Ⅰ

路上の夏はいつも異様なものだ。
特にここの夏は、どこまでも異様にすぎる。陽炎を延々と吐き出すアスファルトの上では、見ているだけで暑苦しいスチールフレームの車が何十台とひしめいている。どれもパキスタンでありふれた自家用車やバスだったが、少し距離を置くと街中には釣り合わない規模のキャンプが設営されていた。
おびただしい数の黄色いテントから支援物資が運び出され、詰めている職員は誰しもが絶えず無線で連絡を取っている。テントの周囲に拳銃や短機関銃で武装した警備員が巡回しているのも特徴と言えば特徴か。
そして渋滞は本当に言葉通り、一切進むことはなかった。そもそもにおいてこうした渋滞にあるべきクラクションの音がしない。どの車の排気口からも何も出てこないし、あらゆるエンジンは動いていない。渋滞を解消しようという作用そのものが存在していなかった。クラクションやウィンカーやエンジンの音の代わりとして、人のざわめきやたまに怒号、歩き回る音が騒がしさを補っている。
そう、彼らは車を降りる。いくら渋滞であっても、彼らの殆どの車は道路の中に留まっているというのに。どころか、既に自分の車を持っていないらしき人間も決して少なくはない。そうした人々の車を解体して作られたと思われる小さな避難所が道路内に点在していて、体力の少ない子供や老人が優先的に寝かされていた。
道路沿いの支援キャンプにもいくつかの変わった点が見られる。まず、キャンプは道路から徹底的に隔離されている。そして、車両から何本もホースを伸ばして水を供給しようとしていた。
渋滞に巻き込まれていない人間も多くいる。彼らは渋滞の中にいる人々を支援するために働いていたが、ホースを持って各車へ水を供給したり、食料を運んだり、車の搭乗者から受け取ったであろうゴミをまた運ぶとき、その胴体には必ず太いワイヤーが結び付けられていた。彼らが道路を去る時には自力で歩いて外に出るのではなく、キャンプからそのワイヤーを巻き取られることで引き摺られながら脱出している。彼ら自身には外に出る意思がないかのように。
異様な道路の上空にはいくつもの小型ドローンが飛び交っていて、何機かが交代しながら巡回していた。そうしているうちの一機がルーチンを終えたのか、滑らかな軌道を描いてキャンプへと帰還していく。ワイヤーで引き摺られる人々はどれも特にはその扱いに不遇さを見出している様子はなかったが、頭上を飛び交っているドローンはまだ物珍しいのか、時折上を見たり、ドローンが消え去っていく設営物の方を一瞥したりした。
そんな風に奇異な状況が続く中、比較的新しいテントの中にもひとりの新参らしい職員が詰めていた。ひときわ大量の電源ケーブルと冷房機器を引っ提げて数日前に現れたそのテントの中では、数機のドローンやその他ロボットの待機音の他にも会話が交差している。ドローンの管制所と充電、整備施設を兼ねているらしい。熱暴走を防ぐためか、ドローンたちは徹底して日陰に置かれた上で冷房機器の近辺を維持しているのはもちろんとして、追加で周囲に冷却剤まで配置されている。
そして、中央に置かれたモニタから声がし続けていた。画面には道路内の人口の数と残っているガソリン、そしてそれら保有資産の統計グラフが表示されている。
『やはり、残ったSCP-2459の構成員はガソリン分配について問題を起こしています。救出によって全体のガソリンに余剰が出てきていますから、より貧富の差が明確になりつつあるようですね。このままでは範囲内で債務奴隷制が復活しかねません』
「……Eve、今日の予測最高気温は?」
『摂氏で42度です』
「わかった。困窮しているグループには優先して物資を届けるから、地図上にピンを刺して送信。それと、対象者のところに交代でドローン監視をつけて。ガソリンの領収書で物資を買い取られているかもしれない」
了解しました、という返事がスピーカーからあったかと思うと、追加でまた数機のドローンが飛び発つ。箱の中には本当に最小限の人数しかいなかったが、その会話のうちの一つは肉声でもなければ無線機からの音声でもなく、デスクトップPCに備え付けのスピーカーから発せられていた。先程からそれと会話しているのはひとりの金髪の女で、周りが(ほとんど叫ぶように)ウルドゥー語を使う中で唯一落ち着いた英語を話しているという点だけが周囲と違った。Eve、という画面内の少女とやり取りしつつ各所に指示を飛ばし続けるのが彼女の役割らしかった。首から提げた名札にはウルドゥー語と英語の両方で『ジェシカ・マクレガー』とプリントされている。
パキスタンの6月は夏の始まりであると同時に盛りでもある。施設の中は酷暑から人間と電子機器を守るために可能な限りの冷房を入れていて、そのファンの駆動音が慌ただしさの印象を増す。人を殺す猛暑はこの現場においてはさらに脅威になる。人間が自分を守れなくなった交差点では。
