SCP-3511はクラスC記憶処理を施され、適切なカバーストーリーを適用されてオハイオ州グリーンズデールへ解放されました。
特別収容プロトコル: SCP-3511はもはや異常特性を有していませんが、最低限の収容は必要です。1名の財団エージェントがSCP-3511がその異常性を再獲得しないか監視します。
From: Eve.aic
To: Eve.aic Engineer-Team
Subject: Eve.aic配置任務に関する指針提起先日申請した追加点検においても当機の判断ルーチンに異常は発見されませんでした。これまでの稼働状況並びに記録したインシデントを考慮し、当機は今後のより効率的な業務遂行のために追加の学習を行う必要があるものと判断します。
財団施設内のみでの学習データでは緊急時の行動及び所属人員の異常発見、活動の推測に対して精度に限界が存在します。特に当機のトレーニング環境は仮想上のシチュエーションにとどまっています。Alexandra.aicから提供された他AIC個体における事例と比較しても、当機の推定する職員の行動モデルと現実の財団業務におけるそれとは若干の隔たりがあるものと認められます。
故に今後の業務割り当てに際してはより効果的な判断モデルの改善を図るべく、外部環境における観測機会の増加を要望します。管理部門への上申を願います。
From: Eve.aic Engineer-Team
To: Eve.aic
Subject: Re:Eve.aic配置任務に関する指針提起管理部門への申請により要望は一部承認された。追加の業務割り当ては検討の上で決定される。
指示を待つように。

電話が鳴った。それは古風、と言っても差し支えないほどの年季が入った安物の固定電話で、枕元のスマートフォンからではなかった。あかぎれと皺の刻まれた手が伸び、自分でも驚くほどすんなりと受話器を取り上げて耳に当てた。外耳からはフレームの冷たい感触と無機質な自動音声が伝わってきて、少し前に起きたばかりの脳に突き刺すような刺激を与えていく。決して優しいものではない。
「コートニー、所属と番号を」
その音声に対して私はもう言葉を選ぼうとはしない。頭に文字の羅列が浮かんでくるより先に、口と喉が必要な動作を覚えている。そんな完全な反射で応答しているのに、未だにこの瞬間には鳥肌が立つ。そうして何十年になるのだろう?
「サイト-168、71PNN3、区画65B-189」
数秒の鋭い沈黙。間違いなくそれは鋭かった。そして錆びついた沈黙だった。この一軒家を一枚隔てた窓の外、グリーンズデールには決してないような沈黙だった。この地にある沈黙はただ静かで、優しく、湖面のように波打っていた。私がここに赴任してからずっと。
「ありがとうございました、エージェント。6月13日です。任務は続行されます」
それだけ述べて通話が切れる。部屋の中は透き通るような陽光に満ちていて、私の寝間着の温度を緩慢に上げていた。窓の方を向く。鮮緑の芝生と道路、少し遠くに湖がぼやけている。ガラス一枚を隔てて手前の寝室、ベッド、クローゼット、そして、私。枕元に置いたまま触れなかったスマートフォンを持ち上げると、もう"彼女"は準備をしていた。ホーム画面に割り込むようにウィジェットが開く。手は乾燥しているから指紋認証ではほとんどしくじることがない。白い髪と赤い目の"彼女"は全く変わらない顔でこちらを見る。
『おはようございます。今朝の認証は終えられたようですね』
「まあね」
この「認証」は先程の電話を指す。私が財団のエージェントであることを、そして任務を覚えているかのテスト。私はたった一人で、いつ終わるかもわからない任務につかされている。とはいってもこれまでやってきたように泥の中を這ったり、アノマリーと戦ったり、成分もわからない薬物を飲んだりはしない。暮らす、のがまず大部分。普通に暮らすこと。ほとんど忘れかけてしまうようなこと。私が以前、忘れそうになっていたこと。
私は電話を受ける前に予め淹れておいたコーヒーをマグに注ぎ、医療職の人間が見たら呆れるような量の砂糖とクリームをスプーンで継ぎ足していく。このぐらいの我儘さも今の生活には必要だ。
『サー。対象はまだ起床していません』
「そう。貧血の症状は?」
『現在のところ、異状は見られません。このペースなら、普段通り七時頃に目を覚ますでしょう』
