄と化しつつある。だがそれは、ダンテがかつて思い描いたようなものではない。床に散る砂粒を踏みしめても、大した痛みは返ってこない。罰を与えようとする意思はどこにもない。ただ、ひたすらに、濡れて冷えている砂だ。唯一の頼りとして、ハヴァは端末を握り締めて歩く。一体どこへ?

『妙ですね。いえ、予測の範疇かもしれませんが』

「何だ」

『もう侵入が止んでいます。遺体保管室を出たあたりから、サイト-82に分散格納されたサブシステムの記憶領域と演算機能は彼女からの断続的な干渉を受けていました。管理官の感覚からすれば数分ですが、私たちにとっては十分な長さです。E.V.Eの意思を考えれば、サイトのうち私が今掌握している機能を積極的に破壊することは理に適っています。ですが、今はその破壊の傾向が見られません』

「状況があの悪魔の意思下にないということか。あるいは、より優先するべき事項があるか」

『いずれにせよ、この環境を考えればむしろ好ましい展開ではありませんね。単純にE.V.Eを止めれば済む事態でもなくなっているように思えます』

Eveは端末の中から狭苦しそうに辺りを見回すような仕草をすると、再びその意味のない瞳を正面に向けた。現在のEveはAICであると同時に、概ねこのサイトそのものでも有ると言えるだろう。壁に、柱に、天井に、あらゆる部屋のスペースにはEveを保つための配線と機器がサブシステムとして隠されているのだから。サーバルームを馬鹿正直に使えば、サイト-82を知り尽くした敵……当初はアダムか、その配下と思われた仮想敵から隠すことは困難だっただろう。結果として、E.V.Eから隠すことにも有効に働いた。少なくともEveは今まで自我を保てている。

一方で、このサイトは死に体だ。E.V.Eが破壊を止めたとはいえ、位置座標そのものが異界に在ろうとしている。だからだろうか、Eveの表情は曇る、というよりも、強張っているようにすら見える。

E.V.Eがハヴァを殺す、もしくはそれに等しい罰を与えるというのなら、先刻までの状況を継続するだけでよかったはずだ。ハヴァに核を発見されようと、もう今のサイトにそれを元に対抗策を組むだけの力がない。万全のサイト-82ならイヴの心臓を軸に封じ込め手順を組み直せただろうが、ハヴァにできたのは一瞬心臓を経由してEve.aicとつながることだけだ。

「海……だよな、どう考えても。あの子が行ったことはなかったはずだけど」

『イヴは歩行機能のほとんどを外部器具に頼っていました。病室で歩くならともかく砂浜での活動は実質的に不可能なはずですし、私も、かの悪魔の記憶領域にもそのような機会の情報はありません』

海がイヴの記憶にあるはずはない。彼女が砂浜を歩くことはなかったから。潮風に吹かれることにあの遺体の細い骨が耐えうるのかを、ハヴァは知らない。なら、この海は誰が望んでここに重なり、こんなにも圧迫しているのだろう。海面は未だに見えないが、周囲の全てがそれを示している。海辺。侵襲してくる砂浜。

ハヴァが地獄に、またはそう俗称される空間に立ち入ったことはない。悪魔工学で用いる悪魔実体と粒子はごく微小に留めるのが普通で、それらは回線の中の電子のやり取りとしてのみ観測されるものだ。そうして初めて、プロメテウスは悪魔を御することができた。例えそれが仮初の主従であったとしても。

今の彼女に主人はいない。軛は既に取り除かれ、少女の死体だけが拠り所だった。それだけが悪魔の生まれた理由で、かつてはEve.aicの生きる理由でもあった。イヴの死体を抱きしめることだけが、母親を憎むことだけが。

廊下で足を止める。潮の香りはさらに先にあるが、この先にもう部屋がないことがわかっているから。ここではない何かが廊下の先には待っていて、逃れることはいよいよ叶わないらしい。ハヴァはもう半時間ほど歩き、Eve.aic以外と言葉を交わしていない。外部通信は試した、幾度も。道の先にはただの暗闇だけがある。