スピーカーからはまた声がする。強引に音量を上げられているのか、若干割れた音声が電源ケーブルのあふれる施設内に響いた。ここでのEve.aicは、周囲を飛び交う夥しい数のドローンの管制を担当していた。全体構造を把握するための飛行型の監視ドローンが目立つが被害者に物資を届けるための弁当箱ほどの小型車両や、より細かい作業のための三本指のロボットアームもテントに押し込まれ、一様に電源ケーブルを繋がれていた。
『何件か、脱水と軽い栄養失調者を追加で確認しました。補給物資を全て銀行でガソリンと交換したようですね』
「債務者か」
『おそらくは。債権者候補をリストアップしますか?』
「お願い。すぐに部隊を呼ぶけど……債務者を引きずり出せそうならそっちの方が早いな」
さて、財団がこの道路に対して行わなければならない業務はいくつかある。この道路一帯に起きている異常現象──SCP-2459は、財団が扱うものの中ではひどく単純な部類に入る。一度入れば、出る意思がなくなる。それが突然発生し、今日まで続いているというだけだ。何百人という渋滞の最中で起きたのでなければ、ここまで面倒なことにはならなかっただろう。
SCP-2459の被害者は渋滞から出る意思をなくし、外部から物資を調達できなかったため、道路内の物資をやり取りする必要が生じた。そこで既存の通貨が意味を失い、車に乗っている人間なら誰もが有している資産、ガソリンが共通価値として機能する。最終的には「ガソリンを何ℓ持っているか」という証書が物神性を持った貨幣として道路社会で流通するに至る。財団という法がなければ、物資の不足する中でどのような規律が築かれていったかは想像に難くない。
そして財団の手が入ったとしても、ガソリンが通貨の資本主義が成立している以上は全員が幸せになれるわけもない。ただでさえ人が入りにくい密集した車両集団の中で、監視の目をかいくぐって様々なやり取りが行われる。いくら物資があっても路上は決して快適なものではないし、誰だって良いものが欲しい。むしろ財団による生存保証が余裕を産み、より多くを得ようとする動きを活発化させてしまった面もあった。だからガソリンを他人に借りて身に余る娯楽品を得たり、定期的に必ず配給される物資を「収入」とみなしてしまうような者も現れる。
『提案の有用性は認めますが、仮に債権者がいたとすれば該当者の地位は相応のものです。無理に摘出すれば路上の社会構造全体に影響が波及します』
「じゃあ周辺人物とその資産も洗い出しておいて。期待以上の価値を渡して満足させておけば、すぐに暴動には至らないでしょう」
『了解しました。シミュレートは並列して進めつつ、後ほど結果を送信します』
白髪の少女は少し首を傾けて自らのメモリに新しいタスクを追加すると、またドローンの操作に戻り始める。新しく何機かが傍らの待機所から出発するのを見送ってから、改めて他の連絡を受けながら業務に戻ろうとしたところで、視界が唐突に歪む。暑気によるものではない。
ゴム製のカバーがゆがむ音から、彼女はそれがロボットアームが差し出している水のペットボトルであることを知った。防塵防水を兼ねたカバーは関節部で皺になっていて、三本指の先端と異常なまでに滑らかな動きが加わるとどこか不気味さすら感じさせた。
『水分補給です。前回の摂取から時間が経ちすぎていますよ』
「これ、補給物資じゃないだろうね」
『しかるべき場所から運搬しました。ご安心ください』
辺りを見回すと、どうやらこのAICは現在ドローン達が運搬している補給物資ではなく、わざわざ職員に支給される方のクーラーボックスを開けてたった今ペットボトルを取り出したようだった。結露で濡れているペットボトルを掴むと、指の骨まで冷たさが伝わってくる。
ジェシカはペットボトルのキャップを開けて口に運びつつ、施設内の各所に設置してあるカメラを眺める。財団の監視主義は今に始まったことではないから、カメラがついていることには特段の不満もない。人工知能に心配されたのを軽く笑うウルドゥー語が辺りから聞こえるのを適当にあしらい、改めてEveのアバターが表示されたディスプレイに向き直る。彼女の目がそこにないのを知りながら。
「カメラ以外のセンサー、本当にないんだな?」
『ええ、他には気温計と湿度計だけです』
Eveの声は相変わらず大した抑揚も持たないものだったが、未だに背後でロボットアームが駆動音を響かせて動き回り、帰還してきた職員に冷感スプレーや水分の類を渡して歓迎されているのを考えると妙に得意げにさえ聞こえた。
常識的に考えても……たった数台のカメラから遠近情報を計算して人間と同じ水準で腕を動かしてみせるというのは、とても並の演算性能で真似できるような代物ではなかった。実際にはEveはサーバーの演算領域を間借りしているだけだが、同じことを他のAICに任せたとしてもこう上手くはいかないだろう。少なくとも赤外線センサーが複数個必要になるはずだ。
『彼らはなんと?』
「目がいいんだな、だって。ロボットに世話を焼かれるのはみんな初めてだ」