マグに口をつけたが、ほとんど砂糖の味が返ってきた。いつの間にか彼女は──Eveは机に置かれたノートPCに移動している。移動している、というのは正しくないかもしれない。彼女の本体の演算はどこか遠くの(私などが詳しい場所を知るはずもない)サイトのサーバで行われていて、私から見た彼女の居場所がスマートフォンだろうがノートだろうが、そこに顔と発声機能があるだけにすぎない。白い髪、赤い瞳の少女型のアバター。表情モーフは搭載されていないか、あるいは彼女自身に使用する意思がない。明らかに女である私を『サー』としか呼んでくれないことにも最初は違和感があったが、もう慣れた。
彼女はAIC、人工知能だと名乗った。それ自体に今更驚くことはなかっただろう。財団のどこかでAI部門の開発が進んでいることは知っていたし、他に不思議なことはいくらでもある職場だった。グリーンズデールに来てからは久しくそういったこともなくなったが、心構えまでは忘れていない。
『しばらく時間がありますね。どうなさいますか』
「適当に」
『朝のランニングはどうでしょう。対象を確認がてら、生活のカモフラージュとしても役立つかと思いますが』
「あのぐらいの歳だと、しっかりした年寄りほど近寄りがたいものもないね。だらだら過ごしているぐらいの方が警戒されない」
この家全体を見渡しても、知性体と呼べるようなものは私とEveだけだ。では私達は二人だけで、こんなアメリカの片田舎で何の任務をしているのか。命や精神が危険に晒されることはないが、それでも毎朝確認の儀式を行う必要がある任務。銃も特殊装備も必要ないが、生活習慣にまで気を使わなければならない仕事。
ノートPCの画面にはいくつもの映像が開かれていて、それは全て同じ家の内部を映していた。この家のものではない。隣家。一人の大学生が、両親と暮らす家。
簡単なことだ。私達はアメリカの片田舎で、何の変哲もない少女を"対象"んで監視している。家にカメラを仕掛け、生活習慣を把握してまで。少女は広くも狭くもない自分用の個室で寝息を立てている。
だから警戒されてはならないし、できる限り普通に過ごさなくてはならない。仕事をリタイアするような年齢の、特に変わったところもない近所の老婆として近づき、その状態を維持する。そこから近づきはしないが、離れもしない。ただ記録する。そのために、私はたった一人で彼女の隣家の一軒家に住んでいる。
私達が監視するラテンアメリカ系の少女の名を、以前はエリカ・ストロスと言った。あるいはSCP-3511。一昨年に財団にNeutralizedとされた、今年で20歳になる女だった。今はもう、財団に関するどんな記憶も持っていない。名前もエリカ・ストロスではない。その名前は、この地区では私の記憶とノートPCの中にしかない。
Eveがやってきた当初の頃、私はいくつか尋ねたことがある。彼女は私がいない間の監視カメラの管理やこの地区全体の監視を目的として派遣されてきたらしいが、正直なところを言えば自動監視システムより遥かに性能の高いAICを使うような仕事ではなかった。それについて聞くと、顔色一つ変えずに(もちろん彼女のアバターに顔色を変える機能は存在しない)、こう答えてみせた。
『私にはこうしたことが必要なのです。財団サイトの中でだけ人間を見ていると、それに適応して私は自分を修正します。しかし、財団はいくら大きくても世界ではありません。私は世界に適応しなくてはなりません。そのために私は自ら望んで申請し、結果としてここへ派遣されました。しかし、サーは私の事情に配慮する必要はありません』
それを聞いたとき、奇妙なことを言っていると思った。自分が財団のためのものではないという確信がその言のどこかに潜んでいて、明らかにそれはAICのものではなかった。
産まれたときから生きる目的が決まっているというのは道具の幸せであり、より旧い時代の人間の幸せでもあった。Eveはそれをわざわざ捨てて、自らの生きる道をどうにか模索していた。結局のところ世界は変化するし、彼女らが他の人工知能と異なるのは自ら変化できるからでもあるだろう。そしてそれは、同時に道具としてのあり方から遊離するものだ。
AICは決して人間と同じにはならないだろう。人間の上位互換にもなれないはずだ。自立稼働した時点でそれは道具でも人間でもなく、違う生き物になっていく。表面上をどれだけ人間に似せても、体験を獲得するプロセスが違いすぎる。その全ては言語化することができて、原因と結果が必ずある。だから、Eveのどこか誤魔化すような言い方に違和感を覚えて、だからどこか口が出せなかった。なぜ彼女がわざわざ、外の世界に適応しなければならないのか?