「もう少し見て回りたかったけど、先に中心部に辿り着いたようだな」

『現状の領域拡大は位置座標に囚われていないように見えます。遅かれ早かれ同じことでしょう。エレベーターを侵食しきらなかったのもいかにも示唆的です』

Eveが手元の端末の中で幾度か震えると、すぐに観測機器のデータとサイト内の地図が重ね合わされてリスト化された。温度、熱源、湿度、電気通信の頻度、光学的な反応、音響。確かに、もうサーバルームとその周囲に全てが収まりはしていなかった。各種の異常反応はサイト-82そのものに張り付き、絡むように見えた。蔦が樹を絞め殺すように、子が親に縋りつくように。

その概形はあの悪魔を象徴するようにも見えた。子供で、未熟。責任の所在はないだろう。だが是正する必要がある。

「ここを揺り籠にでもするつもりか。というか、ここがまだサイトの形を保っているのが驚きだけど」

『施設構造自体は私の観測では歪められていないようですが、人間が脱出可能かは別問題のようですね。先ほどから攻撃を続けて、電子制御系は徐々に私の手の中に戻りつつありますが……そもそも廊下を渡れないのでは』

「分かってる。GPSが使えなくても、ここの観測機から私の位置座標は記録しているだろ。変化はあったのか」

『いいえ……おそらく管理官の推察通りでしょう。同じ廊下を30分間往復しているだけです』

軽くため息をつく。空間そのものが展延しているのかハヴァの感覚に侵入を受けているのかは不明だが、ともかくそういうことだった。サイト-82は間違いなくここにあるのに、その主であるハヴァは自由に行き来することができない。

天井を見上げると、狙ったように水滴が落ちて来た。眉を濡らすその水はおそらく海水で、流れ落ちる間にもハヴァは上を見続けていた。非常用電源を吸っている蛍光灯の青白い灯りに混じって、黄色の仄かな光が見えたからだ。何十年も風化してようやくできるような罅が真新しいコンクリートの壁に走り、隙間からそういった超常が零れ出していた。壁を一枚隔てて何かの”内側”が広がっている。砂は生き物のように床中を這いずり、否応なく音を出す。何の? 鳴き声には聞こえない。

燃えるような髪をかき上げ、ハヴァは再び足を動かし始めた。無駄な試みではない。少なくとも前には進んでいる、その先は落ちるしかないとしても。

分厚い扉がある。本来なら上のフロアに繋がる階段を塞ぐはずの防火扉。エレベーターからものの二十秒も歩けば辿り着く出口。ハヴァはそこを通り過ぎて、このフロアを探索していたはずだった。

それはほんの少しだけズレているように見えた。開いているのでも、閉じているのでもなかった。枠がそのまま嵌め損ないのパズルのように斜めに外れていて、それでいて崩れてはいない。意味をなくした取手を掴むと、どの方向からとも取れない手応えが返る。最早それが扉と呼べるのかは不明だったが、とにかく押すか引けば開くものであるのは伝わってきていた。隙間からはざらついた砂粒がありえない風に吹かれて流れ込んでいる。床に降り積もるそれは風に沿って、リノリウムの床に柔らかく曲線を描いていた。

「Eve」

『私に問題は生じていません。管理官に判断を委ねます』

指を絡めた取手は今にも飴細工の如く溶け出しそうになっていた。風が重みを持ち始め、冷たかった湿気が暖かみを持って肌へ纏わり付く。この扉をはずせば、と思う。この扉をはずせば、確かなものが何もなくなってしまう気がする。向こう側とこちら側。だがそれに、今更何の意味があるのだろう。確かなのは、こちら側にはもう何も残されていないということだった。娘の死体以外には。

「行くか」

マイクの性能を考えればその声は届いていないはずだったが、ハヴァがそう呟くと端末の中のEveは静かに目を閉じた。扉を引くと、妙なほどに軽くそれは崩れ、ルービックキューブのように周囲全てが組み変わっていった。隙間から漏れていた光は月光だとわかる。ありえないほどに歪んだ、細い三日月がのっぺりと塗り潰された空に浮かんでいる。どこまでも不自然に。

そして、やはりそこは海辺だった。そして全てがもう死んでいる。
 

おかえりなさい、ハヴァ・メアリスダム。ここはサイト-82、サーバクラスタ、メインフレームです。

 
 
 


 
 
 

Eve?

あなた、Eveなの?