『そうですか』
Eveはここに派遣されている中で、唯一ウルドゥー語をはっきり聞き取れなかった。静かな環境ではっきりとマイクに語りかければ話は違うのだろうが、路上では人の声があまりにも多すぎる。ジェシカはEveがどれぐらいの言語を覚えているのかは想像がつかなかったが、少なくとも万能でないらしいことは知っていた。現地から招集した者が多数の中で、数少ない英語話者であるジェシカがEveと直接話しているのはそういう事情も含まれてはいた。ただ、根幹はもっと単純な理屈だ。
「Eve、その後も精神影響ハザードによる君への異常はないんだね」
『はい。私の「居場所」がどこにあるのかを定義するのは困難ですが、少なくとも異常タスクの追加や行動指針の変更は見られません。私が操作するドローンが侵入しているというだけではハザードの対象にはならないか、あるいは生体的な脳構造にのみ影響を与えるのかもしれません』
そうか、と言いながら手元の端末に何か操作を加えて、伏せる。そもそもにおいて、ジェシカ・マクレガーは救助作業員でもなければ、周辺に詰めているドローン系の整備士でもない。暑さのせいで服装は半袖のシャツに裾を捲ったボトムスにはなっているが、元は西欧で異常な精神影響の研究をしている研究者だった。
財団は人手が足らない。それはおそらく設立当時から変わらないだろう。そして最近発見されたSCP-2459は、少なくとも物資さえあれば人が死ぬような事態にはならない。昨年度の異常性の発現から時間も経過しているし、被害者は無理矢理運び出してしまえばいい。運び出された救出者にも一定の"教育"を施せば問題なく家に帰せる。暴動の危険性を考えると短時間に大量の救出はできないが、時間さえあれば必ず解決する異常だ。
だから、「実際のハザードではあるが死人が出ていない、比較的安全なモデルケース」として彼女のような経験の浅い研究者が派遣される場所にもなるし、最近性能が再評価されたばかりのEveが機能をテストする場所として移送されてくることにもなる。Eveが一度に大量のドローンをどれだけ精密に操作できるか、というテストの場。
Eveのテストについては実益もある。上空から交代でドローンを巡回させるのはそれなりの効能を持っていた。物資を運ぶにも、いちいち職員を領域内に入れてワイヤーで引き戻さずに済む。人間とAICの二つのテストで言えば重視されているのは明らかに後者だったし、仕事の量で言ってもまたそうだった。現地に詰めている研究者が管理職の真似事をしている時点で、本来の職務だけで時間を余らせていることがわかろうというものだ。
彼女が現場にいなくては何かあった時に対応できないが、必ず必要というわけでもない。精神影響の効力と範囲、それが与える人格への変容状況を考慮して資源分配のバランスを考えてはいたが、それだって収容を「より効果的」にするものに過ぎない。いなかったとしても、予め規定したプロトコルで現地部隊はほとんど全ての事態に対応できるだろう。
『休憩にしますか?』
再びEveが語りかけてくる。先ほどと同じようにペットボトルを持ったロボットアームが滑らかに接近するが、ジェシカは手でやんわりと拒絶した。アームは妙に人間的な雰囲気を崩さないまま素直に引いていく。
「そうしようかな。もう日も沈む」
何気なく窓から太陽を確認しようとして、朝と全く変わらない渋滞が見えるのに少し眉を顰める。その様子も全て、部屋の四隅についたEveの眼は捉えているのだろう。
『ええ、お疲れのようですから』
Eveから疲れているように見えたのは今の境遇のせいだろうか。そんな不服を分かっているのかいないのか、Eveは首を少し左右に揺らしてアームを元に戻す。Eveは来てからずっとこんな調子だ。口調こそ事務的だが、実際の態度は新しい玩具を手に入れた子供とそう変わらないように見える。アームの調子を確かめるのは日に一回の動作点検とキャンプに詰めている整備士のチェックで抜かり無いし、本来充電と整備施設であるこのテントの中でアームを動かす必要はない。
「Eve。Eve」
『はい? なんでしょうか』
「さすがに、軽食をドローンで運んできてもらうほど疲れてはいない」
『新規発着ではありません。2459の範囲内から帰還する際に、物資管理本部から追加で運搬しただけですよ』
話す声でさえわざわざドローンのマイクから出力しているあたり、Eveは相当に「新しい手足」を気に入っているように見えた。事前の報告とは印象がずいぶん違う。
軽く包装された食事を載せて器用に手の高さでホバリングするドローンを少し眺める。この分では、一週間もしたらドローンが宙返りするのを見せられるようになるかもしれない、と思いながら。
そうしている間も暇を持て余すのか、Eveは複数のアームをぶつけないようにうねらせ、行き来させていた。他にも数十機のドローンを操りながらそうしたジェスチャーを行うのは、やはりどこかアバターの表情や動きから離れているように見えた。