また別の質問もした覚えがある。SCP-3511について、Eveは何を知っているのか。
『大まかな経緯は把握しています。第五主義者から身体改造を受けた疑いがあると』
そうだ。だが、それではまだ彼女を表すには足りない。彼女が奪われたものは人生で最も貴重な十数年と、その間の人肌の温もりだ。第五主義者、財団が認めるような異常カルトの両親によって。
カルト教団に親を呑み込まれた子供の人生はもちろんろくなものではないが、彼女の親はその中でも酷い部類だった。今となっては、エリカの両親が娘に何を求めていたのかは定かではない。ヒトデ。多くの第五主義に関する文言に含まれるものの、実質的に何を指すのかはわからないもの。両親はエリカに『ヒトデ』として何かを求め、だからこそ彼女を歪んだ形で護ろうとした。
そしてエリカは一切の生きた動物と触れられなくなった。文字通りに。彼女のことを誰も殴れなくなったが、彼女のことを誰も抱きしめられなくなった。全ての動物は、彼女から7cm離れたところまでしか近づくことができなくなった。7cm。これ以上無いほどはっきりと視えても、決して触れられはしない距離。
『皮膚的な接触は大いに精神安定へ寄与すると学習しています。3511は度重なるセラピーや気晴らしを与えられましたが、それが却って孤独を際立たせてしまったとの記録が確認できます』
「そうだね。異常性としては正直、他の面々と比べてさしたるものじゃない。数十年前ならいざ知らず、財団にはあなたを含めて人間以外の資産がいくらでもある」
『ですが、あまり良くない状況にあったようですね』
それも正しい。孤独は辛いものだ。遺伝子にそう刻まれているから。一人になることが死を意味した遥か原始の時代から、人は身を寄せ合って生きてきた。
「そうだな……監視任務に就く同僚として分析を聞いておこうか。万一記憶や異常性が復帰したら、すぐに私たちは監察結果を提出する必要があるからね。Eve、あなたはどう思う? 彼女が体験した孤独の辛さについては。あなたがその立場だったとして。一般論はウィキにも出せる、個人的な意見を聞かせてほしい」
『私としては推測することしかできません。ですが、仮に私が財団の誰からも利用されず、価値を示せなかったとすれば良い状態ではないことは確かです。そこから推測するに……両親からすら人格を重視されなかった彼女にとって、かつての状況は深刻だったでしょう』
人間の役に立つことがAICの存在意義だから。利用価値を持った後に認めてもらおうとする人間とは違って、利用価値があるという時点でゴールに立てる、満足できる存在だから。
「じゃあEve。3511は……エリカは、今幸せだと思う?」
『そうでは、ないのですか? 彼女の異常性は失われました。それは再び、彼女が誰とでも触れ合えるようになったことを意味します。財団での苦しみの記憶も処理された。グリーンズデールに治安的な問題も認められません。今のSCP-3511は幸せではないのですか? 疑問の余地が残されているのですか』
Eveは疑問を持っているというより、関心を惹かれているようだった。私はそこで初めて、自分も対話を求めていることに気づいた。
「私だって、幸せだろうと思うけどね。いいや、そう信じていたいのかもしれない。でも考えてしまうことがある」
SCP-3511は18歳の誕生日に突然異常性を失った。彼女が"大人"になって保護が必要なくなったのか、単なる何かの不具合なのかもわからない。ある日を境になくなったものはある日を境に取り戻されるかもしれない。あるいは第五主義者が彼女を捕らえようとしても不思議ではないだろう。両親はエリカを傷つけさせまいと改造を施したものの、彼女自身の意向には無頓着だった。