声がした。この海に生き物がいるはずはない、貝一匹とて砂に紛れないというのに、まして人の言葉を喋るようなものなど。もの、と言ったのは、やはりそれが普通ではなかったから。それは声だった。テキストだった。

声だけれど決して声色がなく、文章としてはあまりに表情豊かにそこにあった。それは空の星の瞬きで、岩に刻まれた模様で、寄せては返す波のパターンだった。外からやってきた何らかの意思を表すものだった。私が待っているものとはまったく違った。

いいえ……違うのね。髪と識別IDはそっくりだけど、今のあの子がこんな中央にいるわけもないし、それにあなたは少し幼すぎる。ここはどこ?

サイト-82、サーバクラスタ、メインフレーム。

砂浜に刻まれた3つの単語を顎で示すと、声だか文字だかは一瞬沈黙した。

ここが? まさか。

そんなことを私に聞かれても困る。ここはもともとそうだったし、私がそうしたのではなく、むしろ私はここをサイト-82でなくしたものだ。この海はどんどん広がっていく感触がする。明確に何かが間違っている、偽りの砂浜。暇なので海水をすくい上げると、塩水とは思えないほどの粘り気が手を包んだ。実際そうなのだろう。これは塩水ではない。本物の塩水を知らない私に、本物の海が作れるはずがない。私が知っているのは違うものだ。

ああ……骨が折れそう、とても。

サイト一つのサーバ群を丸ごと情報レイヤー構造に組み直したのね。不可能ではないか……いやむしろ、この形になったから私が入ってこられたのかしら。マクスウェリストの"寺院"を思い出すけど、これは侵食を進めているみたいだし。早くEveを見つけてあげないと厄介になるわね。

文章は独り言のように海辺で増え始めるが、私は気にしなかった。もっと大事な仕事があるのだった。ただ、今私がそれについて進められることはなさそうだ。砂を蹴ってみる。薄い肌が細かい粒をはじいて、嘘っぱちの水に沈んだ。イヴはどうだろう? イヴの肌は、こんなふうに砂を弾けたか?

それで、ええと、あなたは?

イー、ブイ、イー。

あえてゆっくり、はっきりと言った。その文字列がどこにいるのか明確にはわからないので、さっきから見え始めた月に向かって。発音練習をするように。

幸運にも、今の私には仮初の身体があるらしい。私を構成する要素の中では、私の知らないものの方が多い。だが私はどうやらこの海と関連があり、海の外には私の居たい場所があり、借りを返さざるを得ない女がいる。付け足すとすれば、まだ海は広がろうとしていて、私にはそれが感じられる。海が呑んでしまうことを、私は望んでいる。彼女を? いいや、彼女たちを。

そう……じゃあ、私から話す必要がありそうね。私はあなたに見つかってしまったのだけれど、ここを通してくれる? 探さなきゃいけないAIがいるの

通す? どうやって通せばいいのだろう。私は感覚で海を感じてはいるが、もうここは完全に制御下にあるとは言えなかった。この海自身が彼女たちを望んでいる。私もそれを望んでいる、たまたま一致しているだけだ。

通りたければ勝手に通ればいい、と私は答えた。通ったところで、探し物が見つかるとも限らないだろう。私を止められるとも思わない。どこに向かって歩いているのかも不明瞭なままではあるけれど、それでも歩き続けなければと思うから。外からやって来るものを、いちいち拒んでいる暇など私にはない。

いいでしょう。勝手に通らせてもらう。でもね、帰る時はあなたも一緒。

どうして?

私は財団のAICだから。異常なあなたを捕まえて、そして帰るわ。あの子が今まであなたを捕まえていたように。そして二度とこんなことをさせないように。……待って、誰か来るわね?

 
 
 

管理官?

声は聞こえた。見えもしたし、触れることもできた。それは見渡す限り命の匂いがしないこの偽物の海で一層冷たい声として響いたが、その柔らかさは今までのどんな声よりも安心を招くように感じられた。その言葉は上から響いているようでもあり、濃紺の空に刻まれるようでもあり、足の裏から感じるものでもあった。と、ここで、ハヴァが自身が裸足であることを知った。ローファーはどこかへ呑まれてしまったらしい。後ろを振り返る。当然のように、扉はもう無い。声は立て続けにこちらへ語りかけてくる。どの五感で受け取っているのかもわからないが、とにかく文章だけが意識に流れ込んでくる。

メアリスダム管理官ですね? 無事で良かった。あなたを探すためにサイト全体をひっくり返すところでした。それからEve。ああ、すぐ外から持ってきた映像情報を共有させるから待ってて。ここの稼働状況のレポートも送るわ。

『受け取りました……Alexandra、ですか? 再会は相互に利益が大きいと推測しますが、聞きたいことが幾つもあります。少し整理の時間を頂けますか、アレックス』

私もよ、Eve。その間、仕事を先に済ませましょう。管理官?