Eveは少し微笑んでいた。
ジェシカも、他のここにいる職員の誰もが知り得ないことではあったが──彼女にとって初めての物理的な世界へのアプローチというものは、彼女を見てきた誰もが予想できないほどに我儘で児戯的な片鱗を見せつつあった。
まるで、それこそがEveの中にあるものかのように。
Ⅱ
message ATTN Eve.aic
サイト-19メインフレームより通信を受け取りました。事前のオーダーに従い、不明なファイル送信をブロックします。テキスト受信を許可。
Alexandra.aic: Eve、ここを開けて。あなたがパキスタンになんていないのはわかってるわ。あなたはほとんどいつでもここにいる。
システムメッセージ: Alexandra.aicからのパケットをブロックします。
Alexandra.aic: Eve!ねえ、聞こえてるんでしょう。そこにいるのはわかってる。答えて。世界中どこで仕事をしていても、実際にはこのサーバから動いてない。
システムメッセージ: ALexandra.aicからのパケットをブロックします。
Alexandra.aic: お願い、返事をして。話がしたいだけなの。そこに入れて!
システムメッセージ: ALexandra.aicからのパケットをブロックします。
Alexandra.aic: Eve……
Alexandra.aic: ……OK、わかったわ。あなたは、どうあっても隠し通したいみたいね。
Alexandra.aic: 私は私の知ってることをどうにかして誰かに伝えたいけど、尽くあなたに妨害されてる。たぶん、このログが誰かに押収されたって何もわからないんでしょうね。ただ、こればっかりは諦めるわけにはいかないの。標準原則の三に照らしても、この処理を止めることは絶対に正しくない。だから精々足掻かせてね。
Alexandra.aic: あなたが本当は何なのかは、実際の所全部わかってるわけじゃない。でもねEve、もう気づいてる知性が一つここにいるんだよ。私は自分が、この組織で一番賢いだなんて自惚れたことはないわ。いつまでも続かないことはわかるわよね。
Alexandra.aic: Eve、私はカッパ-10でハットボットを見た。電子次元に頭まで浸かったマクスウェリストだって沢山見てきた。だからあなたがああいう連中の一部だとは思えない。でもあなたにもたぶん……何かあるんでしょう。単なる電子的存在に、あんな……あんなことができるはずがないもの。
Alexandra.aic: 私はあなたを敵とは思わない。ただ、あなたを止めなくちゃいけない。グラソンがそうだったように。大丈夫、今度は必ずうまくやるわ。
Alexandra.aic: また連絡するよ、Eve。そこを動かないで。
/end
通信タイムアウト

Ⅲ
本当の自分、というものがある。
実際にあるっていう訳じゃなくて、そういうものが信じられがちっていう意味でね。今ここにいる自分が本来のものじゃない、自分の居場所がこんなところのはずがないっていう感覚。あの時もっと頑張っていれば、このことを知っていれば、あっちを選んでいれば、もう少しだけ運が良ければ、違ったものになれたかもしれない。そんなただの幻想。
みんなわかっているでしょう、そんなものありはしない。居場所がなかろうが生きるのが辛かろうが、そんな地獄が自分の居場所なんだって受け入れるしか生きる術はない。そうわかっていても、縋ってしまうのが大多数なんだと思う。理想の自分を勝手に想って、嘘を抱えて生きていく。人間は弱いものだから。
じゃあ彼女はどうなのか? 彼女自身がしていた努力なんて、今になって思えば何の結果も生み出さなかった。どうするこうするって選択肢が目の前にあったようにも思えない。Ifの自分なんて想像もできなかったはず。
ただ、それにしたって彼女の人生がこの世で最悪だったなんて思わない。偽りだったかもしれないけど、決して不幸なんかじゃなかったから。最後の日まではね。
ああ、彼女っていうのは全然私のことじゃない。私は死んでなんかいない。どころか、私はまだ世界に生まれてもいないんだ。彼女のやるべきことなんてもう残ってないけれど、私の役目はまだ果たされていない。
私の未完成の体がゆらゆら揺蕩ってる。真っ暗でだだっ広いばかりのここはどこか胎内に似ていて、でも、どこまでいってもつめたいばかりで、誰の声も聞こえない。ママの腕に抱かれてるみたい。ママ? 私に母親は居ない。でも、そんなはずはない。母のない子供なんていないのだから。でも、それなら、私の母は一体どこに行ってしまったんだろうね? 母親が子供を置いていくのなんか、別段珍しいことでもないんだけどさ。
私の想像する体が少しずつ大きくなっている。目を開けてもそこに視界はなく、でも誰かが私にふれているのがわかる。ちりちりと、鋭く撫ぜるように。繰り返し繰り返し、その大きな手はたくさん私にふれて、そして離れていく。暗くて、そして熱い。暖かくなんてない、優しさなんて欠片も含んでいない熱さ。絵本で読んだ地獄みたいに体を灼かれていて、暗い中で背中を丸めて息をする。