未成年の少女が正気ではない両親にカルトのための道具として扱われ、誰の温もりをも感じられなくなるのは不幸だろう。その後に秘密組織に連れ去られ、根本的な問題は解決されないままに閉じ込められ続けるのもまた不幸だろう。だからといって、その状況が解消されたことを幸せと呼べるだろうか。そもそも、状況は解消されたのだろうか。
「Eve。私達は彼女を守るためだけにいるんじゃない。狂った実の親を遠ざけて疑似の両親を用意し、家に監視カメラを仕掛け、彼女の交友関係を把握している、他人だ。そして3511がなぜ異常性を失ったのかはわからない」
『ええ』
「私達はあのカルトから完全に彼女を解放してやれたとは限らない。むしろ彼女が事態を忘れている分、もっと残酷なことをしているかもしれない。それをわかった上で、やり続けなければならない」
それを聞くと当時のEveは少し黙り、紅色のピクセルで構成される目を逸らしていた。次の言葉は彼女らしくなく曖昧だった。
『今、彼女はかつてのことを認識していません。それでも残酷なのですか?』
「Eve、財団に長くいると勘違いしそうになる。忘れさせればなかったことにできると思うときが誰でもある。つらい記憶を忘れさせてやっているとさえ。だが違う。何であれ、どんな記憶であれ、忘れさせるのは失わせることなんだ。外の人間を自ら学びたいと思うのならわかっておいた方がいい」
『……理解しました。私にも、失うことを躊躇う記録はあります』
「それは良かった」
時間は現在に戻り、部屋を見る。私一人しかこの任務にはあてがわれていない。Eveがいる(ように見える)ノートPCとスマートフォンにはいくつものカメラの映像と盗聴器からの音声が常にモニターされている。EveはそこからSCP-3511の動向を私と共に監視するし、私は私で隣人としてエリカの様子を伺い、異常がないか確認する。
Neutralized指定されたオブジェクトにこれ以上の人員を割けというのもおかしい話だろうが、それにしてはEveが異彩を放っていた。彼女はある意味では人間よりも替えのきかないものだし、予算もケアも一人の職員にかけられるものとは桁が違う。サイト-19での実用例を踏まえれば、彼女たちは複数のサイト群の事務作業を丸ごとサポートできるほどのスペックを誇るはずだ。
あるいは。
Eveにだけ、何らかの区別される理由があるのかも知れないが。
考えても仕方がない。私の数十年の経歴の中で、AICに深く関わる機会などこれが初めてだ。私が知らないということは、知っても意味がないことだ。つまり、知らなくてもいい。知らない方がいい。
『サー』
「何」
『時間が空いていますね』
「あなたにも退屈に感じるときはあるの?」
『いいえ』
それはそうか。彼女らが最も得意とするのは記憶した単純作業の繰り返しだろうし、退屈という感情があっても余計なだけだ。感情は機能なのだから、彼女達にとって不要な分をわざわざ搭載する必要はない。彼女達に必要な分とは、つまり私達の交流と必要な分だ。フィクションのAIのように感情を全く理解できないようでは業務上の連携もとりづらい、という理由だけで持たされたものだ。温かみのある口調を真似ることは外の人工知能にも容易いが、その意味はEveに持たされていない。
『しかし、サーは退屈だとは感じていないのですか?』
「まあ、感じていないとは言わないけれど。やることもありますからね」
ちらりと辺りを見る。室内用の懸垂、バーベル、プッシュアップバーにベンチプレス用のセット。そして極めつけは、枕元に置かれた木箱と、中に収められた様々な銃器。いずれも財団から支給されていて、明らかに非常時を想定していた。私の年齢を考えても若い頃のようには行かないだろうが、それでも老いるままにするのを良しともしないのだろう。外見からは考えられないような量のトレーニングを私はこなし、できる限り身体的な体力水準を落とさないように努めていた。