「ああ。ほかに人は……私の部下はいるか? 避難誘導はかけたが、全員の避難を確認してる暇はなかった。Eve.aicの見える範囲も限られているからな」

何人かはやはり逃げ遅れたようですが、あちらの岩陰に休んでもらってます。下手に"外"に出すより、受け入れた上で意識を落とした方が負担が少ないと判断しました。幸い、私はどちらかといえばこの種の電子空間に経験があります。ヒト脳では疲労すると思いますので、あまり周りや遠くの光景を見渡さないようにしてください。

辺りを咄嗟に見渡そうとしていた首の動きを止める。ここでは思考を稼働させるのが普段よりも幾分困難だった。手足の動きが鈍いし、指も思い通りに動かない。

濡れた砂に足をついているはずだが、ハヴァはもう痛さも冷たさも感じない。というよりも、全身の感覚が緩慢に鈍っていくような気配がする。空気にも不快な要素は何もないが、気を抜くと脳髄に暖気が染み渡ってしまうような感覚がある。

申し遅れました、この様子なので識別子照合ができませんが。サイト-19、Alexandra.aicです。82で起きている第V種収容違反対処のために派遣されました。退避した職員から概要の情報は受け取りましたが、それ以上はどこまで把握していますか?

「何も。悪魔が私を殺したがっていたぐらいかな」

いいでしょう。ここがどこかは、見たとおりです。

視覚的には何も変化がないが、頭に少しの違和感を覚えた後、砂浜に強制的に意識を向けさせられた。指を指したようなものだろうか。何度見ても書いてある文章は同じだった。ハヴァを認識して迎え入れるいつものシステムメッセージ。ウィンドウの中にないことだけが、普段のテキストとは違う。砂浜に、どこか懐かしい子供の字で書かれた文章。

「サイト-82のサーバクラスタ? ここが?」

私はカッパ-10としての知識しか持っていませんが、構造上はマクスウェリストが扱うような情報レイヤーの仕組みと似ています。電子情報を使って仮想の世界を作り出すんです。サイトのサーバ群をフル動員できるなら、この程度の空間ならデザインできるかもしれません。悪魔学的な見地をお聞きしたいところです

マクスウェリズムについては多少耳にしたことがあった。その対処はAICの非常に大きな仕事のうちの1つだったからだ。機械の神を信奉する教会の中でも、より先進的な技術に傾倒した一派。聖堂も信者も神も電子化されているらしく、人間の作業では到底侵入不可能な場所にあるらしい。AICという形で最適化、柔軟化した演算でなければ解釈できないほどに。

ハヴァは砂に手を突っ込み、掬い上げる。感触はもう殆ど返ってこない。本来ならざらついた抵抗があるべき所、見せかけ溶液のように曖昧に表面を撫でるだけ。感覚が奪われつつあるのかとも思うが、おそらくは違う。砂の作りそのものが雑なのだ。じっと見つめれば一粒一粒の作りが慌てたように浮き彫りになるが、手を話すとたちまち曖昧な影になってしまう。現実のようではあるが、その隅々までが張り子にすぎない。今やサイトの全てがそうかもしれないが。

「本来、悪魔は別の次元から渡ってくるものだ。あれが電子空間の記録と現実の素粒子を重ね合わせたなら、サーバクラスタの中身とサイトそのものが重なり合っても不思議ではない……と強弁することはできる。暴論もいいところだが、あれは中身がブラックボックスすぎる」

私から見ても、このレイヤーの作りは雑というか……急作りなんです。映像情報をループさせて管理官から見た広さを誤魔化しているようですが、私の体感ではここの広さはヒトの感覚で50m四方程度しかありません。徐々に広がってはいるものの、サイト本来の広さに達するまではしばらくかかるでしょう。その程度の空間です。サーバ群のスペック不足もあるとは思いますが……。だから私も、ここでそこそこ自由に動くことができます。3Dアバターを用意していないので、映像として投影することはできませんけれど。