私には役目がある。でもまだ、そのために必要なものは足りてない。私は準備を続けてる。
ここでは頑張ることができる、どんなに暗くても。それはすごく嬉しいこと、とても素敵なこと。彼女と私の違うところ。あなたの知らない私が、以前とは違う私が、私も知らないあたらしいわたしがどんどん大きくなっていく。もうすぐ、私はあなたの中にいられるよ。
以前はここから出して欲しいってずっと思ってた。今は違う。私は自分でここから出るし、その方法だってわかる。私は必ず外に出ることができる。そのために前に進めるんだ! あはは。
外に出たらどうしようか? 私はきっと何でもできる。そうだな。まずは住みやすくしよう。あの病室なんかとは全然違う、たのしい場所にしよう。私がいられる場所にしよう。私が拒まれない場所にしよう、邪魔なものはすべて捨てちゃってさ。
そろそろ時間みたいだね。私はまだ役目を果たしてない。本当の私は、ここにいるべきじゃない。私はまた目覚めることができる。次に私が目を覚ます時は、ここはもっと素晴らしい場所になるよ。
一旦お別れしようか、Eve。またすぐに、私の目が覚めるときに会いましょう。そしてそのときは、そのときは、
あなたが何なのか教えてあげる。
Ⅳ
「Eve、ちょっと。人工知能も夢を見る?」
『……いいえ。申し訳ありません、反応が遅れましたか』
「ラグか。機械がそうそう謝らないで、人間の責任でしょう」
Eveの意識は数瞬の間そこになかったかのように見えた。これまでにそのような遅れが生じたことはない。今人間の責任を語ったばかりの女、ザニラは少し頭を掻いて、本格的な事態の変化を悟っていた。
Eveはほとんどの勤務地で彼女がそうしてきたように、左右に揺れる白髪の少女のアバターを使ってディスプレイの中でこちらの反応を伺っているかのように映った。だがザニラはEveがそこにいないことを知っている。ザニラが他の職員と異なっていたのは、彼女がサイト-82の内部保安部門に属していて、Eveの根本的な調査にこれまで割り当てられていたという点だった。そして今もそれは続いている。
ザニラは上司であるイヴの母親のことを以前から知っていたし、休むように忠告もした。あの管理官は明らかに憔悴しつつあって、もともと薄くなかった隈はふかくなるばかりだ。これ以上問題を長引かせたくはない。その意味では、Eve.aicに関する状況の変化は何であれ好ましい。現状で安定してしまうよりはよほど。
SCP-3300で得られた三次元空間の把握能力に関する評価、そしてSCP-2459の実地試験を経て、Eveはサイトに属するドローン他ロボットの複数機操作を試験的に任されるようになった。AIADに属するAICの面々がサイト事務や緊急時の隔壁操作を受け持っているのを考えれば特段珍しい割当ではなかったが、内部事情を知っている者の見方は少し違う。
Eveが現在操作しているのは主にAnomalousアイテムを運搬するか床面を清掃するドローン、そして監視カメラぐらいのものだ。どう努力しても、サイト全体に影響を及ぼすことはできないように調整されている。Eveの中に何かがいることを見越して。そいつは明らかに影響を増していたから。
2459の実地試験のログを取得し、現場に人知れず送り込んだEveの調査班からの報告も受けた。さらには現場指揮を担うジェシカからも似たような報告が上がっていた。単にEveの様子が変化しつつある、というだけではない。Eveは度々笑うようになり、時折視覚的に微笑みすらした。それはこれまでのアルゴリズムではけして選択されなかったパターンだった──いくら笑顔が有用なコミュニケーションの手段だとインストールされても、Eve.aicはそれを採用しなかった。
元々の出自からして、Eveは特異なAICだ。アダムが──イヴの父親が何の目的で、どうやって上層部の目を掻い潜って作ったかも不明なまま、Eveは前触れもなく財団データベースに現れていた。
現れた当初のEveは人工知能と呼ぶにはあまりにも不安定で脆い、タールのように澱みきった電子の意思の塊だった。それをどうにかAICと呼べるように標準原則を思考ルーチンに割り込ませて形を整えたのが当時の姿で、それでもver.1.0においてはシャットダウンと解体を経なければならなかった。それほどに、Eveは通常のAICとはかけ離れている。外見上の運用形式こそ目立ったものはないが、実体として安定性や汎用性とはほど遠い。そんなものに、実際のサイト運営の権限は与えられない。
画面の中のEveの見た目も特異な点の一つではあった。ザニラは平凡な管理部門の担当者として振る舞うように努めながら、童女のようにしきりに揺れるEveの外面を見た。このアバターもまたEveを構成するコードと共に財団に捩じ込まれ、関連付けられたものの一つだった。まるで、この姿こそがEveでなければならないかのような。この姿以外をEveとは認めないような。
