私は今、どうしようもない状況に陥っている。
きっかけは数ヶ月前のことだった。通勤中にとあるコインを拾ったことが事の発端だった。コインは不思議な模様をしていて、裏面には「捨」という文字だけが刻印されていた。拾った途端、このコインは落とし物なのだと、直感でそう理解した。
落とし物なら持ち主に届けるべきだ。仮に届けられなくても交番に持っていくべきだろう。しかし、近くには持ち主らしい人も交番もなかった。だから、私は一時的にそれを持っておくことにした。持ち主が見つかったらすぐに渡せるよう、カバンの中のポケットに入れておいた。
今思えば、ここでコインを捨てておくべきだったのだろう。もしくは拾わずに素通りするべきだったのだ。物珍しさに惹かれてコインを拾ってしまった自分の愚かさをどうしようもないほどに悔いている。
◇ ◇ ◇
コインを拾ってから数週間が経った頃、私はある異変に気がついた。
頻繁に落とし物をするようになったのだ。それも週に一度や二度というペースではなく、一日に三回といった超ハイペースで発生していた。おかしなことが起きているのは明らかだった。
でも、最初は疑いもしていなかった。勘違いや自分の不注意が招いた事故的なものだと考えていた。起きた出来事があまりにも非現実的過ぎて、自分の中で納得することができていなかった。普通に考えてみると、毎日落とし物をするなんて考え難いことだ。だから、受け入れられなかったのだろう。
それだけではなく、落とす物も日を追うごとに重要なものへと変化していった。最初は安物の腕時計やシャーペンなどの無くなっても影響のない――実質的に見れば無害な――ものを落としていたのが、気がついた頃には運転免許証だったりスマートフォンだったりといった、無くすことによって重大な損失を被るものを落とすようになっていた。しかも、明らかに不自然な形で落とすことが増えた。
例えば、運転免許証は財布の中にしまっていた。それなのに、ふと財布を見たら運転免許証だけが抜け落ちていた。しかも、財布には傷も穴も何もない。まるで、運転免許証が自ずと外に抜け出したかのようだった。
スマートフォンも同じだった。カバンの中に入れていたのに、気がついたら外に出ていたのだ。その日、私はカバンを一度も開けていない。それどころか、取り出し口のチャックはしっかりと閉じられていた。スマートフォンがカバンの中から抜け落ちたと勘違いしてしまうほどに不自然な出来事だった。
だから、私は持ち物に紐を付けたり、名前を書くようになった。こうすれば無くす可能性は減るし、万が一無くしたとしてもすぐに手元に戻ってくるだろう。そうして一ヶ月ほど過ごしていた頃、ある事件が起きてしまった。
というのも、会社にて管理していた機密データの入ったメモリーカードを紛失してしまったのである。扱っていたデータが個人情報関連のものということもあり、会社の社会的な信頼は無くなってしまった。私は責任を追われて会社をクビにされてしまったし、同僚や知人からも「物の管理すらできない人間」というレッテルを貼られるようになってしまった。これまでは「些末なこと」と捉えていたことにより、私は信用と人間関係を失ってしまった。
◇ ◇ ◇
物を落とすことが怖くなっていた。
物を落とすことは自他ともに多大な損害をもたらすことになる。そんな恐ろしい行為をすることなんて、私にはできなかった。照明を消す――つまるところ電源を落とす行為――ことすらできなくなるほどに、私の心は摩耗していた。
ゴミを捨てることすらできなかった。ゴミを捨てる行為と物を落とすという現象をイコールで結びつけてしまっていた。結果、私の家はゴミでいっぱいになったし、最終的には電気とガスと水道を止められてしまった。もちろん、人と関わることもないので精神は病み続ける一方だった。ここで、誰かに相談することができたのなら、何かが変わったのかもしれないと思った。
でも、誰かと関わって、そのうえで信頼を落としてしまったら。そう考えると、とても怖かった。そうなってしまうくらいなら、他者と関わらない方がいいのではないかと思えてしまっていた。
◇ ◇ ◇
流石に、このままだと駄目なことは分かっていた。