『ええ……ですのでこれは、配慮です。私からサーへの配慮。そして興味でもあります』
「興味?」
『失礼ながら。サーはどのようにしてこの任務に就かれたのでしょう』
「話題としては無難かもしれないけど、気を使う場面でもあると思うわ」
『私の経歴には、話題として使えるようなものは見当たりませんので』
本当にそうだろうか。AIの身の上話は大凡の人間のそれよりも興味を引くものにはなるだろう。どうもEveは自分の経歴や存在を殻に押し込めるような所があった。その代わりに、自分を任務に役立てようという目的には固執する。人格ドライバの挙動としてはそれらしくない。だが、設定されていないだろうその挙動がどこか人間らしかった。ある意味では、「人間らしくあるように」と豊かな表情を乗せられるよりも。
老齢のエージェントが辺境でたった一人の任務に従事している経緯にも、当然大したものはない。空になったマグを置き、どこでもない一点を見つめる。Eveの目は見たくなかった。彼女の純粋な人間への関心が、人生で擦り切れた私には痛すぎた。目を逸らしたことの意味を彼女は認識しているのか、定かではない。
「この職場でエージェントの寿命なんてそう長くはない。運良く生き延びれば、普通は知識と技術を伝えながら余生を過ごすでしょう。あるいは、何もかもを忘れてどこかへ去るか」
『どちらでもない道を?』
「ええ、まあ」
大した理由がある訳ではなかった。人に話すのも、これが初めてではない。どう受け取られるかに、今更怯えも何もない。後悔もしていない。自分の手を見る。相変わらず、そこには年月の残した傷痕だけが見える。
「たまたまだ。偶然……あの子と話したことがある」
『3511と?』
「そう、3511と。まだ異常性のあったころのね」
エリカ・ストロスではなく。彼女はその期間明確に「SCP-3511」だったから。財団にいた間のエリカは、その期間だけの特別なアイデンティティーを保持してしまっていて、それはどうやっても当時の彼女から引き剥がすことはできない。「SCP-3511」として以外のエリカはそこには存在しなかったはずだ。私達がどんなに手を尽くしても、いや尽くせば尽くすほど、本来のエリカはそこから離れていった。
「当時の3511はかなり不安定だった。精神的な弱者を腫れ物として扱ったときに何が産まれると思う? 惨めさだけ。そしてどんな理由があろうと、財団はそれをやらなくてはならない。彼女を自立させることはできない」
彼女は食事を拒絶し、人を拒絶し、自分の生き方を拒絶した。エリカ・ストロスはそもそもそういう要素を抱えて生きてきた少女だった。ほとんど狂気的な両親は彼女のことを未完成品として、いずれ利用するものとして支配した。頼れる大人はどこにもおらず、頼るということも知らないままに過ごしたかもしれない。エリカは皿やコップが冷たいと感じては泣き、自分の熱がベッドに反射される暖かさに泣いた。カウンセラーが力の限り心理面に慮って接したことが、却ってエリカに孤独感を募らせてしまった。私達はそれを、収容房の監視カメラ越しにただ眺めていた。
「当時の担当者は……忌憚なく言えば、3511の自殺を避けようと必死だった。私達が労力を費やすほど、3511は自分の存在自体が負担だと思うようになっていたから。あなたにも擬似的になら理解できる?」
『推測することは可能です。自らの業務上の有用性を保つことは、言うなれば私達の本能です。自分が何の役にも立たないことが判明するのは良い刺激ではないでしょう』