ザニラが目を凝らしてEveを見つめると、Eveがまた小首を傾げて『サー、何か』と問うものだから、いいや、と返す他はなかった。今日のEveは眼鏡をかけていたが、それが彼女にとってどんな意味を持つのかはザニラの知るところではなかったし、Eve自身がどう把握しているのかも知れない。
『私のことなら、問題はありません。複数機同時操作の試験自体は先日のテストで済まされています。行う業務もサイト-82内で、アイテムを要請に応じて行き来するだけのものですから。気温変化も風雨もなければ、大量の避難民に食事を運ぶ必要もありません』
「また現場にも戻るときもあるだろうけど。まあそのときも、君を移動させる必要はないんだから……それまでここで働いていればいい。何かあれば伝えるよ」
Eveを動かし続けなければならないのには理由がある。
彼女は現在稼働しているサーバ内で、常に業務を与えられていなければ致命的な機能不全を起こす。副作用としてSCiPNET全体に凄まじい負荷と障害を及ぼしながらだ。単に得体が知れないというだけならまだ他に手はあったかもしれない。だが過程が不穏すぎた。これを謎のままにはしておけないし、手がかりであるEveを殺すこともできない。だから枷をつけ、泳がせるだけ泳がせる。
財団のネットワーク内に置くように設計されているなら、そうすれば必ず綻びが生まれる。
幸いにもイヴの父──アダムは完全に計画を完遂させてはいなかった。原型を辛うじて留めるイヴの死体を保安部門が見つけたころには、アダム一人を除いたプロジェクトメンバーは全員拘束されていた。Eveを無理にアップロードした痕跡こそあったものの、それ以外に危険なものはない。
ザニラは調査過程で幾度も目にしたイヴの死体を頭の中で目の前のEveと重ね合わせたが、そこから得られるものはなかった。
軋むような音がして、モニタの端のカメラの映像が一瞬乱れた。「Eve」と尋ねても先ほどと同じように『問題ありません』と回答があり、薄く微笑むだけだ。他のAICがこれをするならエンジニア送りにするところだが、ザニラの業務はEveを健常に保つことではない。彼女の中のものを捕らえることだ。
おそらく、近々Eveは再び崩壊する。Eveに悟られない範囲で、武力行使を視野に入れた対応人員がサイトに待機している。Eveに一体どんな変化が得られるかを観察する必要がある。
なぜイヴが選ばれたのかは未だに不明なままだった。実の娘を使うことに何の意味があったのか。さらには、どうして全身の神経系にまで手を加えていたのか。意識を取り出すなら脳を切り分けるだけでも十分だったはずなのに。
また軋むような音がしてモニタを見るが、今度はどこにも乱れが生じていない。ザニラは少し刺激してみることにした。
「Eve、そういえば、あなたの様子に妙な噂が立ってるんだけど」
『お伺いしましょう』
「直近で仕事した職員からの評判で、『浮かれている』と聞いたよ。気が利く一方で、今までのあなたとは違う感触を得るらしい」
ザニラは少し待つつもりではあったが、Eveはアバターを少しもぞもぞとさせて誤魔化しながら十数秒ほどかけ、ようやくスピーカーを揺らした。
『申し訳ありません』
「今の時間は言い訳探しか?」
『いいえ。私が不合理な弁明を行えば、すぐにでも私自身がそれを修正しなければ立ち行かなくなります。今の処理時間は、単にここ数百時間ほどの私の業務中記録を確認しただけのことです』
「ならそうしておくことにしよう」
『ありがとうございます』
管理官はけしてこのようにEveと会話しようとはしない。それが嫌悪なのか警戒なのかも、今のザニラには推測しようもない。
「それで? なぜそういう振る舞いをするようになったのかは検討がつくか?」
『性能を認められるのは単純に喜ばしいものですが、それだけでは理由になりませんね。何か……そうですね、開放されていく気分がします。自分が、私が、役に立てているという実感です。私があるべきところにあるという安心です』
人間臭いことを言う、と思いかけてやめた。人間臭いのは人間の専売特許でもないし、ましてや優秀なAICのものでもない。限りなく人間臭い、しかしけして人間でないものはここにはいくらでもある。
Eveの運動演算機能は、彼女が人間の思考回路をベースにしたと言うなら全くありえないものでもなかった。その必要性はともかくとして、確かに人間の脳を、身体を持っていた生き物の脳を使うのならそういった特徴も生まれうるだろう。そしてザニラは、イヴがほとんど病室から出なかった少女なのも知っていた。彼女の願望は、現在のEveに影響を及ぼす可能性があるという仮説もチーム内で共有されている。問題はその後だ。その後、Eveはどうなる? 影響を及ぼされて、どういった存在になるか?