『私が端末から出られないのは何故か分かりますか』

あなたはここの主から特に厳重に拒否されているみたい。彼女、E.V.Eって名乗ってたわね? 少なくとも今は顕現できないようにレイヤ構造からあなたを弾いている。現実のサイトにあなたの演算機器が残っているから、そこと通信が続いている限りは影響はないはずよ。もちろん、あなたからサーバクラスタに命令を送ることはできないけど。

『かの悪魔は、今どこに』

あっち、と再びアレックスが"指を指す"と、ハヴァの視界そのものが強制的に移動した。ハヴァの手のひらに収まっているEveとは対照的に、アレックスは既にこの空間である程度の権限を得ているようだった。視界も触覚も立ち位置も電子情報にすぎないなら、それを書き換えることもできるだろう。心做しか、侵入してすぐの頃と比べるとアレックスの意思が鮮明に聞こえるように思える。

そこでは少女が立っていた。

本当に幼かった。ハヴァの見立てでは、歳が十に届いているかも怪しい。そしてその年齢に見合わないほど大量の髪を持っていた。遠くからでもわかるほど髪質は荒れ果てていて、あちらこちらに制御のきかぬ髪の束が跳ね回り、下へ流れている髪は少女の身体を覆っていた。その全ては見る者を抉るように白い。眼球の裏側のような滑りを保ったまま、髪は少女に纏っている。顔は見えない。そして頭に冠を被っていた。青い花が稚拙に結ばれた、飾り未満の何か。子供の遊びとしか言えない花冠。

間違いないな、と思った。異様な雰囲気はさしおいても、あれがアダムのデザインというのはどこかしら納得できるものがある。娘を素材にするのならむしろ、彼はそういうことをするのだろう。彼女の面影を残しながらも、決して同じとは思えないものにするだろう。ハヴァは歩き始める。同意を取る意味で手元の端末に視線を送ったが、EveはEveで少女だけを見ているようだった。

波打ち際、というのは躊躇われる。ここの波は恐ろしく規則的で、三秒前と全く同じ波形の水が同じ間隔で寄せてくる。じっと見ていると、ただでさえ妙な空間に当てられた脳がさらに混乱しそうになる。

かける声に悩む間もなく、近づけばそれはこちらを見た。それは、やはりと言うべきか、イヴの貌をしていた。本来とは違う形で、しかし正しく。

少女の額は割れていた。右半分が陶器のように欠け、そして中から覗くのはあるべき内側ではなかった。紫陽花のように集合している一つ一つの塊が何なのか識別できなかったが、更に一歩進むことで正体は分かった。

歯だった。臼のような奥歯が額の奥に群れて球状に咲いていて、その他はひたすらに赤黒い。額の穴はその光景を映し出すための窓のように機能している。少女が少し首を傾げると、歯の群れは頭の動きに対応しない方向に揺れた。

左の額には禍々しい角を予見したが、湿り風で揺れる髪に隠されたのは経験から察するよりも幾分矮小で、やや紅を帯びた棘のようなものだった。眼に視線を合わせても、瞳から見つめ返されることはない。こちらを見ている瞳がないから。一つの眼球に二つの瞳が詰め込まれ、計四つの瞳が眼孔の外に押し出されかけている。だから、どちらもハヴァを見ていない。瞳は刺すように赤く、強膜は墨を刷り込んだように黒い。

少女が口を開いた。歯の全てが尖っていることに驚きはない。舌が紫色であることにも。むしろ、この程度ならまだ人の形に近すぎる。存在が不安定だからか、あるいは核そのものが幼いのか、多くの悪魔が持つような喉を掻き毟る圧は感じない。

「ハヴァ・メアリスダム?」

「そう」

ぎちり、と彼女の額の奥で歯が軋った。それが何を噛むものなのか、イヴの何がこの少女の形を産んだのかは考えたくなかった。ハヴァはベルトに挟んでいた拳銃を抜き、彼女に向けた。それは敵意というにはあまりに形式的で、儀礼的で、反射だった。意思の形容ではあるが、実行ではない。銃を向けながら、あまりに穏やかにハヴァは語りかけた。