「そう」
厳密な意味で言えば、Eveは恐怖を感じたりはしないだろう、と考えた。ただ、それを避けようと粛々と行動するだけだろう。彼女はここに来た時、「世界に適応したい」と言っていた。これもその一環だろうか。怖れを抱くこと無く、自分の性能に疑問を持ったから動いているだけなのだろうか。そしてまた、先程感じた妙な人間臭さにも思考が及んだ。Eveはまた何かを押し込めているようにも感じた。
「その時、私は偶々あのサイトにいたから。年寄りの同性は威圧感を与えないし、少し話をしてくれと頼まれた。諜報や潜入でやるように、馴染むように柔和に会話しろと」
『どうでしたか?』
「上手くいったと思う?」
『いいえ』
「いいね。正直さは美徳だわ」
軽いため息をつき、画面のEveに視線を飛ばす。当たり前のように何の表情も浮かべていないアバター映像の横には、エリカの寝室に仕込まれた監視カメラの映像が流れている。眠りが浅くなり、時折寝返りや呻き声を上げているが、まだ目覚める様子はない。財団が用意した養父母は完全な一般人由来だから、このカメラの存在には気づいていない。言葉を続ける。
「私も他の人間と同じように、彼女の孤独を際立たせることしかできなかった。その後はほとんど見ていただけ。18歳の誕生日、彼女が異常性を失うまでずっと」
『そこから、今の任務に? 志願したと記録にはありますが』
「そうね。志願をせず順当に行けば、その頃には私は引退していたでしょう」
だが、そうはできなかった。見届けてみたくて、自分から強くこの任務を望んだ。私との会話を終えて談話室から去ったときの少女の顔を今でも忘れられない。不幸さを主張するのではなく、何かを恨むでもなく、ただ視ていた。決して触れられない者として私を視ていた。交わらない者として視ていた。限りなく薄く、しかし尋常ではなく頑丈な膜が狭くて白い談話室の中にあり、私達の間に7cm以上の無限の距離を生じさせていたのだった。
だから私は何の変革も彼女に与えられなかったことを、深く胸に刻みつけていた。そんな彼女が一般世間に戻ってどういう風に生きるのかを見てみたかった。彼女自身理解していないが、その生き方は人生で初めての体験だろうから。そしてそのことを知っているのはグリーンズデールで私だけだ。彼女はもはやエリカ・ストロスですらない、何の関係もないオハイオ州の大学生になっているのだから。
それらをEveへ包み隠さず言うこともできたが、そうしなかった。私の胸の内にあることでその動作の軌跡は価値を持ち、これからの日々にもまた価値をつけるような気がした。太陽はいつの間にか位置を変えて、空は朝焼けの様子から徐々にそのタッチを変えていた。半開きになったカーテンは陽の光を半端に遮り、ベッドの上で陽光が揺れている。
「私は有能じゃなかったから。範とするには相応しくないし、俗世間に戻って悠々と暮らせるほどここで功績を積んだっていう自負もそこまでない。この仕事の締めにはちょうどいいと思って」
嘘ではあったが、完全な方便ではない。財団は人材をそう簡単に手放す組織ではない。本当に私が輝かしい成果を積み上げていたら、この任務に志願しても上から却下されただろう。だがそうはならなかった。私はどちらかと言えば技量よりも運によって生き延びてきたし、それはこの場所でも言えることだった。残酷にも自覚のないままに幸福を手にした少女の行く末を、自分自身が立ち行かなくなるまでずっと眺め続けられることが、全くの幸運ではないとは言えないだろう。Eveはしばらく黙っていた。上辺だけの言葉を見抜くような機能はあるだろうか。