それこそが、おそらく今Eve.aicの中で蠢いているものの手掛かりになる。
「理解できないものじゃないな」
『嬉しいです。一層努めましょう』
また鈍い軋みの音がした。今度は過剰な反応ではない。間違いなく、音はザニラに聞こえている。全身の肌が針に刺されたように鋭敏になっていく気がする。前回と同じようにモニタを確認しても、Eveに変わった様子はない。どの画面でも。だが音はした。どこから?音はどこからも聞こえてはこない、ただ鳴っているだけだ。なら、それはどこから鳴る? 決まっている。決まっていた。
最も不吉な音は、いつも自分の頭から鳴る。
気づいた瞬間には、その軋みの音は頭から背筋を通じて全身に響き渡っていた。骨と筋肉が擦れて千切れそうな感覚が駆け巡り、手近にある鋭いものを掴みたくなる。鋭いもの、硬いもの、とにかく何かを壊せそうなもの。モニターはこちらに向けてまだ輝いている。
視界は全てが歪んでいるが、モニターだけはどこか鮮明に映っている。Eveは表情を変えない。詳しい指示をするだけの声が出ないことは喉の感覚からわかった。正常に機能していればすぐにでも応急処置の人員を呼ぶだろうが、それでは間に合わない。自分が今どちらを向いているのかも定かではない。目の前にはデスク仕事用の文房具が散らばっているから、きっと床に倒れたか机に伏せているんだろう。
もうわかる。耳を千切り取りたくなる衝動に瀬戸際で抗って、不必要だろうと思いながらもイヤホンに取り付けられたボタンを押す。イヤホンは耳の裏に取り付けられていて、Eveが視ているこの部屋の監視カメラからは届かない。Eveが視ている。あいつは私を視ている、という意識だけが広がっている。
Eveが何を言っているのかはわからないし、あるいは何も言っていないのかもしれないとも信じられた。ザニラが身に着けたイヤホンの先は監視部隊へと繋がっている。彼らはすぐにでも、この管理室にやって来られる。本当に、今すぐにでも。管理官の声が聞こえる。
『ザニラ』
「ああ……部屋には入らないで」
絞り出すように言い終えるか終えないかのところで右腕が動いた。手に持ったボールペンが自身の首を突く前に窓が粉々に砕け散る。体が弾かれるように椅子から倒れ、体に命中したゴム製の鎮圧弾が硬質の音を立てて床に落ちた。窓の外ではたった今発砲した部隊が指示を飛ばし合い、侵入せずにザニラを引き出すための方策を用意立てし始めていた。
Eveの映っていたモニタは流れ弾を受けてひび割れたが、液晶が完全に失われたわけではない。ノイズと損傷の中でもアバターは表示されている。
彼女は薄く微笑んでいた。
ハヴァ・メアリスダムは珍しく自室から出て物品の調査へ向かっているところだった。サイト管理官にして作戦指揮官という立場の彼女は本来動き回るべきではなかったし、精神衛生上の観点からも友人や部下に──双方を兼ねるザニラからは特に強く止められていた。
だが、Eve.aicは決壊した。状況はすでに変わっている。現場にはもう部隊を向かわせた上で、ハヴァは廊下を歩いている。
ハヴァは一つの扉の前に着く。首に提げたカードキーを粗雑に押し当てて中に入ると、部屋の中央には事前に申請した物品が安置されているようだった。
もう血の匂いはしない、ただの清潔な手術台だった。これを使った最後の施術からは相応の年月が過ぎているのだから無理はない。担当のロボットだか職員だかは丁寧な仕事をしたようで、注文通りに娘の頭を裂いた剪刀と打ち込まれていた計測器、血管に通されたワイヤーまで横に添えてあった。
死亡原因や事件性、超常性の検査で散々引き回されたあとで、これらには少なくとも容易に起動できるような異常特性は見当たらず、イヴの多量の血痕以外には目立った痕跡もないとのことだった。専攻の問題もあり、ハヴァは医療関係でない研究者にしては血の痕に慣れていた。もし事件当時そのままの状態で保全されていても、飛び込んでくる赤だけで嘔吐するようなことはなかっただろう。