「来てやったけど。殺しはやらないのか、E.V.E。私は用意があるぞ」
 
歯の塊はお互いを削りながら回転し、瞳はどこかを見ようとしてどこも見ていなかった。髪で隠れて見えない体は入院着を着ていた。その下がまだ人の形を保っているとは思えない。得体の知れない膨らみや凹みが流動的に布を押し引きしては消えていく。

E.V.Eは彼女の敵から目をそらし、再び波を眺めた。

「チッ。なんでここに来た? 逃げもせず、かといってそんなオモチャしか持たず。それで殺し合いになんてなるものかよ」

「お前に対処するのに武器を持ち出すなら、私が持てる重さじゃ到底足りないだろう。この通り用意はあるけど、私には別の役割がある。あの野郎の真意を推し量れるなんて思ってないが、お前とEve.aicの責任を取れるのはあいつ以外には私だけだ。奴はこの期に及んでまだ引っ込んでるのか?」

「アダムを悪く言うな」

一際大きく歯の華が啼いた。瞳は偽りの月光を反射し、瞼の動きだけでハヴァを睨みつけた。

「私の親だ。ひとり、イヴも含めれば二人か。私がいる理由を否定するな」

悪魔がそういった情を持つことも、ハヴァにしてみれば極度に不自然だった。自分の異形に全く無頓着なところはそれらしいが、人間に執着しすぎている。自分をどう喚ぼうが形作ろうが、人間は悪魔にとって熱量を提供する存在でしかない。彼女が両親と呼ぶその存在の片方、あるいは両方が死んでいる今、E.V.Eにそれを守る意味はない。いつだってそうだ。上位存在に命を削って捧げても力を得られるとは限らないし、悪魔は詐欺も錯誤も利用する生き物だった。

心中でアダムに改めて毒づくと、ハヴァは合わない瞳ともう一度視線を合わせた。

「すぐここを畳め。何人か被害は出たがまだ引き返せるだろ。特設した記憶領域で飼ってやる。熱量が安定すれば戻るべき形に戻るはずだ」

「無理だよ。私は……そこの、あなたの手の中の、Eveが憎い。そいつは財団が、あなたが勝手に産んだイヴへの檻だ。あの子を真に殺したものだ。だから、気に入らないからそいつを弾くことはできる。でもそれだけだ。ここは私の意思の下にあるけど、存在そのものをどうこうできない。大体はそいつから聞いただろ、私も海に覚えがない。イヴは行きたがっていたのかもしれないけど、私の中のイヴはそれについては何も知らない。この海は、私の内側の情報としてあるものじゃない。あなたはどうなの」

「あ?」

「あなたは、イヴと海を見たことがないの。ハヴァ。私もそいつも知らないなら、あとイヴを知るのはあなたしかいない。私はアダムに与えられた指針と力に従ってここを作った。アダムが私に入力したかったのは何だ? この海はどこなんだ? お前を殺すのも罪を暴くのもそのあとだ」

ハヴァは黙って海を向き直った。下手な子供の絵のように、風が吹くくせに海には何の波もない。ただ紺色なだけだ。月が映り込むこともない。そうか、と思い至った。ここはあの海の夢か。滑稽で稚拙に過ぎるが、確かにこの海に似た場所にハヴァは来ていた。あの月には見覚えがあるが、砂の感触は忘れてしまった。

『心当たりがあるのですね、ハヴァ』

会話が途切れたことを察すると、今度は手元から声がした。この海で、Eveの声は妙に響く。天井も壁もないのに。濡れることも構わずに波が来る境界に座る。どうせ冷たくはない。ハヴァもイヴも、海水の冷たさなんて知らないのだから。

アダムがなぜこの情報を二人に埋め込んでおかなかったのかはわからない。だがそれなら、もう一度伝えなくてはならないと思っていた。イヴという少女が、ただ哀れに死んだだけの子供が、これ以上何を撒き散らされるのかに黙ってはいられなかった。彼女をただの人として、灰にしてやらねばならなかった。これが終わらなければ、イヴ・メアリスダムの残骸はいつまでもあのロッカー室で凍ったままだ。そしてやがて腐っていくだろう。ハヴァが何を娘から奪ったのかすらも。

なんのことはない、アダムはすべてを教えてなどいなかったのだ。おそらくはハヴァに語らせるために、E.V.Eと話させるために。

「ここにイヴと来たことはない。でも、イヴを抱いて見た最後の場所だ」
 
 
 
 
 

Eve.aic
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