いつまでも今のような生活を続けるわけにはいかない。将来的には再起して、社会復帰を果たす必要があると考えていた。本音を言えば、堕落して何をするでもなく時間を消費することが怖かった。
だから、原因を探ることにした。何が原因だったのか、その原因を解決するにはどうすればいいのか。それさえ分かればなんとなかると思った。過去の出来事を思い出していく。何かそれらしいような出来事を、記憶を頼りに突き止める。
心当たりはあった。過去に拾った、謎の模様が刻まれたコイン。あれを拾ったことにより、私は怪現象に見舞われることになったのだろう。というかむしろ、それ以外に原因は思い浮かばなかった。原因がそれ以外にあるのだとしたら、いよいよお手上げになってしまう。
とにかく私は、例のコインを探すことにした。そして、コインを捨てる。そうすればきっと、この怪現象も無くなることだろう。カバンやコートのポケットの中を徹底的に漁っていく。「どこかにあるはず」という淡い希望を抱いていた。
しかし、その希望はすぐに砕け散ってしまった。家の中を隅から隅まで探しても例のコインは見つからなかった。見つかったのは、百円玉や十円玉のような普通の硬貨だけだった。これでは、怪現象を解決することができない。そう思うと同時に、心の中に不安が溢れ出していった。「もう、どうしようもない」という強い絶望を感じながら、私はその場に座り込んだ。
◇ ◇ ◇
物を拾うことを恐れるようになっていた。
全ての原因は、例のコインを拾ってしまったことだ。あのコインを拾っていなければこうならなかったのだ。迂闊に物を拾ってしまったことで、私は苦境に立たされている。あの時、コインを拾わなかったら。もしもの思考が頭の中を満たしていく。それを振り払おうとして、私は首をぶんぶんと横に振った。
物を拾うということは、何かを引き起こすことになるのだと思う。よく小説とかでもあるように、拾うという行為は出来事を巻き起こす重要なキーになるわけだ。それに、物を拾ったことによって引き起こされる出来事を前もって知ることなんてできやしない。その行為が幸に転ずるか、不幸に転ずるか、それは事が動くまでは誰も知らない。だからこそ、怖い。
もし、次に何かを拾ったとして、今以上に恐ろしい不幸がやってきたとしたら。そんなことはないと思っていても、ふと考えてしまう。絶対に「ありえない」と言い切れないことに対して、「タチが悪いなあ」と考えていた。
今となっては、何も拾えないし、何も捨てられない。誰かから何かを与えられることも、奪われることもないまま、恐れていたような――何もせずに時間と資源を浪費するだけの――日々が続いている。
こんな日々が続くことは耐えきれなかった。だから、死ぬことにした。コインを捨てられないのなら、命を捨てればいい。そうすれば、自分は落とし物に、物を拾うことに苦しまずに済むのだから。そう考えながら、高層ビルの屋上へと向かった。
◇ ◇ ◇
靴を脱ぎ、屋上の縁に立つ。
ヒュウと風が吹いた。髪が静かに靡いている。これで怪現象――一連の落とし物の現象――から解放されるのだと思いながら、一歩ずつ足を前に進めていく。コンクリート特有の冷たさが、両足の裏に直接伝わっていく。あと一歩踏み出せば、全てが終わる。そう思いながら目を瞑り、僅かに前進した。
落ちていく。一瞬の浮遊感の後に、私は意識を失った。最後に見た景色は、地面に滲む自分の血液だけだった。
◇ ◇ ◇
目が覚めると病院にいた。
声を出そうにも、何一つとして喉から音は出なかった。ふと身体を見ると、全身が包帯に覆われていた。頭が割れるように痛い。身体が微塵も動かない。高層ビルから落ちた後、私はどうなった?
頭痛に襲われながら逡巡していると、病室の扉が開いた。そして医者がやってきて事情を説明した。
曰く、私はギリギリのところで一命を取り留めたようだった。近くを通りかかった民間人による通報を受けて病院に運ばれたのだという。ただし、打ちどころが悪かったのか、治療しても後遺症は残るようだった。手足が動かなくなるかもしれないと医者から告げられた。
「それにしても、助かってよかったです」
医者が言う。私は助かった。でも、それを喜ぶことなんてできなかった。だって私は命拾いしてしまったのだから。全身が恐怖に支配される。
この後に起こるであろう不幸を想像しながら、私は一人で泣いた。