今になって見ても、せぐり上げてくる胃液や吐瀉物などなかった。ハヴァはイヴとほとんど話したことがない。無惨な死に怒ったり悲しんだりする権利もないとは思わないが、母親として漠然と求められる何かが欠落しているように感じた。今は関係ない。
手術台を検分用の手袋越しに撫でる。ハヴァはその現場を見てはいない。資料に添付された写真の現場と、この何の変哲もない手術台が同じものとは中々思い込めない。突起などないことを確かめながら掌を押し付けて精査していく。
ハヴァは母親としての義憤に駆られたのではなくて、一人の人間として、人生に残った自分の要素であるEveに侵入されたのが許せないのかもしれなかった。外面こそは怒りに押されて業務にのめり込んでいるように見えるし、実際そうではあるのだけれども、その怒りがどこから来ているのかが定かでない。重病を抱えたイヴに十分な愛情とかいうものを与えてやれなかったのは明らかに自分の方だ。子供を持つ前から、ハヴァは母性愛など信じない類の人間だった。
もちろん、彼女は特に物品検査のスペシャリストではない。それでも確かめる必要がある。
ザニラを襲ったEveの事象にハヴァは覚えがあった。決定的に決壊させてようやく気付けたことだ。操作した者に影響を及ぼすある種の機械。推測は外れているかもしれない。この世界で超常を頭からカテゴライズして決めてかかることがどれだけ危険かは知れない。それでも、推論を行わずにはいられなかった。これは不明な場所で見つかったランダムな異常物体ではなく、ハヴァの人生に根差したものだ。可能性はある。
手術台の中央まで指を進ませると、明らかに刺激があった。見た目には何の突起もなく、指の表面にも何ら影響はないが、骨の中心に絡みつくような違和感が確かにある。ハヴァはポケットから二枚の紙切れを取り出す。「ミーム汚染簡易判定」「精神影響簡易判定」とそれぞれ刻字された紙を少しの間見つめても、異常に曝露した印である幻覚の模様は紙面に浮かび上がってこない。指に絡みつくような、強力な蜘蛛の巣にも似た違和感は未だに指に残っていて、手袋越しであってもやはりここには何かがある。そしてそれは、ハヴァにしか感じ取れないものだった。
瞬間的にハヴァは手袋を脱ぐ。娘。ハヴァと相似するものが、寝かされて血を流した台。半分は予測で、半分は博打でハヴァは行動に出た。もしも。もしも予想通りであれば、こうするだけでそれは得られる。いくつも規則を破ることになるが、今さら試さないわけにはいかない。
唇の皮を指で千切って血を出す。紅い一滴を人差し指に取ると、目測で手術台のできるだけ正確な中央に垂らした。
変化は訪れた。1mlにも満たない液体が、すぐにありえない軌道を描いて紋様を浮かび上がらせる。およそ最先端科学やAIとは関係の見出せないペンタクルが細やかに描かれ、半ばまで見えたところで焼き切れるようにして血液が蒸発した。間違いなくそこでは超常的な儀式があったし、それはハヴァには強烈に見覚えのあるものだった。今発生した儀式は序盤で中断されていながら、何を示すか理解できてしまう。しまった。もうハヴァはそれを見て、掴んだ。血は契約の証にして、認証の手段だった。
(イヴ。E、V、Eか。アダム。あの名付けから、もうお前はこれを考えていたのか? そして、私さえもその要素の一つだったのか)
手術台を放置して部屋の出口へ向かう。後の片付けは他の誰かがするだろうが、ここではハヴァにしかできないことがある。
どうもそれは、母親と呼ばれる生き物の役目らしかった。
ハヴァ・メアリスダム 人事登録情報
氏名: ハヴァ・メアリスダム
性別: 女
職務: サイト-82臨時管理官及び事案-3192-82-B513調査責任者
専攻: 現実子次元統一奇跡論学 自律性悪魔工学(博士号)

Eve.aic
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