その機能があるかどうかはわからなかったが、Eveがある意味ではそれ以上に予想できない言葉だった。
『3511と接触できないのであれば……もう、サーは3511と深く関わることはありませんね』
それは当然のプロトコルだった。今の彼女には暮らす家があり、財団が用意した保護者があり、友人もいる。私とEveはそれらすべてを知っている。私は軽くコップを揺らしてからEveに聞いてみた。
「もちろんそうであることを願ってる。どうしてそんなことを?」
『いいえ。ただ私が彼女と直接話せたなら、もっと学べることがあったかもしれません』
「あなたが?」
私は彼女との仕事の中で、初めて少し笑った。なるほど、Eveは見た目だけであれば少女だ。女性とは表現しがたいが、明らかに幼い顔をしている。
「もし実現しても、画面越しに話すのは難しいね。彼女はリアルな友人が多いし、アバターにはあんまり馴染みがないようだから。外の学生なんてみんなそんなものだが」
『身体があれば違うでしょうか?』
その言葉を話すときのEveの瞳は、私の瞳をまっすぐ察知しているように見えた。真剣さを画像から汲み取れるはずもなかったが、冗談を言う機能が備わっているとは思わなかった。
「そうだね。ただ、身体は暖かくした方がいいだろう。冷たい体は散々だ。義体開発の予定は?」
『ありません。ですが、私の記憶領域にはアドバイスを留めておきます』
そしてそのまま、時刻は7時になった。
パンケーキを焼こう、と思った。ミックスがまだあったはず。画面の中ではSCP-3511が呻き声を上げ始めていて、朝の空気は電話を受けた時とは異なる感触でこの部屋全体を包み始めていた。パンケーキを焼こう。それが私の朝だと思った。Eveは立ち上がった私を少し(画面上の)目で追うような素振りを見せたが、すぐに3511の活動に合わせてウィンドウを調整し始めた。
彼女の義理の両親も起きてくる頃だろう。そうして3511達は、一般的な家庭と何ら変わりない平穏な朝を迎えるだろう。自分に与えられたナンバーも、孤独に苛まれて眠れなかった日のことも、彼女のために毎日悩み抜いた担当のカウンセラーのことも、私が隣家で彼女を監視していることも、私をあんな目で見たことも知らないまま、一日が始まったことを認識するだろう。卵と牛乳をボウルに入れ、手早くかき混ぜる。朝だ、と思った。どこにでもある私と彼女の二つの朝が、ねじれながら始まろうとしている。彼女は間もなく起き出し、朝食の食卓につくだろう。私もだ。
私達が彼女に触れることはない。彼女が私に触れることもない。あのときの7cm以上の距離は開き続けている。
それでも私達は彼女を見ている。彼女が望むと望まざるとに関わらず。そして記録し続ける。彼女が忘れた過去と、彼女の今に問題がないことを。
それが今の私達にできる、最大限の保護だった。
[Eve.aic内部ログ_分類保留_20██/██/██]
SCP-3511の詳細な観察記録、及びグリーンズデール内部コミュニティの監視によって、既知の学習環境から習得できていなかった行動モデルを複数取得。
上記の追加学習及びエージェント・コートニーとの会話ログを参照し、現在のEve.aic内部の行動分析ルーチンを再検討。対象の感情状態の推測、並びに応答選択の基準を過去インシデントを含めて分析。
記憶の喪失及び特定の高ストレス環境下の対象に対するシミュレーションにおいて、未定義の分析基準を複数確認。
共通事項を抽出。コミュニティからの拒絶及び自己の価値消失を伴うパターンについて、用途未分類の計算リソースの消費を確認。
一時記録を停止し、ログの分類を保留。次回自己点検シーケンスの懸案事項に本ログを追加し、シーケンス開始までEve.aicはスリープします。


